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2009.08.15

高知市 高知新聞朝刊で連載「『あのころ』を歩く 高知 戦争遺跡を訪ねて」が始まりました。

 高知新聞朝刊で連載「『あのころ』を歩く 高知 戦争遺跡を訪ねて」が始まりました。本日は「高知市池 基地壕」でした。

 写真は、高知市池の浦戸海軍航空隊の指揮所壕のもので、人が立って入れる大きさのコンクリート製のくぼみの所です。
 記事でも疑問を投げかけていますが、これは何のためのものだったのでしょうか。普通に考えると、歩哨(ほしょう)の兵が立っていた所ということでしょうが、こういうことが戦後生まれのわれわれにはわかりません。

 記事で、あらためて、いまの南国市の高知海軍航空隊と、ここ浦戸海軍航空隊が、一九四四年にできたものであることに注目しました。
 前者が三月、後者が十一月です。

 二つの隊の近くにある碑の文章を引用しておきます。

 【高知海軍航空隊】
  
 太平洋戦争が熾裂(しれつ)を極(きわ)めた昭和19年3月、日本海軍は偵察搭乗員育成の急務に迫られこの地に偵察練習航空隊として高知海軍航空隊を開設した。
 未曾有(みぞう)の国難に殉(じゅん)ぜんと、2000有余の隊員は日夜猛訓練に励み、訓練を終えた若鷲(わし)達は順次決戦の大空へと飛び立って行った。この間、襲来する敵機との対空戦闘や訓練中の事故等で、多くの隊員が犠牲となり無念の涙を呑(の)むという痛ましい事態もあった。然(しか)るに戦局は好転の兆(きざ)しを見せず、遂に最後の手段とも言うべき一機一艦体当りによる特別攻撃が決行されるに至り、20年3月、新たに「神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊」が編成され、訓練用として使用していた機上作業練習機「白菊」が次々とこの滑走路より飛び立ち南九州の鹿屋(かのや)特攻基地から沖縄作戦に参加した。20年5月より6月にわたる4次の攻撃で、26機、52名の隊員が敵艦船に壮烈(そうれつ=意気が盛んで激しいこと。勇ましくてりっぱなこと)な体当りを敢行し、多大の戦果を挙げたるも、惜(お)しいかな僅(わず)か17~8才の少年飛行兵を含む若く尊い生命が沖縄の空に散華(さんげ=「花を散らす意から」死ぬこと。特に、若くして戦死すること)した。
 20年8月、太平洋戦争終結とともに、僅か1年6ケ月をもって高知海軍航空隊は解隊され、数々の悲話を秘めた短くも悲しいその歴史を閉じたのである。
 今、嘗(かつ)ての同志この地に相寄り往時を偲(しの)び、再びこの悲劇を繰り返すことなことなく、永遠の平和を誓いながら、碑に鎮魂の文字を刻み、殉国(じゅんこく=国家のために身命を捨てて尽くすこと)の友の御冥福(めいふく)を祈る。

        昭和62年5月24日

        高知海軍航空隊員有志一同

 【浦戸海軍航空隊】

 当地は旧浦戸海軍航空隊の隊門跡である
 予科練とは飛行予科練習生の略称で旧海軍航空機搭乗員である
 この採用制度は昭和五年に制定され 全国より選ばれた少年達はよく鉄石の訓練に耐え無敵の空威を発揮したが 連合軍沖縄に迫るや全員特別攻撃隊となり 祖国の繁栄と同胞の安泰のにみを願いつつ肉弾となり敵艦に突入し その八割が若桜で散華したのである
 浦戸航空隊は昭和十九年十一月一日開隊されたが 昭和二十年五月に入り愈々本土決戦必至の戦況のもと 練習生は敵を水際に撃砕すべく日夜陸戦特攻訓練に終始し 身を以って国難に 殉ぜんと決するも予期せぬ終戦となり 当隊司令堀内豊秋大佐指揮のもと整然と復員し 戦後四十年の今日を迎えたのである
 浦戸海軍航空隊は消滅したが この地こそ我が青春の一時期を鍛え励み共に死守せんと決した終生忘れ難い心と励みのふるさとである 故に記念碑を建立し戦没者の冥福を祈り 戦争の悲惨さと平和と生命の尊さを後世に伝えるものである

 以下、ウィキメディアの浦戸海軍航空隊についてのデータから。

 昭和19年11月1日   高知県長浜町に落成・開隊。第19連合航空隊に編入。 松山海軍航空隊から甲飛第14期約1000名転入。
  昭和19年11月28日  甲飛第15期(奈良分遣隊入隊者)転入。
  昭和20年3月1日     19連空解散。呉鎮守府隷下第21連合航空隊に転籍。土佐湾沿岸防備隊を編制し、陣地構築に従事。
  昭和20年4月1日     甲飛第16期入隊(最後の予科練生)。
  昭和20年6月1日     予科練教育凍。陸戦・特攻訓練に教程変更。
  昭和20年7月15日    解隊。

  オリンピック作戦とコロネット作戦の合間に、陽動のための土佐湾上陸戦が起きることを想定し、海軍は土佐湾沿岸防備隊を編制して地上戦に備えることとなった。卒業を果たせなかった全生徒は、土佐湾沿岸防備隊に転属を命じられ、地上戦訓練を強いられた。
 アメリカ軍は、オリンピック作戦に先立っての陽動作戦として、8万人の大軍をもって1945年10月末に高知県に侵攻する「パステル作戦」を敢行することを決定していた。

  教育訓練部隊のため、航空機の配属はない。

  歴代司令
  別府明朋(昭和19年11月1日-)
  山田敏也(昭和20年3月1日-7月15日解隊)

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