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2010.01.15

自由民権運動家・植木枝盛の高知県会での高等女学校設立の建議。

 2010年1月14日夜、自由民権運動家の植木枝盛(うえき・えもり。1857年~1892年)が高知県会で高等女学校設立の建議をしたことを知り、その経過をまとめておきたいと思い立ちました。
 以下のようなことです。
 「県会議員の枝盛が明治二十年二月十八日県会に提案した『高等女学校設置建議』が可決され、同年九月三十日『高知県尋常中学校女子部』として開校式を挙行した。その後『高知県立高等女学校』『高知第一高等女学校』等を経て、現在の『高知丸の内高等学校』に発展している。」(『植木枝盛の生涯』。外崎光広。高知市文化振興事業団。1997年11月25日)。
 「教育切り刻み」の、いまの政府、高知県政が学びとってほしいことの一つです。

 【当時の高知県の女子教育の実情】

 まず、当時の高知県の女子教育の実情についてふれます。
 1878年(明治11年)4月、高知女子師範学校が設置されました。場所は、高知市西弘小路の県庁内でした。
 この学校は「小学ノ師範タルヘキ女子ヲ養成」するところでしたが、高知県における女子中等教育機関としての性格もあわせ持っていました。
 「一般に、四国の女子師範は、他地域に比べ比較的はやく、十一年ごろすべての県に設けられている。ただ、何(いず)れも入学志願者が少なく、経費の割には効果があがらないのを理由に僅(わず)か一・二年で廃止された。むろん婚期との関係もあろうが、女子の就職を特異なものと考えた当時にあって、職業婦人への道を選ぶ者は極めて稀であったに違いない。ひとり本県の女子師範だけが学校を維持できたのは、他に女子の中等教育機関がまったく無かったうえに、他府県と比べ著しく女権意識が高かったためと思われる。」(『高知師範学校略史』。高知師範学校略史編集委員会。高知師範学校百年祭実行委員会。1974年9月25日)。 
 同校を1885年(明治18年)11月に卒業した井上萬喜が、そのことを書いています『創立五十年』。甲藤義治編。高知県師範学校創立五十年記念会。1925年12月25日)。
 「何分其(なにぶんそ)の当時は高知女学校もありません。女にして中等の教育を受けようとするには、勢(いきおい)唯一の女子師範を選ぶより外(ほか)に方法はなかったのです。それで教員志望でなくとも、必ず女子師範に入学致(いた)さゞるを得なかったのです。」
 井上は当時のこととして「婦人の活動が盛(さかん)になって、堀詰座で婦人の演説などが始まりました」とも書いています。
 同校には、貸費制度がなかったかわりに、男子師範卒業生が義務づけられた俸職年限がなく、比較的自由に就学できました。
 ところが、1886年(明治19)年4月に公布された「師範学校令」は「尋常師範学校ノ卒業生ハ公立小学校校長及(およ)ヒ教員ニ任スヘキモノトス」と規定し、女子も男子と同様に十年間の就職義務を課しました。
 この間の事情を「土陽新聞」1887年(明治20年)2月22日付は、このように伝えています。
 「即(すなわ)ち近日に至(いた)り師範学校の女生徒が大概(たいがい)退校して僅(わず)かに二十人余名となりしは、願(おも)ふに彼の卒業後十年間の服務あるを恐れての事なるべし、此(かく)の如(ごと)き次第なれば今日にては之(これ)を要するに、女子は幾(ほと)んど小学以上の学問を為(な)すべき場所なきに立至(たちいた)りたり。」

 【植木枝盛の「高等女学校を」の動議の中身】

 こうした状況の中、植木枝盛県会議員は、1887年(明治20年)2月18日の通常高知県会で高等女学校設立の建議をします(以下、「高知日報」、1887年2月23日付。読みやすいように行がえをしました)。
 「[通常県会明治二十年二月]十八日午前九時四十分第一席開会教育費の二次会を開く二十二番(植木[枝盛])
 余は今本案を議するの前に当て一の建議説(けんぎせつ)あり。其(そ)は地方税を以(もつ)て我高知県に一(ひとつ)の高等女学校を設立せんとする是(こ)れなり。抑(そもそ)も我高知県には従来女子師範学校の設けありて、多数の女児此校(このこう)に就き教育を受けしが、昨年学制の改革に依り其(その)規則上に一大変更を生し、これか為め女生徒は多く退校するに至れり。元来師範学校は将来に於て教員たるの目的を有する者にあらざれば入学することを得ざるものなりと雖(いえど)も、従来は今より見れは規則頗(すこぶ)る寛大なりしかば、仮令(たとえ)将来に於て教師となるの目的無き者と雖(いえど)も随分(ずいぶん)之に就学するの有様にて、恰(あたか)も高等中学校に代表せられし形状なりしも、今日に及んでは其(その)規則尤(もつと)も厳格となりし故に、全く将来に於て必す教員たらんとの確固たる志操(しそう)と目的を抱持(ほうじ)せざるものにあらざれば旧の如く就学する能(あた)はざることとなりし。
 之(こ)れが為め右等の目的を抱持せざる者は大抵退校することに至り、残る女生は僅々(きんきん)二十余名となりし。蓋(けだ)し其の退校せし女生の中にても教員たらん目的を保(も)つ者なきにあらざるも、彼(か)の卒業後、猶(な)ほ十年の久しき間之(こ)れに従事せざる可らさるを顧慮(こりょ)して為之(これがため)退校せし者蓋(けだ)し又少なからざるなり。
 然(しか)るも幸(さいわい)に中学校の規則に於て女生の入学を許すあれば則(すなわ)ち可なりと雖も、斯(かく)の如き事は実際出来さるなり。されば今日我高知県に於ては女子の学問する場所大に狭隘となり、小学以上の学問を為す可き所なきに至りしと云ふも不可なきなり。それも又慨嘆すべき事ならずや。
 依(よっ)て余は此(ここ)一の高等女学校を設立し、夫(か)の小学以上の学問をなす場所を設立し、以て高等の学課を修めんとする希望者の意を満たしめんと欲するなり。而して其家屋の如きは、師範学校の跡を借受くるも可なり。猶(な)ほ又是等(これら)の方法に至ては建議の議場に容(い)られし後述べんが、其の概略を一言(いちごん)せば、先づ生徒を百人と限り、学期は三年として、其費用は概算一千二百円位を年々支算(しさん)せんと欲するにあり。」

 【高知県尋常中学校女子部として実った植木の動議】

 同月3月30日、植木が発議した高等女学校を文部省が認可しました(高知日報、1887年3月31日付。土陽新聞、1887年4月1日付。データは『土佐自由民権運動目録』。土佐自由民権研究会。財団法人高知市文化振興事業団。1994年12月25日)。
 ことの推移を『近代高知県教育史』(高知県教育史編集委員会。高知県教育研究所。1964年3月1日)は、つぎのようにえがいています。
 「……高等女学校設置の件が明治二〇年(一八八七)三月の通常県会に上程され、その決議によって、建議案を文部省に提出した結果、同年九月高知県尋常中学校に女子部が設置されることになった。」
 そして、翌1887年(明治21年)3月、「高知県尋常中学校規則」が改定され、女子部にかんする規則が定められました。
 それによると、女子部は「女子処世要務ノ為(ため)ニ須要ナル教育を施(ほどこ)ス所」とされ、入学資格は、満年齢十二歳以上の女子で、修業年限は四年でした。学科は、倫理、国語、漢文、英語、仏語、地理、歴史、数学、博物、物理、化学、習字、図画、唱歌、体操という男子部と同じ教科のほかに、家事経済、裁縫手芸が課せられました。その他の規則は、男子部と同じでした。
 同月31日、高知県立病院付属医学校が廃止され、その跡に中学校女子部が置かれました(『増補改訂版 高知県歴史年表』。高知地方史研究会。高知市立市民図書館。1975年10月25日)。

 【高知県高等女学校に発展しました】

 高知県尋常中学校女子部は、こうして高知県における唯一の女子中等教育機関となりました。
 1893年(明治26年)4月、同校は独立して高知県高等女学校になり、4学級95人の生徒で新しく出発することになりました。

 (2010年1月15日) 

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