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2009.10.30

埋められてしまった銅鐸(どうたく)。なぜ?

 日本の古代史について、こんな文章に出合いました。

 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 考古学は、約紀元前三世紀に弥生時代が始まることを教えてくれる。九州北部(いまの板付飛行場があるところである)に、水田稲作と金属器と弥生式土器をもった民族集団がやって来た。朝鮮半島からか、それとも直接中国からだっのたかわからないが、それは色々な状況からみて、単に文化の移入だったのではなく、民族の侵入だったように思われる。そうして、弥生文化が、三百年かかって、近畿地方まで東進するのである。
 そして同時に、考古学は教える。それから紀元三世紀ごろまでの弥生時代といわれる時代において、銅剣・銅鉾(どうぼこ)を支配のシンボルとしている北九州文化圏と銅鐸(どうたく)を支配のシンボルとしている近畿文化圏があり、この文化圏相互に一大戦争があり、銅鉾文化圏が消滅したことを。
 この文化圏なるものは同時に政治圏であり、文化の争いのように見えるものが、政治の争いであることは論を俟(ま)たないであろう。
 近畿地方のいろいろな場所に、にわかに埋められた銅鐸や、こっぱみじんに砕かれた銅鐸が出て来る。おそらく、九州地方の支配者が東進して、大和地方の支配者となり、その流れをくむ者が日本全土の支配者となったのであろう。

 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 梅原猛さんの『古事記』(学習研究社。二〇〇一年一月十八日初版)の「古事記に学ぶ」です。

 銅鐸は、大きなベルのような形状の青銅器です。
 出土する地域は、近畿地方を中心に広く分布していますが、ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見されます。古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえます。新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもあります。新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。徳島県麻植郡牛島村出土の銅鐸のように、ことさらにうちこわされたとみられるものもあります。
 銅鐸は、銅剣や銅鉾に匹敵する弥生時代の代表的な製作物ですが、『古事記』『日本書紀』には登場しません。
 畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶ちます。
 銅鐸をもつ大和の勢力が、三世紀の後半に、九州からきた勢力によって減ぼされたのであろうと推測されています。

 もちろん、これとは違った見方もあります。
 たとえば、以下のサイトをごらんください。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8

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