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2010.01.23

国際紛争の処理を学ぶ 資料集 その二 「非裁判手続」

 【友好関係宣言】

 2007年11月7日(水)「しんぶん赤旗」

 国連の「友好関係宣言」とは?

 〈問い〉 9月21日付の「主張」に、国連が復仇(ふっきゅう)行為を禁止した「友好関係宣言」という言葉がでていました。これは、どんなもので、なぜ、国連がそんな決議をしたのか、を知りたいのですが。(千葉・一読者)
 〈答え〉 「友好関係宣言」は、国連総会が「国際法の一般原則」として1970年10月にコンセンサス(投票なしの全会一致)で採択したものです。国際関係を律する原則として国連憲章に含まれる七つの原則を発展させたもので、(1)武力行使の禁止、(2)紛争の平和的解決、(3)内政不干渉、(4)各国の相互協力、(5)人民の同権と自決、(6)各国の主権平等、(7)国際法上の義務の誠実な履行――の七つを規定しています。
 この宣言が採択された70年ごろには、アジアやアフリカで第2次世界大戦後に独立を果たして国連にあらたに加盟する国が国連加盟国の過半数を大きく超えるようになりました。これらの国は「非同盟諸国運動」に結集して、国際関係のいっそうの民主化を求めました。こうした国際状況を背景にしながら国連創設25周年を記念して、国際法の一般原則の現代的な発展と法典化をめざして採択されたのがこの宣言です。「宣言」は、その後、国連決議や国際司法裁判所判決などの国際文書で国際関係の規範としてひんぱんに引用されるようになり、国際関係を律するもっとも重要な文書の一つとなっています。
 「友好関係宣言」は、武力行使の禁止の一環として、「武力行使をともなう復仇行為」を明文で禁止しています。「復仇」とは、相手国の国際法違反の行為にたいして、その中止や原状回復を求めて実力を行使することで、普通にいう報復のことです。国連憲章はそもそも武力の行使を一般的に禁止していますが、「宣言」は武力による報復を重ねて明確に禁止したわけです。
 2001年10月7日、アメリカは同時多発テロにたいする報復戦争としてアフガニスタン戦争を開始しました。日本共産党はそれに先立って各国首脳に書簡(9月17日付)を出し、その中で、報復戦争は、「いっそうのテロ行為と武力報復の悪循環」をもたらし「事態を泥沼に導く」ことを指摘して、軍事力による報復ではなく、テロ容疑者を国際社会全体の包囲によって追い詰めて「法にもとづく裁き」の支配下に置くことを主張しました。アフガニスタンでの事態のいっそうの泥沼化によって、この指摘の正しさは誰の目にも明らかになっています。(小)
 〔2007・11・7(水)〕

 【紛争の平和的解決に関するマニラ宣言】

 「国際紛争の平和的解決に関するマニラ宣言」(国連総会決議37/10)は、「国家は誠実にかつ協力の精神で、国際紛争の一つの早くかつ衡平な解決を探求しなければならない」(附属書5項)とする。
 「交渉」(negociation; la négociation)とは、当事者が直接の話し合いによって解決のための共通の合意に達することをいう。最も基本的な平和的解決の手段である。それは「誠実な交渉」(negociation of good faith)であると考えられる。これは、単なる形式的な話し合いではなく、合意に到達する目的を持って、どちらかが自分の立場の変更を考えないでそれに固執する場合ではない、有意義な交渉であるとされる(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.47, para.85、皆川『国際法判例集』394頁)。前記「マニラ宣言」も、「直接交渉は当事者の紛争の平和的解決の柔軟で実効的な手段である」(10項)とする。

 http://kjrcup.hohoemi35.com/2009/01/post_23.html

 【国際連合憲章】

 第12条〔安全保障理事会との関係〕
 1 安全保障理事会がこの憲章によって与えられた任務をいずれかの紛争又は事態について遂行している間は、総会は、安全保障理事会が要請しない限り、この紛争又は事態について、いかなる勧告もしてはならない。

 【国際連合憲章】

 第36条〔調整の手続と方法の勧告〕
 1 安全保障理事会は、第33条に掲げる性質の紛争又は同様の性質の事態のいかなる段階においても、適当な調整の手続又は方法を勧告することができる。

 【コルフ海峡事件】

 1946(昭和21)年5月14日 アルバニア本土とコルフ島の間、コルフ海峡を航行中のイギリス巡洋艦「オライオン」と「スパーブ」がアルバニアの沿岸砲台から砲撃を受ける
 5月22日 イギリス政府はアルバニア政府に抗議
 イギリスは国際海峡の無害通航権を、アルバニアは外国軍艦の事前通告及び許可無しの領海通航は許されないと主張
 10月22日 イギリス艦隊(巡洋艦「モーリシャス」、巡洋艦「リアンダー」、駆逐艦「ソマレズ」、駆逐艦「ヴォレージ」がコルフ海峡を航行中、「ソマレズ」が触雷・損傷し、火災発生
 「ヴォレージ」も「ソマレズ」を曳航中に触雷し、艦首を損失
 乗員45名死亡、42名負傷
 「ソマレズ」は廃艦(スクラップ)となり、「ヴォレージ」は新しい艦首を装備
 イギリスはアルバニアに海峡の掃海を通告
 11月12日~11月13日 イギリスはアルバニアの同意を得ずに掃海作業を実施し、敷設された機雷22個を除去
1947(昭和22)年4月9日 安全保障理事会が国際司法裁判所(ICJ)への提訴を勧告
 5月22日 イギリスが国際司法裁判所にアルバニアを提訴
 イギリスは無害通行権が侵犯されたとして損害賠償を請求
 国際司法裁判所に付託された最初の事件
 7月23日 アルバニア政府はイギリスが4月9日の安保理勧告に従っていなかったとする7月2日付の書簡を提出
 12月9日 アルバニアは裁判所にイギリスの提訴を認めないように要請
 裁判所は要請を却下
1948(昭和23)年3月25日 判決(管轄権)
1949(昭和24)年4月9日 判決(本案)
 アルバニアは1946(昭和21)年10月22日のイギリス艦の損傷に対する責任があり、賠償の義務があると認める(賛成11、反対5)
 1946(昭和21)年10月22日のイギリス艦隊の海峡の通航はアルバニアの主権を侵害しない(2対14)が、11月のイギリスの掃海作業は主権を侵害している(賛成満場一致)、と認める
 11月17日 公聴会
 12月15日 判決(本案)
 裁判所はアルバニアを敗訴とし、イギリスへの賠償金84万3947ポンドの支払いを命じた
 アルバニアは支払いを拒否

 http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/ko/corfucha.html

 【国際連合憲章】

 第37条〔付託の義務と勧告〕
 2 安全保障理事会は、紛争の継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞が実際にあると認めるときは、第36条に基く行動をとるか、適当と認める解決条件を勧告するかのいずれかを決定しなければならない。

 【テヘラン大使館事件】

 イランアメリカ大使館人質事件
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 イランアメリカ大使館人質事件とは1979年11月にイランで発生した、アメリカ大使館に対する占拠及び人質事件。
 1979年1月に、フランスのパリに亡命していた反体制派のルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力によるイラン革命が発生し、アメリカをはじめとする欧米諸国からの支援を元に、親欧米化路線を敷いていたパフラヴィー朝国王のモハンマド・レザー・パフラヴィーが政府専用機でエジプトへ亡命し、革命は成功した。
 エジプトに亡命していたパフラヴィー元国王はその後「がんの治療のため」にアメリカへの入国を求め、アメリカ政府は「人道的見地」からその入国を認め国王とその一行はアメリカに入国した。
 アメリカが元国王を受け入れたことに、イスラム法学校の学生らが反発し、11月4日にテヘランにあるアメリカ大使館を占拠し、アメリカ人外交官や警備のために駐留していた海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元国王のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。
 この学生らによる行動は、シーア派の原理主義者が実権を握ったイラン政府が裏でコントロールしていた。なお、人質になった外交官らは大使館の敷地内に軟禁状態に置かれ、行動の自由を奪われただけでなく、占拠当初は学生らから暴力さえ受けることとなった。
 当然これらの行為は「外交関係に関するウィーン条約」による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う」(同22条2)という規定に違反していたため、イラン政府は諸外国からの大きな非難を浴びることとなった。
 しかしイラン政府は大使館の占拠を解くばかりかそれを支援し、これに対してアメリカのジミー・カーター大統領は、1980年4月24日から4月25日にかけて人質を救出しようと「イーグルクロー作戦」を発令し、軍事力により人質の奪還を試みた。
 しかし、作戦開始後に作戦に使用していたRH-53D「シースタリオン」ヘリコプターが故障した上に、ロッキードC-130 輸送機とヘリコプターが接触する事故が起き作戦は失敗した。これにイラン政府も態度を硬化し、事態は長期化する傾向を見せた。
 アメリカ政府は軍事力による人質の解放をあきらめ、元国王をアメリカから出国させるとともに、イスラム諸国などによるイラン政府への説得を試みるが、1980年7月に元国王が死去したことで、学生らによる大使館の占拠の理由が薄れ始める。
 その後アメリカで行われた大統領選挙で、再選を狙ったカーター大統領が共和党のロナルド・レーガンに敗北した。その後イランは仲介国と人質返還でアメリカと合意し、レーガンが就任しカーターが退任する1981年1月20日に、人質は444日ぶりに解放された。

 【国際連合憲章】

 第98条〔事務総長の任務〕
 事務総長は、総会、安全保障理事会、経済社会理事会及び信託統治理事会のすべての会議において事務総長の資格で行動し、且つ、これらの機関から委託される他の任務を遂行する。事務総長は、この機構の事業について総会に年次報告を行う。
 第99条〔平和維持に関する任務〕
事務総長は、国際の平和及び安全の維持を脅威すると認める事項について、安全保障理事会の注意を促すことができる。

 【国際紛争平和的処理条約】

 第九条[任務]
 締約国ハ、名誉又ハ重要ナル利益ニ関係セス、単ニ事実上ノ見解ノ異ナルヨリ生シタル国際紛争ニ関シ、外交上ノ手段ニ依リ妥協ヲ逐クルコト能ハサリシ当事者カ事情ノ許ス限国際審査委員会ヲ設ケ、之ヲ公平誠実ナル審理ニ依リテ事実問題ヲ明ニシ、右紛争ノ解決ヲ容易ニスルノ任ニ当ラシムヲ以テ、有益ニシテ且希望スヘキコトト認ム。

 【ポーツマス条約】

 ポーツマス条約
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 ポーツマス条約は、日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。
 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。
 当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。
 この条約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こした。

  ポーツマス条約概要

 日本の韓国に於ける優越権を認める
 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満洲から撤退する
 ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する
 ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
 ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する
 ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える

 【ドッガー・バンク事件】

 ドッガーバンク事件
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 ドッガーバンク事件(1904年10月21日深夜 - 22日未明)は、ロシア帝国のバルチック艦隊が、日露戦争に際して極東へ向かう途上、北海のドッガーバンクでイギリスの漁民を誤って殺傷した事件である。
 1904年、日本との戦争状態にあったロシアは、海上戦力で日本海軍に対抗するため、バルト海に駐留していたバルチック艦隊を極東へ向かわせることに決定した。10月15日、ロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊はリバーヴァ軍港を出港した。
 日本は世界の海の支配者であるイギリスと同盟関係にあった(日英同盟)。そのためロシアは、日本艦隊が極東までのルート上のどこで奇襲攻撃をかけてくるかわからないと想像した。ロシアは世界各地でエージェントを雇い、日本艦隊の動向を監視させた。だがこれが裏目に出た。エージェントは報奨金目当てに、日本の水雷艇を発見したと世界各地から情報を送ってきたのである。
 デンマーク海峡を抜けて北海へ出たバルチック艦隊は神経過敏に陥っていた。バルト海を出ればイギリスの制海権下である。ロシアの雇ったエージェントはこの海域でも日本の水雷艇が待ち伏せしていると報告していた。日本側が偽情報を流していたとの証言も残る。
  事件の経過
 10月21日夕刻、バルチック艦隊は濃霧の中ドッガーバンク付近を進んでいた。この季節、朝晩の北海は濃霧に覆われることが多かった。工作船「カムチャッカ」が単艦で100キロあまり先行していたが、機関が故障したため遅れを生じ行方不明となっていた。21日午後8時45分、その「カムチャッカ」から旗艦「スワロフ」へ、「われ、水雷艇に追跡されつつあり」との無線通信が送られてきた。
 スワロフ:「何隻どの方向からか」
 カムチャッカ:「四方から」
 スワロフ:「水雷艇は何隻か。詳細を知らせ」
 カムチャッカ:「水雷艇約8隻」
 スワロフ:「距離は」
 カムチャッカ:「1ケーブル」(183メートル)
 「カムチャッカ」は通信を断ち、艦隊は緊張に包まれた。
 22日午前0時過ぎ、突然「戦闘配置につけ」のラッパが鳴り、次いで「水雷艇だ、魚雷攻撃だ」「駆逐艦だ、我々はやられた」という声が聞こえてきた。砲手は恐怖に襲われ暗い海面に向けてやみくもに発砲した。艦橋からは敵らしき多数の灯火が確認され、互いに発光信号を送っているように見えた。数隻の小型汽船が探照灯に照らし出され、うち1隻が戦艦「アレクサンドル3世」へ向けて突進してきたようだった。「アレクサンドル3世」と「スワロフ」は小型汽船に対して砲弾を浴びせかけ、これを撃沈した。
 ロジェストヴェンスキーはようやく何が起こったかを認識し、狂ったように怒鳴り続けた。「よくもこんな馬鹿なことがやれたものだ、よく見ろ、あれは漁船だ。」
 ドッガーバンクでは漁業が盛んで、イギリスのハル港から40から50隻のトロール船が毎日のように出漁していた。漁船は100トン程度で、それぞれ8、9人が乗り込んでいた。漁船団は確かに「にわとり艦隊」と呼ばれていた。だが言うまでもなく非武装の民間船である。
 この日いつものように「にわとり艦隊」がドッガーバンクで操業していると、遠くに軍艦が見え、次いでいきなり発砲してきた。漁民たちは驚き、「私は、自分たちが何者であるか示すために大きなカレイを指し示した。同僚はタラを示した」など努力したが無駄であった。漁船は魚網を切断して逃れようとしたが、運悪くロシア艦隊に接近しすぎた「クレイン」号が激しい攻撃を受けて沈没し、船長と乗員1人の合計2人が死亡した。「マイノ」号でも6人が負傷し、うち1人が半年後に死亡した。
 ロシア艦隊も落ち着きを取り戻した。戦艦「アリョール」は6インチ砲17発ほか砲弾500発を発射していた。「アリョール」から発射された砲弾のうち5発が防護巡洋艦「アウロラ」に命中し、従軍僧が片腕を失う重傷を負って後日死亡したほか数人が負傷した。装甲巡洋艦「ドミートリイ・ドンスコイ」も被害を受けた。
 漁船が半旗を掲げてハル港へ帰港すると群衆が押しかけてきた。さらにまずいことに、バルチック艦隊は犠牲者を救助しようともせず立ち去ってしまった。トラファルガー海戦記念日に発生したこの事件に対してイギリス世論は激高した。群衆はトラファルガー広場に集まり、野蛮人どもに対して断固たる措置を取るよう要求しデモを行った。新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬」と非難し、国王エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件である」と報告書の余白に書き加えた。
 一方で日本の株は上がった。ハル市で死亡した漁師の葬儀が行われた日、時機を失せずに東京市長尾崎行雄から弔電が送られてきた。駐英日本公使の林董は、ドッガーバンクでの事件に日本人はまったく関与していないと公式に声明を出した。
 ドーバー海峡をそ知らぬふりで通過したバルチック艦隊に対して、イギリス海軍は巡洋艦隊を出撃させ、スペインのビーゴ港まで追尾させた。イギリス政府はスペイン政府に対して、バルチック艦隊へ石炭はおろか真水さえも供給するなら中立違反と考えるとの警告を送り、英露間に緊張が走った。
 ビーゴ港において、ロジェストヴェンスキーはバルチック艦隊の行動について、「海面に2隻の水雷艇が存在していたために偶発的に生じた」と説明し、「別の行動を取ることが不可能だったと思われる環境」で生じた犠牲者に対して「衷心から哀悼の意を表する」と謝罪を行った。ともかくイギリスでは一時的な興奮は収まった。
 事件の認定のため、12月にパリで国際審査委員会が開催された。そしてその審査の報告書では、「カムチャッカ」が事件の前にも数隻の外国船に対して発砲していた事実が明かされ、責任の所在や程度がそこで言及された。
 ロシア政府は死亡または負傷した漁民への補償として6万5,000ポンドを支払い、かつ沈没したトロール船の代わりに新しい船を提供することに同意した。
 この事件により、市民レベルで反露・親日の機運が盛んとなり、イギリス本土も植民地も「バルチック艦隊」の入港を拒否。また、イギリスが支配し当時の船の主力燃料である「無煙炭」の補給も拒否した。この無煙炭の補給途絶により、日本海海戦時には数ノット船足が落ちたとされ、これが追撃戦で日本が一方的な戦果を挙げた一因とされている。また、バルチック艦隊の日本海進出時には満足な補給も保養もなく、相当に疲弊しきっていたと思われる。

 【ノックス条約】

 調停(ちょうてい)
  [ 日本大百科全書(小学館) ] .

 国際調停の構想が登場したのは、アメリカの締結した1911年のノックス条約や、13年のブライアン条約が最初であるが、24年ごろから多くの調停条約が結ばれ、28年の国際紛争平和的処理一般議定書のなかでも、調停制度は重要な地位を与えられた。実際に調停に付された紛争は多くはないが、ふたたび調停制度を評価する傾向がみられる。たとえば海洋法条約では、紛争の強制的解決手続と並んで、ある種の紛争については当事国の選択により調停による解決手続を認め、条約法条約では条約の無効や終了に関する紛争については調停委員会に付託するものとされ、また、国際人権規約(B規約)では、人権委員会によって解決されない紛争については特別調停委員会に付託するものとされている。
[ 執筆者:石本泰雄 ]

 【ブライアン条約】

 ブライアン条約
  [ 日本大百科全書(小学館) ] .Bryan Treaties

 1913年、W・J・ブライアンがアメリカ国務長官に就任して以来、外国と締結する条約のなかに、「外交上の調整手段に失敗した時は、常設国際委員会に付託して調査および報告」をなさしめて解決し、武力行使を避ける条項を挿入した。国際紛争の平和的解決手段として、国際審査制度を強調し、武力行使を避けることをうたったことから、この種の条約を「ブライアン条約」とよんでいる。
[ 執筆者:經塚作太郎 ]

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