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2009年8月

2009.08.01

高知市 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える その一・はじめに

 日本が抱える領土問題の一つ、千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題についてのべます。
 日本の領土である千島列島、歯舞、色丹が一九四五年八月、ソ連によって占領され、それが、ソ連がロシアに変わった現在でも、そのままになっている問題です。
 この稿では、以下の四点について論じます。
 1、 これらの地域が日本の領土であることの論証
 2、 どうしてソ連の占領という事態が起こったのか
 3、 この問題に日本の政府、与党は、どう対処してきたのか
 4、 これらの地域を全面的に返還させるための運動の方向
 なお、以下、日本についても、ロシアについても、歴史的に国がらが変わっていますのでさまざまな表記が出てきます。日本については、徳川幕府、日本帝国、日本と変遷します。ロシアについても、近世から一九一七年まではロシア帝国、一九二二年~一九九一年十二月まではソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)、その後、曲折を経て、現在はロシア連邦(ロシア)となっています。

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高知市 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える その二・千島列島、歯舞、色丹は日本の領土です

 千島列島は、かなり前から日本の土地でした。ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍士官・ゴロブニン(一七七六年四月十九日~一八三一年七月十一日)の『日本幽囚記 全三冊』(井上満訳。岩波文庫。一九四三年五月三十日)でも、そのことがわかります。彼は、一八一一年、軍から千島列島の測量を命じられ、みずからが艦長を務めるディアナ号で択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)を訪れます。しかし、国後島で松前藩の役人に捕縛され、箱館で二年三カ月間、幽閉されます。この本は、その体験を回想として一八一六年に発表したものです。それによると、その当時でさえ、彼は、日本人の足跡があった択捉(えとろふ)、国後(くなしり)からサハリンまでも「正当なところ、日本の植民地と云える」としています。
 日本とロシア間の国境と領土をとりきめたのは徳川幕府と帝政ロシアが結んだ「日本国露西亜(ロシア)通好条約」(一八五五年=安政元年=二月七日、伊豆下田で)、明治政府と帝政ロシアが結んだ「樺太・千島交換条約」(一八七五年=明治八年)です。
  「日本国露西亜(ロシア)通好条約」で、択捉(えとろふ)と国後(くなしり)の南千島は日本領、それ以外の北千島はロシア領になりました。その間を国境とし、樺太(からふと)には国境線を引かず“雑居の地”にしました。その二十年後の「樺太・千島交換条約」では、全千島列島を日本領、樺太(からふと)全体をロシア領としました。この結果、千島列島全体が最終的に日本の領土となりました。
 千島列島は北端の占守(しゅむしゅ)から南端の国後(くなしり)まで、日ロ間の平和的な外交交渉によって画定した日本の歴史的領土です。
 その後、日本にとってもロシアにとっても帝国主義的な戦争であった日露戦争(一九〇四年二月六日~一九〇五年九月五日。朝鮮半島と満州=中国東北部=の南部が主戦場)のとき、日本軍はロシアの樺太(からふと)全島を占領しました。この結果、後の講和条約・ポーツマス条約(一九〇五年九月五日)で南樺太(みなみからふと。樺太の北緯五〇度から南)が日本の領土になりました。
 歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)は、地理的には千島列島に入らず、歴史的にも北海道本島の一部として扱われてきました。

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高知市 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える その三・問題をつくり出したソ連、アメリカ、イギリス、日本政府

 第二次世界大戦にあたり、連合国は戦後処理の原則として「領土不拡大」の公約を掲げました。日本、ドイツ、イタリアが戦争などによって奪った土地は返させるが、そのほかの土地の割譲は求めないというものです。
 対日戦の戦後処理でも、一九四三年十二月一日にアメリカ合衆国大統領・フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相・ウィンストン・チャーチル、中華民国主席・蒋介石が発表した「カイロ宣言」で「自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」と明確にされました。一九四五年七月二十六日、アメリカ合衆国、中華民国、イギリスの国の首脳が大日本帝国に対し発したアジア・太平洋戦争の終結に関する勧告の宣言・「ポツダム宣言」では、「カイロ宣言」の履行が明記され、ソ連を含む連合国全体のものとなりました。
 ところが、「領土不拡大」の公約に反する国際密約がありました。ソ連連邦首相・ヨシフ・スターリンはアメリカ、イギリス首脳とのヤルタ会談(一九四五年二月、ソ連のヤルタで)で、対日参戦の条件としてソ連への「千島列島の引き渡し」を要求し、ルーズベルト、チャーチルもそれを認め、三国の秘密協定(協定締結は二月十一日)に盛り込まれました。
 ソ連は、第二次世界大戦の末期の一九四五年八月八日に対日参戦しましたが、八月十八日から千島列島などの占領を開始しました。その際、千島列島と歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)を軍事占領し、その後、一方的に自国領に併合してしまいました。
 それを法的に裏付けたのが、日本がアメリカなどと一九五一年九月八日に調印したサンフランシスコ講和条約です。同条約は、二条C項で「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」ことが明記されています。

 南樺太については、日本がロシアから暴力的に割譲させたものですので、ソ連に返還するのは理があります。しかし、千島列島については、性格の違うものです。この条項の千島列島の項目は、ヤルタ協定の当事国であるアメリカが、ヤルタ協定にしたがってもちこんだものです。同条項の千島列島放棄は、カイロ宣言の「領土不拡大」の原則や同宣言「履行」を明記したポツダム宣言などにてらしても、不当なものです。
 以上の経過から千島を日本から切り離した問題の責任をおうべきはソ連、アメリカ、イギリス、日本政府です。
 なお、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)は、二条C項には入っていません。

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高知市 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える その四・日本政府の四島返還をの議論について

 ところが、日本政府は、一九五〇年代なかばの対ソ交渉以来、ヤルタ秘密協定とその内容をもりこんだサンフランシスコ平和条約の千島放棄条項を前提にしながら、“国後、択捉の南千島は千島列島ではないから返せ”といいはじめました。
 日本政府は、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島を北千島、南千島をふくむものと解釈してきました。日本代表の吉田茂首相は、一九五一年九月十日夜のサンフランシスコ会議全体会議でサンフランシスコ平和条約の受諾演説をしました。その中で、条約で放棄した千島列島について、択捉(えとろふ)・国後(くなしり)と得撫(うるっぷ)以北とを千島列島の南部、北部と規定しています。一九五一年十月十九日のサンフランシスコ条約批准国会で「この条約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味であると解釈しております」(西村熊雄条約局長)とのべています。
 鳩山一郎内閣の下で一九五五年六月三日からイギリスのロンドンで日ソ国交回復の交渉が始まりました。八月九日の第十回会談で、ソ連側は歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)については放棄する意思があることをほのめかしました。そうした中、同月三十日の第十三回会談で松本全権は択捉(えとろふ)、国後(くなしり)を歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)と同列視する新条文を提示しました。これにたいしてソ連は日本の態度を非難、結局、ロンドン交渉は九月二十一日、中断しました。
 国交回復交渉は翌年まで続き、一九五六年十月十九日、鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が日ソ共同宣言に署名しました。そこでは、日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉をおこない、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡すことがうたわれていました。しかし、この条項も、一九六〇年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定をしたことを理由に、ソ連が一方的に取り消しを宣言しました。
 その後、一九九〇年代以降、「東京宣言」(一九九三年)、「モスクワ宣言」(一九九八年)、「イルクーツク声明」(二〇〇一年)など、領土問題をめぐって多くの合意文書が日ロ間で交わされてきました。
 しかし、今日まで領土問題の解決の糸口すら見いだせていません。
 現在も、政府、自民党は、択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の返還を求める、いわゆる四島返還論に立っています。
 なお、与党の公明党、野党の民主党、社民党も自民党と同じく四島の返還を主張しています。
 ロシア側は、一九五六年の日ソ共同宣言を根拠に「考えられうる二島(歯舞、色丹)引き渡しの必須の前提条件は平和条約締結だ」(プーチン大統領。二〇〇四年十二月二十三日)と、ソ連の立場を継承しています。

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高知市 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える その五・ロシアは千島列島、歯舞、色丹を日本に返還すべきです

 私は、一九六〇年代からソ連、ロシアは日本に千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)を返還すべきだと考えてきました。
 これは、日本共産党が主張してきたことと同じです。
 日本共産党の宮本顕治書記長は、一九六九年三月五日、「千島問題についての日本共産党の政策と主張」を発表しました。これは、日ソ間の領土問題の歴史的研究をもとに、ヤルタ協定での千島引き渡し条項やサンフランシスコ平和条約での千島放棄に拘束されず、日本の歴史的領土として全千島列島の返還を要求せよと主張したものでした。
 その後の「日本共産党綱領」でも「日本の歴史的領土である千島列島と歯舞諸島・色丹島の返還をめざす。」(二〇〇四年一月十七日の第二十三回党大会で改定)と主張しています。
 領土問題では、歴史や法に照らして、筋の通った国際的に通用する道理ある立場に立つことが大切です。以下、千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)返還を主張の論点を私なりにまとめてみました。
 ○ 日ロ領土問題解決の出発点とすべきなのは一八七五年の「樺太・千島交換条約」です。一八五五年の「日魯通好条約」は、国後、択捉を日本領とし、樺太(サハリン)島上の国境を未画定とする、いわば中間的条約でした。全千島列島の日本帰属を定めた「交換条約」が、日ロ間で平和的に領土を画定した最終的条約であり、千島全島が日本の領土である根拠となります。
 ○ 歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)については、北海道の一部であり、ヤルタ協定やサンフランシスコ平和条約の千島放棄条項の対象になっていない島々です。それが、たまたま、アジア太平洋戦争終了時に南千島に駐留していた日本の陸軍第八九師団が、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)にも駐留していたために、ソ連が、南千島と一緒に占領する地域となっただけのことでした。ロシアが占領していることに何の根拠もありません。日本政府は、ロシアに即時無条件に返還せよと求めるべきです。
 ○ 千島問題については、やはり、ソ連の無法な領土占有を追認し誤った戦後処理の根拠となっているサンフランシスコ平和条約二条C項を不動の前提とせず、誤った戦後処理を正す立場でのぞむことが大切です。
 一九六八年五月二十三日の「条約法に関するウィーン条約」(一九八〇年一月二十七日発効)には、間違った条約、条項の廃棄が保障されています(第五三条「一般国際、法の強行規範に抵触する条約」)。
 また、条約には、よき先例もあります。この条約は、第三条の沖縄や小笠原にたいするアメリカの統治権を認めました。この条項は廃棄されていませんが、その後の小笠原や沖縄の本土復帰にともなって、この第三条は「立ち枯れ」状態になっています。
 二条C項を廃棄するという国民の世論を強め、それを背景にして、二条C項の廃棄を世界に通告する、そして、その通告したという前提でソ連と返還について交渉するという順序が必要ではないでしょうか。
 ○ ソ連との交渉にあたっては、ロシアはスターリンの領土拡張主義の誤りを是正せよと正面から提起していく必要があります。
 千島問題では、ロシアには理がありません。
 日本共産党の不破哲三氏は著書『スターリンと大国主義』(新日本出版社。一九八二年三月二十七日)で、つぎのようにのべています。「戦後になって、ソ連側は、千島問題を、ソ連がもともと権利をもっていた歴史的な領土の回復であったかのように理屈づけようと、懸命になりましたが、ソ連の歴史家がこの三十余年間に展開してみせたどんな“論証”も、まじめな検討にたえるものではありませんでした。昨年〔一九八一年〕も、『プラウダ』(藤原注・ソ連共産党の機関紙)の東京特派員が、千島は、日本が弱体化したロシアに圧力をかけて不法におどしとったものだといった議論を書きたてたりしましたが、十九世紀後半、幕末の日本に艦隊を派遣して圧力をかけたのがロシアであって、日本が艦隊を送ってロシアをおどしつけたわけでないことは、いまさら論じることもばかばかしい歴史の常識です。しかも、そこで結ばれた『不平等条約』の束縛からぬけだすのに、日本はさらに三十年もの歳月を要したのです。歴史を改作して恥じないこうした議論は、スターリンがもちだした領土要求が、歴史の真実と両立しえない不当な大国主義の要求であったことを、うきぼりにするだけのものです。」

 ソ連崩壊のさいに、スターリンのバルト三国併合の誤りは正されました。第二次世界大戦の時期のソ連による領土拡大や併合などの誤りは、ほとんどが解決されました。残るのは千島列島と歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)との問題です。

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高知市 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える その六・注・スターリンのバルト三国併合、ヤルタ協定の内容

 注です。

 ● スターリンのバルト三国併合

 ソ連の連邦首相・スターリンは、一九三八年八月ニ十四日、ドイツと不可侵条約を結びました。これには秘密協定があり、東部ヨーロッパをドイツとソ連のあいだで分割しあうことが、取り決められていました。この取り決めにもとづいて、一九三九年九月一日にヒットラーがポーランド侵略の戦争を開始すると、ソ連は、同月十八日、東からポーランドに侵入し、ポーランドの東半分を自分の領土に組み入れました。そして、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国に軍事的圧力をかけて、ソ連いいなりの政府に交代させ、ついでソ連への合併を強行しました(ソ連の占領は一九四〇年から四一年まで。再占領は一九四四年から一九九一年まで )。

 ● ヤルタ協定の内容

 三大国即チ「ソヴィエト」聯邦、「アメリカ」合衆国及英国ノ指導者ハ「ドイツ」国ガ降伏シ且「ヨーロッパ」ニ於ケル戦争ガ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」聯邦ガ左ノ条件ニ依リ聯合国ニ与シテ日本国ニ対スル戦争ニ参加スベキコトヲ協定セリ
 一 外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルベシ
 二 千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルベシ
 (甲)樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」聯邦ニ返還セラルベシ
 (乙)大連商港ニ於ケル「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ之ヲ擁護シ該港ハ国際化セラルベク又「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ノ海軍基地トシテノ旅順口ノ租借権ハ回復セラルベシ
 (丙)東清鉄道及大連ニ出口ヲ供与スル南満州鉄道ハ中「ソ」合弁会社ノ設立ニ依リ共同ニ運営セラルベシ但シ「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ保障セラレ又中華民国ハ満洲ニ於ケル完全ナル主権ヲ保有スルモノトス
 三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ
 前記ノ外蒙古竝ニ港湾及鉄道ニ関スル協定ハ蒋介石総帥ノ同意ヲ要スルモノトス大統領ハ「スターリン」元帥ヨリノ通知ニ依リ右同意ヲ得ル為措置ヲ執ルモノトス
 三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」聯邦ノ右要求ガ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルベキコトヲ協定セリ
 「ソヴィエト」聯邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス
(『日本外交主要文書・年表(1)』、五十六-五十七ページ。条約集第二十四集第四巻)

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高知市 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える その七・参考文献 文中に注記していないもの

 ○ 自由民主党ホームページ
 ○ 公明党のホームページ
 ○ 民主党のホームページ
 ○ 日本共産党中央委員会ホームページ
 ○ 社民党のホームページ 
 ○ 荒井信一『岩波ブックレット シリーズ昭和史 NO・8 日本の敗戦』(岩波書店。一九八八年七月二十日)
 ○ 倉田康雄『ヤルタ会談 戦後米ソ関係の舞台裏』(筑摩書房。一九八八年七月三十日)
 ○ 不破哲三『千島問題と平和条約』(新日本出版社。一九九八年一月十日。新日本出版社)
 ○ 『日本共産党の七十年 党史年表』(日本共産党中央委員会。一九九四年五月五日)
 ○ 由井正臣『岩波ジュニア新書 日本の歴史 8 大日本帝国の時代』(岩波書店。二〇〇〇年十一月二十日)
 ○ 鹿野政直『岩波ジュニア新書 日本の歴史 9 日本の現代』(岩波書店。二〇〇〇年六月二十日)
 ○ 祝田秀全『忘れてしまった 高校の世界歴史を復習する本』(中経出版。二〇〇三年八月二十六日)
 ○ 不破哲三『新・日本共産党綱領を読む』(二〇〇四年十二月十五日。新日本出版社)
 ○ 日中韓三国共通歴史教材委員会『未来をひらく歴史 東アジア三国の近現代史』(高文社。二〇〇六年七月八日)
 ○ 代表編集・松井芳郎『ベーシック条約集 2008』(東信堂。二〇〇八年四月一日)

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高知市 「手をおいて 左の乳房(ちち)の 音と聞けば……」。 

 手をおいて 左の乳房(ちち)の 音聞けば 

 トクトクトクと

 命(いのち)伝える

 七月二十七日夜、文庫本にメモをしてあった短歌です。

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高知市 「母よ 姉よ」、ここで聴くことができますよ。

演奏を聴けるページがありました。

http://www.youtube.com/watch?v=zhCVmLfid5w&feature=related

すごい歌手です。

なんども、なんども聴きました。

엄마야      누나야  강  변 살     자.

オンマーーヤ ヌーナヤ カン ビョンサッー ジャ

母さん 姉さん 河辺に 住もう。

뜰  에는    반짝이   는    금 모래 빛

ツゥ レーヌン バンチャギ ヌンー クンーモレ ビッ

 
庭には きらめく 金砂の光

뒷    문   밖에는    갈   잎의 노  래

ツィー  ムン バケヌン  ガルーイッペノーーレ

裏門 外には 落ち葉の歌

엄마야 누나야 강변 살자.

オンマーーヤ ヌーナヤ カン ビョンサッー ジャ

母さん 姉さん 河辺に 住もう。

詩 キム・ソウォル 曲 キム・クァンス

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高知市 アリラン ここで聴くことができます。

 演奏を聴くことのできるページがありました。

  http://www.youtube.com/watch?v=7FlXH9CGnvw&feature=related

 1番

 아리랑   아리랑     아라리요

 アリラン  アリランー   アーラーリーヨーー

 아리랑    고개로       넘어 간다

 アリランー   コゲーロー  ノモカンダ

 나를     버리고   가시는    님은

 ナールル  ポリゴ   カシムン  ニームンーー

 십리도   못가서     발병난다

 シムミド  モッカーソー パルピョンナダ

 2番

 아리랑   아리랑      아라리요

 アリラン  アリランー   アーラーリーヨーー

 아리랑     고개로     넘어간다

 アリランー   コゲーロー  ノモカンダ

 청천      하늘엔   별   도 많      고

 チョンチョン  ハヌレン チャム ヒョリドマンー コーー 

 
 우리네  가 슴엔     꿈도 많다

 ウリネ  カ スーメンー スシム ドマン タ

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高知市 고향의 봄 故郷の春、ここで聴くことができます。

 ここで聴くことができます。

  http://www.youtube.com/watch?v=tTrBV671TcU&feature=related

   고향의 봄

 작사:이원수
 작곡:홍란파

 나의 살던 고향은 꽃피는 산골
 복숭아꽃 살구꽃 아기 진달래
 울긋불긋 꽃대궐 차리인 동네
 그 속에서 놀던 때가 그립습니다

 꽃동네 새동네 나의 옛고향
 파란들 남쪽에서 바람이 불면
 내가의 수양버들 춤추는 동네 옛고향
 그 속에서 놀던 때가 그립습니다



   故郷の春

 作詞:李元寿、作曲:洪蘭坡

 私の住んでいた故郷は花咲く山里
 桃の花 杏の花 小さなツツジ
 色とりどりの花の宮殿があった村
 そこで遊んだころが懐かしい

 花の村 鳥の村 私の昔の故郷
 青い野原に南風が吹けば
 小川のほとりのしだれ柳が舞を舞う村
 そこで遊んだころが懐かしい

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2009.08.02

高知市 第三十ニ回四国中央紙まつりにいったよ。

Photo Photo_2

Photo_3

 八月二日午後から、お隣、愛媛県四国中央市の紙のまち資料館へ。第三十ニ回四国中央紙まつりです。OOさんの車で計五人の小旅行です。
  三階でやっていた和紙版画展がよかった。
 それて、一階ロビーでやったクラウンロトの演技も、パチパチでした。

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高知市 あの顔をつくってみたい。

 八月二日で、ある人の顔を見て、「この顔をつくってみたい」と思いました。
 高知市に帰り着いてから紙粘土を買い込み、つくってみましたがうまくいきません。

 道は遠そうです。

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高知市 梅雨に負けた 菜園の スイカの実たち。

 菜園の スイカの実たち 梅雨に負け
 三十の夢 三つにとどまる

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2009.08.03

高知市 二〇一〇年三月からの暮らしぶりについて。

 二〇一〇年三月からの暮らしぶりについて。

 僕の、妻への、お願い。

 ● 来年早々、僕は、高知市から香川県に、行ってしまいます。

 ● 月に一回くらいは、僕のアパートに、来ていただけますか。

 ● 高知市の、あなたの居住領域には、「いかなる男性」も、入れないでいただけますか。僕が、その領域にいる時は別ですが。

 以下、単純、明快な僕のお願いです。

 書いてみて、「僕」の、六十二歳の妻(おばあちゃんです)に対する思いについての「異常さ」に気がつきました。

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高知市 「僕が韓国にいって、いいたいことがあるんだけど、訳してくれない」。

 韓国からU君が帰ってきました。

 京都大学の男女二人と一緒でした。

 U君に、「僕が韓国にいって、いいたいことがあるんだけど、訳してくれない」。

 さて、………。

 

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2009.08.05

高知市 人生の教訓を得ました。女性の前で、いってはいけないこと。

 昨日は、大切な教訓を得ました。本当は前から知っていたけど、つい、忘れていました……。

 女性の前で「あの人は、きれいな人だ」などと決していってはならないということです。

 話し相手の人が、非常に親しい人であっても。

 たとえ長年連れ添って気心がわかりあっている人にでも。

 そんなことをいってみるとわかりますが、そんな話を聞いて快活になる女性は、私の辛い経験では皆無です。

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2009.08.06

リポート「編んだ小丸太で敷き詰めた滑走路  高知の山あいの海軍の隠し飛行場」。

  高知県四万十町宮内(旧・窪川町宮内)には、山あいの平地に田んぼが広がっています。その田んぼにそって道路があり、それにそって民家が並んでいます(写真は二〇〇八年はじめ)。

この田んぼの中に、かつて高知海軍航空隊窪川飛行場(高知第三飛行場)がつくられていました。砂利を敷き、その上に小丸太棒(直径五センチ、長さ二メートルくらい)をシュロ縄で編んでスダレのように敷いて滑走路をつくりました。長さ千百八十メートル、幅平均七十メートルの滑走路でした。機上作業練習機・白菊などが配備されていました(機上作業練習機とは、艦上攻撃機や艦上爆撃機の操縦士以外の乗員の任務である航法・通信・射撃・爆撃・偵察等の訓練をするための機体です。全幅一四・九八メートル、全長九・九八メートル、全高三・一〇メートル、機体重量・二五六九キログラム、最大速度二三〇km/h、航続距離千百七十六キロメートル。乗員五人です。九〇式機上作業練習機の後継機として一九四二年に制式採用されました)。そして、民家のいくつかには海軍兵が駐屯していました。

 二〇〇八年のはじめから藤原が調査した時には、当時の様子を示すものは見当たりませんでした。

 しかし、ひとまず、このことを伝えようと七月に高知市で開かれた「戦争と平和を考える戦争展」に、高知海軍航空隊窪川飛行場の概要を伝える展示コーナーを設けました。

これが終わってから、藤原と福井康人さん(両者とも高知市升形九の一一の平和資料館・草の家の研究員)が調査しなおしたところ、航空機をアメリカ軍の空襲から守るための格納庫・掩体壕(えんたいごう)の跡を三十八確認しました。この掩体壕は、いずれも山の斜面をけずっただけのもので、高さは四メートル、横幅七・五メートル、奥行七・五メートルほどの大きさです。残っているといっても、そのままの形で畑になったり、その後に小屋が建てられたりした物もあります。また、一部が削り取られたものもあります。(写真は半壊の掩体壕跡です)

地元の人の証言によると、いま残っている部分は掩体壕全体の後ろの部分で、当時は、この山肌の削った部分より前面に木製の屋根をはり出させて軒をつくったといいます。白菊はバックさせて格納したといました。尾翼部分が山肌の削った部分に、主翼や操縦席などの部分はその軒の下に格納されるというスタイルでした。

 戦後、高知海軍航空隊がアメリカ軍に渡した「引渡目録」には、山側に四十八の掩体壕(えんたいごう)が描かれています。壊れていることを確認したのは一基だけですので、調査がすすめば、もう少し発見できると思っています。

 この飛行場の前につくられた高知県日章村(いまは南国市)の高知海軍航空隊の第一飛行場にはコンクリート製の滑走路があります。掩体壕がありました。ここの掩体壕は、コンクリート製九基、土などでつくられたもの三十二基の計四十一基がありました(いま残っているのはコンクリート製七基です。一番大きい掩体壕は高さ八・五メートル、幅四十四メートル、奥行き二十三メートル、コンクリートの厚さは五十センチです。写真は第一飛行場の掩体壕跡の一つ)。基地に兵舎もありました。

 二つの飛行場と掩体壕群、兵舎などを比べると大きな差があります。

 高知海軍航空隊窪川飛行場は、何のための飛行場だったのでしょうか。海軍の特別攻撃隊員だった木村芳郎さんが教えてくれます(「海軍予備学生の記」編集委員会『海軍予備学生の記』。一九七二年五月二十五日)。

 「第一回攻撃のために鹿屋空(かのやくう。藤原注・鹿児島県の鹿屋海軍航空隊)に進出したのが[一九四五年]五月二十一日であったと思う。鹿屋基地まで進出し、出撃のための整列までしたものの、私は第二回攻撃隊員訓練のために残された。毎日の空襲警報を避けて、高知県の窪川なる谷間に『隠し飛行場』を作り移動した。この飛行場も地図の上で探し、白菊による実地探査を試みて探し当てた。飛行場と言っても、畠を地ならしし、径五―六センチの樫(かし)の棒を敷きつめただけのもの。滑走路も僅(わず)か一本だけ。何しろ山の間なので、安全に必要なだけの土地確保することなど、思いもよらないことであった。ために、離陸はいつも赤ブースト(藤原注・エンジン全開)でないと滑走路の前の山にブッつけるおそれがあった。(中略)谷間の飛行場で五〇〇キロ爆弾を抱いての離陸なので、上昇しきれず谷間を這(は)っても下降気流に落されて牛小屋に軟着したのが居(い)て重傷者を出し、司令から『タルンドル』と大目玉を喰ったこともあった。」

 

   特攻機を隠して待機させておくために

 当時の状況を説明するために、まず高知海軍航空隊(日章村・現南国市)の白菊の特別攻撃のことを書きます。

 「……日章の高知海軍飛行隊は実戦部隊でなく練習部隊であったので、零戦はもとより戦えるような機はなかった。あったのは練習機『白菊』で、これは時速百四十キロぐらいの鈍速。しかも機銃も搭載しておらず、空中戦は挑めない。(中略)

 一方で、『白菊』は特攻機に使われていた。『菊水・白菊特攻隊』として編成、日章から鹿児島の鹿屋(かのや)の基地まで飛び、翼下に爆弾をくくりつける。ベニヤ張りの増槽タンクも積み、戦闘能力はないので敵機に見つかりにくい夜間に出撃、海上スレスレに飛び敵艦に体当たりするのだ。」(浜田豊繁さん『一発勝負 報道カメラ五十年』。高知新聞社。一九八四年八月二十日)

 高知新聞のカメラマンだった浜田豊繁さんは、その「菊水部隊白菊隊」が一九四五年(昭和二十年)六月二十日、日章村の高知海軍航空隊から飛び立つのを、同航空隊の近くの物部川の堤防から目撃しています。

 「地元農家の人たち三、四十人が見送りにきていた。いずれも航空兵を下宿させている家の方々で、今生の別れである。『まっことむごい』とご婦人が身をもむ。(中略)

 一九〇〇[藤原注・午後七時のこと]、特攻隊出発。航空隊の手のすいた者全員が見送りの位置につく。 総員〝帽振れ〟のなか、堤防の人々にも見送られて一機ずつ、これも機上から手を振りつつ五機が飛び去った。機が夕暮れの空に消えても、しばらくはだれも動かない。

 やがて、海ゆかば水()()く屍(かばね)山ゆかば草むす屍…の歌が皆の口をついて出て、女性は抱き合って泣き、男たちはこぶしで目頭をぬぐう。

 一九三〇、続いて三機が出発した。」(前出)

 「菊水部隊白菊隊」は、一九四五年五月二十四日から六月二十五日までに計二十六機が沖縄に向け出撃。計五十二人が戦死しています。

 操縦の佐藤新四郎一飛曹(二十三歳)=宮城県出身=は、六月二十七日夜に出撃し、翌二十八日、「沖縄周辺」で戦死しました。

 佐藤一飛曹は、出撃の一週間ほど前に、高知市の池内照さん(二十六歳)=当時、一九九三年一月死去=と結婚していました。

 「一九四五年(昭和二十)六月二十五日沖縄失陥(しっかん)により菊水作戦[記者注・沖縄に侵攻したアメリカ軍艦船への飛行機による特別攻撃作戦]が打ち切られると、残存の白菊は鹿屋から高知へ引き揚げた。

 沖縄戦が始まったころ、次には米軍の日本本土侵攻が必至とみられた。陸海軍は沖縄に総力を結集する一方、本土決戦に備えなければならない。その一つに、特攻機を隠蔽(いんぺい)待機させておく飛行場の建設があった。高岡郡窪川町宮内の高知第三飛行場もそれである。」(『高知空港史』。高知県。一九八四年)。

 「高知基地残留の練習機白菊を最後の特攻機として使うため窪川基地に移動 隠蔽(いんぺい)保存した」(中山三国王さん『高知海軍航空隊史』)。

 「……『海軍宮内飛行場』とは要するに『特攻機を隠蔽待機させておく飛行場』だった……」(県老連戦中・戦後の記録編集委員会『平和への祈り 戦中・戦後の記録』の「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」。高知県老人クラブ連合会。一九九八年七月)。

   高知海軍航空隊がつくった「引渡目録」では

 高知県には、それまでに三つの海軍航空隊の飛行場ができていました。

 ○ 宿毛海軍航空隊。一九四三年(昭和十八年)四月一日、幡多郡宿毛町。水上偵察乗員錬成。一九四四年四月一日閉隊。

 ○ 高知海軍航空隊。一九四四年(昭和十九年)三月十五日開隊。香美郡日章村。飛行予科練習生(予科練)卒業生のうち、偵察搭乗員となる者を飛行術偵察専修練習生(飛練)に入隊させ実技教育をしました。機上作業練習機・白菊が配置されました。一九四五年(昭和二十年)三月一日、同航空隊の教育は停止されます。同月十九日、同航空隊は、アメリカ軍の機動部隊から発進したグラマン艦載機の攻撃を三波にわたって受けます。その間、三月、四月と第一次有資格隊員と予備隊員の訓練を実施。四月にアメリカ軍との沖縄戦が始まると、五月から白菊が特別攻撃機となって沖縄に出撃しました。同月から多くの隊員が、高知海軍航空隊の周辺の山などで陣地構築、壕(ごう)づくりに従事しています。

 ○ 浦戸海軍航空隊。一九四四年十一月一日開隊。高知市池、飛行予科練習生教育。四五年三月二十五日、同隊のそばの高知市仁井田に高知第二飛行場が開設されました。高知海軍航空隊の緊急避難用だったといわれます。

 高知海軍航空隊窪川飛行場は高知海軍航空隊の高知第三飛行場としてつくられました。

 終戦後に高知海軍航空隊がつくったアメリカ軍への「引渡目録」に、その飛行場の地図などが載っています。

 南北に延びた滑走路は、「砂利敷(じゃりじき)」で、延長千百八十メートル、幅平均七十メートルです。

 誘導路が北西、西、南西の谷に延び、それぞれの谷に計四十八の掩体壕(えんたいごう)があります。

 飛行機が、どれだけ配備されていたのでしょうか。

 機上作業練習機・白菊二十五機、九三式中間練習機一機、二式陸上中間練習機一機が配備されています(計二十七機中二十三機が使用可能)。

 そして、発動機が八基、三基と計十一配置されています。

 九三式中間練習機は日本海軍の練習機です。

 川西航空機が開発しました。機体構造は鋼管または木製骨組に羽布張りで後退角のついた上翼を持ちます。一九三四年(昭和九年)一月末に制式採用されました。全長八・〇五メートル。全高三・二〇メートル。乗員二人。武装は七・七ミリ機銃二つ、三十キログラム爆弾二つ。

 二式陸上中間練習機は、九三式中間練習機にかわる新型の中間練習機です。

 渡辺鉄工所が、海軍が研究用として戦前にアメリカから輸入していた ノースアメリカンAT―6練習機を参考にして設計し、一九四三年(昭和十八年)に制式採用されました。

 全長八・六〇メートル。全高四・一〇メートル。乗員数二人。武装は、七・七ミリ機銃一台。

 高知海軍航空隊の「引渡目録」の窪川飛行場分の「兵器目録」には、つぎの兵器が記されています。

   品   名    数  量   記 事

                       

 二十粍(ミリ)機銃     五   使用可能

 七粍七機銃       二十六   使用可能

 小銃            百   使用可能

 二十粍機銃弾薬包   五千二百   使用可能

 七、七粍機銃弾薬包  十万五千   使用可能

 小銃弾薬包      七百八十   使用可能

 二十五番爆弾        百   使用可能

 二十粍機銃弾倉       七   使用可能

 七粍七機銃弾倉     五十三   使用可能

 燃料車           三   使用可能一台

                   使用不可能二台

 小型貨物自動車       一   使用不可能

   こうして基地がつくられました

 四万十町宮内は、現・JR窪川駅北西二キロメートルの四万十川のほとりにある山あいの農村です。

 この飛行場建設にあたった海軍呉鎮守府第五一一三設営隊(編成・一九四五年六月十五日。隊長・島本茂技術大尉)の分遣隊長だった西内弘さんが、建設にあたった事情を書いています(「関西RPの会」のホームページの「終戦小秘話」)。

「高知県西南部に窪川町といって、四方を山々に囲まれた閑静な町があり、町外れに影野、仁井田という農林業で生計を営んでいる小部落がある(現・土讃線影野、仁井田駅)。ここでの物語である。

 昭和20年当時、私は若い海軍軍人であった。呉鎮守府(海軍施設部)より極秘命令を受けこの辺境地に、海軍航空隊特攻基地を緊急設営するため、分遣隊長として同期生2名で、部下兵120名と共にこの地に派遣された。

 昭和20年当初、高知海軍航空隊基地(現・高知空港)は、B29・双胴ロッキード・グラマン機の総攻撃を受け壊滅状態であった。海軍は新基地建設のため、高知市郊外の浦戸地区に『浦戸海軍航空隊基地』と窪川地区に『特攻機基地』を極秘に、しかも緊急に設営して本土決戦に備える計画を立案した。

 我々120名の派遣隊員は秘密裡に本隊を出発、『影野』『「仁井田』の二つの小学校に合宿することになり、当分隊60名は影野小学校の一隅を拝借して、建設に着手した。」

 この滑走路の予定地は二十万平方メートルの田んぼでした。

 滑走路は、一九四五年(昭和二十年)春から突貫工事で急造されました。

 周辺の窪川村、松葉川村、仁井田村などの人たちや高知県窪川農業学校(現・高知県立窪川高等学校)、国民学校高等科の児童生徒が飛行場の整地、地固めのコンクリートローラー(直径一メートル、長さ二メートル)引きなどに駆り出されました。窪川農業学校の生徒だった武市典雄さんも動員された一人です。

 砂利を敷き、その上に小丸太棒(直径五センチ、長さ二メートルくらい)をシュロ縄で編んでスダレのように敷いて滑走路をつくりました。長さ千百八十メートル、幅百五十メートルの滑走路でした。

 「朴の木谷」、「三島様横の谷」、「柳の川谷」の山肌に横穴を掘り込んで、飛行機の掩体壕(えんたいごう)がつくられました。

 滑走路から各格納庫までの誘導路をつくりました。

 山中の掩体壕までの通路もつくりました。

 宮内に住む市川和男さんが、当時の様子を書いています(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。

 「……私の家の前の田圃(たんぼ)に、五、六名の見慣れない人達がきて、何やら立ち話をしていたのが、当時、十二歳の少年の私には何やら不安げに映ったことを覚えている。そのうち測量の偵察機が飛んだとも聞いたものである。

 やがて飛行場は近郷近在の人々を強制動員してつくられた。狩りだされた人々は毎日自分の仕事を休み、いも飯弁当持参で朝から晩まで汗水たらしての作業。鍬(くわ)をふるいモッコを担いで土地ならし、砂利を撒きそれをみんなでローラーを引いて固める重労働の繰り返し。使う土地は、先祖から受け継いだ大切な田もあったものではない。」

   海軍兵が宮内にやってきて……

 高知海軍航空隊(本部・高知県日章村=現・南国市)の第一飛行隊が、将校送迎用木炭バスで窪川町へ移動し、第二飛行隊は機上作業練習機・白菊を窪川町に空輸しました。そして、七月十日、高知航空隊窪川飛行場が開隊しました(『高知海軍航空隊史』)。

 将兵は、特別攻撃隊員と整備兵ほか約百五十人でした。

 高知海軍航空隊からの三回目の特別攻撃の要員たちでした。

 飛行場の西の四軒の民家が接収され、飛行隊の本部、隊員の分宿する兵舎になりました。

 地元の丸山国民学校も七教室中二教室が海軍兵の宿舎にされました。

 市川和男さんの家が、本部にされました。

 当時、市川さんは高知市の中学校の一年生で、高知市に下宿していました。

 「……下宿して間もない土日の帰郷だったと思うが、帰ってみて驚いた。

 わが家の前の水田は、帯状に『木走路』といって小さな丸太木をシュロ縄で編んで簾(すだれ)のように敷いた即席の滑走路にすっかり姿を変えていたのである。加えて私の家も飛行場の本部になった。母一人子一人であった私たち親子は家を追われ、仕方なく隣部落の親戚に身を寄せた。

 それからというもの、わが家に帰るにも、そこに駐屯している番兵に軍隊式の敬礼をして『入ってよろしいですか』と聞けという。私の母は『家の監督に来た。自分の家に入るのに、そんなことは必要はない』と言い切った。」(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。

 宮内の五社様の境内にはガソリンを入れたドラム缶が積まれ、銃を持った海軍兵が二十四時間見張りをしました。

 宮内は四万十川沿いに北南に広がる地域ですが、地域の両方の入口には海軍の検問所が設けられました。

 そこには衛兵がいて、宮内の住民も通関札を見せないと通行できなくなりました。

 「五社様の払川橋百米上手の道路に門が作られ、衛兵が立ち、部落民は、通関札を見せて通る仕末……」でした(丸山小学校百年誌編集委員会『わが母校 丸山小学校百年記念誌』。丸山小学校百年記念行事実行委員会)

 五社様あたりは飛行場の南端です。北端に近い丸山国民学校の前あたりの道路に歩()哨小(しょう)屋がつくられ、衛兵が立ちました。

 隣村の東又村の東又国民学校の訓導(教師)をしていた武市昌子さんが、当時の様子を教えてくれました。

 「宮内の住人は、軍隊から宮内の住民であることを証明する通行許可証をもらいました。

 歩哨小屋に拳銃と銃剣を持った海軍兵がいました。

 私は、通勤の行き帰りは、通行許可証を首にかけました。

 朝五時半ころ家を出ました。

 丸山国民学校の所にいくと、海軍兵がピカピカ光る銃剣を突き出して『誰か!』と叫びます。

 首にかけた通行許可証を出して見せると『通れ!』といって通してくれました。逃げるように走って通りました。

 ここを通るのが怖くて、一度は、飛行場を横切って四万十川の浅瀬を渡って宮内を出ようとしました。そしたら、川岸で海軍兵に捕まって、連れ戻されました」

 勤務先の東又国民学校も戦場になっていました。

 「アメリカ軍が、東又国民学校の周辺の山に何回も焼夷弾(しょういだん)を落としました。

 子どもたちと奉安殿(ほうあんでん)の近くの防空壕(ぼうくうごう)に入りました。

 アメリカ軍が興津 (おきつ)(四万十町)の浜から上陸してくるかもしれないといわれていました。

 東又国民学校でも、子どもたちに竹やりの訓練をさせました

 『興津の坂からアメリカが上がってきたら、興津峠で待っていて、この竹やりで突く』ということでした」

   飛行場はカムフラージュされていました

 高知海軍航空隊の操縦搭乗員・滝沢哲雄飛行中尉(予備学生十三期)も、この飛行場に配備されました。

 五月二十四日、第一次白菊隊で出撃する予定で鹿児島県の鹿屋(かのや)基地にいきましたが、アメリカの空襲、天候不良などで出撃の順番が狂い、出撃の機会を失ったまま沖縄特別攻撃が中止になり、窪川飛行場にまわされたのです。

 アメリカ軍機来襲の情報のないときは、特別攻撃の訓練飛行がおこなわれました。

 滝沢さんが当時の窪川飛行場のことを語っています。

 「残存の白菊は、窪川の第三飛行場の横穴へ隠しました。兵員は付近の農家への分宿です。牧場に小丸太を並べ、それが滑走路という格好の飛行場でした。空襲のありそうな時は、滑走路の上に草付きの土をばらまいたり、鶏を飼っている農場に見せかけるため唐丸カゴをあちこちに伏せてカムフラージュしたり、米軍機に発見されないよう苦労した」(『高知空港史』)。

 練習機は、四万十川上流沿い森林軌道、建設中の影野―窪川線のトンネル内にも隠蔽していました(『高知海軍航空隊史』)。

 飛行場では、連日、特別攻撃訓練がおこなわれました。

 飛行機が、カラコロカラコロという音をたてながら滑走路を走り、離陸していきました。

 窪川飛行場は、平地にありますが、四方を山に囲まれて飛行機の訓練にとっては、いい場所ではありませんでした。操縦は困難をきわめました。

 武市昌子さんは「『きょうは出る日だから見送ってください』といわれて、出撃する飛行機の見送りをしました。海軍兵は白いマフラーをしていました。私たちは『無事に帰って』といって見送りました。私が休みの日のことで、二、三度、見送りにいったと思います。

 どこかで乗り換えて行くということでしたが、飛ぶことは飛んだが向こうまで行き着かずに帰ってきた人もいますし、行き着いたけど突撃する飛行機がなくて帰ってきたという人もいました」と、語ります。

 本部にされた市川和男さんの家の庭には、大きな塹壕(ざんごう)がつくられました。

 庭の石垣には二つの四角い穴があけられ、そこから上陸したアメリカ兵を機関銃で撃つ備えがしてありました。

 そして、裏山には、手榴弾(しゅりゅうだん)を投げつけるための小さな広場がつくられました。

 兵隊の食糧は十分でない様子で、近くの民家のイモやカボチャが消えました。

 市川和男さんが、この飛行場の兵隊たちの様子を観察していました。

 「兵隊さんはよく青竹のバッターで腰をしたたか打たれていたのも印象的である。『かまえ!』の命令で、殴られる型は『く』の字に腰を曲げ、上官がそれをめがけて青竹も割れんばかりに叩く。兵隊さんは前につんのめっていた。

 こんなこともあった。ある将校の兵隊いじめに腹を据()えかねた江戸っ子の下士官だったと思うが、やにわに日本刀の鞘(さや)を払って『おれが、ぶったぎってやる!』と立ち上がり、ようやく仲間が取り押さえ、なだめていたのが今も目のそこに焼き付いている。

 思えば駐屯していた兵隊さんは皆若い人達だった。青春をこの草深い檻(おり)なき檻の土地で持て余してもいたようだった。」(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。

   八月四日の機上作業練習機・白菊の墜落事故

 七月二十五日、ここでの練習は危険だということで、第一飛行隊は日章の高知海軍航空隊に帰還しました。

 窪川飛行場で二件の事故が起きたのは、その十日後の八月四日の午後でした。

 機上作業練習機・白菊一機が五百キロの模擬爆弾をつけて特別攻撃訓練をしていました。搭乗員は予備学生十三期の滝沢哲雄飛行中尉、和田実二等飛行兵曹でした。

 旋回飛行中に、エンジンの調子が悪かったのと渓谷の下降気圧に押し下げられて山腹に墜落しました。落ちたのは農家の牛小屋の上でした。留守番をしていた盲目のおばあさんが、はい出しました。けがはありませんでした。床下に模擬爆弾が転がっていました。

 つぎつぎと町民が現場にやってきて搭乗員の二人を何とか外に出し、木陰に寝かせて応急措置をしました。

 滝沢飛行中尉は、目、歯、顔面に負傷、和田二等飛行兵曹は足を骨折しました。

 同日、窪川飛行場を離陸しようとした練習機は、車輪を破損しました。この練習機は、日章の高知海軍航空隊に胴体着陸しました。

   占領軍に焼かれた窪川飛行場の練習機

 終戦の翌日、八月十六日、窪川飛行場では、機上作業練習機・白菊を再度組み立てて、日章の高知海軍航空隊に帰還しました。一般隊員は現地解散でした(『高知海軍航空隊史』)。

 市川和男さんの母が、手記を残しています。

 「……この軍隊の置き土産は、四戸の家にはものすごい蚤(のみ)と、天井もまっ黒になるほどの蝿(はえ)の巣だった……」

 高知海軍航空隊分隊長・大尉だった伊藤平次さんが、その年の冬、兵器引き渡しのため高知海軍航空隊兵舎(日章)にやってきたアメリカ兵とのやりとりを、つぎのように語っています。「窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。」(『高知空港史』)。

 窪川にやってきた占領軍は、窪川飛行場に残っていた練習機を集めて、油をかけて燃やしてしまいました。

 平和資料館・草の家の車輪とエンジンカバーは、そうした中でも残っていた機上作業練習機・白菊の残骸です。

 飛行場にされて荒らされた宮内の田んぼは、戦後処理のなかで「開放地」として元の地主に払い下げられました。

 一九四八年(昭和二十三年)から四九年の二年ほどをかけ、復元しました。

   白菊の車輪二つとエンジンカバー

 平和資料館・草の家に日本帝国海軍の機上作業練習機・白菊の車輪二つとエンジンカバーが寄贈されています。

 白菊は、翼幅一四・九八メートル、全長一〇・二四メートル、全高三・九三メートルの五人乗りのプロペラ機。機関銃一丁と六十キロの爆弾で武装していました。

 タイヤは、二つとも直径七十四センチメートルほどの物です。

 一つのタイヤには、つぎの文字が浮き彫りになっています。

 「藤倉工業株式会社 昭和1712月製 800×275 半高圧制動車輪 常用内圧2・5~3㎏/cm2

 もう一つには、つぎの文字が浮き彫りになっています。

 「藤倉工業株式会社 昭和 年 月製 800×275 半高圧制動車輪 常用気圧2・5~3㎏/cm2

 これは高知県四万十町宮内の武市典雄さんが、終戦直後に、窪川町役場の横にあった引揚事務所からもらい受けたものです(四万十町宮内は、以前は窪川町宮内でした)。

 もとは宮内の高知海軍航空隊窪川飛行場(高知第三飛行場)にあったといいます。

 〈参考文献で、文中で紹介しなかったもの〉

 ○ 窪川子ども風土記編集委員会『窪川子ども風土記』。一九八〇年三月十五日。

 ○ 窪川町史編集委員会『窪川町史』。窪川町。二〇〇五年三月。

 ○ 写真集「くぼかわ今昔」編集委員会『写真集 くぼかわ今昔』。窪川町企画課。一九八六年。

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高知市 「県立大学改編のシンポジウム」、いい集まりでした。

 疲れたけれど、いい気分です。

 夜、「県立大学改編のシンポジウム」に参加しました。
 この問題に関心のある高知女子大学、高知短期大学の教員、学生、学生OBが参加しました。

 県の勝手な「県立大学改編」計画でなく、教職員や学生、学生OBの希望や思いを反映したものにという思いが集まりました。

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高知市 第十三回戦争遺跡保存全国シンポジウム松本大会分科会(二〇〇九年八月九日)のリポートを印刷中。 

  いま、第十三回戦争遺跡保存全国シンポジウム松本大会分科会(二〇〇九年八月九日)のリポートを印刷しています。

 何人参加するかわからないので、「ま、インクがなくなるまで」という感じでやっています。

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2009.08.10

高知市 第十三回戦争遺跡保存全国シンポジウム松本大会にいっていました。

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 リポートは十六ページ、六十部 バッグにつめて高速バスに

 「いらっしゃい。戦跡保存の集いです」 松本駅の歓迎の幕

 江戸の世の手を握り合う男女像 道端にいて 松本や、よし

 「強姦(ごうかん)し、乳房切り取り、食べた兵」 調査を示す中国女性

 「女の子の手も握らずに死ぬのかよ」 十五の特攻 静かに語る

 「わが島」の日本軍の基地の写真(え)を示してくれるチェジュド(済州島)の青年

 丸太敷き滑走路のこと告げている 「知らなかった」の声も上がって

  「この技術、僕もほしいね。急がなきゃ」 地下工場の測量図見る

 「軍神」像、四十体も見つけたと復活のさま例示する男性(ひと)

 両腕に資料抱えて帰路につく 「また、明日から取材に歩こう」

  「丸太敷き滑走路のこと」は、

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2009/08/post-494c.html

 に掲載しています。

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高知市 雨の中の、よさこい踊り。スケッチつき。

Photo

 仕事の帰りに高知市知寄町で、よさこい祭を見ました。

 雨になってもかまわず踊っていたのに感激。

 日本一の貧乏県の人たちの、この明るさ、たくましさ。

 何か好きだなぁ、高知って。

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高知市 わが息子の「出没情報」。

 いま 妻との対話タイムです。

 妻いわく。
 昨夜、福岡県北九州市の「息子」の「ツレ」の母から電話があったそうです。
 仕事をしている「息子」を九州の、ある街頭で見かけたとのことだったようです。

 東京都在住の 「息子」は、全国に出没していますが、わが高知には、めったにやってきません。

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2009.08.12

高知市 「あゝ紅の血は燃ゆる 学徒動員の歌」の「すごさ」。

 昨日、『高知の戦争 証言と調査』の原稿整理をしていて、「すごい」歌に出合いました。生徒に向かって「今こそ筆を 擲(なげう)ちて」と呼びかけるのです。「あゝ紅の血は燃ゆる 学徒動員の歌」(軍需省選定。作詞・野村俊夫、作曲・明本京静)です。

 一九四四年三月、勤労学徒動員令が発令され、四カ月の勤労動員だったのが一年間を通じておこなわれるようになりました。それを受けてつくられた歌で、一九四四年十二月に日蓄レコード(コロムビアレコード)から発売された歌です。

  一、花も蕾(つぼみ)の 若桜
   五尺の生命(いのち) ひっさげて
   国の大事に 殉ずるは
   我等学徒の 面目ぞ
   あゝ紅の 血は燃ゆる

 二、後に続けと 兄の声
   今こそ筆を 擲(なげう)ちて
   勝利揺がぬ 生産に
   勇み起たる つわものぞ
   あゝ紅の 血は燃ゆる

 三、君は鍬(くわ)執(と)れ 我は鎚(つち)
   戦う道に 二つなし
   国の使命を 遂(と)ぐるこそ
   我等学徒の 本分ぞ
   あゝ紅の 血は燃ゆる

 四、何をすさぶか 小夜嵐(さよあらし)
   神州男児 ここにあり
   決意ひとたび 火となりて
   護る国土は 鉄壁(てっぺき)ぞ
   あゝ紅の 血は燃ゆる

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明治、大正、昭和の天皇は、いかにして「神」になったのか その一・不敬罪をつくりました。

 実は、このテーマで前からまとまったものを書きたかったのですが、なかなか書けないできました。
 で、思い切って順序なしに、いろんなところから、このテーマに切り込んでいくことになりました。
 支配の体制、刑罰、教育、マスコミの各方面の材料を探して書き込み、最後に、立体的な文章にまとめるつもりです。

 その一は、不敬罪です。 天皇などを国民と区別した不敬罪というものがつくられました。


 不敬罪は、一八八〇年(明治十三年)に公布された刑法(明治十三年太政官布告第第三十六号)において明文化されました。

 第一章 皇室ニ對スル罪
 第百十六条
 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
 第百十七条
 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所為アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
 二項
 皇陵ニ対シ不敬ノ所為アル者亦同シ
 第百十八条
 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
 第百十九条
 皇族ニ對シ不敬ノ所為アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
 第百二十条
 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ軽罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス

 そして、この規定は、一九〇七年(明治四十年)に公布された刑法(明治四十年法律第45号)に引き継がれました。

 第一章 皇室ニ對スル罪
 第七十三条 
 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
 第七十四条 
 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス
 神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦同シ
 第七十五条 
 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ處ス
 第七十六条 
 皇族ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ二月以上四年以下ノ懲役ニ處ス

 刑法からこの「皇室ニ對スル罪」が削除されたのは、戦後の一九四七年(昭和二十二年)のことでした。

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高知市 漫画『七月のピアノ 一九四五年七月四日 高知大空襲』、近日、発行!!

Photo  漫画『七月のピアノ 一九四五年七月四日 高知大空襲』、近日、発行!!

 B5判四十ページ。作者は、西森智恵子さんです。

 私が編集中です。本日は、原画をスキャナでパソコンに取り込んでいる途中です。

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高知市 よさこい祭は、十人十彩(じゅうにんといろ)がグー。

 すべてを見たわけではありませんが、ことしのよさこい祭、やっぱり十人十彩(じゅうにんといろ)が良かったね。
 斬新な衣装、音楽、踊りと、すべていい。

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高知市 ビラの版下もつくりました。十数人で「もむ」ためのものです。 

 本日はビラの版下もつくりました。

 午前中、TAさんからメールで原稿がきました。
 そして、SAさんから「写真は、○○さんのホームページのものをつかって。OKだから」の電話。
 ということで、作成開始。

 できた版下をTAさん、SAさんにメールで送りました。直しがあれば、どうぞということです。

 夜、SAさんから電話で直しがありました。

 これから直して、十数枚刷ることにしています。

 そして、二日後には、これを十数人で「もむ」ことにしています。

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高知市 高知は、太陽の直撃でクラッとなりそう。暑中、お見舞いもうしあげます。藤原 義一。

 いやーっ、暑いですねー。お元気ですか。暑中、お見舞いもうしあげます。

 藤原義一(ふじはら・よしかず)、六十二歳です。

 私と妻・尋子は、いま高知市に住んでいます。ネコのクニョ(韓国語の「彼女」)と3人暮らしです。

 高知は長い梅雨が明けて、昨日ころから夏という感じです。
 歩いていると太陽の直撃でクラッとなりそうです。

 私たちの家のまわりは、田んぼですが、まわりの田んぼは、ほとんどが稲刈りが終わりました。
 昨日、庭のマンジュシャゲの葉がのびてきているのを発見。夏の真っ盛りに「秋」が準備されているんですね。

 十五日夜には、地域の老人会で夕涼み会をやることになっています。楽しみです。実は会長をつとめているんです。実際的な会長は妻ですが……。

 ところで、妻は、元「残留孤児」のみなさんに日本語を教えるボランティア、退職女性教職員の集まりの運動などで毎日、忙しくしています。

 私は、昼間は、平和資料館・草の家(高知市升形)で働いています。受けつけ、アジア太平洋戦争のときの高知県についての聞き取りや調査、ニュースや小冊子の編集など、やりがいのある仕事です。

 夜は、県立高知短期大学社会科学科2年生です。
 前期の試験も八月五日で終わって、学校は、いま夏休みです。
 でも、なにやかやで、休み中でも、しょっちゅう学校に行っています。
 高知県当局は、まともな理由も示さないで私たちの学校をなくそうとしていて、その問題が大事な局面を迎えているのです。
 
 そんななかでも、夏休み中に韓国、台湾にいくことにしています。
 私は、将来、「大日本帝国が、この二つの地に与えた傷跡」を調べたいのですが、今回は、この二つの地の「歩き方」を学ぼうと思っています。
 
 ところで、来春は高知短期大学を卒業しますが、それと同時に、香川県さぬき市の高台にある徳島文理大学文学部文化財学科の3年生に編入することになりました(編入試験に合格しました)。
 妻と一緒に、さぬき市に行きたいのですが、妻は「ネコの世話があるから高知におる」なんていっていますので……。で、単身のアパート暮らしになります。

 編入までに、日本史の勉強、考古学の基礎知識の習得、測量や製図の基礎知識の習得、パワーポイントやビデオの編集の習得、英語の勉強、韓国語、中国語のイロハの勉強をやっておきたいと思っています。

 どこかで出会ったら声をかけてください。
 
 Eメール bqv01222@nifty.com

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2009.08.13

高知市 韓国映画「頑張れ! グムスン」をDVDで見ました。

 韓国映画「頑張れ! グムスン」をDVDで見ました。

 あまり期待していなかったけど、よかったんですよ。これが。どこが……といってもうまくいえないけど……。

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高知市 どうなっているの、幸福実現党。三百四十七人の衆院選立候補予定者の行方。

  幸福実現党(大川隆法総裁)が、本日八月十三日、衆院選の全立候補予定者の擁立を取りやめる検討に入ったといいます。本日中に結論を出し、あす記者会見で正式に発表します(以下、テレビニュースやインターネットでの情報です)。

 なお、同党は、 宗教法人「幸福の科学」を母体に今年五月に結成し、これまで三百選挙区と比例代表十一ブロックに三百四十七の候補者を発表していました。

 高知市では、昨日も同党の宣伝カーが回っていましたが……。

 なぜ……。

 

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2009.08.14

高知市 夜の学び舎、高知短期大学の学生たちのイメージイラスト。

Photo  僕たちの夜の学び舎、高知短期大学の学生のイメージイラストを描いてほしいと、ある女性にお願いしました。

 早速、描いてくれました。

 これです。

 なんか、すっごく、いい感じです。

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高知市 「つれ」の藤原尋子(ふじはら・ひろこ)、読売新聞、高知新聞に登場。

 本日(八月十四日)付の高知の読売新聞二十七面(十三版)トップに「つれ」・藤原尋子(ふじはら・ひろこ)と、その父の話が載りました。

 「父娘が伝える『海の特攻』 国に命ささげた青春 戦争は無残 体験記を出版へ」です。

 この記事を書いた人、読んだ人たちから午前中に電話をいただきました。大阪、富山の読売新聞にも載っているということです。ほかの県のにも載っていると思いますが……。

 この記事を書いた人、読んだ人たちから午前中に電話をいただきました。大阪、富山の読売新聞にも載っているということです。ほかの県のにも載っていると思いますが……。

 本日は尋子デーです。

 読売新聞の記事、ここに載っていました。

 http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090814-OYO1T00633.htm?from=top

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高知市 「ブログ高知」に、西森智恵子さんの創作漫画「7月のピアノ 1945年7月4日」(西森 智恵子。四十四ページ)をアップさせていただきました。

私の「ブログ高知」に、西森智恵子さんの創作漫画「7月のピアノ 1945年7月4日」(西森 智恵子。四十四ページ)をアップさせていただきました。

 昨夜からはじめて、いま、午後一時半に終了しました。

 ここです。 

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2009/08/post-890a.html

 西森さんの「まえがき」を、ご紹介します。

 この本を、お手に取っていただいて、ありがとうございます。

 私は、この高知で、生まれ、高知城を見ながら育ちました。

 それでいながら、今年2009年の春まで、高知の街がアメリカ軍の大空襲を受け、焼け野原にされたことは、その事実すら、ほとんど知りませんでした。おぼろげに、「高知の街は戦争で1回焼けた」といった程度の認識しかなかったのです。

 昨冬、ふとしたことから平和資料館・草の家(高知市升形九の11)の岡村正弘館長と知り合うことができました。

 そして、初めて高知を襲ったアメリカ軍B29重爆撃機125機によるじゅうたん爆撃で高知の街が一夜にして焼け野原となり、大勢の人々が、その犠牲になったという事実を知ることになったのです。

 この春ごろから岡村さんに高知大空襲の話を、何度も何度も聞かせていたただきました。

 そうして生まれたのが、岡村さんの体験を描いた漫画『ぼくが見た高知大空襲』(『戦争遺跡保存ネットワーク高知 高知の戦争 証言と調査』6号。2009年7月)です。

 その中で、ほかの方にもいろいろ高知大空襲の体験を聞かせていただきました。それらをもとに創作したのが、この『7月のピアノ 1945年7月4日 高知大空襲』です。

 戦争体験のない世代の私ですが、アメリカ軍の焼夷弾(しょういだん)や爆弾の降り注ぐ夏の真夜中の高知市に身をおいて描きました。

 現実に戦争を体験した方々から見ると、不満に思われる点も多いかとぞんじますが、私の「戦争は絶対にいけない。二度と繰り返してはならない」、「戦争は何も生み出さない。すべてを奪うだけだ」というというせいいっぱいの心からの思いがいっぱいいっぱいつまった漫画です。

 高知大空襲で犠牲となった方々の叫びとして読んでいたただければ幸いです。

  

  2009年7月10日

             西森 智恵子  

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2009.08.15

高知市 高知新聞朝刊で連載「『あのころ』を歩く 高知 戦争遺跡を訪ねて」が始まりました。

 高知新聞朝刊で連載「『あのころ』を歩く 高知 戦争遺跡を訪ねて」が始まりました。本日は「高知市池 基地壕」でした。

 写真は、高知市池の浦戸海軍航空隊の指揮所壕のもので、人が立って入れる大きさのコンクリート製のくぼみの所です。
 記事でも疑問を投げかけていますが、これは何のためのものだったのでしょうか。普通に考えると、歩哨(ほしょう)の兵が立っていた所ということでしょうが、こういうことが戦後生まれのわれわれにはわかりません。

 記事で、あらためて、いまの南国市の高知海軍航空隊と、ここ浦戸海軍航空隊が、一九四四年にできたものであることに注目しました。
 前者が三月、後者が十一月です。

 二つの隊の近くにある碑の文章を引用しておきます。

 【高知海軍航空隊】
  
 太平洋戦争が熾裂(しれつ)を極(きわ)めた昭和19年3月、日本海軍は偵察搭乗員育成の急務に迫られこの地に偵察練習航空隊として高知海軍航空隊を開設した。
 未曾有(みぞう)の国難に殉(じゅん)ぜんと、2000有余の隊員は日夜猛訓練に励み、訓練を終えた若鷲(わし)達は順次決戦の大空へと飛び立って行った。この間、襲来する敵機との対空戦闘や訓練中の事故等で、多くの隊員が犠牲となり無念の涙を呑(の)むという痛ましい事態もあった。然(しか)るに戦局は好転の兆(きざ)しを見せず、遂に最後の手段とも言うべき一機一艦体当りによる特別攻撃が決行されるに至り、20年3月、新たに「神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊」が編成され、訓練用として使用していた機上作業練習機「白菊」が次々とこの滑走路より飛び立ち南九州の鹿屋(かのや)特攻基地から沖縄作戦に参加した。20年5月より6月にわたる4次の攻撃で、26機、52名の隊員が敵艦船に壮烈(そうれつ=意気が盛んで激しいこと。勇ましくてりっぱなこと)な体当りを敢行し、多大の戦果を挙げたるも、惜(お)しいかな僅(わず)か17~8才の少年飛行兵を含む若く尊い生命が沖縄の空に散華(さんげ=「花を散らす意から」死ぬこと。特に、若くして戦死すること)した。
 20年8月、太平洋戦争終結とともに、僅か1年6ケ月をもって高知海軍航空隊は解隊され、数々の悲話を秘めた短くも悲しいその歴史を閉じたのである。
 今、嘗(かつ)ての同志この地に相寄り往時を偲(しの)び、再びこの悲劇を繰り返すことなことなく、永遠の平和を誓いながら、碑に鎮魂の文字を刻み、殉国(じゅんこく=国家のために身命を捨てて尽くすこと)の友の御冥福(めいふく)を祈る。

        昭和62年5月24日

        高知海軍航空隊員有志一同

 【浦戸海軍航空隊】

 当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である
 予科練とは飛行予科練習生の略称で旧海軍航空機搭乗員である
 この採用制度は昭和五年に制定され 全国より選ばれた少年達はよく鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮したが 連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊となり 祖国の繁栄と同胞の安泰のにみを願いつつ肉弾となり敵艦に突入し その八割が若桜で散華したのである
 浦戸航空隊は昭和十九年十一月一日開隊されたが 昭和二十年五月に入り愈々本土決戦必至の戦況のもと 練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し 身を以って国難に 殉ぜんと決するも予期せぬ終戦となり 当隊司令堀内豊秋大佐指揮のもと整然と復員し 戦後四十年の今日を迎えたのである
 浦戸海軍航空隊は消滅したが この地こそ我が青春の一時期を鍛え励み共に死守せんと決した終生忘れ難い心と励みのふるさとである 故に記念碑を建立し戦没者の冥福を祈り 戦争の悲惨さと平和と生命の尊さを後世に伝えるものである

 以下、ウィキメディアの浦戸海軍航空隊についてのデータから。

 昭和19年11月1日   高知県長浜町に落成・開隊。第19連合航空隊に編入。 松山海軍航空隊から甲飛第14期約1000名転入。
  昭和19年11月28日  甲飛第15期(奈良分遣隊入隊者)転入。
  昭和20年3月1日     19連空解散。呉鎮守府隷下第21連合航空隊に転籍。土佐湾沿岸防備隊を編制し、陣地構築に従事。
  昭和20年4月1日     甲飛第16期入隊(最後の予科練生)。
  昭和20年6月1日     予科練教育凍。陸戦・特攻訓練に教程変更。
  昭和20年7月15日    解隊。

  オリンピック作戦とコロネット作戦の合間に、陽動のための土佐湾上陸戦が起きることを想定し、海軍は土佐湾沿岸防備隊を編制して地上戦に備えることとなった。卒業を果たせなかった全生徒は、土佐湾沿岸防備隊に転属を命じられ、地上戦訓練を強いられた。
 アメリカ軍は、オリンピック作戦に先立っての陽動作戦として、8万人の大軍をもって1945年10月末に高知県に侵攻する「パステル作戦」を敢行することを決定していた。

  教育訓練部隊のため、航空機の配属はない。

  歴代司令
  別府明朋(昭和19年11月1日-)
  山田敏也(昭和20年3月1日-7月15日解隊)

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高知市 八月十四日、高知市で三六・五度を記録していました。

 昨日はクラクラしたはずです。
 高知市で、何と三六・五度を記録していました。

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2009.08.16

高知市 布師田の花火を田辺島で見ました。

115   八月十五日夜七時ころから、高知市田辺島の国分川の堤防で、この地域の老人会の納涼のつどい。

 十数人がつどいました。

 ところが、しばらくして激しい雨に。ビニールシートや傘でガードしながらやっていましたが、やまないので解散に。

 その後、しばらくしたらやみました。

 午後八時四十分から対岸の布師田で花火を打ち上げました。

 国分川に映ってすてきでした。

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高知市 県立追手前高校の屋上に残る奉安殿(ほうあんでん)跡。

 きょうの高知新聞朝刊の連載「『あのころ』を歩く 高知 戦争遺跡を訪ねて」は、県立追手前高校の屋上に残る奉安殿(ほうあんでん)跡でした。

 この高校で私は三年間を過ごしました。でも、屋上の奉安殿には覚えがありません。何度も屋上にはいっているのに……です。
 ものごとは見ようとしないと見えないものですね。

 何年か前に、これを見てびっくりしました。「こんなものが、こんなところに、いまでも」という感じでした。
 貴重な歴史の「証言者」です。

 【参考】

 奉安殿(ほうあんでん)

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。一部をカットしたり、行替えしたりしてあります。

 戦前戦中にかけて各地の学校で、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物のこと。
 御真影は大正~昭和期にかけて下賜されたため、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は昭和10年前後に活発化)。
 学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
 四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影への最敬礼と教育勅語の奉読が求められた。
 登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
 当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。
 しかし、奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の美談がいくつか伝えられている。
 このため、さらに万全を期すために、校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、独立した「奉安殿」の建築が進められていった。
 前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。
 ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造り、レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、意匠を凝らした物が多い。小形ながら頑丈無比の耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬよう荘厳重厚なデザインになるようにとの苦心の跡が垣間見えるようである。昭和8年には奉安殿の建築デザインに関するコンペも開かれている。
 ただし、このような頑丈な小建築には「湿気がこもる」という欠点があり、御真影に染みを作ってしまい学校が始末書を提出する羽目に陥ることもしばしばあった。
 昭和20年12月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止となった。
 奉安殿の多くは戦後解体・もしくは地中に埋められ、御真影も全て奉還された訳ではない。
 解体を免れた奉安殿は現在でも全国各地に少数ながら残っており、倉庫として使われていたり、荘厳な外観を生かして神社や納骨堂に転用されていたりする。
 沖縄の旧美里尋常高等小学校の奉安殿は半壊状態ながら、「戦争遺跡」として文化財に登録されている。
 戦前建築の古い校舎・講堂を持つ学校では、校舎内に設けられた「奉安庫」が残る所もある。
 奉安殿は、校舎内に作られることも、校舎外に独立して作られることもあったがいずれも校長室、職員室、宿直室その他に近い清浄な位置に設けられることとされた。そのうちのりは最小で奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であるとされた。構造は鉄筋コンクリート造、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらにキリまたはヒノキ板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることとされた。

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2009.08.17

高知市 御畳瀬(みませ)の海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地。ここまでしか、私にはわかっていません。

 何回、高知市御畳瀬(みませ)にいったことでしょうか。
 かつての、ここにあった海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地のことを調べるためです。第八特攻戦隊第二十三突撃隊第一二七部隊です。まだ、ほんの少ししかわかっていません。
 以下、いままでわかったことの概要です。

   一九四五年五月に配置されました。

 震洋は、日本海軍が開発した特攻兵器で、秘匿名称は「㊃金物」(マルヨンかなもの)です。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約ニ百五十グラム)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸しようとしている敵艦に体当たり攻撃することが目標とされました。のちに敵艦艇の機銃増加にともない、機銃を破壊、到達するために二発のロケット弾が搭載されました。また、二人乗りのタイプもあり、こちらには機銃一、二丁が搭載され、指揮官艇として使用されました。
 御畳瀬の基地には、震洋五型が配置されました(『須崎史談』の「須崎の第二十三突撃隊(四)」。橋田庫欣=くらよし。須崎史談会。一九九二年四月二十五日)。五型艇は、全長・六・五メートル、全幅・一・八六、全高・〇・九、排水量・二・二トン、機関・トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2、馬力・百三十四HP、最高速度(特別全力)・ニ十七ノット(三十ノット)、兵装・爆装ニ百五十キログラムg、ロサ弾×2、十三ミリ機銃×1、乗員・二人です。

 部隊長・蒔田稔(まきたみのる)さん(海軍予備学生ニ)、第二艇隊長・月森隆一さん(海軍予備学生四)、第三艇隊長・三浦五郎さん(予備生徒)。搭乗員は、乙種飛行予科練習生一九期(土浦空)。編成・九州の川棚臨時魚雷艇訓練所(九次)。
 終戦時に第二十三突撃隊のつくった「兵器、舟艇、軍需品、施設目録」によると、海岸べりに艇格納の壕が七つ(十一メートル、同、七・五メートル、十メートル、十メートル、ニ十メートル、七メートル、六メートル)、発電所の壕(四メートル)が一つありました。震洋艇は、となりの浦戸基地(回天、魚雷艇)の図に六隻が描かれています。

 隊長だった蒔田さん(東京都大田区在住)は、戦後、「隊員は百八十七人、うち搭乗員は五十二人、艇は二十五隻でした」「搭乗員のほとんどは当時十八歳前後の若者でした。時々、隊を組んで浦戸湾内で訓練をしました。終戦後の八月十六日の誤った出撃待機の命令には緊張したことを覚えています。夜須町の隊員たちが戦争が終わった後で亡くなったことは今でも残念なことだと思っています」と語っています(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。「夜須町の隊員たち……」は、高知県手結の第一二八部隊の隊員たちことです。出撃準備中、爆発、百二十六人が死亡しました。

 戦後、高知市長浜に住んだ中村浩さん(旧姓・東久部良=ありくぶら)も、この基地の整備隊員でした。
 隊員たちは、寺や民家に分宿しました。炊事場に取られた民家もありました。御畳瀬町に一つあった銭湯も「海軍営」のようになっていました。民家の分宿していた隊員が柱に刀傷をつけた跡の残っている民家もあります。
 中村さんの話では、無線室、兵舎、食糧庫など七つの壕がつくられる予定でしたが、艇格納庫の一部や弾薬庫を除き建設途中で、一度も出撃することなく終戦を迎えたといいます(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。

 いまでもいくつか壕が残っています。

 実は、ここに住んでいた人たちへのインタビューのテープがいくつかありますので、そのうち、それを聞き直して、この概要をふくらませていきたいと思っています。

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高知市 パソコンの「コピーと貼り付け」の機能についての若干の考察。

 今夜、年下の男性NAさんと話していたら、学生時代の歌の歌詞を集めてを歌集をつくったそうです。

 「インターネットで歌詞を調べて、それを打ち込んでいった」
 「えーっ、コピーせんかったが!」
 「なに、それ?」
 「僕がやるやったら、インターネットの歌詞をコピーして、テキストに貼り付て集めて、それをワードに貼り付けて編集し、歌集を探して、それで校正して……という感じでつくるが……」
 パソコンがあったので「実演」しました。
 「それを一か月前に知りたかった」

 「コピーと貼り付け」もそうですが、パソコンには便利な機能がたくさんあります。
 ワードの場合、25などの二桁の数字を一字分におさめる法や文字の横にフリガナをふる法など。
 実は、この二つは昨年度に知ったばかり。同級生や上級生の女性に教えてもらいました。それ以降、便利に使っています。

 ワードのことなら、お教えします。
 といっても僕の妻がです。
 いまパソコン教室でワードの初級を修了し、中級を習っています。

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2009.08.18

高知県 東津野村上空の空中戦、日本軍機の墜落……。

 昨夜、アジア太平洋戦争中の高知県東津野村のことをYAさん(女性。一九二五年六月十一日生まれ。八十四歳)に聞きました。そのなかに日本の軍機がアメリカ軍機に撃墜されたという話がありました。

 「何回か、大古味の近くの山の上からアメリカ軍の艦載機が飛んできて行き過ぎました。真黒な艦載機です。『ゴー、ゴー』と大きな音でした。そのころは『目立つき、白いものは着られん』といわれました。祖母の家に白壁の蔵がありましたが、それも炭で黒くぬってありました。炭ですから、むらむらでしたが……。

 ある日、二機の飛行機が飛んでいました。一機が、別の一機を撃ちました。撃たれた飛行機は天狗高原の手前に落ちました。この様子を多くの人が新田(しんでん)のまちから見ていました。村の人が駆けつけました。落ちたのは日本の飛行機でした。一人か二人かわかりませんが、若い人が乗っていたそうです。飛行機にはきれいなままの白いおむすびがあったそうです。それを見た人は『何ともあわれなかった』といっていました。遺体は、山の上の新田(しんでん)中学校で火葬したそうです。

 ある日、上空に飛行機が飛んで来ました。私は、それを事業所の庭で見ていました。ビラが舞い降りてきたので、『こら、なんじゃろう』とワーワーゆうて、みんなで拾いました。その白い紙には、前に出した両手をひもでくくった絵が描かれていました。両手の爪先から血がしたたっていました。『この戦争は、もうやめないかん』という意味のことが書いてありました。敵、アメリカ軍ががまいたものとわかりました。誰かが『こりゃぁ、おおごとじゃ。(ビラに)毒がついているかもわからん。手を洗え』といいました。急いで、水でどんどん手をあらいました。石鹸は、そのころにはありませんでした」

 この墜落機のことは高知県高岡郡東津野村教育委員会編『東津野村史』(高知県高岡郡東津野村教育委員会。一九八九年三月))に書かれています。
 「この戦中本村に直接関係のあったでき事は枝ヶ谷に撃墜された高田機のことである。
 枝ヶ谷友軍機殉難について
 昭和二十年三月十九日彼岸の墓参日であった。轟然たる爆音と共に不入の上の方から西に向かう飛行機の編隊その数何十機とも知れない--「日本に飛行機がないないというけんど、えらいもんやのうし、こりゃ日本のとっておきの飛行機じゃろうか。」と見ていると、西方より只(ただ)一機その編隊に突入した飛行機がある。敵か味方か大胆な行動よと見る中『パンパンパン』どっちの撃った音かわからない銃声がした。と見る見るその機体は火を吹いて空中分解をして墜落した。
 落ちた所は現在天狗高原の登山道山王の岩屋の標示ある所の近くで駆けつけた村民はそれが友軍機であるのに驚きその天晴(あっぱれ)な勇戦振りを讃え且(か)つその戦死を悼(いた)んだ。
 機体はサンノヲ一三ノ一八番地にその残骸(ざんがい)を残し影浦無線士は一番上方セニハナ三七〇八ノ五番地に、機長高田少尉はサンノヲ一三ノ二六番地、遠藤操縦士はその下サンノヲ一三ノニ二番地にその死体を残した。(現在この附近に「三魂の塔」が建ってる。)
 その時この死体は現在東津野中学校々庭になっている所で荼毘(だび)に付して、その遺骨を清福寺で供養したが二~三日の後軍に移管した。」

 ビラのことですが、この図柄でしたら、一九四五年七月末に投下された「国民の血に染められた軍閥の手を縛れ!」という文字が書かれたビラだと思われます。

 ビラの写真が平和資料館・草の家(高知市)のホームページに載っています。ここです。

 ttp://ha1.seikyou.ne.jp/home/Shigeo.Nishimori/material/material3.htm

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高知県 墜落機は偵察機「彩雲」だったようです。

 「三魂の塔」のことを……と思ってインターネットを探していて、つぎのページにいきつきました。

http://www.geocities.jp/bane2161/index.html

 以下のような記事がありました。

 松山上空の大空中戦

 昭和20年3月19日午前5時、松山基地指揮所前に全搭乗員が整列。
源田司令が訓示。
 「今朝、敵機動部隊の来襲は必至だ。わが剣部隊は、この敵機を迎え撃って痛撃を与える。目標は敵の戦闘機隊だ。爆撃機などには目もくれるな。一機でも多くの敵戦闘機を射ち落とすようにこころがけてくれ。」
 午前5時45分、4機の偵察機「彩雲」暁の闇に発進。
 午前6時50分、「彩雲」より「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30浬」、「敵大編隊、四国南岸ヲ北上中」との情報が相次いで入電。
 待機中の「紫電改」54機「紫電」8機が発進。
 午前7時10分頃、松山上空において呉方面に向かう敵大編隊(300機以上)と激しい空中戦を展開。
 大乱戦の末、確認された戦果はF6FおよびF4U戦闘機5機撃墜合計57機の大戦果をあげた。
 当方の損害は自爆・未帰還16機・大破5機であった。

 「彩雲の壮烈な最期」

 この華やかな戦果のかげにいくつかのエピソードがある。
 そのひとつは偵察機「彩雲」の4番機の活躍である。
 この機には高田少尉を機長に、操縦員遠藤上飛曹、電信員影浦上飛曹の3人が乗っていた。
 高田機は敵大編隊を発見して第一報を送り、エンジン不調のため帰路についたが、さらに数を増した敵大編隊に遭遇し送信後空中戦となった。
 単機で大編隊に立ち向かったが、敵の集中砲火をあび被弾した高田機は、白煙をはきながら敵戦闘機に体当たりを敢行、さらに余勢をかって他の一機にも体当たりし散華した。
 見事に刺しちがえた高田機の壮烈な戦いぶりは地上からも望見され、当時の感銘を忘れえぬ人々によって、昭和49年春、自爆あとに記念碑が建てられた。
 愛媛県境に近い高知県高岡郡東津野村。
 「三魂の塔」と名づけられた自然石のその碑は、四国カルストの天狗高原を背景に、太平洋に向かっていまなお厳然と立っている。

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高知市 藤原尋子、矢野統一の「父娘が伝える『海の特攻』……」。おかげでいろんな方が激励してくださっています。 

 八月十四日の読売新聞朝刊が、妻・藤原尋子(ふじはら・ひろこ)と父・矢野統一[やの・とういち]のことを取り上げてくれました。
 二十七面トップで、見出しは「父娘が伝える『海の特攻』 国に命ささげた青春 戦争は無残 体験記を出版へです。

 その日のうちから、富山県、東京都、埼玉県、大阪府、兵庫県の全国の読まれた方から電話、手紙、はがき、メールで激励や問い合わせがありました。

 その中には、いまは亡き夫が矢野統一と同じく小豆島で蛟竜(こうりゅう)の艇長をしていたという女性や蛟竜の艇付をしていたという男性もいました。

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高知市 正露丸(せいろがん)、征露丸……。そのいわれは……。 

 「腹の調子が悪いが……」
 「正露丸(せいろがん)、飲みや」
 午後の夫と妻の対話です。

 ところで正露丸って……。

 ありました。 

 正露丸
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。

  明治のはじめ、日清戦争において不衛生な水源による伝染病に悩まされた帝国陸軍は、感染症の対策に取り組んでいた。陸軍軍医学校の教官であった戸塚機知三等軍医正は、1903年にクレオソート剤がチフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見する(これに関しては異説もあり、正露丸の元祖だと主張している大幸薬品は、陸軍よりも1年早い1902年に、大阪の薬商である中島佐一氏が征露丸を開発して販売を開始したと主張している)。
 ドイツ医学に傾倒していた森林太郎(森鴎外)ら陸軍の軍医たちは、チフス以上に多くの将兵を失う原因となった脚気もまた、未知の微生物による感染症であろうという仮説を持っていた。そのため、強力な殺菌力を持つクレオソートは脚気に対しても有効であるに違いないと考えて、日露戦争に赴く将兵にこれを大量に配付し、連日服用させることとした。ちなみに、当時の陸軍におけるこの丸薬の正式名称は「クレオソート丸」であり、征露丸はあくまでも俗称である。「征露」という言葉はロシアをやっつけるという意味で、その当時の流行語であった。
  しかし、まだ予防的投薬という概念も一般には浸透していない時代のことであり、特異な臭気を放つ得体の知れない丸薬は敬遠されて、なかなか指示通りには飲んでもらうことがなかった。そこで軍首脳部は一計を案じ、その服薬を「陛下ノゴ希望ニヨリ」と明治天皇の名を借りて奨励することとした。この機転によって、コンプライアンスは著しく向上し、下痢や腹痛により戦線を離脱する兵士は激減したといわれる。しかし、当然のことながら軍医の期待した、脚気菌(そもそも存在しない)に対する効果は一向にあらわれなかった。戦意高揚を重視してビタミンに欠ける白米中心の美食(当時としては)にこだわった陸軍は、日露戦争においても全将兵のおよそ3人に1人に相当する25万人が脚気に倒れ、27,800人が死亡した。一方で海軍は、早くから脚気が栄養障害に起因する疾患であると見抜き糧食にパンや麦飯を採用し、脚気による戦病死者を一人も出していない。
  このように、脚気に対してはまったく無力であったものの、征露丸の止瀉作用や歯髄鎮静効果は、帰還した軍人たちの体験談として多少の誇張も交えて伝えられた。また、戦勝ムードの中で命名の妙も手伝い、「ロシアを倒した万能薬」は多くのメーカーから競い合うように製造販売され、日本独自の国民薬として普及していった。
 軍の装備品としての配給は、日露戦争終結後の1906年に廃止されたが、その後も継続して常備薬として利用されてきた。
  日露戦争ならびに第二次世界大戦終結後、国際信義上「征」の字を使うことには好ましくないとの行政指導があり、「正露丸」と改められた。しかし、奈良県の日本医薬品製造株式会社だけは、現在も一貫して「征露丸」の名前で販売を続けている。
  1954年に、業界第一位で中島佐一の「忠勇征露丸」製造販売権を継承する大幸薬品(大阪府吹田市)が商標登録を行い、「正露丸」の名称の独占的使用権を主張した。しかし、クレオソートの製法を独自開発し、物資不足の第二次大戦中も軍に征露丸の納入を続けた和泉薬品工業などからの反発を受けた。そして20年にわたる裁判の結果、1974年3月に「正露丸はクレオソートを主材とした整腸剤の一般的な名称として国民に認識されており、これを固有の商標とした特許庁の審決を取り消す」という最高裁判決が確定した。
  正露丸の商標は現在も大幸薬品が所有しているが、他社が正露丸の名で販売しても法的に問題はない。「アスピリン」などと同様に、いわゆるパブリック・ドメインとしての地位が確立された、数少ない医薬品のひとつと言えよう。

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2009.08.23

僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ① 日本側から二十六人が参加。

 二〇〇九年度高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流に参加しました。
 今回は、韓国を訪問する番です。八月十九日~二十三日にプサン、チンジュなどにいきました。
 日本側は、教官三人、OB十人、学生十三人の計二十六人でした。
 学生で男性は僕だけです。
  学生のうち僕とMAさんのほかは、みな韓国語が達者です。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ② かつては百済(くだら・くたら)の一部でした。

 晋州市は、慶尚南道にあります。
 人口は三十四万八百十六人です(ニ〇〇二年)。
 慶尚南道西部の教育中心地として大学が六校置かれていて、人口の約三割を学生が占めています。

 伽時代には古寧伽の古都であり、三国時代には百済(くだら。くたら)の居烈城でした。
 統一新羅時代には居烈州、菁州、康州と改称しました。
 高麗太祖ニ十三年(九四〇年)に初めて晋州と改称されました。

 百済は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家です(三四六年~六六〇年)。
 朝鮮半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代といいいます。
 新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられました。
 百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急きょ、帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉宮に遷りました。
 帰国した豊璋は百済王に推戴されましたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きました。
 やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、六六三年、倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦におよびました(白村江のたたかい)。
 これに敗れた倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族をともなって帰国させました。
 豊璋は高句麗に逃れましたが、高句麗もまた六六八年に唐の軍門に降ることになります。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ③  「チョヌン メイル ハングゴ マルハゴ イッスニダ……」。

 まずは僕の韓国語について。

 関西空港で飛行機を待ち合わせているとき、年下のNAさんに教えてもらって、チンジュ市での韓国語のあいさつ文をつくりました。
 カタカナです。

 アンニョ ハシムニカ。
 チョヌン フジハラヨシカズ ラゴハンニダ。
 チョヌン メイル ハングゴ マルハゴ イッスニダ。
 ク ハングゴヌン クニョ インミダ。
 チェ コャンイ イルム スムニダ。
 クニョヤーーー。
 チャル プタカムニダ。
 カムサハムニダ。

 私は毎日、韓国語を勉強しています。

 その韓国語はクニョ(彼女)です。

 それは、うちのネコの名前です。

 「クニョやー」

 というような意味です。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ④ ホストは四十九歳の大学院二年生。

 十九日、韓国晋州(チンジュ)産業大学でホームスティのホストと会いました。

 土木関係の個人経営の社長で、四十九歳。大学院の二年生です。趣味は海釣り。
 妻は、会社員。
 長女は、十六歳で中学三年生。
 二女は、十四歳で中学一年生。
 長男は、十二歳で小学五年生。
 ちなみに韓国は数え年です。

 僕は韓国語がダメ。ホストは、日本語ができません。
 筆談、ボディアクション、英語、そして、学生仲間による通訳と苦しみました。

 今度来るときには、せめて「聞き取り」ができるようになっていたい。

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2009.08.24

僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ⑤ キムデジュン元大統領へのメッセージ。

 今回の訪問に際して、こんなメッセージを用意しました。
 しかし、発信するチャンスがありませんでした。
 でも、メモをしておきます。

 今回の訪問は、ちょうどキムデジュン元大統領の死去と重なりました。
 一九七三年、東京から韓国のKCIAに彼が拉致(らち)されたころから、私は、この人の行方を強い関心で見つめてきました。
 彼は、一九八〇年には、光州事件で死刑判決を受けました。
 そして、その後、大統領になり、この国の民主化をなしとげました。
 たとえば、いま、私たちが韓国の生きいきした自由な発想の映画を見ることができるのも、彼や、彼らの仲間たち、多くの民主と進歩のためにたたかった国民のおかげだと思っています。
 強圧の時代を生き抜き、民主的な韓国のリーダーをつとめたキムデジュンさん。
 同じ時代に世界を変えようとして生きた人間として、あなたの生きた、その生き方に惜しみない拍手を送ります。

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2009.08.26

僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ⑥ プレゼントされた四ギガのUSBメモリーはベリーグッド。

 八月十八日夕、チンジュ市内でチンジュ産業大学側との夕食会。

 そのときチンジュ産業大学から、高知短期大学側全員にプレゼントをいただきました。チンジュ産業大学のネーム入りの四ギガのUSBメモリーです。
 ふたの部分が本体にくっついていてクルクルとまわるものです。持ち歩くときも、ふた部分をクルリとまわせば、ちゃんとふたになります。

 「こんなのがあればいいなぁ」と思っていたものが目の前に出現したという感じです。
 「うっれっしーーっ」という感じでした。

 この夜は、一日目のホームスティでした。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ⑦ 落花岩(ナックァアム)から飛び降りた宮女たちのこと。

 八月二十日。韓国二日目はワクワクコースでした。

 まずは、チンジュ産業大学の大型バスで忠清南道(チュンチョンナムド)扶余市(プヨし)の百済(ペクチェ)文化探訪です。
 かねてから関心を持っていたことです。
 古代朝鮮の百済の古都・泗沘(サビ)の泗沘城や落花岩(ナックァアム)を見て、国立扶余博物館、百済古墳を観覧するというのです。

 泗沘城では、市の案内してくれる若い女性が待ってくれていました。りゅうちょうな日本語です。

 泗沘城をヘーへーいって登り、下って落花岩を見ました。
 落花岩の所は、七十メートルほどの崖です。
 下は白馬江(ペンマガン)です。
 百済が新羅(シルラ)と唐の連合軍に滅ぼされました。追い詰められた三千人の宮女が、この岩から次々に白馬江に飛び込み亡くなったというのです。

 ここに立ってから、落花岩のまわりを遊覧船で回りました。

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2009.08.30

僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ⑧ 国立扶余(ふよ。プヨ)博物館の金銅観世音菩薩立像。

Photo

 

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                                                                                                              八月二十日、落花岩のあとは国立扶余(ふよ。プヨ)博物館 (忠清南道扶余郡扶余邑官北里ニ八の四)の見学でした。
 同館は、扶余の市街地からみて南東方向にある錦城のふもとにあります。扶余市内、周辺地域から出土した遺物を中心に資料を収蔵しているといいます。その中心は百済時代の出土品が多い。

 金銅観世音菩薩立像(高さニ十一・一センチメートル。国宝ニ百九十三号)に出合って、この前に釘付けになりました。何十枚も写真を撮っては消ししたりしているとOBのOさん(女性)が「あれも素敵だから撮っておいて」と呼びに来ました。

 いざなわれた方へ行くとすごいものが展示されていました。
 百済金銅大香炉(国宝ニ百八十七号)です。
 百済人が香をたくのに用いたものです。高さは六十ニ・五センチメートル。高度な金属加工技術が生み出した作品です。扶余の陵山里(ヌンサンリ)寺址の工房址から発掘されました。
 もちろんバシャバシャしました。これは光線の具合がよくって仏像よりきれいに撮れました。

 やっほーーっ。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ⑨ 国立扶余(ふよ。プヨ)博物館の七支刀(ななつさやのたち)のコピー。

 国立扶余(ふよ。プヨ)博物館、もう一つ印象的な物がありました。
 あの大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に伝えられてきた七支刀(ななつさやのたち。しちしとう。全長七十四・八センチメートル)のコピーが展示されていたのです。

 鉄製の刀身の両側から枝が三本ずつ互い違いに出ています。
 刀身に、裏表にあわせて六十一文字からなる銘文が金象嵌(きんそうがん)でほどこされていることが発見され、以来、銘文の解釈・判読を巡って論争が続いています。
 『日本書紀』に七枝刀の記述があり、四世紀に百済から倭(古代日本)に贈られたものとされています。
 その関係で、ここ元の百済の地の博物館に、これがあるのでしょう。

 何か、「古代史の舞台にいま立っているんだなぁ」という思いが込み上げててきました。
 この前から吉田晶さんの『七支刀の謎を解く 四世紀後半の百済と倭』( 新日本出版社。二〇〇一年)を読んでいる最中でしたので感激もひとしおでした。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 ⑩ 「アイ コール クニョー エブリディ オールディ」。

 八月二十日夜、チンジュ市のレストランで晋州(チンジュ)産業大学主催の歓迎会が開かれました。

 韓国の楽器の演奏と踊りの公演がありました。
 女性一人の踊りが素敵でした。

 この後、日本側は代表のYO(女性)があいさつしたあと、NAさん(女性)の指揮で全員が歌を三曲歌いました。
 歌は日本の「故郷」、韓国の「故郷の春」、「母よ。姉よ」、「アリラン」。

 そして、日本側が、それぞれ自己紹介。
 僕も、メモを見ながら韓国語であいさつしました。
 しかし、みんなから、「クニョって何だ?」「わからない」という声が飛びました。
 補足は、変な英語でごまかしました。

 クニョ(は韓国語で) イズ (英語でいえば)シー。
 クニョ イズ マイ キャットズ ネイム。
 アイ コール クニョー エブリディ オールディ。  

 僕の韓国語は、まだまだ伝えることができません。

 ともかく、うちの三毛猫の名前は「国際的」になりました。

 パチパチ。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 11 チャン・ユンジョンさんの「オモナ(あら、まあ)」。

 歓迎会では、その後、双方の歌の交歓。
 韓国側が集団で歌った青春讃歌のような歌が素敵でした。
 チャン・ユンジョンさんの「オモナ(あら、まあ)」のようです。
 これは、私も歌ってみたいなという歌でした。

 日本に帰ってからインターネットで探してみたら、ここで歌を聞くことができました。

 http://kozu127.blog99.fc2.com/blog-entry-423.html

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 12 牛浦(ウポ)湿原を切り取った人たち。

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 韓国三日目の八月二十一日の午前は、慶尚南道の昌寧郡(チャンニョン=グン)の牛浦(ウポ)湿原の見学です。いくつかの湿地群の総称です。湿地群の中で最大の沼の名称でもあり、他に木浦(モクポ)、サジ浦、チョクチボルといった湿地も含みます。ニ・一三平方キロメートルにおよびます。

 専門家が案内してくれました。
 湿原にシロサギがいました。
 湿原のはずれに土手があり、その向こう側は広大な田畑になっています。
 大日本帝国が、朝鮮を植民地にしていたころの、一九三〇年、日本軍のためのコメをつくるために、湿原の中にこの土手がつくられ、それまでの湿原の半分以上が田んぼにされたといいます。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 13  「わーっ、円墳。円墳。円墳。円墳……」。

 午後は、慶尚南道昌寧郡昌寧邑校里の昌寧博物館へ向かいます。

 まず、校洞古墳群を見学しました。
 丘の上にいくつもの円墳があります。

 そして、近くの昌寧博物館へ。同館の韓国旗が弔意をしめす半旗になっていました。

 ここを見学した後、プサンへ。
 ここでは、ホテル宿泊です。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 14 「メガ津波 プサン来襲」。

 八月二十二日、プサンで、自由時間がありました。
 二グループが集団行動しました。
 しかし、私は一人で行動しました。

 午前十時前にホテルを出発で近くのロッテシネマにいきました。
 ビルの三階が切符売り場。まわりには軽飲食コーナーがあります。ロッテトウキョウの回転ずし店も!
  「海雲台(ヘウンデ)」(監督・ユン・ジェギュン。製作・JK FILM、共同製・作CJエンターテイメント)の切符を買いました。午前十時五十分からです。 
 四階は待ち合わせフロアーと映画館。映画館は七つあります。
 やっと入れる時間になりました。一番館です。
 ぜんぶ指定席でした。
 まずはコマーシャル。資生堂のもありました。
 飲食禁止の表示がありましたが、それぞれに飲食しています。
 さて、「海雲台(ヘウンデ)」が始まりました。
 私がタイトルをつけるとすると「メガ津波 プサン来襲」。
 対馬の火山爆発の余波で時速七百~八百キロメートル、波は百メートルを越す津波が高層ビルが林立するプサンの海岸地帯を襲います。このストーリーに父娘の愛、男女の愛と葛藤(かっとう)、新たな開発とそのに反発する人々がからみます。
 こんなテーマですがユーモラスなシーンが各所にあります。アクションで分かるシーンにはほかの観客と一緒に笑えますが、言葉のやりとりで観客が笑っているときには対応不可。韓国語劣等性のつらさです。
 ヒロインのハ・ジウォンさんは不思議な魅力のある人でした。

 映画が終わってから、もう一度入りなおして同じ映画を見ました。
 三人のヒロインが出てくるのですが、彼女たちとの人間関係がわかりにくかったのと、ハ・ジウォンさんの表情をよく見て、日本に帰ってから粘土で彼女の顔をつくってみたいと思ったからです。

 日本へ帰ってからインターネットを見ました。
 ハ・ジウォンさんについて、こんなコメントがありました。
 「 いつも何か秘めているような力強い目と長い黒髪が魅力的」
 映画「恋する神父」にも出ていたということなので、以前に彼女を見ているはずなのですが、「この顔」には見覚えがありませんでした。やはり、「海雲台(ヘウンデ)」の役は、いい役だったのだと思います。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 15 加藤清正がプサンに来ていました。

 八月二十二日、プサンの夕食の後は、地下鉄でホテルへ。

 その途中、韓国の人が「プサンには加藤清正がきていました」。
 そういえば、そうでした。
 豊臣秀吉の最初の朝鮮侵略の、一五九二年の文禄の役のときのことです。
 加藤清正は、小西行長(こにし・ゆきなが)、黒田長政らと先陣をつとめ朝鮮に出兵、小西は四月十二日に、清正は同月十七日にプサンに上陸、五月三日に京城を攻略。朝鮮国の王子の臨海君・順和君を追い咸鏡道に侵入、七月二十三日、会寧(かいねい)で捕えます。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 16  韓国でもっともに残った人のこと。

 まず、韓国でもっともに残った人について書きます。
 キメ空港に着いて以来、ずーっと私たちの面倒をみてくれた男性のことです。

 一九五三年生まれ。八月二十一日に大学院修士課程を卒業しました。
 長女(三十二歳)は、ソウルで本のデザイナー。長男(三十歳)はオーストラリア在住。二男(二十九歳)は、リビア在住。
 この人、誠実に歓迎のために働き、女性にも男性にもとっても優しくしてくれました。

 この人に接していて「僕も、こんなふうになりたいな」と思いました。

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僕の高知短期大学・韓国晋州(チンジュ)産業大学社会人学生交流 17 役にたった韓国語。

 以下、役にたった韓国語。

 テハッキョ  大学校
 トボク  土木
 セミィ  セミ
 ホリョ  湖
 ホテリ  ホテル
 アレ  妻
 タリ  女の子ども
 アドル  息子
 チョンジュハッチン  小学生
 チュハクセン  中学生
 コキュジン  高校生 
 ネイルン アチム  明日の朝
 イルゴプ  七
 ヨルドイ  八
 テクシー  タクシー
 マシッソヨ  おいしい
 シャジン ケンチャナヨ?  写真、撮っていいですか?
 ヨンファカン  映画館
 ヨンファルン プル カダ  映画を見に行く
 センメクチュ ジュセヨ  生ビール、ください
 ハンジャン ジュセヨ  一杯、ください
 ソジュ  焼酎

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