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2009.07.08

高知市 「二十歳で中断したことの続き」、または「県立高知短期大学への感謝状」。 【書き直しました】

 朝から晩まで学内にいて学友たちと「対話」を続けていました。猛烈にアルバイトをしなくては学生生活がなりたたないとわかっているのにアルバイトもできないほど自分を追いつめた日々でした。授業には出ましたが夜中までの「対話」に疲れて身に入りませんでした。僕の高知大学文理学部文学科歴史学専攻での日々のことです。学力不振と経済的破たんのため、二十歳のとき、途中で大学を去りました。

 高知市で半年働きました。その後、東京に出て、四十年近く同じ職場で働きました。夜昼(よるひる)ないハードな職場でしたが毎日が勉強で、私は職場を「私の大学」と呼んでいました。高校卒。たたき上げで、編集の現場で体当たりし、取材の現場で靴の底を減らし続けました。総局長、部長なども歴任しました。

 でも、この四十余年間、ずーっと同じ悪夢を見続けてきました。それは、大学の試験の時間の夢です。勉強不足で答案がろくに書けない、終了時間は迫ってくる、「わーーーっ!」。ここで目覚めるのがつねでした。冷や汗をかいていました。大きな声を上げていたのでしょう。「どうしたの、あなた?」と、妻(高知大学の一学年下で東京都の公立中学校の国語教師)がおどろくこともしばしばでした。

 体を壊したこともあって一昨年十二月三十日、六十歳で退職しました。退職にさいして、同じ職場の高知大学の後輩たちに話しました。「体を治しつつ、大学に、もう一度入りなおして勉強する」。二十歳でとぎれた勉強の続きをやるということです。何か、そうしなければ死んでも死にきれないような気がしました。歴史学を学びたい。特にアジア太平洋戦争下の日本について文献や聞き取りで事実を掘り起こしたい。そして、活字や講演で、その成果を発表していきたい。それが目標です。

 高知市で再出発しました。昨年四月、県立高知短期大学社会科学科入学。同学年は百三人でした。授業は、どれも素晴らしいものでした。特におもしろかったのは「社会科学基礎演習」、「社会科学演習」、「西洋近現代史」、「歴史学」、「政治史」、「地域史」、「平和学」、「環境論」、「経済学」、「国際経済学」、「経営学」、「社会学」、「国際法」、「ジェンダー論」、「社会保障・福祉論」、「自然科学」、「英語初級」、「外書講読」、「英会話初級」、「英語Ⅱ」、「情報処理」でした。永年、きちんと知りたいなと思っていたことが目の前で解明されていく。これってすごいことです。チャールズ・ダーウィンは、一八三一年から三九年にかけてビーグル号で地球一周する航海をしましたが、私も、高知短期大学という社会科学の船に乗せていただいて学んできました。「例の夢」は、もうみなくなっていました。

 よーっし、四年制大学の三年次編入試験を受けよう。「行きたいのは、やっぱり文化財学科だなぁ」。昨年九月から、高知市の民間の平和資料館の事務局員として働き始めていました。仕事との関連でアジア太平洋戦争中の高知県について勉強していました。今後は戦争遺跡の発掘に本格的に手をつけたいと思っていました。そうした勉強を発展させていくには、文化財学を学ばなくてはという思いです。インターネットで、「文化財学科」を探しました。たまには高知にも気軽に帰ってくることができる四国で、「文化財学科」のあるのは私立徳島文理大学文学部(香川県さぬき市)だけです。シラバスを見たら「わおーっ、僕が学びたい科目がいっぱい」。

 この大学への編入をめざして四月から専門ゼミで勉強しはじめました。志望の文化財学科の過去問題をどんどん解いていて担任の先生に添削していただきました。先生の担当は経済学なので、日本史分野の小論文の添削はやっかいだったと思いますが、たんねんに、こんせつていねいに添削していただきました。書いた原稿は受験前までに二十四本になっていました。

 受験に向けての小論文の執筆は、昼間の仕事、自分の研究、高知短期大学や地域での「対話」とあわせ、かなりヘビーな課題でした(仕事では調査活動や雑誌の編集や七月三日からの展示の準備、高知短期大学では文集の編集、地域では五月に地域の老人会会長に就任など……)。でも、十八歳~二十歳のころと違って、「あれか、これか」ではなく、いくつかのテーマを総合的に追求できるようになっていました。また、この夜の学び舎は十八歳から二十歳台の学生が一番多くて、私たち六十歳以上は一割です。年上や同年輩、超年下(十八歳とか)の学友たちも、いろいろと援助してくれました。僕の「変な質問」に、親切に答えてくれました。

 そして、六月二十七日に徳島文理大学文学部文化財学科の編入学試験を受験。小論文の問題は、一問。これまでに書いた小論文二十四本のうち、二本を組み合わせて発展させる形ですらすらと書けました。

 七月三日午後二時、朝からの仕事を中断してオートバイで自宅へ。合否の通知の大きな封筒がきていました。しばらく封筒を外から点検しました。「厚いぞ。ということは手続きの書類も入っているだろうから……」。封筒に「合格」という念を送ってから開きました。「合格通知書(編入学)」、「あなたは選考の結果、合格と決定しましたので、通知いたします」という文字が目に飛び込んできました。 東京都の娘(二女の母)に電話で知らせると「文化財学科って何するの? 大学に入る来年四月には、えっ、六十三歳。えらいねえ。何という勉強熱心な。ありえない」との声が返ってきました。

 この夜、高知短期大学の一時間目の授業に出ると、私と同じ二年生で六十八歳の女子学生が「先生、少し、お話をさせてください」と先生に断ってから「ここにいる藤原さんが、本日、四年制大学の編入試験に合格しました。編入希望の若いみなさんも後に続いてください」と話しました。胸がキューンとなりました。

 次の日、この教室にいた年下の女性が電話をくれました。「合格したという話を聞いて髪の毛が逆立つ感じがしました。すごいですね」。彼女は、いま病気とたたかっている最中ですが、いつの日にか四年制大学に編入したいと思っているようです。いろんなかたから祝いのメッセージをいただきましたが、その中には「人生は一回しかないのですから、がんばってください」という言葉も。

 ところで、編入手続きで困ったのが「保証人(保護者)」がいるということでした。「うーん、僕には保護者っていないなぁ」といっていたら、大学からの資料をのぞきこんでいた妻(いまはボランティアで日本語教師をやっています)が、書類をとって、さっさとサインしてくれました。  三日後、外にいる妻から電話がきました。「編入金、前期授業料、振り込んどくけど、いい?」。「あ、ありがとう」。計七十九万円八千六百七十五円です。私の「保護者」は頼りがいがあります。でも、妻に「大学の近くにニ万円くらいのアパートを借りるから一緒に住もうよ」というと「ネコの世話をせんといかんき、高知におる」。

 高知短期大学卒業まで、あと半年余り。高知短期大学でせいいっぱい学びたい。また、独自に文化財学についての本も読み、四月につないでいきたいと思っています。それに、体もきたえなくては。肥えすぎのせいか、戦争遺跡をビデオ撮影するために山に登っていても五十メートル登ると「ゼーゼーゼーゼー」。高知短期大学でピンポン部に入っているので、ピンポンを真面目にやって体もきたえなくては。  二十歳で中断した勉強が高知短期大学に入学したことで復活し、そして、しばらく続いていきます。

 卒業したら、高知で、今よりももっともっと内容の濃い仕事をしたいと思っています。  私を四年制大学に押し上げてくれた、この夜の学び舎への恩義を忘れることはありません。  

(二〇〇九年七月十日)

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