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2010年1月

2010.01.01

高知市 五台山からの初日の出です。

Photo  高知市の五台山の展望台から見た初日の出です。

 数十人が来ていました。平均年齢は十八歳くらいでしょうか。

 僕たちは、僕とつれあい、弟、娘、娘の二人の女孫、息子、息子のつれあいの八人でした。

 「輝いてる」 少年たちの 声上がる 五台の山から 初日の出見る 

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2010.01.03

かなり遅い年賀状。高知市の藤原義一です。

 二〇一〇年、明けましておめでとうございます。高知市の藤原義一です。

 いろいろ、お世話になっています。お元気でしょうか。

 まずは初日の出の写真をどうぞ。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2010/01/post-5b74.html

新しい歌集もどうぞ。ブログに掲載しています。

ここでダウンロードの画面が出てきます。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2009/12/post-da26.html

 

 この正月は、高知市の自宅で妻、東京都の娘と、その二人の娘、息子と、そのつれあいで迎えました。

 年末から県立高知短期大学の期末試験の準備に入っています。「国民所得論」、「地域史」、「英語Ⅲ(会話初級)」、「国際法Ⅱ」、「経済学Ⅰ」、「英語Ⅱ」、「経営情報システム論Ⅱ」、「社会科学演習Ⅰ・Ⅱ」、「芸術文化論」、「キャリアデザイン」です。これに成功すれば三月に卒業です。

 昼間は、平和資料館・草の家(高知市)で活動しています。

編集を担当している『高知の戦争 証言と調査』(二〇〇九年一月創刊。一部二百円)も、この一月で七号を迎えます。

 試験が終わったら三月まで集中的に高知県のアジア太平洋戦争の遺跡を見て回りたいと思っています。

 四月には、香川県さぬき市に移ります。同地の大学の文学部文化財学科の三年生になります。

 二年間、文書の読み解き方や発掘の仕方を学んでパワーアップしたいと思っています。

 昨年は病気がちで力が出ませんでしたが、病気も治療に入ることができました。でも、いつ爆発するかもしれないので毎日間に毎日を「今日しかないんだ」という思いで生きたいと思っています。

 四日午後から「会っておきたい人たちに会いに」短い旅に出ます。

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坂本龍馬(さかもと・りょうま)は「勤皇の志士」ではなくて……。

 この間、坂本龍馬(さかもと・りょうま)の果たした役割を考えてきましたが、自分の中ではっきりしたことは世に出てからの龍馬は「勤皇の志士」というのではなく別の言葉が与えられるべきではないかということです。

 彼は、三つの役割を果たしたと思います。

 一、【幕府の海軍づくりに尽力】 江戸時代の1864年5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に神戸海軍操練所を設置しました。海軍士官養成機関、海軍工廠です。土佐藩脱藩後の龍馬の果たした役割は、勝の部下として神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめました。

 二、【薩摩藩の援助で武器商人として】 その後、薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産や武器の貿易をしました。龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)の信用を得ていたましので、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功しました。亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となります)で長州藩海軍を支援しました。

 三、【在野の政治家として】 1866年1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれました。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書をしています。後藤象二郎とともに新政府の構想・船中八策を策定しました。これにもとづいて後藤象二郎が土佐藩の山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させました。

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NHK総合テレビの「龍馬伝」、いいスタートをきりました。

 NHK総合テレビの「龍馬伝」、いいスタートをきりました。

 上士の下士にたいする横暴。頭にきますね。その下士が町民、農民に威張るシーンも哀しかった。

 見ていて、なぜか、「大金持ち階級の鳩山さん」が、国民が苦しんでいる後期高齢者医療保険制度を廃止するという公約を、いとも簡単に放り投げたことを思い出しました。

 わたしたち国民を踏みつけにするこの行為にたいする、この憤りは、忘れてはなりません。

 いまの日本も洗濯しなくてはなりません。

 日本で一番長い歴史を持つ、これまで一度も政権についたことのない、日本の洗濯をなしうる政党、「龍馬党」を、いまこそ!!

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2010.01.06

まど・みちおさんの侵略戦争協力詩への反省。

 一月三日

 まど・みちおさんのことに興味を持ちました。

 1909年11月16日~。詩人。本名は石田道雄(いしだ・みちお)。
 2編の侵略戦争協力詩をつくりました。
 その後、1943年、召集によって台湾の船舶工兵隊に。マニラを皮切りに各地を転戦し、シンガポールで終戦を迎えました。
 戦後、この二つの詩について反省したということをテレビで知りました。

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高知市 四世代そろった元日。

四世代 そろった元日 妻の父母 さわち料理で 迎えてくれる

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二〇一〇年、最初の旅立ち。

今年の 治療開始だ 四日朝 丘の病院 待合いの席

七種類 薬携え たつ朝も 胸に手を当て 寿命聞いてる
  
「さよなら」の 手の冷たさに ハッとする 闇に消えてく 自転車の背

雪の中 駅のホームで考える バイトで暮らす 友の重圧

電車から 九条を守れが 見えていて 関目(せきめ)あたりの 新春の意気

「あの人は、こんな病気で」「この人は…」 六十過ぎの 友らの語らい

亡き友と 同じ顔した 娘いて アメリカ暮らしを われらに語る

「メールでね、英作文の添削を」 ボストンの若 オーケーという

「九日にライブやります」 年賀電話が 元気でうれしい

いただいた 冬山ズボンに はきかえて また戻りゆく 高知の野辺に

吉野川 生み出す雪か 吹き上がり 山覆いつつある 小歩危(こぼけ)のあたり

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友だちのおすすめ韓国映画・ドラマ。

 一月五日に会った友だちが以下の韓国映画・ドラマをすすめてくれました。
 「京城スキャンダル」
 「光州5.19」
 「風の絵師」
 「母なる証明」
 今夜からDVDを探してみることにします。 

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高知市 僕は「にわか龍馬研究者」。

 みなさんがフィクションを大いにまじえて坂本龍馬さんのことを面白おかしく取り上げてくれています。

 で、私としては「この際、ちゃんとした史料にもとづいた龍馬のことを、ちゃんと知ろう」と思って昨年十二月から、「にわか龍馬研究者」になっています。

 そのうちに成果をお示しできると思っています。

 実は、この分野、恩師の山本大先生なんかが一生懸命やっていて、僕も四十数年ほど前には、この分野を極めたいと思っていたのですが……。ま、遅ればせながら再スタートしています。

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実在の坂本龍馬とNHK総合テレビのドラマ「龍馬伝」の間。

 NHK総合テレビのドラマ「龍馬伝」の一回目を見ました。

 ● 「坂本龍馬と岩崎弥太郎は土佐藩脱藩以前からの知り合いで、弥太郎にとって龍馬は恋がたきだったんですね」。でも、ほんとかな???? 二人が知り合ったのは、ずーっと後の長崎でではなかったのかなぁ。

 ● 「龍馬の母は、上士の横暴が原因で死んだんですね。上士ってひどいなぁ」。でも、そんなことが実際にあったのでしょうか。いままで歴史の本では出てきていませんよねー。

 ちなみに僕は実在の人物を描くときには、フィクションは入れるべきではないと思っています。少なくとも「この人のことを描きますが、とんでもないフィクションを随所にいれますのでよろしくご了解を」と説明しておくべきだと思います。ええかげんなことはしなさんなよ!!!!

 NHKドラマホームページには、坂本龍馬と岩崎弥太郎についてこう書かれています。

 【坂本龍馬とは…】「世界の海援隊」を夢見た士魂商才の男
 土佐藩、高知城下に町人郷士坂本家の次男として生まれた。
 坂本家はもともと商家で、龍馬は自由で合理的な町人気質に触れながら育った。
 窮屈な土佐藩を飛び出し、幕臣勝海舟のもとで航海術を習得し、長崎で貿易会社を兼ねた政治結社・亀山社中、そして海援隊を組織する。そして、対立していた薩摩藩と長州藩の間を調停し、薩長同盟の締結に尽力。さらに、徳川慶喜の大政奉還を画策し、明治維新を大きく推し進める原動力となった。何者かに暗殺され、「世界の海援隊を作る」という夢半ばにして、33年の短い人生の幕を閉じた。

 【岩崎弥太郎とは…】龍馬に憧れ、龍馬を憎み、龍馬を愛した男
 土佐藩井ノ口村の地下浪人という低い身分の家に生まれる。幼少の頃より神童の誉れ高く、吉田東洋に入門を許され、後藤象二郎らと知り合い、土佐藩の中で活躍の場を得る。長崎の土佐商会の責任者となり、海援隊への資金提供窓口として、龍馬と交流を深めていく。維新後は三菱商会を設立し、一代で三菱財閥の基礎を築いた。

 【坂本龍馬・岩崎弥太郎の生涯】
 天保6年(1835年)1歳 11月15日 郷士坂本八平の次男として龍馬誕生。
 弘化3年(1846年)12歳 龍馬の母、幸49歳 で亡くなる。
 嘉永元年(1848年)14歳 龍馬、小栗流日根野弁治道場に入門。
 嘉永6年(1853年)19歳 龍馬、武芸修行のため江戸に。北辰一刀流千葉定吉道場に入門。ペリー来航を目撃する。
 安政元年(1854年)20歳 龍馬、土佐へ帰国。河田小龍から海外事情を聞く。岩崎弥太郎21歳 、江戸へ上る。
 安政2年(1855年)21歳 龍馬の父、八平59歳 で亡くなる。弥太郎、父の入牢を聞き帰郷。
 安政3年(1856年)22歳 龍馬、剣術修行のため再び江戸へ。
 安政5年(1858年)24歳 日米修好通商条約締結。
 安政6年(1859年)弥太郎、吉田東洋の推挙で、下横目になり、長崎へ。
 文久元年(1861年)27歳 龍馬、武市瑞山率いる土佐勤王党に加盟する。
 文久2年(1862年)28歳 3月24日 龍馬、沢村惣之丞と脱藩する。弥太郎、吉田東洋暗殺の下手人探しに大阪へ。材木商への転身を図るも失敗。龍馬、勝海舟を訪ね、門弟となる。
 文久3年(1863年)29歳 龍馬、勝海舟の海軍塾の塾頭となる。
 元治元年(1864年)30歳 龍馬、国元召還の延期が認められず、再び脱藩。蝦夷地開拓を計画。幕府、神戸海軍操練所を建設。第一次長州征伐。龍馬、楢崎龍と出会う。弥太郎、郷里で農作業に従事する失意の日々。
慶応元年(1865年)31歳 神戸海軍操練所、廃止される。龍馬らは薩摩へ。亀山社中発足。長州藩のために武器購入。
 慶応2年(1866年)32歳 龍馬の立会いで薩長同盟成立。龍馬と三吉慎蔵、寺田屋で襲撃される。お龍とともに、鹿児島、霧島などで療養する。第二次長州征伐。
 慶応3年(1867年)33歳 龍馬、後藤象二郎と面談。海援隊結成。弥太郎、土佐商会主任として長崎赴任。
 海援隊いろは丸が紀州藩明光丸と衝突、沈没。紀州藩が賠償金8万3千両を支払うことで決着。「船中八策」を作成する。大政奉還をめざす薩土盟約締結。徳川慶喜、大政奉還。
 11月15日 龍馬、近江屋で暗殺される。
 明治6年(1873年)弥太郎、「三菱商会」設立。

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NHK総合テレビ「龍馬伝」に出ている加尾さんについて。

 NHK総合テレビの「龍馬伝」に出ている加尾さんのことが今夜の県立高知短期大学の「地域史」の授業で出てきました。
 のちに、あの西山志澄の妻になっていたんですね。

 西山志澄
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
 
 西山 志澄(にしやま ゆきずみ、天保13年6月6日(1842年7月13日) - 明治44年(1911年)5月27日)は日本の明治初期の軍人。政治家。自由民権運動家。警視総監。幼名・直次郎。
 生涯
 1842年(天保13年)6月6日、土佐国高知南新町(現在の高知市)西山嘉蔵の三男に生まれた。平井真隆の次女・嘉尾と結婚し平井家に婿養子にはいるが1878年(明治11年)3月妻とともに離脱し西山家に復籍した。
 志澄は文学を市川彬斎や徳永千規に武芸を武市瑞山や吉村頼平に学び致道館に入る。土佐勤王党に参加し奔走する。平井収二郎が罪に問われた際は土佐への護送の任につき、瑞山の下獄に当たっては藩に免罪を願い出た。
 1870年(明治3年)兵部省に出仕、翌年親兵一等士官になった。1873年(明治6年)征韓論の時、辞職する。1874年(明治7年)大蔵省に出任するも再び辞職し帰郷する。
 以後板垣退助を助けて立志社、愛国社、土佐民会の設立に尽力をする。1878年(明治11年)立志社副社長、1880年(明治13年)愛国社の副議長となり欠席の片岡健吉に代わり国会開設の歎願の議論をまとめる。1883年(明治16年)土陽新聞社長。1887年(明治20年)言論、出版、集会の自由を建白するため上京するも保安条例に引っ掛かり投獄される。1889年(明治22年)帰郷。
 1890年(明治23年)自由党幹事となり翌年同志と自由倶楽部を組織し1892年(明治25年)から連続代議士に当選する。1898年(明治31年)第1次大隈内閣では警視総監になる。1911年(明治44年)5月27日没。
 親族
 西山加尾(にしやま かお、天保9年(1838年)- 明治42年(1909年))
 妻。土佐藩士平井直澄の娘。土佐国土佐郡井口村の出身。安政9年(1859年)前土佐藩主山内容堂の妹・友姫が三条公睦に嫁ぐ際に友姫の御付役として上洛し、以後文久2年(1862年)まで三条家に仕えた。慶応2年(1866年)志澄を婿に迎えて平井家を継がせ、間には一女を儲けた。その後、明治11年(1878年)夫婦で西山姓に復し、後に娘に平井家を再興させている。
 なお、加尾は坂本龍馬の初恋の相手であるという説があり、龍馬が加尾に男装用の身支度を用意するように指示する文書が残っている。

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2010.01.07

四万十市西土佐のThe ヌーディー’Sが、1月9日(土)、高知市のハリーの家のライブに出演します。

 四万十市西土佐のThe ヌーディー’Sが、1月9日(土)、高知市のハリーの家のライブに出演します。午後7時オープン、7時半スタート。

 The ヌーディー’Sは、なつみ(ボーカル)、麦(ギター)、まな(ベース)、アラちゃん(ドラム)の「ありのままの自分自身でストレートに生きるRock'n'rollバンド」です。

 ライブの題名は「キイロノセカイ vol.85 OPEN the 2010」です。
 出演は、The ヌーディー’Sのほか、PRESIDENT ROCKET、ニョリスケ、TIGHTNY LARG。
 前売り1000円、当日1500円。

 ハリーの家は、愛宕交差点の東側の愛宕病院とピザ屋の間にあります。北本町1丁目5の14。電話は、088-823-8596。地図は、以下のページに。
 http://livehouse.dekakeyou.jp/print/50384230

 なお、The ヌーディー’Sのホームページは以下の所にあります。
 http://nudyslive.blog33.fc2.com/

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台湾出兵、西南戦争で儲けた岩崎弥太郎。

 NHK総合テレビの「龍馬伝」を見て岩崎弥太郎に興味を持ちました。
 どんな人だったか、インターネット上のデータを拝借してまとめてみました。

  岩崎弥太郎(いわさき・やたろう、1835年1月9日~1885年2月7日)。

 土佐国井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎(やじろう。1808年~1873年)と、その妻・美和の長男として生まれました。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことです。曽祖父・弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれています。
 12歳で儒者・小牧米山に弟子入りし、14・5歳になると詩才を発揮するようになったといいます。14歳ごろには当時の藩主・山内豊熈(とよてる)に漢詩を献じ、書を講じて褒美をもらいました。

 1854年、藩士・奥宮周二郎の従者となって江戸へ出、 安積艮斎(あさかごんさい)の門人になりました。
 1856年父親が酒席での喧嘩で投獄されたことを知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放されます。
 その後、蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期に後藤象二郎らの知遇を得ます。
 東洋が参政となると、これに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されますが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられます。
 このころ、27歳で結婚しました。

 土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されると、その犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐一郎と共に、藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴きます。
 しかし、大坂で単独行動する際に必要な届出に不備があったことをとがめられ帰国しました。
 この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されました。実は、弥太郎は尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し無断で帰国したともいわれます。
 帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、職を辞しました。

 1867年、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事します。
 坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当しました。
 弥太郎の日記には、龍馬と酒を酌み交わすなど親交があった様子が記されています。
 1868年、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移ります。
 翌年10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事します。
 廃藩置県後の1873年に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立しました。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となりました。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークをつくりました。

 維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時、弥太郎は、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチし、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ました。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎でした。
 1874年、明治政府は台湾へ軍事出兵しました。弥太郎の三菱商会は、この際の軍事輸送を引き受けます。1875年、台湾出兵の功により政府から補助金を受けました。
 1877年の西南戦争(いまの熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱)でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げました。
 三菱の所有する汽船はほとんど軍用船として需要を独り占めにし、これによって得た運輸代金は1300万円になりました。さらに、戦争終了後の軍需品の処分でも儲けました。

 政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がります。
 農商務卿・西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だというならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論しました。
 1878年、大久保利通が暗殺され(紀尾井坂の変)、1881年に三菱の最大の保護者であった大隈重信が失脚します。弥太郎は強力な後援者を失います。
 1882年7月、三井財閥(背後に井上馨、渋沢栄一)などの反三菱財閥勢力が投資しあい共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗しました。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられました。
 こうしたライバルとの競争の最中、1885年2月7日、弥太郎は50歳で病死しました。
 弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となりました。

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高知市 僕の二〇一〇年の目標。

 僕の二〇一〇年の目標。

 一、健康を回復し、野山を走り回れるようにする。

 一、「青春の苦悩」の中にいる友だちの「支え」になる。

 一、県立高知短期大学の存続にむけて奮闘する。

 一、韓国からの学生たちの歓迎で役割をはたす。

 一、英作文の力を向上させる。

 一、編集している小冊子(昨年の年初から年末までに六号発行)を、六号分以上発行する。

 一、四月からも学友のKIさんを支援する態勢をつくる。

 一、県立高知短期大学を卒業する。

 一、一週間ぐらい外国に行って、「今の日本」を考える。

 一、三月に一つ講演をする。

 一、大学三年生の、いいスタートを切る。

 一、夏に高知大学関係者の「うたごえ」のつどいをやる。

 一、年内に、新しい歌集をまとめる。

  一、続けるにせよ、別々の道を行くにせよ、「つれあい」との風通しをよくする。

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2010.01.08

地球温暖化 日本でCO2を削減するための3つの大切。【第五稿】

 地球温暖化問題の解決が世界の課題になっています。
 その中で、日本でCO2を削減するために、いま何が必要かということを考えます。
 そのために私は、3つ大切なことがあると思っています。

 【地球温暖化問題というのは、どういう問題なのか】

 本論に入る前に、地球温暖化問題というのは、どういう問題なのかということにふれておきたいと思います。
 これは、地球の大気中の二酸化炭素が増えていることからおこっているといわれます。
 たしかに、45億年前に地球ができた時は、大気中の90%が二酸化炭素でした。二酸化炭素は、地球にあたる太陽熱を、外へ逃がさずに内にこもらせる作用(温室効果)をもちますから、当時の地球の表面は、ものすごい高熱でした。ですから、35万年前、地球に生まれた最初の生命は、海の中を誕生と生活の場所としたのです。その生命が、進化してゆく過程で、二酸化炭素を吸って酸素をはきだす植物系の生命体が生まれました。それらの生命体が、光合成の作用を30億年以上も続け、地球大気を改造していきました。こうして、大気の構成(窒素、酸素、二酸化炭素)が、ほぼいまの状態に近づき、上空にオゾン層もできたころに、4億年前、生命体の地上への上陸が開始されたのです。
 いまの地球大気はも生命体と地球が31億年の年月をかけてつくりあげた「生命維持装置」です。
 この大気の構成は、地上での生物の進化が進み、400万年前に人類が生まれても、16世紀、17世紀ごろまでは、ほとんど変化することがありませんでした。
 ところが、資本主義が生まれ、18世紀に産業革命がおこってから、「生命維持装置」の異変が始まりました。人間社会が消費するエネルギーが急増して、大量の二酸化炭素を大気中に排出するようになり、大気に異変がおこりはじめました。
 18世紀半ばの産業革命のころは、人間が使うエネルギーは石油換算で300万トンほどでした。19世紀には1億トン、20世紀の第二次世界大戦が終わったころには13億トン、いまでは、110億トンないし120、30億トンぐらいになっています。これに応じて、人間社会が吐き出す二酸化炭素の量は増え続けています。
 その結果、数十万年から100万年のあいだ、0.03%以下の水準で動かなかった大気中の二酸化炭素の濃度が、21世紀を迎えて0.04%の水準に急速に近づきだしました。
 その影響は、すでに予想をこえた気象変動となって世界各地に被害を及ぼしています。
 何としても、これを、いまの時点でくいとめなければなりません。
 幸いに世界の知恵は、「気候変動に関する国際連合枠組条約」(1994年6月21日)、「気候変動に関する国際連合枠組条約京都議定書」(1997年12月11日)を生み出しました。
 この条約、議定書をどう活用して地球温暖化問題にあたるか。それは各国の誠実さが問われる問題です。

 【その1 他の国はどうあれ、25%削減をみずからの目標に掲げて実行すること】

 その1は、日本として、率先して野心的な中長期の法的拘束力のある削減目標を掲げ、他の国はどうあれ、それをみずからの責任として実行するということです。
 鳩山首相は、2009年9月22日、アメリカのニューヨークの国連本部で開かれた世界90カ国以上の指導者が出席した国連気候変動首脳会合で、温室効果ガス削減の中期目標について、「1990年比で2020年までに25%削減を目指す」と表明しました。
 演説で首相は「あらゆる政策を総動員して実現を目指す」として、企業間で排出枠を売買する国内排出量取引制度や、再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度の導入、温室効果ガス対策税(環境税)を検討する考えを示しました。
 鳩山首相は「わが国だけが高い目標を掲げても気候変動を止めることはできない。世界のすべての主要国による公平かつ実効性のある国際的枠組みの構築が不可欠だ」とも強調しました。
 同年12月にデンマークのコペンハーゲンで開催された国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)での合意は、途上国への資金援助がともかくも盛られたのは積極面ですが、世界全体で2050年までに温室効果ガスを50%削減することも、そのために先進国が掲げるべき積極的な中長期の削減目標の数字も、いっさい明記されない不十分な内容となりました。
 この「合意」にもとづいて、日本政府は、2010年1月27日、25%削減目標を国連の条約事務局に提出しましたが、それには、すべての主要排出国が地球温暖化対策の新たな枠組みに参加し「意欲的な目標」で合意することなどを条件としました(「しんぶん赤旗」、2010月1月28日付)。
 しかし、日本としては「世界のすべての主要国による公平かつ実効性のある国際的枠組みの構築」にこだわらず、他の国はどうあれ、25%削減をみずからの目標に掲げて実行するということが大切だと思います。

 【その2 25%削減へ国と産業界とが「公的削減協定」締結すること】

 温室効果ガス25%削減の中期目標を実効あるものにするには、政府が、排出量全体の7割を占める産業界と公的削減協定を締結し、大企業に温暖化対策での社会的責任を果たさせることが不可欠です。
 ここが2つ目に大切なところだと思います。
 しかし、25%減について財界からは「(25%は)産業界から言って、荒唐無稽(むけい)。国益に反することは明々白々だ」との非難の声があがっているという状況があります。
 こういう状況を突破していくためには、財界の言い分を批判しながら、説得力ある論理を構築してことにあたることが必要です。
 その意味で、日本共産党の市田忠義議員の一連の提起は貴重です。
 市田議員は、2009月10月30日の参議院本会議での代表質問でも温暖化ガス25%削減へ国と産業界との「公的削減協定」締結をと政府にせまっています(「しんぶん赤旗」、2009年10月31日付)。
 「総理は、2020年までに1990年比で温暖化ガスを25%削減するという目標を掲げられました。問題はこれをどうやって実現するかであります。一番のポイントは温暖化ガスの最大の排出源である産業界、全体の8割を占めていますが、ここに削減のための実効ある措置をとらせることできるかどうかにかかっています。ところが鳩山政権の政策には、この最も重要な点が欠落しています。日本経団連の自主行動計画まかせでは削減がすすまないことは、京都議定書締結以降、排出量が減るどころか逆に増えてきたことをみても明らかです。EUなどでは、排出権取引制度や環境税にとどまらず、国と産業界との間で『公的削減協定』を締結し、削減措置を講じています。日本経団連などは『国際競争力が損なわれる』などと激しく抵抗していますが、日本の大手自動車メーカーなどはEU内で操業するときには、公的削減協定に参加しています。EUではできても日本ではできないというのでしょうか。こんな横暴勝手を許さず、『削減協定』を結ぶべきだと考えますが、総理の所見をうかがいます」
 これにたいして鳩山総理大臣は「国と産業界との間での公的削減協定を締結する必要性について。25%の削減目標という大変大胆な目標達成のためには、国内の排出量取引制度、あるいは再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度の導入、あるいは地球温暖化税といったものの検討をはじめ、あらゆる政策を総動員しなければ、なかなか達成できないと考えている。具体的な政策の内容については、今後国際交渉における理論がどのようになっていくか、これをリードしていかなければいけないと考えているが、地球温暖化問題に関する閣僚委員会等においてしっかり検討し、決めていきたい」と答弁しました。
 このテーマをもっと踏み込んで取り上げたのが、2009年11月24日の参議院環境委員会での市田忠義議員の質問です(詳報、「しんぶん赤旗」2009年11月28日)。
 この質問は、鳩山政権が掲げる2020年までの温室効果ガス25%削減目標(1990年比)を達成するには何が必要かという観点からのもので、「総排出量の8割、家庭が使う電力を電力会社の排出とすれば9割を占める産業部門の削減対策に思い切って切り込まなかったら、到底25%削減は到達できない」という主張をのべたものです。
 鳩山政権は、「地球温暖化問題に関する閣僚委員会」の副大臣級検討チームを立ち上げ、自民党、公明党の前政権が90年比8%減という消極的な目標の根拠とした試算の再検討作業を進めています。
 市田議員は、そのことに関連して削減目標の根拠となる試算の見直し、つまり、排出削減が経済にどんな影響を及ぼし、削減によってどんな社会をつくるのかのビジョンの再検討について質問しました。
 論戦の中で、モデル分析の評価をおこなう観点として、マクロフレーム(試算)の設定が、粗鋼生産が1億2000万トン、原発による発電電力量が4345億キロワット時、旅客運送量が5190億キロメートルで、「粗鋼の生産量は今より若干増える、原発は9基増設する、自動車の輸送量は人口が減少する可能性が高いにもかかわらず減らない、逆に貨物は増えるという前提がつけられた」(市田議員)ことがあきらかになりました。
 前政権の試算は、経済のあり方を現状から基本的に変更しないという大前提がつけられていたのです。しかも、その大前提は業界団体が示したデータそのもので、大幅削減は最初から排除したも同然でした。
 「この大前提を抜本的に見直すことから始める必要があると思いますが、そういう考えはおありですか」の質問に小沢鋭仁環境相は「必要であれば検討も加えていきたい」と答弁しました。
 市田氏の質問直後に開かれた副大臣級検討チーム会合は、温暖化ガス削減が経済に及ぼす影響について、専門家会合のメンバーを入れ替えて試算し直す方針を決めました。
 政府の25%削減目標に対し財界や産業界は、「日本のエネルギー効率は世界のトップクラスであり、これ以上の排出削減をすれば膨大なコストがかかる」「日本企業の国際競争力が損なわれる」などと抵抗しています。
 しかし、同質問では「日本の産業部門は削減努力を怠っている」こともあきらかになりました。
 市田議員は、前政権の産業部門の対策は業界の主張をのんで設定された対策だったことを明らかにしたうえで、財界が抵抗の主要な論拠にしている「エネルギー効率世界一」論を取り上げました。
 そこで市田議員が示したのは、国際エネルギー機関『CO2 Emissions from Fuel Combustion 2009』の「各国のGDP(国内総生産)および電力あたりのCO2排出量」(2007年データ)です。それによれば、購買力平価でみたGDPあたり排出量は、欧州連合(EU)27カ国が米ドルあたり0・32キロなのに対し、日本は0・34と上回っています。国別で見てもイギリスは0・29です。発電量あたりの排出量は450グラム。OECD(経済協力開発機構)加盟30カ国中20位で、「エネルギー効率世界一」とはかけ離れています。
 市田議員の「いかに日本の産業界が削減努力を怠ってきたかは数字が明白に示しています。産業界には大幅な削減対策ができる余地は十分あると考えていますが、どうですか」という質問に環境相は「日本のエネルギー効率は極めて高いと思っている。ただ、再生エネルギーといった話までふくめれば、いろんな改善の余地はあると思っている」と答えました。
 「産業界言いなりのマクロフレームや温暖化対策では25%削減を確実なものにはできない。まだまだ十分な削減余地がある産業界に対する思い切った誘導策、規制策ができるかどうかが重要なポイントになっている」。こう指摘した市田氏が取り上げたのが、産業部門の削減を図るために政府と企業が締結する公的削減協定の問題です。
 この論戦の中で、イギリスには気候変動協定に、イギリスに進出している日本の大企業も締結していることがあきらかになりました。自動車部門では、英国ホンダ、英国日産自動車、英国トヨタです。半導体部門は信越半導体ヨーロッパです。
 また、経済産業省に設置された研究会、「地球温暖化対応のための経済的手法研究会」(日本経団連常務理事、鉄鋼連盟環境・エネルギー政策委員会委員長、電気事業連合会副会長らが参加)が2008年7月に発表した中間報告で、協定等の法的措置への移行の可能性も検討すべきだと提言していることもあきらかになりました。
 市田議員は「鳩山首相が25%削減のためには、あらゆる措置を動員しなければならないと言っているなかには、当然この公的削減協定も入りますね」と質問。環境相は「具体的にどういう協定までという話は今のところはございませんが、とにかく経済界のみなさんにも協力をいただかなければやってまいれない」と答弁しました。
 市田議員は「経団連の『自主行動計画』任せにしてきたことがこれまで削減目標が達成できず逆に増えた結果をもたらしてきた」と指摘。「公的削減協定を中核に位置づけ、それを補完するものとして国際排出量取引制度や(電力)固定価格買い取り制度の導入、環境税などを実施」するなど、「25%削減を確実にする担保措置に踏み込めるかどうかが重要なポイントだ」と強調しました。
 日本の温室効果ガスの排出状況は、発電所や製鉄所など、わずか166の巨大事業所(企業数ではなく施設数)が総量の50%を占めています。家庭の排出状況は自家用車を入れても11%にすぎず、70%は企業関係の大規模施設からの排出です。
 ところが日本の温暖化対策は、政府が財界いいなりに、日本経団連の「自主行動計画」をその柱にすえてきました。「自主行動計画」では、何の削減義務も負わず、業界ごとの目標設定の仕方もばらばらで、目標を達成したといいながら総排出量が増えている業界さえあります。
 それだけに産業部門の削減対策に思い切って切り込むということは重要な位置にあります。
 なお、イギリスの気候変動協定とは、つぎのようなものです(2009年11月4日付の「しんぶん赤旗」の「知りたい聞きたい」)。
 イギリスの気候変動協定は、政府と50以上の産業分野ごとに結ばれ、約6000の企業が参加しています。高い温室効果ガスの削減目標を持ち、GDP(国内総生産)を増大させながらCO2の排出を減らす実績をあげています。協定に参加している企業は、環境税減税などの優遇措置が実施され、目標超過した削減分を売買する排出量取引制度も組み合わせ、排出量を減らす重要な施策となっています。協定を守らない企業には税金の優遇を認めないなど厳しい措置をとり、目標の順守を図っています。
 2010年1月27日、日本経済団体連合会は、次期会長に米倉弘昌・住友化学会長(72)を内定しました。彼は、政府の25%削減目標について「日本だけが突出して厳しい目標を示している」と難色をしめしています(高知新聞、2010年1月28日付)。
 この問題は、今後も、厳しい争点でありつづけます。

 【その3 化石燃料依存をあらため、再生可能エネルギーの利用を抜本的に高めること】

 3つめの大切は、化石燃料依存をあらため、再生可能エネルギーの利用を抜本的に高めることです。
 このさい、温暖化対策を口実にした原発推進政策はやめるということが大事です。原子力発電は、放射能汚染という深刻な環境破壊を生みだすものであるからです。原子力発電は、まだ安全性が保障されていない、危険で不完全な発電方式です。それは廃棄物の処理の仕方がいまだ定まっていないさことにも示されています。原子力発電の増加の結果、日本の電力量はあり余っていて、それが電力会社が風力発電、太陽発電の電力を買い取る上でのネックにもなっています。原子力発電所は順次廃止していくという方向で原子力発電を縮小し、自然エネルギーに切り替えていく必要があると思っています。
 この点で、参考になるのが、日本共産党の吉井英勝議員の2009年11月20日の衆議院経済産業委員会での質問です(「しんぶん赤旗」、2009年11月24日)。
 地球温暖化防止を進める上で原子力発電に頼るのではなく再生可能エネルギーを推進するべきだと、直嶋正行経産相に迫りました。
 吉井議員は「温室効果ガス25%削減の政策には原発の活用、新増設も入っているのか」と質問。直嶋経産相は「当面原発を重視していかなければならない。2018年までに新たに9基新増設する」と答えています。
 この質問で、吉井議員は、全国の原発56基が20年の稼働で年間約3000億キロワット時を発電するのに32兆円のコストがかかると指摘。「メガソーラー(太陽光)発電所なら30兆円で同じ発電量を確保できる。放射性廃棄物などの問題がゆきづまっている原発に頼るのではなく、再生可能エネルギーこそ推進すべきだ」と強調。さらに、家庭が太陽光パネルで生み出した余剰電力などを電力会社に買い取らせる制度について、「家庭の発電装置の設置を補助する際、5~10年で初期投資を回収できるようにして爆発的普及を促進すべきだ」と求めました。

 【参考文献】

 ○ 『前衛』2010年1月号の「新政権『25%削減』中期目標に何が必要か(佐々木勝吉)。日本共産党中央委員会。
 ○ 季刊『季論21』2008年10月号の「特集 環境の世紀への思想と行動」。『季論21』編集委員会。本の泉社。
 ○ 『新しい環境政策 サステイナブル・エコノミーへの道』の「第1章 エネルギー政策 温暖化対策と脱原子力をめざして」(大島堅一)。東洋経済新報社。2003年11月20日。
 ○ 月刊『経済』の「風力発電の普及と電力政策の転換」(山口歩)。
 ○ 『前衛 2010年1月号』の不破哲三「『マルクスは生きている』①」、日本共産党中央委員会。
 ○ 日本共産党第25回大会決議。

 (2010年1月28日)

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2010.01.09

高知市 「先月、結婚しました」と女性ロッカー。おめでとう。

 「先月に 結婚しました」 ロッカーの 笑みを見ている あったか握手

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2010.01.10

NHK総合テレビの「龍馬伝」の二回目を見ました。

 NHK総合テレビの「龍馬伝」の二回目を見ました。
 龍馬の、いいせりふがありました。
 「わしは人の気持ちがわかっちょらん。何一つわかっちょらん」

 かっ歩する 創作龍馬(りょうま)も 魅力的 「この際だから」と 歴史書も読む

 年末に 子規(しき)をやってた 香川さん 年が明けたら 弥太郎になる

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2010.01.11

高知市 kochiseoulさんの「第2回 日韓次世代交流映画祭」の映像、Goodでした。 

 YouTube で kochiseoul さん の「第2回 日韓次世代交流映画祭 2nd Japan & Korea Next Generation Film Festival」という映像を見ました。
 Goodでした。

 kochiseoul というのは 高知、ソウル ということだと思います。
 あの高知市からソウルに留学中の彼のことでしょうか。

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2010.01.12

1930年2月の宝塚歌劇団の団員たちへの権力の弾圧。

 一月十一日午後、大阪市のMIさんに1930年2月の宝塚歌劇団の団員たちへの権力の弾圧の話をききました。
 どうも、彼の父も、そのとき検挙されたらしいのです。
 ネットで、その事件のことを調べてみました。
 一つしか見つかりませんでした。
 これは、じっくり調べなくては……。
 
 ● 須藤五郎
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 1988年11月18日)は日本の音楽家、政治家。元日本共産党参議院議員(4期)。筆名は鳥羽英夫。
 三重県鳥羽市出身。旧制東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で教鞭を執るかたわら、1922年からは宝塚歌劇団の作曲家、指揮者に就任。1928年に発生した三・一五事件で日本共産党中央委員会が壊滅する中、地下活動を続ける党に対し資金援助を行ったため、1930年2月に検挙され投獄される。留置場で作曲した「しぐれに寄する抒情」は後に三浦環により愛誦された。

 主な作品

 宝塚歌劇団

 學生通辯(1924年)
 マルファの昇天(1925年)
 寅童子(1926年)
 孔雀物語(1927年)
 モリーの婚禮(1928年)

 参考文献

 『君泣くやおなじ心に 宝塚・労音・わが道』須藤五郎(民衆社、1988年11月刊)
 「新訂 政治家人名事典 明治-昭和」(日外アソシエーツ、2003年)
 『水晶の夜、タカラヅカ』岩淵達治(青土社、2004年11月刊)

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ある二十歳代の女性の、横山大観の彩管報国についてのべた論文。

 ある二十歳代の女性の、横山大観の彩管報国についてのべた論文を読ませていただきました。

 「すごい、こんなことに関心を持って調べ、論じていたんだ」と感激しました。

 僕も、この分野について調べてみたいと思いました。

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 『高知の戦争 証言と調査 第七号』。表紙の写真は、「第一徴兵保険株式会社 被保険者 ○○○○」と彫り込まれた唐津焼の表札のようなものです。

  『高知の戦争 証言と調査 第七号』(戦争遺跡保存ネットワーク高知)が出ました。

 表紙の写真は、「第一徴兵保険株式会社 被保険者 ○○○○」と彫り込まれた唐津焼の表札のようなものです。

 本文には、これについての解説が載っています。

 そのほか、新しい書き手のものでは、高知市の土佐高等女学校での風船爆弾づくり、戦争中の高知県東津野村の様子についての証言があります。

 A5判六十三ページ。お値段は二百円(実費)です。

 わたくしにメールをいただければお送りします。

 なお、毎月十五日締め切りで原稿を募集中です(原稿料は出ません)。

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日本共産党中央委員会のホームページが、一月十三日午後一時から、同党第二十五回大会を生中継!!!

 すごい。日本共産党のインターネットが、第二十五回大会(一月十三日~十六日)の様子を生中継します。

 まずは、一月十三日午後一時からです。

 以下のところです。

 http://www.jcp.or.jp/jcp/25th_taikai/index.html

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高知市 「トローチが 一つあるから」……。

「トローチが 一つあるから」 見かねてか さっと差し出す 娘の世代

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須崎町立須崎国民学校の講堂などには陸軍の兵隊が……。

 一九四五年七月、高知市から高知県須崎町(いまは須崎市)に越して行った国民学校三年生と話をしました。
 須崎町立須崎国民学校に転入することになったのですが、そこの講堂と西の教室の一階には陸軍の兵隊が駐屯していました。

 そのころのこと、もう少しくわしく調べてみるつもりです。

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1945年の戦争中にNHK高知放送局に勤めていた女性の話。

 1945年の戦争中にNHK高知放送局に勤めていた女性の話を聞きました。当時は、わが家(や)から五十メートルくらいのところに住んでいたそうです。びっくりしました。
 のちほど、メモをつくりたいと思っています。

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2010.01.13

日米軍事同盟の異常な特質 七点。

 日本共産党二十五回大会決議案が「日米軍事同盟は、米国を中心とした四つの軍事同盟のなかでも、他に類のない異常な特質をもっている」としてつぎの七点をあげています。そして、「日米安保条約を解消し、基地のない日本、独立・平和の日本を築くためには、国民多数の合意が必要である。そのために、わが党は、平和を求める国民の願いを実現するたたかいを、立場の違いをこえた共同の力ですすめながら、その願いを阻む根源に日米安保条約が存在することを、広く明らかにしてたたかう。同時に、改定から50年をへて、世界でも突出した従属性と危険性を、その全身にまとっている日米軍事同盟の真実の姿を、広い国民の共通の認識とするために、力をつくす」としています。

 ――日本の米軍基地は、1980年代以降に面積では2倍以上に広がった(自衛隊との共用を含む)。海外に駐留する米軍総数は、世界的規模ではソ連崩壊後に、約61万人から約28万人へと半数以下に減っているにもかかわらず、在日駐留米兵数は約4万人前後とほとんど変化がない。

 ――在日米軍基地は、海兵遠征軍、空母打撃群、遠征打撃群、航空宇宙遠征部隊など、日本防衛とは無関係の、干渉と介入が専門の「殴りこみ」部隊がつぎつぎと配備され、米国の侵略的な世界戦略の一大根拠地として強化されてきた。海兵遠征軍が配備されている(沖縄、岩国)のも、空母打撃群と遠征打撃群の母港がおかれている(横須賀、佐世保)のも、世界で日本だけである。米国防総省の発表では、この数年をみても、日本に駐留する米軍は、陸海空海兵隊の4軍そろって、常時、2千人から3千人以上が、イラクやアフガニスタンの戦争に投入されている。在日米軍基地は、「殴り込み」戦争の最前線の基地として、常時、戦時下におかれているのである。

 ――在日米軍による事件・事故・犯罪・住民生活への被害は、きわめて深刻である。1995年におこった沖縄での米兵による少女暴行事件のさい、米兵が裁かれた女性暴行事件や未成年者へのわいせつ行為などの性犯罪が、日本が米軍基地のある他の国々と比べて突出して高いことが問題となったが、その実態は現在も変わっていない。犯罪をおこした米兵が日米地位協定の治外法権的な特権によって守られるという屈辱的事態が繰り返し問題になっているにもかかわらず、半世紀にわたって日米地位協定がいっさい改定されないままであることも、異常きわまりないことである。

 ――米軍駐留経費負担として、国民の血税をつぎ込むことの「気前良さ」でも、日本は「世界一」の異常な国である。米国防総省の「共同防衛における同盟国の貢献度」報告(2004年)によれば、日本の米軍駐留経費負担は、米国の同盟国27カ国(当時)のなかでも突出しており、2位のドイツ以下26カ国の合計を上回る。米国政府自身が、「日本にいるほうが安上がり」と公言するような世界でも突出した米軍駐留経費負担が、米軍の居座り、基地増強をもたらしている。

 ――半世紀前の安保改定時に、安保条約を「対等なもの、日本の自主性を確保するものに改める」として、その道具立てとして宣伝された「事前協議」制度は、「日米密約」と一体のものであり、まったく実態のない国民を欺く「虚構」でしかなかったことが、つぎつぎと明らかになっている。米軍の日本からの出撃行動も、艦船や軍用機の寄港・通過による核兵器の持ち込みも、米国との「事前協議」の対象とせず、自由勝手におこなえることが、「日米密約」でとりかわされ、それにそった運用が現在まで続いていることは、否定しがたい事実となっている。

 ――「米軍再編」の名で、日米軍事同盟の体制は、日米安保条約の枠組みさえこえた、地球的規模の「日米同盟」への侵略的変質を深めている。2006年6月の日米首脳会談では、「新世紀の日米同盟」と題する「共同宣言」がかわされ、「21世紀の地球的規模での協力のための新しい日米同盟」が宣言された。日米が、世界における共通の戦略目標をもち、米軍と自衛隊の軍事一体化をはかり、基地体制の抜本的強化をはかる――これがいますすめられようとしていることの中身である。

 ――日米安保条約のもとで、日本経済は米国への従属と支配のもとにおかれている。米国政府は、1994年から毎年、日本に「年次改革要望書」を提出し、新自由主義のおしつけと市場開放を迫ってきた。金融の自由化、郵政民営化などは、いずれも米国の要求から始まったものである。こうした経済的従属の「制度化」がはかられている国は、世界でも日本だけである。こうした米国の理不尽な要求の「制度化」は、日本財界・大企業の横暴な要求とも結びつき、日本経済のゆがみを一段と激しいものとし、そのゆがみは世界経済危機のもとで国民生活が陥った特別に深刻な苦難という形で噴き出した。

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2010.01.14

英作文の時間 Do you know the blog?  【スペルのミスを指摘していただいてありがとうございました。訂正しました】

  あなたは、ブログを、ご存知でしょうか。
 それは、インターネットの日記をつけるような形のホームページです。

 Do you know the blog?
 It is like a homepage to keep the diary on the internet.

 実は、私も、ブログをつくって、運営しています。
 そのブログのタイトルは、「短歌の花だより」です。
 このブログは、2004年4月25日に開設しました。

 Actually, I also have my blog.
 The title of the blog is "Tanka No Hanadayori ".
 This blog was opens on April 25th, 2004.

 このブログに、私は、自作の短歌を書き込んでいます。
 また、私は、このブログに、日々の暮らしや勉強の中で、発見したことや、うれしかったことや、くやしかったことも書き込んでいます。

 I write my tanka in this blog.
 Moreover, I write the discovery in the living and the study every day, gladness, and mortifying in this blog.

 このブログには、もう、おおよそ十三万人のかたが訪れてくれています。
 あなたも、一度、「短歌の花だより」を、ご訪問ください。

 About 130,000 people visited my blog .
 Please visit  my "Tanka No Hanadayori ".

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高知市 大学編入試験合格のお祝いをいたただきました。

  大学編入試験合格のお祝いをいたただきました。

 きれいな包みを開けてみると、すてきなボールペンとシャープペンシルが入っていました。

 いつか文房具屋で見つけて、「値段がいい」ので買えなかったものです。

 ありがとうございました。

 大学に入ってから大事に使わせていたただきます。

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2010.01.15

高知市 夜中から「植木枝盛の高等女学校設立の建議」というリポートを書き始めました。

 一月十四日夜の「地域史」の授業に触発されて、夜中から「植木枝盛の高等女学校設立の建議」というリポートを書き始めました。

 しかし、ネコのクニョの邪魔にもあい、途中で断念。

 今度、起きてから続きを書くことにしました。

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高知市 川の字になって寝るといいますが、わが家では真ん中の線はネコです。

 川の字の 真ん中短く ネコが寝る

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自由民権運動家・植木枝盛の高知県会での高等女学校設立の建議。

 2010年1月14日夜、自由民権運動家の植木枝盛(うえき・えもり。1857年~1892年)が高知県会で高等女学校設立の建議をしたことを知り、その経過をまとめておきたいと思い立ちました。
 以下のようなことです。
 「県会議員の枝盛が明治二十年二月十八日県会に提案した『高等女学校設置建議』が可決され、同年九月三十日『高知県尋常中学校女子部』として開校式を挙行した。その後『高知県立高等女学校』『高知第一高等女学校』等を経て、現在の『高知丸の内高等学校』に発展している。」(『植木枝盛の生涯』。外崎光広。高知市文化振興事業団。1997年11月25日)。
 「教育切り刻み」の、いまの政府、高知県政が学びとってほしいことの一つです。

 【当時の高知県の女子教育の実情】

 まず、当時の高知県の女子教育の実情についてふれます。
 1878年(明治11年)4月、高知女子師範学校が設置されました。場所は、高知市西弘小路の県庁内でした。
 この学校は「小学ノ師範タルヘキ女子ヲ養成」するところでしたが、高知県における女子中等教育機関としての性格もあわせ持っていました。
 「一般に、四国の女子師範は、他地域に比べ比較的はやく、十一年ごろすべての県に設けられている。ただ、何(いず)れも入学志願者が少なく、経費の割には効果があがらないのを理由に僅(わず)か一・二年で廃止された。むろん婚期との関係もあろうが、女子の就職を特異なものと考えた当時にあって、職業婦人への道を選ぶ者は極めて稀であったに違いない。ひとり本県の女子師範だけが学校を維持できたのは、他に女子の中等教育機関がまったく無かったうえに、他府県と比べ著しく女権意識が高かったためと思われる。」(『高知師範学校略史』。高知師範学校略史編集委員会。高知師範学校百年祭実行委員会。1974年9月25日)。 
 同校を1885年(明治18年)11月に卒業した井上萬喜が、そのことを書いています『創立五十年』。甲藤義治編。高知県師範学校創立五十年記念会。1925年12月25日)。
 「何分其(なにぶんそ)の当時は高知女学校もありません。女にして中等の教育を受けようとするには、勢(いきおい)唯一の女子師範を選ぶより外(ほか)に方法はなかったのです。それで教員志望でなくとも、必ず女子師範に入学致(いた)さゞるを得なかったのです。」
 井上は当時のこととして「婦人の活動が盛(さかん)になって、堀詰座で婦人の演説などが始まりました」とも書いています。
 同校には、貸費制度がなかったかわりに、男子師範卒業生が義務づけられた俸職年限がなく、比較的自由に就学できました。
 ところが、1886年(明治19)年4月に公布された「師範学校令」は「尋常師範学校ノ卒業生ハ公立小学校校長及(およ)ヒ教員ニ任スヘキモノトス」と規定し、女子も男子と同様に十年間の就職義務を課しました。
 この間の事情を「土陽新聞」1887年(明治20年)2月22日付は、このように伝えています。
 「即(すなわ)ち近日に至(いた)り師範学校の女生徒が大概(たいがい)退校して僅(わず)かに二十人余名となりしは、願(おも)ふに彼の卒業後十年間の服務あるを恐れての事なるべし、此(かく)の如(ごと)き次第なれば今日にては之(これ)を要するに、女子は幾(ほと)んど小学以上の学問を為(な)すべき場所なきに立至(たちいた)りたり。」

 【植木枝盛の「高等女学校を」の動議の中身】

 こうした状況の中、植木枝盛県会議員は、1887年(明治20年)2月18日の通常高知県会で高等女学校設立の建議をします(以下、「高知日報」、1887年2月23日付。読みやすいように行がえをしました)。
 「[通常県会明治二十年二月]十八日午前九時四十分第一席開会教育費の二次会を開く二十二番(植木[枝盛])
 余は今本案を議するの前に当て一の建議説(けんぎせつ)あり。其(そ)は地方税を以(もつ)て我高知県に一(ひとつ)の高等女学校を設立せんとする是(こ)れなり。抑(そもそ)も我高知県には従来女子師範学校の設けありて、多数の女児此校(このこう)に就き教育を受けしが、昨年学制の改革に依り其(その)規則上に一大変更を生し、これか為め女生徒は多く退校するに至れり。元来師範学校は将来に於て教員たるの目的を有する者にあらざれば入学することを得ざるものなりと雖(いえど)も、従来は今より見れは規則頗(すこぶ)る寛大なりしかば、仮令(たとえ)将来に於て教師となるの目的無き者と雖(いえど)も随分(ずいぶん)之に就学するの有様にて、恰(あたか)も高等中学校に代表せられし形状なりしも、今日に及んでは其(その)規則尤(もつと)も厳格となりし故に、全く将来に於て必す教員たらんとの確固たる志操(しそう)と目的を抱持(ほうじ)せざるものにあらざれば旧の如く就学する能(あた)はざることとなりし。
 之(こ)れが為め右等の目的を抱持せざる者は大抵退校することに至り、残る女生は僅々(きんきん)二十余名となりし。蓋(けだ)し其の退校せし女生の中にても教員たらん目的を保(も)つ者なきにあらざるも、彼(か)の卒業後、猶(な)ほ十年の久しき間之(こ)れに従事せざる可らさるを顧慮(こりょ)して為之(これがため)退校せし者蓋(けだ)し又少なからざるなり。
 然(しか)るも幸(さいわい)に中学校の規則に於て女生の入学を許すあれば則(すなわ)ち可なりと雖も、斯(かく)の如き事は実際出来さるなり。されば今日我高知県に於ては女子の学問する場所大に狭隘となり、小学以上の学問を為す可き所なきに至りしと云ふも不可なきなり。それも又慨嘆すべき事ならずや。
 依(よっ)て余は此(ここ)一の高等女学校を設立し、夫(か)の小学以上の学問をなす場所を設立し、以て高等の学課を修めんとする希望者の意を満たしめんと欲するなり。而して其家屋の如きは、師範学校の跡を借受くるも可なり。猶(な)ほ又是等(これら)の方法に至ては建議の議場に容(い)られし後述べんが、其の概略を一言(いちごん)せば、先づ生徒を百人と限り、学期は三年として、其費用は概算一千二百円位を年々支算(しさん)せんと欲するにあり。」

 【高知県尋常中学校女子部として実った植木の動議】

 同月3月30日、植木が発議した高等女学校を文部省が認可しました(高知日報、1887年3月31日付。土陽新聞、1887年4月1日付。データは『土佐自由民権運動目録』。土佐自由民権研究会。財団法人高知市文化振興事業団。1994年12月25日)。
 ことの推移を『近代高知県教育史』(高知県教育史編集委員会。高知県教育研究所。1964年3月1日)は、つぎのようにえがいています。
 「……高等女学校設置の件が明治二〇年(一八八七)三月の通常県会に上程され、その決議によって、建議案を文部省に提出した結果、同年九月高知県尋常中学校に女子部が設置されることになった。」
 そして、翌1887年(明治21年)3月、「高知県尋常中学校規則」が改定され、女子部にかんする規則が定められました。
 それによると、女子部は「女子処世要務ノ為(ため)ニ須要ナル教育を施(ほどこ)ス所」とされ、入学資格は、満年齢十二歳以上の女子で、修業年限は四年でした。学科は、倫理、国語、漢文、英語、仏語、地理、歴史、数学、博物、物理、化学、習字、図画、唱歌、体操という男子部と同じ教科のほかに、家事経済、裁縫手芸が課せられました。その他の規則は、男子部と同じでした。
 同月31日、高知県立病院付属医学校が廃止され、その跡に中学校女子部が置かれました(『増補改訂版 高知県歴史年表』。高知地方史研究会。高知市立市民図書館。1975年10月25日)。

 【高知県高等女学校に発展しました】

 高知県尋常中学校女子部は、こうして高知県における唯一の女子中等教育機関となりました。
 1893年(明治26年)4月、同校は独立して高知県高等女学校になり、4学級95人の生徒で新しく出発することになりました。

 (2010年1月15日) 

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高知市 県立高知短期大学の後期試験の準備で苦しんでいます。

 県立高知短期大学の二年生です。

 もうすぐ後期の試験です。

 八科目の試験があります。

 すでに準備が済んだものは「キャリアデザイン」、「英語Ⅱ」、「地域史」。

 あとは、これからです。

 「芸術文化論」については、資料不足で満足するものが書けません。十七日に愛媛県の図書館にいって資料を読んでから完成させたいと思っています。

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2010.01.16

高知市  「『年賀状、来なかったので心配で』 電話をくれた旧友がいる」。

 「年賀状、来なかったので心配で」 電話をくれた旧友がいる

 午前中、茨城県に住む高校時代からの友人から電話をいただきました。ピアノの先生です。三年前に夫が病気で亡くなったとのことでした。僕たちと同い年の人です。知りませんでした。

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2010.01.17

高知市 月刊俳句誌『京大俳句』八十六号分探索 その一 「えっ、十数万円だったの!」。

 県立高知短期大学の「芸術文化論」のリポートに、これまでに考えたこともなかったテーマを選びました。

 それを書くためには、月刊俳句誌『京大俳句』八十六号分を読まなければ決着がつきそうにありません。

 高知県立図書館に相談したら愛媛県立図書館にあって、取り寄せができるということでした。

 ネットを見たら売っていました。

 しかし、高い。一万数千円でした。

 しかし、しかし、思い切って頼みました。

 しかし、しかし、しかし、あとでよく見てみると十数万円でした。

 「ままよ。食事を減らしたらい」、と、お金を用意しました。

 これが昨年十二月のことです。

 しかし、待てど暮らせど本が来ません。

 一月になってから、実は在庫がありませんというメールが来ました。

 ひどい、ひどすぎる。

 リポートの締め切りは迫っています。

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高知市 月刊俳句誌『京大俳句』八十六号分探索 その二  「愛媛県立図書館四階に出現しました」。

 そして、本日。

 僕と妻は、高知市の、わが家を午前八時に出発。

 午前十一時半。松山市の愛媛県立図書館四階に出現しました。

 どひゃーっ。大量の『京大短歌』です。

 僕が、これを読んでコピーの必要な所をチェックし、それを妻がコピーする、そして、そのコピーがうまくできているか僕がチェックするという作業です。

 昼食もとらずに、ときには「なんで私がこんなことを……」という妻の抗議を受けつつの作業です。

 午後四時、作業終了。

 妻は、すごい有能な「共同作業者」でした。

 感謝。

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高知市 月刊俳句誌『京大俳句』八十六号分探索 その三  「一気にリポートの作成」。

 家に帰りついたら夜八時過ぎ。

 まずは、「龍馬伝」。

 あまりにも僕の理解している史実と違うのでやじることしきり。

 終わると、コピーをもとに一気にリポートを作成。

 いま、妻が校正をしてくれています。

 いま、妻から膨大な赤字を渡されました。

 「こんなこと、間違うな」

 こう言い残して二階のベッドに去ってしまいました。

 シクシク……。

 僕は、これをシンデレラ時間までに完成させたいと思っています。

 【参考】

 http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2009/12/post-2b30.html

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高知市 県立高知短期大学の後期試験の準備で苦しんでいます。 の続き。

 県立高知短期大学の二年生です。

 もうすぐ後期の試験です。

 八科目の試験があります。

 すでに準備が済んだものは「キャリアデザイン」、「英語Ⅱ」、「地域史」と書きましたが、その後、「国民所得論」、「文化芸術論」が完了しました。

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2010.01.18

高知県 須崎町の須崎国民学校の日々。

 『温故知新 南校舎改築記念誌』(須崎小学校南校舎改築記念誌編集委員会。一九八七年二月一日)を読んでいて、一九四四年、一九四五年当時の高知県須崎町の須崎国民学校について、いくつか発見がありました。

   【運動場はイモ、カボチャ、ヒマワリの畑に】

 一九四四年、同校を卒業した大家順助さんが当時のことを書いています。
 「……食料不足となると学校の運動場の一部も芋や、かぼちゃ作りの畑となってしまった。ヒマワリの種も軍用の油となり、たくさん植えたのであった」
 
   【須崎海洋少年団の訓練】

 大家順助さんが、須崎海洋少年団のことを書いています。
 「……軍事的な教育も着々と進んで昭和十八年[一九四三年]には、海軍下士官帰りの先生が受け持ちとなった。(匿名)早速須崎海洋少年団を結成(小学五年生で入団・団員約七~八〇名)し、海軍仕込みの手旗信号、ロープむすび、無線通信(モールス信号)カッター(大型ボート)の訓練など、二年間にわたり教育を受けた。
 昭和十八年八月には、元海軍元帥・永野修身閣下が安和の(十六年新庄村、須崎町と合併)修身塾建築祝祭のため来須した。安和の浜で団員が日頃の訓練を披露した。」

   【奉安殿を避難させました】

 大家順助さんが書いていることを続けます。
 一九四四年、アメリカ軍機の空襲に備え、校門の正面にあった奉安殿(天皇、皇后の写真などをまつる)を裏山に避難することになりました。防空壕(ぼうくうごう)を掘っていると昔の古い人骨が出たので、糺鴨神社の裏に場所を変えて、奉安殿の避難場を完成させました。

   【県からの「校舎の天井を取り払え」という通達】

 一九四五年の一学期のはじめ、高知県が、高知市内校や須崎国民学校のように郡部で街の中にある学校に県からつぎのような通達がありました。
 内容は「木造教室の屋根裏の天井は直ちに全部取り払え」とうものでした。「敵の空襲により焼夷弾(しょういだん)が投下されたとき、この焼夷弾が天井に止まると消火がしにくいので、そのまま床に落ちるようにするため」でした。
 須崎国民学校では、これが実行されました。
 一九四七年九月一日に、同校に教員として赴任した大中清さんが、以下のように書いています(同校は、須崎小学校になっていました)。
 「(須崎小学校の)ほとんどの教室に天井がなかった。これにはいろいろの障害があった。その一つは隣りの教室の音が入ることだった。(中略)この音がうるさくて仕様がない。影響はこれだけではなかった。秋が終わり冬が近づくと出始めた。教室が暖まらないのである。天気のよい日は教室に日光が入る。暖められた空気は、天井がないのでどんどん逃げてしまう。(中略)
 もともと天井は、屋根裏を隠したり部屋の保温効果をねらったものだが、そのことがよくわかった。寒がりやの私にとってこの教室は苦手だった。」
 天井板が校庭に山ほど積んであったといいます。

   【学校には軍隊も駐屯し……】

 大家順助さんは、須崎国民学校に軍隊が駐屯していたことも書いています。
 「……やがて本土決戦にそなえ、学校には軍隊も駐屯し、敵前上陸に備え、城山、向山、角谷の山々に陣地構築のための勤労奉仕へと変わっていった。」

 なお、文中の県からの通達について高知県庁に問い合わせたら、戦災で焼けてしまってわからないとの回答でした。

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高知市 夜学から帰ってましたが妻がいません……。

 夜学から 帰ってきたが 妻いない 一時間もの 不安な時間

 女性たちの会議に参加していたとか、うーーーん。

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高知市 ほかほかの電気毛布ですが……。

 ほかほかの 電気毛布に 抱かれて 二日目となる なぜか寝れない

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高知市 ゴホゴホと せき込んでいる 夫婦して……。

 ゴホゴホと せき込んでいる 夫婦して 今年の風邪は 夫唱婦随か

 いやーっ、つらい日々を過ごしています。

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2010.01.19

高知県が「県立大学改革にかかる永国寺キャンパス検討会 報告書(案)について」の意見書を公募しています。公募期間は、2月12日までです。

  高知県が「県立大学改革にかかる永国寺キャンパス検討会 報告書(案)について」の意見書を公募しています。公募期間は、2月12日までです。

 募集の要項、報告書案などは、以下のページにあります。

 http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/140901/eikokuji.html

 以下、それをコンパクトにまとめたものです。 

「KOUBO.doc」をダウンロード

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2010.01.20

高知市 試験直前。ジャジャーン。

 リポートを一つ書き終えました。

 リポートは、あと一つ。

 試験の準備は、あと二つ。

 試験は木曜日から。シジャーン。 

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2010.01.21

高知市 男は、女の支えなしに生きていけないのではないかという感じ。

 「男は、女の支えなしに生きていけないのではないかという感じ。」というタイトルにしました。これは、すごく、いいタイトルだと思います。われながら。 

 わが家の、六十二歳になる「美女」・藤原尋子(ひろこ)さんのことを書きます。

 わが家は、妻・尋子の「ボランティア結婚」でなりたっています。

 高知大学の大学四年生になる前に、私は大学をやめました。

 そして、高知市の高知県民主商工会に勤務しました。

 そのころ、尋子さんは、高知大学の一学年下でした。

 僕は、尋子さんに「言い寄りました」が、当然であるかのように拒絶されました。

 そのときの僕の「壮絶な名セリフ」を、ご紹介しましょう。

 「僕の家が、お金持ちで、僕が東大生で、前途洋々だったら、君はOK、いっしょになりましょうというだろう。僕が、大学中退で、ついた仕事は食べるのにもやっとで、将来性もない。そのうえ、日本共産党の常任活動家になりたいといっている。だから、結婚を、ちゅうちょしているのだろう。結婚しないというのは、君の思想がおかしいからだ。君は、金魚ばちの中の金魚のようなものだ。広い世界が見えていない。僕と結婚することによって、君は、まっとうな人間になれる」

 そのうえで、彼女の家に「尋子さんとの結婚の申し込み」にいき、お父さんと、お母さんをかき口説きました。

 お父さんは、「で、尋子は、どうだね」。

 尋子さんは、「私は、結婚する気がありません」。

 それから、いろいろあって、一九七〇年十月に、めでたく尋子さんと結婚。

 尋子さんは、いろいろなことに目移りのする「浮気気質(かたぎ)」の夫をかかえ、二〇一〇年一月現在、配偶者であり続けています。

 えらい。

 誰が?

 やっぱり、「尋子さんが」でしょうね。

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核燃料サイクル 毎日新聞の、わかりやすい記事。

http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/kagaku/archive/news/2010/20100112org00m040040000c.html

http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/kagaku/archive/news/2010/20100112org00m040042000c.html

http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/kagaku/archive/news/2010/20100112org00m040043000c.html

http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/kagaku/archive/news/2010/20100112org00m040044000c.html

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2010.01.22

I will be a Japanese who can use English very well in two years. It is my dream.

 二年間、県立短期大学では四人の先生に、個人授業では二人の先生に英語を教わってきました。
 その中の、ある先生への感謝の言葉です。
 ほかの先生たちにも同じ思いでいます。
 ありがとうございました。

Thoughts of your lesson

Thank you for your lesson.
I became to be able to translate with a dictionary if its level of textbook is about latter term.
I always was excited when you write English translations on the blackboard.
At first,I didn't like to translate Japanese into English.
But,now I enjoy writing English.
My English compositions still need a long way to go.
It hard for me to make English compositions even if I want to!
I don't know how to use grammar.
For me,just writing English a lot is the best!
I can hardly hear and have English conversation yet.
I will be a Japanese who can use English very well in two years.
It is my dream.

 
 授業についての感想

 ありがとうございました。
 私は、後期の教科書程度の英文なら辞書を使えば訳すことができるようになりました。
 私は、先生が黒板に英語訳を書くのをどきどきしながら見守っていました。
 日本語を英語に訳すというのは楽しい作業ですね。
 私の英作文は、まだまだです。
 訳したいと思っても、構文が浮かんできません。
 私の場合は、英作文の回数を重ねるしかないと思っています。
 私は、まだ、英語のヒアリング、会話がほとんどできません。
 私は、二年後には、英語をこなせる日本人になっています。
 それが、私の夢です。

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俳優・西田敏行さんの「憲法第九条は絶対に守るべきだと思っています。」の、気持ちのいい発言。

 通販ファンの妻が、『通販生活 二〇一〇春号』(カタログハウス)を、持ってきて「西田敏行さんが、九条についていいことを言っているよ」。
 「おう、そうか」
 西田さんは、僕と同年代(一学年下の一九四七年十一月四日生まれ)です。彼の言動については関心があります。
 でも、そのときは眠たくて、眠たくて……。やっと二日後に、それに目を通しました。
 「ハッキリ言いますけど、僕は護憲で、憲法第九条は絶対に守るべきだと思っています。いかに理屈をつけても九条をいじったらお終(おしま)いだと思っているんです。九条を変えれば、それに合わせて、どこかでまた現実を変えることになりますから。」
 「北野武さんもテレビか何かで『自分は護憲だ』とおっしゃっていましたよね。だって、世界に冠たる法律ですよ。こんな条文は他の国ではないです。美しいですよ。」
 うーん、気持ちのいい発言です。
 あらためて日本国憲法第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】を読んでみました。
 「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 すごい、条文です。
 そういえば、歌手の沢田研二(さわだ・けんじ)さん(一九四八年六月二十五日生まれ)も、憲法九条への思いを込めた「我が窮状(きゅうじょう)」をつくって歌っていますよね。
 「♪ この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう 我が窮状 守れないなら 真の平和ありえない」と。

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「ニクソンのドル防衛政策とは何か」でデータを探していたら……。

 「ニクソンのドル防衛政策とは何か」というテーマでインターネットを歩いていたら、こんな記事がありました。

 2002年2月2日(土)「しんぶん赤旗」

 為替が変動相場制になった経緯は?

 〈問い〉 昔は一ドル=三六〇円と決まっていましたが、どういう経緯でいまのような変動相場制になったのでしょうか?(神奈川・一読者)

 〈答え〉 直接のきっかけは、一九七一年八月、ニクソン米大統領のもとでアメリカが金とドルの交換を停止したことです。その後の通貨危機のなかで、日本は七三年二月までに変動相場に移行しました。七六年のIMF(国際通貨基金)総会で最終的に変動相場制も容認されました。実際にはかなりの国がドルとの固定相場を維持しています。
 第二次世界大戦後設立されたIMFは、もともと各国通貨の金平価の変動を1%以内に抑える固定相場制を決めていました。設立当時、圧倒的な金保有量をもっていたアメリカが、金一オンス(約三一・一〇グラム)=三五ドルの公定価格を維持することが、この制度の存続条件でした。
 アメリカが金・ドル交換停止に踏み切った背景には、五〇年以降アメリカの国際収支が赤字となり、アメリカの保有金が減少する一方、金交換要求が出る対外ドル短期債務は増え続けたことがあります。七一年には公定価格での交換は困難となり、ドル切り下げが予想されましたが、突然の交換停止で大きな国際通貨危機となりました。アメリカの赤字の原因には、巨額な資本輸出や対外援助、軍事費の増大などが指摘されています。
 変動相場制では円とドルなどの相場は市場で決まり、国際収支不均衡などが影響します。今日でもドルはいぜん国際基軸通貨なので、アメリカの経済・財政政策の失敗が何度も国際通貨危機に発展しました。近年は金融の自由化・国際化で投機的取引がかつてなく膨れ上がり、為替相場はきわめて不安定です。
 日本共産党は九四年に発表した「新・日本経済への提言」で、より安定した国際通貨制度のためにも多国籍企業・国際銀行にたいする民主的規制の国際協力が求められること、国内でも金融自由化政策の再検討や投機的取引の抑制が必要であることを指摘しています。(水)
 〔2002・2・2(土)〕

 わかりやすい、その事態への対応が示されているというのが、この記事のよさです。

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「貨幣の物神的性格とは何か」。そうだ、『社会科学総合辞典』だ。

 「貨幣の物神的性格とは何か」という問題に苦しみました。
 マルクスの『資本論』にありました。
 しかし、読み直すのには時間が足りません。
 で、『社会科学総合辞典』(社会科学辞典編集委員会。新日本出版社。一九九二年七月二十日)を探しました。
 そして、やっと、つぎのようにまとめました。

 物神性とは、人間のつくりだした神の像が、かえって人間をひざまずかせることをいいます。
 商品生産のもとでは、生産者と生産者との社会的関係が、商品と商品という物どうしの関係としてあらわれ、人間の労働の生産物である商品(貨幣、資本)が人間から独立して人間に対立し、人間を支配するようになっていること。
 たとえば、金は他の商品と同様に価値をもつ労働生産であり、商品交換という人間の社会的関係の一定の発展段階に、貨幣としての役割をもつようになりましたが、この社会的関係がかくされていて、地中からでてきたままで、すべての商品の価値の鏡となるように見えます。
 そこで、人びとの目には、ぴかぴか光る金の自然的属性だけにもとづいて金が貨幣になったかのように見えてきます。
 それは、宗教の世界で、人間の頭脳の産物である神が、人間から独立して人間を支配するのに似ています。
 そこで、マルクスは、商品の、このような性格を商品の物神性と名づけました。

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衆議院予算委員会で日本共産党の赤嶺政賢議員が質問。すごい。【補足しました】

 いま、衆議院予算委員会で日本共産党の赤嶺政賢議員が質問をしています。
 沖縄県のアメリカ軍の基地撤去を。
 「日本国民の立場」にたった烈々たる質問です。
 「これこそ愛国者」という言葉が脳裏をかすめました。

 鳩山総理に、「主権国家の総理として」、「国民の立場にたって」、ことにあたるように迫りました。

  【この件についての「しんぶん赤旗」の記事です】

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-23/2010012303_01_1.html

 2010年1月23日(土)「しんぶん赤旗」

 論戦ハイライト 普天間基地問題 軍の論理より民の尊厳を 衆院予算委 赤嶺議員の質問

 22日の衆院予算委員会で質問にたった日本共産党の赤嶺政賢議員。米軍普天間基地問題をめぐり、「悲劇のない、平和な沖縄を返してほしい」という県民の魂の叫びを背に行った質問は、議場を圧倒しました。

   沖縄の叫び 議場圧倒

 先の戦争で唯一、住民を巻き込んだ地上戦を経験した沖縄。赤嶺氏は、上陸した米軍が住民を収容所に強制的に入れ、その間に軍用地・民有地問わず接収し基地を建設し、住民が収容所から帰ると、鉄条網が張られ、自分たちの土地が基地に変わった事実をつきつけました。
 「普天間基地がつくられた場所には、民家も役所も郵便局も墓地もあり、各集落には黒糖製造所もあった」と赤嶺氏。さらに、「サンフランシスコ条約が締結された1951年以降も、米軍は銃剣とブルドーザーで住民を強制的に排除し、基地をさらに拡張した」―。これが沖縄の歴史です。
 赤嶺議員は、自らが生まれた那覇市小禄(おろく)地区についても、「水道タンクをつくるといって実際に設置されたのはガソリンタンクだった。米軍は、大勢の武装米兵、装甲車、トラックで押し寄せ、座り込む住民を銃剣で殴り、軍靴でけり、頭から毛布をかぶせ追放していった」と述べ、「沖縄の米軍基地が不法・不当な土地取り上げによってつくられたという認識はあるのか」と迫りました。
 鳩山首相は、「普天間基地は戦争が終わらないうちに米軍が接収し、その上につくったもの。県民は早く返してもらいたいと思っておられると思う」と答弁しました。
 赤嶺氏は、県民の耐え難い苦しみについて、自身が小学校に入学した時に起きた、6歳の少女が嘉手納基地で米兵に暴行され殺されゴミ捨て場に捨てられた“由美子ちゃん事件”、同6年生の時に起きた石川市(当時)宮森小学校に戦闘機が墜落し児童を含む17人が死亡した宮森小事件など、米軍による数々の事件・事故の事実を、自らの生い立ちに重ねて紹介しました。
 赤嶺 米軍による直接統治下で県民は虫けらのように扱われてきた。県民は忘れられない悲劇を胸に秘め基地問題を考えている。
 首相 あまりにも多くの悲劇が米軍基地により起きている現実の話をうかがった。このようなことが決して繰り返されないような状況をつくっていかなければならない。米軍の存在を必要とするなか、どのような解決があるのか知恵を絞らなければいけない。
 ここで赤嶺氏は、「琉球住民赤嶺政賢は、日本へ旅行するものであることを証明する 琉球列島高等弁務官」と印字された、復帰前に使っていた自身のパスポート(パネルも)を掲げ、本土復帰に込めた沖縄県民の思いを語りました。
 「沖縄は外国だった。すべては軍事が優先され、県民は無権利状態だった。だから平和憲法がある日本に復帰したら、当然米軍基地はなくなる、少なくとも縮小されると思った」
 しかし本土復帰から38年、基地をめぐる沖縄の現実は何も変わっていません。
 赤嶺 県民は95年の米兵少女暴行事件で由美子ちゃん事件を、沖縄国際大への米軍ヘリ墜落で宮森小事件を思い出した。復帰されても不条理な状況が繰り返されている。政権が代わったいまこそ、約束どおり、米軍基地の縮小・撤去に努力すべきではないのか。
 首相 大変なつらさ、思いをしんしゃくしていくなかで、基地のあり方、将来的に米軍の再編、安保のあり方を考えるべきかというなかで、結論を見いだしていきたい。
 この後、赤嶺氏は具体的に、沖縄の基地問題を追及していきます。

   「代替施設なき返還」

   首相は野党時代の主張貫け

 普天間「移設先」として嘉手納、伊江島、下地島などを挙げ、「県内たらい回し」を模索してきた鳩山政権。赤嶺氏は、「鳩山内閣は沖縄の基地問題の深刻さを理解していない」と厳しく批判しました。
 極東最大の空軍基地と言われる米軍嘉手納基地では、昼夜分かたぬ爆音や戦闘機の墜落・事故が相次いでいます。岡田克也外相も「昨年沖縄を訪問した際、嘉手納基地を抱える2町1市の長から、嘉手納への(普天間基地)移転は反対だと言われた」と認めざるを得ませんでした。
 下地島を抱える宮古島市、伊江村の両議会も相次いで普天間「移設」に反対する決議を可決しています。
 赤嶺氏は、「県内のどこにも新たな基地をつくる場所はない」と述べ、「移設先探しは必ず行き詰まる。だから普天間は13年間、動かなかった」と指摘。普天間基地問題の解決は無条件撤去しかないと力を込めました。
 ところが岡田外相は、「沖縄を訪れた際、確かに基地が多いと感じたが、米軍の抑止力で日本の安全が保たれていると感じた。普天間基地移設について、沖縄県外・県内ゼロベースで検討している。日本からすべてなくしてしまうと抑止力が失われてしまう」と答弁。“抑止力”を口実に、今後も沖縄に基地をしばりつける可能性を排除しませんでした。
 赤嶺氏の声が議場を震わせました。「沖縄の広大な米軍基地を見て、これが日本を守る抑止力と感じるのか。基地のもとで、虫けらのように扱われてきた県民に思いをはせるべきではないか。抑止力、抑止力というが、これが65年間、沖縄に基地をおしつけてきた論理だ。軍の論理より民の尊厳を大切にすべきだ」
 赤嶺氏はさらに、鳩山首相が野党時代の衆院本会議(2005年7月26日)で「普天間基地の代替施設なき返還をアメリカに求めるべきだ」と求めていたことを指摘。「政権についた今こそ、この主張を実行に移すべきではないか」と迫りました。
 首相 かつてはそのような思いを持っていた。しかし、現実の中での米軍の存在があり、抑止力のため、日本のどこかに存在しないといけない。
 赤嶺 首相は沖縄県民の気持ちも大事、アメリカも大事というが、これが両立できないのなら、主権国家の首相として県民の思いを優先するべきだ。
 赤嶺氏は、1997年の名護市民投票以来の「普天間基地の即時撤去、新基地建設と県内移設反対」という総意を正面から受け止め、対米交渉を始めるよう求めました。

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いやいや、後期試験への道は、けっこう厳しい。

  わーっ。やっと高知短期大学の「経済学Ⅰ」の後期試験のためのメモづくりが終わりました。

 経済学は、面白いのですが苦手な科目です。

 あと、準備しなくてはならないのは「国際法Ⅱ」。

 すでに昨日からテストは始っています。

 テストが終わってから、あと二つリポートを仕上げなくてはなりません。

 ふーっ。

 さぁ、今夜は、これから「キャリアデザイン」の試験です。

 いざ、いざ。 

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2010.01.23

高知市 初めてのトラコッタ。焼きあがりました。

Photo  初めてのトラコッタ。焼きあがりました。

 三つのうちの一つです。

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高知市 日本の対アメリカ従属の問題を解決するために。「日本は、こんなにやしべられたままで、いいのでしょうか」。【2010/03/09に更新】

 【アメリカ軍が普天間基地に居座っている問題】

 アメリカ軍が普天間基地に居座っている問題の解決が、私たちの日本の大きな課題になっています。
 私は、アメリカは、無条件に普天間基地を撤去すべきだと思います。
 もともとアメリカがひどいことを押しつけてきていたのですから。
 この間、NHK総合テレビを見ていたら日本共産党の赤嶺政賢議員が、沖縄・米軍普天間基地の問題を質問していました(一月二十二日)。
 「普天間基地は、沖縄県宜野湾市にあるアメリカ海兵隊の航空基地です。市のど真ん中に位置し、市民はその周辺を取り囲むようにして生活することを余儀なくされております。米軍ヘリや空中給油機、戦闘機が日常的にその上空を旋回し、訓練を行っており、危険極まりない基地であります。
 ……二〇〇四年には、普天間基地所属の大型のヘリが、沖縄国際大学に墜落、炎上いたしました。」
 「沖縄は、先の大戦で国内で唯一住民を巻き込んだ地上戦を体験をいたしました。米軍が上陸をし、住民が収容所に強制的に収容されているときに、戦争もまだ終わらないうちですよ、その間に、軍用地、民有地を問わず接収して、米軍基地を建設をいたしました。住民が収容所から帰ってきたら、鉄条網が張られ、自分たちの土地が基地に変えられていたわけであります。
 普天間基地がつくられた場所には、民家も、役所も、郵便局も、墓地も、そして沖縄でいうサーターヤーですね、サトウキビを搾って黒糖をつくる製造所、そういうのも、普天間基地のなかにありました。米軍占領のもとで、そういうすべてのものを奪ってつくったのが米軍基地であります。
 それだけではありません。その後、広大な土地を、戦争が終わらないうちに強奪した上に、サンフランシスコ条約が締結された一九五一年以降、米軍は銃剣とブルドーザーによって、抵抗する住民を強制的に排除して基地をさらに拡張いたしました。
 私は、那覇市の飛行場の近くの小禄(おろく)の生まれです。そこに、具志という地域があります。その具志地域では、サンフランシスコ講和条約が発効したかしなかったかという時期に、米軍が水道タンクをつくってやるという理由で、八千坪の土地を奪いました。実際に設置されたのは、水道タンクではなく、米軍のガソリンタンクでした。土がかぶせられ、芝が植えられ、こんもりした緑の丘に見せかけたそのガソリンタンクの丘に抱かれるように私は成長いたしました。少年時代をすごしました。
 住民をだまし討ちにして、ガソリンタンクをつくった後に、米軍は大勢の武装米兵、そして装甲車、トラックで押し寄せて、土地取り上げに反対して座り込む住民を銃剣で殴り、軍靴でけり、頭から毛布をかぶせて、片っ端から追放していきました。こういう土地強奪によって、米軍基地は拡張されたわけです。
 一カ所ではありません。宜野湾市の伊佐浜や、伊江島や、県下各地で銃剣とブルドーザーによる基地の拡張が強行されました。
 私は沖縄の米軍基地は、こうした不法、不当な土地取り上げによってつくられたと、このように認識しております……」
 こうした普天間基地の現状、生い立ちからしても、普天間基地は、いますぐ撤去すべきです。
 私は、この際、アメリカに「真に対等な日米関係」を要求していくべきだと思います。
 日本政府は、「アメリカ政府は、日本を、やしべな(土佐弁で、愚ろうするな)。“出ていけというなら、かわりの基地を、もっといいところによこせ”というアメリカの無法者の態度には、もう我慢できない。日本の主権と国民の利益のために、この際、在日アメリカ軍はすべて日本から出て行ってほしい」という態度で、ことを構えるべきだと思います。
 もともと在日アメリカ軍基地は、日本の防衛については何の役にもたたないものです。
 在日アメリカ軍基地には、海兵遠征軍、空母打撃群、遠征打撃軍、航空宇宙遠征軍など干渉と介入が専門の殴り込み部隊がつぎつぎと配備され、アメリカの侵略的な世界戦略の一大拠点として強化されてきました。アメリカ軍の海兵遠征軍が配備されている(沖縄、岩国)のも、空母打撃群と遠征打撃群の母港がおかれている(横須賀、佐世保)のも、世界で日本だけです。
 アメリカ国防省の発表では、この数年をみても、日本に駐留する米軍は、陸海空海兵隊の四軍そろって、常時、二千人から三千人以上が、イラクやアフガニスタンの戦争に投入されています(日本共産党第二十五回大会決議)。
 もっというと日本全体をアメリカ軍の軍事力におおわれているということは、実質的にアメリカに日本の主権が奪われ、アメリカに侵略されている状態です。日本にとって最大の軍事的脅威です。
 こういう状態を許していいのか、これが思想信条を超えて、いま問われています。
 なぜ、こういう外国の軍隊を維持するために日本人の血税が膨大につぎ込まれなればならないか。
 私は怒り心頭に発しています。
 アメリカ軍への「思いやり予算」(二〇一〇年度予算案では一八八一億円)を撤廃するともに、約三兆円にものぼるグアム移転経費をふくむ「アメリカ軍再編」経費の負担を中止してはどうかと思っています。
 もう、これ以上、特定の外国に日本の主権が奪われているという状態を許してはいけません。日本人の愛国心を呼び起こし、真の主権を回復する道に進むべき時ではないでしょうか。
 在日アメリカ軍の存在は、日本国憲法の平和条項と対立する日米安保条約を根拠にしています。
 その第十条は「当初の十年の有効期間(固定期間)が経過した後は、一年前に予告することにより、一方的に廃棄できる旨を定める。いわゆる自動延長方式の定めであり、この破棄予告がない限り条約は存続する。」です。
 「当初の十年の有効期間(固定期間)」は、とっくに過ぎています。
 「一年前に予告することにより、一方的に廃棄できる」のですから、国民的討論を組織し、廃棄予告をしようという国民的な合意をつくり、そのうえにたって廃棄通告をすればいいのです。
 こうして、日本も、軍事同盟から抜け出して、外部に仮想敵をもたない、平和を愛好する国になるべきだと思います。
 いま、NHK総合テレビで、「龍馬伝」をやっていますね。
 江戸時代に、日本がアメリカなどの属国にされてしまいそうだという危機が発生しました。そのとき、多くの人々が、それを拒むために奮闘し、新しい日本の政治のあり方を築きあげました。
 いま、一度、日本を「洗たく」する、その道の一つが日米安保条約の廃棄だと思います。

 【締結から五十年たつ日米安保条約】

 締結から五十年たつ日米安保条約は、日本にとって何のメリットもないものでした。
 日米安保条約は、「戦後の経済成長を可能にした」という人もありますが、それをいうなら日米安全保障条約のおかげではありません。やはり、それは日本国憲法第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】の存在です。
 「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

   日本国憲法の立場からは、アメリカ軍の日本駐留は、これに違反する存在です。

 一九五九年三月三十日、東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)が、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定しています。
 日本国憲法第九条は、これまでアメリカに、ずいぶん「侵略」されてきましたが、日本の軍事費増大、経済の軍事優先の一定のセーブになってきましたし、戦後の平和的な経済成長を可能にした要因になってきました。
 先にのべたように、在日アメリカ軍は「日本を防衛する」ためのものではありませんし、その存在自身が日本を侵略状態におとしめています。
 考えてみてください。
 押しつけられた相互の協定によって、アメリカ全土の各所に特定の外国の軍事基地があり、アメリカの軍事力も、その特定の外国軍によってコントロールされているという状態があるとします。
 こんな状態をとらえてアメリカ人は「えっへん。わが国は主権国家だ」というでしょうか。
 また、日米安保条約のもとで、日本経済はアメリカへの従属と支配のもとにおかれてきました。アメリカ政府は、一九九四年から毎年、日本に「年次改革要望書」を提出し、新自由主義のおしつけと市場開放を迫ってきました。
 金融の自由化、郵政民営化などは、いずれもアメリカの要求から始まったものです。
 こうしたアメリカの理不尽な要求の「制度化」は、日本財界・大企業の要求とも結びつき、日本経済のゆがみを一段と激しいものとし、そのゆがみは世界経済危機のもとで国民生活が陥った特別に深刻な苦難という形で噴き出しています。

 【アメリカは「テロとの戦い」と日本】

 二〇〇一年の同時多発テロ以降、アメリカは「テロとの戦い」を続けています。これに対し日本は、経済的な支援にとどまることなく、自衛隊をイラクやインド洋などに派遣する「人的貢献」をおこなってきました。
 こうしたことは、もうやめにすべきです。
 同時多発テロは、アメリカの軍事支配にたいしての一部の人たちの暴発です。テロは、ゆるされないことです。
しかし、このようなことは、アメリカが外国にたいする不当な軍事支配をやめればなくなる性格のものです。
 「テロ」を口実にした身勝手なアメリカの道理のない軍事的世界支配、侵略戦争、軍事テロのために、なぜ、日本が協力しなければいけないのでしょうか。
 むしろ、「そのような無法は、アメリカのためにもなりませんよ。世界の軍事支配から手を引きなさい。やめなさい」と諭してあげるのが親切というものです。
  国際連合憲章(効力発生・一九四五年十月二十四日)も日本国憲法(施行・一九四七年五月三日)も、これは二度にわたる悲惨な世界大戦の教訓を踏まえて、紛争は平和的に解決をする、こういう決意のうえにつくられています。
 国際連合憲章は、紛争の平和的な解決の手段をつくした後の安全保障理事会の決議にもとづく軍事的な措置を認めていますが、日本国憲法は、この軍事的な措置への参加は認めていません。
 紛争の平和的な解決に徹するのが日本国憲法の立場です。
 日本国憲法制定時の一九四六年六月二十六日の衆議院本会議で、吉田茂首相が日本国憲法の第九条に触れてこうのべています。
 「……斯(か)かる思い切った条項は、凡(およ)そ従来の各国憲法中稀(まれ)に類例を見るものでございます。」
 「……此(こ)の高き理想を以(もっ)て、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行こうと云(い)う固き決意を此(こ)の国の根本法に明示せんとするものであります。」
 日本は世界各国の先頭に立って紛争の平和的な解決を目指そう、これが日本国憲法の立場です。
 このことを厳格に実行すべきです。

 【日本外交の基本方針はどうあるべきか】

 今後、日本外交の基本方針は、どの国とも、対等、平等、平和の関係をつくっていくことにおくべきだと思います。
 アメリカの日本への軍事的、経済的支配を排し、アメリカとは平和的な関係を築きます。他の国とも、対等、平等、お互いに栄えるという観点で、いい関係をつくっていきます。
 アメリカは、日本の不幸をつくっている元凶の一つです。その軍事的、経済的支配を排したうえでこそ、本当に仲良くやっていけます。
 そうした日本の外交をつくっていくうえでも、日本国憲法第九条を厳格に守る日本をつくっていくことです。
 あらためて、かつて文部省のつくった中学一年生の教科書『あたらしい憲法のはなし』から引いておきます。

 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。

 日本国憲法が施行されたのは一九四七年五月三日です。
 しかし、この日本国憲法第九条の「2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」が、実施されたのは三年足らずした。
 アメリカ軍占領下の一九五〇年七月八日、連合国最高指令官マッカーサーは、七万五千人の国家警察予備隊の創設指令します。
 この指令受けた政府は、同年八月十日、政令第二百六〇号警察予備隊令を公布、警察予備隊を創設します。
 当初、アメリカの軍事顧問が保安隊を指導しましたが、翌年からはかつてGHQから戦争犯罪で追放された旧職業軍人が多数入隊するところとなりました。
 同政令による警察備隊の任務は「国家地方警察及び自治体警察力を補うため」のもの(警察の任務の範囲内)でしたが、その実態(装備)は小規模の軍隊であり、組織的にも警察から独立して首相に直属していました。また、武器もカービン銃からバスーカ砲、戦車、軽飛行機へと増強されました。
 一九五一年九月八日、日本が連合諸国と講和条約を調印し、日本は「独立」の形をとりました。
 しかし、同時に日米安全保障条約が締結します。
 このもとで、一九五二年十月、保安隊が警察予備隊になります。
 陸上部隊十一万人、海上部隊七千六百人、航空機百二十機、フリゲート艦十八隻、上陸支援艇五十隻を擁する実力部隊になります。
 そして、一九五五年七月、陸、海、空の3軍を備えた自衛隊が発足します。
 発足当時の兵力は、陸上十三万九千人、海上一万六千人、五万八千ン、航空六千七百、百五十機でした。
 実際に日本国憲法第九条を厳正に守り抜く、こういう日本にするというのが私たちの直面している課題ではないでしょうか。

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その一 「紛争の平和的解決」

 【国際連合憲章】

 署名 1945年6月26日(サン・フランシスコ)

 第2条〔原則〕
 3 すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。 

【国際紛争平和的処理条約】

 署  名 1907年10月18日(ヘーグ)

 第一条[平和的処理の約定]
 国家間ノ関係ニ於テ兵力ニ訴フルコトヲ成ルヘク予防セムカ為、締約国ハ、国際紛争ノ平和的処理ヲ確保スルニ付、其ノ全力ヲ竭サムコトヲ約定ス。

 【不戦条約】

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 不戦条約(「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。
 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)とも言う。戦争の拡大を防ぐために締結されたとされるが、一方で欧米列強の自国の植民地を守るために作った国際法だという見方がある。
 不戦条約は、期限が明記されていないため、今日においても国際法として有効であるとされる。もっとも、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないためその実効性は乏しい。
 当時、日本は田中義一内閣で、山東出兵や張作霖爆殺事件などの中国での武力行使に諸外国の批判が高まっていたことから、全権として元外務大臣内田康哉を参加させて調印した。しかし、調印にあたって日本国内では、その第1条が「人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言」するとされていることから、枢密院や右翼から大日本帝国憲法の天皇大権に違反するとする批判を生じ、新聞でも賛否両論が起こった。そのため外務省はアメリカに修正を申し入れたが、修正には応じられず、人民のために宣言すると解釈するとする回答を得たに止まったので、日本政府は、1929年(昭和4年)6月27日、「帝国政府宣言書」で、該当字句は日本には適用しないことを宣言し、27日に批准された。実際に発効されたのは田中内閣総辞職後の同年7月24日であった。その後、日本の起こした満州事変についても日本側は自衛のための措置としたが、諸外国を納得させることは出来ず、国際連盟で非難決議があり、日本の国際連盟脱退に至った。
 日本国憲法第9条第1項は不戦条約第1条の文言をモデルにして作成された。

【戦争ノ抛棄ニ関スル条約(パリ条約、ブリアン=ケロッグ規約)の現代語訳】

 昭和4(1929)年7月25日 条約第1号
 昭和4(1929)年7月24日 発効
 (昭和4年 外務省告示第64号)
 以下のページから抽出しました。

  http://www7.ocn.ne.jp/~tomoni/jouyaku.htm#parigendaigo

 ドイツ国大統領、アメリカ合衆国大統領、ベルギー国皇帝陛下、フランス共和国大統領、グレートブリテン、アイルランド及びグレートブリテン海外領土皇帝インド皇帝陛下、イタリア国皇帝陛下、日本国皇帝陛下、ポーランド共和国大統領、チェコスロヴァキア共和国大統領は、
 人類の福祉を増進すべきその厳粛な責務を深く感銘し、
 その人民の間に現存する平和及び友好の関係を永久にするため、国家の政策の手段としての戦争を率直に放棄すべき時期が到来したことを確信し、
 その相互関係における一切の変更は、平和的手段によってのみ求めるべきであること、又平和的で秩序ある手続きの結果であるべきこと、及び今後戦争に訴えて国家の利益を増進しようとする署名国は、本条約の供与する利益を拒否されるべきものであることを確信し、
 その範例に促され、世界の他の一切の国がこの人道的努力に参加し、かつ、本条約の実施後速やかに加入することによって、その人民が本条約の規定する恩沢に浴し、これによって国家の政策の手段としての戦争の共同放棄に世界の文明諸国を結合することを希望し、
 ここに条約を締結することにし、このために、左のようにその全権委員を任命した。
ドイツ国大統領
外務大臣 ドクトル グスタフ ストレーゼマン
アメリカ合衆国大統領
国務長官 フランク B ケロッグ
ベルギー国皇帝陛下
外務大臣兼国務大臣 ポール イーマンス
フランス共和国大統領
外務大臣 アリスティード ブリアン
グレートブリテン、アイルランド及びグレートブリテン海外領土皇帝インド皇帝陛下
グレートブリテン及び北部アイルランド並に国際連盟の個々の連盟国でない英帝国の一切の部分
ランカスター公領尚書外務大臣代理 ロード クッシェンダン
カナダ
総理大臣兼外務大臣 ウイリアム ライオン マッケンジー キング
オーストラリア連邦
連邦内閣員 アレグザンダー ジョン マックラックラン
ニュージーランド
グレートブリテン駐在ニュージーランド高級委員 サー クリストファー ジェームス パール
南アフリカ連邦
グレートブリテン駐在南アフリカ連邦高級委員 ヤコブス ステファヌス スミット
アイルランド自由国
内閣議長 ウイリアム トーマス コスグレーヴ
インド
ランカスター公領尚書外務大臣代理 ロード クッシェンダン
イタリア皇帝陛下
フランス国駐剳イタリア国特命全権大使 伯爵 ガエタノ マンゾニ
日本国皇帝陛下
枢密顧問官 伯爵 内田康哉
ポーランド共和国大統領
外務大臣 アー ザレスキー
チェコスロヴァキア共和国大統領
外務大臣 ドクトル エドゥアルド ベネシュ
 よって、各全権委員は、互いにその全権委任状を示し、これが良好妥当あること認めた後、左の諸条を協定した。

第一条
 締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。

第二条
 締約国は、相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因のがどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めないことを約束する。

第三条

 本条約は、前文に掲げられた締約国により、各自の憲法上の用件に従って批准され、かつ、各国の批准書が全てワシントンおいてに寄託せられた後、直ちに締約国間に実施される。

 本条約は、前項の定めにより実施されるときは、世界の他の一切の国の加入のため、必要な間開き置かれる。一国の加入を証明する各文書はワシントンに寄託され、本条約は、右の寄託の時より直ちに当該加入国と本条約の他の当事国との間に実施される。

 アメリカ合衆国政府は、前文に掲げられた各国政府、及び実施後本条約に加入する各国政府に対し、本条約及び一切の批准書又は加入書の認証謄本を交付する義務を有する。アメリカ合衆国政府は、各批准書又は加入書が同国政府に寄託されたときは、直ちに右の諸国政府に電報によって通告する義務を有する。

 右の証拠として、各全権委員は、フランス語及び英語によって作成され、両本文共に同等の効力を有する本条約に署名調印した。
1928年8月28日、パリにおいて作成する。
(全権委員署名 省略)

 宣言
 (昭和四年六月二十七日)

 帝国政府は、1928年2月27日パリにおいて署名される、戦争抛棄に関する条約第一条中の「其の各自の人民の名に於いて」という字句は、帝国憲法の条文により、日本国に限り適用されないものと了解することを宣言する。

 【国際連合憲章】

 第33条〔平和的解決の義務〕
 1 いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他の当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。
 2 安全保障理事会は、必要と認めるときは、当事者に対して、その紛争を前記の手段によって解決するように要請する。

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その二 「非裁判手続」

 【友好関係宣言】

 2007年11月7日(水)「しんぶん赤旗」

 国連の「友好関係宣言」とは?

 〈問い〉 9月21日付の「主張」に、国連が復仇(ふっきゅう)行為を禁止した「友好関係宣言」という言葉がでていました。これは、どんなもので、なぜ、国連がそんな決議をしたのか、を知りたいのですが。(千葉・一読者)
 〈答え〉 「友好関係宣言」は、国連総会が「国際法の一般原則」として1970年10月にコンセンサス(投票なしの全会一致)で採択したものです。国際関係を律する原則として国連憲章に含まれる七つの原則を発展させたもので、(1)武力行使の禁止、(2)紛争の平和的解決、(3)内政不干渉、(4)各国の相互協力、(5)人民の同権と自決、(6)各国の主権平等、(7)国際法上の義務の誠実な履行――の七つを規定しています。
 この宣言が採択された70年ごろには、アジアやアフリカで第2次世界大戦後に独立を果たして国連にあらたに加盟する国が国連加盟国の過半数を大きく超えるようになりました。これらの国は「非同盟諸国運動」に結集して、国際関係のいっそうの民主化を求めました。こうした国際状況を背景にしながら国連創設25周年を記念して、国際法の一般原則の現代的な発展と法典化をめざして採択されたのがこの宣言です。「宣言」は、その後、国連決議や国際司法裁判所判決などの国際文書で国際関係の規範としてひんぱんに引用されるようになり、国際関係を律するもっとも重要な文書の一つとなっています。
 「友好関係宣言」は、武力行使の禁止の一環として、「武力行使をともなう復仇行為」を明文で禁止しています。「復仇」とは、相手国の国際法違反の行為にたいして、その中止や原状回復を求めて実力を行使することで、普通にいう報復のことです。国連憲章はそもそも武力の行使を一般的に禁止していますが、「宣言」は武力による報復を重ねて明確に禁止したわけです。
 2001年10月7日、アメリカは同時多発テロにたいする報復戦争としてアフガニスタン戦争を開始しました。日本共産党はそれに先立って各国首脳に書簡(9月17日付)を出し、その中で、報復戦争は、「いっそうのテロ行為と武力報復の悪循環」をもたらし「事態を泥沼に導く」ことを指摘して、軍事力による報復ではなく、テロ容疑者を国際社会全体の包囲によって追い詰めて「法にもとづく裁き」の支配下に置くことを主張しました。アフガニスタンでの事態のいっそうの泥沼化によって、この指摘の正しさは誰の目にも明らかになっています。(小)
 〔2007・11・7(水)〕

 【紛争の平和的解決に関するマニラ宣言】

 「国際紛争の平和的解決に関するマニラ宣言」(国連総会決議37/10)は、「国家は誠実にかつ協力の精神で、国際紛争の一つの早くかつ衡平な解決を探求しなければならない」(附属書5項)とする。
 「交渉」(negociation; la négociation)とは、当事者が直接の話し合いによって解決のための共通の合意に達することをいう。最も基本的な平和的解決の手段である。それは「誠実な交渉」(negociation of good faith)であると考えられる。これは、単なる形式的な話し合いではなく、合意に到達する目的を持って、どちらかが自分の立場の変更を考えないでそれに固執する場合ではない、有意義な交渉であるとされる(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.47, para.85、皆川『国際法判例集』394頁)。前記「マニラ宣言」も、「直接交渉は当事者の紛争の平和的解決の柔軟で実効的な手段である」(10項)とする。

 http://kjrcup.hohoemi35.com/2009/01/post_23.html

 【国際連合憲章】

 第12条〔安全保障理事会との関係〕
 1 安全保障理事会がこの憲章によって与えられた任務をいずれかの紛争又は事態について遂行している間は、総会は、安全保障理事会が要請しない限り、この紛争又は事態について、いかなる勧告もしてはならない。

 【国際連合憲章】

 第36条〔調整の手続と方法の勧告〕
 1 安全保障理事会は、第33条に掲げる性質の紛争又は同様の性質の事態のいかなる段階においても、適当な調整の手続又は方法を勧告することができる。

 【コルフ海峡事件】

 1946(昭和21)年5月14日 アルバニア本土とコルフ島の間、コルフ海峡を航行中のイギリス巡洋艦「オライオン」と「スパーブ」がアルバニアの沿岸砲台から砲撃を受ける
 5月22日 イギリス政府はアルバニア政府に抗議
 イギリスは国際海峡の無害通航権を、アルバニアは外国軍艦の事前通告及び許可無しの領海通航は許されないと主張
 10月22日 イギリス艦隊(巡洋艦「モーリシャス」、巡洋艦「リアンダー」、駆逐艦「ソマレズ」、駆逐艦「ヴォレージ」がコルフ海峡を航行中、「ソマレズ」が触雷・損傷し、火災発生
 「ヴォレージ」も「ソマレズ」を曳航中に触雷し、艦首を損失
 乗員45名死亡、42名負傷
 「ソマレズ」は廃艦(スクラップ)となり、「ヴォレージ」は新しい艦首を装備
 イギリスはアルバニアに海峡の掃海を通告
 11月12日~11月13日 イギリスはアルバニアの同意を得ずに掃海作業を実施し、敷設された機雷22個を除去
1947(昭和22)年4月9日 安全保障理事会が国際司法裁判所(ICJ)への提訴を勧告
 5月22日 イギリスが国際司法裁判所にアルバニアを提訴
 イギリスは無害通行権が侵犯されたとして損害賠償を請求
 国際司法裁判所に付託された最初の事件
 7月23日 アルバニア政府はイギリスが4月9日の安保理勧告に従っていなかったとする7月2日付の書簡を提出
 12月9日 アルバニアは裁判所にイギリスの提訴を認めないように要請
 裁判所は要請を却下
1948(昭和23)年3月25日 判決(管轄権)
1949(昭和24)年4月9日 判決(本案)
 アルバニアは1946(昭和21)年10月22日のイギリス艦の損傷に対する責任があり、賠償の義務があると認める(賛成11、反対5)
 1946(昭和21)年10月22日のイギリス艦隊の海峡の通航はアルバニアの主権を侵害しない(2対14)が、11月のイギリスの掃海作業は主権を侵害している(賛成満場一致)、と認める
 11月17日 公聴会
 12月15日 判決(本案)
 裁判所はアルバニアを敗訴とし、イギリスへの賠償金84万3947ポンドの支払いを命じた
 アルバニアは支払いを拒否

 http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/ko/corfucha.html

 【国際連合憲章】

 第37条〔付託の義務と勧告〕
 2 安全保障理事会は、紛争の継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞が実際にあると認めるときは、第36条に基く行動をとるか、適当と認める解決条件を勧告するかのいずれかを決定しなければならない。

 【テヘラン大使館事件】

 イランアメリカ大使館人質事件
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 イランアメリカ大使館人質事件とは1979年11月にイランで発生した、アメリカ大使館に対する占拠及び人質事件。
 1979年1月に、フランスのパリに亡命していた反体制派のルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力によるイラン革命が発生し、アメリカをはじめとする欧米諸国からの支援を元に、親欧米化路線を敷いていたパフラヴィー朝国王のモハンマド・レザー・パフラヴィーが政府専用機でエジプトへ亡命し、革命は成功した。
 エジプトに亡命していたパフラヴィー元国王はその後「がんの治療のため」にアメリカへの入国を求め、アメリカ政府は「人道的見地」からその入国を認め国王とその一行はアメリカに入国した。
 アメリカが元国王を受け入れたことに、イスラム法学校の学生らが反発し、11月4日にテヘランにあるアメリカ大使館を占拠し、アメリカ人外交官や警備のために駐留していた海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元国王のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。
 この学生らによる行動は、シーア派の原理主義者が実権を握ったイラン政府が裏でコントロールしていた。なお、人質になった外交官らは大使館の敷地内に軟禁状態に置かれ、行動の自由を奪われただけでなく、占拠当初は学生らから暴力さえ受けることとなった。
 当然これらの行為は「外交関係に関するウィーン条約」による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う」(同22条2)という規定に違反していたため、イラン政府は諸外国からの大きな非難を浴びることとなった。
 しかしイラン政府は大使館の占拠を解くばかりかそれを支援し、これに対してアメリカのジミー・カーター大統領は、1980年4月24日から4月25日にかけて人質を救出しようと「イーグルクロー作戦」を発令し、軍事力により人質の奪還を試みた。
 しかし、作戦開始後に作戦に使用していたRH-53D「シースタリオン」ヘリコプターが故障した上に、ロッキードC-130 輸送機とヘリコプターが接触する事故が起き作戦は失敗した。これにイラン政府も態度を硬化し、事態は長期化する傾向を見せた。
 アメリカ政府は軍事力による人質の解放をあきらめ、元国王をアメリカから出国させるとともに、イスラム諸国などによるイラン政府への説得を試みるが、1980年7月に元国王が死去したことで、学生らによる大使館の占拠の理由が薄れ始める。
 その後アメリカで行われた大統領選挙で、再選を狙ったカーター大統領が共和党のロナルド・レーガンに敗北した。その後イランは仲介国と人質返還でアメリカと合意し、レーガンが就任しカーターが退任する1981年1月20日に、人質は444日ぶりに解放された。

 【国際連合憲章】

 第98条〔事務総長の任務〕
 事務総長は、総会、安全保障理事会、経済社会理事会及び信託統治理事会のすべての会議において事務総長の資格で行動し、且つ、これらの機関から委託される他の任務を遂行する。事務総長は、この機構の事業について総会に年次報告を行う。
 第99条〔平和維持に関する任務〕
事務総長は、国際の平和及び安全の維持を脅威すると認める事項について、安全保障理事会の注意を促すことができる。

 【国際紛争平和的処理条約】

 第九条[任務]
 締約国ハ、名誉又ハ重要ナル利益ニ関係セス、単ニ事実上ノ見解ノ異ナルヨリ生シタル国際紛争ニ関シ、外交上ノ手段ニ依リ妥協ヲ逐クルコト能ハサリシ当事者カ事情ノ許ス限国際審査委員会ヲ設ケ、之ヲ公平誠実ナル審理ニ依リテ事実問題ヲ明ニシ、右紛争ノ解決ヲ容易ニスルノ任ニ当ラシムヲ以テ、有益ニシテ且希望スヘキコトト認ム。

 【ポーツマス条約】

 ポーツマス条約
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 ポーツマス条約は、日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。
 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。
 当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。
 この条約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こした。

  ポーツマス条約概要

 日本の韓国に於ける優越権を認める
 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満洲から撤退する
 ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する
 ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
 ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する
 ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える

 【ドッガー・バンク事件】

 ドッガーバンク事件
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 ドッガーバンク事件(1904年10月21日深夜 - 22日未明)は、ロシア帝国のバルチック艦隊が、日露戦争に際して極東へ向かう途上、北海のドッガーバンクでイギリスの漁民を誤って殺傷した事件である。
 1904年、日本との戦争状態にあったロシアは、海上戦力で日本海軍に対抗するため、バルト海に駐留していたバルチック艦隊を極東へ向かわせることに決定した。10月15日、ロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊はリバーヴァ軍港を出港した。
 日本は世界の海の支配者であるイギリスと同盟関係にあった(日英同盟)。そのためロシアは、日本艦隊が極東までのルート上のどこで奇襲攻撃をかけてくるかわからないと想像した。ロシアは世界各地でエージェントを雇い、日本艦隊の動向を監視させた。だがこれが裏目に出た。エージェントは報奨金目当てに、日本の水雷艇を発見したと世界各地から情報を送ってきたのである。
 デンマーク海峡を抜けて北海へ出たバルチック艦隊は神経過敏に陥っていた。バルト海を出ればイギリスの制海権下である。ロシアの雇ったエージェントはこの海域でも日本の水雷艇が待ち伏せしていると報告していた。日本側が偽情報を流していたとの証言も残る。
  事件の経過
 10月21日夕刻、バルチック艦隊は濃霧の中ドッガーバンク付近を進んでいた。この季節、朝晩の北海は濃霧に覆われることが多かった。工作船「カムチャッカ」が単艦で100キロあまり先行していたが、機関が故障したため遅れを生じ行方不明となっていた。21日午後8時45分、その「カムチャッカ」から旗艦「スワロフ」へ、「われ、水雷艇に追跡されつつあり」との無線通信が送られてきた。
 スワロフ:「何隻どの方向からか」
 カムチャッカ:「四方から」
 スワロフ:「水雷艇は何隻か。詳細を知らせ」
 カムチャッカ:「水雷艇約8隻」
 スワロフ:「距離は」
 カムチャッカ:「1ケーブル」(183メートル)
 「カムチャッカ」は通信を断ち、艦隊は緊張に包まれた。
 22日午前0時過ぎ、突然「戦闘配置につけ」のラッパが鳴り、次いで「水雷艇だ、魚雷攻撃だ」「駆逐艦だ、我々はやられた」という声が聞こえてきた。砲手は恐怖に襲われ暗い海面に向けてやみくもに発砲した。艦橋からは敵らしき多数の灯火が確認され、互いに発光信号を送っているように見えた。数隻の小型汽船が探照灯に照らし出され、うち1隻が戦艦「アレクサンドル3世」へ向けて突進してきたようだった。「アレクサンドル3世」と「スワロフ」は小型汽船に対して砲弾を浴びせかけ、これを撃沈した。
 ロジェストヴェンスキーはようやく何が起こったかを認識し、狂ったように怒鳴り続けた。「よくもこんな馬鹿なことがやれたものだ、よく見ろ、あれは漁船だ。」
 ドッガーバンクでは漁業が盛んで、イギリスのハル港から40から50隻のトロール船が毎日のように出漁していた。漁船は100トン程度で、それぞれ8、9人が乗り込んでいた。漁船団は確かに「にわとり艦隊」と呼ばれていた。だが言うまでもなく非武装の民間船である。
 この日いつものように「にわとり艦隊」がドッガーバンクで操業していると、遠くに軍艦が見え、次いでいきなり発砲してきた。漁民たちは驚き、「私は、自分たちが何者であるか示すために大きなカレイを指し示した。同僚はタラを示した」など努力したが無駄であった。漁船は魚網を切断して逃れようとしたが、運悪くロシア艦隊に接近しすぎた「クレイン」号が激しい攻撃を受けて沈没し、船長と乗員1人の合計2人が死亡した。「マイノ」号でも6人が負傷し、うち1人が半年後に死亡した。
 ロシア艦隊も落ち着きを取り戻した。戦艦「アリョール」は6インチ砲17発ほか砲弾500発を発射していた。「アリョール」から発射された砲弾のうち5発が防護巡洋艦「アウロラ」に命中し、従軍僧が片腕を失う重傷を負って後日死亡したほか数人が負傷した。装甲巡洋艦「ドミートリイ・ドンスコイ」も被害を受けた。
 漁船が半旗を掲げてハル港へ帰港すると群衆が押しかけてきた。さらにまずいことに、バルチック艦隊は犠牲者を救助しようともせず立ち去ってしまった。トラファルガー海戦記念日に発生したこの事件に対してイギリス世論は激高した。群衆はトラファルガー広場に集まり、野蛮人どもに対して断固たる措置を取るよう要求しデモを行った。新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬」と非難し、国王エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件である」と報告書の余白に書き加えた。
 一方で日本の株は上がった。ハル市で死亡した漁師の葬儀が行われた日、時機を失せずに東京市長尾崎行雄から弔電が送られてきた。駐英日本公使の林董は、ドッガーバンクでの事件に日本人はまったく関与していないと公式に声明を出した。
 ドーバー海峡をそ知らぬふりで通過したバルチック艦隊に対して、イギリス海軍は巡洋艦隊を出撃させ、スペインのビーゴ港まで追尾させた。イギリス政府はスペイン政府に対して、バルチック艦隊へ石炭はおろか真水さえも供給するなら中立違反と考えるとの警告を送り、英露間に緊張が走った。
 ビーゴ港において、ロジェストヴェンスキーはバルチック艦隊の行動について、「海面に2隻の水雷艇が存在していたために偶発的に生じた」と説明し、「別の行動を取ることが不可能だったと思われる環境」で生じた犠牲者に対して「衷心から哀悼の意を表する」と謝罪を行った。ともかくイギリスでは一時的な興奮は収まった。
 事件の認定のため、12月にパリで国際審査委員会が開催された。そしてその審査の報告書では、「カムチャッカ」が事件の前にも数隻の外国船に対して発砲していた事実が明かされ、責任の所在や程度がそこで言及された。
 ロシア政府は死亡または負傷した漁民への補償として6万5,000ポンドを支払い、かつ沈没したトロール船の代わりに新しい船を提供することに同意した。
 この事件により、市民レベルで反露・親日の機運が盛んとなり、イギリス本土も植民地も「バルチック艦隊」の入港を拒否。また、イギリスが支配し当時の船の主力燃料である「無煙炭」の補給も拒否した。この無煙炭の補給途絶により、日本海海戦時には数ノット船足が落ちたとされ、これが追撃戦で日本が一方的な戦果を挙げた一因とされている。また、バルチック艦隊の日本海進出時には満足な補給も保養もなく、相当に疲弊しきっていたと思われる。

 【ノックス条約】

 調停(ちょうてい)
  [ 日本大百科全書(小学館) ] .

 国際調停の構想が登場したのは、アメリカの締結した1911年のノックス条約や、13年のブライアン条約が最初であるが、24年ごろから多くの調停条約が結ばれ、28年の国際紛争平和的処理一般議定書のなかでも、調停制度は重要な地位を与えられた。実際に調停に付された紛争は多くはないが、ふたたび調停制度を評価する傾向がみられる。たとえば海洋法条約では、紛争の強制的解決手続と並んで、ある種の紛争については当事国の選択により調停による解決手続を認め、条約法条約では条約の無効や終了に関する紛争については調停委員会に付託するものとされ、また、国際人権規約(B規約)では、人権委員会によって解決されない紛争については特別調停委員会に付託するものとされている。
[ 執筆者:石本泰雄 ]

 【ブライアン条約】

 ブライアン条約
  [ 日本大百科全書(小学館) ] .Bryan Treaties

 1913年、W・J・ブライアンがアメリカ国務長官に就任して以来、外国と締結する条約のなかに、「外交上の調整手段に失敗した時は、常設国際委員会に付託して調査および報告」をなさしめて解決し、武力行使を避ける条項を挿入した。国際紛争の平和的解決手段として、国際審査制度を強調し、武力行使を避けることをうたったことから、この種の条約を「ブライアン条約」とよんでいる。
[ 執筆者:經塚作太郎 ]

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その三 「裁判手続」

 【アラバマ号事件】

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  同艦の艤装を中立国であったイギリスの民間会社が行ったのは中立義務違反であるとして、戦後に合衆国がイギリスに損害賠償請求した係争事案。

 1.アラバマ号事件(国際法の優越‐国内法援用禁止)
 {事実の概要}
 背景:米南北戦争(1861-1865)@
 提訴国:  米国
 被提訴国:英国
 争点:英国の中立国義務違反
 仲裁裁判所(1871年設立.米、英、伊、スイス、ブラジルが指名する5名の裁判官で構成)に付託                          {争点}
 中立義務の履行に関する注意の程度
 免責事由としての国内法令の援用
 {判示}
 (1)国内法令の援用
 英国は、その国内的法的手段が不十分であったとの抗弁を用いて免責事由とはなしえない
 (2)注意義務の程度
 一切の可能な配慮を払う必要がある
 {意義}
 国際法の優位性の原則を認めたリーディング・ケース。
 1969年ウイーン条約法条約27条に編入

 http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/yishigak/newpage74.htm

 【ベーリング海オットセイ事件】

 1893年に判決の出たベーリング海オットセイ事件は,アラスカ沖の公海でオットセイの海上捕獲を行うイギリス船(カナダ船)をアメリカが拿捕し,船舶と乗組員を国内法で処罰した事件であるが,1892年の両国の仲裁裁判条約によって仲裁裁判所が設置され(裁判官7人),判決は,「オットセイが通常の3カイリの外にいるときは,アメリカはベーリング海のアメリカの島に来るオットセイの保護権・所有権はもたない」と判示し,アメリカが主張した公海におけるオットセイの保護権・所有権を否認し,公海の自由を確認した。また,判決は,仲裁裁判条約に基づいて両国間でとられるべきオットセイに関する共同規制措置を決定した。

 http://www.meijigakuin.ac.jp/~cls/kiyo/83/83mizukami.pdf#search='ベーリング海 オットセイ事件'

 【英仏裁判条約】

 

 【マリア・ルス号事件】

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 マリア・ルス号事件とは明治5年(1872年)に横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして日本政府が解放した事件を言う。また日本が国際裁判の当事者となった初めての事例である。
 明治5年6月5日(1872年7月10日)、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルスが嵐で船体が損傷したため横浜港に修理の為に入港してきた。同船には清国人(中国人)苦力231名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦が救助した。そのためイギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
 そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令(副県知事)に清国人救助を命じた。しかしながら日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。
 マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ、7月19日(8月22日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は7月27日(8月30日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルスに戻すように訴えた。この訴えに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人)が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとのこの批判により日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出される契機となった。裁判により、清国人は解放され清国へ9月13日(10月15日)に帰国した。しかし問題はこれで終わらなかった。
 翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決の為に仲裁契約が結ばれ第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判(当時は常設の国際司法裁判所がなかったための措置)が開催されることになった。ロシア皇帝・アレクサンドル2世による国際裁判は1875年(明治8年)6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の訴えを退けた。

 【国際紛争平和的処理条約】

 第三七条[目的]
 国際仲裁裁判ハ、国家間ノ紛争ヲ其ノ選定シタル裁判官ヲシテ法ノ尊重ヲ基礎トシ処理セシムルコトヲ目的トス。
 仲裁裁判ニ依頼スルコトハ、誠実ニ其ノ判決ニ服従スルノ約定ヲ包含ス。

 【国際紛争平和的処理条約】

 第八三条[再審]
 当事者ハ、仲裁契約ニ於テ仲裁判決ニ対スル再審ノ請求ヲ留保スルコトヲ得。
 右ノ場合ニ於テハ、反対ノ規約アルニ非サレハ、判決ヲ為シタル裁判部ニ請求ヲ為スコトヲ要ス。右請求ハ、判決ニ対シ決定的影響ヲ与フルヘキ性質ヲ有スル新事実ニシテ弁論終結ノトキ裁判部及再審ヲ請求スル当事者カ知ラサリシモノヲ発見シタル場合ニ限、之ヲ為スコトヲ得。
 再審ノ手続ハ、裁判部ニ於テ特ニ新事実ノ存在ヲ確認シ、其ノ事実カ前項ニ掲ケル特質ヲ有スルコトヲ認識シ、且之ニ因リ請求カ受理スヘキモノナルコトヲ宣言スル決定ヲ為スニ非サレハ、之ヲ開始スルコトヲ得ス。
 再審ノ請求ヲ為スヘキ期間ハ、仲裁契約ニ於テ之ヲ定ム。

 【国際司法裁判所規程】

 第三十一条
 各当事者の国籍裁判官は、裁判所に係属する事件について出席する権利を有する。
 裁判所がその裁判官席に当事者の一の国籍裁判官を有する場合には、他のいずれの当事者も、裁判官として出席する者一人を選定することができる。この者は、第四条及び第五条の規定により候補者として指名された者のうちから選定されることが望ましい。
 裁判所が裁判官席に当事者の国籍裁判官を有しない場合には、各当事者は、本条2の規定により裁判官を選定することができる。
 本条の規定は、第二十六条及び第二十九条の場合に適用する。この場合には、裁判所長は、部を構成する裁判官中の一人又は必要があるときは二人に対して、関係当事者の国籍裁判官のために、また、国籍裁判官がないとき又は出席することができないときは当事者が特に選定する裁判官のために、席を譲るように要請しなければならない。
 多数当事者が同一利害関係にある場合には、その多数当事者は、前記の規定の適用上、一当事者とみなす。この点に関する疑義は、裁判所の裁判で決定する。
 本条2、3及び4の規定によって選定される裁判官は、この規程の第二条、第十七条2、第二十条及び第二十四条が要求する条件をみたさなければならない。これらの裁判官は、その同僚と完全に平等の条件で裁判に参与する。

 【国際司法裁判所規程】

 第三十五条
 2,裁判所をその他の国に開放するための条件は、現行諸条約の特別の規定を留保して、安全保障理事会が定める。但し、この条件は、いかなる場合にも、当事者を裁判所において不平等の地位におくものであってはならない。

 【国際司法裁判所規程】

 第三十八条
 1.裁判所は、付託される紛争を国際法に従って裁判することを任務とし、次のものを適用する。
 a. 一般又は特別の国際条約で係争国が明らかに認めた規則を確立しているもの
 b. 法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習
 c. 文明国が認めた法の一般原則
 d. 法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説。但し、第五十九条の規定に従うことを条件とする。

 【国際連合憲章】

 第94条〔判決の履行〕
 1 各国際連合加盟国は、自国が当事者であるいかなる事件においても、国際司法裁判所の裁判に従うことを約束する。
 2 事件の一方の当事者が裁判所の与える判決に基いて自国が負う義務を履行しないときは、他方の当事者は、安全保障理事会に訴えることができる。理事会は、必要と認めるときは、判決を執行するために勧告をし、又はとるべき措置を決定することができる。

 【国際司法裁判所規程】

 第四十一条
 1,裁判所は、事情によって必要と認めるときは、各当事者のそれぞれの権利を保全するためにとられるべき暫定措置を指示する権限を有する。
 2,終結判決があるまでは、指示される措置は、直ちに当事者及び安全保障理事会に通告される。

 【ラグラン事件】

 ラグラン事件判決(仮保全措置の効力部分)
 1 事件の概要
 兄ウォルター・ラグランと弟カール・ラグランの兄弟は,それぞれ1962年と1963年にドイツで生まれたドイツ人である。兄弟はまだ幼い頃に母親とともにアメリカに移住した。兄弟はその後もずっとドイツ国籍のままであり,アメリカ国籍を取得しようとはしなかった。しかし兄弟ともドイツ語を話すことはできずアメリカ生まれのアメリカ市民とほとんど変わりがなかった。
 1982年にラグラン兄弟はアメリカ国内において強盗殺人容疑などにより逮捕され,1984年にはアリゾナの裁判所で死刑を宣告された。しかしこの際領事関係に関するウィーン条約36条1項(b)で要求されている,容疑者に対して領事と通信する権利があることを告げる義務をアメリカの当局者が怠った。そこで在アメリカ・ドイツ領事はこれが手続法違反であるとしてアメリカの裁判所において異議を申し立てたが,認められなかった。結局ラグラン兄弟に対して死刑が執行されることになり,ドイツは外交ルートを通じて諸方面に死刑の停止を求めたが受け容れられなかった。
 1999年2月24日に弟カール・ラグランについて死刑が執行された。兄ウォルターについては同年3月3日に死刑が執行される予定になっていたので,その前日にドイツは国際司法裁判所に対してアメリカを相手方として提訴し,同時にアメリカがウォルターの死刑執行を阻止するためにあらゆる措置をとることを求める仮保全措置を要請した。同年3月3日,国際司法裁判所は,アメリカに対してウォルターに死刑が執行されないようにあらゆる手段をとることを命じる仮保全措置を指示した。同時にドイツはアメリカの連邦最高裁においてアメリカ連邦政府とアリゾナ州を相手にこの仮保全措置に従うよう求める訴訟を提起したが,棄却された。そして同日ウォルターに対しても死刑が執行された。
 ドイツはアメリカが国際司法裁判所による仮保全措置に従わなかったことが,国際義務に違反すると主張した。しかしアメリカは仮保全措置は法的拘束力を有しないので,これに違反しても国際義務に違反することにはならないと主張した。そこで仮保全措置の法的効力が問題となった。
 2 判 決
 99 この点に関して当事者間において存在する紛争は主に…41条の解釈に関わる。この解釈は文献において広範な議論の主題となってきた。それゆえ裁判所は規程41条の解釈に進む。それは条約法に関するウィーン条約の31条に反映された,国際慣習法にしたがってなされる。31条1項によれば,条約は文脈によりかつその趣旨および目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従って誠実に解釈されなければならない。
 100 …この[仏文版]文章において,"indiquer"および"l'indiquer"という用語は,"doivent etre prises"という用語が命令的性格を有しているのと対照してみると,当該措置の強制的性格について中立的であると思われる。…
 アメリカによれば,英文版における"order"の代わりに"indicate"の,"must"あるいは"shall"の代わりに"ought"の,そして"ordered"の代わりに"suggested"の使用は,41条の下での決定は命令的性格を欠いていることを暗示していると理解される。しかしながら,1920年において仏文の文章が原典版であったという事実を考慮すると,"indicate"および"ought"という用語は"ordre"および"must"あるいは"shall"と意味的に同じであったと主張されるかもしれない。
 101 完全に調和していない2つの文章に直面したことを自覚したので,裁判所はまず第一に,憲章92条によれば,規程は「この憲章と不可分の一体をなす」ことに注意する。憲章111条の下で,後者の仏文および英文は「等しく正文」である。同じことは規程においても同様に真実である。
 憲章の等しく正文である諸版の間に相違がある場合,それも憲章もどのように進めるかについて示していない。この点について当事者間において合意が存在していないため,裁判所の見解では再び国際慣習法を反映している,条約法に関するウィーン条約33条4項に言及するのが適切である。この規定は「各正文の比較により,第31条および第32の適用により解消されない意味の相違があることが明らかとなった場合には,条約の趣旨および目的を考慮して,すべての正文を最良に調和する意味が採用される。」と読める。
 それゆえ裁判所は,41条の文脈とともに,規程の趣旨および目的を考慮する。
 102 規程の趣旨および目的は,裁判所がそこにおいて規定された諸任務,特に規程59条に従って拘束力ある決定による国際紛争の司法的解決という基本的任務を果たすことを可能にすることである。規程の中で41条について理解される文脈とは,裁判所の下で紛争の各当事者の権利が保全されないために,裁判所がその任務の遂行において妨害されることを防ぐことである。その文脈において読まれた場合の41条の用語からと同様に,規程の趣旨および目的から,仮保全措置を指示する権限は,問題となっている権限が,諸事情によりそれが要求された時に,裁判所の最終判決によって決定される当事者の権利を保護するおよび侵害することを回避するという緊急性に基づいている限り,そのような措置は拘束的であるべきであるということを必然的に伴うという結果となる。41条の下で指示された仮保全措置は拘束的ではないかもしれないという主張は当該規程の趣旨および目的に反するであろう。
 103 41条のもとでなされた命令の拘束的性格を示し,また裁判所が重要性を置いている関連する理由は,既に常設国際司法裁判所によって認められていた原則の存在である。それは次のように言われる。
 「国際裁判所によって普遍的に認められ,また同様に多くの条約において規定された原則は…事件の当事者は,与えられた決定の執行に関して侵害的効果を及ぼすことを可能とするいかなる措置も慎まなければならない,および,一般的に,紛争をさらに悪化させるあるいは,拡大させるいかなる種類のいかなる手段も取られることを許さないという趣旨である。」(ソフィアおよびブルガリアの電力会社事件,1939年12月5日の命令,P.C.I.J, Series A/B, No. 79, p. 199)
 さらに紛争をさらに悪化させるあるいは拡大させることを回避することを計画された措置が,しばしば裁判所によって指示された。それらは履行されることを目的として指示された。(核実験事件1973年6月22日の命令; 国境紛争事件1986年1月10日の命令,ジェノサイド罪の防止および処罰に関する条約の適用事件1993年4月8日の命令,1993年9月13日の命令,カメルーンとナイジェリアの間の陸および海の境界事件1996年3月15日の命令)
 104 趣旨および目的に照らして規程41条の文章の解釈において,裁判所によって上記の結論に達したすれば,当該規程の意味を決定するために準備作業に頼る必要があるとは思われない。それにもかかわらず裁判所は規程の準備作業は41条の下での命令は拘束力を有するという結論を排除しないことを指摘する。
 105 国際連盟の理事会によって創設された法律家委員会によって準備された,常設国際司法裁判所規程の最初の準備草案は,仮保全措置について何の言及もない。ブラジルの法律家ラウル・フェルナンデスからの提案に従って,委員会によって準備された草案の中にこの趣旨の規定がより遅い段階で挿入された。
 アメリカとスウェーデンとの間の1914年10月13日のブライアン条約に基づいて,ラウル・フェルナンデスは以下の文章を提示した。
・・・
 「紛争の原因が既に付託されたあるいは付託されようとしているある行為からなる場合,裁判所は,裁判所の最終判決を留保して,暫定的にかつできるだけ遅れることなく,取られるべき適切な保護措置を命令できる。」
 起草委員会は,2つの主要な修正がなされた,この文章の新しい版を準備した。1つは,「裁判所は…命令できる」("the Court may . . . order") という言葉が,「裁判所は提案する権限を有する」("the Court shall have the power to suggest")に置きかえられた。もう一つは,裁判所によって当事者および理事会に対して与えられる「提案された措置」("measures suggested")の通報を規定する第2項が付加された。…
 106 草案39条が国際連盟の第1総会の第3委員会の小委員会によって審査された時,多くの修正が考慮された。ラウル・フェルナンデスは再び仏文版において"ordonner"という言葉を使用するよう提案した。小委員会の議長が裁判所はその決定を執行する手段を欠いていると認めたため,小委員会は"indiquer"という言葉のままにすることを決定した。このため英文版の第1項の言葉は仏文版と一致させられた。このため"suggset"という言葉は"indicate"に,"should"は"ought to"に置きかえられた。しかし,英文版の第2項において"measures suggested"という句は変えられないままとなった。
 このように小委員会によって仏文および英文において修正されたその規定は,常設国際司法裁判所規程の41条として採択された。それはそのまま1945年にいかなる議論もなしにこの裁判所の規程として通過した。
 107 41条の準備作業は,仏文において"ordonner"よりも"indiquer"を与えられたという選択は,裁判所はその決定の執行を確保する手段を有しないという考慮に動機付けられたことを示す。しかしながら,執行手段の欠如はと拘束力の欠如とは,2つの異なる問題である。このため,裁判所がそれ自体は41条に従ってなされた命令の執行を確保する手段を有しないという事実は,その命令の拘束的性質に反対する論拠とはならない。
 108 最後に裁判所は,際連合憲章94条が仮保全措置を指示する命令に対して拘束力を帰させることを排除するかどうかを考慮する必要がある。…
 問題はこの規定の第1項における「国際司法裁判所の決定」という言葉に帰させられる意味に関して生じる。この言い回しは単に裁判所の判決についてだけでなく,それによって与えられる,仮保全措置を指示する命令を含めたいかなる決定についても言及していると理解されうる。それはまた,94条2項において規定されているように裁判所によって与えられた判決のみを意味するとも解釈されうる。この点について,裁判所規程の56条から60条までにおいて,"decision"という言葉と"judgment"という言葉の両者が用いられているという事実は,この問題をほとんど明確にしない。
 94条1項の第1の解釈の下では,その項の文章は仮保全措置の拘束的性質を確認する。ところが第2の解釈はそれらに規程の41条の下で拘束力を与えることを決して排除しない。したがって裁判所は,憲章94条は41条の下でなされた命令が拘束的性質を有することを妨げないと結論付ける。
 109 要するに,条約法に関するウィーン条約の関連規定において言及された,準備作業も含めた解釈の諸要素のいずれも,文脈および規程の趣旨および目的に照らして理解された41条の用語から得られた結論と矛盾しない。このため裁判所は,41条の下での仮保全措置に関する命令が拘束力を有するという結論に達した。

 http://gaimusenmonsyoku.hp.infoseek.co.jp/LaGrand%20Case.htm

 【国連憲章】

 第96条〔勧告的意見〕
 1 総会又は安全保障理事会は、いかなる法律問題についても勧告的意見を与えるように国際司法裁判所に要請することができる。
 2 国際連合のその他の機関及び専門機関でいずれかの時に総会の許可を得るものは、また、その活動の範囲内において生ずる法律問題について裁判所の勧告的意見を要請することができる。
 
 【国際司法裁判所規程】

 第六十六条
 裁判所書記は、勧告的意見の要請を、裁判所で裁判を受けることができるすべての国に直ちに通告する。
 裁判所書記は、また、裁判所で裁判を受けることができる国又は国際機関で問題に関する資料を提供することができると裁判所又は、開廷中でないときは、裁判所長が認めるものに対して、裁判所が裁判所長の定める期間内にこの問題に関する陳述書を受理し、又は特に開かれる公開の法廷でこの問題に関する口頭陳述を聴取する用意があることを、特別の且つ直接の通知によって通告する。
 裁判所で裁判を受けることができる前記の国は、本条2に掲げる特別の通知を受領しなかったときは、陳述書を提出し、又は聴取される希望を表明することができる。裁判所は、これについて決定する。
 書面若しくは口頭の陳述又はこの双方の陳述を行った国及び機関は、裁判所又は、開廷中でないときは、裁判所長が各個の事件について決定する形式、範囲及び期間内において、他の国又は機関が行った陳述について意見を述べることを許される。このために、裁判所書記は、前記の書面の陳述を、同様の陳述を行った国及び機関に適当な時期に送付する。

 【核兵器合法性事件】

 1993年に世界保健機関(WHO)が、翌年国連総会が、核兵器使用の合法性について、国際司法裁判所に勧告的意見を求めたことがありました。
 アメリカやロシア、さらには日本など22カ国が法廷に臨み、国際司法裁判所で初めて本格的に核兵器使用の合法性を問うものとなりました。
 国際司法裁判所は、WHOには勧告的意見を求める資格がないとして請求を却下しました。いっぽう、国連総会からの求めには応じ勧告的意見を出しました。
 これによると、核兵器の使用・または核兵器による威嚇は、国際人道法には一般的に違反するが、「国家の存亡に関わる極端な状況」については、合法か違法かは確定的に判断できないとしました。
 また、核軍縮交渉を誠実に行い、完結させる義務が存在することを認めました。

 http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20080309A/index.htm

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その四 「戦争の歴史」

 【国際連合憲章】

 第2条〔原則〕
 6 この機構は、国際連合加盟国でない国が、国際の平和及び安全の維持に必要な限り、これらの原則に従って行動することを確保しなければならない。
 
 【ジュネーブ条約共通第三条】

 ジュネーヴ共通三条
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 ジュネーヴ共通三条はジュネーヴ諸条約の共通条項である第三条。
 第三条は、ジュネーヴ諸条約の締約国内で内乱が発生した場合、戦闘外にある者の待遇について紛争当事者が守らなければならない最低限の人道的待遇を規定している。

 第三条〔内乱の場合〕
 締約国の一の領域内に生ずる国際的性質を有しない武力紛争の場合には、各紛争当事者は、少くとも次の規定を適用しなければならない。
 (1) 敵対行為に直接に参加しない者(武器を放棄した軍隊の構成員及び病気、負傷、抑留その他の事由により戦闘外に置かれた者を含む。)は、すべての場合において、人種、色、宗教若しくは信条、性別、門地若しくは貧富又はその他類似の基準による不利な差別をしないで人道的に待遇しなければならない。
 このため、次の行為は、前記の者については、いかなる場合にも、また、いかなる場所でも禁止する。
 (a) 生命及び身体に対する暴行、特に、あらゆる種類の殺人、傷害、虐待及び拷問
 (b) 人質
 (c) 個人の尊厳に対する侵害、特に、侮辱的で体面を汚す待遇
 (d) 正規に構成された裁判所で文明国民が不可欠と認めるすべての裁判上の保障を与えるものの裁判によらない判決の言渡及び刑の執行
 (2) 傷者及び病者(第二条約…傷者、病者及び難船者。)は、収容して看護しなければならない。
 赤十字国際委員会のような公平な人道的機関は、その役務を紛争当事者に提供することができる。
 紛争当事者は、また、特別の協定によって、この条約の他の規定の全部又は一部を実施することに努めなければならない。
 前記の規定の適用は、紛争当事者の法的地位に影響を及ぼすものではない。

 【ジュネーヴ諸条約第二追加議定書】

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 ジュネーヴ諸条約第二追加議定書(正文)は、1977年6月8日の国連人道法外交会議で採択された議定書である。1949年のジュネーヴ諸条約に共通する第三条(ジュネーヴ諸条約共通三条)を発展・補完するものである。正式名称は非国際的武力紛争の犠牲者の保護に関し、1949年8月12日のジュネーヴ諸条約に追加される議定書(第二追加議定書)。

 成立
 1977年06月08日 - 国連人道法外交会議にて採択
 1977年12月12日 - ベルン(スイス)にて署名のため開放
 1978年12月07日 - 効力発生

 加盟

 署名 - 55カ国
 批准 - 163カ国(2007年1月18日現在)

 日本

 加入 - 2004年8月31日(2004年の159回国会において両院通過)
 発効 - 2005年2月28日

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その五 「軍縮」

 【国際連合憲章】

 第51条〔自衛権〕
 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 【ニカラグア事件】

 145-参-日米防衛協力のた…-9号 1999年05月20日
 戦争法案について徹底追及
 (ガイドライン特別委員会)

○小池晃君 日本共産党の小池晃です。
 昨日、TBSテレビ「NEWS23」で世論調査の結果が発表されております。今審議中のガイドライン法案についてあなたはどう考えるか、こういう質問に対して、賛成するという方が、四月にも同じ調査をやっているんですが、四月は四一・四%に対して三七%と減っているんです。そして、反対という方は、二五・五%から二八・五%にふえている。わからないという方も三三・一%から三四・五%とふえている。
 審議が進めば進むほど反対の声もふえている。わからないという人もふえている。皆さんさっきから、わかっていないから反対だなどと非常に失礼なことを言っているが、わかってきているから今反対の声がどんどん広がってきているんじゃないでしょうか。
 いまだに法案の根幹部分である周辺事態の定義、これも不明確だ。周辺地域の周辺とはどこなのか、事態とは一体何なのか、明らかになっていないじゃないですか。
 そもそも憲法九条で武力による国際紛争の解決を禁じた日本が、何で日本が攻撃をされてもいない周辺事態で戦争への参加ができるのか。新ガイドライン関連法案で日本が行う後方地域支援は、これは憲法違反の武力行使そのものじゃないか。こういうことに答えてないんですよ。きょうはこうした点について質問をしていきたいというふうに思います。
 まず最初にお聞きしますが、日本国憲法も国連憲章も、これは二度にわたる悲惨な大戦の教訓を踏まえて、紛争は平和的に解決をする、こういう決意の上につくられております。国連憲章は、紛争の平和的な解決の手段を尽くした後の安保理の決議に基づく軍事的な措置を認めていますが、憲法はこの軍事的な措置への参加は認めておりません。
 紛争の平和的な解決に徹するのが憲法の立場だ、これは憲法制定時の衆議院本会議で、当時の吉田茂首相が憲法第九条に触れてこう述べておられる。憲法制定時の衆議院の本会議の議事録ですが、「斯かる思い切った条項は、凡そ従来の各国憲法中稀に類例を見るものでございます。」、「此の高き理想を以て、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行こうと云う固き決意を此の国の根本法に明示せんとするものであります。」、こう言われている。
 日本は世界各国の先頭に立って紛争の平和的な解決を目指そう、これが憲法の立場です。このこと、この立場は今日でも日本政府は変わらない、そういうふうに言えますね、お答えください。憲法問題ですよ、法制局です。

○政府委員(大森政輔君) 昭和二十二年に憲法が制定されまして以来、憲法に盛り込まれました平和主義の理念、これはその後定着し、その後憲法が改正されたわけでもありませんから、依然としてその方針は変わっておらないということはそのとおりでございます。

○小池晃君 その立場は変わってないんだと。
 この観点から、政府はこれまで日本がとれる軍事行動については国連憲章、国際法の基準と比べても制約がある、そういう見解を示してきております。例えば、八一年の角田法制局長官はこう答弁している。「いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、」、「ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、」「たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。」、こう言っているわけです。
 日本国憲法で認められる行動は、国連憲章で認められるものよりも狭い範囲に限られている、これも確認できますね。どうですか。

○政府委員(大森政輔君) お尋ねの日本国憲法と国連憲章等との間の差の問題でございますが、委員が言外に御指摘されているような意味における差があるかどうかはともかくといたしまして、御承知のとおり、日本国憲法は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」。そして二項におきまして、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」、こういうふうに規定されておりまして、この第九条の解釈といたしましては、我が国を防衛するために必要最小限度の実力組織を保持し、そしてその組織に基づく自衛行動を行うことはともかくとして、それ以外については一切武力の行使に当たる行為等は行わないという方針を採用しているわけでございます。
 それに対しまして国連憲章におきましては、まず第七章におきまして集団的安全保障措置に関する規定があり、安保理の決議がありますと陸海空軍の行動もとることを認め、また五十一条におきましては、ある一定の制約のもとで個別的自衛権あるいは集団的自衛権の行使を認めているというように、武力の行使についてある許容の範囲、例外の範囲というのは日本国憲法との間で制度的な差があるということは、そういう意味におきましては御指摘のとおりではなかろうかと思うわけでございます。

○小池晃君 私が言った違いというのはそういうことなんですよ、長々と言われたけれども。もうちょっと素直に答えていただきたいと思うんです。
 こういう憲法のもとで、こうした点から見れば、新ガイドライン法案というのは明らかにこうした憲法の制約を踏みにじるものである、そういう疑念を晴らすことができないわけであります。
 そこで次に、今国連憲章を触れられましたが、国連憲章についてお伺いしたい。国連憲章では、どういう武力の行使が禁止をされておるのか聞いていきたい。
 国連憲章二条四項ではこう言っております。
  すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
こうしております。
 二条四項で言っている武力の行使とは、軍事力をもって物事を解決することであり、それを禁止する、そういうことでよろしいですか。

○政府委員(東郷和彦君) お答え申し上げます。
 委員御指摘のように、国連憲章二条四項に、
  すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
と規定されております。
 ここに規定されておりますところの武力の行使、ユース・オブ・フォース、これにつきましては、起草の経緯などからして政治的、経済的圧力の行使は含まれておらず、専ら実力の行使に係るものと解されております。

○小池晃君 要するに、この国連憲章二条四項で言う武力の行使というのは、政治的、経済的な圧力は除くと、そういう議論は確かにあります。しかし、それ以外の実力による軍事的な圧力は含まれるんだと。つまり、これは戦闘行為だけではなくて兵たん活動など戦闘行為を支える活動も含まれる、そういうふうに理解してよろしいんですね。

○政府委員(東郷和彦君) ただいま申し上げましたように、専ら実力の行使に係るものと解されております。したがいまして、通常理解されておりますところの兵たん活動、こういうものは含まれていないというふうに解すのが一般的であるというふうに考えております。

○小池晃君 軍事的な実力の中に兵たん活動を含むなんて国際的な軍事的な常識じゃないですか。全くおかしい。

○政府委員(東郷和彦君) お答え申し上げます。
 法的な観点から申し上げれば、国連憲章二条四項におきますところの武力の行使、これは実力を指すというのが現下の国際社会の理解と申し上げて間違いないと思います。事実の問題として、兵たん活動を行えばそれは実力の行使と関係がある、ない、こういう議論がございます。しかし、法的な議論といたしましては、武力の行使というのは実力の行使ということで間違いないというふうに考えております。

○小池晃君 それでは聞きますけれども、この国連憲章二条四項で言う武力の行使、これは戦闘行為だけ、それに限定をすると、そういう決定が今まで国連の場で行われたことはありますか。どうですか。

○政府委員(東郷和彦君) 国際法上、この武力の行使自体の定義について、条約等、そういう成文法上の明示的な規定があるわけではございません。それから、国連におきましてはいろいろな国連総会の決議等というのはございました。しかし、法的な意味でこの武力の行使を定義したというものはございません。
 しかし、私が申し上げたのは、このような武力の行使に対する国際的な解釈といたしまして、専ら実力の行使を指すものであるというのが現下の国際社会の理解であるということを申し上げたわけでございます。

○小池晃君 ないということなんですよ。この戦闘行為だけに限定するという決定は今まで国連ではされていないということなんです。武力行使を戦闘行為に限る、こんなことは国連憲章の解釈からは全く出てこないんだ。国連のほかの決定に、今ちょっと決議等にも触れられましたが、その問題で次に議論を進めていきたいというふうに思います。
 一九七四年十二月に、国連総会で侵略の定義に関する決議というのが行われております。これは国連が国際関係において何をもって何を侵略というふうにするのか、これは二十四年間かけて議論を重ねてコンセンサス、全会一致で確認をしたものであります。
 この国連での審議の過程で日本も含めた六カ国、カナダ、イタリア、イギリス、北アイルランド、アメリカ、ここが共同修正案を出しております。これは一九六九年に提案をされている。これです。(資料を示す)
 ここに現物がありますが、これを見ますと、侵略を構成し得る武力行使には以下のものが含まれるというふうにして、目的として五項目、そして行為の内容、態様として八項目を挙げております。
 その八項目を見ると、他国の管轄下にある領域に対する爆撃、他国の軍隊、艦船、航空機に対する組織的な攻撃を行うこと、こういった直接のいわゆる戦闘行為。これ以外にも以下のような項目が含まれております。武装部隊もしくは非正規軍、義勇軍を組織、支援、指揮すること。支援というのはサポーティングという言葉を使われている。暴力的な内乱や他国に対するテロ行為を組織、支援、指揮すること。そして、他国の政府転覆を目的とした破壊行動を組織、支援、指揮すること。これは日本が提案しているんですよ、共同修正案。
 ここで禁止をされている武力行使は、これは戦闘行為に限定されていないじゃないですか。どうですか。

○政府委員(加藤良三君) 一九七四年の侵略の定義に関する総会決議、それから一九六九年の日本を含む六カ国提出の共同修正案についてお尋ねがございましたのでその順序で申し上げますが、最初に七四年の侵略の定義に関する決議、これは武力の行使それ自体に関する定義規定を有しておりません。この決議はあくまでも国連総会が安保理による侵略行為の認定のための指針として基本的な原則を定めようとしたものでございます。それにとどまるものでございます。
 この決議は、六条に明記されておりますとおり「憲章の範囲をいかなる意味においても拡大し、又は縮小するものと解してはならない。」のであり、当該決議中の武力の行使とは憲章第二条第四項の武力の行使、先ほど条約局長から説明がありました武力の行使と同義であって、専ら実力の行使にかかわるものと解されます。
 次に、六九年の日本を含む六カ国共同修正案を提出して、その内容について委員から御紹介がございました。確かにこの案文は、侵略の認定は国際の平和と安全の維持に主要な責任を有する安保理が行うものであるという観点から、侵略とは安保理が用いる用語であるとした上で、侵略という言葉の定義及び侵略を構成する武力行使の目的及び手段を例示しているということでございますが、基本は七四年の決議について今私が申し述べたとおりでございます。

○小池晃君 だから、この侵略の定義に書いてあるんですよ。侵略と武力行使というのは全く別じゃないんですよ。最も深刻かつ危険な違法な武力行使なんです、侵略というのは。ですから、侵略に対して定義をしたということは、侵略というのは武力行使の一部分なわけですから、その態様を定義したということは、それは武力行使というのにこういう態様のものが含まれるということじゃないですか。だから、武力行使というのは単に直接の戦闘行為だけではなくて、その戦闘行為を支える数々の支援活動、組織活動、指揮活動、こういったものが武力行使に含まれるということを、これは一九六九年の時点で日本の政府が提案しているんじゃないですか。そのことを言っているんです。

○政府委員(加藤良三君) ただいまの御指摘は正確でないと思います。
 侵略の定義に関する決議というのは、まさに第三条に「次に掲げる行為は、いずれも宣戦布告の有無にかかわりなく、」「侵略行為とされる。」ということが書いてありますが、その前に「第二条の規定に従うことを条件として、」という縛りがかかっております。
 第二条、これが何が書いてあるかと申しますと、国家による憲章違反の武力の先制的行使は、侵略行為の一応の証拠を構成する。ただし、「安全保障理事会は、国際連合憲章に従い、侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況に照らして正当化されないとの結論を下すことができる。」。すなわち、安保理は安保理として最終的な決断を下すということはこの七四年の決議において明記されているわけでございます。そしてさらに、前文に「侵略行為が行われたか否かの問題は、個々の事件ごとのあらゆる状況に照らして考慮されなければならない」云々という記述があるわけでございまして、その例示された侵略の行為というものがすぐ武力の行使につながるということではないと考えます。

○小池晃君 そんなことを聞いているんじゃないんですよ。これに書いてあるからこれで自動的に武力行使になるんだって、そんなこと一言も聞いていないでしょう。武力行使の形態として挙げているんです、こういうものを例示的に。だから、こういうふうに示しているということは、武力行使というのは戦闘行為に限られないという見解をその当時日本政府は持っていたということなんじゃないですかというふうに聞いているんです。答えてください、そこのところ。

○政府委員(加藤良三君) まず、一九七四年の決議、六九年の共同修正案ということの性格なんでございますが、委員がおっしゃっておられるのはむしろ一九三三年ごろの侵略の定義に関する条約というものに近いのかなという感じがいたしまして、こちらの方はそういうものではございません。
 確かに、今申されたような一国による例示列挙ということがございますけれども、同時に一国による国連憲章に反する兵力の先制使用は侵略行為の一応の証拠を構成する、これは第二条に書いてあります。そういう推定規定を設けながら、この定義が安全保障理事会による国連憲章三十九条に基づく侵略行為の存在決定に当たっての指針である、これ自体が物を決めているわけではない、決めるのは安保理なのである、安保理がその権限を有しているのである、具体的ケースにおける侵略行為の存在、認定の権限を有する安全保障理事会の裁量権を第二条が確認しているわけでございまして、そのことを私は申し上げたつもりでございます。

○小池晃君 全然説明になっていないです。安全保障理事会で決定するのは当たり前ですよ。総会決定というのは法的拘束力はないんでしょう。一々の事態について、個々の事態についてそれを安全保障理事会で決定していくわけでしょう。これは当然のことを言っているだけですよ。
 その際に、いろんな形態の武力行使が行われるであろう、そのことが武力行使に該当するかどうか、例えばテロ行為に対する支援というのは武力行使なのかどうなのかというときに、これを指針として示したわけじゃないですか、そういうことも含まれると。そして、それを日本政府が提案したわけではないですか。ということは、その時点では日本政府は、武力行使というのは戦闘行為に限られるということではなくて、それを支えるさまざまな行動も武力行使の形態としてあり得るというふうに考えていたということじゃないですか。そのことに正面から答えてください。

○政府委員(加藤良三君) ちょっと経緯について説明させていただきますけれども、国際法違反行為として制裁の対象となるべき武力行使としての侵略、これを定義するということについては、定義の可能性と有用性という問題が当時ずっと提起されていたわけでございます。
 第一に、いかなる行為がいかなる状況のもとで国際法上違法な武力行使としての侵略であるかを外延と内包を全部確定して一般的に妥当する定義で決定することは不可能に近いという認識が当時国連であったわけであります。
 それから第二に、具体的行為が具体的状況のもとで国際法上違法な行為としての侵略であるかをそういった一般的な定義の適用によって設定することは極めて危険であって、したがってそのような定義は仮に可能であったとしても有用ではない、こういう議論が盛んに出されていたわけでございます。
 そういう議論の流れを受けて、私が先ほど申し上げましたように、安保理が明確な決定の権限を持つ、そのためのガイドライン、基本原則みたいなものを例示的に示すということでおさまりがついた、こういう流れであったわけでございます。

○小池晃君 私の質問に正面から全く答えていただけない。
 特別委員会が最終草案を採択したときに、日本代表は席上でこう発言しております。この侵略の定義が総会二十九会期に採択されると、国際法の歴史に新しい一章が書き込まれ、多くの高名な学者の夢が実現することになるだろう、こういうふうに言っているんです。少なくとも一九六九年のこの修正案を出した時点ではこれは禁止すべき武力行使に支援も含めていた、外務省、日本政府はそういう見解であったということは否定できないはずです。このことはどうですか。このことに答えてください。

○政府委員(加藤良三君) 正面からお答えしているつもりなんでございますけれども。
 その決議案の作成段階における提案、議論の内容については交渉過程にかかわるということもございますので、その決議が採択された後の時点において逐一コメントすることは私は適当でないと考えまして、一般論として申し上げるわけですが、交渉中に各国がとった立場が最終的立場としてその国を拘束するということはもちろんないわけでございます。
 いずれにしても、侵略の定義に関する総会決議は、先ほど来申し上げておりますとおり、国連憲章上、侵略行為の存在を決定する権限は安保理にあるということを前提として、安保理が侵略行為の存在を決定する際の指針として作成されたものであるということでございます。
 今議論になっております両文書というのはあくまでも総会決議でございまして、それ自体としては委員が示されたとおり法的な拘束力を有するものではございません。また、両文書ともその中に国連憲章の関連規定の範囲をいささかも変更するものではないということを明記しておるわけでございます。そのようなものとしてこの両方の決議ともコンセンサスで採択されたものでございますし、日本もそのような認識に立ってコンセンサスに参加したということでございます。

○小池晃君 正面から答えないんです。この時点で認めていたことははっきりしているんですよ。
 そしてさらに、個々の事態を安保理で認定する、これは当然のことです。個々の事態がどう認定されたか、そういう問題を議論したい。
 国際司法裁判所のニカラグア事件判決、この問題を取り上げたいと思います。
 この判決が武力行使の範囲について認定した唯一の国際司法裁判所の判決である、このことは認められますね。

○政府委員(東郷和彦君) お答え申し上げます。
 武力行使との関連ということでございますけれども、御指摘のニカラグア事件判決、これは武力行使の問題にICJが正面から取り組んだ主要な事例であるというふうに理解しております。
 武力行使に言及したもの、あるいは武力行使にかかわる例としては、例えば一九四八年のコルフ海峡事件あるいは一九八六年のブルキナファソ、マリ間の国境紛争事件、さらには同じく一九八六年の核兵器の違法性に関するICJ勧告などがございますけれども、武力行使というものはどういうものかということに正面から取り組んだ主要な判決はこのニカラグア事件判決というふうに心得ております。

○小池晃君 これは大変大切な判決なんですよ、武力行使というのを国際法上考えていく上で。
 何でこの裁判について取り上げるのかちょっと説明をしたいと思います。
 この裁判は一九七九年にニカラグアにサンディニスタ左翼政権が誕生してからの話であります。ニカラグアの隣にエルサルバドルという国がある。アメリカはこのエルサルバドルと友好関係にあった。このエルサルバドルの政権に対して武力闘争をしているゲリラがいたわけです。それに対してニカラグアが援助をした、これがアメリカの言い分だったわけであります。そして、アメリカはこれを理由にしてニカラグアへの経済援助を停止した。ニカラグアの反政府勢力コントラに対する軍事援助を行った。そして機雷封鎖、ニカラグアへの直接の武力行使もやったんです。このことに対してニカラグアは、これは国際法違反だということで国際司法裁判所に提訴をした。そういう話であります。
 何でこの裁判を重要視するのか。これは裁判では、ニカラグアのエルサルバドルのゲリラに対する武器供与、兵たん援助、これが問題になったんです。アメリカはこれを武力攻撃だと言ったんです。これは武力攻撃だからこれに対して集団的自衛権を発動する、それを正当化したんです。ニカラグアというのは当時、人口三百万人、小さい国です。軍といったって歩兵部隊ぐらいで、対空兵器もない。そんな小さな国が隣の国に銃を運んだんだと、これは状況証拠しかないんですけれども、それをアメリカは、武力行使じゃないです、武力攻撃だと言ったんです。これに対して判決では、これは武力攻撃とまでは言えないが武力行使とみなし得るというふうにしたのがニカラグア事件判決の最大のポイントじゃないか。大きな意味があるんじゃないかというふうに思うわけです。
 五月十日の当委員会で、我が党の筆坂議員の質問に対して外務大臣は、国際社会におけるICJ、国際司法裁判所の判決は厳粛に受けとめておりますという答弁でしたが、これは武器、兵たんその他の支援の供与は武力の行使とみなされるという国際司法裁判所の判決の内容を認める、そういうことですね。

○国務大臣(高村正彦君) 御指摘のICJ判決は、ある国が他国内のゲリラ等の反政府勢力に対して行う支援等の論点につき法的評価を行ったものであります。政府といたしましては、国際社会における主要な司法機関である国際司法裁判所の判決は厳粛に受けとめておりますが、その判決の具体的内容については、それぞれの論点につき個別の事件の文脈に照らして理解すべきものと考えます。
 そうした前提のもとで申し上げれば、ICJの判決においては、一般に外国の反政府勢力に対する武器、兵たん、その他の支援の供与の形でなされる援助がその外国に対する武力の行使や干渉とみなされることもあり得ると述べていることは承知しております。しかしながらこの判決は、同時に、米国によるニカラグアの反政府勢力に対する支援のすべてが武力の行使等に該当するものではないとも述べていると承知をしております。
 したがって、一般論として、何が武力の行使とみなされることになるのかについてこの判決で明確にされているとは全く考えておりません。

○小池晃君 今ちょっと二つの問題を一緒におっしゃられたと思うんですが、まず最初のニカラグアのエルサルバドルのゲリラに対する支援とアメリカのニカラグアの反政府勢力に対する支援、この裁判では二つ認定されているんです。
 ところが、裁判の中心点は、これはニカラグアのエルサルバドルのゲリラに対する支援、これを問うている。そこでそれはどう表現されているかというと、サッチ アシスタンス メイ ビー リガーデッド アズ ア スレット オア ユース オブ フォースと。みなされるですよ。みなされることもあるというふうに今言ったけれども、みなされるというふうにはっきり言っているわけです。
 確かに、支援のすべてが武力の行使に該当する、そういう認定をしたわけじゃないです。それはそうです。けれども、少なくともこの判決からこういうことを言えるじゃないですか。一つは、武力行使というのは戦闘行為に限られる、そういうことじゃないんだということが言えると。それから、この全文を読むと、武力行使の範囲から除外されるものについては、一応資金援助というのは排除されているんです。それ以外に、明示的に武力行使の範囲から排除するものはないんです。
 すなわち、この判決で認定をしたのは、国際法上の武力の行使というのは戦闘行為だけに限定はされていない、兵たんなどの支援活動も含まれるということは認められるんじゃないですか。これは具体的な事例じゃないです。一般原則としてそういう判決を書いたんですから、その中身はICJの尊重され得る判決の中身として認められるんではないか、そういうふうに聞いているんです。

○政府委員(東郷和彦君) 委員より判決の条文についての御指摘がございましたので、念のために一点申し上げたいのでございますが、委員の御指摘になられた部分は、武器、兵たんその他の支援の供与の形でなされる反政府勢力の援助については、武力による威嚇または武力の行使としてみなされるかもしれない。英文で申し上げれば、サッチ アシスタンス メイ ビー リガーデッドということでございまして、常にみなされるということをこの判決が言っているわけではないというふうに理解しております。

○小池晃君 何を言っているんですか。メイというのは何々し得るというのが最も適切な訳ですよ。
 それからフランス語版を見ればさらに明瞭なんです。フランス語版を見ると、オン プ ボワールというのが書いてあるんです。明らかにこれはみなし得るという以外に訳せないんです。かもしれないなんという訳にはならないです、これは。明確です。
 この判決が、先ほどもちょっとおっしゃいましたけれども、個々の文脈で理解するんだと、これは当たり前ですよ。裁判というのはそういうものでしょう。当事者間だけ拘束する、それは当然であります。
 しかし、国際司法裁判所の判決というのは、これは高野雄一さんという方が「判例研究 国際司法裁判所」に書いておりますが、「それは当事国のみを拘束するものではあるが、争われ問題となっている国際法の規則そのものをあきらかにし確定する。それによって国際法に確実な発展の基礎を与える。」と言っているんです。
 ですから、先ほどから議論しているような武力の行使というものに対して、この国際司法裁判所の規定というのは、武力の行使というのは直接の戦闘行為だけではない、さまざまな援助活動、支援活動もそれにみなされる、そういうことを認めたということははっきり言えるんじゃないですか。そのぐらいは認めてくださいよ。

○政府委員(東郷和彦君) メイの訳し方についてはいろいろな見方があるかもしれませんが、ただ委員の御指摘にいたしましても、また私が申し上げたことにつきましても、そういうことがあり得る、すべての場合そうではないけれども、そういうこともあり得るという点では共通の理解があるのではないかと思います。
 この判決につきまして、外務大臣よりも申し上げ、私よりもぜひ申し上げたいのは、この判決というのはゲリラ等の反政府勢力に対して行う支援、そのゲリラに対する支援の実態については先ほど委員より御説明がございましたけれども、そういうゲリラに対する支援についての判決であったということでございます。
 今委員会の審議との関係で申し上げれば、冒頭、私より、いわゆる兵たん活動、つまり米軍が行動していてそれに対して自衛隊が兵たんとして支援をする、このようなケースとは全く違う、みずからが活動することなくゲリラに対して支援をする、そういう特殊な、特殊という言葉がもし適当でないとすれば、そういう特定の案件に対する判決であったということでございまして、そのような事案に対する判決として拘束力を持っているということでございます。

○小池晃君 これはゲリラに対する支援ですら武力行使となったというところなんです。正規軍に対する兵たん活動というのは武力行使じゃないと言うんですか。そんなはずがあるわけないじゃないですか。正規軍に対する兵たん活動が武力行使に当たるのは当たり前なんですよ。ゲリラに対する非常に特別な特殊な援助活動ですら武力行使だというふうに認定したというところがみそなんですよ。ゲリラに対する支援が武力行使だったら正規軍に対する兵たん活動なんて明らかに武力行使じゃないですか。全く話になっていない。
 もう一度聞きます。
 この判決が武力行使というのは戦闘行為だけに限定していないんだということを認めた判決であることは認めますね。

○政府委員(東郷和彦君) 繰り返しになって恐縮でございますけれども、ICJの判決というのはあくまでそれぞれの論点につき、個別の事件の文脈に照らして理解すべきである。そして、本件ニカラグア判決について申し上げれば、これは一般に外国の反政府勢力に対する武器、兵たん、その他の支援の供与の形でなされる援助がその外国に対する武力の行使や干渉とみなされることもあり得るということを述べているということでございます。
 以上が私どもがこのニカラグア判決に関して理解していることのすべてというふうに御理解いただきたいと思います。

○小池晃君 全然だめです。私の質問に全然答えていないです。
 武力行使を戦闘行為に限らなかった、そのことを認められるかというふうに言っているんです。イエスかノーかで答えてください。

○政府委員(東郷和彦君) 繰り返しになって恐縮でございますけれども、ICJの判決についての理解というのは、個別の事案について判断し、個別の事案の文脈に照らして理解するということでございます。
 この事案は何かと申し上げれば、これは外国の反政府勢力に対する武器、兵たん、その他の支援の供与でなされる援助、これがその外国に対する武力の行使や干渉とみなされることもあり得るということでございます。
 以上でございます。

○小池晃君 ということは、個別の事案、ニカラグア事件の判決に限って言えば、この判決はこのニカラグアの問題については武力行使を戦闘行為に限らなかった、これは言えますね。

○政府委員(東郷和彦君) ただいま申し上げましたように、この判決においては武力の行使や干渉というふうに、武器、兵たん、その他の支援の供与というものの援助がみなされることもあり得るということでございます。
 他方、一般論として、何が武力の行使とみなされることになっているかについて、この判決では全く明確になっていないということでございます。

○小池晃君 この判決では武力行使というのは戦闘行為に限っていないんですよ。そして、武力行使、戦闘行為以外のいろんな支援活動もみなされるということを認めている、これがこの判決なんです。これははっきりしています。答弁は回避されましたけれども、明確だと思います。
 それからもう一つ、この判決について、五月十日に条約局長は答弁の中で、「一方の当事者である米国の参加がないままに判決が行われた」というふうに言いました。しかし、これはおかしいと思うんです。一般原則として、訴訟のどの段階における一方当事国の欠席というのも、これは判決の効力に影響を与えるものではないんです。
 さらに、アメリカというのは、この件について国際司法裁判所が管轄権を持つかどうか決める管轄権審理、この段階には参加しているんですよ。そして、ICJは管轄権を持たないと主張したんです。ところが、ICJは、本件に対する管轄権は確定した。管轄権が確定された以上、アメリカはそれ以降ボイコットしたわけですけれども、訴訟の当事者という地位はこれは否定できないんです。
 そして、アメリカが管轄権がないというこの主張もひどいんです。アメリカは、一九四六年に管轄権を一般的に受諾する宣言を出した。ところが、ニカラグアが提訴する三日前になって、中米の紛争には適用しない、こういう通告を突然行った。これを理由にして、ほかにも理由はあるんですが、管轄権が適用されないと、こう主張したんです。これは、むしろアメリカというのは本当に身勝手な国だということを物語るエピソードじゃないかなというふうに私は思うんです。
 まさか外務省は、こうした経過をもって、このICJの判決の効力に疑問があると、疑問があるというふうに言うんですか。

○政府委員(東郷和彦君) 外務大臣及び私から累次申し上げておりますように、この判決に関しまして政府として申し上げたい点は二点でございます。第一点は、国際社会における主要な司法機関であるICJの判決は厳粛に受けとめているということでございます。第二点は、この判決の具体的内容、これは繰り返し申し上げておりますが、それぞれの論点につき、個別の事件の文脈に照らして理解すべきものであるということでございます。
 先般、当委員会で私が申し上げましたのは、このような政府の判決に関する立場に加えまして、できるだけこの判決に絡まる事実関係について御報告したいと発言した次第でございます。

○小池晃君 全然答えになっていないです。要するに、判決の効力に関係ないですね。アメリカが出なかったということは関係ないですね。それだけ答えてください。

○政府委員(東郷和彦君) 繰り返しになりますが、判決の効力の適否、当否について私はコメントした次第ではございません。この判決はICJの判決として厳粛に受けとめているということに尽きるということでございます。
   〔委員長退席、理事竹山裕君着席〕

○小池晃君 要するに、関係ないということなんですよ。
 それからあともう一つ、これはもう聞きませんけれども、五月十日には、「学説上この判決については種々の見解もある」というふうに条約局長は言った。ところが、先ほど私が話したように、見解はいろいろ出ているけれども、アメリカというのは、小さなニカラグアという国のエルサルバドルのゲリラに対するその支援を武力攻撃だと言った、武力行使というふうに認定されたというのが経過なんです。武力行使とみなし得るというのは、アメリカにとっては当然なんですよ。だから、この「武力の行使とみなしうる」という部分に対する、これを真っ向から否定する見解、すなわち武器や兵たんの支援は武力行使ではないというふうにいったような見解は一つもないんですよ。ないんです、これははっきりしていると思うんです。ですから、やはりこの判決、ICJの決定として大変尊重する必要があるんだ、その尊重すべき国際司法裁判所の決定で、武力行使というのは戦闘行動に限られるものじゃない、兵たん支援も含まれ得るという決定をしたところに大きな意義があるのではないかというふうに思うんです。
 さらに、友好関係原則宣言、これも国連総会決議で全会一致で一九七〇年に決められています。ここでも、武力不行使宣言、武力不行使原則ということで、行ってはならない武力行使の例として幾つか挙げております。その中には、「傭兵を含む不正規軍又は武装集団を組織し又は組織を奨励すること」、「他の国において内戦行為又はテロ行為を組織し、教唆し、援助し若しくはそれらに参加すること又はこのような行為を行うことを目的とした自国の領域内における組織的活動を黙認すること」、こういうのが武力行使だというふうに言っているんです。禁止されるべき武力の行使として例示をされているわけであります。
 ですから、今まで触れてきた国連憲章に基づく国連総会の侵略の定義に関する決議、そして友好関係原則宣言、これはコンセンサスですから、全会一致ですから、単なる決議じゃない、重視されるべき決議なんです。ここでも、武力行使の中には、単に直接戦闘行動じゃなくていろんなものを含むんだという決定をしておるわけです。そして、国際司法裁判所のニカラグア判決も、兵たん支援、武器の援助は武力行使とみなされ得るというふうに認定をしているわけです。国際的には、禁止をする武力行使を戦闘行動などに限定していない、これは当たり前のことだと思うんです。
 私は、内閣法制局に武力行使とは何かというふうに聞いたら、資料を送ってくれました。有斐閣の「国際法キーワード」という本であります。これを見ると、「国連体制下での武力行使禁止の範囲」、そういう項にこう書いてあります。「「武力」の態様については、単に正規軍による他国領域への侵入・砲爆撃といった直接的なものに止まらず、不正規軍や武装集団の組織・奨励等を通じての間接的なものまでも含めて広く捉えられる傾向にある。」と。国際的には武力行為の範囲というのは直接的な戦闘行為にとどまらず広がっているんだ、これが国際的傾向であります。
 私は改めて聞きますが、国際法では武力の行使を戦闘行為に限定していない、兵たんなども含む概念として使っている、このことがICJのニカラグア判決、国連のさまざまな決議の到達点だというふうに思うんですが、いかがですか。

○政府委員(加藤良三君) ニカラグアの件については既に御議論が随分ございましたので、私から今御説明することはいたしませんけれども、先ほどの二つの決議にいたしましても、また友好関係原則宣言におきましても、これは法的拘束力を有するものでないということは当然の前提でございますけれども、やはりその中で、冒頭で国連憲章の第二条四項の文言を引用しながら、武力の行使は国際法及び国連憲章に違反するものであってはならないということを述べているわけでございまして、こういったものの中には武力の行使それ自体の定義というものは、繰り返しになりますけれども、ないわけでございます。
 決議中にも明記されているということを申しましたが、これらは国連憲章の規定の範囲を拡大したり縮小したりするものではなくて、決議及び宣言の中の武力の行使というのは専ら実力の行使に係るものというふうに考えておるわけでございます。したがいまして、ある国の個々の行為が直ちに今例示になられましたようなカテゴリーのものである、武力の行使や侵略行為に当たるということにはこれはなっていないということは先ほど来申し上げたとおりでございます。
 その上であえて申し上げますと、これらの決議のあるいは宣言の中で支援といったものに言及している部分があるといたしましても、例えば友好関係原則宣言における該当部分というのはいわゆる間接侵略について述べたものでございまして、また侵略の定義の該当部分というのは他国の侵略行為を前提とした侵略幇助というべき支援であって、そういうものについての話をしているということは実は明らかだと思いますので、この委員会の流れとの関係で申しますと、我が国の平和と安全に重要な影響を与える事態である周辺事態において、国連憲章及び日米安保条約に従って行動する米軍に対する支援とかいったものとはそもそもの前提を全く異にする話だと思います。

○小池晃君 全くのすりかえだと思いますよ。私は、禁止されている武力、その定義を聞いているんです。そして、違法であれ合法であれ、武力行使というのはどういうものか。これははっきりしているじゃないですか。もちろん、禁止される範囲が違法な場合と合法な場合で変わる、これは十分あり得ますよ。でも、武力行使の範囲が何で変わるんですか。違法な戦闘行為に対する支援を行ったらそれは武力行使で、合法な戦闘に対する支援をやったらそれは武力行使ではない、こんな話あるわけないじゃないですか。違法だろうが合法だろうが、それは違法な武力行使か合法な武力行使かの違いであって、武力行使であることに変わりないんですよ。あなた方、完全なすりかえですよ、今のは。全く説明になっていない。
 やはりこれはこの間の国連の決定を見れば、それを読めば、明らかに武力行使というのは戦闘行為だけに限るなんて決定はないんだと。兵たん支援、これが武力行使だと認定しているのはいっぱいあるんです。
 ところが、武力行使イコール戦闘行為だと認定したものは一つもないんですよ。ゼロです。このことを認めるでしょう。このことを認めてくださいよ。

○政府委員(東郷和彦君) お答え申し上げます。
 国連憲章二条四項に言う武力の行使、これは専ら実力の行使であるという国際的な理解というのは、本日の種々の議論にもかかわらず私は絶対に正しいというふうに確信しております。
 そして、委員がおっしゃられました武力の行使を超える範囲として種々御指摘になられたものは、ただいま同僚政府委員からも御説明いたしました、いわゆる間接侵略ということに収れんする例のみと申し上げてよろしいと思います。
 むしろ、本日委員より御指摘いただきましたニカラグアの判決、それから侵略の定義、それから侵略の定義について日本から提出した修正案、さらには友好関係原則、これらのものはいずれも、本委員会で御審議をいただいている米軍の行動に対する自衛隊の通常の兵たん活動、兵たん支援、こういうものは実力の行使という範疇の中には全く入ってこないということをこれらの文書が示しているのではないかというふうに考えます。

○小池晃君 では、お聞きしますが、国連憲章二条四項の武力の行使というのは実力の行使だと。実力の行使と戦闘行為とどう違うんですか。

○政府委員(東郷和彦君) 先ほど来申し上げましたように、国連憲章二条四項における武力の行使、これを明文上定義しているものはないわけでございます。
 したがいまして、武力の行使、実力の行使、戦闘行為、こういうものを国際法上どういうふうに仕分けするのかということは、確たる説明というものは申し上げにくいのでございますが、要するに武力を実際に行使する、これをもって実力の行使と言い、これをもって戦闘活動と言うというふうに概略御理解いただいてよろしいと思います。

○小池晃君 もう全然だめです。あんなので条約局長なんて大変ですよ。じゃ武力と実力、どう違うんですか。フォースとアームドフォースでしょう。全然違わないんです。同じことでしょう。武力の行使、実力の行使の中に何で兵たん活動が入らないんですか。実力の行使と言ったらばそれは兵たん活動も含む、当然のことじゃないですか。もう話になりませんよ。
 国際的には武力の行使というのは、これは戦闘行為に限定などされていないんです。武力の行使、実力の行使というのは言葉のすりかえをやっただけです。何の説明にもなっていません。国際的には武力の行使というのは戦闘行為に限定していない。さまざまな活動が入るんです。もちろん、すべて入るとは言いませんよ。民間企業が業務で協力したらば、その企業が武力行使した、そういうふうには言えないかもしれない。しかし、軍隊がその任務として紛争当事国の合意なしに行う活動、これは国際法の世界では明らかに武力の行使なんですよ。兵たん活動が武力の行使の一部である、こんなことは軍事的な常識です。
 その上でお聞きをしたいんですが、日本の政府というのは、日本国憲法九条で禁止をされている武力の行使、これをどう定義されておりますか。

○政府委員(大森政輔君) 憲法第九条第一項に規定をしております武力の行使の意味でございますが、これはいろいろなところで御説明いたしておりますが、文書の形で提示いたしたものといたしましては、平成三年九月二十七日のいわゆる衆議院平和協力特別委員会に出しました「武器の使用と武力の行使の関係について」と題する書面の中で、「我が国の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為」というふうに説明しております。

○小池晃君 今までの議論から言えるのは、日本の政府が言う武力の行使の範囲、これはもう明確なんですよ。戦闘行為だというふうにおっしゃっているんです。要するに、人を殺傷したり物を壊したりすることが、これが戦闘行為であり、これが武力の行使である。これが日本政府の統一見解です。
 一方、国際的な、国際法の世界での武力の行使というのは決して戦闘行為などに限定されていないわけです。どこまで含むかという定説がない、これは確かだけれども、戦闘行為に限定するなどということはいまだかつて一度も国際社会の場で認定されたことはないわけです。
 違うではないですか。日本政府が考える、日本政府の言う武力行使の範囲と世界の言う武力行使の範囲が違うじゃないですか。これはどうなっているんですか。

○政府委員(大森政輔君) 先ほど武力の行使をどのように定義しているかというお尋ねでございましたので「我が国の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為」、このように説明いたしたわけでございますが、ただ、我が政府も、憲法九条の意味する武力の行使は、今述べたような形式的意味における戦闘行為だけに限られるものではないということは述べてきているわけでございます。
 それがいわゆる一体化論でございまして、従来から補給、輸送協力等それ自体は直接武力の行使等に該当しない活動を我が国が行うことにつきまして、他国による武力の行使等と一体となるような行動としてこれを行う場合には、やはり憲法九条との関係で許されない行為に該当するというふうに答えてきているわけでございます。
 先ほどから委員は、武力の行使は戦闘行為に、行動に限られるものじゃないということ、そして他の諸形態があり得るんだ、特に兵たん支援の一部もこれに含まれるのは国際法上は常識であるということをるる御主張になっているわけでございます。それと全く同感ではございませんが、我が憲法の解釈といたしましても、それ自体は戦闘行為に当たらないものでも、他国の武力の行使と一体化する関係にある行為は我が国も武力の行使をしていると法的に評価されざるを得ない関係上、憲法九条の禁止する武力の行使に当たるとして許されないというふうに解してきているところでございまして、委員の批判は当たらないのではなかろうかと思う次第でございます。

○小池晃君 今の話は、要するに、我が国は武力の行使というのを戦闘行為に限定を言葉の上ではしているけれども、実態としては一体化した部分もあるから同じだというふうにおっしゃるんですか。だとすれば、武力行使という、まず言葉の問題をはっきりさせましょうよ。武力行使という言葉で意味するものは、国際法で規定されているものと日本国憲法、日本政府が認める武力行使と違うんですね。このことは認めるんですね。

○政府委員(大森政輔君) 武力の行使の定義を具体的な事案に適用して判断した場合に結果が同じになるか異なるかはともかくといたしまして、我が国の憲法第九条に規定している武力の行使という言葉の定義は、先ほど述べたように解しているわけでございます。
 これは何も政府が意図的にあるいは狭く解しているというようなことじゃございませんで、憲法解釈に関する学説等を参考にして、その通説的意見に従って述べている見解でございまして、何らの意図はございません。

○小池晃君 全く答えられません。
 これは武力行使という言葉が明らかに違うんです。国際的な、国際法の世界での武力行使とそして日本の政府が言っている武力行使と、明らかに違うんです。これはどう見てもそうなんです。
 そして、そこに一体化という話が今つけ加わってきているわけですけれども、同じだというような言い方をするけれども、その一体化というのも全然違いますよ。大体、一体化という言葉は、外務大臣おっしゃいましたよね、まさに武力行使と一体というのは我が国憲法の解釈の中で出てきた概念というふうにおっしゃったですね。ということは、これも日本独自のものなんですよ。武力行使の概念も日本独自であれば、それに一体化するかどうかという概念もまた日本独自、日本だけでしか通用しない議論なんです。日本が禁止をしている武力行使も、国際法での武力行使とは言葉の使い方も実際に意味する活動も全然違うんだ。
 私が今まで議論をしてまいりまして本当に痛感いたしますのは、一番最初に憲法九条の問題をやりました。日本は憲法九条を持っている。世界で最も厳しく武力行使を禁止したそういう憲法を持っているのが日本であります。その日本が、世界の常識よりも国際法の定義よりもずっと狭い解釈をしているんだ。
 世界の趨勢はどうでしょうか。不戦条約では第二次大戦勃発を防止できなかった。国連憲章では武力行使の禁止を決めた。そして、先ほど言ったように国連総会の友好関係原則宣言、侵略の定義、武力行使の範囲というのは広げる方向で、できるだけ武力行使をやらせないために広くとらえる方向で世界は進んできているんです。ニカラグア事件判決というのはその一つの到達点なんですよ。
 それなのに、武力行使を厳しく禁じた憲法九条を持つこの日本で、世界の進む方向とは全く逆に、武力行使を狭めることで逆に戦争への道を今広げているんだ、まさに世界の歴史に対する逆行だというふうに私は言わざるを得ない。その点で、この新ガイドライン法案というのは、憲法で明確に禁止した武力行使そのものに道を開く憲法九条廃止法案と言うべきものであるというふうに申し上げたいと思います。
 昨日の沖縄での公聴会でも、沖縄の歴史と実情を踏まえ、本法案に対する切実な声が出されております。この声をぜひ審議に生かすとともに、小沢自由党党首の発言と政府の見解の食い違い、これは憲法にかかわる重大問題ですから、現在理事会で協議が続けられておりますが、政府・与党統一見解を出すよう私も強く求めて、そしてこの法案の廃案を強く求めて質問を終わりといたします。(拍手)

http://www.a-koike.gr.jp/hilight/1998_2000/1999_05_20.html

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その六 「武力紛争法の適用」

 【ジュネーヴ諸条約第一追加議定書】

 第五一条(文民たる住民の保護)
 5 特に、次の攻撃は、無差別とみなす。
 b) 予期される具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、過度に、巻添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷又はこれらの複合した事態を引き起こすことが予測される攻撃

 第五六条(危険な威力を内蔵する工作物及び施設の保護)
 1 危険な威力を内蔵する工作物又は施設、すなわち、ダム、堤防及び原子力発電所は、これらの物が軍事目標である場合にも、その攻撃が危険な威力を放出させ、その結果文民たる住民の間に重大な損失をもたらす場合には、攻
撃の対象としてはならない。これらの工作物又は施設の場所又はその近傍に所在する他の軍事目標は、攻撃がこれらの工作物又は施設から危険な威力を放出させ、その結果文民たる住民に重大な損失をもたらす場合には、攻撃の対象としてはならない。
 2 1に規定する攻撃からの特別の保護は、次の場合にのみ、消滅する。
 a) ダム又は堤防については、それが通常の機能以外の目的でかつ軍事行動に対し恒常的、重要なかつ直接の支援を行うために利用されており、それに対する攻撃が支援を終了させるための唯一の可能な方法である場合
 b) 原子力発電所については、それが軍事行動に対し恒常的、重要なかつ直接の支援を行うために電力を供給しており、それに対する攻撃が支援を終了させるための唯一の可能な方法である場合
 c) 1に規定する工作物又は施設の場所又はその近傍に所在する他の軍事目標については、それが軍事行動に対し恒常的、重要なかつ直接の支援を行うために利用されており、それに対する攻撃が支援を終了させるための唯一の可能な方法である場合
 3 文民たる住民及び個々の文民は、すべての場合において、国際法が与えるすべての保護(次条に規定する予防措置の保護を含む。)を享有する権利を有する。保護が終了し、1に規定する工作物、施設又は軍事目標が攻撃される場合には、危険な威力の放出を避けるために実際的なすべての予防措置をとるものとする。
 4 1に規定する工作物、施設又は軍事目標を復仇の対象とすることは、禁止する。
 5 紛争当事国は、1に規定する工作物又は施設の近傍に軍事目標を設置することを避けるように努める。もつとも、保護される工作物又は施設を攻撃から守ることのみを目的とする施設は、構築することを許されるものとし、攻撃の対象としてはならない。ただし、その施設が、保護される工作物又は施設に対する攻撃に対応するために必要な防衛行動の場合を除くほか、敵対行為において利用されず、かつ、その施設の武装が保護される工作物又は施設に対する敵対行為を撃退することのみのできる兵器に限られていることを条件とする。
 6 締約国及び紛争当事国は、危険な威力を内蔵する物に一層の保護を与えるために相互の間で新たな取極を締結するよう要請される。
 7 紛争当事国は、この条の規定により保護される物の識別を容易にするため、附属書I 第一六条に明記する同一軸上に置かれた3個の鮮やかなオレンジ色の円から成る特別の標識で、その物を表示することができる。表示のないことは、この条の規定に基づく義務を紛争当事国に免除するものではない。

 【ハーグ陸戦法規】

 ハーグ陸戦条約
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
 
 ハーグ陸戦条約とは、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規、陸戦条規とも言われる。
 交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている。現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多いが、最も根源的な戦時国際法として、基本ルールに則って正々堂々と戦争を行うよう規定している。云わば「戦争のルール」で、日露戦争等のごく限られた戦争ではルールに沿って整然と行われていた。
 しかし、スペイン内戦から第二次世界大戦、ゲリラ戦術や途上国の戦闘などで凄惨な戦争が生じ、その精神は破られてしまった。また朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争他に見られるように、一向に遵守される様子はない。 イスラム教圏のゲリラや民兵組織ではハーグ陸戦条約よりもイスラーム戦争法が優先される場合がある。
 日本においては、1911年11月6日批准、1912年1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。

 【傷病兵保護条約】

 衛生兵
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 衛生兵の国際法上の庇護 [編集]

 1929年にジュネーヴで傷病兵保護条約(ジュネーヴ条約)が結ばれ、衛生兵などは国際法規により保護されることとなった。

 戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル「ジュネーヴ」条約

 現代語では以下のような内容となる。

 衛生上の部隊・施設について(第2章)

 衛生部隊及び衛生機関の施設は交戦者によって尊重保護される。(第6条)
衛生部隊及び衛生機関の施設が害敵行為に使用される時は保護を失う。(第7条)
 以下の事実は衛生部隊及び衛生機関の施設が第6条による保護を失う理由と見なされない。(第8条)
 衛生部隊又は衛生施設の人員が武装し、その武器を自己又は傷病者の防衛の為に使用した場合
 武装した衛生兵がいない場合に歩哨又は衛兵によって衛生部隊又は衛生施設を守衛している場合
 傷病者より取り上げたにもかかわらず所轄機関に引渡されていない携帯武器及び弾薬が衛生部隊又は衛生施設内で発見された場合
 獣医機関の人員及び材料が衛生部隊又は衛生施設の一部分を構成しないでその中にある場合
 衛生兵について(第3章)
 以下に従事する人員は、如何なる場合においても尊重かつ保護しなければならず、敵中に陥った場合といえども捕虜として取り扱われることはない。(第9条)
 傷病者の収容・輸送・治療に専ら従事する人員
 衛生部隊及び衛生施設の事務に専ら従事する人員
 軍隊に随伴する宗教要員
 軍人であっても補助看護人・補助担架兵として傷病者の収容・輸送・治療の為に特別な教育を受け、その証明証を携帯する人員が職務遂行中に捕らえられた場合。
 衛生兵は自己又は傷病者の防衛の為の武器以外は所持してはならない。(第8条)

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その七 「武力行使の手段と方法」

 【陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則】

 第二二條 交戰者ハ、害敵手段ノ選択ニ付、無制限ノ權利ヲ有スルモノニ非ス。

 【ジュネーヴ諸条約第一追加議定書】

 第五一条(文民たる住民の保護)
 4 無差別攻撃は、禁止する。無差別攻撃とは、次の攻撃であつて、それぞれの場合に、軍事目
標及び文民又は民用物に区別なしに打撃を与える性質を有するものをいう。
 a) 特定の軍事目標を対象としない攻撃
 b) 特定の軍事目標のみを対象とすることのできない戦闘の方法及び手段を用いる攻撃

 【ダムダム弾禁止宣言】

  ダムダム弾の禁止に関するヘーグ宣言

  締約国ハ、外包硬固ナル弾丸ニシテ其ノ外包中心ノ全部を蓋包セス若シクハソノ外包ニ哉刻シタルモノノ如キ人体内ニ入リテ容易ニ開展シ又ハ扁平ト為ルヘキ弾丸ノ使用ヲ各自ニ禁止ス。

http://www.mahoroba.ne.jp/~felix/Sociosphere/PeaceResearch/Law_of_War.html

•1856年:海上法の要義を確定する宣言(パリ宣言)
•1864年:傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約
•1868年:セント・ピータースブルグ宣言
•1899年:
 陸戦法規慣例条約付属陸戦規約
 空爆禁止宣言
 毒ガス禁止宣言
 ダムダム弾禁止宣言
•1906年:傷病者の状態改善に関する第2回赤十字条約
•1907年:
 開戦に関する条約(ハーグ第3条約)
 陸戦法規慣例条約(ハーグ第4条約)付属陸戦規約
 陸戦中立条約(ハーグ第5条約)
 開戦の際における敵の商船取扱に関する条約(ハーグ第6条約)
 商船を軍艦に変更することに関する条約(ハーグ第7条約)
 自動触発水雷禁止条約(ハーグ第8条約)
 海軍砲撃条約(ハーグ第9条約)
 海戦における捕獲権行使の制限に関する条約(ハーグ第11条約)
 海戦中立条約(ハーグ第13条約)
•1925年:毒ガス等の禁止に関するジュネーブ議定書
•1929年:
 傷病者の状態改善に関する第3回赤十字条約
 捕虜の待遇に関する条約
•1936年:潜水艦の戦闘行為に関する条約
•1949年:
 陸戦傷病者保護条約(ジュネーブ第1条約)
 海戦傷病者保護条約(ジュネーブ第2条約)
 捕虜条約(ジュネーブ第3条約)
 文民条約(ジュネーブ第4条約)
•1954年:ハーグ戦時文化財保護条約
•1977年:
 環境改変技術敵対的使用禁止条約
 ジュネーブ条約第1追加議定書
 ジュネーブ条約第2追加議定書
•1980年:特定通常兵器使用禁止制限条約
•1993年:化学兵器禁止条約
•1997年:対人地雷禁止条約

【対人地雷禁止条約】

 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/mine/genjo.html

 地雷問題・対人地雷禁止条約(オタワ条約)の概要
 2006年1月

 1.地雷問題の現状
 紛争地域を中心に埋設された地雷は、非戦闘員である一般市民に対し無差別な被害を与えるという、人道上極めて重大な問題を引き起こしている。また、そうした地域の紛争終結後の復興と開発にとって大きな障害となっている。
 2.国際社会の取り組み
(1)契機
 1990年代初頭より対人地雷問題に関する国際社会の関心が高まり、ICRCやブトロス・ガーリ国連事務総長(当時)、クリントン米大統領(当時)等がイニシアチブをとって対人地雷問題への取り組みの必要性を訴えた。
(2)特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)改正議定書IIによる規制
 1980年に採択されたCCWの地雷等に関する議定書(議定書II)は、対人地雷が主に使用される内乱には適用されず、また、探知不可能な地雷等を禁止していないなどの問題点を内包していたことから、地雷問題に関する国際的な機運の盛り上がりを受けて、1996年5月、同議定書が改正された。この改正議定書IIは内乱にも適用され、また、探知不可能なもの及び自己破壊装置のないものなど、悪質な対人地雷を原則使用禁止とし、移譲の制限が盛り込まれるなど規制の内容が強化された。2005年12月末現在、日本を含め85カ国が締結している。他方、この改正議定書IIも対人地雷の「生産」、「貯蔵」を禁止はするには至っておらず、また、「使用」や「移譲」の禁止に関しても一定の条件の下の規制となっており、全面禁止とはなっていない。
 3.対人地雷禁止条約(オタワ条約)の経緯・概要
 (1)特定通常兵器使用禁止制限条約基づく部分的な禁止では対人地雷問題の抜本的な解決には至らず、使用、貯蔵、生産、移譲の全面禁止が必要であるとする国際世論を踏まえ、地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL: International Campaign to Ban Landmines)をはじめとするNGOと、対人地雷全面禁止に賛同する諸国の協力により、対人地雷禁止条約への道が開かれた。カナダ政府が1996年10月にオタワで開催した国際会議に端を発する、いわゆるオタワ・プロセスを通じて作成された対人地雷禁止条約(オタワ条約、正式名称は「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」)は、1997年12月のオタワでの署名式において署名のため各国に開放され、1999年3月1日に発効した。
 (2)対人地雷禁止条約は、基本的に対人地雷の使用、貯蔵、生産、移譲等を全面的に禁止し、貯蔵地雷の4年以内の廃棄、埋設地雷の10年以内の除去等を義務付けるとともに、地雷除去、犠牲者支援についての国際協力・援助等を規定している。(条約の規定概要)
 (3)対人地雷禁止条約が発効した1999年以降、締約国会議が毎年開催されている。2004年11月には、条約発効後初の検討会議がナイロビで開催され、対人地雷廃絶に向けた過去5年間の取り組みの成果や課題をまとめた「検討」、残された課題に対する今後5年間の行動の指針たる「行動計画」及び対人地雷廃絶という目標についての政治的コミットメントを示した「ハイレベル宣言」の3つの文書が採択された。

 【陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則 陸戦規則】

 第二五条[防守されない都市の攻撃] 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。
 第二六条[砲撃の通告] 攻撃軍隊ノ指揮官ハ、強襲ノ場合ヲ除クノ外、砲撃ヲ始ムルニ先テ其ノ旨官憲ニ通告スル為、施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘキモノトス。
 第二七条[砲撃の制限] 攻囲及砲撃ヲ為スニ当リテハ、宗教、技芸、学術及慈善ノ用ニ供セラルル建物、歴史上ノ紀念建造物、病院並病者及傷者ノ収容所ハ、同時ニ軍事上ノ目的ニ使用セラレサル限、之ヲシテ成ルヘク損害ヲ免レシムル為、必要ナル一切ノ手段ヲ執ルヘキモノトス。
被囲者ハ、看易キ特別ノ徽章ヲ以テ、右建物又ハ収容所ヲ表示スルノ義務ヲ負フ。右徽章ハ予メ之ヲ攻囲者ニ通告スヘシ。

 【ジュネーヴ諸条約第一追加議定書】

 第五十二条 民用物の一般的保護
 2 攻撃は、厳格に軍事目標に対するものに限定する。軍事目標は、物については、その性質、位置、用途又は使用が軍事活動に効果的に資する物であってその全面的又は部分的な破壊、奪取又は無効化がその時点における状況において明確な軍事的利益をもたらすものに限る。

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国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その八 「武力紛争の犠牲者の保護」

 【戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ關スル千九百二十九年七月二十七日「ジュネーヴ」條約 傷病者条約】

 第一條 軍人及公ニ軍隊ニ附屬スル其ノ他ノ人員ニシテ負傷シ又ハ疾病ニ罹リタルモノハ如何ナル場合ニ於テモ尊重且保護セラルヘシ右ノ軍人及人員ハ國籍ノ如何ヲ問ハス之ヲ自己ノ權内ニ收容シタル交戰者ニ依リ博愛ノ心ヲ以テ待遇セラレ且看護セラルヘシ
 尤モ傷者又ハ病者ヲ敵ニ遺棄スルノ巳ムヲ得サルニ至リタル交戰者ハ軍事上ノ要求ノ許ス限リ其ノ看護ニ寄興スル爲其ノ衛生人員及衛生材料ノ一部ヲ傷者病者ト共ニ遺留スヘシ

 【ジュネーヴ諸条約第一追加議定書】

 第八条 用語
 この議定書の適用上、
 (a)
 「傷者」及び「病者」とは、軍人であるか文民であるかを問わず、外傷、疾病その他の身体的又は精神的な疾患又は障害のために治療又は看護を必要とし、かつ、いかなる敵対行為も差し控える者をいう。これらの者には、産婦、新生児及び直ちに治療又は看護を必要とする者(例えば、虚弱者、妊婦)
であって、いかなる敵対行為も差し控えるものを含む。
 (b)
 「難船者」とは、軍人であるか文民であるかを問わず、自己又は自己を輸送している船舶若しくは航空機が被った危難の結果として海その他の水域において危険にさらされており、かつ、いかなる敵対行為も差し控える者をいう。これらの者は、敵対行為を差し控えている限り、救助の間においても、諸条約又はこの議定書に基づいて他の地位を得るまで引き続き難船者とみなす。
 (c)
 「医療要員」とは、紛争当事者により、専ら
 (e)
 に規定する医療上の目的、医療組織の管理又は医療用
輸送手段の運用若しくは管理のために配属された者をいう。その配属は、常時のものであるか臨時のものであるかを問わない。医療要員には、次の者を含む。
 (i)
 紛争当事者の医療要員(軍人であるか文民であるかを問わない。また、第一条約及び第二条約に規定する衛生要員並びに文民保護組織に配属された医療要員を含む。)
 (ii)
 各国の赤十字社、赤新月社又は赤のライオン及び太陽社及び紛争当事者が正当に認める各国のその他の篤志救済団体の医療要員
 (iii)
 次条2に規定する医療組織又は医療用輸送手段における医療要員
 (d)
 「宗教要員」とは、聖職者等専ら宗教上の任務に従事する軍人又は文民であって次のいずれかに配置されているものをいう。
 (i)
 紛争当事者の軍隊
 (ii)
 紛争当事者の医療組織又は医療用輸送手段
 (iii)
 次条2に規定する医療組織又は医療用輸送手段
 (iv)
 紛争当事者の文民保護組織
 宗教要員の配置は、常時のものであるか臨時のものであるかを問わない。また、宗教要員については、
 (k)
 の規定の関連部分を準用する。
 (e)
 「医療組織」とは、軍のものであるか軍のもの以外のものであるかを問わず、医療上の目的、すなわち、傷者、病者及び難船者の捜索、収容、輸送、診断若しくは治療(応急治療を含む。)又は疾病の予防のために設置された施設その他の組織をいう。これらのものには、例えば、病院その他の類似の組織、輸血施設、予防医療に関する施設及び研究所、医療物資貯蔵庫並びにこれらの組織の医薬品の保管所を含む。医療組織は、固定されたものであるか移動するものであるか、また、常時のものであるか臨時のものであるかを問わない。
 (f)
 「医療上の輸送」とは、諸条約及びこの議定書によって保護される傷者、病者、難船者、医療要員、宗教要員、医療機器又は医療用品の陸路、水路又は空路による輸送をいう。
 (g)
 「医療用輸送手段」とは、軍のものであるか軍のもの以外のものであるか、また、常時のものであるか臨時のものであるかを問わず、専ら医療上の輸送に充てられ、かつ、紛争当事者の権限のある当局の監督の下にある輸送手段をいう。
 (h)
 「医療用車両」とは、陸路による医療用輸送手段をいう。
 (i)
 「医療用船舶及び医療用舟艇」とは、水路による医療用輸送手段をいう。

 (j)
 「医療用航空機」とは、空路による医療用輸送手段をいう。
 (k)
 「常時の医療要員」、「常時の医療組織」及び「常時の医療用輸送手段」とは、期間を限定することなく専ら医療目的に充てられた医療要員、医療組織及び医療用輸送手段をいう。「臨時の医療要員」、「臨時の医療組織」及び「臨時の医療用輸送手段」とは、限られた期間につきその期間を通じて専ら医
療目的に充てられた医療要員、医療組織及び医療用輸送手段をいう。別段の定めがない限り、「医療要員」、「医療組織」及び「医療用輸送手段」には、それぞれ、常時のもの及び臨時のものを含む。
 (l)
 「特殊標章」とは、医療組織、医療用輸送手段、医療要員、医療機器、医療用品、宗教要員、宗教上の器具及び宗教上の用品の保護のために使用される場合における白地に赤十字、赤新月又は赤のライオン及び太陽から成る識別性のある標章をいう。
 (m)
「特殊信号」とは、専ら医療組織又は医療用輸送手段の識別のためにこの議定書の附属書Ⅰ第三章に規定する信号又は通報をいう。

 【ジュネーヴ諸条約第一追加議定書】

 第四十三条 軍隊
 1 紛争当事者の軍隊は、部下の行動について当該紛争当事者に対して責任を負う司令部の下にある組織され及び武装したすべての兵力、集団及び部隊から成る(当該紛争当事者を代表する政府又は当局が敵対する紛争当事者によって承認されているか否かを問わない。)。このような軍隊は、内部規律に関する制度、特に武力紛争の際に適用される国際法の諸規則を遵守させる内部規律に関する制度に従う。
 2 紛争当事者の軍隊の構成員(第三条約第三十三条に規定する衛生要員及び宗教要員を除く。)は、戦闘員であり、すなわち、敵対行為に直接参加する権利を有する。
 3 紛争当事者は、準軍事的な又は武装した法執行機関を自国の軍隊に編入したときは、他の紛争当事者にその旨を通報する。
 第四十四条 戦闘員及び捕虜
 1 前条に規定する戦闘員であって敵対する紛争当事者の権力内に陥ったものは、捕虜とする。
 2 すべての戦闘員は、武力紛争の際に適用される国際法の諸規則を遵守する義務を負うが、これらの諸規則の違反は、3及び4に規定する場合を除くほか、戦闘員である権利又は敵対する紛争当事者の権力内に陥った場合に捕虜となる権利を戦闘員から奪うものではない。
 3 戦闘員は、文民たる住民を敵対行為の影響から保護することを促進するため、攻撃又は攻撃の準備のための軍事行動を行っている間、自己と文民たる住民とを区別する義務を負う。もっとも、武装した戦闘員は、武力紛争において敵対行為の性質のため自己と文民たる住民とを区別することができない状況があると認められるので、当該状況において次に規定する間武器を公然と携行することを条件として、戦闘員としての地位を保持する。
 (a)
 交戦の間
 (b)
 自己が参加する攻撃に先立つ軍事展開中に敵に目撃されている間
 この3に定める条件に合致する行為は、第三十七条1
 (c)
 に規定する背信行為とは認められない。
 4 3中段に定める条件を満たすことなく敵対する紛争当事者の権力内に陥った戦闘員は、捕虜となる権利を失う。もっとも、第三条約及びこの議定書が捕虜に与える保護と同等のものを与えられる。この保護には、当該戦闘員が行った犯罪のため裁判され及び処罰される場合に、第三条約が捕虜に与える保護と同等のものを含む。
 5 攻撃又は攻撃の準備のための軍事行動を行っていない間に敵対する紛争当事者の権力内に陥った戦闘員は、それ以前の活動を理由として戦闘員である権利及び捕虜となる権利を失うことはない。
 6 この条の規定は、いずれかの者が第三条約第四条の規定に基づいて捕虜となる権利を害するものではない。
 7 この条の規定は、紛争当事者の武装し、かつ、制服を着用した正規の部隊に配属された戦闘員について、その者が制服を着用することに関する各国の慣行であって一般に受け入れられているものを変更することを意図するものではない。
 8 第一条約第十三条及び第二条約第十三条に規定する部類に属する者に加え、前条に規定する紛争当事者の軍隊のすべての構成員は、傷者若しくは病者又は海その他の水域における難船者(ただし、難船者については、第二条約に係るもの)である場合には、これらの条約に基づく保護を受ける権利を有する。

 【俘虜の待遇に関する千九百二十九年七月二十七日の条約 捕虜条約】

 【第十二条】
 (被服)被服、下着及靴は捕獲国に依り俘虜に支給せらるべし此等用品の交換及修理は規則的に為さるべし右の外労働者は労働の性質上必要なる場合は何処に於ても労働服を支給せらるべし
 (酒保)各收容所内には酒保を設け俘虜をして地方的市価を支払ひて食料品及日用品を購買し得しむべし
 酒保に依り収容所管理部の收むる利益は俘虜の為に利用せらるべし

 【第十三条】
 (衛生的措置)交戦者は牧容所の清潔及衛生を確保し且伝染病予防の為必要なる一切の衛生的措置を執る義務あるべし
 俘虜は生理的法則に適ひ且常に清潔に保持せられたる設備を日夜供せらるべし
 右の外収容所が出来得る限り設備すべき浴場及灌水浴場の外に俘虜は身体の清潔を保つ為充分なる水を供給せらるべし
 俘虜は運動を為し及外気に当る機会を与へらるべし

 【第十四条】
 (医療)各收容所は医務室を備へ俘虜が其の必要とすることあるべき有らゆる性質の手当を受くることを得べし必要に応じ隔離室は伝染病患者の用に供せらるべし
 治療の費用(補欠用假装置の費用を合む)は捕獲国の負担たるべし
 交戦者は要求ありたるときは治療を受けたる一切の俘虜に対し其の病気の性質及期間並に受けたる手当を示す公の証明書を交付するの義務あるべし
 交戦者は特別協定に依り医師及看護人を收容所内に留め置き之と同国籍の俘虜を介抱せしむるの権利を相互的に有することを得べし
 俘虜にして重病に罹りたる者又は其の病状が重大なる外科手術を必要とする者は捕獲国の費用を以て比等俘虜を治療することを得べき一切の軍用又は民間の病院に收容せらるべし

 【第十五条】
 (健康診断)俘虜の医学的検査は少くも月に一回為さるべし該検査は一般の健康状態及清潔状態の監督並に伝染病特に結核及花柳病疾患の検出を目的とす

 【第十六条】
 (礼拝)俘虜は軍事官憲の定むる秩序及取締に関する規定に服することを唯一の条件として其の宗教の運行に付一切の自由を与へられ其の宗派の礼拝式に参列することを得べし
 俘虜にして或宗派の司教たる者は該宗派の名称如何に狗はらず自由に同宗派に属する者の間に宗教を司ることを許さるべし

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2010.01.24

小林多喜二さんと、その小説『蟹工船』についての記事を集めてみました。

 以下、つぎのページからコピーしました。

 http://www.jcp.or.jp/tokusyu-08/07-kanikosen/01.html

 小林多喜二が1929年に書いた『蟹工船』が今ブームになっています。文庫本は重版を重ね、テレビ・新聞が相次いで特集。海外のメディアにもとりあげられています。

 『蟹工船』は、オホーツクで操業する「蟹工船」で、奴隷のように働かされる労働者が、力をあわせて立ち上がるというお話。派遣労働など、不安定な雇用に苦しむ若者たちのあいだで、共感がひろがっています。 

 小林多喜二(こばやし たきじ)1903~1933。

 作家。日本共産党員。

 小樽高等商業学校時代から投稿作品『藪入』(1923年)などで注目され、『人を殺す犬』(26年)、『酌婦』(同)など不幸なものへの共感をもった短編をへて、27年には小樽港湾争議の応援などをしながら前衛芸術家同盟に加入してプロレタリア文学運動に参加した。

 特高警察の残虐性をえがいた『一九二八年三月十五日』(28年)や、戦前の日本の前近代的な奴隷労働の実態を鮮烈にえがいた『蟹工船』(29年)によって、プロレタリア文学の思想的芸術的水準を国際的に高めた。

 以後『不在地主』(29年)、『工場細胞』(30年)などを発表、31年7月日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)書記長にえらばれ、同年10月日本共産党へ入党、32年3月日本プロレタリア文化連盟(コップ)への弾圧後、治安維持法にもとづく、四度にわたる逮捕・投獄や、伏字・発売禁止など執筆活動への弾圧に抗して、宮本顕治(日本共産党元議長)らとともに活動をつづける。また軍需工場での困難な党活動をえがいた『党生活者』(33年)などを発表。

 33年2月20日、スパイの手引きで逮捕され、その日のうちに特高警察に虐殺された。『小林多喜二全集』(新日本出版社)がある。

1903年 10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村川口(現大館市)の貧しい農家に父末松、セキの二男として生まれる。

1907年 4歳。12月下旬、小樽市に移住。

1916年 13歳。庁立小樽商業学校に入学。パン工場の手伝いをしながら通学。

1919年 16歳。校友会誌『樽商』の編集委員にえらばれる。詩、短歌、小品などを書きはじめる。

1921年 18歳。小樽高等商業学校に入学。

1922年 19歳。高商校友会誌の編集委員になる。「龍介と乞食」が『小説倶楽部』、「兄」が『文章倶楽部』、「健」が『新興文学』に入選した。

1924年 21歳。北海道拓殖銀行に勤める。同人雑誌『クラルテ』を創刊。10月、不幸な境遇にあった田口タキと知る。

1926年 23歳。「人を殺す犬」(『校友会誌27年3月』を書く。

1927年 24歳。社会科学の学習をはじめる。磯野小作争議が最初の労働者との共闘でたたかわれ、磯野側の情報を争議団に提供した。小樽港湾労働者の大争議を応援。8月、労農芸術家連盟に加盟。9月、古川友一が主宰する社会科学研究会に参加。

1928年 25歳。普通選挙法による最初の国会選挙がおこなわれ、労働農民党から立候補した山本懸蔵を応援。日本共産党の前進をおそれた全国いっせい大弾圧―3・15事件後、伊藤信二、風間六三らと全日本無産者芸術連盟(ナップ)小樽支部をつくる。5月中旬、10日間の予定で上京、蔵原惟人らと会う。「防雪林」を未定稿のままにし、「一九二八年三月十五日」を起稿、『戦旗』11、12月号に発表。「東倶知安行」(『改造』30年12月号)を書く。

1929年 26歳。2月、日本プロレタリア作家同盟創立、中央委員にえらばれる。3月、「蟹工船」を完成し、『戦旗』5、6月号に発表。4・16事件が起きる。4月20日、小樽警察に拘引、家宅捜査された。7月、「蟹工船」が土方与志演出「北緯五十度以北」の演題で新築地劇団によって上演された。「不在地主」を『中央公論』11月号に発表。11月、「不在地主」が直接の理由で拓殖銀行を解雇される。

1930年 27歳。2月、「工場細胞」を完成、『改造』4、5、6月号に発表。3月末、小樽から上京し、東京・中野区上町に下宿。5月中旬、『戦旗』防衛巡回講演のため、江口渙、貴司山治、片岡鉄兵、大宅壮一らと京都、大阪、三重をまわり、大阪で日本共産党への財政援助の嫌疑で逮捕。7月、「蟹工船」の件で不敬罪の追起訴をうける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容。

1931年 28歳。1月22日、保釈出獄。3-4月、療養をかねて神奈川県・七沢温泉の福元館に逗留、「オルグ」を執筆。7月、作家同盟第4回臨時大会で中央委員、書記長にえらばれる。同月末、杉並区馬橋に一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟三吾と暮らす。9月、長編「転形期の人々」を起稿。10月、非合法の日本共産党に入党。11月上旬、奈良に志賀直哉を訪ねる。

1932年 29歳。「沼尻村」を『改造』4、5月号に発表。4月上旬、宮本顕治らと地下活動にうつり、文化運動の再建に献身する。6月、文化団体党グループの責任者になる。7月、日本反帝同盟の執行委員になる。8月、「党生活者」執筆。

1933年 1月、「地区の人々」を書き、『改造』3月号に発表。2月20日、正午すぎ、赤坂福吉町で連絡中、今村恒夫とともに築地署特高に逮捕され、同署で警視庁特高らの拷問により午後7時45分殺される。検察当局は死因を心臓まひと発表。解剖を妨害し、22日の通夜、23日の告別式参会者を総検束した。3月15日、労農葬が築地小劇場でおこなわれた。魯迅をはじめ、内外から多数の抗議と弔文がよせられた。3月18日から31日、築地小劇場で新築地劇団により追悼公演「沼尻村」が上演された。「党生活者」が『中央公論』4、5月号に「転換時代」の仮題で発表された。

 2002220日(水)「しんぶん赤旗」 

 戦前の党員作家、小林多喜二はどんな人?

 〈問い〉 戦前の作家で日本共産党員だった小林多喜二はどんな人だったのですか。(群馬・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二は一九〇三年十月、秋田県の農家に生まれました。〇七年、北海道の小樽でパン工場を営んでいた伯父のすすめで、一家は小樽へ移住。多喜二は小樽商業学校、小樽高等商業学校と進学しますが、在学中に文学への傾倒を強め、同人誌の編集や投稿などをしています。卒業した二四年に北海道拓殖銀行に勤めますが仕事のかたわら同人誌を編集発行し創作を続けました。

 当時、多喜二は、創作や生き方に矛盾を感じ、模索を続けていました。二六年、アンリ・バルビュスの反戦文学運動に深い関心を示したり、プロレタリア作家、葉山嘉樹の作品に接し、「作家の態度、意識」「表現様式」に新鮮な驚きを受けるなど、新しい方向を見出しました。このころから科学的社会主義の文献も学びはじめます。

 二七年は農民運動や労働運動が全国的に高揚し、北海道でも磯野小作争議や小樽港湾争議が起こりますが、多喜二はその支援活動にもかかわっています。

 二八年三月、特高警察の大弾圧で小樽でも多数が逮捕され、拷問・虐待をうけました。「一九二八年三月十五日」は綿密な調査をもとにこの事件の本質を描出したものです。雑誌は発売禁止になりますが、組織された配布網を通じて広範囲に読まれ大きな反響を呼びました。

 二九年には、北洋漁業での前近代的な奴隷労働の実態を「蟹工船」で描写。小作農民のたたかいを素材にした「不在地主」で、北海道拓殖銀行の収奪をあばいたことを直接の理由に、退職することになります。

 多喜二は三〇年に上京し、三一年十月、日本共産党に入党。非合法下の困難な活動の中、家族の生計も支えながら「党生活者」など創作も続けましたが、三三年二月二十日、特高警察に逮捕され、その日のうちに東京・築地署で虐殺されました。二十九歳でした。(清)

 〔2002・2・20(水)〕

 2004715()「しんぶん赤旗」

 戦前、多くの不屈の青春があった

 〈問い〉 日本共産党は青年が中心になって創立したと聞きました。どんな状況だったのですか?(東京 一読者)

 〈答え〉 日本共産党は82年前のきょう(7月15日)東京・豊多摩郡渋谷町の民家での会合をつうじ創立されました。創立から一年ほどの間に参加した党員は百人余。創立時、市川正一(30)、国領五一郎(20)、渡辺政之輔(23)、川合義虎(20)、河田賢治(22)、谷口善太郎(23)ら、多くが20代~30代でした。

 当時は、天皇絶対の専制政治で、党は非合法の政党として出発せざるをえませんでした。しかし、党は当初から、天皇専制にかわる主権在民の民主政治をつくるための民主主義革命の旗をかかげ、弾圧をうけながらも「シべリア出兵反対、朝鮮人民の独立闘争支持」「18歳以上のすべての男女に普通選挙権を」と、勇敢にたたかいました。

 中国への本格的な侵略が開始されると、治安維持法・特高警察による弾圧はいよいよはげしく、32年には、党中央委員・上田茂樹(31)=以下いずれも死亡時の年齢=、党中央委員岩田義道(34)らが虐殺され、翌33年2月には党九州地方委員長西田信春(30)、作家・小林多喜二(29)が残虐な拷問をうけ絶命、同月、『日本資本主義発達史講座』の編集でも知られる野呂栄太郎(33)も事実上の拷問死させられます。33年12月には、党中央委員として活動中の宮本顕治(現名誉役員)が逮捕されますが、25歳の若さでした。

 党幹部だけでなく、広島・呉港で現役水兵・兵士の反戦運動を組織した阪口喜一郎(31)、党中央事務局で連絡・印刷などの活動をした伊藤千代子(24)、獄中からちり紙で姉へ「信念をまっとうする上においてはいかなるいばらの道であろうと…」と手紙を書いた田中サガヨ(24)、化粧用コンパクトに「闘争・死」の文字を刻み獄死した飯島喜美(24)、日本共産青年同盟中央機関紙「無産青年」配布網を組織した高島満兎(まと)(24)…。みんな人生はこれからという若さでした。こうした無数の人々、青年たちの不屈のたたかいは、日本共産党の誇りであり、いまの私たちのたたかいをも勇気づけ、励ましてくれるものです。(喜)

 〔2004・7・15(木)〕

 200889()「しんぶん赤旗」

 戦時下の抵抗・反戦運動とは?

 〈問い〉 戦前は国民すべて戦争賛成で、反対はごく一部だったという人がいます。日本共産党をはじめとする抵抗・反戦運動の規模・概要を教えてください。(大阪・一読者)

 〈答え〉 治安維持法によって送検された人びとは、同法の最高刑が死刑に改悪された1928年から終戦の45年までのあいだに7万5千人をこえ、逮捕者は数十万人を数えました。さらに、治安維持法による弾圧と一体になっていた予防拘束や警察への拘留は、数百万人におよび、特高(特別高等警察)などの拷問によって、獄死・病死した人は判明分だけで1682人にのぼります(治安維持法国家賠償同盟の調べ)。

 これらの数字は、そのまま反戦運動の規模を意味しませんが、侵略戦争に反対あるいは批判的な人々が決して少数ではなかったことを示しています。

 戦前、日本共産党以外のすべての政党は侵略戦争に加担しました。治安維持法が死刑法に改悪されるなかで、戦争に反対するのは命がけのことで、科学的世界観と未来への確信がなければできないことでした。後年、鶴見俊輔氏は、こう書きました。

 「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは北斗七星のように、…自分がどのていど時勢に流されたか…を計ることのできる尺度として、…日本の知識人によって用いられてきた」(岩波新書『現代日本の思想』)

 中国への侵略が拡大した27年1月、日本共産党はいち早く「対支非干渉同盟」の結成を訴え、その後も反帝同盟日本支部、「極東平和友の会」準備会、「上海反戦会議支持無産団体協議会」などの中心になり、軍隊内にも党組織をつくり「聳(そび)ゆるマスト」「兵士の友」などを発行して反戦闘争を広げました。党員作家の小林多喜二は「沼尻村」「党生活者」「地区の人々」などの作品で戦争反対のたたかいを描きました。

 35年、日本共産党中央は弾圧で破壊されますが、専制と侵略戦争に反対するたたかいは、獄中でも不屈にたたかわれました。宮本顕治の獄中・法廷闘争は、その重要な記録の一つです。獄外でも、個々の党員、共産主義者のグループは、盧溝橋事件の翌日には各地でビラをまき、反戦をよびかけました。

 天皇制政府は日本共産党に攻撃を集中、次いで、良心的な左翼社会民主主義者や自由主義者にも迫害の手をのばします。これに抗して、戦争に批判の声をあげた人びとも少なくありません。草の根の反戦・抵抗の歴史は今後も発掘し語り継ぐことが求められています。(喜)

 〈参考〉『日本共産党の80年』

 〔2008・8・9(土)〕

 2007128()「しんぶん赤旗」

「蟹工船」は実際にあった話なの?

 〈問い〉 小林多喜二の『蟹工船』を読んで「いまの青年の働かされ方も同じだ」という声がでたそうですが、私も何十年前に読んだ記憶ですが、場面のリアルさが胸に焼き付いています。あの小説はモデルがあったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二の小説『蟹工船』は、1926年(大正15年)に北洋漁業の蟹工船漁業のなかで実際に起きた事件が題材につかわれています。

 蟹工船は、底刺し網でとったカニを加工して缶詰にする、移動缶詰工場のような船です。1920年ごろから始まり、25年ごろから大型船に代わってゆき、26年には12隻、27年には18隻に急増し、乗り組みの漁夫や雑夫(ぞうふ)の数も27年には4000人をこえています。

 蟹工船の労働条件はひどく、監獄部屋制度の奴隷労働が強制されていました。26年には、蟹工船の博愛丸と英航丸での漁夫や雑夫の虐待事件が表面化し、「小樽新聞」や「北洋タイムス」がくわしく報道していました。

 多喜二は、執筆にあたり、函館にあった漁業労働組合の人たちや停船中の蟹工船の漁夫とも直接会い、話を聞き、新聞記事や資料を収集、小樽の海員組合員から航海生活のくわしい聴取をおこなうなど、かなり長期にわたる調査をつづけ、ノート稿を残しています。

 「蟹工船」のはじめの章に、函館を出航してカムチャツカヘ向かう博光丸が、暴風雨にあって沈没する秩父丸の救助信号をうけたのに、監督の命令で見殺しにする場面がありますが、これは実際にあったことです。

 秩父丸は26年4月26日、北千島の幌莚島沖で暴風雨のために座礁し、乗組員170人が遭難しましたが、近くを航行中の英航丸などが救助信号をうけながら救助に向かいませんでした。「小樽新聞」は、「秩父丸の遭難に醜い稼業敵、救助信号を受けながら知らぬ顔の蟹工船」(5月6日号)と、糾弾しています。

 博愛丸や英航丸での虐待事件についても「この世ながらの生地獄」という見出しで、こう書いています。

 「…病のためうんうん唸(うな)っている内田を…旋盤の鉄柱に手足腰を縛(しば)りつけ、胸には『この者仮病につき縄を解くことを禁ず 工場長』とボール紙に書いたものを結びつけ、食物もやらず…加藤と云う雑夫は同じく仮病と見なされ、…ウインチに吊(つ)るされ、空中高く吊るし上られて、船がローリングするためにぶらりぶらりと振り動く度に『あやまった、あやまった、助けてくれ』と悲鳴をあげて泣き叫ぶにも拘(かかわ)らず、鬼畜に等しき監督等は『斯(こ)うして一般の見せしめにするのだ』と快よげに嘲笑(あざわら)い、…一日の間一杯の水一食の飯も与えず虐待し…」

 秩父丸を見殺しにした英航丸でも、虐待に耐えかねて4人が脱走をはかり、監督たちが鉄の蟹かきで半殺しにします。英航丸では、この事件がきっかけに自然発生的なストライキが起きています。小説の船名・博光丸名は、この博愛丸と英航丸からとられています。(喜)

 〈参考〉手塚英孝著作集第2巻「『蟹工船』について」、小林多喜二全集第2巻「解題」

 2008223()「しんぶん赤旗」

 『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫とは?

 〈問い〉 小林多喜二の『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫という人がいると聞きましたがどういう人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二が1921年小樽高商に入学した時、樺太から年長の乗富(のりとみ)道夫が同期生として入学してきます。二人は学内の近代劇研究会に属していました。乗富は多喜二がマルクス主義に興味を持ち始めたころにはすでにマルクス主義の立場をとっており理論的には多喜二をリードしていました。

 乗富は卒業論文に「共産党宣言」の英独語版翻訳を提出し教授会ではそれをめぐって紛糾したといわれています。

 24年、二人は小樽高商を卒業し、多喜二は小樽に残り、乗富は安田銀行函館支店に勤務します。そこで乗富道夫は政治研究会函館支部結成に参加、労農党に入党、労働組合の闘争支援を行い、活動家の資本論学習会のチューターをつとめます。さらには野呂栄太郎の主宰する産業労働調査所の函館支所長として労働者教育や調査活動を進めていました。蟹工船の実態調査などもその一環として進めていました。

 一方、小林多喜二が北洋漁業、とりわけロシア領海近くの蟹工船での漁夫虐待事件やあくどい搾取の実態に関心をもち始めるのは27年です。前年の新聞報道により蟹工船の実態が赤裸に暴露されたことに触発されたからです。銀行の友人たちの協力で新聞の切り抜き作業を行ってもいました。

 当時、多喜二は拓銀で働くかたわら磯野小作争議や港湾労働運動支援を続けていました。そこに函館から応援に来ていたメンバーから函館の安田銀行にいる同期生の乗富道夫が蟹工船に関する詳しい調査を行い、その資料をもっていることが伝えられたのです。こうして多喜二は函館の乗富と3年ぶりに再会し、その協力のもとに蟹工船の実態のより正確な情報、資料を入手できたのです。

 こうして乗富の調査・研究協力が多喜二の『蟹工船』の執筆に大きな役割を果たしたのです。

 『蟹工船』は、雑誌『戦旗』の1929年5、6月号に発表され全国的な反響を呼び起こしました。

 その後、乗富は、労働争議支援のため再三にわたり検挙されます。そのため、銀行を解雇され、特高警察からもマークされ函館での活動の場を奪われ、多喜二と前後して上京します。そして計理士(公認会計士の前身)として生活していきます。活動の状況はよくわかっていませんが、多喜二の虐殺遺体が杉並・馬橋に帰った33年2月21日夜、寺田らとともに枕辺に駆けつけていることからみて、上京後も多喜二との連携を保っていたことは確かです。多喜二の死の数年後、乗富は肺結核で病没しました。(登)

 〈参考〉藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』(学習の友社)

 〔2008・2・23(土)〕

 2008220()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二の盟友、寺田とは?

 〈問い〉 小林多喜二が1928年1月1日の「折々帳」(日記)で「古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである」と書いていますが、寺田とはどういう関係の人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 多喜二の日記に登場する寺田は、青森県出身、小樽高商(現小樽商科大学)で多喜二の2年後輩の寺田行雄のことです。

 寺田は多喜二が卒業し拓銀小樽支店に入社した翌年の1925年、小樽高商社会科学研究会の結成に参加、ついで同年10月、大震災による外国人の騒乱を想定した学内の軍事教練押しつけへの反対運動の中心メンバーとして活動し35日間の停学処分を受けました。

 26年同校卒業後、北海タイムス(現北海道新聞)小樽支局に入社、記者業務のかたわら小樽の労働運動、農民運動とのつながりをつよめ、同年、小樽社会科学研究会(古川友一主宰)に加入して小林多喜二に何度も参加を働きかけます。多喜二は27年9月ごろに小樽社研に参加、ここでの学習を糧にして「断然マルキシズムに進展していった」と28年1月1日の日記で高らかに宣言したのです。

 こうして、多喜二と寺田は小樽の労働・農民運動の前進のために協力しあうようになり、28年2月の第1回普通選挙で労農党から立候補した共産党員山本懸蔵を応援してたたかい、その直後の3月15日の大弾圧に遭遇し、寺田は検挙、拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』に登場する「佐多」は寺田がモデルです。

 寺田は翌29年4月16日の弾圧でも検挙されましたが、多喜二の上京後も小樽に残って活動を続け全協小樽産別組合の組織化や労働新聞配布などにより3度目の検挙を受け札幌刑務所に勾留され、北海タイムス社を解雇されます。

 31年10月執行猶予で出獄しましたが、小樽での活動の場を奪われ、一足先に上京していた家族と合流、杉並・高円寺に移り住みます。隣駅の阿佐ケ谷・馬橋には多喜二一家が住んでおり、こうして2人の活動を家族ぐるみで支えあう関係が小樽から東京へひきつがれたのです。

 多喜二の虐殺遺体が馬橋に帰ったあとの通夜、葬儀は寺田一家が協力して進められました。火葬場まで付き添った寺田の次姉セツさんが多喜二の分骨を分けてもらい供養を続け、戦後、大館の“小林多喜二生誕の地碑”建立のおり散骨したのはこのような事情からでした。

 寺田は多喜二虐殺後も杉並に残り反戦活動に全力をあげ37年の人民戦線事件で4度目の検挙を受けましたが節を曲げずにたたかいました。その後、大阪で旭区の増田きみさんと結婚、43年4月8日、大阪府茨木市外の春日村(現茨木市五日市)の北川療養所で結核のため病没。享年38歳でした。(登)

〈参考〉藤田廣登著『小林多喜二とその盟友たち』学習の友社

 〔2008・2・20(水)〕

 2007315()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」のモデルは?

 〈問い〉 小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」を初めて読みました。多喜二はこの小説をどんな思いで書いたのでしょう。モデルはいたのですか? 

 (東京・一読者)

〈答え〉 1928年(昭和3年)3月15日、天皇制政府は、全国いっせいに約1600人の日本共産党員と支持者を検挙し、野蛮な拷問を加えました。

 「銃後」をかためるために、侵略戦争反対をかかげる日本共産党を暴力で圧殺しようというねらいでした。事件を契機に、特別高等警察の拡充、治安維持法の死刑法への改悪、拷問の日常化と殺人行為への変質など、日本を破滅に導いた暗黒体制が一段と強まりました。

 小樽では、3月15日未明から、一カ月にわたって、200~300人が逮捕、検束、召喚されたといわれます。小樽警察は、所長官舎に拷問室を急造し、毛布で窓をおおい防音し、毎夜一人ずつ、意識不明におちいるまで、拷問をくりかえし、発狂して病院に収容される者も出ていました。この様子は、多喜二にもくわしく伝わっていました。

 多喜二は、『防雪林』の原稿仕上げの作業を中断し5月末「一九二八年三月十五日」に着手しました。このときの気持ちを多喜二は後年、「一九二八年三月十五日」という文の中で次のように回想しています(『小林多喜二全集』第5巻)。

 「…半植民地的な拷問が、如何に残忍極まるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎意をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示をうけたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたゝきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」

 「この作品の後半になると、私は一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。

 そこは警察内の場面だった。書き出してからスラく書けてくると、私はその比類(!)ない内容に対して上ッすべりするような気がし、そこで筆をおくことにした」

 作中人物の腹案になった人びとの氏名については、「我がプロレタリア前衛の闘士に捧ぐ」という献詞のある多喜二のノート稿に、小樽警察の留置場周辺の見取図とともに次のように記されています。

 「龍吉―古川〔友一・市役所職員〕、渡―渡辺〔利右衛門・小樽合同労組組織部長〕、鈴本―鈴木〔源重・同労組執行委員長〕、阪西―大西〔喜一・同労組員〕、斎藤―鮒田〔勝治・同労組書記〕、高橋〔英力・同労組会計係〕、石田―X(理想的な人物に伊藤信二〔行員〕)、佐多―寺田〔行雄・新聞記者〕」

 (〔 〕内は編集注)

 「渡」への壮絶な拷問の描写は、渡辺利右衛門が実際に受けたものです。

 多喜二は虐殺されました。しかし、多喜二の火は私たちの胸に継がれています。(喜)

 〔2007・3・15(木)〕

 2009218()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二が虐殺されたのは なぜ?

 〈問い〉「蟹工船」の作者・小林多喜二は、当時の警察に虐殺されたと知りました。なぜ殺されたのでしょうか。(東京・一読者)

 〈答え〉1933年2月20日の小林多喜二の虐殺はあまりにも有名です。天皇が絶対的な権力を持ち、警察も軍隊もそのもとで横暴を極めた戦前には、天皇制や軍国主義に反対したために逮捕・投獄、虐殺された人はかなりの数にのぼっています。

 23年9月の関東大震災の折には混乱に乗じて初代共産青年同盟委員長・川合義虎や労組活動家・平沢計七ら10人が軍隊の手で殺され、さらに無政府主義者・大杉栄が妻・伊藤野枝、おいとともに虐殺されました。

 25年、普通選挙法(男子のみ)と抱き合わせに、天皇制廃止、侵略戦争反対を掲げる日本共産党をはじめ、革命的労働・農民運動を弾圧する目的で治安維持法が制定されました(28年に死刑・無期刑に改悪)。その違反名目での逮捕者は数十万人にのぼり、司法省調査でも送検者7万5681人、起訴者5162人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも日本共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人といわれています。

 多喜二の虐殺もそういう歴史の文脈のなかでのことです。同時に彼の場合は、逮捕数時間後の激しい拷問によるものでした。それは彼の作品が、治安維持法の適用による大弾圧「三・一五事件」での警察の拷問の実態を暴いた「一九二八年三月十五日」や、労働者搾取の国家構造を描き出した「蟹工船」、農民と労働者の共同闘争を描いた「不在地主」など、戦争突入前夜に、政府の戦争と労働者抑圧政策を鋭くえぐる内容で、しかも読者も多く、国際的にも高く評価され、為政者から特別に憎悪され、恐れられたからです。

 多喜二が作家同盟の中央委員・書記長、プロレタリア文化団体の党グループ責任者など重要な位置にあったことも、「生かしてはおけない」理由だったのでしょう。多喜二の作品は敗戦までは持っているだけで逮捕される国禁の書とされました。(淳)

〔2009・2・18(水)〕

 200634()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二、山本宣治が殺されたわけは?

 〈問い〉 小林多喜二や山本宣治が殺されたのは「3・15事件」における特高警察の拷問を告発したためだと聞きましたが、どういうことですか?(北海道・一読者)

 〈答え〉 1928年3月15日未明、天皇制政府は、内務省、検事局や警察の総力をあげて、日本共産党員、支持者をいっせいに検挙しました。日本共産党が同年2月、「赤旗」(せっき)を創刊し、初の普通選挙で11人を労農党から立候補させ、山本宣治、水谷長三郎の2人の当選をかちとった直後でした。

 弾圧は、反戦平和と主権在民を掲げ国民の前に敢然と姿をあらわした共産党の圧殺が不可欠だったからでした。田中義一内閣はその年の4月、中国侵略をひろげ(第2次山東出兵)、国内では治安維持法を改悪(最高刑を「死刑」に)、特別高等警察(特高)の網を整備し、弾圧体制の強化をはかりました。

 3月15日の弾圧では、党組織の壊滅へ、検挙者にはげしい拷問を加えたことが特徴で、その後は「殺しても上司が引き受ける」という暗黙の了解で、歯止めがなくなり、虐殺も急増しました。

 小林多喜二が住む北海道小樽でも「3・15」からの二カ月間で500人もの人々が検束され、小樽警察は署長官舎に拷問室を急造し毛布で窓をおおって防音し、拷問をくり返しました。これを知った多喜二は、未定稿の「防雪林」の執筆を中断し「一九二八年三月一五日」を一気に書き上げ、野獣化した特高を告発します。

 山本宣治も翌1929年2月8日の帝国議会で追及しました。

 「福津正雄という人間は…、冬の寒空に真裸で四つばいさせられて、…竹刀で殴って『もう』と牛の鳴声をいえといって『もう』といわせ、あるいはその床をなめろといって、床をなめさせた…、静秀雄という被告は…竹刀で繰返し殴られて、もん絶した。ふと、眼がさめてみたら枕許に線香が立ててあった」「鉛筆を指の間にはさみ、あるいは三角型の柱の上に坐らせて、そうしてその膝の上に石を置く。あるいは足をしばって逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流し、そうしてもん絶するまで、うっちゃらかしておく…生爪をはがして苦痛をあたえる、というような実例がいたる所にある」

 政府側はこの事実を「断じて認めることはできませぬ」「これに対して所見を述べる必要はありませぬ」と答弁を拒否。戦後もその態度を変えていません。

 山本代議士は、この追及をした一カ月後、刺殺されました。犯人は右翼団体の一員で捜査にあたった特捜課長と親しい間柄だったことはのちに判明しています。多喜二も5年後の1933年2月20日、築地警察署で特高によって虐殺されます。5日は山宣没後77年です。(喜)

 〔2006・3・4(土)〕

 2005210()「しんぶん赤旗」

 戦争に反対し殺された西田信春って?

 〈問い〉 戦前、小林多喜二と同じころ、特高に殺された西田信春という青年がいたと聞きました。どんな人ですか?(北海道・一読者)

 〈答え〉 60年前の戦前の時代、戦争反対や主権在民を言うことは、大変、勇気がいることでした。天皇制政府は「特別高等警察」(特高)という専門の警察網を敷き、戦争反対の先頭に立った日本共産党員らを残酷に迫害しました。命を落とした人は判明分だけで1690人前後にのぼります。

 小林多喜二が死んだ9日前の1933年2月11日、特高に殺された西田信春(のぶはる)も反戦平和のために生涯をささげた一人です。

 西田は1903年、北海道・新十津川村に生まれ、東大在学中に社会科学研究会に参加、卒業後、全日本鉄道従業員組合本部書記になり、27年、日本共産党に入党。32年、党再建のために九州に行き、九州地方委員会を確立し委員長になります。翌33年2月11日「九州地方空前の共産党大検挙」(検挙者508人)と報じられた弾圧の前日、検挙され、福岡署で殺されました。30歳の若さでした。これが判明したのは戦後になってからで、57年4月16日付「アカハタ」は「二十数年ぶりに判る―故西田信春氏虐殺当時の模様」を掲載。一緒に活動した佐伯新一氏の「細かい思いやりのある同志だった」との回想が記事中にあります。

 当時、九大医学部助手だった石橋無事氏は、氏名不詳の男の鑑定書を書いた思い出を次のように記しています。

 「それが東大新人会の共産党員西田信春の屍(しかばね)だったことは、ずっと後で知りました。…ひどい拷問をうけても黙秘をつづけ、しまいに、足を持って階段を上から下まで逆さに引きおろされ、それを四、五回くりかえされたら死んでしまった。それが夜中の午前一時ごろなのに、ぼくたちがよばれて行ったのは十五、六時間もたった午後四時ごろです」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の機関紙「不屈」81年3月号)

 身をていして平和と民主主義の世の中をめざした思いを引き継ごうと、90年に郷里の新十津川町に「西田信春碑」が作られ、毎年2月11日、碑前祭が開かれています。

 (喜)

 〔2005・2・10(木)〕

 2003220()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二を虐殺した「特高警察」とは?

 〈問い〉 小林多喜二の虐殺などにかかわった「特高警察」とはどんな組織ですか。(大阪・一読者)

 〈答え〉 「特高警察」とは特別高等警察の略称で、戦前の天皇制警察のなかで、日本共産党などの弾圧を専門の任務とした組織です。

 天皇制警察はもともと、国民の政治活動を監視・弾圧する部門を「高等警察」と呼んで重視してきました。しかし二十世紀になると、日本でも社会主義運動や労働運動が広がり始めたため、警察は従来からある「高等警察」の機構を強化し、社会主義者などの弾圧を専門とする「特別高等警察」の組織をつくりはじめます。一九一一年、警視庁内の高等課から分離して新設された「特別高等課」は、このようにして生まれた特高警察組織の最初の現れとされています。

 二二年に日本共産党が創設されると、特高警察の組織強化が加速され、二八年七月までに全国の道府県に特別高等課が設置されました。内務省の警保局保安課が頂点となり、地方の警察署におかれた特高係などを通じて全国にスパイなどの情報網をはりめぐらせました。

 天皇制政府は一九二五年に制定された治安維持法などを適用し特高警察による日本共産党への無法な弾圧を続けました。容疑者を逮捕して拷問を加え、裏切りやスパイを強要し、多くの党員・支持者を虐殺しました。日本共産党員で作家の小林多喜二も犠牲者の一人で、三三年二月二十日に逮捕され、東京・築地署で七時間後に絶命しています。

 特高警察は侵略戦争の拡大と呼応し、“自由主義思想も共産主義の「温床」になる”“天皇中心の「国体」とあいいれない「邪宗」を取り締まる”などの口実で共産党と無関係な団体や個人、宗教団体なども弾圧し、国民の疑問や反戦・厭戦(えんせん)感情などを封じて、戦争体制の一翼を担いました。終戦後の四五年十月、GHQ(連合国総司令部)の指令によって廃止されました。

 (清)

 〔2003・2・20(木)〕

 2006315()「しんぶん赤旗」

 戦前も拷問は禁止されていたのでは?

 〈問い〉 「3月15日事件」後、特高の拷問虐殺がひどくなったそうですが、拷問は戦前の法律でも禁止されていたのでは? 戦前戦後の国会は多喜二の虐殺などにどう対応したのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 拷問を認めた制度は、徳川時代の幕府法令による「拷問法」を手直ししただけで、明治政府になってからもつづいていました。近代国家の警察として自白絶対必要主義を証拠主義に改め、拷問を禁止したのは1879年10月でした(太政官布告「拷問無用、右に関する法令は総て削除」)。この太政官布告と刑法による拷問の禁止は、法律的には敗戦後まで存続していました。

 しかし実際には、拷問は、日常茶飯事におこなわれていました。とくに1928年3月15日の共産党弾圧の後は、拷問の目的が自白強要だけでなく、小林多喜二や岩田義道のときのように、虐殺を目的にした行為に変質しました。戦前、特高の拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194人、獄中で病死した人は1503人にのぼります(治安維持法国家賠償要求同盟調べ)。

 拷問・虐殺は、多くの記録や写真、証言で明白になっているのに警察・検察、裁判所、それに報道機関もグルになってその事実を握りつぶしました。〔35年4月5日、京都・西陣署での鰐淵清寅(21歳)の虐殺で警部補が「特別公務員暴行致死罪」で懲役2年(執行猶予2年)の判決をうけた。拷問虐殺をした人物が起訴され、有罪の判決をうけた例は戦前はこの一件だけとみられる〕

 特高警察は、多喜二虐殺のときは死因を科学的に追及されることを恐れ、遺体解剖を妨害し、岩田義道のときは、殺人罪で告訴した父母を検事局が脅かして告訴を取り下げさせています。

 国会では、戦前1929年2月8日に山本宣治代議士が、戦後76年1月30日に不破書記局長がそれぞれ政府を追及していますが、国民周知の拷問の事実を認めず、「承知していない」「答弁いたしたくない」(戦前は秋田内務次官、戦後は稲葉法相)とまったく同じ答弁をしています。

 戦後、日本国憲法は第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と明記しました。これは戦争の惨禍につながった野蛮な弾圧を、ふたたび繰り返すまいという決意がこもったものです。しかし、戦後も特高的体質は引きつがれ、代用監獄が残り、自白強要のための拷問(不眠・絶食・殴打・長時間取り調べ等)例が多く知られています。

 この問題は、靖国問題と並び戦前をきちんと決着していない恥部ともいえるものです。(喜)

〔2006・3・15(水)〕

 2002213()「しんぶん赤旗」

 治安維持法とはどんな法律だったか?

 〈問い〉 テレビで戦前、治安維持法という法律があったと聞きましたが、どんな法律なのですか。(千葉・一読者)

 〈答え〉 治安維持法は創立まもない日本共産党などを標的に、一九二五年に天皇制政府が制定した弾圧法です。「国体を変革」「私有財産制度を否認」することを目的とする結社の組織・加入・扇動・財政援助を罰するとしました。「国体」とは天皇が絶対的な権力をもつ戦前の政治体制で、「私有財産制度を否認」とは社会主義的な思想や運動をねじまげて描いた政府の表現です。

 この法律は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、前例のないものでした。そのうえ二八年には大改悪が加えられました。

 まず、最高刑が懲役十年だったのを、国体変革目的の行為に対しては死刑・無期懲役を加え天皇制批判には極刑でのぞむ姿勢をあらわにしました。

 また「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。

 さらに四一年には、刑期終了後も拘禁できる予防拘禁制度などの改悪が加えられました。

 治安維持法の運用では、明治期制定の警察犯処罰令など、一連の治安法規も一体的に利用し現場では令状なしの捜索や取り調べ中の拷問・虐待が日常的に横行しました。

 日本共産党は二八年三月十五日や二九年四月十六日の大弾圧など、治安維持法による、しつような弾圧を受け、拷問で虐殺された作家の小林多喜二や党中央委員の岩田義道をはじめ、獄死者、出獄直後の死亡者など、多くの犠牲者を出しています。

 政府発表は治安維持法の送検者七万五千六百八十一人、起訴五千百六十二人ですが、一連の治安法規も含めた逮捕者は数十万人、拷問・虐待による多数の死者が出ました。(清)

 〔2002・2・13(水)〕

 2007217()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったの?

 〈問い〉 小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったのですか?(岡山・一読者)

 〈答え〉 1933年(昭和8年)2月20日、岩田義道が虐殺されてから3カ月後、プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、詩人の今村恒夫とともに東京・赤坂福吉町の街頭で検挙され、わずか7時間後に築地署で虐殺されました。

 虐殺については、築地署の留置場にいて目撃した人や、遺体を見た人たちの多くの証言があり、作家・手塚英孝が『小林多喜二』に詳細に記録しています。拷問の凄惨(せいさん)さは、安田徳太郎医学博士とともに遺体を検査した作家・江口渙が「作家小林多喜二の死」にリアルに描写しています。

 「…首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。よほどの力で締められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも、無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にもやはり縄の跡が円くくいこんで血がにじんでいる。だが、こんなものは、からだの他の部分とくらべるとたいしたものではなかった。さらに、帯をとき、着物をひろげ、ズボンの下をぬがせたとき、小林の最大最悪の死因を発見した私たちは、思わず『わっ』と声をだして、いっせいに顔をそむけた…」

 小説「蟹工船」や「一九二八年三月十五日」の作者であり、都新聞(東京新間の前身)の連載小説「新女性気質」の作者としても有名だった小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道しました。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけでした。そればかりか、特高は、東大・慶応、慈恵医大に圧力をかけ、遺体解剖を拒絶させ、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束しました。

 時事新報記者・笹本寅が、検事局へ電話をかけて、「検事局は、たんなる病死か、それとも怪死か」と問い合わせると、「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の一人が大喝して電話を切ったという事実も書き残されています。

 戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています。(喜)

 〔2007・2・17(土)〕

 2006817()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二らを虐殺した特高に勲章 本当ですか?

 〈問い〉 小林多喜二らを虐殺した特高に勲章、銀杯が贈られたと聞きました。信じられません。本当ですか?(鹿児島・一読者)

 〈答え〉 日本の政治のゆがみの根本には、過去の侵略戦争を正当化する異常さがあります。靖国問題とともに、その異常さを象徴するひとつに、戦前、天皇制支配の中枢にいて多くの共産主義者、反戦活動家を虐殺した直接の責任者=内務官僚と特高(特別高等警察)たちが、戦後も今日まで、なんら罪に問われることなくきているという問題があります。

 日独防共協定が締結された2日後の1936年11月27日、協定締結を祝うかのように、日本共産党の弾圧の先頭に立った内務・特高および司法官僚48人に昭和天皇から勲章と杯が下賜されました。

 「日本共産党ノ検挙ニ当リ日夜不断ノ努カト幾多ノ犠牲トヲ払ヒ漸(ようや)同党幹部以下ヲ潰滅(かいめつ)セシメ国家治安維持上特ニ功績アリタル者ト認メラルル」(内務大臣より天皇への上奏文、「公文雑纂(ざっさん)」昭和11年・巻15の2、国立公文書館所蔵)という“功績”によってです。

 新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と大きく報じ、賞勲局は「異例の叙勲である」と談話をだしました。

 このときの叙勲には、纐纈(こうけつ)弥三、毛利基、浦川秀吉、山県為三らの警視庁特高課の主要メンバーが、銀杯組には友部泉三、安倍源基、富田健治らの警保局保安課長や警視庁特高部・課長経験者と、中川成夫、榎本三郎、須田勇らの警視庁の第一線の特高警察官、北海道や大阪など地方で弾圧の先頭に立った特高警察官がふくまれています。

 多喜二虐殺時の主犯格は安倍警視庁特高部長、配下で虐殺に直接手を下したのが毛利特高課長、中川、山県両警部らです。

 安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されますが、占領政策の転換で釈放され、自民党政治の陰の存在として生きのびました。毛利は、終戦直後に埼玉県警察部長を退職しますが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえうけています。中川も戦後、東京北区教育委員長になっています。

 64年秋から生存者叙勲が始まりますが、公職追放解除後に衆議院議員になった纐纈(元警視庁特高課長)が勲二等瑞宝章をうけたのをはじめ多くの特高官僚が戦後叙勲を受けています。

 戦前、特高による拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕者は数十万人におよびます。これらの被害者に対する補償、謝罪、責任を政府はいまもほおかぶりしたままです。(喜)

 〈参考〉『告発・戦後の特高官僚』(柳河瀬精著、日本機関紙出版センター)、『北の特高警察』(荻野富士夫著、新日本出版社)

〔2006・8・17(木)〕

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東京のTHのTKさんへ 僕が書いた憲法第九条の記事です。

 東京のTHのTKさんへ。コメントをいただいてありがとうございました。
 僕が書いた憲法第九条の記事、探してみるとほかにもありました。
 目をとおしていただければ幸いです。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2005/04/post_8392.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/01/post_fa96.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/04/post_4bd8.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/10/post-bcf3.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/10/post-d3bf.html

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2009/02/post-74f0.html

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高知市 生まれて三カ月で亡くなった長男・一志(かずし)へ。

     生まれて三カ月で亡くなった長男・一志(かずし)へ。

 ふと気がつくと、 真夜中の三時です。
 ふいに、あなた、長男・一志(かずし)のことを思い出してしまいました。
 実は、「しまった」と思いました。
 「耐えられるだろうか」と。

 君は、すっごい男前で、貴公子のようでした。
 こんな素敵な子どもが、僕たちの子どもだろうかと、びっくりするほどでした。
 でも、生まれてから三カ月生きただけで、突然、亡くなりました。

 高知市のA病院の病室で、彼の包帯だらけの遺体に向かい合ったときの衝撃を思い起こしています。
 妻が、その日の昼間に、この病院に彼を連れていったときは軽い風邪だという診断でした。
 それが、数時間後に帰らぬ人となったのです。
 「なんなんだ。お前の診断は」
 医学、医師というものの、情けなさを、胸を刺されるほど感じました。

 それから、僕は、「赤ちゃん拒否症」になりました。
 テレビのシーエムで赤ちゃんが出てくると、すぐにチャンネルを変えました。
 僕の心は、それから何年かは死んでいました。

 誠実だったつもりですが、どこか投げやりだった、その後の僕の人生は、あの事件のせいかもしれませんね。

 六十二歳のいまも、君の死のことについては、直視できません。
 思い出すと、つらくて、つらくて、自分が、どっかに消え去ってしまう感じなのです。
 生きていれば、彼も、もう中年です。
 僕と二人で、酒を飲みながら、人生の喜びとか悲しみとかについて語り合っていたかもしれません。父親湯に似て、君も、きっと理屈っぽい男だろうからね。

 この文章、あふれでる涙を、自分の服のそでで吹きながら書いています。
 ごめんよ、一志。
 二十歳前半だったお父さんは、もう六十二にもなったけど、まだまだ、やりたいことがいっぱいで、しばらくは、お前の所には行けないんだよ。

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戸田郁子さんの『ハングルの愉快な迷宮』(講談社。2009年12月20日)。

 戸田郁子さんの『ハングルの愉快な迷宮』(講談社。2009年12月20日)をいただきました。

 いま、ちょっと体調が悪いのと、期末試験中なので、机の上に飾ったままです。すみません。

 ハングルは落第坊主です。

 でも、四月から、また勉強しようと思っています。

 この本をしっかり読んで、次に進んでいきたいと思っています。

 いま、ちょっと体調が悪いのと、期末試験中なので、机の上に飾ったままです。すみません。

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高知新聞のホームページの「音声ブライダーご使用の方へ」という項目。

 高知新聞のホームページ(http://www.kochinews.co.jp/)に「音声ブライダーご使用の方へ」という項目があります。

 開いてみると「音声読み取りソフトに対応した高知新聞のホームページ」でした。

 「これから、高知の新着ニュースを5件、読み上げます。」とあり、つぎの項目が掲載されていました。

 ラブコメ大賞表彰式 (16:30)

 交通観光案内板で観光PR (16:21)

 高知県和太鼓コンに290人 (09:00)

 エコ認証カツオ販売始まる (08:25)

 龍馬さんへ一筆啓上 思いつづった手紙募集 (08:23)

 【過疎法延長】地域自立につなげてこそ (08:06)

 小社会 (08:04)

 1、きょうのこよみ

 2、高知新聞投書欄声ひろば

 

 「高知新聞投書欄声ひろば」をクリックしました。

 「あっ、本日付の北村光寿(みつとし)さんの投書も載っている」

 うーん、すごいですね。

 高知新聞は、いいサービスをしていますね。

 以下、そこに載っていた北村さんの投書です。

  2010年1月24日日曜日

 3、学べる環境に感謝

 私は昨年4月に高知短期大学に入学しました。全国を探しても珍しい、働きながらでも学べる夜間の学校です。

 昨年3月までは県立盲学校で学んでいました。高校1年の時に事故に遭い、重度の重複障害がある自分が学んでいけるだろうか、という不安がありました。盲学校ではクラスメートが1人もいないのは私の学年だけ。授業は私1人に対して先生が1人付く恵まれた環境だったので、進路には不安がありました。

 大学進学を盲学校在籍中に決められず、京都府立盲学校にある大学進学のための1年間のコースも不合格でした。その時点で3月の半ばになっていて「今年はもう進学は無理だろうな」と思い始めた時に、高知短大の入試ならまだ受けさせてくれることを知りました。

 学校としては設備などの改修をしないといけないし、大変になることが分かっています。それなのに私を受け入れてくれた高知短大は、困っている時は自分にも優しく手を差し伸べてくれる学生が多く、先生方もみんな親切で丁寧に教えてくださるすばらしい学校でした。

 私は今はっきりと「4年制大学に本年度行かなくてよかったな」と思っています。今は2回生のおじさんにノートをメールで送ってもらっています。4年制大学へ編入しても自分の力で学んでいけるようになる、それが今の目標です。

 【北村光寿=29歳、学生、高知市】

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一八五九年のソルフェリーノの戦いについて書いているページ。

 一八五九年のソルフェリーノの戦いについて知りたくてネットを検索したら、このなページがありました。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/so/solf.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/nagamatsu/kenkyukai/s-sekijuji/sirou/dhunen/data/04.htm

http://www.edu.city.kyoto.jp/sogokyoiku/kenkyukai/s-sekijuji/sirou/dhunen/data/09.htm

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沖縄県名護市の市長選 。「美(ちゅ)ら海に基地はいらない」の新人の稲嶺ススム候補が当選確実。

 沖縄県名護市の市長選。新人の稲嶺ススム候補が当選確実。

 二十二時七分、時事通信の速報が携帯電話に入りました。

 同候補は、日本共産党、民主党、社民党、社会大衆党などが推薦。「美(ちゅ)ら海に基地はいらない」と訴えていました。

 自民党、公明党の支持する現職候補との一騎打ちでした。

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2010.01.26

やっほー。「声 ひろば」が僕の声をすくい取ってくれました。ありがとう。

 1月25日(月曜日)の高知新聞「声 ひろば」に僕の投書が載りました。
 僕の声をすくい取ってくれました。ありがとう。

  意見募集に物言い

  藤原義一=62歳、学生、高知市大津乙

 1月14日に、高知県庁のホームページに「きょうから2月12日まで、この『県立大学改革にかかる永国寺キャンパス検討会報告書(案)』についての意見書を公募します」ということが出たといいます。
 後日、人から教えられるまで知りませんでした。報告書(案)は県内10カ所で閲覧できますが、持ち帰るためには有料でコピーする必要があります。
 この検討会は、知事が委嘱した人々で構成されています。何度か検討会を傍聴しましたが、運営の仕方に疑問を持ちました。
 この問題について「県民の意見を聞く場」を持つことを決めていたのに、いつの間にか立ち消えになる。新しい社会科学系学部の内容については、一度、検討会でまとまっていたが、次の検討会の冒頭に県当局が別の案を出す。県立高知短期大学の今後については、各委員からは「存続を」との意見が出て「廃止を」などの意見は出ていないのに報告書(案)では、県当局の意見である廃止含みの方向が書き込まれる…。
 故に私には物申したいことがいっぱいあります。公募していることを広く県民に広報し、必要な人には自由に報告書(案)などを持ち帰って検討できるようにすべきです。報告書を県民の意見を反映したものにすべきです。

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高知市 六十六歳の女性のイギリス留学。すごい人が目の前にいました。

 二月二十五日、知り合いの「お姉さん」から、彼女の「六十六歳の挑戦」の話を聞きました。
 高校の英語教師だったそうです。
 そして、定年後の六十六歳のとき、家族を残してイギリスに旅立ちました。
 半年間、語学学校に通いました。
 そして、オックスフォードのカトリック系のカレッジの社会行政学のコースに入学しました(一年間)。
 尼僧が経営している寮に住みました。
 二週間には先生から与えられテーマから選択した小論文の提出が義務づけられていました(提出は月曜日)。
 「うーん、六十六歳でイギリスへ…」。えらい人がいるものです。

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2010.01.28

文部省がつくった中学一年生用の教科書『あたらしい憲法のはなし』の全文を掲載しているページ。

  文部省がつくった中学一年生用の教科書『あたらしい憲法のはなし』の全文を掲載しているページがありました。

 ご紹介します。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

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「一九三二年二月二十四日は、何曜日だったんだろうか?」「水曜日ですよ」。

 「一九三二年二月二十四日は、何曜日だったんだろうか?」
 MAさんが、インターネットで調べてくれました。
 「水曜日ですよ」
 彼女が使ったのは「あの日は何曜日? 10000年カレンダー」。
 すごいサイトです。
 ここにあります。

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/calendar/

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わーっ、僕の県立高知短期大学における授業、受験は、一月二十七日夜九時過ぎに終了しました。

 わーっ、僕の県立高知短期大学における授業、受験は、一月二十七日夜九時過ぎに終了しました。
 実は、その前日夜に、「えーっ、あすで終わるんだ」と気が付き、がく然としました。
 あと三月二十二日の卒業式で、すべてお終いです。
 うーーん。もっといたかったのに……。

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あと、リポートが二つ。いずれも地球環境保全についてです。

 いま、一月二十八日午前一時半です。

 県立高知短期大学の二つの試験を受けたあと、数人の話し合いに参加して、帰宅。そして、ある報道機関からの「これからの日本をどうする」みたいな意見聴取への答えを書き終えました。

 それにしても、後期の十科目の授業、試験、リポートは手ごわかった。

 あと二つリポートを出すと、勉強は、すべてお終い。この二つは、いちおう書きあがってはいますが、じっくりか考え直して仕上げたいと思っています。どちらも、地球環境保全についてのテーマです。

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環境の国際的保護の必要性  オゾン層破壊問題を例に。

 環境問題の特徴は、国境に関係なく世界に拡大する可能性が高いことです。だからこそ、環境問題を地球的規模でとらえ、その解決のために対処する必要があります。

 そのことを国際的に宣言したのが、1972年6月の環境問題についての世界で初めての大規模な政府間会合、国際連合人間環境会議(スウェーデンのストックホルムで開催。113か国が参加)の「人間環境宣言」でした。

 「宣言」は、環境問題を国際社会全体の問題としてとらえ、環境損害を国際社会全体にたいする法益侵害とみなしています。

 「各国は、国連憲章および国際法の原則に従い、自国の資源をその環境政策に基づいて開発する主権を有する。各国はまた、自国の管轄権内または支配下の活動が他国の環境または国家の管轄権の範囲を越えた地域の環境に損害を与えないことを確保する責任を負う。」(原則21)

 「環境の保護と改善に関する国際問題は、国の大小を問わず、平等の立場で、協調的な精神により扱わなければならない。多国間取り決め、2国間取り決めその他の適当な方法による協力は、すべての国の主権と利益に十分な考慮を払いながら、すべての分野における活動から生ずる環境に対する悪影響を効果的に規制し、予防し、軽減し、除去するため不可欠である。」(原則24)

 ここでは、オゾン層破壊問題を例に、環境の国際的保護と、その問題点について考えます。

 【オゾン層の破壊と、その原因】

 これまで私たちが持ってきた地球大気は、そこで生存する生命体について、大変都合のいい環境でした。まず、大気の外側・成層圏(せいそうけん)にオゾンという物質の層があって、これが地球に降り注いでくる紫外線をほとんど吸収してくれます。紫外線は、私たちの体にあたると、体をつくっている分子のつながりを壊します。それを、オゾン層が吸収してくれているから、人間は生存を続けていくことができます。

 大気中のオゾンが減少すると、地表へ降り注ぐ有害な紫外線の量が増加します。皮膚ガンや白内障などの健康被害を発生させるだけでなく、動植物などの生態系への影響が懸念されています。

 地球全体をとりまくオゾン量は1980年代から90年代にかけて大きく減少し、現在も少ない状態が続いています。

 気象庁が札幌、つくば(茨城県)、那覇の3地点でおこなっている観測によると、90年以降、紫外線が増加する傾向が続いています。

 80年代に南極上空のオゾンホールが確認されました。上空の大気中(オゾン層)に含まれるオゾンの量が極端に減少し、オゾン層に穴があいたようになる現象です。南極上空にオゾンホールが出現するのは、8月から12月にかけてで、最も大きくなるのは9月ごろです。

 南極のオゾンホールは、1980年代から90年代半ばにかけて急激に拡大しました。90年代末以降、増大のしかたはゆるやかになっていますが、長期的には過去最大レベルの状況が続いています。

 オゾン層が人工化学物質のフロンガスで破壊される可能性が科学者によって初めて指摘されたのは1974年です。

 フロンを開発したのは、アメリカの冷蔵庫メーカー・フリッジデール社の親会社であったゼネラルモーターズ社です。1928年、フロン12の開発に成功し特許を取得ました。30年から ゼネラルモーターズ社はデュポンと共同でキネティック・ケミカル・カンパニー を設立し、「フレオン」という商標で生産を開始しました。フロンは化学的、熱的に極めて安定であるため、開発当時は「夢の化学物質」としてもてはやされ、世界中で使われるようになっていました。

 【オゾン層保護のための条約、議定書の締結】

 オゾン層破壊問題に対処する条約を結ぶとき、その手がかりになったのは1972年6月の「人間環境宣言」でした。

 1985年3月に、「宣言」の精神で「オゾン層の保護のためのウィーン条約」が締結されました。これは、オゾン層を変化させる活動などを規制するものでした。

 「第2条 一般的義務1 締約国は、この条約及び自国が締約国であり、かつ、効力が生じている議定書に基づき、オゾン層を変化させ又は変化させるおそれのある人の活動の結果として生じ又は生ずるおそれのある悪影響から人の健康及び環境を保護するために適当な措置をとる。」

 2年半後の1987年9月には、「ウィーン条約」にもとづいて具体的なフロン削減目標を定めた「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」が成立しました。「議定書」は、オゾン層の破壊を未然に防止する観点からも対策が必要であること、その対策は科学的知識にもとづくべきであること、開発途上国に配慮すべきであることなどを確認、規制物質をフロン5種類とハロン3種類としました。規制については、1986年を基準年として各国の生産量と消費量の双方を凍結、2.2%削減、3.5%削減と段階的に減らし、2000年までにフロン生産量、消費量をそれぞれ半減するとしました。

 その後、オゾン層破壊が予想外の速さで進んでいることが明らかになって、規制スケジュールの前倒しや規制対象物質の追加がおこなわれてきました。

 1990年6月、第2回締約国会議の場で2000年までの半減を2000年までの全廃に前倒しすることが決定しました。

 1992年11月の第4回締約国会議では、(1)すべてのフロン生産を1995年末までに全廃する(2)フロン代替物質のハイドロクロロフロロカーボン(HCFC)の生産を2019年末までに実質廃止し、2029年までに全廃する(3)フロン、ハイドロクロロフロロカーボンの回収・再利用を促進する

4)消火剤のハロンの全廃時期も従来の2000年から1994年に前倒しする(5)土壌の消毒や作物のくん蒸に広く使われている臭化メチルは1995年までに生産・消費を凍結することを決めました。

 日本では1988年3月、ウィーン条約とモントリオール議定書の国内実施法として「特定物質の規制等によるオゾン層の保護に関する法」(略称、オゾン層保護法)が制定されました。

  「その結果、特定フロンなどは先進国では1996年には全廃され、発展途上国でも2010年での全廃のスケジュールが確定していて、先進国に対し途上国への経済的、技術的協力が求められている。」(「ロジスティクス環境会議」のホームページ)

 【人工化学物質の生産・使用を世界レベルで規制】

 オゾン層の問題は、危機一髪のところで、大災害をまぬがれていますが、結果を考えない人間の経済活動が、地球大気を危機におとしいれることの、最初の大きな経験でした。

 また、フロン規制は、地球環境を守るために人工化学物質の生産・使用を世界レベルで規制する初めての例となりました。

 その成果は徐々に現れているといえますが、一度破壊された地球環境を元にもどすことがいかに困難であるかも示しています。

 「議定書」の第5条には、経済発展には大量のフロンは欠かせないとの理由から開発途上国でのフロン生産禁止措置を10年間遅らせるという規程がありました。このことは、禍根を残しました。

 また、この間の動きとしては、日本企業は、フロンガスによるオゾン層破壊が指摘された1974年からモントリオール議定書が成立する前年の86年までの間に生産を3倍化させた「実績」があります。

 企業の自主性にまかせるやり方では、地球環境を守ることが難しいことを示しています。

 【そして、いま地球温暖化】

 そして、いま、地球環境問題で世界がとりくんでいるのは、地球温暖化問題です。

 これは、地球の大気中の二酸化炭素が増えていることからおこっているといわれます。

 いまの地球大気は生命体と地球が31億年の年月をかけてつくりあげた「生命維持装置」です。この大気の構成は、地上での生物の進化が進み、四百万年前に人類が生まれても、16世紀、17世紀ごろまでは、ほとんど変化することがありませんでした。

 ところが、資本主義が生まれ、18世紀に産業革命がおこってから異変が始まりました。人間社会が消費するエネルギーが急増して、大量の二酸化炭素を大気中に排出するようになり、大気に異変がおこりはじめました。

 18世紀半ばの産業革命のころは、人間が使うエネルギーは石油換算で300万トンほどでした。19世紀には1億トン、20世紀の第二次世界大戦が終わったころには13億トン、いまでは、110億トンないし120、30億トンぐらいになっています。これに応じて、人間社会が吐き出す二酸化炭素の量は増え続けています。

 その結果、数10万年から100万年のあいだ、0.03%以下の水準で動かなかった大気中の二酸化炭素の濃度が、21世紀を迎えて0.04%の水準に急速に近づきだしました。

 その影響は、すでに予想をこえた気象変動となって世界各地に被害を及ぼしています。

 幸いに世界の知恵は、「気候変動に関する国際連合枠組条約」(1994年6月21日)、「気候変動に関する国際連合枠組条約京都議定書」(1997年12月11日)を生み出しました。

 これをどう活用して地球温暖化問題にあたるか。各国の誠実さが問われています。

 【参考文献】

 一、「しんぶん赤旗」の「知りたい聞きたい オゾンホール その後どうなったの?」。2008年7月9日付。

 一、『前衛 2010年1月号』、不破哲三「『マルクスは生きている』①」、日本共産党中央委員会。

 一、「ロジスティクス環境会議」のホームページ。

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「夫婦して 長い風邪から 抜け出して……」。

 夫婦して

 長い風邪から 抜け出して

 家事、書き物が コトコト進む

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2010.01.29

「一九三二年二月から四月の高知県での反戦ビラ配布」の第一原稿、ついに、一気に完成!!!

 本日は休み。 

 午前六時から、昨年十二月から気にかかっていた「一九三二年二月から四月の高知県での反戦ビラ配布」の原稿を一気に仕上げようと挑みました。

 少し昼寝したり、夕方は平和の集会に出たりでしたが、必死にやりました。

 夜がふけてくると「僕ってすごい。天才かも」などと、ときどき声をあげ、みずから励ましながらの作業でした。妻は「テレビドラマに吸い込まれていて」相手にしてくれません。せめて、「そうよ、あなたは天才よ」くらいの掛け声があってほしかったのですが……。

 ついに、「シンデレラ時間」までに書き終えて、ブログに載せました。

 この記事、ごらんください。

 また、これから図書館に通って、よりよいものにしていくことにしています。

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