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2009.10.11

『歌集 永国寺町の夜の教室から』 藤原義一   【付録】

 高知市御畳瀬(みませ)の海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地

 何回、高知市御畳瀬(みませ)にいったことでしょうか。
 かつての、ここにあった海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地のことを調べるためです。第八特攻戦隊第二十三突撃隊第一二七部隊です。まだ、ほんの少ししかわかっていません。
 以下、いままでわかったことの概要です。
   一九四五年五月に配置されました。
 震洋は、日本海軍が開発した特攻兵器で、秘匿名称は「㊃金物」(マルヨンかなもの)です。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約ニ百五十グラム)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸しようとしている敵艦に体当たり攻撃することが目標とされました。のちに敵艦艇の機銃増加にともない、機銃を破壊、到達するために二発のロケット弾が搭載されました。また、二人乗りのタイプもあり、こちらには機銃一、二丁が搭載され、指揮官艇として使用されました。
 御畳瀬の基地には、震洋五型が配置されました(『須崎史談』の「須崎の第二十三突撃隊(四)」。橋田庫欣=くらよし。須崎史談会。一九九二年四月二十五日)。五型艇は、全長・六・五メートル、全幅・一・八六、全高・〇・九、排水量・二・二トン、機関・トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2、馬力・百三十四HP、最高速度(特別全力)・ニ十七ノット(三十ノット)、兵装・爆装ニ百五十キログラムg、ロサ弾×2、十三ミリ機銃×1、乗員・二人です。
 部隊長・蒔田稔(まきたみのる)さん(海軍予備学生ニ)、第二艇隊長・月森隆一さん(海軍予備学生四)、第三艇隊長・三浦五郎さん(予備生徒)。搭乗員は、乙種飛行予科練習生一九期(土浦空)。編成・九州の川棚臨時魚雷艇訓練所(九次)。
 終戦時に第二十三突撃隊のつくった「兵器、舟艇、軍需品、施設目録」によると、海岸べりに艇格納の壕が七つ(十一メートル、同、七・五メートル、十メートル、十メートル、ニ十メートル、七メートル、六メートル)、発電所の壕(四メートル)が一つありました。震洋艇は、となりの浦戸基地(回天、魚雷艇)の図に六隻が描かれています。
 隊長だった蒔田さん(東京都大田区在住)は、戦後、「隊員は百八十七人、うち搭乗員は五十二人、艇は二十五隻でした」「搭乗員のほとんどは当時十八歳前後の若者でした。時々、隊を組んで浦戸湾内で訓練をしました。終戦後の八月十六日の誤った出撃待機の命令には緊張したことを覚えています。夜須町の隊員たちが戦争が終わった後で亡くなったことは今でも残念なことだと思っています」と語っています(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。「夜須町の隊員たち……」は、高知県手結の第一二八部隊の隊員たちことです。出撃準備中、爆発、百二十六人が死亡しました。
 戦後、高知市長浜に住んだ中村浩さん(旧姓・東久部良=ありくぶら)も、この基地の整備隊員でした。
 隊員たちは、寺や民家に分宿しました。炊事場に取られた民家もありました。御畳瀬町に一つあった銭湯も「海軍営」のようになっていました。民家の分宿していた隊員が柱に刀傷をつけた跡の残っている民家もあります。
 中村さんの話では、無線室、兵舎、食糧庫など七つの壕がつくられる予定でしたが、艇格納庫の一部や弾薬庫を除き建設途中で、一度も出撃することなく終戦を迎えたといいます(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。
 いまでもいくつか壕が残っています。

(二〇〇九年八月十七日)

 編んだ小丸太で敷き詰めた滑走路  高知の山あいの海軍の隠し飛行場

  高知県四万十町宮内(旧・窪川町宮内)には、山あいの平地に田んぼが広がっています。その田んぼにそって道路があり、それにそって民家が並んでいます。
 この田んぼの中に、かつて高知海軍航空隊窪川飛行場(高知第三飛行場)がつくられていました。砂利を敷き、その上に小丸太棒(直径五センチ、長さ二メートルくらい)をシュロ縄で編んでスダレのように敷いて滑走路をつくりました。長さ千百八十メートル、幅平均七十メートルの滑走路でした。機上作業練習機・白菊などが配備されていました(機上作業練習機とは、艦上攻撃機や艦上爆撃機の操縦士以外の乗員の任務である航法・通信・射撃・爆撃・偵察等の訓練をするための機体です。全幅一四・九八メートル、全長九・九八メートル、全高三・一〇メートル、機体重量・二五六九キログラム、最大速度二三〇km/h、航続距離千百七十六キロメートル。乗員五人です。九〇式機上作業練習機の後継機として一九四二年に制式採用されました)。そして、民家のいくつかには海軍兵が駐屯していました。
 二〇〇八年のはじめから藤原が調査した時には、当時の様子を示すものは見当たりませんでした。
 しかし、ひとまず、このことを伝えようと七月に高知市で開かれた「戦争と平和を考える戦争展」に、高知海軍航空隊窪川飛行場の概要を伝える展示コーナーを設けました。
 これが終わってから、藤原と福井康人さん(両者とも高知市升形九の一一の平和資料館・草の家の研究員)が調査しなおしたところ、航空機をアメリカ軍の空襲から守るための格納庫・掩体壕(えんたいごう)の跡を三十八確認しました。この掩体壕は、いずれも山の斜面をけずっただけのもので、高さは四メートル、横幅七・五メートル、奥行七・五メートルほどの大きさです。残っているといっても、そのままの形で畑になったり、その後に小屋が建てられたりした物もあります。また、一部が削り取られたものもあります。
 地元の人の証言によると、いま残っている部分は掩体壕全体の後ろの部分で、当時は、この山肌の削った部分より前面に木製の屋根をはり出させて軒をつくったといいます。白菊はバックさせて格納したといました。尾翼部分が山肌の削った部分に、主翼や操縦席などの部分はその軒の下に格納されるというスタイルでした。
 戦後、高知海軍航空隊がアメリカ軍に渡した「引渡目録」には、山側に四十八の掩体壕(えんたいごう)が描かれています。壊れていることを確認したのは一基だけですので、調査がすすめば、もう少し発見できると思っています。
 この飛行場の前につくられた高知県日章村(いまは南国市)の高知海軍航空隊の第一飛行場にはコンクリート製の滑走路があります。掩体壕がありました。ここの掩体壕は、コンクリート製九基、土などでつくられたもの三十二基の計四十一基がありました(いま残っているのはコンクリート製七基です。一番大きい掩体壕は高さ八・五メートル、幅四十四メートル、奥行き二十三メートル、コンクリートの厚さは五十センチです。写真は第一飛行場の掩体壕跡の一つ)。基地に兵舎もありました。
 二つの飛行場と掩体壕群、兵舎などを比べると大きな差があります。
 高知海軍航空隊窪川飛行場は、何のための飛行場だったのでしょうか。海軍の特別攻撃隊員だった木村芳郎さんが教えてくれます(「海軍予備学生の記」編集委員会『海軍予備学生の記』。一九七二年五月二十五日)。
 「第一回攻撃のために鹿屋空(かのやくう。藤原注・鹿児島県の鹿屋海軍航空隊)に進出したのが[一九四五年]五月二十一日であったと思う。鹿屋基地まで進出し、出撃のための整列までしたものの、私は第二回攻撃隊員訓練のために残された。毎日の空襲警報を避けて、高知県の窪川なる谷間に『隠し飛行場』を作り移動した。この飛行場も地図の上で探し、白菊による実地探査を試みて探し当てた。飛行場と言っても、畠を地ならしし、径五―六センチの樫(かし)の棒を敷きつめただけのもの。滑走路も僅(わず)か一本だけ。何しろ山の間なので、安全に必要なだけの土地確保することなど、思いもよらないことであった。ために、離陸はいつも赤ブースト(藤原注・エンジン全開)でないと滑走路の前の山にブッつけるおそれがあった。(中略)谷間の飛行場で五〇〇キロ爆弾を抱いての離陸なので、上昇しきれず谷間を這(は)っても下降気流に落されて牛小屋に軟着したのが居(い)て重傷者を出し、司令から『タルンドル』と大目玉を喰ったこともあった。」

   特攻機を隠して待機させておくために

 当時の状況を説明するために、まず高知海軍航空隊(日章村・現南国市)の白菊の特別攻撃のことを書きます。
 「……日章の高知海軍飛行隊は実戦部隊でなく練習部隊であったので、零戦はもとより戦えるような機はなかった。あったのは練習機『白菊』で、これは時速百四十キロぐらいの鈍速。しかも機銃も搭載しておらず、空中戦は挑めない。(中略)
 一方で、『白菊』は特攻機に使われていた。『菊水・白菊特攻隊』として編成、日章から鹿児島の鹿屋(かのや)の基地まで飛び、翼下に爆弾をくくりつける。ベニヤ張りの増槽タンクも積み、戦闘能力はないので敵機に見つかりにくい夜間に出撃、海上スレスレに飛び敵艦に体当たりするのだ。」(浜田豊繁さん『一発勝負 報道カメラ五十年』。高知新聞社。一九八四年八月二十日)。
 高知新聞のカメラマンだった浜田豊繁さんは、その「菊水部隊白菊隊」が一九四五年(昭和二十年)六月二十日、日章村の高知海軍航空隊から飛び立つのを、同航空隊の近くの物部川の堤防から目撃しています。
 「地元農家の人たち三、四十人が見送りにきていた。いずれも航空兵を下宿させている家の方々で、今生の別れである。『まっことむごい』とご婦人が身をもむ。(中略)
 一九〇〇[藤原注・午後七時のこと]、特攻隊出発。航空隊の手のすいた者全員が見送りの位置につく。 総員〝帽振れ〟のなか、堤防の人々にも見送られて一機ずつ、これも機上から手を振りつつ五機が飛び去った。機が夕暮れの空に消えても、しばらくはだれも動かない。
 やがて、海ゆかば水(み)漬(づ)く屍(かばね)山ゆかば草むす屍…の歌が皆の口をついて出て、女性は抱き合って泣き、男たちはこぶしで目頭をぬぐう。
 一九三〇、続いて三機が出発した。」(前出)
 「菊水部隊白菊隊」は、一九四五年五月二十四日から六月二十五日までに計二十六機が沖縄に向け出撃。計五十二人が戦死しています。
 操縦の佐藤新四郎一飛曹(二十三歳)=宮城県出身=は、六月二十七日夜に出撃し、翌二十八日、「沖縄周辺」で戦死しました。
 佐藤一飛曹は、出撃の一週間ほど前に、高知市の池内照さん(二十六歳)=当時、一九九三年一月死去=と結婚していました。
 「一九四五年(昭和二十)六月二十五日沖縄失陥(しっかん)により菊水作戦[記者注・沖縄に侵攻したアメリカ軍艦船への飛行機による特別攻撃作戦]が打ち切られると、残存の白菊は鹿屋から高知へ引き揚げた。
 沖縄戦が始まったころ、次には米軍の日本本土侵攻が必至とみられた。陸海軍は沖縄に総力を結集する一方、本土決戦に備えなければならない。その一つに、特攻機を隠蔽(いんぺい)待機させておく飛行場の建設があった。高岡郡窪川町宮内の高知第三飛行場もそれである。」(『高知空港史』。高知県。一九八四年)。
 「高知基地残留の練習機白菊を最後の特攻機として使うため窪川基地に移動 隠蔽(いんぺい)保存した」(中山三国王さん『高知海軍航空隊史』)。
 「……『海軍宮内飛行場』とは要するに『特攻機を隠蔽待機させておく飛行場』だった……」(県老連戦中・戦後の記録編集委員会『平和への祈り 戦中・戦後の記録』の「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」。高知県老人クラブ連合会。一九九八年七月)。

   高知海軍航空隊がつくった「引渡目録」では

 高知県には、それまでに三つの海軍航空隊の飛行場ができていました。
 ○ 宿毛海軍航空隊。一九四三年(昭和十八年)四月一日、幡多郡宿毛町。水上偵察乗員錬成。一九四四年四月一日閉隊。
 ○ 高知海軍航空隊。一九四四年(昭和十九年)三月十五日開隊。香美郡日章村。飛行予科練習生(予科練)卒業生のうち、偵察搭乗員となる者を飛行術偵察専修練習生(飛練)に入隊させ実技教育をしました。機上作業練習機・白菊が配置されました。一九四五年(昭和二十年)三月一日、同航空隊の教育は停止されます。同月十九日、同航空隊は、アメリカ軍の機動部隊から発進したグラマン艦載機の攻撃を三波にわたって受けます。その間、三月、四月と第一次有資格隊員と予備隊員の訓練を実施。四月にアメリカ軍との沖縄戦が始まると、五月から白菊が特別攻撃機となって沖縄に出撃しました。同月から多くの隊員が、高知海軍航空隊の周辺の山などで陣地構築、壕(ごう)づくりに従事しています。
 ○ 浦戸海軍航空隊。一九四四年十一月一日開隊。高知市池、飛行予科練習生教育。四五年三月二十五日、同隊のそばの高知市仁井田に高知第二飛行場が開設されました。高知海軍航空隊の緊急避難用だったといわれます。
 高知海軍航空隊窪川飛行場は高知海軍航空隊の高知第三飛行場としてつくられました。
 終戦後に高知海軍航空隊がつくったアメリカ軍への「引渡目録」に、その飛行場の地図などが載っています。
 南北に延びた滑走路は、「砂利敷(じゃりじき)」で、延長千百八十メートル、幅平均七十メートルです。
 誘導路が北西、西、南西の谷に延び、それぞれの谷に計四十八の掩体壕(えんたいごう)があります。
 飛行機が、どれだけ配備されていたのでしょうか。
 機上作業練習機・白菊二十五機、九三式中間練習機一機、二式陸上中間練習機一機が配備されています(計二十七機中二十三機が使用可能)。
 そして、発動機が八基、三基と計十一配置されています。
 九三式中間練習機は日本海軍の練習機です。
 川西航空機が開発しました。機体構造は鋼管または木製骨組に羽布張りで後退角のついた上翼を持ちます。一九三四年(昭和九年)一月末に制式採用されました。全長八・〇五メートル。全高三・二〇メートル。乗員二人。武装は七・七ミリ機銃二つ、三十キログラム爆弾二つ。
 二式陸上中間練習機は、九三式中間練習機にかわる新型の中間練習機です。
 渡辺鉄工所が、海軍が研究用として戦前にアメリカから輸入していた ノースアメリカンAT―6練習機を参考にして設計し、一九四三年(昭和十八年)に制式採用されました。
 全長八・六〇メートル。全高四・一〇メートル。乗員数二人。武装は、七・七ミリ機銃一台。
 高知海軍航空隊の「引渡目録」の窪川飛行場分の「兵器目録」には、つぎの兵器が記されています。

   品   名    数  量   記 事
            
 二十粍(ミリ)機銃     五   使用可能
 七粍七機銃       二十六   使用可能
 小銃            百   使用可能
 二十粍機銃弾薬包   五千二百   使用可能
 七、七粍機銃弾薬包  十万五千   使用可能
 小銃弾薬包      七百八十   使用可能
 二十五番爆弾        百   使用可能
 二十粍機銃弾倉       七   使用可能
 七粍七機銃弾倉     五十三   使用可能
 燃料車           三   使用可能一台
                   使用不可能二台
 小型貨物自動車       一   使用不可能

   こうして基地がつくられました

 四万十町宮内は、現・JR窪川駅北西二キロメートルの四万十川のほとりにある山あいの農村です。
 この飛行場建設にあたった海軍呉鎮守府第五一一三設営隊(編成・一九四五年六月十五日。隊長・島本茂技術大尉)の分遣隊長だった西内弘さんが、建設にあたった事情を書いています(「関西RPの会」のホームページの「終戦小秘話」)。
「高知県西南部に窪川町といって、四方を山々に囲まれた閑静な町があり、町外れに影野、仁井田という農林業で生計を営んでいる小部落がある(現・土讃線影野、仁井田駅)。ここでの物語である。
 昭和20年当時、私は若い海軍軍人であった。呉鎮守府(海軍施設部)より極秘命令を受けこの辺境地に、海軍航空隊特攻基地を緊急設営するため、分遣隊長として同期生2名で、部下兵120名と共にこの地に派遣された。
 昭和20年当初、高知海軍航空隊基地(現・高知空港)は、B29・双胴ロッキード・グラマン機の総攻撃を受け壊滅状態であった。海軍は新基地建設のため、高知市郊外の浦戸地区に『浦戸海軍航空隊基地』と窪川地区に『特攻機基地』を極秘に、しかも緊急に設営して本土決戦に備える計画を立案した。
 我々120名の派遣隊員は秘密裡に本隊を出発、『影野』『「仁井田』の二つの小学校に合宿することになり、当分隊60名は影野小学校の一隅を拝借して、建設に着手した。」
 この滑走路の予定地は二十万平方メートルの田んぼでした。
 滑走路は、一九四五年(昭和二十年)春から突貫工事で急造されました。
 周辺の窪川村、松葉川村、仁井田村などの人たちや高知県窪川農業学校(現・高知県立窪川高等学校)、国民学校高等科の児童生徒が飛行場の整地、地固めのコンクリートローラー(直径一メートル、長さ二メートル)引きなどに駆り出されました。窪川農業学校の生徒だった武市典雄さんも動員された一人です。
 砂利を敷き、その上に小丸太棒(直径五センチ、長さ二メートルくらい)をシュロ縄で編んでスダレのように敷いて滑走路をつくりました。長さ千百八十メートル、幅百五十メートルの滑走路でした。
 「朴の木谷」、「三島様横の谷」、「柳の川谷」の山肌に横穴を掘り込んで、飛行機の掩体壕(えんたいごう)がつくられました。
 滑走路から各格納庫までの誘導路をつくりました。
 山中の掩体壕までの通路もつくりました。
 宮内に住む市川和男さんが、当時の様子を書いています(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。
 「……私の家の前の田圃(たんぼ)に、五、六名の見慣れない人達がきて、何やら立ち話をしていたのが、当時、十二歳の少年の私には何やら不安げに映ったことを覚えている。そのうち測量の偵察機が飛んだとも聞いたものである。
 やがて飛行場は近郷近在の人々を強制動員してつくられた。狩りだされた人々は毎日自分の仕事を休み、いも飯弁当持参で朝から晩まで汗水たらしての作業。鍬(くわ)をふるいモッコを担いで土地ならし、砂利を撒きそれをみんなでローラーを引いて固める重労働の繰り返し。使う土地は、先祖から受け継いだ大切な田もあったものではない。」

   海軍兵が宮内にやってきて……

 高知海軍航空隊(本部・高知県日章村=現・南国市)の第一飛行隊が、将校送迎用木炭バスで窪川町へ移動し、第二飛行隊は機上作業練習機・白菊を窪川町に空輸しました。そして、七月十日、高知航空隊窪川飛行場が開隊しました(『高知海軍航空隊史』)。
 将兵は、特別攻撃隊員と整備兵ほか約百五十人でした。
 高知海軍航空隊からの三回目の特別攻撃の要員たちでした。
 飛行場の西の四軒の民家が接収され、飛行隊の本部、隊員の分宿する兵舎になりました。
 地元の丸山国民学校も七教室中二教室が海軍兵の宿舎にされました。
 市川和男さんの家が、本部にされました。
 当時、市川さんは高知市の中学校の一年生で、高知市に下宿していました。
 「……下宿して間もない土日の帰郷だったと思うが、帰ってみて驚いた。
 わが家の前の水田は、帯状に『木走路』といって小さな丸太木をシュロ縄で編んで簾(すだれ)のように敷いた即席の滑走路にすっかり姿を変えていたのである。加えて私の家も飛行場の本部になった。母一人子一人であった私たち親子は家を追われ、仕方なく隣部落の親戚に身を寄せた。
 それからというもの、わが家に帰るにも、そこに駐屯している番兵に軍隊式の敬礼をして『入ってよろしいですか』と聞けという。私の母は『家の監督に来た。自分の家に入るのに、そんなことは必要はない』と言い切った。」(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。
 宮内の五社様の境内にはガソリンを入れたドラム缶が積まれ、銃を持った海軍兵が二十四時間見張りをしました。
 宮内は四万十川沿いに北南に広がる地域ですが、地域の両方の入口には海軍の検問所が設けられました。
 そこには衛兵がいて、宮内の住民も通関札を見せないと通行できなくなりました。
 「五社様の払川橋百米上手の道路に門が作られ、衛兵が立ち、部落民は、通関札を見せて通る仕末……」でした(丸山小学校百年誌編集委員会『わが母校 丸山小学校百年記念誌』。丸山小学校百年記念行事実行委員会)。
 五社様あたりは飛行場の南端です。北端に近い丸山国民学校の前あたりの道路に歩(ほ)哨小(しょう)屋がつくられ、衛兵が立ちました。
 隣村の東又村の東又国民学校の訓導(教師)をしていた武市昌子さんが、当時の様子を教えてくれました。
 「宮内の住人は、軍隊から宮内の住民であることを証明する通行許可証をもらいました。
 歩哨小屋に拳銃と銃剣を持った海軍兵がいました。
 私は、通勤の行き帰りは、通行許可証を首にかけました。
 朝五時半ころ家を出ました。
 丸山国民学校の所にいくと、海軍兵がピカピカ光る銃剣を突き出して『誰か!』と叫びます。
 首にかけた通行許可証を出して見せると『通れ!』といって通してくれました。逃げるように走って通りました。
 ここを通るのが怖くて、一度は、飛行場を横切って四万十川の浅瀬を渡って宮内を出ようとしました。そしたら、川岸で海軍兵に捕まって、連れ戻されました」
 勤務先の東又国民学校も戦場になっていました。
 「アメリカ軍が、東又国民学校の周辺の山に何回も焼夷弾(しょういだん)を落としました。
 子どもたちと奉安殿(ほうあんでん)の近くの防空壕(ぼうくうごう)に入りました。
 アメリカ軍が興津 (おきつ)(四万十町)の浜から上陸してくるかもしれないといわれていました。
 東又国民学校でも、子どもたちに竹やりの訓練をさせました
 『興津の坂からアメリカが上がってきたら、興津峠で待っていて、この竹やりで突く』ということでした」

   飛行場はカムフラージュされていました

 高知海軍航空隊の操縦搭乗員・滝沢哲雄飛行中尉(予備学生十三期)も、この飛行場に配備されました。
 五月二十四日、第一次白菊隊で出撃する予定で鹿児島県の鹿屋(かのや)基地にいきましたが、アメリカの空襲、天候不良などで出撃の順番が狂い、出撃の機会を失ったまま沖縄特別攻撃が中止になり、窪川飛行場にまわされたのです。
 アメリカ軍機来襲の情報のないときは、特別攻撃の訓練飛行がおこなわれました。
 滝沢さんが当時の窪川飛行場のことを語っています。
 「残存の白菊は、窪川の第三飛行場の横穴へ隠しました。兵員は付近の農家への分宿です。牧場に小丸太を並べ、それが滑走路という格好の飛行場でした。空襲のありそうな時は、滑走路の上に草付きの土をばらまいたり、鶏を飼っている農場に見せかけるため唐丸カゴをあちこちに伏せてカムフラージュしたり、米軍機に発見されないよう苦労した」(『高知空港史』)。
 練習機は、四万十川上流沿い森林軌道、建設中の影野―窪川線のトンネル内にも隠蔽していました(『高知海軍航空隊史』)。
 飛行場では、連日、特別攻撃訓練がおこなわれました。
 飛行機が、カラコロカラコロという音をたてながら滑走路を走り、離陸していきました。
 窪川飛行場は、平地にありますが、四方を山に囲まれて飛行機の訓練にとっては、いい場所ではありませんでした。操縦は困難をきわめました。
 武市昌子さんは「『きょうは出る日だから見送ってください』といわれて、出撃する飛行機の見送りをしました。海軍兵は白いマフラーをしていました。私たちは『無事に帰って』といって見送りました。私が休みの日のことで、二、三度、見送りにいったと思います。
 どこかで乗り換えて行くということでしたが、飛ぶことは飛んだが向こうまで行き着かずに帰ってきた人もいますし、行き着いたけど突撃する飛行機がなくて帰ってきたという人もいました」と、語ります。
 本部にされた市川和男さんの家の庭には、大きな塹壕(ざんごう)がつくられました。
 庭の石垣には二つの四角い穴があけられ、そこから上陸したアメリカ兵を機関銃で撃つ備えがしてありました。
 そして、裏山には、手榴弾(しゅりゅうだん)を投げつけるための小さな広場がつくられました。
 兵隊の食糧は十分でない様子で、近くの民家のイモやカボチャが消えました。
 市川和男さんが、この飛行場の兵隊たちの様子を観察していました。
 「兵隊さんはよく青竹のバッターで腰をしたたか打たれていたのも印象的である。『かまえ!』の命令で、殴られる型は『く』の字に腰を曲げ、上官がそれをめがけて青竹も割れんばかりに叩く。兵隊さんは前につんのめっていた。
 こんなこともあった。ある将校の兵隊いじめに腹を据(す)えかねた江戸っ子の下士官だったと思うが、やにわに日本刀の鞘(さや)を払って『おれが、ぶったぎってやる!』と立ち上がり、ようやく仲間が取り押さえ、なだめていたのが今も目のそこに焼き付いている。
 思えば駐屯していた兵隊さんは皆若い人達だった。青春をこの草深い檻(おり)なき檻の土地で持て余してもいたようだった。」(「四万十川蜃気楼 海軍宮内飛行場」)。

   八月四日の機上作業練習機・白菊の墜落事故

 七月二十五日、ここでの練習は危険だということで、第一飛行隊は日章の高知海軍航空隊に帰還しました。
 窪川飛行場で二件の事故が起きたのは、その十日後の八月四日の午後でした。
 機上作業練習機・白菊一機が五百キロの模擬爆弾をつけて特別攻撃訓練をしていました。搭乗員は予備学生十三期の滝沢哲雄飛行中尉、和田実二等飛行兵曹でした。
 旋回飛行中に、エンジンの調子が悪かったのと渓谷の下降気圧に押し下げられて山腹に墜落しました。落ちたのは農家の牛小屋の上でした。留守番をしていた盲目のおばあさんが、はい出しました。けがはありませんでした。床下に模擬爆弾が転がっていました。
 つぎつぎと町民が現場にやってきて搭乗員の二人を何とか外に出し、木陰に寝かせて応急措置をしました。
 滝沢飛行中尉は、目、歯、顔面に負傷、和田二等飛行兵曹は足を骨折しました。
 同日、窪川飛行場を離陸しようとした練習機は、車輪を破損しました。この練習機は、日章の高知海軍航空隊に胴体着陸しました。

   占領軍に焼かれた窪川飛行場の練習機

 終戦の翌日、八月十六日、窪川飛行場では、機上作業練習機・白菊を再度組み立てて、日章の高知海軍航空隊に帰還しました。一般隊員は現地解散でした(『高知海軍航空隊史』)。
 市川和男さんの母が、手記を残しています。
 「……この軍隊の置き土産は、四戸の家にはものすごい蚤(のみ)と、天井もまっ黒になるほどの蝿(はえ)の巣だった……」
 高知海軍航空隊分隊長・大尉だった伊藤平次さんが、その年の冬、兵器引き渡しのため高知海軍航空隊兵舎(日章)にやってきたアメリカ兵とのやりとりを、つぎのように語っています。「窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。」(『高知空港史』)。
 窪川にやってきた占領軍は、窪川飛行場に残っていた練習機を集めて、油をかけて燃やしてしまいました。
 平和資料館・草の家の車輪とエンジンカバーは、そうした中でも残っていた機上作業練習機・白菊の残骸です。
 飛行場にされて荒らされた宮内の田んぼは、戦後処理のなかで「開放地」として元の地主に払い下げられました。
 一九四八年(昭和二十三年)から四九年の二年ほどをかけ、復元しました。

   白菊の車輪二つとエンジンカバー

 平和資料館・草の家に日本帝国海軍の機上作業練習機・白菊の車輪二つとエンジンカバーが寄贈されています。
 白菊は、翼幅一四・九八メートル、全長一〇・二四メートル、全高三・九三メートルの五人乗りのプロペラ機。機関銃一丁と六十キロの爆弾で武装していました。
 タイヤは、二つとも直径七十四センチメートルほどの物です。
 一つのタイヤには、つぎの文字が浮き彫りになっています。
 「藤倉工業株式会社 昭和17年12月製 800×275 半高圧制動車輪 常用内圧2・5~3㎏/cm2」
 もう一つには、つぎの文字が浮き彫りになっています。
 「藤倉工業株式会社 昭和 年 月製 800×275 半高圧制動車輪 常用気圧2・5~3㎏/cm2」
 これは高知県四万十町宮内の武市典雄さんが、終戦直後に、窪川町役場の横にあった引揚事務所からもらい受けたものです(四万十町宮内は、以前は窪川町宮内でした)。
 もとは宮内の高知海軍航空隊窪川飛行場(高知第三飛行場)にあったといいます。

 〈参考文献で、文中で紹介しなかったもの〉

 ○ 窪川子ども風土記編集委員会『窪川子ども風土記』。一九八〇年三月十五日。
 ○ 窪川町史編集委員会『窪川町史』。窪川町。二〇〇五年三月。
 ○ 写真集「くぼかわ今昔」編集委員会『写真集 くぼかわ今昔』。窪川町企画課。一九八六年。

(二〇〇九年八月六日)

 千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題を考える

   はじめに

 日本が抱える領土問題の一つ、千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)問題についてのべます。
 日本の領土である千島列島、歯舞、色丹が一九四五年八月、ソ連によって占領され、それが、ソ連がロシアに変わった現在でも、そのままになっている問題です。
 この稿では、以下の四点について論じます。
 1、 これらの地域が日本の領土であることの論証
 2、 どうしてソ連の占領という事態が起こったのか
 3、 この問題に日本の政府、与党は、どう対処してきたのか
 4、 これらの地域を全面的に返還させるための運動の方向
 なお、以下、日本についても、ロシアについても、歴史的に国がらが変わっていますのでさまざまな表記が出てきます。日本については、徳川幕府、日本帝国、日本と変遷します。ロシアについても、近世から一九一七年まではロシア帝国、一九二二年~一九九一年十二月まではソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)、その後、曲折を経て、現在はロシア連邦(ロシア)となっています。

   千島列島、歯舞、色丹は日本の領土です

 千島列島は、かなり前から日本の土地でした。ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍士官・ゴロブニン(一七七六年四月十九日~一八三一年七月十一日)の『日本幽囚記 全三冊』(井上満訳。岩波文庫。一九四三年五月三十日)でも、そのことがわかります。彼は、一八一一年、軍から千島列島の測量を命じられ、みずからが艦長を務めるディアナ号で択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)を訪れます。しかし、国後島で松前藩の役人に捕縛され、箱館で二年三カ月間、幽閉されます。この本は、その体験を回想として一八一六年に発表したものです。それによると、その当時でさえ、彼は、日本人の足跡があった択捉(えとろふ)、国後(くなしり)からサハリンまでも「正当なところ、日本の植民地と云える」としています。
 日本とロシア間の国境と領土をとりきめたのは徳川幕府と帝政ロシアが結んだ「日本国露西亜(ロシア)通好条約」(一八五五年=安政元年=二月七日、伊豆下田で)、明治政府と帝政ロシアが結んだ「樺太・千島交換条約」(一八七五年=明治八年)です。
  「日本国露西亜(ロシア)通好条約」で、択捉(えとろふ)と国後(くなしり)の南千島は日本領、それ以外の北千島はロシア領になりました。その間を国境とし、樺太(からふと)には国境線を引かず“雑居の地”にしました。その二十年後の「樺太・千島交換条約」では、全千島列島を日本領、樺太(からふと)全体をロシア領としました。この結果、千島列島全体が最終的に日本の領土となりました。
 千島列島は北端の占守(しゅむしゅ)から南端の国後(くなしり)まで、日ロ間の平和的な外交交渉によって画定した日本の歴史的領土です。
 その後、日本にとってもロシアにとっても帝国主義的な戦争であった日露戦争(一九〇四年二月六日~一九〇五年九月五日。朝鮮半島と満州=中国東北部=の南部が主戦場)のとき、日本軍はロシアの樺太(からふと)全島を占領しました。この結果、後の講和条約・ポーツマス条約(一九〇五年九月五日)で南樺太(みなみからふと。樺太の北緯五〇度から南)が日本の領土になりました。
 歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)は、地理的には千島列島に入らず、歴史的にも北海道本島の一部として扱われてきました。

   問題をつくり出したソ連、アメリカ、イギリス、日本政府

 第二次世界大戦にあたり、連合国は戦後処理の原則として「領土不拡大」の公約を掲げました。日本、ドイツ、イタリアが戦争などによって奪った土地は返させるが、そのほかの土地の割譲は求めないというものです。
 対日戦の戦後処理でも、一九四三年十二月一日にアメリカ合衆国大統領・フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相・ウィンストン・チャーチル、中華民国主席・蒋介石が発表した「カイロ宣言」で「自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」と明確にされました。一九四五年七月二十六日、アメリカ合衆国、中華民国、イギリスの国の首脳が大日本帝国に対し発したアジア・太平洋戦争の終結に関する勧告の宣言・「ポツダム宣言」では、「カイロ宣言」の履行が明記され、ソ連を含む連合国全体のものとなりました。
 ところが、「領土不拡大」の公約に反する国際密約がありました。ソ連連邦首相・ヨシフ・スターリンはアメリカ、イギリス首脳とのヤルタ会談(一九四五年二月、ソ連のヤルタで)で、対日参戦の条件としてソ連への「千島列島の引き渡し」を要求し、ルーズベルト、チャーチルもそれを認め、三国の秘密協定(協定締結は二月十一日)に盛り込まれました。
 ソ連は、第二次世界大戦の末期の一九四五年八月八日に対日参戦しましたが、八月十八日から千島列島などの占領を開始しました。その際、千島列島と歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)を軍事占領し、その後、一方的に自国領に併合してしまいました。
 それを法的に裏付けたのが、日本がアメリカなどと一九五一年九月八日に調印したサンフランシスコ講和条約です。同条約は、二条C項で「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」ことが明記されています。
 南樺太については、日本がロシアから暴力的に割譲させたものですので、ソ連に返還するのは理があります。しかし、千島列島については、性格の違うものです。この条項の千島列島の項目は、ヤルタ協定の当事国であるアメリカが、ヤルタ協定にしたがってもちこんだものです。同条項の千島列島放棄は、カイロ宣言の「領土不拡大」の原則や同宣言「履行」を明記したポツダム宣言などにてらしても、不当なものです。
 以上の経過から千島を日本から切り離した問題の責任をおうべきはソ連、アメリカ、イギリス、日本政府です。
 なお、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)は、二条C項には入っていません。

   日本政府の四島返還をの議論について

 ところが、日本政府は、一九五〇年代なかばの対ソ交渉以来、ヤルタ秘密協定とその内容をもりこんだサンフランシスコ平和条約の千島放棄条項を前提にしながら、“国後、択捉の南千島は千島列島ではないから返せ”といいはじめました。
 日本政府は、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島を北千島、南千島をふくむものと解釈してきました。日本代表の吉田茂首相は、一九五一年九月十日夜のサンフランシスコ会議全体会議でサンフランシスコ平和条約の受諾演説をしました。その中で、条約で放棄した千島列島について、択捉(えとろふ)・国後(くなしり)と得撫(うるっぷ)以北とを千島列島の南部、北部と規定しています。一九五一年十月十九日のサンフランシスコ条約批准国会で「この条約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味であると解釈しております」(西村熊雄条約局長)とのべています。
 鳩山一郎内閣の下で一九五五年六月三日からイギリスのロンドンで日ソ国交回復の交渉が始まりました。八月九日の第十回会談で、ソ連側は歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)については放棄する意思があることをほのめかしました。そうした中、同月三十日の第十三回会談で松本全権は択捉(えとろふ)、国後(くなしり)を歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)と同列視する新条文を提示しました。これにたいしてソ連は日本の態度を非難、結局、ロンドン交渉は九月二十一日、中断しました。
 国交回復交渉は翌年まで続き、一九五六年十月十九日、鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が日ソ共同宣言に署名しました。そこでは、日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉をおこない、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡すことがうたわれていました。しかし、この条項も、一九六〇年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定をしたことを理由に、ソ連が一方的に取り消しを宣言しました。
 その後、一九九〇年代以降、「東京宣言」(一九九三年)、「モスクワ宣言」(一九九八年)、「イルクーツク声明」(二〇〇一年)など、領土問題をめぐって多くの合意文書が日ロ間で交わされてきました。
 しかし、今日まで領土問題の解決の糸口すら見いだせていません。
 現在も、政府、自民党は、択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の返還を求める、いわゆる四島返還論に立っています。
 なお、与党の公明党、野党の民主党、社民党も自民党と同じく四島の返還を主張しています。
 ロシア側は、一九五六年の日ソ共同宣言を根拠に「考えられうる二島(歯舞、色丹)引き渡しの必須の前提条件は平和条約締結だ」(プーチン大統領。二〇〇四年十二月二十三日)と、ソ連の立場を継承しています。

   ロシアは千島列島、歯舞、色丹を日本に返還すべきです

 私は、一九六〇年代からソ連、ロシアは日本に千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)を返還すべきだと考えてきました。
 これは、日本共産党が主張してきたことと同じです。
 日本共産党の宮本顕治書記長は、一九六九年三月五日、「千島問題についての日本共産党の政策と主張」を発表しました。これは、日ソ間の領土問題の歴史的研究をもとに、ヤルタ協定での千島引き渡し条項やサンフランシスコ平和条約での千島放棄に拘束されず、日本の歴史的領土として全千島列島の返還を要求せよと主張したものでした。
 その後の「日本共産党綱領」でも「日本の歴史的領土である千島列島と歯舞諸島・色丹島の返還をめざす。」(二〇〇四年一月十七日の第二十三回党大会で改定)と主張しています。
 領土問題では、歴史や法に照らして、筋の通った国際的に通用する道理ある立場に立つことが大切です。以下、千島列島、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)返還を主張の論点を私なりにまとめてみました。
 ○ 日ロ領土問題解決の出発点とすべきなのは一八七五年の「樺太・千島交換条約」です。一八五五年の「日魯通好条約」は、国後、択捉を日本領とし、樺太(サハリン)島上の国境を未画定とする、いわば中間的条約でした。全千島列島の日本帰属を定めた「交換条約」が、日ロ間で平和的に領土を画定した最終的条約であり、千島全島が日本の領土である根拠となります。
 ○ 歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)については、北海道の一部であり、ヤルタ協定やサンフランシスコ平和条約の千島放棄条項の対象になっていない島々です。それが、たまたま、アジア太平洋戦争終了時に南千島に駐留していた日本の陸軍第八九師団が、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)にも駐留していたために、ソ連が、南千島と一緒に占領する地域となっただけのことでした。ロシアが占領していることに何の根拠もありません。日本政府は、ロシアに即時無条件に返還せよと求めるべきです。
 ○ 千島問題については、やはり、ソ連の無法な領土占有を追認し誤った戦後処理の根拠となっているサンフランシスコ平和条約二条C項を不動の前提とせず、誤った戦後処理を正す立場でのぞむことが大切です。
 一九六八年五月二十三日の「条約法に関するウィーン条約」(一九八〇年一月二十七日発効)には、間違った条約、条項の廃棄が保障されています(第五三条「一般国際、法の強行規範に抵触する条約」)。
 また、条約には、よき先例もあります。この条約は、第三条の沖縄や小笠原にたいするアメリカの統治権を認めました。この条項は廃棄されていませんが、その後の小笠原や沖縄の本土復帰にともなって、この第三条は「立ち枯れ」状態になっています。
 二条C項を廃棄するという国民の世論を強め、それを背景にして、二条C項の廃棄を世界に通告する、そして、その通告したという前提でソ連と返還について交渉するという順序が必要ではないでしょうか。
 ○ ソ連との交渉にあたっては、ロシアはスターリンの領土拡張主義の誤りを是正せよと正面から提起していく必要があります。
 千島問題では、ロシアには理がありません。
 日本共産党の不破哲三氏は著書『スターリンと大国主義』(新日本出版社。一九八二年三月二十七日)で、つぎのようにのべています。「戦後になって、ソ連側は、千島問題を、ソ連がもともと権利をもっていた歴史的な領土の回復であったかのように理屈づけようと、懸命になりましたが、ソ連の歴史家がこの三十余年間に展開してみせたどんな“論証”も、まじめな検討にたえるものではありませんでした。昨年〔一九八一年〕も、『プラウダ』(藤原注・ソ連共産党の機関紙)の東京特派員が、千島は、日本が弱体化したロシアに圧力をかけて不法におどしとったものだといった議論を書きたてたりしましたが、十九世紀後半、幕末の日本に艦隊を派遣して圧力をかけたのがロシアであって、日本が艦隊を送ってロシアをおどしつけたわけでないことは、いまさら論じることもばかばかしい歴史の常識です。しかも、そこで結ばれた『不平等条約』の束縛からぬけだすのに、日本はさらに三十年もの歳月を要したのです。歴史を改作して恥じないこうした議論は、スターリンがもちだした領土要求が、歴史の真実と両立しえない不当な大国主義の要求であったことを、うきぼりにするだけのものです。」
 ソ連崩壊のさいに、スターリンのバルト三国併合の誤りは正されました。第二次世界大戦の時期のソ連による領土拡大や併合などの誤りは、ほとんどが解決されました。残るのは千島列島と歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)との問題です。

   スターリンのバルト三国併合、ヤルタ協定の内容

 注です。

 ● スターリンのバルト三国併合

 ソ連の連邦首相・スターリンは、一九三八年八月ニ十四日、ドイツと不可侵条約を結びました。これには秘密協定があり、東部ヨーロッパをドイツとソ連のあいだで分割しあうことが、取り決められていました。この取り決めにもとづいて、一九三九年九月一日にヒットラーがポーランド侵略の戦争を開始すると、ソ連は、同月十八日、東からポーランドに侵入し、ポーランドの東半分を自分の領土に組み入れました。そして、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国に軍事的圧力をかけて、ソ連いいなりの政府に交代させ、ついでソ連への合併を強行しました(ソ連の占領は一九四〇年から四一年まで。再占領は一九四四年から一九九一年まで )。

 ● ヤルタ協定の内容

 三大国即チ「ソヴィエト」聯邦、「アメリカ」合衆国及英国ノ指導者ハ「ドイツ」国ガ降伏シ且「ヨーロッパ」ニ於ケル戦争ガ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」聯邦ガ左ノ条件ニ依リ聯合国ニ与シテ日本国ニ対スル戦争ニ参加スベキコトヲ協定セリ
 一 外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルベシ
 二 千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルベシ
 (甲)樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」聯邦ニ返還セラルベシ
 (乙)大連商港ニ於ケル「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ之ヲ擁護シ該港ハ国際化セラルベク又「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ノ海軍基地トシテノ旅順口ノ租借権ハ回復セラルベシ
 (丙)東清鉄道及大連ニ出口ヲ供与スル南満州鉄道ハ中「ソ」合弁会社ノ設立ニ依リ共同ニ運営セラルベシ但シ「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ保障セラレ又中華民国ハ満洲ニ於ケル完全ナル主権ヲ保有スルモノトス
 三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ
 前記ノ外蒙古竝ニ港湾及鉄道ニ関スル協定ハ蒋介石総帥ノ同意ヲ要スルモノトス大統領ハ「スターリン」元帥ヨリノ通知ニ依リ右同意ヲ得ル為措置ヲ執ルモノトス
 三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」聯邦ノ右要求ガ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルベキコトヲ協定セリ
 「ソヴィエト」聯邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス
(『日本外交主要文書・年表(1)』、五十六-五十七ページ。条約集第二十四集第四巻)

   参考文献 文中に注記していないもの

 ○ 自由民主党ホームページ
 ○ 公明党のホームページ
 ○ 民主党のホームページ
 ○ 日本共産党中央委員会ホームページ
 ○ 社民党のホームページ 
 ○ 荒井信一『岩波ブックレット シリーズ昭和史 NO・8 日本の敗戦』(岩波書店。一九八八年七月二十日)
 ○ 倉田康雄『ヤルタ会談 戦後米ソ関係の舞台裏』(筑摩書房。一九八八年七月三十日)
 ○ 不破哲三『千島問題と平和条約』(新日本出版社。一九九八年一月十日。新日本出版社)
 ○ 『日本共産党の七十年 党史年表』(日本共産党中央委員会。一九九四年五月五日)
 ○ 由井正臣『岩波ジュニア新書 日本の歴史 8 大日本帝国の時代』(岩波書店。二〇〇〇年十一月二十日)
 ○ 鹿野政直『岩波ジュニア新書 日本の歴史 9 日本の現代』(岩波書店。二〇〇〇年六月二十日)
 ○ 祝田秀全『忘れてしまった 高校の世界歴史を復習する本』(中経出版。二〇〇三年八月二十六日)
 ○ 不破哲三『新・日本共産党綱領を読む』(二〇〇四年十二月十五日。新日本出版社)
 ○ 日中韓三国共通歴史教材委員会『未来をひらく歴史 東アジア三国の近現代史』(高文社。二〇〇六年七月八日)
 ○ 代表編集・松井芳郎『ベーシック条約集 2008』(東信堂。二〇〇八年四月一日)

(二〇〇八年八月一日)

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