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2009年12月

2009.12.01

むかつくことがありました。

 家に帰ると妻が、いくつか「報告」をしてくれました。

 その中に一つ、むかつくことがありました。

 内容は差し控え、怒りの内容だけ川柳でお伝えします。

 収入の 少なさゆえに 見くびられ

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11月28日のブログに掲載されている写真は、皇帝ダリア!!!

 大阪市の尊敬する女性から、つぎのようなメールをいたただきました。

     ♢   ♢   ♢   ♢

   

 (11月)28日のブログに掲載されている写真は、皇帝ダリアではないでしょうか?

 近畿ではあまり見かけないのですが、四国ではブームなのか、今回の旅行では度々見かけました。

 名前は知っていたのですが、実物を見たのは初めてでした。

 背がすごく高いので、ダリアとは思いもよりませんでしたが、花はダリアそのものでした。

     ♢   ♢   ♢   ♢

 ありがとうございました。世界が広がりました。

 この花のことです。

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2009/11/post-c9a0.html

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高知市 柳町(やなぎまち)の居酒屋・つくしが、今年いっぱいで閉まることになりました。

 高知市柳町(やなぎまち)の居酒屋・つくしが、今年いっぱいで閉まることになりました。
 おかみは七十一歳。きっぷのいい人で、楽しいお酒を飲ませてくれました。 あと一カ月、せっせと通ってみようと思っています。
 

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2009.12.03

地球温暖化問題についての参議院での注目すべき質問です。

 以下、地球温暖化問題についての参議院での注目すべき質問です。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-11-28/2009112806_01_0.html

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坂本龍馬って、どんなことをした人だろうか。どこが偉かったのだろうん。

 坂本龍馬のことが、いろいろいわれていますが、あまり彼についての史実を知りません。史実をおさえたうえで、彼の人物評価をしてみたいと思っています。

 青空文庫から

 船中八策 坂本竜馬

 一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
 一、有材の公卿・諸侯|及《および》天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
 一、外国の交際広く公議を採り、新《あらた》に至当の規約を立つべき事。
 一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
 一、海軍宜しく拡張すべき事。
 一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
 一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内《うだい》万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟《いやしく》も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難《かた》しとせず。伏《ふし》て願《ねがは》くは公明正大の道理に基《もとづ》き、一大英断を以て天下と更始一新せん。

坂本龍馬

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から  

 坂本 龍馬(さかもと りょうま、1836年1月3日 - 1867年12月10日は、日本の武士土佐藩郷士)、政治家実業家土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。

 は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)。龍馬[1]通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。

 むしろ生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘は多い。歴史家の中に、特にそのような指摘をする人は多く、松浦玲などが代表格[2]。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的[3]

生涯

生誕地(高知市)
立像
坐像
  • 1836年1月3日、現在の高知県高知市上町(土佐国)に生まれた。
  • 1846年、母・幸死す。
  • 12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。
  • 1853年、剣術修行のため江戸東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。12月には佐久間象山の私塾にも通っている。
  • 1854年土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。
  • 1855年、父・八平が死去。
  • 1856年、再び江戸・小千葉道場に遊学。
  • 1857年、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
  • 1858年、剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝[4]
  • 1861年、3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる[5]。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)。10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年1月、萩で久坂玄瑞と面談。2月末に帰国。
  • 萩からの帰国後、1ヶ月もたっていない1862年3月に沢村惣之丞とともに脱藩した[6]。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた。龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる[7]。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる[8]
  • 1863年、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる[9]。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。
  • 1864年神戸海軍操練所が創設された[10]。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される[11]
  • 1865年、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。
  • 龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている[12]
  • 1866年、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都長州桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる[13]。裏書を行う直前に寺田屋で幕吏に襲撃されたが、一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。
  • 1867年、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた[14]。12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦誕生日命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。
  • 墓所は京都市東山区京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。

暗殺

坂本龍馬像(高知県の桂浜)
第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは供出を免れている。

詳細は「近江屋事件」を参照

龍馬は1867年12月10日の暗殺当日には風邪を引いて河原町蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。

死後の評判

前述の通り、坂本龍馬は生前よりも死後に有名になった人物である。

その最初は1883年、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が掲載され、大評判となった事である。

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。

その他

京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った『梅椿図』という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。

逸話

  • 寺田屋事件で左腕を負傷し、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。
  • 龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている[15]
  • 当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや旧友はついていけなかったという。これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで逸話であって史実ではない。逸話の起源は、定かではない。
  • 寺田屋事件直後にお龍と結婚した龍馬は、同事件での傷をいやすことも兼ねてお龍を伴って薩摩に滞在した。これを指して、日本で初めての新婚旅行とされる[16]
    S&W モデル1
  • 龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1 22口径で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
  • 幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。
  • 身長6尺(約182cm。近年の研究では174cmや169cmというものもあり)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。
  • 背中に黒毛が生えていた。
  • 少年時は寝小便タレで、泣き虫。勉強についていけず塾を退塾になった。
  • 武市半平太とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。
  • 姉・幸の夫の家によく遊びに行き、屋根に上って太平洋を眺めていた。
  • 西郷に対し「わしは世界の海援隊をやります」と語り、その様子を同席していた陸奥宗光がことあるごとに回想して語ったとされている。しかしこれは後世の創作とも言われている。
  • 龍馬は脱藩後に継続的に接触したトーマス・グラバーの影響を強く受けており、薩長同盟、亀山社中、海援隊、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、という主張がある。[17]
  • 長崎のグラバー邸には、龍馬ら脱藩志士を匿って住まわせたとされる隠し部屋がある。
  • 龍馬は階級的には土佐藩の武家の最下層にあたる郷士であったが、本家の才谷屋は土佐有数の豪商であり、下手な上士よりは裕福な家庭環境にあった。

同時代の龍馬評 

「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
  • 武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
  • 勝海舟
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
  • 西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」
「過激なることは豪も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

家系・家族

清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智左馬助秀満の末裔を称する[18] 。坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来している。しかしこれは後世の創作だろうとする声も強い[19]家紋は「組み合わせ角に桔梗」。

坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。

1588年の才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎない。どうやら3代目太郎左衛門までは公認の名字をもたぬ百姓身分と考えられる。2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。4代目守之、5代目正禎は才谷村のの一つである「大浜」を家名としてなのりはじめる。

1666年、3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にでて質屋を開業(屋号は才谷屋)し、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。1730年ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。1770年)、6代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。次男直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家3代目直足は白札郷士山本覚右衛門の次男としてうまれ坂本家へ養子としてはいった。直足の次男が直陰(坂本龍馬)である。

文献

原典

  • 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社
    • 各巻タイトル: 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題
  • 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p907 - 952
  • 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 増補改訂版
  • 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店
    • 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p987 - 1032
  • 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005
    • 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌: p1045 - 1090
  • 1988年12月、岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』1(『日本史籍協会叢書』115)、東京大学出版会、ISBN 4130977156
    • 日本史籍協会1926年刊の複製
  • 1989年1月、岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』2(『日本史籍協会叢書』116)、東京大学出版会、1926年刊の復刊
    • 日本史籍協会1926年刊の複製
  • 1995年8月 坂本龍馬、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『PHP文庫』)、PHP研究所、ISBN 4569567940
  • 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』1、北泉社、ISBN 4938424665
    • 日本史籍協会 1926年刊の複製
  • 1996年9月 坂本龍馬著、日本史籍協会編『坂本竜馬関係文書』2、北6年刊の複製
  • 1999年8月 京都国立博物館編『坂本龍馬関係資料』京都国立博物館
  • 2003年12月 坂本龍馬、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『講談社学術文庫』)、講談社、ISBN 4061596284

龍馬を研究する上で参考になる主な文献(書籍編)

  • 弘松宣枝『坂本龍馬』(民友社、1896年)
  • 瑞山会編『維新土佐勤王史』(冨山房、1912年。睦書房、1969年。日本図書センター、1977年。マツノ書店、2004年)
  • 千頭清臣『坂本龍馬』(博文館、1914年。土佐史談会、1985年。新人物往来社、1995年新人物往来社版は書名を『坂本龍馬伝』に変更している)
  • 寺石正路『土佐偉人伝』(沢本書店、1914年。歴史図書社、1976年)
  • 尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』(文化生活研究会、1925年。『尾佐竹猛全集』1、実業之日本社、1948年に収録。『尾佐竹猛著作集』9、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 坂本中岡銅像建設会編『雋傑坂本龍馬』(坂本中岡銅像建設会事務所、1927年。象山社、1981年)
  • 徳富蘇峰『土佐の勤王』(民友社、1929年)
  • 平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末』(万里閣書房、1929年)
  • 平尾道雄『維新暗殺秘録』(民友社、1930年。白竜社、1967年。新人物往来社、1978年。河出文庫、1990年)
  • 尾佐竹猛『幕末維新の人物』(学而書院、1935年。『尾佐竹猛著作集』20、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 維新史料編纂事務局編『維新史』全5巻(明治書院、1939~1941年。吉川弘文館、1983年)
  • 平尾道雄『海援隊始末記』(大道書房、1941年)
  • 尾佐竹猛『明治維新』上・中・下の一・二(白揚社、1942~1944年・1949年。宗高書房、1978年。『尾佐竹猛著作集』16・17、ゆまに書房、2006年に収録)
  • 平尾道雄『武市瑞山と土佐勤王党』(大日本出版社峯文荘、1943年)
  • 遠山茂樹『明治維新』(岩波全書、1951年。『遠山茂樹著作集』1、岩波書店、1991年に収録。岩波同時代ライブラリー、1995年。岩波現代文庫、2000年)
  • 井上清『日本現代史I 明治維新』(東京大学出版会、1951年)
  • 高橋信司『土佐藩憲政思想成立史』(高知市民図書館、1958年)
  • 市井三郎『哲学的分析』(岩波書店、1963年)
  • 池田諭『坂本竜馬』(大和選書、1964年)
  • 池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)
  • マリアス・ジャンセン、平尾道雄・浜田亀吉訳『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社、1965年)
  • 平尾道雄『土佐藩』(吉川弘文館、1965年)
  • 平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)
  • 小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』(中央公論社、1966年。中公文庫、1974年。中公バックス、1984年)
  • 平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1975年)
  • 山本大『真説坂本竜馬』(人物往来社、1968年。新人物往来社、1974年。新人物往来社版は書名を『坂本竜馬』に変更)
  • 土居晴夫『坂本家系考』(土佐史談会、1968年)
  • 松浦玲『勝海舟』(中公新書、1968年)
  • 今井幸彦『坂本竜馬を斬った男』(新人物往来社、1971年)
  • 石井孝『勝海舟』(吉川弘文館、1974年)
  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)
  • 絲屋寿雄『坂本龍馬』(汐文社、1975年)
  • 山本大『近世土佐と民権思想』(高知市民図書館、1976年)
  • 尾崎秀樹『歴史文学論』(勁草書房、1976年)
  • 平尾道雄『中岡慎太郎陸援隊始末記』(中公文庫、1977年)
  • 嶋岡晨『龍馬追跡』(新人物往来社、1977年。復刻『坂本龍馬の生涯』新人物往来社、1983年)
  • 市井三郎『歴史を創るもの』(第三文明社レグルス文庫、1978年)
  • 松岡英夫『大久保一翁』(中公新書、1979年)
  • 石尾芳久『大政奉還と討幕の密勅』(三一書房、1979年)
  • 平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』(新人物往来社、1979年)
  • 入交好脩『武市半平太』(中公新書、1982年)
  • 宮地佐一郎『坂本龍馬 男の行動論』(PHP研究所、1983年。PHP文庫、1985年)
  • 吉永豊海『土佐海事法制史』(山海堂出版、1983年)
  • 坂本藤良『幕末維新の経済人』(中公新書、1984年)
  • 土居晴夫『坂本龍馬とその一族』(新人物往来社、1985年)
  • 平尾道雄『明治維新と坂本龍馬』(新人物往来社、1985年)
  • 平尾道雄ほか『坂本龍馬読本』(新人物往来社、1985年)
  • 関家新助『近代日本の反権力思想』(法律文化社、1986年)
  • 山田一郎『坂本龍馬 隠された肖像』(新潮社、1987年)
  • 鹿野政直『「鳥島」は入っているか』(岩波書店、1988年)
  • 小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』(新人物往来社、1988年。コンパクト版、2007年)
  • 山田一郎ほか『坂本龍馬 海援隊隊士列伝』(新人物往来社、1988年)
  • 石井寛治『大系日本の歴史12 開国と維新』(小学館、1989年。小学館ライブラリー、1993年)
  • 山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)
  • 井上勲『王政復古』(中公新書、1991年)
  • 宮地佐一郎『龍馬百話』(文春文庫、1991年)
  • 下関市立長府博物館編『坂本龍馬と下関』(下関市立長府博物館、1992年)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(PHP研究所、1992年)
  • 田中彰『日本の歴史15 開国と倒幕』(集英社、1992年)
  • 吉村淑甫『近藤長次郎』(毎日新聞社、1992年)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(中公新書、1993年)
  • 木村幸比古『龍馬暗殺の真犯人は誰か』(新人物往来社、1995年)
  • 田中彰『幕末維新史の研究』(吉川弘文館、1996年)
  • 菊地明山村竜也編『坂本龍馬日記』上・下(新人物往来社、1996年)
  • 吉田常吉『幕末乱世の群像』(吉川弘文館、1996年)
  • 青山忠正『幕末維新 / 奔流の時代』(文英堂、1996年)
  • 木村幸比古『龍馬の時代』(高知新聞社、1997年。高知新聞社追補版、2000年。淡交社、2006年)
  • 新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』(新人物往来社、1997年)
  • 松岡司『武市半平太伝』(新人物往来社、1997年)
  • 菊地明『龍馬 最後の真実』(筑摩書房、1998年。ちくま文庫、2009年)
  • 芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』(髙城書房、1998年)
  • 松岡司『中岡慎太郎伝』(新人物往来社、1999年)
  • 小美濃清明『坂本龍馬・青春時代』(新人物往来社、1999年)
  • 前田秀徳『龍馬からのメッセージ』(自費出版、2000年/発売:南の風社)写真多数
  • 青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)
  • 菊地明『龍馬暗殺完結篇』(新人物往来社、2000年)
  • 下関市立長府博物館編『三吉慎蔵と坂本龍馬』(下関市立長府博物館、2001年)
  • 松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)
  • 山本栄一郎『真説・薩長同盟』(文芸社、2001年)
  • 菊地明『坂本龍馬進化論』(新人物往来社、2002年)
  • 家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書、2002年)
  • 井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2002年)
  • 宮川禎一『龍馬を読む愉しさ』(臨川選書、2003年)
  • 松岡司『定本坂本龍馬伝』(新人物往来社、2003年)
  • 成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治』(朝日選書、2003年)
  • 福井市立郷土歴史博物館企画・制作・編集『天下の事成就せり - 福井藩と坂本龍馬 - 』(福井市立郷土歴史博物館、2004年)
  • 菅宗次『龍馬と新選組』(講談社選書メチエ、2004年)
  • 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)
  • 小椋克己土居晴夫監修『図説坂本龍馬』(戎光祥出版、2005年)
  • 京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』(京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)
  • 土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)
  • 井上勝生『シリーズ日本近現代史(1) 幕末・維新』(岩波新書、2006年)
  • 高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)
  • 木村幸比古『龍馬暗殺の謎』(PHP新書、2007年)

龍馬を研究する上で参考になる主な文献(論文編)

  • 岩崎鏡川「坂本龍馬先生に就て」(『土佐史談』15、1926年)
  • 尾佐竹猛「坂本龍馬の『藩論』」(『明治文化研究』9、1934年。『土佐史談』46、1934年に再録)
  • 松村巌「坂本龍馬」(『土佐史談』68、1939年。『続新選組史料集』新人物往来社、2006年に再録)
  • 赤尾藤一「幕末に於ける薩長両藩の提携成立と坂本龍馬等土州藩士の周旋運動に就いて」(『中部日本歴史地理学会論文集』1、飯島書店、1941年)
  • 森銑三「坂本龍馬」(『伝記』1月号、1943年。『森銑三著作集 続編』第1巻、中央公論社、1992年に再録)
  • 塩見薫「才谷屋のことなど」(『寧楽史苑』8、1952年)
  • 塩見薫「文久年間の大政返上論-坂本龍馬伝の一説-」(『日本歴史』95、1956年)
  • 高橋信司「いわゆる「藩論」」(『高知短期大学社会科学論集』2、1956年)
  • 塩見薫「坂本龍馬語録と伝えられる『英将秘訣』について」(『歴史学研究』208、1957年)
  • 塩見薫「坂本龍馬の元治元年-薩摩藩への結びつきを中心に-」(『日本歴史』108、1957年)
  • 池田敬正「土佐藩における討幕運動の展開」(『史林』40‐5、1957年。三宅紹宣編『幕末維新論集4 幕末の変動と諸藩』吉川弘文館、2001年に再録)
  • 平尾道雄「龍馬と勝海舟書翰」(『土佐史談』93、1958年)
  • 井上清「坂本龍馬」(『朝日ジャーナル』157、1962年。『日本の思想家』I、朝日新聞社、1962年、および『新版日本の思想家』上、朝日新聞社、1975年に再録)
  • 原口清「「藩論」覚え書」(『日本歴史』176、1963年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所考」(『土佐史談』115、1966年)
  • 土居晴夫「兵庫海軍局始末」(『歴史と神戸』25、1967年)
  • 土居晴夫「海軍操練所始末」(『歴史と神戸』26、1967年)
  • 土居晴夫「神戸海軍操練所史考」(『軍事史学』13、1968年。「坂本龍馬の神戸時代」と改題の上、『平尾道雄追悼記念論文集』高知市民図書館、1980年に再録)
  • 広谷喜十郎「勃興期の才谷屋に関する一考察」(『土佐史談』122、1969年)
  • 土居晴夫「神戸海軍塾の青年群像」(『神戸史談』226、1970年)
  • 鵜沢義行「幕末における尊攘的開明論と坂本龍馬の周辺について」(『日本法学紀要』11・12、1970年)
  • 平尾道雄「高杉晋作と坂本龍馬」(『中央公論』86-5、1971年)
  • 飯田嘉郎「伊呂波丸事件について」(『海事史研究』16、1971年)
  • 船津功「「大政奉還」をめぐる政権構想の再検討-坂本龍馬「新官制案」の史料批判を中心に-」(『歴史学研究』375、1971年)
  • 井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)(二)」(『史学雑誌』81-11・81-12、1972年)
  • 石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」(『歴史学研究』380、1972年)
  • 井上勲「激動期の政治リーダー-坂本龍馬と中岡慎太郎-」(『エコノミスト』51-42、1973年)
  • 山本大「坂本龍馬の大義料」(『日本歴史』322、1975年)
  • 池田敬正「司馬遼太郎『竜馬がゆく』をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)
  • 絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて-」(『歴史評論』317、1976年)
  • 飛鳥井雅道「「奉還」と「討幕」-坂本龍馬の三つの文書-(上)」(京都大学『人文学報』41、1976年)
  • 鹿野政直「国民の歴史意識・歴史像と歴史学」(『岩波講座日本歴史24別巻1』岩波書店、1977年)
  • 尾崎秀樹「龍馬像の変遷」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • 井上勲「坂本龍馬の可能性」(『歴史と人物』80号、1978年)
  • 亀掛川博正「公議政体論と土佐藩の動向(I)(II)(III)」(『政治経済史学』154・156・157、1979年)
  • 鈴木教道「西郷隆盛の思想と人格-幕末における坂本龍馬の人間像との比較において-」(『現代科学論叢』13、1979年)
  • 山本大「坂本龍馬の思想と行動」(『歴史と人物』129、1982年)
  • 井上勝生「維新変革と後発国型権力の形成-王政復古クーデタを中心に-」(『日本史研究』271、1985年。井上勝生『幕末維新政治史の研究』塙書房、1994年に再録)
  • マリアス・ジャンセン、秦郁彦訳「坂本龍馬と近代日本」(『土佐史談』170、1985年)
  • 山本大「海援隊と長崎商会」(『土佐史談』170、1985年)
  • 土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談』170、1985年)
  • 広谷喜十郎「坂本龍馬と立川関」(『土佐史談』170、1985年)
  • 小西四郎「坂本龍馬とその時代」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 山本大「藩意識をなぜ持たなかったか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 毛利敏彦「薩長同盟をなぜ画策したか」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 松浦玲「「船中八策」の真意は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 井上勲「大政奉還立案の真相は」(『別冊歴史読本-坂本龍馬の謎-』新人物往来社、1985年)
  • 青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』557、1986年)
  • 石尾芳久「坂本龍馬の死-言論と暴力-」(『関西大学法学論集』36-3・4・5合併号、1986年)
  • 松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流兵法目録」(『日本歴史』454、1986年)
  • 土居晴夫「検証・坂本龍馬の書状」(『歴史と神戸』144、1987年)
  • 荒尾親成「検証・坂本龍馬の書状-土居晴夫氏に答える-」(『歴史と神戸』145、1987年)
  • 遠山茂樹「坂本龍馬が活動した時代」(小西四郎ほか編『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年。のち、『遠山茂樹著作集』第1巻、岩波書店、1991年に再録)
  • 井上清「明治維新と中岡慎太郎-坂本龍馬とくらべて-」(『明治維新と中岡慎太郎』北川村、1990年。『井上清史論集1明治維新』岩波現代文庫、2003年に再録)
  • 松浦玲「坂本龍馬の実像」(『日本近代史の虚像と実像』第1巻、大月書店、1990年。松浦玲『検証・龍馬伝説』論創社、2001年に再録)
  • 梶輝行「幕末土佐藩における西洋砲術の導入・伝習-徳弘孝蔵を中心に-」(『史叢』50、1993年)
  • 箱石大「坂本龍馬の人物像をめぐって」(『歴史評論』530、1994年)
  • 堤克彦「横井小楠の交友関係-小楠と龍馬を中心として-」(『熊本史学』70・71合併号、1995年)
  • 一坂太郎「薩長同盟の新事実-坂本龍馬周旋説の虚実-」(『歴史読本』41-19、1996年。のち、新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』新人物往来社、1997年に再録)
  • 家近良樹「「大政奉還論」の系譜」(『歴史読本』42-8、1997年)
  • 三上一夫「福井時代の坂本龍馬」(『歴史読本』42-8、1997年)
  • 岸本覚「幕末海防論と「境界」意識-「志士」集う「場」を中心に-」(『江戸の思想9 空間の表象』ぺりかん社、1998年)
  • 木村幸比古「龍馬関係資料について」(『霊山歴史館紀要』13、2000年)
  • 青山忠正「土佐山内家重臣・寺村左膳-薩土盟約と政権奉還建白-」(佐々木克編『それぞれの明治維新』吉川弘文館、2000年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 青山忠正「文体と言語-坂本龍馬書簡を素材に-」(『佛教大学総合研究所紀要』8、2001年。青山忠正『明治維新の言語と史料』清文堂出版、2006年に再録)
  • 木村幸比古「海舟と龍馬」(『霊山歴史館紀要』14、2001年)
  • 福田一彰「大政奉還に至る坂本龍馬の尊王思想について」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
  • 木村幸比古「龍馬の剣術」(『霊山歴史館紀要』15、2002年)
  • 松下祐三「薩長商社計画と坂本龍馬-坂崎紫瀾の叙述をめぐって-」(『駒沢史学』59、2002年)
  • 三宅紹宣「薩長盟約の歴史的意義」(『日本歴史』647、2002年)
  • 高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 高橋秀直「幕末史の中の薩長同盟」(『幕末から明治へ』同志社大学人文科学研究所、2004年)
  • 北野雄士「横井小楠と坂本龍馬-その共通性と異質性-」(『大坂産業大学人間環境論集』3、2004年)
  • 田中彰「天保の青年たちの「明」と「暗」」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画-杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて-」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 松下祐三「薩長商社計画の虚実」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 前田宣裕「竜馬暗殺と会津藩」(『歴史読本』49-7、2004年)
  • 井上勲「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年)
  • 中城正堯「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊-『中城文庫』誕生の発端と内容」(『大平山』第30号、2004年)
  • 小林和幸「谷干城の慶応三年」(『駒沢史学』第64号、2005年)
  • 高橋秀直「薩長同盟の展開-六ヶ条盟約の成立-」(『史林』452、2005年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録)
  • 青山忠正「文久・元治年間の政局と龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 宮川禎一「坂本龍馬の生涯と書簡」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 三浦夏樹「土佐と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 古城春樹「下関と坂本龍馬」(京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』京都新聞社、2005年)
  • 青山忠正「龍馬は『暗殺』されたのか」(NHK学園機関紙『れきし』第92号、2005年)
  • 松岡司「坂本龍馬「京都日誌」」(『歴史読本』51-7、2006年)
  • 大塚桂「大政奉還論・再考(1)(2)」(『駒澤法学』第18・19号、2006年)
  • 桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)
  • 桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • 濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)
  • 松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)

注釈

  1. ^ 「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。なお、「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で、龍馬自身は「竜」の字体を使ったことがないが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で使われたことや、「竜」が常用漢字に採用されたこともあり、慣用化されている。
  2. ^ 松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・池田敬正「司馬遼太郎「竜馬がゆく」をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)・絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎「竜馬がゆく」によせて-」(『歴史評論』317、1976年)などが参考になる。
  3. ^ 平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)・平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1976年)・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)。
  4. ^ 北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、実際には「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり、免許でもなければ皆伝でもなく、北辰一刀流としては一番低い「初目録」であった。ただ千葉道場で塾頭を勤めたことや同世代の人物の証言に「免許皆伝を伝授された」という証言も残るため、免許皆伝状は単に現存していないものと思われる(龍馬の遺品は災害や盗難等で幾つか損失している)。ちなみに、「北辰一刀流長刀兵法・目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。
  5. ^ 『維新土佐勤王史』「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
  6. ^ 脱藩理由は定かではないが、龍馬が吉田東洋暗殺を企てる武市瑞山の方針に反対だったからではないかとの指摘もある。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年)・石尾芳久大政奉還討幕密勅』(三一書房、1979年)などを参照。
  7. ^ 『維新土佐勤王史』「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」
  8. ^ 一説には勝を暗殺するために面会に行ったとされるが、これには色々と異説があり、正確な史実は確定していない。ただし、勝を殺そうとして、逆に諭されて勝の弟子になった人間がたくさんいるのは事実。また、入門時期や、一緒に勝を訪問した人物についても諸説ある。諸説を、春名徹「勝海舟」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しくまとめている。
  9. ^ ただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。 詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  10. ^ しかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。
  11. ^ これには、薩摩藩側が龍馬らの航海技術に利用価値を感じた点も大きいと指摘されている(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)
  12. ^ 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)。
  13. ^ なお薩長同盟については龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり(青山忠正など)、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。その後、青山忠正を皮切りに、芳即正三宅紹宣宮地正人高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。
  14. ^ ただし、「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、史料的根拠は見当たらないのである。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
  15. ^ 詳細は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については吉永豊実『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。
  16. ^ 小松清廉が先であるという異論もある。
  17. ^ 加治将一 (2004). 石の扉 フリーメーソンで読み解く歴史. 新潮社.
  18. ^ これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。自身は紀姓で紀貫之の子孫と称したという。
  19. ^ 土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)などが詳しい。

船中八策

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

船中八策(せんちゅうはっさく)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩士の坂本龍馬が起草した新国家体制の基本方針とされるものである。

沿革

1867年6月、坂本はいろは丸沈没事件を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、のちに成文化されたもの、とされる。

ただし、原文書も写本も現存せず、詳しい成立過程を証明する史料もないため、青山忠正松浦玲などの歴史家は、龍馬が作成に関わっていない可能性があることを指摘している。また、もともとのオリジナルは上田藩士で軍学者赤松小三郎の構想とも言われている。

また、船中八策の他に「新政府綱領八策」というものが存在する。近年の学説では「新政府綱領八策」こそが後藤象二郎に提案したものであるとの見解がある。しかし、新政府綱領八策は1868年11月に坂本の直筆で書かれているので、時期的にみれば新政府綱領八策は新政府の構想会議用資料として複数作られたものと推測できる。

新政府綱領八策と船中八策は類似点が多いが船中八策のほうが完成度が高く、坂本龍馬を英雄視させるために後年になって創作された可能性も否定できない。なお現在、新政府綱領八策は国立国会図書館下関市立長府博物館に保存されている。

原文

一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六策 海軍宜シク拡張スベキ事
七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事
八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事

内容

公議政体論のもと、

  1. 憲法制定
  2. 上下両院の設置による議会政治
  3. 不平等条約の改定
  4. 海軍力の増強
  5. 御親兵の設置
  6. 金銀の交換レートの変更

など、当時としては画期的な条文が平素な文章として記されている。福井藩の政治顧問であり、坂本との親交もあった横井小楠の思想からの影響も指摘されている。

8番目の経済政策は、海援隊を組織して貿易を行なっていた坂本龍馬らしい着眼点といえる(金銀の交換レートが国内と国外で異なっていると、二国間で金銀の交換を行なうだけで利益を上げられるので、貿易や物価安定に好ましくない)。

後の明治政府が憲法の制定と議会開設まで政府機構が何度も変更されて迷走したことを考えると、時代を先取りしていると評価される。

外部リンク

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2009.12.04

ちかごろのこと  The apartment I will live in from April has been contracted in November.

   I retired in December, 2008.

 It was 60 years old.

 Now, I am a researcher in a peaceful museum in Kochi City.

 I go to Kochi junior college at night.

 I will transfer Tokushima Bunri university as the third grade next April.

 I  learn cultural assets studies.
    The university is on the mountain of Sanuki city in Kagawa .

The apartment I will live in from April has been contracted in November.

The apartment has 1 kitchen .

In the apartment, the appliance is provided. The Internet is also free.

 

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テキストが打てる。画面・本体はてのひらサイズ。キーボードはその二倍ぐらい。テキストデータはパソコンと互換できる。長年、こんな機械がほしかった。

 テキストが打てる。画面・本体はてのひらサイズ。キーボードはその二倍ぐらい。テキストデータはパソコンと互換できる。長年、こんな機械がほしかったのです。

 本日午後、やっと、そんな機械を手に入れました。

 毎日、バックに入れて持ち歩くことになると思います。

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2009.12.05

 高知市 侘助椿(わびすけつばき)が、なぜ、侘助というか……。

  十二月四日夜、授業で「侘助椿(わびすけつばき)」が、なぜ、侘助というかという話がでました。
 インターネットを徘徊してみたら、こんな文章がありました。

 侘助椿     薄田泣菫

        一

 私は今夕暮近い一室のなかにひとり坐ってゐる。
 灰色の薄くらがりは、黒猫のやうに忍び脚でこつそりと室(へや)の片隅から片隅へと這(は)ひ寄つてゐる。その陰影が壁に添うて揺曳くする床の間の柱に、煤(すす)ばんだ花籠がかかつてゐて、厚ぼつたい黒緑(くろみどり)の葉のなかから、杯形(さかづきがた)の白い小ぶりな花が二つ三つ、微かな溜息(ためいき)をついてゐる。
 侘助(わびすけ)。侘助椿だ。―友人西川一草亭(いっさうてい)氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏(ふ)み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。

        二

 言ひ伝へによると、侘助椿は加藤肥後守(ひごのかみ)が朝鮮から持ち帰つて、大阪城内に移し植ゑたものださうだ。肥後守は侘助椿のほかにも、肩の羽の真つ白な鵲(かささぎ)や、虎の毛皮や、いろんな珍しい物をあちらから持ち帰つたやうに噂(うはさ)せられてゐる。現に京都清水(きよみづ)の成就院では、石榴(ざくろ)のそれのやうな紅い小さな花をもつた椿を「本侘」と名づけて、肥後守が朝鮮から持ち帰つたのは、自分の境内にある老樹だと言つてゐる。実際世間といふものはいい加減なもので、肥後守が腕つ節の人一倍すぐれて強かつた人だけに、荷嵩(にかさ)になりさうな物だつたり、由緒がはつきり判(わか)りかねる品だつたら、その渡来の時日がぴつたり註文に合はうが、合ふまいが、そんなことには一向頓着なく、何もかもこの強者(つはもの)の肩に背負はすつもりで、
「はて、こいつも肥後守ぢや」
「ほい、お次もさうぢや」
といつたふうに、みんな清正の荒くれだつた手がかかつてゐたことに決めてゐるらしい。

        三

 この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗(げんぞく)侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。
 それはともかくも、侘助椿は実際その名のやうに侘びてゐる。同じ椿のなかでも、厚ぽつたい青葉を焼き焦がすやうに、火焔の花びらを高々と持ち上げないではゐられない獅子咲(ししざき)のそれに比べて、侘助はまた何といふつつましさだらう。黒緑の葉蔭から隠者のやうにその小ぶりな清浄身(しやうじやうしん)をちらと見せてゐるに過ぎない。そして冷酒のやうに冷えきつた春先の日の光に酔つて、小鳥のやうにかすかに唇を顫(ふる)はしてゐる。侘助のもつ小形の杯では、波々(なみなみ)と掬(く)んだところで、それに盛られる日の雫(しずく)はほんの僅かなものに過ぎなからうが、それでも侘助は心(しん)から酔ひ足(た)つてゐる。

        四

「この花には捨てがたい侘があるから。」
かういつて、同じ季節の草木のなかから侘助椿を選んで、草庵の茶の花とした茶人の感覚は、確かに人並すぐれて細かなところがあつた。壁と障子とに仕切られた四畳半の小さな室は、茶人がその簡素な趣味生活の享楽を一(ひとわん)の茶とともに飽喫しようとするには、努めて壁と障子との一重(ひとえ)外に限りもなく拡がつてゐる大きな世間といふものを忘れて、すべて幻想と聯想(れんさう)とを、しつかりとこの小天地の別箇の生活のうちに繋(つな)いでゐなければならぬ。
 それには生活の方式がある。その方式といふのは、長い間かかつて磨かれた簡素な象徴的なもので、例へば、釜の蓋(ふた)の置き場所から、茶杓(ちやしやく)の柄の持ち方に到(いた)るまで、きちんと方式が定まつてゐて、それを定められた通りに再現することによつて、方式それみづからの持つ不思議な力は、壺(つぼ)のやうに小さな茶室に有り余るほどゆつたりとした余裕(ゆとり)と沈静(おちつき)とを与へ、そこにゐる主客いづれもの気持に律動と諧調とを生みつけ、また日ごとにめまぐるしくなりゆく現実の生活とは異(ちが)つた、閑寂と侘とのひそやかな世界を皆のうちに創造しようとする。
 そのひそやかな世界では、床の間に懸つた古い禅僧の法語の軸物、あられ釜、古渡(こわた)りの茶入(ちやいれ)、楽茶(らくぢやわん)、茶杓、――といつたやうな道具が、まるで魔法使の家の小さな動物たちが、主人の老女の持つ銀色の指揮杖の動くがままに跳ねたり躍つたりするやうに、それぞれの用に役立ちながら、みんな一緒になつて茶室になくてはならない、大切な雰囲気をそこに造り上げようとする。大切な雰囲気とはいふまでもなく、閑寂と侘とのそれである。
 むかし、小堀孤蓬庵が愛玩したといふ古瀬戸(こせと)の茶入「伊予簾(いよすだれ)」を、その子の権十郎が見て、

「その形、たとへば編笠といふものに似て、物ふりてわびし。それ故に古歌をもつて、
   あふことはまばらにあめる伊予簾
      いよいよ我をわびさするかな

 我おろかなるながめにも、これをおもふに忽然(こつぜん)としてわびしき姿あり。また寂莫たり」
といつたのも、その茶入が見るから閑寂な侘しい気持を、煙のやうに人の心に吹き込まないではおかなかつたのを嘆賞したものなのだ。

 もしか茶室の雰囲気に少しでももの足りなく感じたら、そんな場合には何をおいても床の間の抛入(なげいれ)の侘助の花を見ることだ。自然がその内ぶところに秘めてゐる孤独感が、をりからの朝寒夜寒(あささむよさむ)に凝(こ)り固まつて咲いたらしい、この花の持味は、自然の使者として、その閑寂と侘心とを草庵にもたらすのに充分なものがあらう。

 私は暗くなつた室でこんなことを思つてゐた。椿の花は小さく灰色にうるんで、闇の中に浮き残つてゐた。

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高知市 一つの歌をうたうために、こんなに練習しているのは生まれて初めてかもしれません。

 一つの歌をうたうために、こんなに練習しているのは生まれて初めてかもしれません。
 十二月四日夜、学友のギターで練習させていただきました(これで二回目です)。
 若い女性のトレーナーもつきました。
 歌は「ふれあい」です。

   悲しみに 出会うたび
   あの人を 思い出す
   こんな時 そばにいて
   肩を抱いてほしいと

 までは、ほぼいいのですが、つぎで音程が崩れてしまいます。

   なぐさめも 涙もいらないさ
   ぬくもりが ほしいだけ
   ひとはみな 一人では
   生きてゆけない ものだから

 ギターリストは、もう一回、練習につきあってくれるそうです。
 ところで、これは十二月二十三日の「望年会」での「歌手デビュー」のためのものです。

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2009.12.06

十二月四日の俳句です。

 十二月四日の県立高知短期大学の「文化芸術論」の時間につくった俳句です。

  ○  ○  ○

草そうが集う夜学の誇らしさ

カラオケの練習してますユー・チユーブ

満月が空にはりつくロックな夜

新店は客とりつくす構えにて

鍵忘れ「持ってきてよ」と命ぜられ

弾丸(たま)宿し戦後を生きた父のこと

先生の「俳句と戦争」聞いている 開戦記念日 四日後である

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2009.12.07

「オバマ」も「鳩山」も……。アメリカも日本も政治の潮目が変わってきています。

 アメリカCNNが四日公表した世論調査結果でオバマ・アメリカ大統領にたいするアメリカ国民の不支持率が50%となりました。
 私はオバマさんについて、彼の一連の空虚な演説を聴き、「彼は口先だけの人間だと」判断してきました。
 実際にやっていることは、国民のためにも世界にもあまり役に立つものではありませんね。
 日本のアメリカ軍基地の再編のごり押しもそうですし、一日のアフガン新戦略も、もってのほかです。
 アメリカ国民も見抜いてきていると思います。
 夢をたくさんふりまいたぶんだけ失望も早いと思います。

 日本の民主党も同じです。
 新政権の最初の国会は終わりましたが、私の望みだった後期高齢者医療制度は、いまだに、そのままです。
 六日の高知新聞の見出しに「政局最前線 無策 鳩山政権漂流 米『猛圧力』外相窮地」。末期政権用に用意された言葉の数々です。

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今井正監督の戦中の仕事と反省。

 映画監督の今井正さんは、戦争の時代に侵略戦争賛美と思われる映画をいくつかつくっています。
 一九三九年、「われらが教官」(東宝映画)。軍国美談もの。モデルは飯塚部隊長。
 四〇年、「女の街」(東宝映画)。戦地に夫を送った妻がけなげに留守を守る話。
 四三年、「望楼の決死隊」(東宝映画。後援・朝鮮総督府)。作品の時代は三五年で、日本にとって重要産業地帯だった満州(中国東北部)と朝鮮の国境でたたかう日本警察官たちの活躍を活劇風に描いた作品。
 四四年、「怒りの海」(東宝映画)。戦艦建造学の権威・平賀譲博士がモデルです。二三年、ワシントン軍縮会議で主力艦力の比をアメリカ、イギリス、日本五対五対三に決められた日本海軍は、平賀博士を中心に量より質で勝負しようと決意しました。俊英艦の建造に苦労する博士……。

 こうしたことについて今井監督は、どう思っていたでしょうか。
  『今井正「全仕事」 スクリーンのある人生』(映画の本工房ありす。九〇年十月一日)に、そのことを書いた「屑屋(くずや)開業」という文章が載っていました(初出・『映画手帖』五〇年十二月号)。
  「私は学生時代に左翼運動をやり、何回か引っ張られた後転向した。そして戦争中に、何本かの戦争協力映画を作った。私は、そのことを、私の犯した誤りの中で最も大きな誤りであったと深く恥じている。しかし、戦争が終わった後も、いかなる立場を守るべきかということを永い間、私はためらっていた。前途に横たわる困難な時代を、果たして動揺なしに切り抜けられるだろうか---自分の弱さを知っているだけに、私のためらいは大きかった。心の中のエゴイズムと闘いながら、その問題を割り切ることができるまでに年余の月日を経過した」
 「私は、この前の戦争に際して犯した誤りは、二度とくり返してはならないと考える。自分の信念を忠実に守り抜いていきたいと考える。そのために、ハーモニカすら鳴らすことができなかったとしても私の心は満足と誇りを感ずるだろう」

 今井監督は、戦後、四六年に戦争中の財閥を批判した「民衆の敵」(東宝映画)、九年に「青い山脈 前後編」(藤本プロ・東宝)、五〇年に「また逢う日まで」(東宝)などの監督をしていました。
 そして、この文章を書いた当時は、アメリカ占領軍のレッド・パージ政策のもと「アカ」だということで映画界からボイコットされていました。

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2009.12.08

短歌「 すごいよね。君の瞳の 星の中」。 

すごいよね 君の瞳の 星の中 将来、未来 つまっているよね

いま僕も 「日本の洗濯」準備する 二年半後に おどりでるはず

真夜中に 十二冊目の 構想を 語りぬいてる 妻、眠たそう

「大丈夫? ちゃんとしいよ」と どすきかす 娘世代の 学友のこと

車いす ぐんぐんとおす のっぽの男子男性(こ) ほうけて見てる 「君はすごいよ」

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短歌 「音程がずれてるソロを あきもせず 直してくれる 友、ギタリスト」。【ご指摘を受け変更しました】

  先生、学生たちの「望年会(ぼうねんかい)」に向けて

「チケットは五十売れたわ」 ささやかな「望年会」は福引もある

女性たち 「四万十川」を 歌うらし 夜の学び舎() うたごえの中

「フラダンス、やってみようか」笑んでいる 素敵なアラフィー(五十歳前後) わが学友は

音程がずれてるソロを あきもせず 直してくれる 友、ギタリスト   

「学び舎を織り込む歌も準備中」 楽しくなりそな「望年」の日よ

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2009.12.09

「(大きな体をしているくせに)心も体もガラスみたいに壊れやすい人」という評価。

 朝、起きたら風邪が悪化していました。月曜日の夜から少しおかしかったのです。

 午前、午後の予定をキャンセルして、薬を飲んで、ひたすら寝ました。「夜の授業だけは休みたくない」という思いです。

 妻は、「朝出て、夜まで戻らない」でしたが、昼にいったん家に戻り、「料理教室でつくったものだからね」と枕元に食料を置いてくれて、また、どこかへ出かけていきました。

 午後三時過ぎ、アップ。夜の学校へいく準備をしています。

 ちかごろは、妻から「(大きな体をしているくせに)心も体もガラスみたいに壊れやすい人」という評価を受けています。

 なんとかしなければ……。

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千田 是也(せんだ これや)さんのペーネームは「千駄ケ谷のコレヤン(コリアン)」から……。

 演出家の千田 是也(せんだ これや。1904年7月15日 - 1994年12月21日)さんのペーネームの由来を知りました。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書いていたことです。

 芸名は関東大震災の際、千駄ケ谷で暴徒に朝鮮人に間違えられ殺されかけた経験から“千駄ケ谷のコレヤン(コリアン)”をもじったもの。

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2009.12.10

短歌「高知市民図書館での展示会」。

朝鮮の引き揚げ体験刻み込む 八十枚がロビーで語る

「犠牲者が私に描かせた」引き揚げを絵にした女性(ひと)の思いの熱さ

「わが父はシベリア抑留」朝鮮の引き揚げの絵の前の語らい

次々と若い記者たち訪れて引き揚げの絵に光があたる

「私も語り継ごうの記事書いた」 コピー持ちくる 若い記者あり

「京城(けいじょう。ソウル)で生まれ育った」 中三の引き揚げ語る 図書館の客

「すばらしい。ぜひ本にして」 声あがる 朝鮮引き揚げ 絵たちの力

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2009.12.11

When I meet sadness  「ふれあい」の英語訳です。

 十二月十日につくったものです。

When I meet sadness
I remember you acutely.
I wish he would be stand by me,
and hold on me.
The comfort and tears are unneceaaary.
I only want warmth.
All people can't live alone.
Everybody need someone.
When I feel empty,
I want him to be with me.
There is no words.
We sing that lovely song.
I want to touch his heart.
That brings happinss to me.
All people can't live alone.
Everybody need someone.
I want to touch his heart.
That brings happinss to me.

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2009.12.12

「遊びをせんとや生まれけむ…… 遊ぶ子どもの声きけば わが身さへこそゆるがるれ」。

 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に、こんな文章が載っているそうです。

 遊びをせんとや生まれけむ
 戯(たわむ)れせんとや生まれけん
 遊ぶ子どもの声きけば
 わが身さへこそゆるがるれ

  すごい言葉ですね。

 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は、十二世紀末、後白河法王が編集した、今様(新たに流行した七五調四句形式の歌謡)、法文歌(仏教讃歌)、神歌(神祇歌)などを分類集成したものです。

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 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の「……さしさしきしとたくとこそみれ」の訳について。

 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、こんな歌も載っているそうです。

 恋(こ)ひ恋(こ)ひて邂逅(たまさか)に逢(あ)ひて寝(ね)たる夜(よ)の夢は如何(いかが)見る
 さしさしきしとたくとこそみれ

 これを以下のように訳している人がいます。

  恋しくて恋しくて、その恋しい人とやっと逢えて抱き合った、その夜の夢は何を見よう。
 互いの腕と腕を差し交わし、きしりと音がするほど抱きしめあう、そんな夢を見続けていたいよ。

 「さしさしきしとたくとこそみれ」の訳は不自然ではないでしょうか。僕は、もっと直截(ちょくさい)な行為だと見るのが自然だと思います。

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2009.12.13

高知市池の浦戸海軍航空隊の跡地の見学。「山に登ると心臓がパクパク」がなくなっていました。

 十二月十二日は朝から高知市池の浦戸海軍航空隊の跡地の見学。
 案内はFUさん。総勢十二人でした。
 計三箇所の戦闘壕跡をまわりました。
 終わったあと、FUさん、DEさん、NAさん、僕の四人は、FUさんさんが最近発見した同航空隊の貯水槽跡へ。
 四十五度ほどの所を登った山の中腹にありました。
 降りるときは、ずるずると滑り降りて帰ってきました。
 途中で気がついたのですが、例の少し登ると心臓がパクパクというのがなくなっていました。治療の成果です。うれしいことです。

 そして、高知市中央公園に向かい県立高知短期大学学友会、同存続を求める学生の会の仲間と一緒に県立高知短期大学学生募集のアピール。僕は、ハンドマイクの担当でした。

 そして、そして、家に帰って妻と僕の引っ越し荷物のとりまとめ。

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2009.12.15

『君の瞳の星の中 藤原 義一 歌集』です。ダウンロードできます。お読みいただければ幸いです。

「_kiminohitominohosinonaka.doc」をダウンロード

出版の費用がなくて わが歌集 プログの中で読者待ってる

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2009.12.18

高知市出身の北尾一水(きたお・かつみ)の俳句「戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ」の背景。

 二〇〇九年秋、高知市出身の北尾一水(きたお・かつみ)の俳句「戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ」に出合いました。しかし、この俳句の背景がわかりません。そこで、文献にあたって調べてみることにしました。

   【北尾一水ってどんな人でしょうか】

 まず、北尾一水の略歴を調べてみました。
 一九一〇年(明治四十三年)七月八日~九三年(平成五年)三月三十一日。高知県高知市生まれ。
 一九三一年(昭和六年)、大阪外語学校露語科ロシア語科(いまは大阪外国語大学)を卒業しました。
 就職難で二年浪人しました。
 そして、三三年、大阪の堂島大橋の大阪逓信局(おおさかていしんきょく)無線科に就職しました。判任官で給料は六十円。仕事は、ソ連領から発信される無線(ラジオ放送)の傍受でした。その放送は夕方の七時ころからキャッチできました。モスクワで放送中のものをハバロフスクで中継しており、主にどういうニュースを流しているかを、日報にして上司に提出するのです。ときには大阪憲兵隊司令部の憲兵曹長がやってきて放送内容を聞いていきました。
 北尾は、両親のすすめで神戸市内の女学校の教師だった愛子と結婚、神戸市中山手の小さな借家を借りて住みました。
 ところで、一九三三年(昭和八年)一月、京都帝国大学と第三高等学校のOBたちが『京大俳句』を創刊していました。同誌は、一般からも同人を募りました。
 北尾と月刊俳句誌『京大俳句』とのつながりをのべます。
 彼の文章が、同誌に最初に載ったのは一九三六年二月号で、評論「躍動する文学と」でした。彼は、次々と評論を掲載していきます。
 同僚の岸風三楼(きし・ふうさんろう)に誘われて『京大俳句』の句会に参加しました。そこで、同人たちが芸術性だけでなく社会性もある無季俳句をめざしていることを知り、共感して仲間に加わりました。同人費は月額三円でした。このとき、俳号を仁智栄坊としました。ロシア語のニーチェボー(気にするな。勝手にしやがれ)からつけたものです。
 『京大俳句』同誌一九三六年十一月号によると、この句会は、同年九月二十三日、大阪学士会クラブで開かれた京大俳句大阪句会です。同号では「新顔」だったと紹介されています。
 彼は、そこで、つぎの句を出しています。

  戦艦の鋼鐵(かね)の窓より白き吐潟[としゃ]

 続いて同誌の同年十一月号の「三角点」(一般募集作品)に彼の俳句が載ります。

  地の果[はて]に黒き兵士と地の砂字
  戦艦の鋼鐵(かね)の窓より白き吐潟[としゃ]
  戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ
  金星(ヴイナス)とナポレオンこそ西へ行く
  コンムニスト丘上(おか)のキリスト射落しぬ
  昨夜二時レーニン棺を脱出しぬ

 理解しにくい句ばかりですが、私が何を歌っているか知りたかった俳句の初出が、これです。
 一九三六年九月、十月ころの世界の情勢を知らなければ解けそうにありません。
 同誌一九三七年一月号の「会報」の「新会員紹介」の所に彼の名前が載っています。
 入会以降、彼は、同誌を舞台に評論や俳句作品の発表、「三角点」の選評などをします。
 そして、振興俳句に入り、平畑富次郎(静塔)、福永和夫(波止影夫)などと神戸振興俳句綜合句会を推進します。 
 
   【彼の俳句の解説を探しました】

 「ばらのある野」の俳句の解説を探しました。
 『密告 昭和俳句弾圧事件』(小堺昭三。ダイヤモンド社。一九七九年一月十一日)にありました。
 「スペイン内乱の報道写真のなかに、複葉戦闘機が火をふいて垂直に墜落しているのがあった。これが印象的で、その火が真紅のバラの花のように思えた。ファシストたちから攻撃された人民解放軍の戦士たちは、みんなこのようにバラの花園のなかで死んでゆきたい、永遠に眠りたいと希っている……と被圧迫者たちの悲しみを詠んでいるのだった」
 スペイン内戦は一九三六年七月十七日から始まりました。スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争でした。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争いました。人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、フランコをポルトガル、ドイツ、イタリアが支持しました。内戦は三九年四月一日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立しました。この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たしました。
 そこには「白き吐潟」の解説も載っていました。
 「明石海峡を通過する勇壮な軍艦の姿を、
    戦艦の鋼鉄(かね)の窓より白き吐潟
 と詠んだ作品もある。無数のセーラー服の水平が海の戦場へと運ばれてゆく。巨砲をつんだ戦艦は堂々としているが、よく見ると泥酔している帝国海軍の水兵が丸い船窓から顔を出して、蒼い海面にむけてゲエゲエと気持わるそうに吐いていたのだ」

   【治安維持法違反の疑いで逮捕】

 一九四〇年二月十五日朝、北尾が泊まっていた東京大森の親戚の家に、高知県警出身で内務省警保局にいる従弟(いとこ)がやって来ました。
 庭には私服刑事が入ってきていました。
 従弟は「得体の知れん詩やら俳句をつくってとるやつは、片っぱしから洗えということになったんや。治安維持法違反や」
 従弟は、北尾を逮捕しました。
 北尾は、お堀端の丸の内署へつれていかれ、身柄を渡されて地下の留置場にほうりこまれました。
 なお、このとき、逮捕されたのは、彼のほか以下の人たちでした。
 井上隆證(白文地)、中村修次郎(三山)、中村春雄(新木瑞夫)、辻祐三(曽春)、平畑富次郎(静塔)、宮崎彦吉(戎人)、福永和夫(波止影夫)
 内務省警保局保安課の『特高月報』には、この『京大俳句』の第一次検挙グループに関して、以下のような記述が見られます。
 「プロレタリアートの実践運動をインテリゲンチャの知性を活用して側面より指導啓蒙すべく企図し、巧みに合法を偽装して人民戦線的イデオロギーに基づく広汎なる活動をなしつつあるものなり。」
  ここで、当時の治安維持法についてのべておきます。
 治安維持法は創立まもない日本共産党などを標的に、一九二五年に天皇制政府が制定した弾圧法です。「国体を変革」「私有財産制度を否認」することを目的とする結社の組織・加入・扇動・財政援助を罰するとしました。「国体」とは天皇が絶対的な権力をもつ戦前の政治体制で、「私有財産制度を否認」とは社会主義的な思想や運動をねじまげて描いた政府の表現です。
 この法律は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、前例のないものでした。そのうえ二八年には大改悪が加えられました。
 まず、最高刑が懲役十年だったのを、国体変革目的の行為に対しては死刑・無期懲役を加え天皇制批判には極刑でのぞむ姿勢をあらわにしました。
 また「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。
 治安維持法の運用では、明治期制定の警察犯処罰令など、一連の治安法規も一体的に利用し、現場では令状なしの捜索や取り調べ中の拷問・虐待が日常的に横行しました。
 北尾が逮捕された日の翌日、京都府警の特高刑事が二人、上京してきて、北尾をひきとりました。彼は京都西陣署に入れられました。
 ここでの取り調べの中で、彼は辞表を書かされました。
 大阪逓信局は、北尾を懲戒免職にしました。そのことは官報に公表されました。退職金は支払われませんでした。
 取り調べは、彼の俳句の中身に及びました。
 「戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ」を、「戦艦の鋼鉄(かね)の窓より白き吐潟[としゃ]」をはじめ全作品の内容、背景を追及してきます。
 こうして共産主義者だったと自認する手記や調書がつくられました。
 夏、北尾は、京都地裁の思想検事室に連れていかれました。
 ここで、検事は北尾を「きみは反戦思想があるばかりではなく、まぎれもない共産主義者だ」と断定しました。
 『京大俳句』に掲載された彼の評論群を読んでも、彼が共産主義者でないことはき明白でしたが、当時の権力は、これほどまでにめちゃくちゃでした。
 そして、北尾は、京都御所に近い京都拘置所の、未決囚の独房にほうり込まれました。
 半年間の独房生活をしたのち、一九四〇年十二月二十八日、保釈出所しました。
 翌四一年三月、裁判が始まりました。
 一般市民は傍聴をさせない非公開裁判でした。平畑静塔、波止彰夫と一緒に被告席に座らされました。被告陳述は許されませんでした。平畑静塔が二百円出して弁護士を雇いましたが、弁護は三分間で「お上のご慈悲をお願いします。被告人は重々反省いたしておりますので何卒(なにとぞ)、ご寛大なる処罰をお願い申しあげます」と頭を下げただけでした。
 二回開廷しただけで判決が言い渡されました。三人とも治安維持法違反による有罪、懲役二年、執行猶予三年でした。「これからは『京大俳句』の同人たちとは連絡しない、会合もしない」という執行猶予の条件がつけられていました。
 
   【彼の俳句の解説を探しました】

 彼の俳句の解説を探しました。
 『密告 昭和俳句弾圧事件』(小堺昭三。ダイヤモンド社。一九七九年一月十一日)に表題の俳句の解説がありました。
 「スペイン内乱の報道写真のなかに、複葉戦闘機が火をふいて垂直に墜落しているのがあった。これが印象的で、その火が真紅のバラの花のように思えた。ファシストたちから攻撃された人民解放軍の戦士たちは、みんなこのようにバラの花園のなかで死んでゆきたい、永遠に眠りたいと希っている……と被圧迫者たちの悲しみを詠んでいるのだった」
 スペイン内戦は一九三六年七月十七日から始まりました。スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争でした。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争いました。人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、フランコをポルトガル、ドイツ、イタリアが支持しました。内戦は三九年四月一日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立しました。この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たしました。

     【判決以後の北尾の歩み】

 最後に、北尾への判決が下りた後の、北尾の歩みを記しておきます。 
 自由の身にはなりましたが、三人には、それぞれ保護監察司がつけられました。
 月に一度は、保護監察司の所へ報告にゆかなければならなりません。ときには保護監察司が生活ぶりを見に来ることもありました。旅行するときは保護監察司の許可を得なければなりませんでした。
 判決から四カ月後の一九四一年七月、北尾は、妻とともに満洲に向かいました。関東軍特務機関のロシア語の通訳になっている友人を頼るつもりでした。
 神戸港には、兵庫県警の特高刑事が二人、埠頭(ふとう)まで来ていました。
 ところで、満州は、おおよそ、現在の中華人民共和国の遼寧省、吉林省、黒竜江省の三省と、内モンゴル自治区の東部を範囲としていました。
 一九三一年、大日本帝国は満州事変を起こし、満州全域を占領して、翌三二年に満州国を建国しました。満州国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)としました。満州国は日本の傀儡(かいらい)政権といわれ、この時期の満州は事実上日本の支配下となっていました。日本は南満州鉄道や満州重工業開発を通じて多額の産業投資をおこい、農地や荒野に工場を建設しました。満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施しました。
 関東軍は、大日本帝国陸軍の総軍の一つです。旅順の関東軍司令部跡(現、関東軍旧蹟博物館)日本の中国からの租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身で、一九一九年に関東軍として独立します。司令部は当初旅順に置かれたましが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転しました。関東軍は阿片王と呼ばれた里見甫と結託し、アヘン取引組織をつくっていました。
 北尾の話に戻します。 
 彼が大連港に着いたとき、今度は関東州庁の特高刑事が出迎えに来ました。
 友人の奔走で北尾は、新京の満州電電株式会社の放送部に就職できました。満州国内に居住する白系ロシア人向けのロシア語放送の担当でした。彼がニュースや音楽番組などの放送原稿をロシア語で書き、それを白系ロシア人のアナウンサーが読むのです。同僚に高屋窓秋がいました。森繁久弥は芸能番組を担当していました。
 一年後、北尾は、ハルピン放送局へ転属になりました。ニュース番組のチーフに昇格しました。
 四五年八月、ソ連軍が満州に攻めこんできました。
 ソ連軍のたくましいゲ・ペ・ウ(秘密情報機関)の要員が放送局にやってきて、彼の肩をつかんで「きさまはイカテルニローバンヌイだ。収容所に送りこんでやる。さ、こい!」といいました。
 彼は、貨物列車に乗せられて北のシベリアに送られました。
 最初に送られた抑留地はチタでした。それから中央アジアのカラカンダへ移動させられました。モスクワの近くのカザンへも送られました。食事は、一食につきジャガイモが一つとロシアスープだけでした。五回も調書を取られ、二回拷問を受けました。
 四九年末、やっと帰国することができました。
 しかし、こんどはアメリカのCIA(対外諜報活動をおこなうアメリカ合衆国の情報機関の一つ)から、たびたび訊問を受け、ロシア語通訳として就職した石川島播磨造船所も退職せざるを得なくなりました。
 その後、神戸市で翻訳業を営みました。
 五五年ころから俳句復活。一九五六年九月、東京で創刊した同人誌『三角点』に準自由律の長句を発表しました。
 著書に『七枚の肖像画』(文淋社。一九八三年七月)、『ロシア難民物語』(文淋社。一九八四年二月)があります。
 日本の特高警察、ソ連のゲ・ペ・ウ、アメリカのCIAに追い詰められ続けた人生でした。

   【参考資料】

 ○ 『京大俳句』全八十六号(復刻版が愛媛県立図書館にあります)。
 ○ 『現代俳句事典 俳句臨時増刊』。角川書店。一九七七年九月十五日。
 ○ 『密告 昭和俳句弾圧事件』。小堺昭三。ダイヤモンド社。一九七九年一月十一日。
 ○ 『現代俳句大辞典』。明治書院。一九八〇年九月二十日。
 ○ 『俳文学大辞典』。角川書店。一九九五年十月二十七日。

 (二〇一〇年一月十九日)

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2009.12.20

十二月の県立高知短期大学の教室で

つぎつぎと試験の計画告げられて 緊張している 暮れの教室

光寿(みつとし)さん 歩行器訓練 開始して 夜の学び舎(や) 熱い応援

ひとまずは 「英語Ⅱ」の対策で 辞書引きまくる 仕事ない午後

暖かい大教室の上のほう 集まっていく 一人、二人と

「地域史」と 「専門ゼミ」と 「芸術論」 正月休みの試験勉強

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高知市 とうとうパイナップルの葉が枯れてしまいました。

震度3 二日後には 寒波来て パイナップルが 枯れてしまった

 十六日午後、地震。十八日に寒波到来。

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師走の日曜日の朝に

コーヒーを 風呂場に運ぶ 妻がいる 朝の長湯に あきれはてたか

「本日は家から出ずに勉強する」 寝巻に着替える 朝風呂の後

「えらっそう」と 夫をなじる このごろの 妻の権勢 とまることなし

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高知市 僕も昨日から忘年会ムードです。

 僕も昨日から忘年会ムードです。

 昨日は地域のみなさんと。

 今夜は、高知市行川(なめかわ)のMO夫妻が来訪、僕たち夫婦と、お好み焼き屋で食事しました。ビールを飲んだのは僕だけでしたが……。

 

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「四カ月余 ブログの更新 ない人よ……」。

 四カ月余 ブログの更新 ない人よ 元気でいるか 便り待ってる

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2009.12.24

高知市 冬至(とうじ)のナノハナの花。

 十二月二十二日

 冬至(とうじ)です。
 近くの畑の所にナノハナの花が咲いているのを発見。
 写真に撮ったけれど、あんまりいいものではなかったので、近々、撮影しなおしてアップします。

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2009.12.25

室戸市 日沖漁港の、アメリカに沈没させられた滋賀丸の碑。

 十二月二十二日

 午前中、高知市から室戸市へ。OOさん、MI・TIさんと。乗用車の運転はOOさん。

 日沖漁港の、アメリカに沈没させられた滋賀丸の碑を見るためです。

Photo Photo_2

 

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室戸市の日沖漁港は美しい場所でした。【写真二枚】

 十二月二十二日

 室戸市の日沖漁港は美しい場所でした。

Photo_3 Photo_4

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室戸市 自転車で日本一周中の愛知県の六十二歳、「前川さん」との出会い。

 十二月二十二日

 室戸市の日沖漁港で、リュックサックを背負ったまま釣りをしている男性がいました。

 愛知県の「前川さん」。僕と同じ六十二歳です。

 自転車で日本一周の途中だそうです。

 静岡県の単身赴任先で定年になり、九月二日から旅に出ています。

 体重は九十二キロ、高脂血症、腕もすねも曲がらないという状態で、「どうせ死ぬなら自転車の上で」ということでした。

 東海から四国へやってきました。

 かたわらに荷物をいっぱい積んだ六段変速の自転車がありました。

 孫(小学校六年生の男の子)に借りてきたそうです。

 「これまでにホテルに泊まったのは一回だけ」。テント暮らしです。寝袋は零下二十度まで大丈夫なもので「パンツ一枚で寝ている」といいます。

 「会社から引き継ぎのための電話がしょっちゅう来ていたので、携帯電話は捨てた」

 いまは体重六十五キロで、体も良くなったといいます。

 これからは九州へ。

 日本一周を終えて家族のもとに帰りつくのは四年後だそうです。

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「戦争遺跡保存ネットワーク高知」の会員が何人も増えました。

 十二月二十三日

 うれしいことがありました。

 今夜、僕も参加している「戦争遺跡保存ネットワーク高知」の会員が何人も増えました。

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高知県安芸市でのアジア太平洋戦争中の風船爆弾づくり。調査が進展しそうです。

 高知県安芸市でのアジア太平洋戦争中の風船爆弾づくりについて調べたいと思っていましたが、その紙をすいていた女性がいました。

 週明けにはお話を聞けることになりました。

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「『秘書が』とか 『母親が』とか 飛びかって 四億円が ガサガサ笑う」。どうなってるの日本の司法。

 「秘書が」とか 「母親が」とか 飛びかって 四億円が ガサガサ笑う

 十二億 六千万円 金もらい 「知らなかった」か 宇宙の人は

 六億円 脱税していて 「おわび」だけ 権力者って やりたい放題

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2009.12.27

高知市 ニオイザクラを門松として……。

「どこいった」「そんなの知らない」 争って 二〇〇九年が なくなっていく

買い込んだ ニオイザクラを 門松に 遠方の子ら 待ちわびている

 

 

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2009.12.28

高知市 「第一声 『クニョは、どこなの?』 孫二人 暮れの来訪 ネコが目当てか」。

 十二月二十七日

 第一声 「クニョは、どこなの?」 孫二人 暮れの来訪 ネコが目当てか

 夕方に高知駅に着きました。

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高知市 「娘(こ)や孫娘(まご)の 高知駅着 一面で 地元紙パワー 見直している」。

 娘(こ)や孫娘(まご)の 高知駅着 一面で 地元紙パワー 見直している

 朝風呂に入っていたら妻が「あなた、一面よ」と高知新聞の朝刊を持ってきました。

 昨日夕の高知駅の写真が三段で載っていました。東京都から着いたばかりの娘、小学校三年生の孫娘、五歳の孫娘、迎えにいってくれた弟の再会シーンです。

 

 

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取材って面白い。高知県安芸市の風船爆弾の紙工場のこと。

 「こういうことを知りたい」と手をあげていれば、道が開けていく。

 これが、この間の取材の教訓です。

 ● ある女性が僕の勤めている事務所に来ました。高知県安芸市の人でした。「安芸市といえば井の口の安芸城東製紙でつくった風船爆弾の用紙を見たことがあるけど、ここの関係者を知りませんか?」

 ● 最近、その女性から手紙をいただきました。祖母が安芸市で風船爆弾の用紙をすいていましたという内容です。

 ● 本日、午前中からFUさんのオートバイに乗せていってもらって安芸市に行きました。その女性と祖母に話を聞かせていただきました。「こんなふうにすいていました」という話にリアリティがありました。

 ● そして、四人で、祖母さんがすいていた工場のあと(井の口)に行きました。そこで、その紙工場の当時の経営者の息子と、そのつれあいの話を聞くことができました。

 一挙に核心部に行けた取材でした。

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2009.12.29

高知市 小学校三年生の女の子が目に涙をいっぱいためて……。トランプに負けたせいです。

 十二月二十八日

七ならべ 祖父が一等 くやしくて 涙ためてる 小学三年

  

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2009.12.30

「あんたから カメラをとったら なんちゃぁない」といわれて……。

「あんたから カメラをとったら なんちゃぁない」 ほめられている 感じの言葉

 少し前に、知り合いから、こういわれました。

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高知市 「父、娘(こ)、孫 互いの似顔絵 かきあって……」。

 十二月二十九日

 父、娘(こ)、孫 互いの似顔絵 かきあって 暮れのわが家(や)は さんざめいてる

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2009.12.31

 「民主党の政権政策マニフェスト」の「民主党の5つの約束」の、いま。【書き直しをしました】

  「民主党の政権政策マニフェスト」の「民主党の5つの約束」の中の「約束」のうち5項目を選び、いま、それがどうなっているかについても確かめ、その是非を論じます。
 まず、「民主党の5つの約束」の内容は、以下のとおりです。

 1 ムダづかい
 国の総予算207兆円を全面組み替え。
 税金のムダづかいと天下りを根絶します。
 議員の世襲と企業団体献金は禁止し、衆院定数を80削減します。

 2 子育て・教育
 中学卒業まで、1人当たり年31万2000円の「子ども手当」を支給します。
 高校は実質無償化し、大学は奨学金を大幅に拡充します。

 3 年金・医療
 「年金通帳」で消えない年金。
 年金制度を一元化し、月額7万円の最低保障年金を実現します。
 後期高齢者医療制度は廃止し、医師の数を1.5倍にします。

 4 地域主権
 「地域主権」を確立し、第一歩として、地方の自主財源を大幅に増やします。
 農業の戸別所得補償制度を創設。
 高速道路の無料化、郵政事業の抜本見直しで地域を元気にします。

 5 雇用・経済
 中小企業の法人税率を11%に引き下げます。
 月額10万円の手当つき職業訓練制度により、求職者を支援します。
 地球温暖化対策を強力に推進し、新産業を育てます。

 このうちつぎの5項目を選びました。
 一、「税金のムダづかい……を根絶します。」。 
 二、「中学卒業まで、1人当たり年31万2000円の『子ども手当』を支給します。」。
 三、「後期高齢者医療制度は廃止し……ます。」。
 四、「高速道路の無料化……で地域を元気にします。」。
 五、「地球温暖化対策を強力に推進し……ます。」。

 【一、「税金のムダづかい……を根絶します。」について】

 「税金のムダづかい」という場合、何がムダづかいであるのか、それをどうするかということをいわないと公約としてなりたちません。
 「民主党の政権政策マニフェスト」は、別のところで、「税金のムダづかい」の例として「自民党長期政権の下で温存された族議員、霞が関の既得権益」、「(高い)政策コスト、調達コスト」、「(高い)行政コスト」などをあげています。
 しかし、民主党中心の鳩山政権は自民党、公明党政治がつくったほんとうの無駄と浪費に切り込む姿勢がありません。
 一つは、軍事費です。
 昨年12月25日に閣議決定した2010年度予算案の軍事費(4兆7903億円)では、在日アメリカ軍関係経費が大幅に増え、前年度比491億円増の3370億円で過去最多に達しました。アメリカ軍関係経費が3000億円を超えたのは2000年の3013億円以来です。
 内訳を見ると、在日アメリカ軍再編経費は1320億円で前年度比481億円増です。
 グアムでのアメリカ海兵隊新基地建設費が約126億円増えています。
 沖縄県の米軍普天間基地問題では、「移設先未定」としているものの、同県名護市辺野古での新基地建設にむけた環境調査継続のための費用を含む「移設」費が53億円計上されています。
 アメリカ海軍厚木基地(神奈川県)からアメリカ海兵隊岩国基地(山口県)への空母艦載機移駐も前年度55億円から270億円へと大幅に増えています。
 SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)関係経費も前年度比57億円増の169億円です。
 アメリカ軍再編とSACO関係経費で1489億円もの額になります。
 駐留アメリカ軍への「思いやり」予算は1881億円(前年度1928億円)です。
 2009年11月の行政刷新会議による事業仕分けで取り上げられた基地従業員の給与削減が見送られ、基本的に維持されました。
 兵器強化に関するものは、全長248メートル、基準排水量が1万9500トン、ヘリ9機を搭載可能な海上自衛隊最大の新型護衛艦(巨大ヘリ空母)建造で1208億円、新型戦車13両の調達に187億円費やされます。
 一方、「ムダを省く」といって民主党中心の政権がおこなった「事業仕分け」の結果は、自衛官の実員増と国際平和協力センター建設の予算計上を見送り、168億円にとどまりました。これはヘリ空母建造費の7分の1、新型戦車13両の調達費187億円も下回ります。
 こうした軍事費に切り込むことが大事です。
 軍事費については、もともと日本国憲法の精神からすると、あること自体がおかしなことです。
 あらためて「第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】」を引用します。
 「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 日本での軍事費の存在は、これに真っ向から違反しています。
 介入・干渉戦争の遂行を専門にする海外“殴り込み”部隊、在日アメリカ軍の存在も憲法に違反しています。
 違憲の積み重ねを続けるのではなく、自衛隊は解散に向かって足を踏み出すべきです。
 アメリカ軍の駐留を支えている「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」も破棄すべきです。
 その第10条には「当初の10年の有効期間(固定期間)が経過した後は、1年前に予告することにより、一方的に廃棄できる旨を定める。いわゆる自動延長方式の定めであり、この破棄予告がない限り条約は存続する。」とあります。
 いまなら、いつでも、「1年前に予告することにより、一方的に廃棄できる」のです。
 いま一つは、大企業・大資産家への行き過ぎた減税を抜本的に見直すという方向に踏み出せないことです。
 鳩山政権の予算案では、株式などを多く持つ高額所得者に恩恵が大きい証券優遇税制も継続されます。
 これは自民党、公明党政権の2003年度からおこなわれているもので、株式の配当や譲渡益への課税を、所得税と住民税を合わせて10%に軽減しています。
 株取引などで得た所得に対する税率は、アメリカで25%、フランスで30%にたいして、日本はわずか10%です。汗水たらして働いて得た所得より、濡(ぬ)れ手で粟(あわ)の不労所得の方が、税金が軽いというのは異常だと思います。少なくとも本則の20%に戻すべきだと考えます。
 大企業の研究開発減税の上乗せ措置は、2009年度までの時限措置でしたが、2年延長します。
 これは、もともと企業の利益から控除している研究開発費について、さらに10%程度を法人税から差し引くという仕組みです。
 大企業の法人税率は、43.3%(1986年度)からつぎつぎと引き下げられ、1999年度以降は30%にまで引き下げられています。
 大資産家向けの減税も繰り返され、1999年には、所得税・住民税の最高税率が、あわせて95%から50%に引き下げられています。これも、そのままです。
 この二つの分野を「聖域」としたために、来年度予算案は、44兆円を超える借金と、1年限りの財源にしかならない8兆円もの「埋蔵金」にたよる、その場限りの予算案となり、次年度以降の予算編成の見通しがまったくない予算となりました。
 このままでは、世論の批判を恐れて今回は先送りされた成年扶養控除や配偶者控除の廃止、さらには消費税増税という庶民大増税にゆきつかざるをえません。
 実際、この間、鳩山政権の主要閣僚たちから、「消費税増税の議論が必要」という声が、つぎつぎとあがりはじめていることは重大です。

 【二、「中学卒業まで、1人当たり年31万2000円の『子ども手当』を支給します。」について】

 子ども手当は月額2万6000円(年額31万2000円)。2010年度は半額で実施し、2011年度から全額支給するとしています。
 同マニフェストの別の項目では「政策目的」として「○次代の社会を担う子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する。○子育ての経済的負担を軽減し、安心して出産し、子どもが育てられる社会をつくる。」をあげています。
 いいことだと思います。
 問題は、その財源です。
 民主党中心の政権の予算案では、子ども手当の財源として住民税の扶養控除の廃止が盛り込まれました。
 高校授業料「実質無償化」の財源は所得税・住民税の特定扶養控除縮小です。
 総選挙時の政策集では「住民税(地方税)の配偶者控除、扶養控除は見直しの対象とせず、現状のままとする」とありました。やらないといっていた項目です。
 子ども手当は、2011年度以降の財源さえ決まっていません。

 【三、「後期高齢者医療制度は廃止し……ます。」について】

 大歓迎の公約でした。
 2008年4月に実施された後期高齢者医療制度は、75歳以上の高齢者を国保や健保から切り離し、負担増や受けられる医療の制限に追い込む、世界に例のない年齢差別のしくみです。
 後期高齢者医療制度の発足については民主党にも責任があります。
 まず各党の態度が問われたのは、1997年6月12日の参院厚生委員会でした。健康保険法改悪案の審議の際、高齢者医療制度について「新たな制度の創設も含めた抜本的見直しを行う」と、新制度創設を求める付帯決議案が提出され、日本共産党以外の各党が賛成しました。
 これを受けて同年8月7日、小泉純一郎厚相(当時)が「新たな高齢者医療制度は、若年者の医療保険制度とは別建て」という考えをとり入れた厚生省案を発表。次第に若年者と別建ての新たな高齢者医療制度が具体化されます。
 決定的な場面は、2000年11月30日の参院国民福祉委員会でした。健康保険法改悪案採択の直後、付帯決議案が提出されます。「新たな高齢者医療制度等の創設については、早急に検討し、平成14年度(02年度)に必ず実施する」「老人医療及び慢性期医療については、包括・定額化を更に進める」など、現行制度の骨格となる考え方が盛り込まれました。自民党、保守党、民主党、公明党、社民党などが共同提案し、日本共産党だけが反対しました。
 2006年6月14日、後期高齢者医療制度を盛り込んだ医療改悪法が自民党、公明党の賛成多数で可決・成立しました。民主党、社民党は反対したものの、「後期高齢者医療の新たな診療報酬体系」を求めた付帯決議案に賛成しました(13日)。この決議案に反対したのは日本共産党だけでした。
 発足前後から国民の、この制度への批判が高まりました。
 そして、民主党は、2008年5月23日、日本共産党、社民党、国民新党とともに、ただちに現行制度を2009年4年に廃止し、老人保健制度に戻す法案を提出しました。
 国会で民主党の提案者は、この制度の最大の問題点は「差別への怒り」だとして、「いったん元に戻すことが非常に重要」「戻したうえで、旧老人保健法制度の問題点を是正する」と答弁しました。
 しかし、総選挙の結果生まれた民主党中心の鳩山内閣は、この約束を反故(ほご)にしました。
 厚生労働省は、2009年11月30日、に開かれた同省の高齢者医療制度改革会議(座長・岩村正彦東大大学院教授)の初会合で後期高齢者医療制度に代わる新たな制度について、2013年4月施行とするスケジュールを検討していることを明らかにしました。
 制度創設までの同省のスケジュールによると、10年夏をめどに「中間とりまとめ」をおこない、同年末に「最終とりまとめ」を提出。11年の通常国会に法案を出し、2年間の施行準備を経て13年4月施行としています。
 長妻昭厚労相は、「4年後をめどに廃止すると同時に新しい制度に移行していくというスケジュール感でご議論を」とあいさつし、後期高齢者医療制度の廃止は4年後となることを言明しました。
 出席委員からは、「(廃止までに)4年というが、できるだけ急ぐべきだ」(日本高齢・退職者団体連合)、「廃止は4年後か、早めたほうがいいか、十分な議論を」(日本労働組合総連合会)との声が上がりました。
 一部に「老人保健制度に戻したら混乱する」という議論がありますが、2008年3月までの老人保健制度は、高齢者を国保や健保に加入させたまま、現役世代よりも窓口負担を軽減する財源調整の仕組みで、どこにも「混乱」などありませんでした。大混乱をもたらした最大の原因は、「年齢による差別」という制度を持ち込んだことにあります。すみやかにこの制度を廃止することこそ、混乱の原因を大本から取り除く解決策です。
 後期高齢者医療制度は、延命させればさせるだけ、「差別への怒り」を広げ、2年ごとの保険料引き上げという痛みを増す制度です。
 後期高齢者医療制度は、「先送り」でなく、ただちに廃止し、老人保健制度に戻す。そのうえで75歳以上の医療費無料化、国保への国庫負担の増額などの改善をはかるべきだと思います。

 【四、「高速道路の無料化……で地域を元気にします。」】

 民主党中心の鳩山内閣は、2011年度には、高速道路の段階的な無料化を計画しています。
 高速道路無料化に要する1兆3000億円です。
 税金の使い道の優先順位という問題として考えると、はたしてこれが最優先の仕事でしょうか。
 温暖化対策とのかかわりでも、慎重な検討が求められるのではないでしょうか。
 メディアの世論調査でも、反対が賛成を上回り、早急な実施を求める声は少数です。
 高速道路無料化に要する1兆3000億円があれば、たとえば、高齢者と子どもの医療費を国の制度として無料にすることができます。
 私は、国民の大切な税金は、高速道路よりも福祉にこそ優先的に使うべきだと考えます。
 高速道路無料化については民主党内からも異論が出ています。
 2009年11月2日の衆議院予算委員会で民主党の海江田万里議員は総選挙中の有権者の声や世論調査をもとに「高速道路無料化は『(実現を)無理しなくてもいい』という声が圧倒的だ」と指摘し、来年度概算要求に第1段階として盛り込まれた(高速道路無料化に向けた「社会実験」のための)6000億円について、「これを半分や3分の1にすれば数千億円ができる」と指摘しました。

 【五、「地球温暖化対策を強力に推進し……ます。」について】

 この点では、「マニフェスト」の他の部分では、「CO2等排出量について、2020年までに25%減(1990年比)、2050年までに60%超減(同前)を目標とする。」、「『ポスト京都』の温暖化ガス抑制の国際的枠組みに米国・中国・インドなど主要排出国の参加を促し、主導的な環境外交を展開する。」などをかかげています。
  「CO2等排出量について、2020年までに25%減(1990年比)、2050年までに60%超減(同前)を目標とする。」という公約は先進的なものだと思います。
 民主党中心の鳩山内閣も、CO2(二酸化炭素)を90年比で25%削減する中期目標を発表しました。
 しかし、鳩山内閣は、産業界との公的削減協定など、それを裏付ける実効ある措置にとりくもうとしていません。
 鳩山内閣は、国連でも約束した25%削減目標に、他の国がどうであれ前提なしに責任を負う態度を確立するとともに、その裏付けとなる総合的な対策を確立し、世界をリードする自覚をもってとりくむことが求められます。
 政府の25%削減目標に対し財界や産業界は、「日本のエネルギー効率は世界のトップクラスであり、これ以上の排出削減をすれば膨大なコストがかかる」「日本企業の国際競争力が損なわれる」などと抵抗しています。
 しかし、総排出量の8割、家庭が使う電力を電力会社の排出とすれば9割を占める産業部門の削減対策に思い切って切り込まなかったら、25%削減は到達できません。
 財界は「エネルギー効率世界一」論を抵抗の主要な論拠にしています。
 しかし、国際エネルギー機関『CO2 Emissions from Fuel Combustion 2009』の「各国のGDP(国内総生産)および電力あたりのCO2排出量」(2007年データ)によれば、購買力平価でみたGDPあたり排出量は、欧州連合(EU)27カ国が米ドルあたり0・32キロなのに対し、日本は0・34と上回っています。国別で見てもイギリスは0・29です。発電量あたりの排出量は450グラム。OECD(経済協力開発機構)加盟30カ国中20位で、「エネルギー効率世界一」とはかけ離れています。
 産業界には大幅な削減対策ができる余地は十分あります。
 鉄鋼業界でもまだまだエネルギー効率をあげて世界をリードできる余地があることは明らかです。
 まだまだ十分な削減余地がある産業界に対する思い切った誘導策、規制策ができるかどうかが重要なポイントになっています。
 イギリスには気候変動協定という制度があります。
 日本の企業で、この協定を締結しているのは、自動車部門では、英国ホンダ、英国日産自動車、英国トヨタ、半導体部門は信越半導体ヨーロッパです。
 「地球温暖化対応のための経済的手法研究会」という経済産業省に設置された研究会があります。これには、日本経団連常務理事、鉄鋼連盟環境・エネルギー政策委員会委員長、電気事業連合会副会長らが参加しています。同会が、2008年7月に発表した中間報告で、協定等の法的措置への移行の可能性も検討すべきだと提言しています。
 鳩山首相は、25%削減のためには、あらゆる措置を動員しなければならないといっていますが、当然この公的削減協定も視野に入れるべきです。
 これまでの政権は、経団連の「自主行動計画」任せにしてきました。これが、これまで削減目標が達成できず逆に増える結果をもたらしてきました。
 公的削減協定を中核に位置づけ、それを補完するものとして国際排出量取引制度や(電力)固定価格買い取り制度の導入、環境税などを実施するなど、「25%削減を確実にする担保措置に踏み込めるかどうかが重要なポイントです。
 なお、民主党がマニフェストで「安全を第一として、国民の理解と信頼を得ながら、原子力利用について着実に取り組む。」としていることには一言しておく必要があります。
 日本共産党の吉井英勝議員は11月20日の衆議院経済産業委員会で、地球温暖化防止を進める上で原子力発電に頼るのではなく再生可能エネルギーを推進するべきだと直嶋正行経産相に迫りました(「しんぶん赤旗」、2009年11月24日)。
 吉井議員は「温室効果ガス25%削減の政策には原発の活用、新増設も入っているのか」と質問。直嶋経産相は「当面原発を重視していかなければならない。2018年までに新たに9基新増設する」と答えています。
 原子力発電は、まだ安全性が保障されていない危険で不完全な発電方式です。それは廃棄物の処理の仕方がいまだ定まっていないことにも示されています。
 原子力発電の発展の結果、日本の電力量はあり余っていて、それが電力会社が風力発電、太陽発電の電力を買い取る上でのネックになっています。
 原子力発電所は古くなったものから廃止していくという方向で原子力発電を縮小し、自然エネルギーに切り替えていく必要があると思います。
 なお、前記の質問で、吉井議員は、全国の原発56基が20年の稼働で年間約3000億キロワット時を発電するのに32兆円のコストがかかると指摘。「メガソーラー(太陽光)発電所なら30兆円で同じ発電量を確保できる。放射性廃棄物などの問題がゆきづまっている原発に頼るのではなく、再生可能エネルギーこそ推進すべきだ」と強調。さらに、家庭が太陽光パネルで生み出した余剰電力などを電力会社に買い取らせる制度について、「家庭の発電装置の設置を補助する際、5~10年で初期投資を回収できるようにして爆発的普及を促進すべきだ」と求めました。
 

  (2010年1月16日)

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高知市の元日の日の出は午前7時10分だそうです。

  高知市の元日の日の出は午前7時10分だそうです。

 いま、一家八人で、五台山に行って初日の出を見る決意をしました。

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高知市 「紅白」の世話にならずに……。

 「紅白」の 世話にならずに 賑やかに 三世代八人 ばば抜きで過ぐ

 

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