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2010.01.24

小林多喜二さんと、その小説『蟹工船』についての記事を集めてみました。

 以下、つぎのページからコピーしました。

 http://www.jcp.or.jp/tokusyu-08/07-kanikosen/01.html

 小林多喜二が1929年に書いた『蟹工船』が今ブームになっています。文庫本は重版を重ね、テレビ・新聞が相次いで特集。海外のメディアにもとりあげられています。

 『蟹工船』は、オホーツクで操業する「蟹工船」で、奴隷のように働かされる労働者が、力をあわせて立ち上がるというお話。派遣労働など、不安定な雇用に苦しむ若者たちのあいだで、共感がひろがっています。 

 小林多喜二(こばやし たきじ)1903~1933。

 作家。日本共産党員。

 小樽高等商業学校時代から投稿作品『藪入』(1923年)などで注目され、『人を殺す犬』(26年)、『酌婦』(同)など不幸なものへの共感をもった短編をへて、27年には小樽港湾争議の応援などをしながら前衛芸術家同盟に加入してプロレタリア文学運動に参加した。

 特高警察の残虐性をえがいた『一九二八年三月十五日』(28年)や、戦前の日本の前近代的な奴隷労働の実態を鮮烈にえがいた『蟹工船』(29年)によって、プロレタリア文学の思想的芸術的水準を国際的に高めた。

 以後『不在地主』(29年)、『工場細胞』(30年)などを発表、31年7月日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)書記長にえらばれ、同年10月日本共産党へ入党、32年3月日本プロレタリア文化連盟(コップ)への弾圧後、治安維持法にもとづく、四度にわたる逮捕・投獄や、伏字・発売禁止など執筆活動への弾圧に抗して、宮本顕治(日本共産党元議長)らとともに活動をつづける。また軍需工場での困難な党活動をえがいた『党生活者』(33年)などを発表。

 33年2月20日、スパイの手引きで逮捕され、その日のうちに特高警察に虐殺された。『小林多喜二全集』(新日本出版社)がある。

1903年 10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村川口(現大館市)の貧しい農家に父末松、セキの二男として生まれる。

1907年 4歳。12月下旬、小樽市に移住。

1916年 13歳。庁立小樽商業学校に入学。パン工場の手伝いをしながら通学。

1919年 16歳。校友会誌『樽商』の編集委員にえらばれる。詩、短歌、小品などを書きはじめる。

1921年 18歳。小樽高等商業学校に入学。

1922年 19歳。高商校友会誌の編集委員になる。「龍介と乞食」が『小説倶楽部』、「兄」が『文章倶楽部』、「健」が『新興文学』に入選した。

1924年 21歳。北海道拓殖銀行に勤める。同人雑誌『クラルテ』を創刊。10月、不幸な境遇にあった田口タキと知る。

1926年 23歳。「人を殺す犬」(『校友会誌27年3月』を書く。

1927年 24歳。社会科学の学習をはじめる。磯野小作争議が最初の労働者との共闘でたたかわれ、磯野側の情報を争議団に提供した。小樽港湾労働者の大争議を応援。8月、労農芸術家連盟に加盟。9月、古川友一が主宰する社会科学研究会に参加。

1928年 25歳。普通選挙法による最初の国会選挙がおこなわれ、労働農民党から立候補した山本懸蔵を応援。日本共産党の前進をおそれた全国いっせい大弾圧―3・15事件後、伊藤信二、風間六三らと全日本無産者芸術連盟(ナップ)小樽支部をつくる。5月中旬、10日間の予定で上京、蔵原惟人らと会う。「防雪林」を未定稿のままにし、「一九二八年三月十五日」を起稿、『戦旗』11、12月号に発表。「東倶知安行」(『改造』30年12月号)を書く。

1929年 26歳。2月、日本プロレタリア作家同盟創立、中央委員にえらばれる。3月、「蟹工船」を完成し、『戦旗』5、6月号に発表。4・16事件が起きる。4月20日、小樽警察に拘引、家宅捜査された。7月、「蟹工船」が土方与志演出「北緯五十度以北」の演題で新築地劇団によって上演された。「不在地主」を『中央公論』11月号に発表。11月、「不在地主」が直接の理由で拓殖銀行を解雇される。

1930年 27歳。2月、「工場細胞」を完成、『改造』4、5、6月号に発表。3月末、小樽から上京し、東京・中野区上町に下宿。5月中旬、『戦旗』防衛巡回講演のため、江口渙、貴司山治、片岡鉄兵、大宅壮一らと京都、大阪、三重をまわり、大阪で日本共産党への財政援助の嫌疑で逮捕。7月、「蟹工船」の件で不敬罪の追起訴をうける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容。

1931年 28歳。1月22日、保釈出獄。3-4月、療養をかねて神奈川県・七沢温泉の福元館に逗留、「オルグ」を執筆。7月、作家同盟第4回臨時大会で中央委員、書記長にえらばれる。同月末、杉並区馬橋に一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟三吾と暮らす。9月、長編「転形期の人々」を起稿。10月、非合法の日本共産党に入党。11月上旬、奈良に志賀直哉を訪ねる。

1932年 29歳。「沼尻村」を『改造』4、5月号に発表。4月上旬、宮本顕治らと地下活動にうつり、文化運動の再建に献身する。6月、文化団体党グループの責任者になる。7月、日本反帝同盟の執行委員になる。8月、「党生活者」執筆。

1933年 1月、「地区の人々」を書き、『改造』3月号に発表。2月20日、正午すぎ、赤坂福吉町で連絡中、今村恒夫とともに築地署特高に逮捕され、同署で警視庁特高らの拷問により午後7時45分殺される。検察当局は死因を心臓まひと発表。解剖を妨害し、22日の通夜、23日の告別式参会者を総検束した。3月15日、労農葬が築地小劇場でおこなわれた。魯迅をはじめ、内外から多数の抗議と弔文がよせられた。3月18日から31日、築地小劇場で新築地劇団により追悼公演「沼尻村」が上演された。「党生活者」が『中央公論』4、5月号に「転換時代」の仮題で発表された。

 2002220日(水)「しんぶん赤旗」 

 戦前の党員作家、小林多喜二はどんな人?

 〈問い〉 戦前の作家で日本共産党員だった小林多喜二はどんな人だったのですか。(群馬・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二は一九〇三年十月、秋田県の農家に生まれました。〇七年、北海道の小樽でパン工場を営んでいた伯父のすすめで、一家は小樽へ移住。多喜二は小樽商業学校、小樽高等商業学校と進学しますが、在学中に文学への傾倒を強め、同人誌の編集や投稿などをしています。卒業した二四年に北海道拓殖銀行に勤めますが仕事のかたわら同人誌を編集発行し創作を続けました。

 当時、多喜二は、創作や生き方に矛盾を感じ、模索を続けていました。二六年、アンリ・バルビュスの反戦文学運動に深い関心を示したり、プロレタリア作家、葉山嘉樹の作品に接し、「作家の態度、意識」「表現様式」に新鮮な驚きを受けるなど、新しい方向を見出しました。このころから科学的社会主義の文献も学びはじめます。

 二七年は農民運動や労働運動が全国的に高揚し、北海道でも磯野小作争議や小樽港湾争議が起こりますが、多喜二はその支援活動にもかかわっています。

 二八年三月、特高警察の大弾圧で小樽でも多数が逮捕され、拷問・虐待をうけました。「一九二八年三月十五日」は綿密な調査をもとにこの事件の本質を描出したものです。雑誌は発売禁止になりますが、組織された配布網を通じて広範囲に読まれ大きな反響を呼びました。

 二九年には、北洋漁業での前近代的な奴隷労働の実態を「蟹工船」で描写。小作農民のたたかいを素材にした「不在地主」で、北海道拓殖銀行の収奪をあばいたことを直接の理由に、退職することになります。

 多喜二は三〇年に上京し、三一年十月、日本共産党に入党。非合法下の困難な活動の中、家族の生計も支えながら「党生活者」など創作も続けましたが、三三年二月二十日、特高警察に逮捕され、その日のうちに東京・築地署で虐殺されました。二十九歳でした。(清)

 〔2002・2・20(水)〕

 2004715()「しんぶん赤旗」

 戦前、多くの不屈の青春があった

 〈問い〉 日本共産党は青年が中心になって創立したと聞きました。どんな状況だったのですか?(東京 一読者)

 〈答え〉 日本共産党は82年前のきょう(7月15日)東京・豊多摩郡渋谷町の民家での会合をつうじ創立されました。創立から一年ほどの間に参加した党員は百人余。創立時、市川正一(30)、国領五一郎(20)、渡辺政之輔(23)、川合義虎(20)、河田賢治(22)、谷口善太郎(23)ら、多くが20代~30代でした。

 当時は、天皇絶対の専制政治で、党は非合法の政党として出発せざるをえませんでした。しかし、党は当初から、天皇専制にかわる主権在民の民主政治をつくるための民主主義革命の旗をかかげ、弾圧をうけながらも「シべリア出兵反対、朝鮮人民の独立闘争支持」「18歳以上のすべての男女に普通選挙権を」と、勇敢にたたかいました。

 中国への本格的な侵略が開始されると、治安維持法・特高警察による弾圧はいよいよはげしく、32年には、党中央委員・上田茂樹(31)=以下いずれも死亡時の年齢=、党中央委員岩田義道(34)らが虐殺され、翌33年2月には党九州地方委員長西田信春(30)、作家・小林多喜二(29)が残虐な拷問をうけ絶命、同月、『日本資本主義発達史講座』の編集でも知られる野呂栄太郎(33)も事実上の拷問死させられます。33年12月には、党中央委員として活動中の宮本顕治(現名誉役員)が逮捕されますが、25歳の若さでした。

 党幹部だけでなく、広島・呉港で現役水兵・兵士の反戦運動を組織した阪口喜一郎(31)、党中央事務局で連絡・印刷などの活動をした伊藤千代子(24)、獄中からちり紙で姉へ「信念をまっとうする上においてはいかなるいばらの道であろうと…」と手紙を書いた田中サガヨ(24)、化粧用コンパクトに「闘争・死」の文字を刻み獄死した飯島喜美(24)、日本共産青年同盟中央機関紙「無産青年」配布網を組織した高島満兎(まと)(24)…。みんな人生はこれからという若さでした。こうした無数の人々、青年たちの不屈のたたかいは、日本共産党の誇りであり、いまの私たちのたたかいをも勇気づけ、励ましてくれるものです。(喜)

 〔2004・7・15(木)〕

 200889()「しんぶん赤旗」

 戦時下の抵抗・反戦運動とは?

 〈問い〉 戦前は国民すべて戦争賛成で、反対はごく一部だったという人がいます。日本共産党をはじめとする抵抗・反戦運動の規模・概要を教えてください。(大阪・一読者)

 〈答え〉 治安維持法によって送検された人びとは、同法の最高刑が死刑に改悪された1928年から終戦の45年までのあいだに7万5千人をこえ、逮捕者は数十万人を数えました。さらに、治安維持法による弾圧と一体になっていた予防拘束や警察への拘留は、数百万人におよび、特高(特別高等警察)などの拷問によって、獄死・病死した人は判明分だけで1682人にのぼります(治安維持法国家賠償同盟の調べ)。

 これらの数字は、そのまま反戦運動の規模を意味しませんが、侵略戦争に反対あるいは批判的な人々が決して少数ではなかったことを示しています。

 戦前、日本共産党以外のすべての政党は侵略戦争に加担しました。治安維持法が死刑法に改悪されるなかで、戦争に反対するのは命がけのことで、科学的世界観と未来への確信がなければできないことでした。後年、鶴見俊輔氏は、こう書きました。

 「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは北斗七星のように、…自分がどのていど時勢に流されたか…を計ることのできる尺度として、…日本の知識人によって用いられてきた」(岩波新書『現代日本の思想』)

 中国への侵略が拡大した27年1月、日本共産党はいち早く「対支非干渉同盟」の結成を訴え、その後も反帝同盟日本支部、「極東平和友の会」準備会、「上海反戦会議支持無産団体協議会」などの中心になり、軍隊内にも党組織をつくり「聳(そび)ゆるマスト」「兵士の友」などを発行して反戦闘争を広げました。党員作家の小林多喜二は「沼尻村」「党生活者」「地区の人々」などの作品で戦争反対のたたかいを描きました。

 35年、日本共産党中央は弾圧で破壊されますが、専制と侵略戦争に反対するたたかいは、獄中でも不屈にたたかわれました。宮本顕治の獄中・法廷闘争は、その重要な記録の一つです。獄外でも、個々の党員、共産主義者のグループは、盧溝橋事件の翌日には各地でビラをまき、反戦をよびかけました。

 天皇制政府は日本共産党に攻撃を集中、次いで、良心的な左翼社会民主主義者や自由主義者にも迫害の手をのばします。これに抗して、戦争に批判の声をあげた人びとも少なくありません。草の根の反戦・抵抗の歴史は今後も発掘し語り継ぐことが求められています。(喜)

 〈参考〉『日本共産党の80年』

 〔2008・8・9(土)〕

 2007128()「しんぶん赤旗」

「蟹工船」は実際にあった話なの?

 〈問い〉 小林多喜二の『蟹工船』を読んで「いまの青年の働かされ方も同じだ」という声がでたそうですが、私も何十年前に読んだ記憶ですが、場面のリアルさが胸に焼き付いています。あの小説はモデルがあったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二の小説『蟹工船』は、1926年(大正15年)に北洋漁業の蟹工船漁業のなかで実際に起きた事件が題材につかわれています。

 蟹工船は、底刺し網でとったカニを加工して缶詰にする、移動缶詰工場のような船です。1920年ごろから始まり、25年ごろから大型船に代わってゆき、26年には12隻、27年には18隻に急増し、乗り組みの漁夫や雑夫(ぞうふ)の数も27年には4000人をこえています。

 蟹工船の労働条件はひどく、監獄部屋制度の奴隷労働が強制されていました。26年には、蟹工船の博愛丸と英航丸での漁夫や雑夫の虐待事件が表面化し、「小樽新聞」や「北洋タイムス」がくわしく報道していました。

 多喜二は、執筆にあたり、函館にあった漁業労働組合の人たちや停船中の蟹工船の漁夫とも直接会い、話を聞き、新聞記事や資料を収集、小樽の海員組合員から航海生活のくわしい聴取をおこなうなど、かなり長期にわたる調査をつづけ、ノート稿を残しています。

 「蟹工船」のはじめの章に、函館を出航してカムチャツカヘ向かう博光丸が、暴風雨にあって沈没する秩父丸の救助信号をうけたのに、監督の命令で見殺しにする場面がありますが、これは実際にあったことです。

 秩父丸は26年4月26日、北千島の幌莚島沖で暴風雨のために座礁し、乗組員170人が遭難しましたが、近くを航行中の英航丸などが救助信号をうけながら救助に向かいませんでした。「小樽新聞」は、「秩父丸の遭難に醜い稼業敵、救助信号を受けながら知らぬ顔の蟹工船」(5月6日号)と、糾弾しています。

 博愛丸や英航丸での虐待事件についても「この世ながらの生地獄」という見出しで、こう書いています。

 「…病のためうんうん唸(うな)っている内田を…旋盤の鉄柱に手足腰を縛(しば)りつけ、胸には『この者仮病につき縄を解くことを禁ず 工場長』とボール紙に書いたものを結びつけ、食物もやらず…加藤と云う雑夫は同じく仮病と見なされ、…ウインチに吊(つ)るされ、空中高く吊るし上られて、船がローリングするためにぶらりぶらりと振り動く度に『あやまった、あやまった、助けてくれ』と悲鳴をあげて泣き叫ぶにも拘(かかわ)らず、鬼畜に等しき監督等は『斯(こ)うして一般の見せしめにするのだ』と快よげに嘲笑(あざわら)い、…一日の間一杯の水一食の飯も与えず虐待し…」

 秩父丸を見殺しにした英航丸でも、虐待に耐えかねて4人が脱走をはかり、監督たちが鉄の蟹かきで半殺しにします。英航丸では、この事件がきっかけに自然発生的なストライキが起きています。小説の船名・博光丸名は、この博愛丸と英航丸からとられています。(喜)

 〈参考〉手塚英孝著作集第2巻「『蟹工船』について」、小林多喜二全集第2巻「解題」

 2008223()「しんぶん赤旗」

 『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫とは?

 〈問い〉 小林多喜二の『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫という人がいると聞きましたがどういう人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二が1921年小樽高商に入学した時、樺太から年長の乗富(のりとみ)道夫が同期生として入学してきます。二人は学内の近代劇研究会に属していました。乗富は多喜二がマルクス主義に興味を持ち始めたころにはすでにマルクス主義の立場をとっており理論的には多喜二をリードしていました。

 乗富は卒業論文に「共産党宣言」の英独語版翻訳を提出し教授会ではそれをめぐって紛糾したといわれています。

 24年、二人は小樽高商を卒業し、多喜二は小樽に残り、乗富は安田銀行函館支店に勤務します。そこで乗富道夫は政治研究会函館支部結成に参加、労農党に入党、労働組合の闘争支援を行い、活動家の資本論学習会のチューターをつとめます。さらには野呂栄太郎の主宰する産業労働調査所の函館支所長として労働者教育や調査活動を進めていました。蟹工船の実態調査などもその一環として進めていました。

 一方、小林多喜二が北洋漁業、とりわけロシア領海近くの蟹工船での漁夫虐待事件やあくどい搾取の実態に関心をもち始めるのは27年です。前年の新聞報道により蟹工船の実態が赤裸に暴露されたことに触発されたからです。銀行の友人たちの協力で新聞の切り抜き作業を行ってもいました。

 当時、多喜二は拓銀で働くかたわら磯野小作争議や港湾労働運動支援を続けていました。そこに函館から応援に来ていたメンバーから函館の安田銀行にいる同期生の乗富道夫が蟹工船に関する詳しい調査を行い、その資料をもっていることが伝えられたのです。こうして多喜二は函館の乗富と3年ぶりに再会し、その協力のもとに蟹工船の実態のより正確な情報、資料を入手できたのです。

 こうして乗富の調査・研究協力が多喜二の『蟹工船』の執筆に大きな役割を果たしたのです。

 『蟹工船』は、雑誌『戦旗』の1929年5、6月号に発表され全国的な反響を呼び起こしました。

 その後、乗富は、労働争議支援のため再三にわたり検挙されます。そのため、銀行を解雇され、特高警察からもマークされ函館での活動の場を奪われ、多喜二と前後して上京します。そして計理士(公認会計士の前身)として生活していきます。活動の状況はよくわかっていませんが、多喜二の虐殺遺体が杉並・馬橋に帰った33年2月21日夜、寺田らとともに枕辺に駆けつけていることからみて、上京後も多喜二との連携を保っていたことは確かです。多喜二の死の数年後、乗富は肺結核で病没しました。(登)

 〈参考〉藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』(学習の友社)

 〔2008・2・23(土)〕

 2008220()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二の盟友、寺田とは?

 〈問い〉 小林多喜二が1928年1月1日の「折々帳」(日記)で「古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである」と書いていますが、寺田とはどういう関係の人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 多喜二の日記に登場する寺田は、青森県出身、小樽高商(現小樽商科大学)で多喜二の2年後輩の寺田行雄のことです。

 寺田は多喜二が卒業し拓銀小樽支店に入社した翌年の1925年、小樽高商社会科学研究会の結成に参加、ついで同年10月、大震災による外国人の騒乱を想定した学内の軍事教練押しつけへの反対運動の中心メンバーとして活動し35日間の停学処分を受けました。

 26年同校卒業後、北海タイムス(現北海道新聞)小樽支局に入社、記者業務のかたわら小樽の労働運動、農民運動とのつながりをつよめ、同年、小樽社会科学研究会(古川友一主宰)に加入して小林多喜二に何度も参加を働きかけます。多喜二は27年9月ごろに小樽社研に参加、ここでの学習を糧にして「断然マルキシズムに進展していった」と28年1月1日の日記で高らかに宣言したのです。

 こうして、多喜二と寺田は小樽の労働・農民運動の前進のために協力しあうようになり、28年2月の第1回普通選挙で労農党から立候補した共産党員山本懸蔵を応援してたたかい、その直後の3月15日の大弾圧に遭遇し、寺田は検挙、拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』に登場する「佐多」は寺田がモデルです。

 寺田は翌29年4月16日の弾圧でも検挙されましたが、多喜二の上京後も小樽に残って活動を続け全協小樽産別組合の組織化や労働新聞配布などにより3度目の検挙を受け札幌刑務所に勾留され、北海タイムス社を解雇されます。

 31年10月執行猶予で出獄しましたが、小樽での活動の場を奪われ、一足先に上京していた家族と合流、杉並・高円寺に移り住みます。隣駅の阿佐ケ谷・馬橋には多喜二一家が住んでおり、こうして2人の活動を家族ぐるみで支えあう関係が小樽から東京へひきつがれたのです。

 多喜二の虐殺遺体が馬橋に帰ったあとの通夜、葬儀は寺田一家が協力して進められました。火葬場まで付き添った寺田の次姉セツさんが多喜二の分骨を分けてもらい供養を続け、戦後、大館の“小林多喜二生誕の地碑”建立のおり散骨したのはこのような事情からでした。

 寺田は多喜二虐殺後も杉並に残り反戦活動に全力をあげ37年の人民戦線事件で4度目の検挙を受けましたが節を曲げずにたたかいました。その後、大阪で旭区の増田きみさんと結婚、43年4月8日、大阪府茨木市外の春日村(現茨木市五日市)の北川療養所で結核のため病没。享年38歳でした。(登)

〈参考〉藤田廣登著『小林多喜二とその盟友たち』学習の友社

 〔2008・2・20(水)〕

 2007315()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」のモデルは?

 〈問い〉 小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」を初めて読みました。多喜二はこの小説をどんな思いで書いたのでしょう。モデルはいたのですか? 

 (東京・一読者)

〈答え〉 1928年(昭和3年)3月15日、天皇制政府は、全国いっせいに約1600人の日本共産党員と支持者を検挙し、野蛮な拷問を加えました。

 「銃後」をかためるために、侵略戦争反対をかかげる日本共産党を暴力で圧殺しようというねらいでした。事件を契機に、特別高等警察の拡充、治安維持法の死刑法への改悪、拷問の日常化と殺人行為への変質など、日本を破滅に導いた暗黒体制が一段と強まりました。

 小樽では、3月15日未明から、一カ月にわたって、200~300人が逮捕、検束、召喚されたといわれます。小樽警察は、所長官舎に拷問室を急造し、毛布で窓をおおい防音し、毎夜一人ずつ、意識不明におちいるまで、拷問をくりかえし、発狂して病院に収容される者も出ていました。この様子は、多喜二にもくわしく伝わっていました。

 多喜二は、『防雪林』の原稿仕上げの作業を中断し5月末「一九二八年三月十五日」に着手しました。このときの気持ちを多喜二は後年、「一九二八年三月十五日」という文の中で次のように回想しています(『小林多喜二全集』第5巻)。

 「…半植民地的な拷問が、如何に残忍極まるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎意をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示をうけたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたゝきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」

 「この作品の後半になると、私は一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。

 そこは警察内の場面だった。書き出してからスラく書けてくると、私はその比類(!)ない内容に対して上ッすべりするような気がし、そこで筆をおくことにした」

 作中人物の腹案になった人びとの氏名については、「我がプロレタリア前衛の闘士に捧ぐ」という献詞のある多喜二のノート稿に、小樽警察の留置場周辺の見取図とともに次のように記されています。

 「龍吉―古川〔友一・市役所職員〕、渡―渡辺〔利右衛門・小樽合同労組組織部長〕、鈴本―鈴木〔源重・同労組執行委員長〕、阪西―大西〔喜一・同労組員〕、斎藤―鮒田〔勝治・同労組書記〕、高橋〔英力・同労組会計係〕、石田―X(理想的な人物に伊藤信二〔行員〕)、佐多―寺田〔行雄・新聞記者〕」

 (〔 〕内は編集注)

 「渡」への壮絶な拷問の描写は、渡辺利右衛門が実際に受けたものです。

 多喜二は虐殺されました。しかし、多喜二の火は私たちの胸に継がれています。(喜)

 〔2007・3・15(木)〕

 2009218()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二が虐殺されたのは なぜ?

 〈問い〉「蟹工船」の作者・小林多喜二は、当時の警察に虐殺されたと知りました。なぜ殺されたのでしょうか。(東京・一読者)

 〈答え〉1933年2月20日の小林多喜二の虐殺はあまりにも有名です。天皇が絶対的な権力を持ち、警察も軍隊もそのもとで横暴を極めた戦前には、天皇制や軍国主義に反対したために逮捕・投獄、虐殺された人はかなりの数にのぼっています。

 23年9月の関東大震災の折には混乱に乗じて初代共産青年同盟委員長・川合義虎や労組活動家・平沢計七ら10人が軍隊の手で殺され、さらに無政府主義者・大杉栄が妻・伊藤野枝、おいとともに虐殺されました。

 25年、普通選挙法(男子のみ)と抱き合わせに、天皇制廃止、侵略戦争反対を掲げる日本共産党をはじめ、革命的労働・農民運動を弾圧する目的で治安維持法が制定されました(28年に死刑・無期刑に改悪)。その違反名目での逮捕者は数十万人にのぼり、司法省調査でも送検者7万5681人、起訴者5162人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも日本共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人といわれています。

 多喜二の虐殺もそういう歴史の文脈のなかでのことです。同時に彼の場合は、逮捕数時間後の激しい拷問によるものでした。それは彼の作品が、治安維持法の適用による大弾圧「三・一五事件」での警察の拷問の実態を暴いた「一九二八年三月十五日」や、労働者搾取の国家構造を描き出した「蟹工船」、農民と労働者の共同闘争を描いた「不在地主」など、戦争突入前夜に、政府の戦争と労働者抑圧政策を鋭くえぐる内容で、しかも読者も多く、国際的にも高く評価され、為政者から特別に憎悪され、恐れられたからです。

 多喜二が作家同盟の中央委員・書記長、プロレタリア文化団体の党グループ責任者など重要な位置にあったことも、「生かしてはおけない」理由だったのでしょう。多喜二の作品は敗戦までは持っているだけで逮捕される国禁の書とされました。(淳)

〔2009・2・18(水)〕

 200634()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二、山本宣治が殺されたわけは?

 〈問い〉 小林多喜二や山本宣治が殺されたのは「3・15事件」における特高警察の拷問を告発したためだと聞きましたが、どういうことですか?(北海道・一読者)

 〈答え〉 1928年3月15日未明、天皇制政府は、内務省、検事局や警察の総力をあげて、日本共産党員、支持者をいっせいに検挙しました。日本共産党が同年2月、「赤旗」(せっき)を創刊し、初の普通選挙で11人を労農党から立候補させ、山本宣治、水谷長三郎の2人の当選をかちとった直後でした。

 弾圧は、反戦平和と主権在民を掲げ国民の前に敢然と姿をあらわした共産党の圧殺が不可欠だったからでした。田中義一内閣はその年の4月、中国侵略をひろげ(第2次山東出兵)、国内では治安維持法を改悪(最高刑を「死刑」に)、特別高等警察(特高)の網を整備し、弾圧体制の強化をはかりました。

 3月15日の弾圧では、党組織の壊滅へ、検挙者にはげしい拷問を加えたことが特徴で、その後は「殺しても上司が引き受ける」という暗黙の了解で、歯止めがなくなり、虐殺も急増しました。

 小林多喜二が住む北海道小樽でも「3・15」からの二カ月間で500人もの人々が検束され、小樽警察は署長官舎に拷問室を急造し毛布で窓をおおって防音し、拷問をくり返しました。これを知った多喜二は、未定稿の「防雪林」の執筆を中断し「一九二八年三月一五日」を一気に書き上げ、野獣化した特高を告発します。

 山本宣治も翌1929年2月8日の帝国議会で追及しました。

 「福津正雄という人間は…、冬の寒空に真裸で四つばいさせられて、…竹刀で殴って『もう』と牛の鳴声をいえといって『もう』といわせ、あるいはその床をなめろといって、床をなめさせた…、静秀雄という被告は…竹刀で繰返し殴られて、もん絶した。ふと、眼がさめてみたら枕許に線香が立ててあった」「鉛筆を指の間にはさみ、あるいは三角型の柱の上に坐らせて、そうしてその膝の上に石を置く。あるいは足をしばって逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流し、そうしてもん絶するまで、うっちゃらかしておく…生爪をはがして苦痛をあたえる、というような実例がいたる所にある」

 政府側はこの事実を「断じて認めることはできませぬ」「これに対して所見を述べる必要はありませぬ」と答弁を拒否。戦後もその態度を変えていません。

 山本代議士は、この追及をした一カ月後、刺殺されました。犯人は右翼団体の一員で捜査にあたった特捜課長と親しい間柄だったことはのちに判明しています。多喜二も5年後の1933年2月20日、築地警察署で特高によって虐殺されます。5日は山宣没後77年です。(喜)

 〔2006・3・4(土)〕

 2005210()「しんぶん赤旗」

 戦争に反対し殺された西田信春って?

 〈問い〉 戦前、小林多喜二と同じころ、特高に殺された西田信春という青年がいたと聞きました。どんな人ですか?(北海道・一読者)

 〈答え〉 60年前の戦前の時代、戦争反対や主権在民を言うことは、大変、勇気がいることでした。天皇制政府は「特別高等警察」(特高)という専門の警察網を敷き、戦争反対の先頭に立った日本共産党員らを残酷に迫害しました。命を落とした人は判明分だけで1690人前後にのぼります。

 小林多喜二が死んだ9日前の1933年2月11日、特高に殺された西田信春(のぶはる)も反戦平和のために生涯をささげた一人です。

 西田は1903年、北海道・新十津川村に生まれ、東大在学中に社会科学研究会に参加、卒業後、全日本鉄道従業員組合本部書記になり、27年、日本共産党に入党。32年、党再建のために九州に行き、九州地方委員会を確立し委員長になります。翌33年2月11日「九州地方空前の共産党大検挙」(検挙者508人)と報じられた弾圧の前日、検挙され、福岡署で殺されました。30歳の若さでした。これが判明したのは戦後になってからで、57年4月16日付「アカハタ」は「二十数年ぶりに判る―故西田信春氏虐殺当時の模様」を掲載。一緒に活動した佐伯新一氏の「細かい思いやりのある同志だった」との回想が記事中にあります。

 当時、九大医学部助手だった石橋無事氏は、氏名不詳の男の鑑定書を書いた思い出を次のように記しています。

 「それが東大新人会の共産党員西田信春の屍(しかばね)だったことは、ずっと後で知りました。…ひどい拷問をうけても黙秘をつづけ、しまいに、足を持って階段を上から下まで逆さに引きおろされ、それを四、五回くりかえされたら死んでしまった。それが夜中の午前一時ごろなのに、ぼくたちがよばれて行ったのは十五、六時間もたった午後四時ごろです」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の機関紙「不屈」81年3月号)

 身をていして平和と民主主義の世の中をめざした思いを引き継ごうと、90年に郷里の新十津川町に「西田信春碑」が作られ、毎年2月11日、碑前祭が開かれています。

 (喜)

 〔2005・2・10(木)〕

 2003220()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二を虐殺した「特高警察」とは?

 〈問い〉 小林多喜二の虐殺などにかかわった「特高警察」とはどんな組織ですか。(大阪・一読者)

 〈答え〉 「特高警察」とは特別高等警察の略称で、戦前の天皇制警察のなかで、日本共産党などの弾圧を専門の任務とした組織です。

 天皇制警察はもともと、国民の政治活動を監視・弾圧する部門を「高等警察」と呼んで重視してきました。しかし二十世紀になると、日本でも社会主義運動や労働運動が広がり始めたため、警察は従来からある「高等警察」の機構を強化し、社会主義者などの弾圧を専門とする「特別高等警察」の組織をつくりはじめます。一九一一年、警視庁内の高等課から分離して新設された「特別高等課」は、このようにして生まれた特高警察組織の最初の現れとされています。

 二二年に日本共産党が創設されると、特高警察の組織強化が加速され、二八年七月までに全国の道府県に特別高等課が設置されました。内務省の警保局保安課が頂点となり、地方の警察署におかれた特高係などを通じて全国にスパイなどの情報網をはりめぐらせました。

 天皇制政府は一九二五年に制定された治安維持法などを適用し特高警察による日本共産党への無法な弾圧を続けました。容疑者を逮捕して拷問を加え、裏切りやスパイを強要し、多くの党員・支持者を虐殺しました。日本共産党員で作家の小林多喜二も犠牲者の一人で、三三年二月二十日に逮捕され、東京・築地署で七時間後に絶命しています。

 特高警察は侵略戦争の拡大と呼応し、“自由主義思想も共産主義の「温床」になる”“天皇中心の「国体」とあいいれない「邪宗」を取り締まる”などの口実で共産党と無関係な団体や個人、宗教団体なども弾圧し、国民の疑問や反戦・厭戦(えんせん)感情などを封じて、戦争体制の一翼を担いました。終戦後の四五年十月、GHQ(連合国総司令部)の指令によって廃止されました。

 (清)

 〔2003・2・20(木)〕

 2006315()「しんぶん赤旗」

 戦前も拷問は禁止されていたのでは?

 〈問い〉 「3月15日事件」後、特高の拷問虐殺がひどくなったそうですが、拷問は戦前の法律でも禁止されていたのでは? 戦前戦後の国会は多喜二の虐殺などにどう対応したのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 拷問を認めた制度は、徳川時代の幕府法令による「拷問法」を手直ししただけで、明治政府になってからもつづいていました。近代国家の警察として自白絶対必要主義を証拠主義に改め、拷問を禁止したのは1879年10月でした(太政官布告「拷問無用、右に関する法令は総て削除」)。この太政官布告と刑法による拷問の禁止は、法律的には敗戦後まで存続していました。

 しかし実際には、拷問は、日常茶飯事におこなわれていました。とくに1928年3月15日の共産党弾圧の後は、拷問の目的が自白強要だけでなく、小林多喜二や岩田義道のときのように、虐殺を目的にした行為に変質しました。戦前、特高の拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194人、獄中で病死した人は1503人にのぼります(治安維持法国家賠償要求同盟調べ)。

 拷問・虐殺は、多くの記録や写真、証言で明白になっているのに警察・検察、裁判所、それに報道機関もグルになってその事実を握りつぶしました。〔35年4月5日、京都・西陣署での鰐淵清寅(21歳)の虐殺で警部補が「特別公務員暴行致死罪」で懲役2年(執行猶予2年)の判決をうけた。拷問虐殺をした人物が起訴され、有罪の判決をうけた例は戦前はこの一件だけとみられる〕

 特高警察は、多喜二虐殺のときは死因を科学的に追及されることを恐れ、遺体解剖を妨害し、岩田義道のときは、殺人罪で告訴した父母を検事局が脅かして告訴を取り下げさせています。

 国会では、戦前1929年2月8日に山本宣治代議士が、戦後76年1月30日に不破書記局長がそれぞれ政府を追及していますが、国民周知の拷問の事実を認めず、「承知していない」「答弁いたしたくない」(戦前は秋田内務次官、戦後は稲葉法相)とまったく同じ答弁をしています。

 戦後、日本国憲法は第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と明記しました。これは戦争の惨禍につながった野蛮な弾圧を、ふたたび繰り返すまいという決意がこもったものです。しかし、戦後も特高的体質は引きつがれ、代用監獄が残り、自白強要のための拷問(不眠・絶食・殴打・長時間取り調べ等)例が多く知られています。

 この問題は、靖国問題と並び戦前をきちんと決着していない恥部ともいえるものです。(喜)

〔2006・3・15(水)〕

 2002213()「しんぶん赤旗」

 治安維持法とはどんな法律だったか?

 〈問い〉 テレビで戦前、治安維持法という法律があったと聞きましたが、どんな法律なのですか。(千葉・一読者)

 〈答え〉 治安維持法は創立まもない日本共産党などを標的に、一九二五年に天皇制政府が制定した弾圧法です。「国体を変革」「私有財産制度を否認」することを目的とする結社の組織・加入・扇動・財政援助を罰するとしました。「国体」とは天皇が絶対的な権力をもつ戦前の政治体制で、「私有財産制度を否認」とは社会主義的な思想や運動をねじまげて描いた政府の表現です。

 この法律は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、前例のないものでした。そのうえ二八年には大改悪が加えられました。

 まず、最高刑が懲役十年だったのを、国体変革目的の行為に対しては死刑・無期懲役を加え天皇制批判には極刑でのぞむ姿勢をあらわにしました。

 また「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。

 さらに四一年には、刑期終了後も拘禁できる予防拘禁制度などの改悪が加えられました。

 治安維持法の運用では、明治期制定の警察犯処罰令など、一連の治安法規も一体的に利用し現場では令状なしの捜索や取り調べ中の拷問・虐待が日常的に横行しました。

 日本共産党は二八年三月十五日や二九年四月十六日の大弾圧など、治安維持法による、しつような弾圧を受け、拷問で虐殺された作家の小林多喜二や党中央委員の岩田義道をはじめ、獄死者、出獄直後の死亡者など、多くの犠牲者を出しています。

 政府発表は治安維持法の送検者七万五千六百八十一人、起訴五千百六十二人ですが、一連の治安法規も含めた逮捕者は数十万人、拷問・虐待による多数の死者が出ました。(清)

 〔2002・2・13(水)〕

 2007217()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったの?

 〈問い〉 小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったのですか?(岡山・一読者)

 〈答え〉 1933年(昭和8年)2月20日、岩田義道が虐殺されてから3カ月後、プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、詩人の今村恒夫とともに東京・赤坂福吉町の街頭で検挙され、わずか7時間後に築地署で虐殺されました。

 虐殺については、築地署の留置場にいて目撃した人や、遺体を見た人たちの多くの証言があり、作家・手塚英孝が『小林多喜二』に詳細に記録しています。拷問の凄惨(せいさん)さは、安田徳太郎医学博士とともに遺体を検査した作家・江口渙が「作家小林多喜二の死」にリアルに描写しています。

 「…首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。よほどの力で締められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも、無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にもやはり縄の跡が円くくいこんで血がにじんでいる。だが、こんなものは、からだの他の部分とくらべるとたいしたものではなかった。さらに、帯をとき、着物をひろげ、ズボンの下をぬがせたとき、小林の最大最悪の死因を発見した私たちは、思わず『わっ』と声をだして、いっせいに顔をそむけた…」

 小説「蟹工船」や「一九二八年三月十五日」の作者であり、都新聞(東京新間の前身)の連載小説「新女性気質」の作者としても有名だった小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道しました。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけでした。そればかりか、特高は、東大・慶応、慈恵医大に圧力をかけ、遺体解剖を拒絶させ、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束しました。

 時事新報記者・笹本寅が、検事局へ電話をかけて、「検事局は、たんなる病死か、それとも怪死か」と問い合わせると、「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の一人が大喝して電話を切ったという事実も書き残されています。

 戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています。(喜)

 〔2007・2・17(土)〕

 2006817()「しんぶん赤旗」

 小林多喜二らを虐殺した特高に勲章 本当ですか?

 〈問い〉 小林多喜二らを虐殺した特高に勲章、銀杯が贈られたと聞きました。信じられません。本当ですか?(鹿児島・一読者)

 〈答え〉 日本の政治のゆがみの根本には、過去の侵略戦争を正当化する異常さがあります。靖国問題とともに、その異常さを象徴するひとつに、戦前、天皇制支配の中枢にいて多くの共産主義者、反戦活動家を虐殺した直接の責任者=内務官僚と特高(特別高等警察)たちが、戦後も今日まで、なんら罪に問われることなくきているという問題があります。

 日独防共協定が締結された2日後の1936年11月27日、協定締結を祝うかのように、日本共産党の弾圧の先頭に立った内務・特高および司法官僚48人に昭和天皇から勲章と杯が下賜されました。

 「日本共産党ノ検挙ニ当リ日夜不断ノ努カト幾多ノ犠牲トヲ払ヒ漸(ようや)同党幹部以下ヲ潰滅(かいめつ)セシメ国家治安維持上特ニ功績アリタル者ト認メラルル」(内務大臣より天皇への上奏文、「公文雑纂(ざっさん)」昭和11年・巻15の2、国立公文書館所蔵)という“功績”によってです。

 新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と大きく報じ、賞勲局は「異例の叙勲である」と談話をだしました。

 このときの叙勲には、纐纈(こうけつ)弥三、毛利基、浦川秀吉、山県為三らの警視庁特高課の主要メンバーが、銀杯組には友部泉三、安倍源基、富田健治らの警保局保安課長や警視庁特高部・課長経験者と、中川成夫、榎本三郎、須田勇らの警視庁の第一線の特高警察官、北海道や大阪など地方で弾圧の先頭に立った特高警察官がふくまれています。

 多喜二虐殺時の主犯格は安倍警視庁特高部長、配下で虐殺に直接手を下したのが毛利特高課長、中川、山県両警部らです。

 安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されますが、占領政策の転換で釈放され、自民党政治の陰の存在として生きのびました。毛利は、終戦直後に埼玉県警察部長を退職しますが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえうけています。中川も戦後、東京北区教育委員長になっています。

 64年秋から生存者叙勲が始まりますが、公職追放解除後に衆議院議員になった纐纈(元警視庁特高課長)が勲二等瑞宝章をうけたのをはじめ多くの特高官僚が戦後叙勲を受けています。

 戦前、特高による拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕者は数十万人におよびます。これらの被害者に対する補償、謝罪、責任を政府はいまもほおかぶりしたままです。(喜)

 〈参考〉『告発・戦後の特高官僚』(柳河瀬精著、日本機関紙出版センター)、『北の特高警察』(荻野富士夫著、新日本出版社)

〔2006・8・17(木)〕

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