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2010.01.18

高知県 須崎町の須崎国民学校の日々。

 『温故知新 南校舎改築記念誌』(須崎小学校南校舎改築記念誌編集委員会。一九八七年二月一日)を読んでいて、一九四四年、一九四五年当時の高知県須崎町の須崎国民学校について、いくつか発見がありました。

   【運動場はイモ、カボチャ、ヒマワリの畑に】

 一九四四年、同校を卒業した大家順助さんが当時のことを書いています。
 「……食料不足となると学校の運動場の一部も芋や、かぼちゃ作りの畑となってしまった。ヒマワリの種も軍用の油となり、たくさん植えたのであった」
 
   【須崎海洋少年団の訓練】

 大家順助さんが、須崎海洋少年団のことを書いています。
 「……軍事的な教育も着々と進んで昭和十八年[一九四三年]には、海軍下士官帰りの先生が受け持ちとなった。(匿名)早速須崎海洋少年団を結成(小学五年生で入団・団員約七~八〇名)し、海軍仕込みの手旗信号、ロープむすび、無線通信(モールス信号)カッター(大型ボート)の訓練など、二年間にわたり教育を受けた。
 昭和十八年八月には、元海軍元帥・永野修身閣下が安和の(十六年新庄村、須崎町と合併)修身塾建築祝祭のため来須した。安和の浜で団員が日頃の訓練を披露した。」

   【奉安殿を避難させました】

 大家順助さんが書いていることを続けます。
 一九四四年、アメリカ軍機の空襲に備え、校門の正面にあった奉安殿(天皇、皇后の写真などをまつる)を裏山に避難することになりました。防空壕(ぼうくうごう)を掘っていると昔の古い人骨が出たので、糺鴨神社の裏に場所を変えて、奉安殿の避難場を完成させました。

   【県からの「校舎の天井を取り払え」という通達】

 一九四五年の一学期のはじめ、高知県が、高知市内校や須崎国民学校のように郡部で街の中にある学校に県からつぎのような通達がありました。
 内容は「木造教室の屋根裏の天井は直ちに全部取り払え」とうものでした。「敵の空襲により焼夷弾(しょういだん)が投下されたとき、この焼夷弾が天井に止まると消火がしにくいので、そのまま床に落ちるようにするため」でした。
 須崎国民学校では、これが実行されました。
 一九四七年九月一日に、同校に教員として赴任した大中清さんが、以下のように書いています(同校は、須崎小学校になっていました)。
 「(須崎小学校の)ほとんどの教室に天井がなかった。これにはいろいろの障害があった。その一つは隣りの教室の音が入ることだった。(中略)この音がうるさくて仕様がない。影響はこれだけではなかった。秋が終わり冬が近づくと出始めた。教室が暖まらないのである。天気のよい日は教室に日光が入る。暖められた空気は、天井がないのでどんどん逃げてしまう。(中略)
 もともと天井は、屋根裏を隠したり部屋の保温効果をねらったものだが、そのことがよくわかった。寒がりやの私にとってこの教室は苦手だった。」
 天井板が校庭に山ほど積んであったといいます。

   【学校には軍隊も駐屯し……】

 大家順助さんは、須崎国民学校に軍隊が駐屯していたことも書いています。
 「……やがて本土決戦にそなえ、学校には軍隊も駐屯し、敵前上陸に備え、城山、向山、角谷の山々に陣地構築のための勤労奉仕へと変わっていった。」

 なお、文中の県からの通達について高知県庁に問い合わせたら、戦災で焼けてしまってわからないとの回答でした。

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