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2009.12.18

高知市出身の北尾一水(きたお・かつみ)の俳句「戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ」の背景。

 二〇〇九年秋、高知市出身の北尾一水(きたお・かつみ)の俳句「戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ」に出合いました。しかし、この俳句の背景がわかりません。そこで、文献にあたって調べてみることにしました。

   【北尾一水ってどんな人でしょうか】

 まず、北尾一水の略歴を調べてみました。
 一九一〇年(明治四十三年)七月八日~九三年(平成五年)三月三十一日。高知県高知市生まれ。
 一九三一年(昭和六年)、大阪外語学校露語科ロシア語科(いまは大阪外国語大学)を卒業しました。
 就職難で二年浪人しました。
 そして、三三年、大阪の堂島大橋の大阪逓信局(おおさかていしんきょく)無線科に就職しました。判任官で給料は六十円。仕事は、ソ連領から発信される無線(ラジオ放送)の傍受でした。その放送は夕方の七時ころからキャッチできました。モスクワで放送中のものをハバロフスクで中継しており、主にどういうニュースを流しているかを、日報にして上司に提出するのです。ときには大阪憲兵隊司令部の憲兵曹長がやってきて放送内容を聞いていきました。
 北尾は、両親のすすめで神戸市内の女学校の教師だった愛子と結婚、神戸市中山手の小さな借家を借りて住みました。
 ところで、一九三三年(昭和八年)一月、京都帝国大学と第三高等学校のOBたちが『京大俳句』を創刊していました。同誌は、一般からも同人を募りました。
 北尾と月刊俳句誌『京大俳句』とのつながりをのべます。
 彼の文章が、同誌に最初に載ったのは一九三六年二月号で、評論「躍動する文学と」でした。彼は、次々と評論を掲載していきます。
 同僚の岸風三楼(きし・ふうさんろう)に誘われて『京大俳句』の句会に参加しました。そこで、同人たちが芸術性だけでなく社会性もある無季俳句をめざしていることを知り、共感して仲間に加わりました。同人費は月額三円でした。このとき、俳号を仁智栄坊としました。ロシア語のニーチェボー(気にするな。勝手にしやがれ)からつけたものです。
 『京大俳句』同誌一九三六年十一月号によると、この句会は、同年九月二十三日、大阪学士会クラブで開かれた京大俳句大阪句会です。同号では「新顔」だったと紹介されています。
 彼は、そこで、つぎの句を出しています。

  戦艦の鋼鐵(かね)の窓より白き吐潟[としゃ]

 続いて同誌の同年十一月号の「三角点」(一般募集作品)に彼の俳句が載ります。

  地の果[はて]に黒き兵士と地の砂字
  戦艦の鋼鐵(かね)の窓より白き吐潟[としゃ]
  戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ
  金星(ヴイナス)とナポレオンこそ西へ行く
  コンムニスト丘上(おか)のキリスト射落しぬ
  昨夜二時レーニン棺を脱出しぬ

 理解しにくい句ばかりですが、私が何を歌っているか知りたかった俳句の初出が、これです。
 一九三六年九月、十月ころの世界の情勢を知らなければ解けそうにありません。
 同誌一九三七年一月号の「会報」の「新会員紹介」の所に彼の名前が載っています。
 入会以降、彼は、同誌を舞台に評論や俳句作品の発表、「三角点」の選評などをします。
 そして、振興俳句に入り、平畑富次郎(静塔)、福永和夫(波止影夫)などと神戸振興俳句綜合句会を推進します。 
 
   【彼の俳句の解説を探しました】

 「ばらのある野」の俳句の解説を探しました。
 『密告 昭和俳句弾圧事件』(小堺昭三。ダイヤモンド社。一九七九年一月十一日)にありました。
 「スペイン内乱の報道写真のなかに、複葉戦闘機が火をふいて垂直に墜落しているのがあった。これが印象的で、その火が真紅のバラの花のように思えた。ファシストたちから攻撃された人民解放軍の戦士たちは、みんなこのようにバラの花園のなかで死んでゆきたい、永遠に眠りたいと希っている……と被圧迫者たちの悲しみを詠んでいるのだった」
 スペイン内戦は一九三六年七月十七日から始まりました。スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争でした。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争いました。人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、フランコをポルトガル、ドイツ、イタリアが支持しました。内戦は三九年四月一日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立しました。この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たしました。
 そこには「白き吐潟」の解説も載っていました。
 「明石海峡を通過する勇壮な軍艦の姿を、
    戦艦の鋼鉄(かね)の窓より白き吐潟
 と詠んだ作品もある。無数のセーラー服の水平が海の戦場へと運ばれてゆく。巨砲をつんだ戦艦は堂々としているが、よく見ると泥酔している帝国海軍の水兵が丸い船窓から顔を出して、蒼い海面にむけてゲエゲエと気持わるそうに吐いていたのだ」

   【治安維持法違反の疑いで逮捕】

 一九四〇年二月十五日朝、北尾が泊まっていた東京大森の親戚の家に、高知県警出身で内務省警保局にいる従弟(いとこ)がやって来ました。
 庭には私服刑事が入ってきていました。
 従弟は「得体の知れん詩やら俳句をつくってとるやつは、片っぱしから洗えということになったんや。治安維持法違反や」
 従弟は、北尾を逮捕しました。
 北尾は、お堀端の丸の内署へつれていかれ、身柄を渡されて地下の留置場にほうりこまれました。
 なお、このとき、逮捕されたのは、彼のほか以下の人たちでした。
 井上隆證(白文地)、中村修次郎(三山)、中村春雄(新木瑞夫)、辻祐三(曽春)、平畑富次郎(静塔)、宮崎彦吉(戎人)、福永和夫(波止影夫)
 内務省警保局保安課の『特高月報』には、この『京大俳句』の第一次検挙グループに関して、以下のような記述が見られます。
 「プロレタリアートの実践運動をインテリゲンチャの知性を活用して側面より指導啓蒙すべく企図し、巧みに合法を偽装して人民戦線的イデオロギーに基づく広汎なる活動をなしつつあるものなり。」
  ここで、当時の治安維持法についてのべておきます。
 治安維持法は創立まもない日本共産党などを標的に、一九二五年に天皇制政府が制定した弾圧法です。「国体を変革」「私有財産制度を否認」することを目的とする結社の組織・加入・扇動・財政援助を罰するとしました。「国体」とは天皇が絶対的な権力をもつ戦前の政治体制で、「私有財産制度を否認」とは社会主義的な思想や運動をねじまげて描いた政府の表現です。
 この法律は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、前例のないものでした。そのうえ二八年には大改悪が加えられました。
 まず、最高刑が懲役十年だったのを、国体変革目的の行為に対しては死刑・無期懲役を加え天皇制批判には極刑でのぞむ姿勢をあらわにしました。
 また「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。
 治安維持法の運用では、明治期制定の警察犯処罰令など、一連の治安法規も一体的に利用し、現場では令状なしの捜索や取り調べ中の拷問・虐待が日常的に横行しました。
 北尾が逮捕された日の翌日、京都府警の特高刑事が二人、上京してきて、北尾をひきとりました。彼は京都西陣署に入れられました。
 ここでの取り調べの中で、彼は辞表を書かされました。
 大阪逓信局は、北尾を懲戒免職にしました。そのことは官報に公表されました。退職金は支払われませんでした。
 取り調べは、彼の俳句の中身に及びました。
 「戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ」を、「戦艦の鋼鉄(かね)の窓より白き吐潟[としゃ]」をはじめ全作品の内容、背景を追及してきます。
 こうして共産主義者だったと自認する手記や調書がつくられました。
 夏、北尾は、京都地裁の思想検事室に連れていかれました。
 ここで、検事は北尾を「きみは反戦思想があるばかりではなく、まぎれもない共産主義者だ」と断定しました。
 『京大俳句』に掲載された彼の評論群を読んでも、彼が共産主義者でないことはき明白でしたが、当時の権力は、これほどまでにめちゃくちゃでした。
 そして、北尾は、京都御所に近い京都拘置所の、未決囚の独房にほうり込まれました。
 半年間の独房生活をしたのち、一九四〇年十二月二十八日、保釈出所しました。
 翌四一年三月、裁判が始まりました。
 一般市民は傍聴をさせない非公開裁判でした。平畑静塔、波止彰夫と一緒に被告席に座らされました。被告陳述は許されませんでした。平畑静塔が二百円出して弁護士を雇いましたが、弁護は三分間で「お上のご慈悲をお願いします。被告人は重々反省いたしておりますので何卒(なにとぞ)、ご寛大なる処罰をお願い申しあげます」と頭を下げただけでした。
 二回開廷しただけで判決が言い渡されました。三人とも治安維持法違反による有罪、懲役二年、執行猶予三年でした。「これからは『京大俳句』の同人たちとは連絡しない、会合もしない」という執行猶予の条件がつけられていました。
 
   【彼の俳句の解説を探しました】

 彼の俳句の解説を探しました。
 『密告 昭和俳句弾圧事件』(小堺昭三。ダイヤモンド社。一九七九年一月十一日)に表題の俳句の解説がありました。
 「スペイン内乱の報道写真のなかに、複葉戦闘機が火をふいて垂直に墜落しているのがあった。これが印象的で、その火が真紅のバラの花のように思えた。ファシストたちから攻撃された人民解放軍の戦士たちは、みんなこのようにバラの花園のなかで死んでゆきたい、永遠に眠りたいと希っている……と被圧迫者たちの悲しみを詠んでいるのだった」
 スペイン内戦は一九三六年七月十七日から始まりました。スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争でした。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争いました。人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、フランコをポルトガル、ドイツ、イタリアが支持しました。内戦は三九年四月一日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立しました。この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たしました。

     【判決以後の北尾の歩み】

 最後に、北尾への判決が下りた後の、北尾の歩みを記しておきます。 
 自由の身にはなりましたが、三人には、それぞれ保護監察司がつけられました。
 月に一度は、保護監察司の所へ報告にゆかなければならなりません。ときには保護監察司が生活ぶりを見に来ることもありました。旅行するときは保護監察司の許可を得なければなりませんでした。
 判決から四カ月後の一九四一年七月、北尾は、妻とともに満洲に向かいました。関東軍特務機関のロシア語の通訳になっている友人を頼るつもりでした。
 神戸港には、兵庫県警の特高刑事が二人、埠頭(ふとう)まで来ていました。
 ところで、満州は、おおよそ、現在の中華人民共和国の遼寧省、吉林省、黒竜江省の三省と、内モンゴル自治区の東部を範囲としていました。
 一九三一年、大日本帝国は満州事変を起こし、満州全域を占領して、翌三二年に満州国を建国しました。満州国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)としました。満州国は日本の傀儡(かいらい)政権といわれ、この時期の満州は事実上日本の支配下となっていました。日本は南満州鉄道や満州重工業開発を通じて多額の産業投資をおこい、農地や荒野に工場を建設しました。満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施しました。
 関東軍は、大日本帝国陸軍の総軍の一つです。旅順の関東軍司令部跡(現、関東軍旧蹟博物館)日本の中国からの租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身で、一九一九年に関東軍として独立します。司令部は当初旅順に置かれたましが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転しました。関東軍は阿片王と呼ばれた里見甫と結託し、アヘン取引組織をつくっていました。
 北尾の話に戻します。 
 彼が大連港に着いたとき、今度は関東州庁の特高刑事が出迎えに来ました。
 友人の奔走で北尾は、新京の満州電電株式会社の放送部に就職できました。満州国内に居住する白系ロシア人向けのロシア語放送の担当でした。彼がニュースや音楽番組などの放送原稿をロシア語で書き、それを白系ロシア人のアナウンサーが読むのです。同僚に高屋窓秋がいました。森繁久弥は芸能番組を担当していました。
 一年後、北尾は、ハルピン放送局へ転属になりました。ニュース番組のチーフに昇格しました。
 四五年八月、ソ連軍が満州に攻めこんできました。
 ソ連軍のたくましいゲ・ペ・ウ(秘密情報機関)の要員が放送局にやってきて、彼の肩をつかんで「きさまはイカテルニローバンヌイだ。収容所に送りこんでやる。さ、こい!」といいました。
 彼は、貨物列車に乗せられて北のシベリアに送られました。
 最初に送られた抑留地はチタでした。それから中央アジアのカラカンダへ移動させられました。モスクワの近くのカザンへも送られました。食事は、一食につきジャガイモが一つとロシアスープだけでした。五回も調書を取られ、二回拷問を受けました。
 四九年末、やっと帰国することができました。
 しかし、こんどはアメリカのCIA(対外諜報活動をおこなうアメリカ合衆国の情報機関の一つ)から、たびたび訊問を受け、ロシア語通訳として就職した石川島播磨造船所も退職せざるを得なくなりました。
 その後、神戸市で翻訳業を営みました。
 五五年ころから俳句復活。一九五六年九月、東京で創刊した同人誌『三角点』に準自由律の長句を発表しました。
 著書に『七枚の肖像画』(文淋社。一九八三年七月)、『ロシア難民物語』(文淋社。一九八四年二月)があります。
 日本の特高警察、ソ連のゲ・ペ・ウ、アメリカのCIAに追い詰められ続けた人生でした。

   【参考資料】

 ○ 『京大俳句』全八十六号(復刻版が愛媛県立図書館にあります)。
 ○ 『現代俳句事典 俳句臨時増刊』。角川書店。一九七七年九月十五日。
 ○ 『密告 昭和俳句弾圧事件』。小堺昭三。ダイヤモンド社。一九七九年一月十一日。
 ○ 『現代俳句大辞典』。明治書院。一九八〇年九月二十日。
 ○ 『俳文学大辞典』。角川書店。一九九五年十月二十七日。

 (二〇一〇年一月十九日)

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