« 日本史あれこれ ⑧  藤原不比等 | トップページ | 日本史あれこれ ⑩ 鑑真 »

2009.06.28

日本史あれこれ ⑨  藤原京

 藤原京(ふじわらきょう)は、女帝・持統天皇のもと690年に着工、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや。いまの奈良県明日香村)から694年に遷都されました。奈良県橿原市(かしはらし)に所在する都城です。ここは畝傍山、耳成山、香具山に囲まれた平野で、都は、条坊制(じょうぼうせい)をしいた中国風都城でした。周囲を5メートルほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門(すざくもん)です。710年に平城京に遷都されるまで持統、文武、元明の三天皇が16年間、居住しました。

 持統天皇は、天智天皇の娘で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)。同母姉の大田皇女とともに、父の同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となり、草壁皇子をもうけました。

 天智天皇の晩年には、皇位継承をめぐって夫・大海人皇子と父・天智天皇の仲が悪化。大海人皇子は東宮(皇太子)を辞し、天智の死後は大和国吉野に逃れました。持統はともに吉野へ落ち、壬申の乱(じんしんのらん)まで吉野で過ごしました。

 なお、壬申の乱とは、672年に起きた天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ。後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした内乱で、反乱者である大海人皇子が勝利しました。

 夫が即位するとその皇后となりました。夫の没後は、姉(大田皇女)の皇子・大津皇子を謀反の嫌疑をかけて殺し、自分の息子である草壁皇子を皇太子としましたが、草壁は即位する前に早世。690年、自身が女帝として690年、飛鳥浄御原宮で即位しました。

 そして、694年に、かねてから造営していた藤原宮に遷都しました。

 『万葉集』巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌として

 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山

 の和歌が載っています。

 当時の支配者内部の層の血で血を洗う殺りくの中から生まれ出た都です。

 この都が中国風都城であったことは、中国のような、確固とした支配の態勢を築きたかった当時の支配者の思いの反映でしょうか。

7103月、都は平城京にうつりました。藤原京はわずか16年間で首都の役割を終えました。廃都になった藤原京は建物を解体し、柱・瓦・礎石など再利用できる物資は、すべて平城京へ運ばれました。貴族や役人たちも、新しい都へうりつり住みました。そして、藤原宮は廃墟となりました。

|

« 日本史あれこれ ⑧  藤原不比等 | トップページ | 日本史あれこれ ⑩ 鑑真 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/45476438

この記事へのトラックバック一覧です: 日本史あれこれ ⑨  藤原京:

« 日本史あれこれ ⑧  藤原不比等 | トップページ | 日本史あれこれ ⑩ 鑑真 »