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2009.10.12

高知県須崎の人間魚雷・回天の基地で何があったのか その一。

 一九四五年春ころから大日本帝国陸海軍は、高知県にたくさんの基地をつくりました。わかったのは、これらの基地が、アメリカ軍が高知県に上陸することを想定して一九四五年春につくられたものだということです。
 大日本帝国陸海軍が、アメリカ軍が高知県に上陸することを想定してつくった交戦部隊です。
 戦争遺跡の状況や証言を検討すると、こんなふうな戦闘になった思います。
 窪川町宮内の高知海軍航空隊第三飛行場の爆弾を積んだ機上練習機・白菊や海軍第二十三突撃隊(須崎基地、宇佐基地、浦戸基地、手結基地)の回天、震洋、魚雷艇が海岸近くで特別攻撃することになったでしょう。
 上陸してきたら南国の浜では浜に刺した一メールほどの先のとがった竹の串やトーチカからの攻撃で防御したり、高知市では浦戸海軍航空隊の特別攻撃隊員が浜辺のタコつぼから爆弾を抱えて飛び出して上陸用舟艇に特別攻撃することになったでしょう。
 平地では、高知市にも数十メートルの出入口が二つある横穴壕がありました。たとえば、筆山町の要法寺、旭町、比島など。こうした壕も立てこもる場所としては有効だったでしょう。国民学校の児童をはじめとした民間人も竹やりで応戦する訓練をしていました。
 山間部では陸軍の兵士たちが壕に立てこもりながら陶器製の地雷や手りゅう弾で応戦したでしょう。
 高知県中で老若男女の死体が積み上げられる結果になったでしょう。
 こうした状況になる直前の姿をリアルに知りたいと数年前から聞き取りなどをしています。
 そのために、このところ、須崎の第二十三突撃隊の回天基地跡に通っています。
 海軍がアメリカ占領軍に渡した「引渡目録」を見ると、串ノ浦をちゅうしんとしたこの回天基地跡には、十二の回天を入れる壕などが描かれています。
 ここで、どんなことがあったのでしょうか。

(つづく)

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