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2009.08.16

高知市 県立追手前高校の屋上に残る奉安殿(ほうあんでん)跡。

 きょうの高知新聞朝刊の連載「『あのころ』を歩く 高知 戦争遺跡を訪ねて」は、県立追手前高校の屋上に残る奉安殿(ほうあんでん)跡でした。

 この高校で私は三年間を過ごしました。でも、屋上の奉安殿には覚えがありません。何度も屋上にはいっているのに……です。
 ものごとは見ようとしないと見えないものですね。

 何年か前に、これを見てびっくりしました。「こんなものが、こんなところに、いまでも」という感じでした。
 貴重な歴史の「証言者」です。

 【参考】

 奉安殿(ほうあんでん)

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。一部をカットしたり、行替えしたりしてあります。

 戦前戦中にかけて各地の学校で、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物のこと。
 御真影は大正~昭和期にかけて下賜されたため、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は昭和10年前後に活発化)。
 学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
 四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影への最敬礼と教育勅語の奉読が求められた。
 登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
 当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。
 しかし、奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の美談がいくつか伝えられている。
 このため、さらに万全を期すために、校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、独立した「奉安殿」の建築が進められていった。
 前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。
 ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造り、レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、意匠を凝らした物が多い。小形ながら頑丈無比の耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬよう荘厳重厚なデザインになるようにとの苦心の跡が垣間見えるようである。昭和8年には奉安殿の建築デザインに関するコンペも開かれている。
 ただし、このような頑丈な小建築には「湿気がこもる」という欠点があり、御真影に染みを作ってしまい学校が始末書を提出する羽目に陥ることもしばしばあった。
 昭和20年12月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止となった。
 奉安殿の多くは戦後解体・もしくは地中に埋められ、御真影も全て奉還された訳ではない。
 解体を免れた奉安殿は現在でも全国各地に少数ながら残っており、倉庫として使われていたり、荘厳な外観を生かして神社や納骨堂に転用されていたりする。
 沖縄の旧美里尋常高等小学校の奉安殿は半壊状態ながら、「戦争遺跡」として文化財に登録されている。
 戦前建築の古い校舎・講堂を持つ学校では、校舎内に設けられた「奉安庫」が残る所もある。
 奉安殿は、校舎内に作られることも、校舎外に独立して作られることもあったがいずれも校長室、職員室、宿直室その他に近い清浄な位置に設けられることとされた。そのうちのりは最小で奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であるとされた。構造は鉄筋コンクリート造、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらにキリまたはヒノキ板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることとされた。

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