« 日本史あれこれ ⑮ 千利休 | トップページ | 日本史あれこれ ⑰ 島原の乱 »

2009.06.28

日本史あれこれ ⑯ 江戸時代の鎖国

 鎖国(さこく)は、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した政策のことです。幕府は、封建支配のさまたげになると考えられたキリスト教の禁止を徹底させ、また、西日本の大名が貿易によって勢力を強めることをふせいで、幕府が貿易の利益を独占としようとしました。

 江戸幕府は、貿易の利益のため、はじめはキリスト教を黙認しましたが、1613年に全国的にキリスト教の禁止を命じました。

 1616年にはヨーロッパ船の来航を平戸、長崎に限定し、1624年にはスペイン船の来航を禁じました。1633年には奉書(ほうしょ)船(朱印状のほかに老中奉書という許可証をもった船)以外の海外渡航を禁止し、1635年には日本人の海外渡航と帰国を禁止しました。1637?38年の島原・天草一揆の後、639年に第3代将軍・徳川家光はポルトガル船の来航を禁止して鎖国を完成させ、1641年には平戸のオランダ商館を長崎の出島にうつしました。

 鎖国という言葉は江戸時代の蘭学者である志筑忠雄が1801年の『鎖国論』においてはじめて使用しました。エンゲルベルト・ケンペルという人が、江戸参府旅行を経て帰国後書いた著書『日本誌』(1712年刊)の中の、巻末の一章にあたる「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」という題名を、志筑が「鎖国論」と変更しました。この鎖国という言葉は、その際の新造語です。

 私は、鎖国については、幕府が貿易の利益を独占しようとしたという論点が大事だと思います。

 幕府は、管理貿易をおこない収益を独占しました。

 鎖国の下、外国に向けてあけられた4つの窓口を四口などと呼びました。

 長崎口 長崎は幕府の直轄地として幕府の直接管理で貿易がおこなわれました。

 対馬口 対馬藩の宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎをになってきました。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割をにないました。

 薩摩口(琉球口) 薩摩藩が琉球を攻略、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められました。

 蝦夷口 松前藩の松前氏は蝦夷地で北方貿易をおこなってきた。その権限は江戸時代に入っても引き続き認められ、松前藩の収入のほとんどは北方貿易によって支えられています。

 松前藩、対馬藩や薩摩藩では、幕府の許容以上の額を一種の密貿易(抜荷)としておこない、それ以外にも領内を大洋に接する諸藩でも密貿易を度々おこなっていました。これに対して、歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきましたが、諸藩による密貿易は続けられていました。なかには石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関った上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もありました。

 1792年のロシアの正使・ラックスマンの来航以来、諸外国の船がたびたび来航して日本への開国要求を強めました。1853年、浦賀にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリー率いる黒船が来航、翌年には日米和親条約が締結されました。その後、1858年の日米修好通商条約の締結によって鎖国は幕を閉じました。

|

« 日本史あれこれ ⑮ 千利休 | トップページ | 日本史あれこれ ⑰ 島原の乱 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/45476567

この記事へのトラックバック一覧です: 日本史あれこれ ⑯ 江戸時代の鎖国:

« 日本史あれこれ ⑮ 千利休 | トップページ | 日本史あれこれ ⑰ 島原の乱 »