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2010年3月

2010.03.01

上海(しゃんはい)事件の時の高知で、反戦ビラが8回、陸軍歩兵44連隊などに配布されました。3月19日夕、高知市の平和資料館・草の家ホールで講演と詩の朗読と踊りの夕。

上海(しゃんはい)事件の時の高知で。反戦ビラが8回、陸軍歩兵44連隊などに配布されました。講演と槇(まき)村(むら)浩(こう)の詩の朗読と踊りの夕。  【藤原義一からのお知らせ】

  3月19日(金)午後6時半~8時半
 平和資料館・草の家ホール(高知市升形9の11)

 アメリカ軍の艦船の宿毛港湾への寄港、対人狙撃銃、120mm迫撃砲RT、01式軽対戦車誘導弾、110mmロケット弾、91式携帯地対空誘導弾などを備えた陸上自衛隊連隊の高知県への移駐(3月24日)と、きな臭くなってきた高知のこのごろです。そんな中、いま「あのこと」が注目されます。大日本帝国の、あの治安維持法の時代の1932年1月~4月、高知県で上海出兵ノーと青年たちが陸軍歩兵44連隊(高知県朝倉村)などに八回以上も反戦のビラを配布したという出来事です。

 平和資料館・草の家研究員の藤原義一が、配布の状況、配布した青年たちの思い、その影響、この行動の意味について講演します。これらのビラの原稿をつくった槇村浩さんの詩「生ける銃架(じゅうか)」を横田和久さん(詩人サイコポムプ)が朗読、中山直一さん(舞踏家)が、朗読に合わせて踊ります。

 主催は、槇村浩の会、共催は治安維持法犠牲者国賠同盟、平和資料館・草の家。参加費・資料代500円。

 【参加されるかたへ】

 資料準備などのため、事前に「私も参加します」と、ご一報いただければ幸いです。

 メールアドレス  bqv01222@nifty.com

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2010.03.02

『陸軍省大日記』のありか。インターネットで見ることができます。高知の「歩兵四十四連隊」を検索したら……。

 『陸軍省大日記』を読みたいと思って「国立公文書館アジア歴史資料センター」のホームページを検索しました。

 しかし、うまくいきません。
 で、電話して教えていただきました。

 ● トップページの「資料の閲覧」をクリック。
 ● 「階層検索」をクリック。
 ● 「防衛省防衛研究所」をクリック。

 「やったー」。一番上にありました。
 ありがとうございました。

 高知の「歩兵四十四連隊」を検索したら「思想要注意者入隊の件」などいう文書が目立っていました。

 国立公文書館アジア歴史資料センターは、以下のサイトです。

 http://www.jacar.go.jp/

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いま、陸上自衛隊の情報保全隊は、いまどうなっているのでしょうか。

 陸上自衛隊の情報保全隊は、いまどうなっているのでしょうか。
 以下は、2007年6月7日(木)の「しんぶん赤旗」の記事です。

  自衛隊による違憲・違法の国民監視活動を告発する

      2007年6月6日 日本共産党幹部会委員長 志位 和夫

 日本共産党の志位和夫委員長が六日、国会内での記者会見で発表した「自衛隊による違憲・違法の国民監視活動を告発する」は次の通りです。

 入手した自衛隊情報保全隊の内部文書について

 わが党は、陸上自衛隊の情報保全隊が作成した内部文書を入手した。入手した文書はつぎの二種類、計十一部、A4判で総数百六十六ページにおよぶものである。
 (1)第一は、「情報資料について(通知)」と題した文書である(以下「文書A」)。陸上自衛隊・東北方面情報保全隊で作成された文書で、東北方面情報保全隊が収集した情報を、週間単位で一覧表としてとりまとめ、分析をくわえたものである。二〇〇四年一月七日から二月二十五日までの期間のうち、五週間分、五部の資料を入手した。「別紙」として「情報資料」が添付されており、情報保全隊が収集した情報資料が詳細に記録されている。
 入手した「情報資料について(通知)」の「表紙」は、東北方面情報保全隊長から各派遣隊長あてとなっているが、配布先を示すと思われる「配布区分」には「情報保全隊長、東北方面総監部調査課長、仙台派遣隊3部 北部、東部、中部、西部各方面情報保全隊長」と記されている。この文書は、同様の情報が、全国五つの方面情報保全隊(北部方面、東北方面、東部方面、中部方面、西部方面)から情報保全隊本部(東京・市ケ谷)に、定期的に提出されていることをうかがわせるものとなっている。
 (2)第二は、「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」と題した文書である(以下「文書B」)。情報保全隊本部が作成した文書で、この文書の「趣旨」として、「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」を、「週間単位及び月単位でまとめ」、「今後の国内勢力の動向についての分析の資とするものである」とのべられている。二〇〇三年十一月二十四日から二〇〇四年二月二十九日までの期間のうち、六週間分及び「11月総括」「1月総括」の、六部の資料を入手した。
 入手した資料には、全国の情報保全隊が収集したイラク自衛隊派兵に反対する運動についての資料が詳細に記録されている。この資料には、配布先等は記されていないが、情報提供者によれば、情報保全隊本部から全国五つの方面情報保全隊に配布されていたとされる。
 (3)これらの文書は、自衛隊関係者から日本共産党に直接提供されたものである。文書には、自衛隊内部の者でしか知りえない情報が多数記載されている。党として、文書の記載内容と事実関係を照合する独自の作業をおこなったが、抽出調査したもののうち、事実と照合しないケースは一例もみられなかった。これらから文書の信憑(しんぴょう)性は疑いないものと判断した。

 情報保全隊がおこなっていた活動について

 自衛隊の情報保全隊とは、防衛庁長官直轄の情報部隊として、二〇〇三年三月に、それまでの「調査隊」を再編・強化してつくられた部隊である。陸海空の三自衛隊に設置され、隊員数は約九百人とされる。主力である陸上自衛隊では、中央の情報保全隊本部のもとに、五つの方面隊ごとの情報保全隊がおかれている。その任務は、表向きは「自衛隊の機密情報の保護と漏洩(ろうえい)の防止」とされてきた。
 これまで、政府は、情報保全隊にたいする情報開示要求に対して、ことごとく「不開示」として拒否し、「国家の安全」を盾に、この部隊がどのような情報収集活動をおこなっているかについて、いっさいを秘密のベールにつつんできた。
 しかし、わが党が入手した内部文書は、情報保全隊が、国民のあらゆる運動を監視し、詳細に記録していたことをしめしている。
 (1)「文書A」に添付された「一般情勢の細部」は、情報保全隊が、国民のあらゆる種類の運動を監視の対象としていたことをしめしている。そこに記載された多くは、この時期に全国各地で広がった自衛隊のイラク派兵に反対する活動であるが、それ以外にも、「医療費負担増の凍結・見直し」の運動、「年金改悪反対」の運動、「消費税増税反対」の運動、「国民春闘」の運動、「小林多喜二展」のとりくみなどへの監視がおこなわれていたことが記載されている。これは自衛隊情報保全隊が、国民のおこなう運動の全般にわたる監視活動を、日常業務として実施していることをしめすものである。
 (2)「文書B」は、イラク派兵に反対する運動の監視については、特別の体制がとられていたことをうかがわせるものである。情報提供者は、陸上自衛隊の情報保全隊は、「国民的に高まったイラク派兵反対運動の調査を中心的な任務とし、他の情報よりも優先して本部に報告する体制をとっている」、「情報保全隊は上部からの指示で、各方面ごとに反対運動を調査し、各方面の情報保全隊は、情報を速やかに情報保全隊本部に反映するため、毎日昼に前日の反対運動をまとめて報告する」と証言している。
 (3)「文書A」「文書B」によると、情報保全隊は、監視・収集した国民の運動を運動団体別につぎのように「区分」して集約している。
 「P」――日本共産党および「日本共産党系」と区分された労働運動・市民運動など。
 「S」――社会民主党および「社会民主党系」と区分された労働運動・市民運動など。
 「GL」――民主党および連合系労働組合、それに関連すると区分された市民運動など。
 「CV」――上記に区分されない市民運動など。
 「その他」――市民運動、個人、地方議会の動向など。
 「NL」――「新左翼等」と区分された運動など。
 こうした独断的・一方的な「区分」、色分けは、それ自体が集会・結社の自由を侵害する行為であるが、こうした「区分」をみても、情報保全隊による監視対象が、国民のあらゆる運動分野に及んでいることをしめしている。
 それぞれについての記述はきわめて詳細である。「文書A」では「発生年月日」、「発生場所」、「関係団体」、「関係者」、「内容」、「勢力等」などの項目で、「文書B」では、「区分」、「名称(主催団体)」、「行動の形態」、「年月日」、「時間」、「場所」、「動員数」、「行動の概要」などの項目で整理し、詳細に記述されている。そこには多数の個人が実名で記載されている。
 「文書B」に記載されている「反対動向」のうち、「市街地等における反対動向」の監視対象とされた団体・個人は、全国四十一都道府県、二百八十九団体・個人におよび、高校生まで監視の対象とされている。ここにはデモの行動の様子や参加者を撮影した写真も添付されている。
 (4)情報保全隊は、社会的に著名な映画監督、画家、写真家、ジャーナリストなどの活動なども、監視の対象としている。マスメディアの動向についても監視下におき、詳細に記録されている。マスメディアとの「懇親会」の席上で、誰がどういう質問をしたかまで、肩書付きの実名で記録されている。「駐屯地を退庁する隊員に対し取材を実施した」ある大手新聞のメディア記者の行動は、「反自衛隊活動」として記載している。イラク・サマーワに派遣されたメディアの特派員の動向も、詳細に追跡されている。
 各地の市町村議会でおこなわれた「イラク派兵反対決議」についても、その発議者、賛否議員数、議会構成などについて、詳細に記録している。国会議員についても、民主党の国会議員によるイラク派兵への批判的発言と、それへの対応が記載されている。
 宗教団体の活動についても、仏教者やキリスト教関係の団体のおこなった平和運動が監視・記載されている。さらに「文書B」では、「日本国内におけるイスラム勢力等の特異動向」という項目が特別に設けられており、イスラム系団体が組織的・系統的な監視対象にされていることをしめしている。

 情報保全隊の活動の全容を明らかにし、違法・違憲の監視活動をただちに中止せよ

 わが党が入手した文書は、軍事組織である自衛隊の部隊が、日常的に国民の動向を監視し、その情報を系統的に収集しているという驚くべき事態を、動かしがたい事実としてしめすものである。こうした活動が、憲法二一条に保障された集会、結社および言論、出版などの表現の自由を根底から脅かす憲法違反の行為であることは明らかである。
 さらに、個人名がいたるところに記載され、デモ参加者にたいする写真撮影がおこなわれていることは、個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利を明記した憲法一三条が保障する個人のプライバシーに対する侵害行為である。「マスコミ動向」の監視は、言論・出版の自由を脅かすものである。地方議会にたいする監視活動は、地方自治にたいする軍事権力による介入である。宗教団体、とくにイスラム系団体にたいする監視は、信教の自由にたいする重大な侵害となる。
 情報保全隊がおこなっている活動は、日本国憲法を蹂躙(じゅうりん)した違憲の活動であるとともに、自衛隊法にも根拠をもたない違法な活動である。
 自衛隊という軍隊が、政府・自衛隊の活動に批判的な市民や政党の活動を監視する――これは戦前・戦中の「憲兵政治」――軍隊の治安機関であった憲兵組織が、やがて国民全体の監視機関となり、弾圧機関となった暗黒政治を今日に復活させようとする、絶対に許しがたいものである。
 これ以上、こうした闇の部隊の活動を隠蔽(いんぺい)・継続することは許されない。わが党は、政府にたいして、情報保全隊の活動の全容を明らかにすることを求めるとともに、違憲・違法な監視活動をただちに中止することを、強くもとめるものである。

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2010.03.03

高知市 わが家のアーモンドの花。春です。

Photo

 アーモンド
 大きな桃色 花咲かせ 
 わが家の春の 始まり始まり

  アーモンド
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 アーモンドは、バラ科サクラ属の落葉高木。およびそれから採ったナッツのこと。和名はヘントウ(扁桃)、ハタンキョウ(巴旦杏)あるいはあめんどう。
 原産はアジア西南部。現在では南ヨーロッパ、アメリカ合衆国、オーストラリアなどで栽培されており、アメリカ合衆国のカリフォルニア州が最大の産地です。日本では小豆島などで栽培されています。
 その木は約5メートルになります。日本では3-4月にかけて、葉のない枝に、白色又は桜色・桃色の花弁の端に小さな切込みの入ったサクラの特徴を有する花をサクラ同様のたたずまいで咲き誇り、7-8月に実が熟します(但し花柄が非常に長い桜の花と違いアーモンドは花柄が非常に短く、枝に沿うように花が咲く為、桜色・桃色の花の品種の場合は桃の花そっくりに見える)。

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高知市 「買ってきた マグロ缶詰 差し出して……」。

 買ってきた マグロ缶詰 差し出して
 「これで食べてね」
 妻は、また外

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感激しました。第七回高知短期大学がくゆう文化展。

Photo_2

Photo_3

  第七回高知短期大学がくゆう文化展が終わりました。

 目を細め 「みんないい顔」 数点の 笑顔の写真 画廊の最初

 カキの実の 向うの虹の 写真あり 何度も見てる 友の作品

 藍染(あいぞめ)の 作品群が 気に入って 卒業祝いに 注文してる

 歓声が 聞こえてきそう 馬乗りの 遊びの人形 撮らせてもらう

 オガタマの 甘い香りを 吸い込んで 生け花 写俳 も一度めぐる

 馬乗りの遊び、高知では「どんま」といいます。上田百合子さんの作品でした。

 オガタマノキ
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 オガタマノキは、モクレン科の高木。日本に自生するモクレン科では唯一の常緑樹です。別名オガタマ、トキワコブシ
 葉は倒卵状楕円形でやや肉厚の革質、表面には強い光沢があります。2~4月にかけて芳香の強い直径3cmの帯黄白色の花を、枝の先端近くの葉腋につけます。通常樹高は10-15mの高木でありますが、樹齢数百年を閲した木には20m以上に達するものも少なくありません。ミカドアゲハの食樹としても知られています。
 日本列島の本州関東中南部以西、四国、九州、南西諸島に分布し、原名変種は日本固有です。

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2010.03.04

「良心はシュレッダーにかけられません!!」。ふむふむ……。

 三月三日午後、喫茶店で『ビッグコミックオリジナル』(小学館)三月五日号を読みました。
 「釣りバカ日誌」(作・やまさき十三さん。画・北見けんいちさん)を読んでいたら佐々木常務のいいせりふに出合いました。
 「良心はシュレッダーにかけられません!!」
 ふむふむ。

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ありがとう、ブログの記事を見てくれた「あなた」。

 「こんなこと考えてるんだ。読んどくれ」 面白いねえ、人の欲望

 アップした アーモンドの花 見てくれて メールくれたよ 「I am happy」

 メールには、アーモンドをテーマに心にしみるエピソードが書かれていました。

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英語の問題集、二枚に二時間半もかかって……。

 三月三日は、夕方、早々とダウン。さっさと寝てしまいました。
 起きたら午前零時。
 とんとんと一階に降りたら作業を終えた妻が就寝前の歯みがきの最中。
 僕は、英語塾の練習問題を解き始めます。
 二枚で二時間半かかりました。
 疑問もたくさん生まれました。
 午後には先生に聞いて解決したいと思っています。
 その後は、図書館に出かけて講演原稿の材料探しをと思っています。

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妻は、女性大学一年生。修学旅行に出発します。

 妻は、早朝から出雲方面へ。
 高知市老人クラブ連合会の女性大学の修学旅行だそうです。

 彼女は、これがすんだら女性大学の二年生に。
 昨年のいまごろは「私は老人じゃない。老人クラブとかかわりたくない」とごねていましたが、活動を始めると熱心にやっています。
 女性大学の制服は真っ赤な色。最近、妻は着るものも派手好みになってきています。

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「祭壇の 虎さんの顔 大笑い 赤カーネーションを 一本捧げる」。高知市の岡村虎彦さん逝く。

 高知市の岡村虎彦さんが三月二日、亡くなられました。
 六十三歳でした。
 一九二六年三月二十四日生まれ。
 一九四五年四月、海軍兵学校卒業。
 高知市池の浦戸海軍航空隊の陸戦の特別攻撃隊長に。数十人の隊員とともに近くの仁井田国民学校の講堂を兵舎にして、浜で特別攻撃の訓練をしました。タコつぼに潜み、爆弾を持って上陸して来たアメリカ軍の上陸用舟艇に突撃していく訓練でした。
 一九四五年十一月、復員。
 海運業などにたずさわりました。
 その後、一九五一年に日本共産党に入党。
 一九六〇年十一月十四日、悦子さんと結婚。
 一九六一年の日本共産党第八回大会に代議員として参加。
 党の常任活動家になり、県副委員長に。
 引退後も病気とたたかいながら地域で活動しました。

 そのかみの 特攻隊長 日本共産党(とう)選び 五十九年 真っ直ぐ生きる

 学生の たまり場だったね 虎さんち 食客のよな 豪傑もいた

 病床で 日本共産党(とう)綱領を 学んでた 虎さんの肩 覚えているよ

 祭壇の 虎さんの顔 大笑い 赤カーネーションを 一本捧げる

 【関連のページ】

http://kouyoukai.exblog.jp/12930561/

http://kouyoukai.exblog.jp/12931865/

http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub2-16.html

http://www.haruna-naoaki.jp/

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2010.03.05

【記録】 伊方原発(愛媛県伊方町)プルサーマル発電 二〇一〇年。

 四国電力の伊方原発3号機(愛媛県伊方町)が、プルサーマル発電を始めました。この関連の出来事の記録です。

 国の核燃料サイクル政策の柱であるプルサーマル発電は、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムにウランを混ぜたウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を使用します。
 伊方原発には、三基の原発があります。いずれも加圧水型軽水炉で、一九七七年に運転を始めた1号機と一九八二年に運転開始の2号機は五十六万六千キロワット、一九九四年運転開始の3号機は八十九万キロワット。設置許可取り消し訴訟で、原発近くの海底にある活断層による地震の可能性が議論になりました。プルサーマル計画への了解など原発運転について、四国電力と愛媛県、伊方町は安全協定を結んでいます。

 [二月十二日] 四国電力の伊方3号機が、十六体のMOX燃料の装荷を終えました。

 [二月二十六日] 伊方原発3号機のプルサーマル実施にともなう、国からの総額六十億円の核燃料サイクル交付金が県と伊方町、八幡浜市に一〇年度から五年間で交付されることが正式に決まりました。県は、配分する金額を県と伊方町は各二十六億七千万円、八幡浜市に六億六千万円とすることを決定しました。この交付金はプルサーマル実施を受け入れる原発が立地する県や市町村、隣接市町村が対象で、借金の返済や役所庁舎の建て替えなどを除き、幅広く使えます。交付が認められるには県が経済産業省に地域振興計画を提出する必要があり、県は八幡浜市立八幡浜総合病院や県立中央病院(松山市)の整備などの事業計画をまとめました。八幡浜市は原発事故による初期被ばくの治療を視野に入れた市立八幡浜総合病院の医療機器整備費に丸々投入する予定です。(毎日新聞 三月四日 地方版)

 [三月一日] 午後一時五十分ごろ、伊方3号機が核燃料の制御棒を引き抜き、原子炉を起動しました。

 [三月一日] 四国電力の事実上のプルサーマル開始に対し、反対する市民団体、「原発さよなら四国ネットワーク」の約十人が同日、松山市で抗議活動をしました。雨の中、マイクで「MOX燃料を使い発電するのは無謀。(四電は)耐震性を小さく見積もり、安全をないがしろにした」と訴え、松山市駅前などで中止を求めビラを配りました。四電松山支店前では、同ネットワークの麻生満枝さん(62)が「伊方3号機で微量の放射能が漏れた事故の原因究明は不十分。開始に強い憤りを感じる」と抗議文を読み上げ、四電に提出しました(共同通信 三月一日)。

 [三月二日] 午前四時五十分、伊方3号機が核分裂の連鎖反応が一定になる臨界に達しました。

 [三月四日] 四国電力が、伊方原発(愛媛県伊方町)3号機で使用済み核燃料を再利用するプルサーマル発電を始めたと発表しました。同日午前六時五分、出力四万五千キロワットで発電を開始しました。同発電の実施は二〇〇九年十一月の九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)3号機に続いて国内2例目です。

 [予定 三月七日] 伊方3号機が出力100%に到達、熱出力を一定に保って運転する「定格熱出力運転」に入ります。

 [予定 三月三十日] 伊方3号機が、に国の最終検査に当たる「総合負荷性能検査」を受けて営業運転を始めます。 

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「P6」を知っている高知大学に通ったみなさんへ。元学生の四人の男性が集まりました。

 三月四日夜、高知大学に行っていた人たちが四人の男性と、学生下宿をやっていた女性があつまりました。

 僕は、文理学部文学科史学で、ほかの三人より一学年上で、四年生になる前にやめました。

 KAさんは、教育学部を四年で卒業して、校長をつとめて、いまは定年退職しています。写俳をやっています。俳句と写真を組み合わせて見せる芸術です。

 NAさんは、文理学部文学科史学で、七年で卒業。いまは会社社長です。

 学生のとき、「暴力学生に、ゲバ棒で頭を殴られて負傷した」といいます。

 HOさんは、文理学部の理学系で、八年で卒業。最近、定年退職しました。いまは、独り暮らしで、畑仕事に興味を持っているとのことです。

 「学生自治会の藤原さんと小池倍夫(こいけ・ますお)さんが文科一年のクラスに、ようオルグにきよった」(NAさん)

 「あのP6で……」(HOさん)

 P6は、昔の陸軍歩兵四十四連隊の二階建て木造の建物で、そのころはオーケストラ、マンドリンクラブ、軽音楽のブルースカイ、グリークラブ、ESS、文理学部学生自治会執行委員会、児童文化研究会、ワンダーフォーゲル部、山岳部などが入っていました。

 女性の発言が印象的でした。

 「この人(藤原のこと)、やりたいことがいっぱいあって成功せん」

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職場の先輩だった東京都のIさん(男性)からの電話。

 夜、職場の先輩だった東京都のIさん(男性)から電話。
 「五月の末、高知にいくから」

  旧友を訪ねる旅だといいます。

 大歓迎です。

 少しと前には東京と大阪の三人の友人が、高知に来てくれました。

 生きていると、いろいろ楽しいこともありますね。

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2010.03.07

アメリカ軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地(山口県)沿岸で核兵器を保管していたと証言というニュース。

 三月七日、毎日新聞の一面トップ記事を見て驚がく。

 元駐日米大使補佐官:「岩国で核保管」66年に3カ月以上

 【ワシントン古本陽荘】ライシャワー元駐日米大使の特別補佐官だったジョージ・パッカード氏が、毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地(山口県)沿岸で核兵器を保管していたと証言した。同氏によると、核兵器を搭載した艦船を「ほぼ恒常的な形で」配備し、核攻撃に備え、「(一時的な)通過とは言えなかった」という。
 パッカード氏は先に米外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」で、当時米軍が沖縄から本州へ核兵器を秘密裏に持ち込んだことを明らかにしていた。
 同氏によると、核兵器は、海兵隊の戦車揚陸艦内で保管され、揚陸艦は岩国基地に隣接する係留施設に留め置かれていた。核兵器は有事の際、数時間以内に同基地飛行場の航空機に搭載され、攻撃に向かう可能性があったという。
 国防総省の当時の首脳らもこの事実を把握。ワシントンで行われた会議の際、国務省の担当者がいる前で国防総省幹部が、岩国の核兵器に言及したことから偶然、発覚した。
 60年の日米安保条約改定の際、米軍が核兵器を日本に持ち込む際には、日米両国の事前協議の対象にするとされた。さらに、核兵器を搭載した米軍航空機や艦船の寄港や通過については、事前協議の対象とはしない「密約」があったことが判明している。核兵器の常時に近い形での配備は、これらに明確に反するものだった。
 パッカード氏は「岩国の核兵器は許容される『通過』には当たらないとライシャワー大使は即座に判断し、激怒した」と証言。辞任して暴露する可能性に言及して、米軍に撤去を求めたという。
 さらに、米軍の意図については「日本では誰も気が付かないという判断の下、秘密裏に配備された」と分析し、「ライシャワー大使の姿勢は米軍に対し、日米の取り決めを順守するよう求める警告になった」と強調した。

 ◇ジョージ・パッカード氏
 1932年生まれ。63~65年にライシャワー駐日米大使の特別補佐官を務める。ニューズウィーク誌記者、ジョンズ・ホプキンス大高等国際問題研究大学院長などを経て、98年から米日財団理事長。近著に「ライシャワーの昭和史」。

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まっことひどい。民主、社民などの政権。医療を年齢で差別するという発想そのものが大問題。【追伸あり】

 高知新聞三月七日一面トップは「高齢者医療の新制度案 65歳以上 国保に加入 財政運営 現役と別」。

 ひどいなぁ、民主党、社民党などの政権。
 ことの本質は、「年齢で別制度にする」という発想にあります。
  これでは、後期高齢者医療制度を六十五歳からに繰り上げるということではないでしょうか。

 国民をなめたことをするな!!!!!!

 新制度案、65歳以上は国保加入 高齢者医療で厚労省

 厚生労働省が75歳以上の後期高齢者医療制度を廃止した後、2013年4月に導入する予定の制度案の概要が6日、分かった。65歳以上は市町村が運営する国民健康保険(国保)に原則的に加入するが、国保の負担を抑えるため、財政運営の仕組みは高齢者と現役世代を別にする。
 75歳以上の高齢者の保険料は現行制度の場合と大きく変わらない見通し。厚労省は、今回の制度案を基に、今後窓口負担の在り方など制度の細部について検討する。
 厚労省は新制度の検討にあたり、65~74歳の医療給付費の公費(税)負担を後期医療制度並みに50%まで拡大すべきか財政試算を実施。拡大した場合には国の財政を大幅に圧迫することが判明したため、公費の50%負担は現行のまま75歳以上に限定し、財政力が豊かな健康保険組合に負担を求める方針だ。
 新制度案は「65歳以上は国保に加入」を原則とし、保険証は現役世代と同じにする。厚労省は保険料の上昇を抑えるため、将来的に75歳以上については公費の割合を50%から引き上げたい考え。会社で働き続けている人については、健保組合などへの加入継続も検討する。国保の負担は8千億円増えるが、厚労省は公費で補てんする考え。

 2010/03/07 02:02   【共同通信】

 【追伸】

   2010年3月9日(火)「しんぶん赤旗」

 「うばすて山」拡大 後期医療新制度 65歳以上国保加入案 厚労省試算

 後期高齢者医療制度廃止後の新制度について議論している厚生労働省の高齢者医療制度改革会議が8日に開かれ、65歳以上の高齢者を全員国民健康保険(国保)に加入させる案が示され、費用負担の詳細な厚労省試算を明らかにしました。
 政府は後期高齢者医療制度の即時廃止を求める国民の願いを裏切って4年後の新制度移行まで廃止を先送りし、同改革会議で四つの新制度案を検討しています。そのなかの一つである65歳以上の国保加入案は、75歳以上を別枠にして差別医療と負担増を押し付ける現行制度の対象年齢を引き下げ、「うばすて山」制度を拡大するものです。
 同案について厚労省は今回、65歳以上の高齢者の医療給付費のうち17%を高齢者自身の保険料で負担することになると試算しました。
 この案では、65歳以上の高齢者が入るのは64歳以下の現役世代とは別勘定の国保となり、保険料も財政も別建てとなります。保険料は、65歳以上の人口や医療費の増加に応じて値上がりします。

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2010.03.09

夫婦でパソコン、パソコン……。

 朝からパソコンに向かい、所属する団体の総会のお知らせ、発行している雑誌の記事の整理。

 夕方、事務所に行き、それから学校へ。経済学クラブの勉強会です。

 そして、家に帰ると、また原稿の整理。

 夜十一時半に、「明日にまわす」と決断しました。

 妻も、この日は、横でパソコン、パソコン……。

 ところで、この日、私が香川県に引っ越す日が決まりました。

 二十日から、引っ越しの用意まっしぐらになります。

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かつての高校生と高校教師たちが「高知県生徒会連合の歌」を歌いました。

 三月八日夜の集まりで、かつての高校生と高校教師たちが「高知県生徒会連合の歌」を歌いました。

 黒潮の怒涛(どとう)のなかに

 逞(たくま)しく生きる

 独立と自治の道

 友情のかたいきづなに

 若い血はおどる

 自由と平和のゆくて

 ああ生連旗、生徒会連合、進め! 進め!

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2010.03.10

短歌十首 「高知市に桜が開花した日に」。

 「八時まで帰らないから」 早々に家出る妻は元気いっぱい

 戦中の人の生きざま刻み込む 稿整理して その人と生く

 「山中のトーチカ群に行きましょう」 メールが来たよ、子の世代から

 独り居の荷物の整理急いでる 捨てたいけれど捨てられないもの

 持っていく 物、次々に増えていき 七畳半では寝る場所がない

 春あらし 田にさざ波を生み出して 夕陽の赤で あや織り遊び

 「おっ、まずい」 胸の早なり予兆あり 歌誌一つ持ち身を横たえる

 人々の優しさの意味問いかける一文を書く 締め切り前夜

 わが一文、「趣旨と違う」とほえまくる 妻の指摘は鬼のようだね

 わが講演 「参加します」のメールあり ルンルン気分で稿を練ってる

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2010.03.11

高知市で桜が開花とか。

 三月十日、高知市で桜が開花とか。

 僕は、今年は、まだ桜を見ていません。

 本日十一日、オートバイで市内を走り回る日程になっていますが、どこかで桜を写したいと思っています。

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国会で問題になっている核密約ってなあに?

 国会で核密約のことが問題になっていますが、核密約というのは何のことでしょうか。

 このことを説明する上で、まず、日本とアメリカとの安保条約のことをお話します。
 日本は、アメリカとの安保条約を2回結んでいます。
 一回目の安保条約は、1951年、朝鮮戦争の最中に、アメリカに講和条約との抱き合わせで押しつけられたものです。
 アメリカが占領中に日本全国につくった軍事基地をそのまま残す、使い方も勝手放題という内容です。軍事基地の実態は、アメリカの全面占領時代とほとんど変わりませんでした。
 その次に1960年1月に結んだのが今の安保条約です。
 柱が二つありました。一つは、いざという時には、アメリカ軍といっしょに戦争をするという「日米共同作戦」条項(第5条)です。
 もう一つが基地条項(第6条)で、独立国・日本の体裁をととのえようということで、「事前協議」の仕組みが新たにつくられました。基地の使い方はもうアメリカの勝手にはしない、重要なことは、日本政府と事前に協議してからやる、という仕組みです。
 しかし、これには裏がありました。
 その前の1959年6月に日米交渉がありましたが、それは、この「事前協議」の仕組みをつくるためのものでした。ここで合意した結論が、核兵器の取り扱いを含む密約、「討論記録」です。
 「討論記録」の第2節に「事前協議」の運用の内容を書いてあります。
 AからDまで4項あって、A項とC項が核兵器にかんする取り決めです。
 A項では、事前協議にかけるのは核兵器とその運搬手段となる中・長距離ミサイルの「日本への持ち込み」だと規定しています。ここでは、「持ち込み」を表すのに「イントロダクション(導入)」という言葉を使っています。
 C項では、「事前協議」の条項は、アメリカ軍の飛行機や軍艦の通過・立ち寄り(「エントリー」)には適用されず、それは「現行の手続き」通りとする、という内容です。「現行」とは、アメリカの勝手放題ですから、核兵器を積んでいても、軍用機や軍艦は、日本に自由勝手に出入りできる、こういうことが、ここで決められました。
 この核密約が結ばれたのは、今の行安保条約締結の半年前です。以来50年、国民と世界をあざむいて、アメリカの核兵器が日本に持ち込まれてきました。これは、日本の主権と世界の平和を脅かす大問題です。
 日本政府は、3月9日、日米密約に関する報告書についての調査結果を発表しましたが、それは「討論記録」の存在を認めながら、これが核兵器持ち込みの密約だったことを否定しています。
 私は、いまは、政府に、これが密約だと認めさせて、その上にたって、これを廃棄し、「非核三原則」を厳格に実施させることが大切だと思っています。

 【資料】

  討論記録(全文)
 相互協力及び安全保障条約

 討論記録(レコード・オブ・ディスカッション) 

 東京 1959年6月

 一、条約第6条の実施に関する交換公文案に言及された。その実効的内容は、次の通りである。
 「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更並びに日本国からおこなわれる戦闘作戦行動(前記の条約第5条の規定にもとづいておこなわれるものを除く。)のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする。」
 二、同交換公文は、以下の諸点を考慮に入れ、かつ了解して作成された。
 A 「装備における重要な変更」は、核兵器及び中・長距離ミサイルの日本への持ち込み(イントロダクション)並びにそれらの兵器のための基地の建設を意味するものと解釈されるが、たとえば、核物質部分をつけていない短距離ミサイルを含む非核兵器(ノン・ニュクリア・ウェポンズ)の持ち込みは、それに当たらない。
 B 「条約第5条の規定にもとづいておこなわれるものを除く戦闘作戦行動」は、日本国以外の地域にたいして日本国から起こされる戦闘作戦行動を意味するものと解される。
 C 「事前協議」は、合衆国軍隊とその装備の日本への配置、合衆国軍用機の飛来(エントリー)、合衆国艦船の日本領海や港湾への立ち入り(エントリー)に関する現行の手続きに影響を与えるものとは解されない。合衆国軍隊の日本への配置における重要な変更の場合を除く。
 D 交換公文のいかなる内容も、合衆国軍隊の部隊とその装備の日本からの移動(トランスファー)に関し、「事前協議」を必要とするとは解釈されない。
(「しんぶん赤旗」2009年8月3日(月)の「核密約と手を切り「非核の日本」の実現を 社会科学研究所所長 不破哲三氏に聞く 第1回 これが核密約だ」から)

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高知市大津乙 ご近所の水をはった田んぼの情景です。【写真あり】

Photo    ご近所の水をはった田んぼの情景です。三月十一月夕、撮影しました。

 こんな風景に心が吸い込まれそうな日々です。

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2010.03.12

a tongue twister って何?

 a tongue twister の意味を昨日、教わりました。
 tongue   舌
 twister   難事、難問
 ということで、早口言葉だそうです。

 フリー百科事典『ウィキペディア』に、英語の早口言葉の実例が載っていました。

She sells sea shells by the seashore.(彼女は海岸で海の貝殻を売っている。)

The shells she sells are surely seashells.(彼女が売っている貝殻は、きっと海の貝殻だ。)

So if she sells shells on the seashore,(だから彼女がもし海岸で海の貝殻を売っているのなら、)
I'm sure she sells seashore shells.(貝殻はきっと海岸の貝殻だ。)

Peter Piper picked a peck of pickled peppers.(Peter Piperは1ペックの酢漬けの唐辛子をつまんだ。)

A peck of pickled peppers Peter Piper picked.(Peter Piperがつまんだ1ペックの酢漬けの唐辛子。)

If Peter Piper picked a peck of pickled peppers,(もしPeter Piperが酢漬けの唐辛子を1ペックつまんだら、)
how many pickled peppers did Peter Piper pick?(Peter Piperはいくつ酢漬けの唐辛子をつまんだでしょう?)

Betty Botter bought some butter.(Betty Botterはバターを買った。)

"But," she said, "the butter's bitter.(彼女は「だけどバターが苦いわ」と言った。)

If I put it in my batter,(「もし生地に入れたら、)
It will make my batter bitter.(生地が苦くなってしまう。)

But a bit of better butter,(だけどもう少しいいバターがあったら)
That would make my batter better."(生地が良くなるでしょうね」。)

So she bought a bit of butter.(だから彼女は少しバターを買った。)

Better than her bitter butter.(彼女の苦いバターよりも良いバターを。)

And she put it in her batter.(そして生地にそれを入れた。)

And the batter was not bitter.(生地は苦くならなかった。)

So 'twas better Betty Botter(だからいいことにBetty Botterは)
Bought a bit of better butter. (もっといいバターを少し買った。)

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トーチカ、トーチカ、トーチカ……南国市の戦争を歩く。【写真四枚】

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 FUさんに案内してもらって南国市のトーチカ九基をめぐりました。
 蔵福寺水防待機所の横(物部川左岸)、前浜、浜改田……とまわりました。
 写真を四枚アップします。
 トーチカは、川べり、海辺、平地、山中といたるところにあります。
 上陸するアメリカ軍を海辺や川べりで攻撃し、あとは山中でたたかうというかっこうです。

 それにしても、山歩きしても、例のドックン、ドックンが出ません。治療のおかげです。

 FUさんの調査によると南国市には二十五のトーチカが残っているそうです。
 南国市のトーチカで僕の知っていたのは二つです。あとはFUさんが浜を歩き、山のヤブをこいで歩き回って調べ上げたものです。その熱意と行動力に感激します。
 なお、FUさんは、僕の息子の世代です。

 これらのトーチカにくわしいのは、つぎのサイトです。
 http://ameblo.jp/henroisimanjyu/entrylist.html

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そして、神馬・青銅馬像は残った――高知県南国市里改田の琴平神社。【写真あり】

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 高知県南国市里改田の琴平山(こんぴらやま。標高七二メートル)の頂上に琴平神社があります。この境内に神馬・青銅馬像(身長、高さともに約二メートル)があります。戦争中、国は金属供出を国民に強いました。この青銅馬像も、すんでのところで持って行かれるところでした。
 当時の宮司だった宮地豊吉さん(一八八八年三月二十四生まれ)が、その間の事情を語っています。
 「もちろん、この軍馬も目をつけられていましたよ。神社にあった日露[戦争]の戦利品――大砲や錨[いかり]なども供出しましたからね。しかしまあ琴平宮信仰の対象だというの、神馬はまあまあ大目に見ていてくれたのです。
 ところが、結局のどたん場――二十年[一九四五年]の五月も末ごろ、私の知らぬ間に供出ということになったらしい。ある日外出から帰ってみると、高知市の某古物商が、なんと引き倒して搬出しかけている。これをとどめておいて三和村役所にかけつけてみると、ちょうど県地方事務所の小笠原庶務課長も控えている。
 『供出せんとは言わん、しかし手順をふんでもらいたい』と抗議すると、さすがにすまんかったということで、以後何もいって来ませんでした。
 そら、今よくみると右耳がない。これはその倒したときに欠けたものですし、尻尾がないのは敗戦直後に盗難にあったものです」(一九七一年二月十一日談。『本土決戦 四国防衛軍 上巻』。茶園義男。徳島出版文化協会)。

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高知県南国市里改田の琴平山(こんぴらやま)に要塞砲がおかれていた!?

  高知県南国市里改田の琴平山(こんぴらやま。標高七二メートル)のことですが、『本土決戦 四国防衛軍 上巻』(茶園義男。徳島出版文化協会)によると、由良砲台から分解輸送された要塞砲が、ここに来て、一九四五年二月十一日、これをすえつける砲座の竣工式がおこなわれたということです。その作業をした徳島連隊の井上喜久男・少尉、佃正一・准尉の名もあがっています。
 砲座は、どこにあったのでしょうか。
 調べてみたいと思っています。

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2010.03.13

イエーッ、われらの「THE ヌーディー’S」。彼女たちのムービーがありました。パチ、パチ。

  ここです。

http://www.youtube.com/watch?v=ubKe5jsoofU

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2010.03.15

女性「九条の会」高知第五回平和の旅 その一 アメリカの水爆実験の放射能を浴びた体験。

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 十四日、十五日と女性「九条の会」高知第五回平和の旅に参加しました。参加者は二十二人(うち男性は三人)。県下の宿毛市、大月町へのバス旅行です。
 午前八時過ぎ、高知市丸ノ内を出発。
 二十歳のときの職場の先輩の女性も参加していました。
 「藤原さん、顔がはれちゅう(はれてる)。大丈夫?」
 当時の僕は五十五キロ、いまは八十五キロですので……。
 宿毛市で案内役の山下正寿さんが乗り込み。いざ、いざ……。

 まずは、同市小筑紫の八坂神社の境内に。
 そこで、ご近所に住む山下幸男さん(一九三三年十二月二十九日生まれ)からアメリカの水爆実験の放射能を浴びた体験を聞かせていたただきました。
 (くわしい内容は、後述)

 昼食をとった旅館の近くにレンゲの畑があり、見入りました(写真)。

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女性「九条の会」高知第五回平和の旅 その二 道わきに、おおつき九条の会の看板。

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 大月町に入りました。
 山の桜がきれいです。

 わおーっ。道路わきに、おおつき九条の会の看板がありました(写真)。
 すごい。ここでは憲法改悪反対・九条守れの署名に有権者の半数以上が署名をしているんですね。
 バスの中で、おおつき九条の会の安田勝事務局長のお話を聞きました。

 「九条を 守れの 署名 過半数」 迎えてくれる 大月(おおつき)を行く

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女性「九条の会」高知第五回平和の旅 その三 結婚の三か月後に拉致(らち)されて……。

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 大月町の柏島(かしわじま)へ。

 軍用道路建設のさいの事故で死亡した朝鮮人男性の碑を見ました(写真)。

 朴二東慰霊之碑

 柏島線の道路は 一九四四年一二月防衛道路として着工 翌年三月に完成した。 この工事には 約四〇人の朝鮮人が強制連行され断崖絶壁の最も危険な柏島~一切間の工区に従事した 一九四五年二月五日夕刻 作業中突如発破が爆発し 朴氏の左眼を鉄棒が貫通 即死した 
 朴氏は 一九二〇年 全羅南道完郡安面珍山里に生れ 一九三九年結婚 三ケ月後に強制連行されたのであった。
 新妻を残したまゝ 再び故国の土を踏むことなく望郷の念を胸に異郷の地に二七才の生涯を閉じたのである。
 この道路は 朴氏をはじめ多くの朝鮮人の血と汗と涙の尊い犠牲により建設されたことを永遠に忘れてはならない
 五〇周忌に当り こゝに慰霊碑を建立して御霊の安らかならんことを祈るとゝもに 恒久の日朝親善友好を祈念するものである

             一九九五年二月五日
            慰霊碑建立委員会建之

 結婚の 三か月後に 拉致(らち)されて 事故死したとう 朝鮮人の碑

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2010.03.16

女性「九条の会」高知第五回平和の旅 その四 柏島の震洋隊(しんようたい)の碑。

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 柏島(かしわじま)の続きです。

 震洋隊(しんようたい)のことが胸にどしんときました。
 こんな碑を見ました(写真)。
 震洋の壕の跡につくられたもののようです。
 碑の所に島娘(しまご)の花が咲いていました(写真)。
 島娘は、シャリンバイのことだといいます。
 ここから向かって右手に、あと五つの壕の跡がありました(下の方は、コンクリートでおおわれていますが)。 
 夕方、ふたたび、ここにいたら、青年がやってきました。
 話していたら台湾の中部で土木作業をしていた人で、三千メートル級の山の登山道の左右に日本軍の円形のトーチカがいくつもあるということを教えてくれました(そこへの行き方も教えてくれました)。

 特攻震洋基地跡碑

太平洋戦争の末期昭和二十年六月本土決戦に備え特攻震洋隊員四十八名がここに配置されこの丘の麓[ふもと]の六本の横穴に震洋艇二十四隻を格納し迎撃の機会を待った
危急存亡の時に当って決死殉国[けっしじゅんこく]の盟を結ぶ若い隊員の真心とこれを優しく見守って呉[く]れた島の人々の温情は筆舌に能[よ]く表[あらわ]す事が出来ない以後四十三年戦後の悲惨な荒廃から立ち上がった日本の今日の繁栄は当時生き残った青少年の力に因[よ]ることが大きい
各地の特攻に散華[さんげ]した多くの英霊に無限の感謝を込めて冥福[めいふく]を祈ると共に永遠の世界平和を願う一つの灯火として茲[ここ]にこの碑を建てる
         昭和六十三年十月吉日
         元第一二四震洋隊搭乗員有志

 【碑の裏面】

 柏島震洋隊歌

   半谷達哉 作詩

 二人乗りたる 震洋の
 四十八人 決死隊
 紅顔可憐 颯爽[さっそう]と
 襟[えり]に白絹 搭乗服

 出撃待機の 夜は更[ふ]けて
 しばしの夢は 父母よ
 先立つ不孝 許されよ
 み国の為に 征[ゆ]く生命

 黒潮寄せる 南国の
 夏の渚[なぎさ]に しるしたる
 涙の痕[あと]の いじらしや
 若き誓の なつかしや

 震洋(しんよう)の 碑のわきに咲く 島娘(しまご)花 死に追いつめた あの人のこと

 生きたいの 思いを秘めた 震洋歌(しんようか) 「先立つ不孝」 声あげて読む

 震洋の 隊員たちの あれこれを 語る女性ら 目に涙ため

 「この二階 隊長たちが 寝起きした」 海の近くの 郵便局舎

 兵、予科練 ここにいたのか ブランコが 風に揺れてる 廃校にいる

 【参考】

http://blogs.yahoo.co.jp/repairkitjp/31338192.html

http://blogs.yahoo.co.jp/kita198211/7561577.html

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女性「九条の会」高知第五回平和の旅 その五 柏島(かしわじま)は強風の島。

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 柏島(かしわじま)の続きです。

 養殖の 周りの小魚 狙うのか カモメ群れ飛ぶ ここ柏島

 ゴー、ビューの 風をさえぎる 塀のある 畑の中の 農婦の背中
 
 強風が ウインドサーファー 呼び寄せる 「でもね、日帰り」 島の声聞く

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女性「九条の会」高知第五回平和の旅 その六 海軍第二十一突撃隊の本部跡。

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 宿毛です。

 海軍第二十一突撃隊九の本部跡を見学しました。
 巨大な弾薬庫、巨大な貯油庫、魚雷艇整備の壕(ごう)……。

 【参考】

http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/sinyo-sukumo.htm

 

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高知市 レコーディング、初体験!!!

  三月十五日夜は、また初体験をしました。

 ある歌のレコーディングです。

 高知市の、あるスタジオで。

 歌ったのは県立高知短期大学の学生やOB。女性七人、男性三人。

 その中に僕も入っています。

 こういうこと、すごいことにのぞんでドキドキしなくなっている僕の大胆さを発見しました。

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高知の陸軍歩兵第44連隊、練兵場、射撃場の地図。やっぱり、ここが火薬庫。

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陸軍歩兵第44連隊、練兵場、射撃場

 1896年測図、1933年修正測図のものです。

 「四四歩」の北西隅の土手で囲まれている「火」は火薬庫です。

 この建物は、国立印刷局高知出張所に現存しています。いまは、火薬はなく、物置になっています。外壁には、アメリカ占領軍の兵隊が刻み込んだとみられる落書きがたくさんあります。

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2010.03.17

軍歌「雪の進軍」の、すごい歌詞。

 軍歌「雪の進軍」を何度も聞いています。

 すごい歌詞です。

 どこがすごいって……。

 ここで聞くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=ELvCVDLFauk

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藤原家の深夜の怪-妻の問い、「陸戦隊って、なんやろね?」。

 もう次の日になります。

 僕と背中合わせの位置にいる妻は、僕の原稿をチェックしてくれています。

 「陸戦隊って、なんやろね?」

 「うーん」

 「あっ、これ誤植。こんな単純なことなのに」

 「うーん」

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2010.03.18

日本のチーズケーキである蘇(そ) いまつくっています。

 日本のチーズケーキである蘇(そ)を、いまつくっています。

 ふたなしのナベに牛乳をそそます。
 弱火で煮詰めています。
 ときどき、かきまわしながら。
 そして、黄色の砂糖を加えました。
 へたりかけたイチゴを投入。
 これもへたりかかったブンタンをしぼってジュースを投入。
 途中から強火で、かきまでながら水分が少なくなるのを待ちます。。
 水分が少なくなくなったら、蘇(そ)をうつわに入れて冷蔵庫へ。

 あすは、どういう状態になっているでしょうか。  
 さて、さて……。

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「東富士演習場、北富士演習場 アメリカ軍優先使用の「協定案」 防衛相が存在認める」のニュース。

 きょう三月十八日の「しんぶん赤旗」に「東・北富士演習場 米軍優先使用の「協定案」防衛相、存在認める」という記事が出ていました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-18/2010031802_03_1.html

 2010年3月18日(木)「しんぶん赤旗」

 東・北富士演習場 米軍優先使用の「協定案」防衛相、存在認める 紙議員が質問

 陸上自衛隊東富士演習場(静岡県)と北富士演習場(山梨県)の優先使用を米軍に認めていた1962年3月2日の日米秘密協定案をめぐり、北沢俊美防衛相は17日の参院予算委員会で、同協定案について「存在している」と、政府として初めて認めました。一方で、「(協定は)合意に至らなかった」などと述べました。日本共産党の紙智子議員への答弁。
 東富士演習場は、68年に自衛隊管理の日米共同基地になっています。紙議員は2005年3月の同予算委員会で、秘密協定案が、米軍は年間で最大270日間、同演習場を優先使用できるとした内容を盛りこんでいたことを明らかにしていました。
 今回、新たに在日米軍司令部の活動報告書=「コマンド・ヒストリー」65年、66年版などを挙げ追及しました。
 66年版のコマンド・ヒストリーには、「防衛施設庁長官は66年2月25日、北富士と東富士の同時解放に向けて作業するとの米側の提案を受け入れるとの内閣の決定を在日米軍司令部に伝えた」との記述があることを指摘。さらに、70年1月の米上院外交委員会の議事録には、「在日米軍は(富士演習場を)毎年270日使用する権利を有する」と書かれていることを示し、「協定案の存在を示すものではないか」と迫りました。
 紙氏は、「東富士演習場は、全面返還が前提に成り立っている。270日の使用を認める秘密協定があればその前提に逆行し、地元住民をだましていたことになる」と批判しました。

 【この問題の参考記事】

 北富士演習場
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 陸上自衛隊北富士演習場は富士山北麓にある陸上自衛隊の演習場。面積は4,597ha。山梨県富士吉田市、山中湖村、忍野村の1市2村にまたがっており、北富士駐屯地業務隊が管理を担当している。

 歴史
 1936年(昭和11年)11月:旧日本陸軍により開設
 1945年(昭和20年)10月:敗戦により米軍が接収
 1958年(昭和33年):日本に返還
 1973年(昭和48年)4月:自衛隊管理の演習場に使用転換

 主な使用部隊
 陸上自衛隊
 第1特科隊
 部隊訓練評価隊(富士訓練センター(FTC))
 米軍
 第3海兵隊(キャンプ富士)

 東富士演習場
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

 裾野市大野原付近の東富士演習場。秋にはススキがゆれる。陸上自衛隊東富士演習場(りくじょうじえいたい ひがしふじえんしゅうじょう)は富士山東麓の御殿場市、小山町、裾野市にある陸上自衛隊の演習場。面積は8,809ha(88.09km²)で本州の演習場では最大である。このうち畑岡地区は富士総合火力演習の会場にもなっている。
 アメリカ海兵隊キャンプ富士原野と山林で構成される。アメリカ海兵隊のキャンプ富士地区を除いて、富士駐屯地に所在する陸上自衛隊富士学校(管理部演習場管理課)が管理している。北部は北富士演習場に接している。陸上自衛隊のほか、アメリカ海兵隊も演習を行う。火山灰土のためあまり農業に適さず、大部分は周辺の村々の草刈などの入会地として利用されてきた。地租改正の際に入会地は国有地(後に御料地等)とされてしまったため、地元への払い下げがたびたび行われた。
 御殿場市 6,139ha
 小山町 1,711ha
 裾野市 959ha

 歴史
 1896年(明治29年):日本陸軍の最初の演習が行われ、以降時々演習が行われた。
 1912年(明治45年):富士裾野演習場として正式に開設された。演習の妨げになるとして印野村の北畑集落が強制移転させられている。
 1908年(明治41年):滝ヶ原廠舎(現・滝ヶ原駐屯地)が設置
 1909年(明治42年):板妻廠舎(現・板妻駐屯地)が設置
 1936年(昭和11年):駒門廠舎(現・駒門駐屯地)が設置
 1945年(昭和20年)8月15日:
 第二次世界大戦で日本が敗戦したことから、陸軍解体により、8月23日に演習場の設定が解除された。住民は開拓を開始した。しかし、1947年(昭和22年)5月15日に連合国軍(アメリカ軍)が進駐を始めたため、開拓は中止された。米軍東富士演習場となり、1951年(昭和26年)9月8日に日米安保条約が結ばれ、アメリカ陸軍は引き続き留まった。
 1954年(昭和29年):陸上自衛隊富士学校が設置
 1955年(昭和30年):
 陸上自衛隊が演習場の無断利用を行ったため、1958年(昭和33年)に国を被告とする自衛隊立入禁止請求訴訟が地権者団体によって起こされた。裁判は翌1959年に和解し、国と地権者団体の間で、東富士演習場使用協定や入会協定等が結ばれた。自衛隊によるアメリカ軍の演習場の利用は法的根拠に基づかないものだったため、原告勝訴の可能性が高かったとされる。このため、米軍演習場の全面返還が盛り込まれるなど、地元有利の和解内容になっている。以降協定の更新が行われている。
 1968年(昭和43年)7月31日:アメリカ軍からキャンプ富士地区(117.7ha)を除く地域が日本政府に返還され、引き続き陸上自衛隊が管理している。

 地元への影響
 入会慣行があるため、演習のない日は入会権のある人は立ち入ることが可能となっている。このため、御殿場市や小山町の広報無線では演習の有無が放送される。入会地では茅や山菜の採取が行われる。入会権のない人による違法侵入、特に不発弾の持ち出しが問題になっている。演習の騒音軽減のために、家屋の防音工事には補助金が支給される。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-03-10/03-10-faq.html

 2002年3月10日(日)「しんぶん赤旗」

 米軍の実弾演習 各地に広がったのはなぜ?

 〈問い〉 米軍の155ミリりゅう弾砲実弾演習が各地に広がったのは最近のことと聞きましたが、どんな経緯があったのですか。 (山口・一読者)
 〈答え〉 いま米海兵隊の155ミリりゅう弾砲実弾演習は、鈴木宗男衆院議員が地元自治体に受け入れを強要した北海道矢臼別をはじめ、宮城県王城寺原、山梨県北富士、静岡県東富士、大分県日出生台の各演習場で行われています。「沖縄の痛みを分かち合う」ことを名目に一九九七年に沖縄から移転されましたが、演習は質・量ともに強化されています。
 以前はこの演習は、沖縄のキャンプ・ハンセンで行われていました。重要な幹線道路の県道104号越しに行うため、県民生活への影響は大きく、演習廃止は長年の県民要求でした。
 在沖米軍・米基地に県土が分断され、平和であるべき市民生活が日常的に破壊されていることへの沖縄県民の怒りが、九〇年代、在沖米軍・米基地の縮小・撤去と日米地位協定見直しを求める県と県民の共同運動に発展しました。これに対し日米両政府が沖縄の痛みの軽減策として出してきたものの一つが、この演習移転です。
 移転にさいし、演習は沖縄と「同質・同量」という日米間の合意がありましたが、いまやほご同然です。砲撃数は移転前の規模を大きく超え、沖縄ではやらなかった夜間砲撃訓練や、沖縄ではできなかった長距離の砲撃訓練も行うなど、規模と内容ではるかに上回るものです。地元の抗議・中止要求に対し、政府は現状を追認しています。
 一方、沖縄の痛みも軽減されていません。ロケット砲や対戦車砲などの実弾演習は続き、住民の被害が後を絶ちません。
 このような実弾演習の拡散・強化を許すことは、「なぐりこみ部隊」である海兵隊の駐留固定化・強化につながります。
 日本共産党は、米軍基地・海兵隊の永久化や米軍の戦争に日本を動員する企てに反対し、住民の利益を擁護する立場から、米軍実弾演習の中止を求め、共同を進めています。 (清)
 〔2002・3・10(日)〕

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-11-26/14_1501.html

 2002年11月26日(火)「しんぶん赤旗」

 米海兵隊の実弾演習始まる 山梨・北富士演習場 155ミリりゅう弾砲25発

 アメリカによるイラク攻撃の緊張が高まるなか、沖縄米海兵隊による県道104号線越え実弾射撃演習の本土移転訓練が二十五日、山梨県の北富士演習場(富士吉田市、忍野村、山中湖村)で始まりました。
 同演習場で移転訓練が行われるのは、昨年十一月に続き五回目。午前七時三十五分から155ミリりゅう弾砲の射撃が開始され、「ドン」というさく裂音が富士山ろくに響きました。演習の観測・監視行動を行っている「沖縄米軍は北富士に来るな実行委員会」によると、演習が終了した午後四時二十分までに、二十五発の着弾音を確認しました。
 同実行委員会に参加する山梨県平和委員会の小林正巳代表理事は、「米軍は『沖縄の訓練と同質・同量』という約束すらほごにして、年々規模と質を強化しています。さらに、北富士使用協定に反するNBC(核・生物・化学兵器)訓練が『一般訓練の一環』として行われようとしていることも重大です」と語ります。
 この日、同実行委員会主催の「11・25沖縄米軍演習反対山梨県集会」が忍野村で開かれ、約九十人が参加。雨のなか、村内をデモ行進しました。
 集会とデモに参加した、春日居町の手塚敬子さん(21)=歯科衛生士=は、「住民を困らせ、いろいろな被害を出しながら演習がされていることを多くの人に訴え、演習をやめさせることにつなげたい」と語っていました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-03-16/02_01.html

 2005年3月16日(水)「しんぶん赤旗」

 主張 東富士演習場 米軍優先使用の保証「密約」

 日本に返還したあとも米軍が東富士演習場(静岡県)を「毎年最大二百七十日、優先使用する」―こんな日米両政府の「密約」がありました。日本共産党の紙智子参議院議員が、米政府解禁文書をもとに国会質問でとりあげました。
 東富士演習場は一九六八年に自衛隊の演習場になりました。返還前に政府は、「自衛隊が主人公、米軍はお客様になる」と説明していましたが、米軍が「主人公」のままです。二〇〇一年は沖縄米海兵隊が百九十日も使用しています。「密約」を裏付けています。

 日本の要請で秘密に

 日米両政府は、六八年七月、「使用転換及び使用条件の変更にかんする協定」を結びましたが、全容は秘密のままです。今回あきらかになったのは、米側作成の「東富士演習場の解放にかんする協定案」とその付属「了解合意覚書」。「最終案」と報告されており、これが、日米政府協定になったとみられます。
 「協定案」は、米軍が、返還後も共同使用の形で東富士演習場を優先使用できると明記したばかりか、東富士演習場と北富士演習場(山梨県)が使用できないときには、日出生台(ひじゅうだい)(大分県)を使用できることまで明記しています。
 付属の「覚書」では、米軍に「毎年、最大二百七十日間に及ぶ富士演習場区域の使用の優先権」を明記。さらに、優先使用の期間内は演習場の65%を使用、年間三十日間は東富士と北富士の全演習場を使用できるとも規定しています。当時高まった演習場返還運動を無視できず、表向きは自衛隊の基地を一時的に米軍が共同使用するという形にして、矛先をそらすためでした。しかし、国税を使い、自衛隊が管理・整備した演習場を、米軍がいつでも必要なときにやってきて、長期に優先使用するのですから、米軍の「専用基地」と実質的には同じです。
 ひどいのは、日本政府が、二百七十日間の優先使用を隠しとおすために、米政府に、協定本文ではなく秘密扱いの付属「覚書」に書きこむように頼み込んだことです。在日米軍司令部の米太平洋軍司令部あて書簡は、日本側が「合意内容の公表は遅らせたいと何度も口にした」とのべています。事実がもれて返還運動を刺激することをおそれたのです。国民をだますなど言語道断です。
 二百七十日間の優先使用は、「一年のうち半数以上米軍が使用するというのでは主客転倒となる」(七一年二月二十七日衆院予算委員会 中曽根防衛庁長官=当時)との政府統一見解にも反します。「東富士のごく一部」なので「主客転倒に当たらない」(外務省『日米地位協定の考え方(増補版)』)という言い分は通用しません。
 「密約」が示すことは、米軍いいなりでは米軍基地の全面返還はできないということです。共同使用では、米軍基地も自衛隊基地も、国民の手に取り戻すことはできません。東富士演習場の地権者団体である「東富士演習場地域農民再建連盟」がキャンプ富士への米軍海兵隊部隊の移転に反対するのは当然のことです。

 世界で日米共同作戦

 米政府は、米軍事態勢再編のなかで、基地の共同使用を拡大強化しようとしています。「戦闘から平時までのあらゆる作戦任務で、同盟国とともに行動できる能力を強化する」(〇四年十一月十五日ファイス米国防次官)ためです。
 世界で共同作戦をするための基地強化と自衛隊の海外派兵態勢づくりに反対しましょう。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-06-09/15_02.html

 2004年6月9日(水)「しんぶん赤旗」

 模擬宿営地 2メートルの土塁、外側は鉄線 北富士演習場 小池議員ら調査

 日本共産党の小池晃政策委員長・参院議員と大森猛前衆院議員は八日、山梨県の北富士演習場に建設されたイラク・サマワの自衛隊宿営地の模擬施設を調査しました。
 調査には、花田仁参院山梨選挙区候補、赤嶺政賢衆院議員秘書、吉岡吉典参院議員秘書、渡辺正好衆院山梨2区候補、天野千文忍野村議らも同行しました。
 模擬宿営地は、イラクに派兵された自衛隊が襲撃を受けたことを想定した訓練のためにつくられた巨大施設(四百五十メートル×二百五十メートル)です。周囲は二メートルほどの高さの土塁に囲まれ、その外側には有刺鉄線が張り巡らされていました。
 一行は、陸上自衛隊富士学校の坂元順一副校長の案内で、同施設や陸上自衛隊北富士駐屯地にある富士訓練センターを視察し、説明をうけました。しかし、調査団が模擬宿営地の土塁内側に入ることを認めず、土塁の高さなどについても明確な回答をしませんでした。
 調査終了後、小池議員は「現地調査を行い、自衛隊側の対応に接して改めて、模擬宿営地の危険性を感じた。自衛隊が襲撃を受けたことを想定した訓練を行うこと自体、『非戦闘地域』という政府の説明が虚構だったことを示している。模擬宿営地の撤去、自衛隊の撤退を実現するために全力をあげたい」と語りました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-11-06/2009110603_01_1.html

 2009年11月6日(金)「しんぶん赤旗」

 米軍実弾演習許せぬ 田村智子さんら調査 山梨・北富士演習場

 東京・南関東を主な活動地域とする日本共産党の田村智子参院比例予定候補と花田仁参院山梨選挙区予定候補、はたの君枝南関東ブロック国政対策委員長は5日、山梨県の北富士演習場で在沖縄米海兵隊が実施している実弾砲撃演習を調査し、監視を続けている平和団体や住民を激励しました。
 演習は2日から始まり13日までの予定。この日も、午前中だけで砲撃数は約40発にのぼりました。演習場の対岸、山中湖村の監視場所には朝から「米軍は北富士に来るな山梨県連絡会」の人たちが監視を続けています。監視行動に参加した山梨県労の清水豊事務局長は「1日の発射回数が100発ぐらいに上っていて、これまでにない多さ。夜間も連日行われています。連射や1カ所に集中した正確な着弾など、新型のりゅう弾砲を使っている影響では」と説明します。
 山中湖村で生活して3年になる女性(70)は「戦争中も疎開していましたが、当時もボカンボカンと音がしていました。東京とこちらを行き来していると、こちらは戦争なんだなという気持ちになる」と話します。
 別の地元の女性(58)も「沖縄での訓練の代わりだからと、日本の負担で訓練をやるなんて許せない。米軍の演習なんだから、自分の国でやればいい。これでは日本は米軍の不沈空母」と怒ります。
 田村氏は「日本でアメリカの戦争のための訓練をやるのは許せないというのは、国民の思い。沖縄のたたかいと連帯して、やめさせましょう」と激励しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-04/2010030401_02_1.html

 2010年3月4日(木)「しんぶん赤旗」

 北・東富士陸自演習場 米軍が優先使用権 年間最大270日 米解禁文書で判明

 米軍と自衛隊が共同使用している陸上自衛隊の北富士演習場(山梨県)と東富士演習場(静岡県)について、米軍が年間最大270日優先使用できる密約を日米間で交わしていたことが、機密指定解除された米軍文書「在日米軍コマンドヒストリー・1965年版」で明らかになりました。
 日本共産党の紙智子議員が2005年3月7日の参院予算委員会で東富士での米軍の優先使用の実態を追及しており、これを裏付けるものです。
 「コマンドヒストリー」は、当時の政治的焦点だった「富士演習場」(北富士・東富士)の「解放」=米軍による占有から自衛隊管理への転換に関して記述しています。
 それによれば、「日本政府の管理下に解放される土地に関して、米軍による小規模宿営地の獲得と、年間270日の演習を行う権利のための協定案が62年3月以来、存在している」とした上で、協定案は「(北富士と東富士の)全域を解放するために準備してきたもの」だと明記しています。
 紙議員が予算委員会で配布した62年3月2日付の米軍資料「富士演習場解放に関する協定案」は「FAC3123(北富士演習場)と3127(東富士演習場)の解放を好意的に考慮する」と明記。付属文書「了解合意覚書」で、米軍は(1)年間270日、優先使用できる(2)優先使用中は演習場の最大65%を使用できる(3)年間最大30日、全区域を使用できる―との条件を提示しています。
 両演習場は地続きで富士山のすそ野に広がっています。日米地位協定2条4項b(別項)に基づいて自衛隊が管理する基地ですが、「自衛隊が主で米軍が従」という日本政府の説明に反して、米軍の優先権を確保しようという狙いです。

 日米地位協定2条4項b 在日米軍基地には、(1)米軍が占有(2)米軍が管理し、自衛隊と共同使用(3)自衛隊が管理し、米軍が共同使用―の3種類あります。このうち2条4項bは(3)に関する規定です。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-04/2010030402_02_1.html

 2010年3月4日(木)「しんぶん赤旗」

 北・東富士演習場 自衛隊基地の米基地化 表向きは「解放」 実態は「確保」

 日本政府は日米地位協定2条4項bに基づく米軍と自衛隊の共同使用基地について、「わが方が主で、米軍が従」「一応時間的にいえば、1年のうち半数以上、向こう(米軍)が使用するのは主客転倒」(1971年2月27日、中曽根康弘防衛庁長官)などと説明しています。これが、同条項に関する政府統一見解とされています。
 しかし、米軍は表向き、北富士・東富士両演習場を「解放」して自衛隊に管理権を移しつつ、実際は占領時代からの優先使用権を確保していたのです。
 70年1月26日~29日に開かれた米上院外交委員会の秘密会(通称・サイミントン委員会)議事録に、「在日米軍は(富士演習場を)毎年270日使用する権利を有している。69年にはこのうち68%にあたる184日使用した」と明記しています。2000年には東富士での米軍の使用日数が190日に達しました(日本共産党の赤嶺政賢衆院議員による調査)。密約は、今も有効なのです。
 これは北富士・東富士だけでの問題ではありません。80年代以降、地位協定2条4項bに基づく共同基地が急増し、在日米軍基地の総面積は2倍以上に広がっています。
 とくに97年から在沖縄米海兵隊の155ミリりゅう弾砲実弾演習、07年から沖縄・嘉手納基地に所属するF15戦闘機の本土への訓練移転が進み、移転先となった基地内に米軍専用の施設が次々つくられ、米軍による訓練回数の制限も撤廃されるなど、自衛隊基地の米軍基地化が急激に進んでいます。
 日本政府は、これら施設建設費や部隊・装備の移動経費や滞在先での水光熱費、燃料費、米兵が使用するレンタカー、携帯電話、食事などにいたるまで、すべて国民の税金でまかなっています。
 戦後、旧日本軍の基地を占領した米軍は主要基地を除いて日本側に「解放」しましたが、看板だけは「自衛隊基地」にかけ替えても優先使用権を確保するとの狙いが見えてきます。(竹下岳)

 “解放”の経緯

 北富士・東富士演習場は長射程実弾射撃をはじめ、あらゆる火力訓練が可能な訓練場です。一年を通じて、陸上自衛隊や米海兵隊などが使用しています。東富士には海兵隊の基地・キャンプ富士が置かれています。
 1997年からは在沖縄海兵隊の実弾砲撃演習が行われており、昨年11月には北富士で強行されました。
 両演習場は52年に米軍施設となりましたが、多くの民有地を含んでおり、全面返還を求める住民のたたかいが起こりました。
 日本政府はこれをかわすため、自衛隊管理の基地へと「使用転換」する方針を決めます。米軍の優先権を盛り込んだ62年3月2日付協定案は、この方針に関連しています。
 「在日米軍コマンドヒストリー66年版」によると、日米両政府は67年4月に北富士・東富士を同時「解放」することを決めました。米軍は両演習場を一くくりにして「富士演習場」(FMA)と呼び、一体で運用していることから、同時「解放」の方が好都合だからだと推測されます。
 しかし、日本政府は66年3月に静岡県と「使用転換」協定を交わしましたが、67年4月に当選した田辺国男山梨県知事は、「北富士の全面返還」を掲げます。この結果、「使用転換」の時期は東富士が68年、北富士が73年になりました。
 北富士では住民が着弾地で座り込みを行うなど、激しい闘争が繰り広げられました。

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「三菱重工が軍事ロケット部品を輸出」のニュース。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-18/2010031814_01_1.html

  2010年3月18日(木)「しんぶん赤旗」

 三菱重工 軍事ロケット部品輸出 武器三原則違反 吉井議員が追及 「米軍使用」防衛省認める

 米軍の軍事衛星を打ち上げるロケットの部品として、三菱重工業が燃料タンクなどを製造・輸出していることは、「武器輸出三原則」に抵触する―。17日の衆院経済産業委員会で、日本共産党の吉井英勝議員が政府の姿勢をただしました。
 三菱重工が輸出しているのは米ボーイング社「デルタ4」ロケットのエンジンの液体水素(燃料)タンクや熱交換器など。吉井議員は、デルタ4が米軍の早期警戒衛星や偵察衛星、軍事気象衛星などを打ち上げていることを、防衛省の報告書にもとづいて確認しました。同省の大江博防衛政策局次長は「軍民両用だが、米空軍などが使用している」と認めました。
 吉井議員は、軍事用ロケットの部品の輸出であり、武器輸出を禁じた武器輸出三原則に反すると指摘しました。
 直嶋正行経産相は、武器輸出三原則の「武器」とは「軍隊が使用するもので、直接戦闘の用に供されるもの」で、その形状、属性から客観的に判断されるものだとして、デルタロケットの燃料タンクは「汎用品として、武器には該当しない」などと答えました。
 吉井議員は、軍事衛星と結びついた無人攻撃機を使う現代の戦争の特質について説明し、「武器輸出三原則にのっとり、輸出しないことを明確にすべきだ」と迫りました。直嶋経産相は「ご指摘は、一つの考え方ではある」としながら汎用品であるとの答弁に終始しました。

 防衛省宇宙予算 3年で1.4倍にも 10年度案609億円

 吉井議員は、宇宙分野での軍拡が進行している実態についても質問しました。
 宇宙関連予算のうち防衛省と情報収集衛星(事実上の軍事偵察衛星)関連予算を合計した“軍事分野”が、2008年の宇宙基本法成立以後、金額も比率も増加しています。
 吉井議員は、とくに防衛省の宇宙予算が、08年度の423億円から10年度案の609億円へと、わずか3年で1・44倍に急増していることを指摘し、同法が宇宙軍拡のためのものだと批判しました。
 宇宙軍事分野では、08年度予算が約1060億円(宇宙予算全体に占める割合33・6%)、09年度当初予算は約1222億円(同35・0%)、10年度予算案は約1245億円(同36・7%)となっています。

 武器輸出三原則 国産兵器や軍事技術の輸出を全面禁止した、日本政府の方針(1976年に確立)。83年に対米軍事技術供与が例外化され、04年の「ミサイル防衛」(MD)導入に伴って関連兵器の日米共同生産、共同開発が例外化されるなど、空洞化が進んでいます。

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【お誘い】 3月30日、31日、宿毛市の鵜来島(うぐるしま)に行きませんか。【藤原義一からのお誘い】

 このツアー、高知県四万十市の、ある人のアクションのおかげで、本日夜、突然、決まりました。

 鵜来島(うぐるしま)は太平洋上、高知県宿毛市の沖合にある島です。
 アジア太平洋戦争時には「四国防衛」の要衝として沖の島区域の基地化が進められます。鵜来島には大砲などが整えられ着々と本土決戦の準備が進み一九四五年八月には全島民に強制疎開命令が出ます。現在も、龍頭山(標高二五二メートル)に、アジア太平洋戦争当時の砲台跡や弾薬庫、兵舎跡などが残っています。
 要塞化された島には二百五十人の海軍の兵士や衛兵が配備されていたといいます(『宿毛市史』の当時の鵜来島の区長・田中増之助さんの話)。
 この基地跡を案内してくださるかたが見つかりました。
 三月三十日に宿毛市内の、どこかに前泊して、三十一日早朝から行動開始。鵜来島に渡るのに千三百円。島であちこち歩き、昼前に山を降りて帰りは渡船で宿毛へ。これが、二千円です。
 現地は「ジャングル的になっている」とのことですので、山登り、ヤブこき用の準備をしてきてください。
 参加者は、いまのところ藤原のみ。平日ですが数人のツアーにしたいと思っていますが、いかがでしょうか。

 参加希望者は、メールで、ご連絡ください。

 【鵜来島って……】
 
 緯度 32度48分07秒、経度 132度29分24秒、面積1.3平方キロメートル、周囲6.7km。標高252mの龍頭山を中心とした険しい地形の島で、谷川があるが水量は乏しい。水成岩より成る約一億年前の白亜紀地層の島で断崖絶壁が多い。行政区分は高知県宿毛市沖の島町に属します。家々は山の斜面に建ち島内に車の通れる道路はありません。そのため自動車はまったくありません。集落は一つで沖の島支所連絡所や漁協があります。人口は二十七人で高齢化率は九割程度。休校中の鵜来島小中学校はコミュニティセンターとして活用されています。診療所はなく医師が定期的に巡回しています。磯釣りやマリンスポーツの島として人気を集めています。商店の類はなく食品が販売されています。店舗はありません。島内には飲料の自動販売機が一台あります。
 交通は、宿毛市営定期船。宿毛市片島港乗り場から午前七時と午後二時半の一日二便運航。

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妻の誘導に乗せられて……。つまは、「うまいこといい」。

 妻は、うまいこと僕を誘導します。

 今夜のこと。

 「いやーっ、コーヒーが切れた。コーヒー中毒やに。しかたない、がまんしょうか」

 「こうてきちゃおうか?(行って買ってきましょうか?)」

 「えいえい、がまんするき」

 「いってきちゃらーえ。どんなコーヒーがえい?」

 「マイルド」

 と、いうことでオートバイで買いに行きました。

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妻と中国語。そして、僕のたくらみ……。

 妻(六十二歳)が、三月に入ってからラジオの中国語講座にはまっています。いま午後十一時からもラジオを聞きながら発声してます。
 たしか妻は高知大学文理学部文学科のときに、少し中国語を学んだはずですが、ものになっていないようです。
 初歩から始めています。
 僕の夢は、妻の通訳で台湾の戦争遺跡ツアーにいくことです。
 この間、高知県大月町の柏島にいったとき、そこに来ていた青年から、霧社近くの三千メートル級の山の山道の左右に日本軍の円形のトーチカがたくさんあると教えてもらいました。
 まずは、ここに行ってみたいと思っています。

 フレー、フレー。

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「なにいうが、あほー。……」といってさる妻……。

 今夜は、なぜか妻との対話が進みました。

 「僕は、目立たない仕事ばかりしている。この長いリポートを、パソコンで一冊一冊するなんて仕事は、あんたにはむかんやろうね」
 「なにいうが、あほー。その夫のリポートを原典にあたって何度も校正する妻なんて、ほかにどこにもおらんぜーー」
 と、いい残して二階へ。

 僕は、一階で印刷、印刷……。
 実は、「あんたも大変ねえ。はよ、ねえや。私が朝までに印刷しちょいちゃるき」という対応を期待してたのですが……。

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2010.03.20

「一九三二年二月から四月の高知県での反戦ビラ配布」の講演会、詩の朗読と踊りもありました。【資料、ダウンロードできます】

「kohihansen.doc」をダウンロード

 三月十九日夜、高知市升形の平和資料館・草の家ホールで、二回目の「間島(かんとう)パルチザンの歌を読む」集いが開かれました。主催は、槇村浩の会、共催は治安維持法犠牲者国賠同盟、平和資料館・草の家。
 平和資料館・草の家研究員の藤原義一(ふじはら・よしかず)研究員が「一九三二年二月から四月の高知県での反戦ビラ配布」のテーマで、配布の状況、配布した青年たちの思い、その影響、この行動の意味について話しました。
 同館長の岡村正弘さんもあいさつしました。
 槇村さんの反戦の詩「生ける銃架(じゅうか)」の朗読と踊りがありました。朗読は横田和久さん(詩人サイコポムプ)、踊りは中山直一さん(舞踏家)でした。
 参加者は四十人ほど。藤原的には、高校時代の理科の先生、県立高知短期大学で同学年の女子学生二人も来てくれていて感激しました。

 なお、会場で、藤原の講演の中身を書いた四十二ページの資料も配布しました。これは、このページでダウンロードできるようにしてありますので、どうぞ。
   ☆   ☆   ☆

 詩「間島パルチザンの歌」は、高知県の詩人・槇村さんの、朝鮮人の大日本帝国の侵略反対へのたたかいに連帯した一九三二年の作品です。この企画は、五回シリーズです。
 二月十九日の一回目は、詩人の猪野睦さんが「槙村浩の詩のアジア」と題して約一時間の講義の後、草の家館長の岡村正弘さんが「間島パルチザンの歌」を朗読。岡村さんは「最近、在韓の研究者から槙村についての問い合わせがあるなど関心の広まりが見られることを考えても、地元の私たちがいまこそ勉強を深める必要がある」と企画の趣旨を説明しました。
 第三回は四月十六日、第四回は五月二十一日、第五回は六月十八日。いずれも平和資料館・草の家ホールで、午後六時半から。参加資料代・五百円。

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 【資料】 歩いて探そう 戦争遺跡 海軍第八特攻戦隊第二十一突撃隊

 海軍第八特攻戦隊第二十一突撃隊は、この突撃隊は、一九四五年七月二十七日 呉鎮守府隷下第八特攻戦隊第二十一突撃隊、展開発令されたものです。この跡を歩いてみようと思っています。資料はないでしょうか。まずは、インターネットで得られる資料をまとめてみました。

 【宿毛町】

 宿毛町にあったもの。
 ・ 宿毛海軍航空隊水上機スリップ。
 ・ 宿毛海軍航空隊水上機スリップ。
 ・ 宿毛海軍航空隊弾薬庫。
 ・ 宿毛海軍航空隊貯油庫。
 ・ 宿毛海軍航空隊魚雷調整壕。
 ・ 震洋格納壕と魚雷を吊るすフック。
 ・ 震洋格納壕。
 ・ 震洋格納壕。

 ○ 証言(ホームページ「海軍大尉 小灘利春」から)

 豊後水道の基地回天隊

 昭和二十年四月一日、米軍が沖縄本島へ上陸を開始した。
 続いて本土での決戦が不可避の趨勢となって、大本営は四月八日「決号作戦準備要綱」を出し、敵の来攻を予想される地域の沿岸に各種の水中、水上特攻兵器を展開する対抗策を指示した。
 回天の場合、基地によってはこれより先の二十年初期から既に場所が選定され、設営隊や現地海軍部隊が日数のかかる格納壕の掘削作業のほか、軌道、発進用斜線などの諸施設の構築に着工していた。
 五月以降、豊後水道に面した九州南部の宮崎県海岸と、四国の高知県海岸の陸上基準を最優先して、整備でき次第、兵器と搭乗員が展開していった。
 五月十日、佐世保鎮守府管轄の第五特攻戦隊が開設され、所属する第三三突撃隊が宮崎県南部の油津(現・日南市)に本部を置いた。第三、第五、第九、第十回天隊の4隊、回天計26基がこの三三突に配属されて次々と進出した。
 第三回天隊は大津島基地で訓練した次の9名の搭乗員で編成され、「油津基地」に第一陣の羽田中尉たち4人の搭乗員が五月五日、次いで塩津少尉たち4人が六月二日に出発した。
 大津島の先任搭乗員であった隊長の帖佐 裕大尉が正式に着任したのは六月八日である。
 第三回天隊以降の基地回天隊の出撃では、四箇所の回天の訓練基地すべてを統括する第二特攻戦隊司令官の長井満少将が壮行式を執行、出撃搭乗員は菊水の朱印に「七生報国」と湊川神社の宮司が揮毫した鉢巻きを付けて貰い、御神酒を受けたが、連合艦隊司令長官直筆の「護国」の短刀は伝達されなかった。
 第一回天隊の沖縄、第二回天隊の八丈島は離島なので潜水艦と同様の外地出撃扱いであったが、以後は国内の転勤と看做されたためと言う。
 回天は第二〇号一等輸送艦に積載され、整備員、基地員が便乗して進出し、搭乗員は陸路で赴任した。
 数本の格納壕が油津港の東岸を形成する半島に、豊後水道を背にして掘られていた。

 大尉  帖佐 裕  兵学校七一期  長崎県
 中尉  羽田育三  兵学校七三期  富山県
 少尉  塩津礼二郎 兵科四期予備士官、水雷学校、早稲田大学商学部  三重県
 一飛曹 浅野 豊  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 大阪府
 〃  佐藤 登    〃               ( 〃 ) 福島県
 〃  奥山繁勝    〃               ( 〃 ) 宮城県
 〃  高野 進    〃               ( 〃 ) 北海道
 〃  井手籠博    〃               ( 〃 ) 北海道
 〃  夏堀 昭    〃               ( 〃 ) 北海道
 井手籠一飛曹と夏堀一飛曹は七月十七日、内海基地へ開設支援のため赴いた折り、米空軍P-51戦闘機の機銃掃射と爆撃を受けて戦死した。代りに次の二人が大津島から七月二二日、着任した。
 一飛曹 稲永 真  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(奈良空) 福岡県
 〃  前田轍部    〃               ( 〃 ) 鹿児島県
 第五回天隊も同じく大津島から次の7人の搭乗員が六月一七日陸路出発、宮崎県南部の「南郷栄松基地」へ赴任した。
 中尉  永見博之  兵科三期予備士官、水雷学校、鳥取県
 一飛曹 小原隆二  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 岩手県
 〃  中村憲光    〃               ( 〃 ) 北海道
 〃  多賀谷虎雄   〃               (奈良空) 群馬県
 〃  緑川武男    〃               ( 〃 ) 長野県
 〃  高館孝司    〃               ( 〃 ) 新潟県
 〃  蔦村照光    〃               ( 〃 ) 大阪府

 回天は六月二日に伊一六二潜及び伊一五六潜が、また五日に伊一六二潜が大津島で二基づつ積載して輸送した。
 現・宮崎県南男阿部南郷町の外浦港の東側を囲む栄松の半島に基地があり、港を向いて掘られた格納壕に収納された。
 第九回天隊は光基地で次の6人により編成され、七月二二日「内海基地」(現・宮崎市南部)に進出した。
 少尉  重岡 カ  兵科四期予備士官、水雷学校、慶応大学法学部  広島県
 ー飛曹 小川乾司  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(奈良空) 福岡県
 〃  片岡 信    〃               ( 〃 ) 奈良県
 〃  金子忠二    〃               ( 〃 ) 新潟県
 〃  真部虔司    〃               ( 〃 ) 新潟県
 〃  山口仁之    〃               ( 〃 ) 広島県
 現在のJR内海駅の裏山に掘られた三本の格納壕から内海港内にある斜路まで、レールが鉄道線路と国道を越えてゆくことになり、回天を搬出する距離が長いことに運用上の問題があった。
 第十回天隊は油津の南の「大堂津基地」(現・日南市)に大津島で編成した搭乗員4人が八月十四日に進出した。

 少尉  佐賀正一  兵科一期予備生徒出身、水雷学校、北海道大学  北海道
 一飛曹 青木修義  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 東京都
 〃  本橋邦男    〃               ( 〃 ) 静岡県
 〃  野村栄造    〃               ( 〃 ) 東京都

 大堂津港の北東岸、下方岬の崖に、港を向いて4本の回天格納壕があり、七月二七日に伊一六二潜、七月二八日に伊一五八潜が各二基づつ、大津島から輸送した。
 第八回天隊は佐世保鎮守府管轄、第五特攻戦隊の第三五突撃隊に配属され、宮崎県中部の「細島基地」(現・日向市)に、平生基地で編成した搭乗員12名が七月八日と一四日に進出した。

 中尉  井上 薫  兵学校第七三期  鹿児島県
 少尉  山崎 論  兵科四期予備士官、水雷学校、東京大学文学部   静岡県
 少尉  赤松初司    〃       〃   関西学院大学    兵庫県
 一飛曹 落合義夫  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 山形県
 〃  加藤芳司    〃               ( 〃 ) 埼玉県
 〃  真壁三男    〃               (奈良空) 新潟県
 〃  岩部承志    〃               ( 〃 ) 香川県
 〃  青柳恵二    〃               ( 〃 ) 長野県
 〃  唐木田学    〃               ( 〃 ) 長野県
 〃  中島武義    〃               ( 〃 ) 岐阜県
 〃  野寄 孝    〃               ( 〃 ) 福岡県
 〃  浅井逐朗    〃               ( 〃 ) 愛知県

 細島港は古来から知られた良港であり、その北岸、畑浦の崖に掘られた教本の壕に回天が分散格納された。
 輸送は12基すべて平生から潜水艦で行われた。
 各訓練基地からの回天輸送に従事した潜水艦は第三四潜水隊所属の伊一五六潜、伊一五七潜、伊一五八潜、伊一五九潜、伊一六二着であり、指定地点で潜航、沈座したまま回天を切り離し、浮上した回天を基地の舟艇が格納壕まで曳航した。
 一部の潜水艦は回天との間の交通筒を整備しており、伊一五六潜は第三三潜水隊の伊一五五潜とともに回天発進訓練を併せて実施した。
 八月下旬には両艦とも回天を搭載して大津島から出撃する予定であった。
 伊一五九潜は神洲隊の一艦として終戦直後の八月十六日、平生基地から出撃している。
 第十一回天隊の回天八基は愛媛県南部の「麦が浦」(現・南宇和郡愛南町)に、大神基地から第二十号一等輸送艦に積載されて八月四日到着した。
 配属先は呉鎮守府管轄の第八特攻戦隊に所属する第二一突撃隊であった。
 本部は四国南西岸の宿毛町にあって、回天のほか蛟龍隊、震洋隊が配備されていた。第十一回天隊は四月二五日開隊した大神基地からは唯一の出撃隊である。

 中尉  久堀弘義  兵科三期予備士官、航海学校、兵庫県
 少尉  中谷 章  兵科一期予備生徒出身士官、航海学校、福岡県
 一飛曹 大岩正一  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(奈良空) 愛知県
 〝  清水哲郎    〃               ( 〃 ) 愛知県
 〝  塩月昭義    〃               ( 〃 ) 東京都
 〝  高橋道彦    〃               ( 〃 ) 大阪府
 〝  長谷川安正   〃               ( 〃 ) 大阪府
 〝  原村 正    〃               ( 〃 ) 埼玉県

 宿毛湾北岸の麦が浦半島に設けられた北向きの格納壕に回天8基が収められた。
 突然に輸送艦が入港しての急速揚陸であったが、地元の人々多数の協力によって作業が迅速に進行し、兵器、資材の揚荷作業が短時間で終了した。
 第二十号輸送艦は直ちに瀬戸内海に戻ったが翌五日、光沖の小祝島付近で米軍が投下した磁気機雪に触雷し、以後回天の輸送に従事できなくなった。

 【鵜来島(うぐるしま)】

 ○ フリー百科事典『ウィキペディア』から

 鵜来島は太平洋上、高知県宿毛市の沖合にある島。足摺宇和海国立公園に指定されている。
 緯度 32度48分07秒、経度 132度29分24秒、面積1.3平方キロメートル、周囲6.7km。標高252mの龍頭山を中心とした険しい地形の島で、谷川があるが水量は乏しい。水成岩より成る約一億年前の白亜紀地層の島で断崖絶壁が多く、行政区分は高知県宿毛市沖の島町に属す。家々は山の斜面に建ち島内に車の通れる道路はない。その為自動車は全くない。集落は一つで沖の島支所連絡所や漁協がある。人口は約27人で高齢化率は実に9割程度を占める。休校中の鵜来島小中学校はコミュニティセンターとして活用されている。診療所はなく医師が定期的に巡回している。磯釣りやマリンスポーツの島として人気を集めている。 商店の類は無く食品が販売されている店舗は無い。島内には飲料の自動販売機が1台のみ存在する。
 鎌倉〜室町時代頃から人が住み始める様になったと推測されている。藩政時代には伊予宇和島藩に属しており、政治犯などの流刑地にされていた歴史を持つ。
 明治時代に入ると隣接する沖の島・姫島と共に高知県に転入される。
 昭和の太平洋戦争時には四国防衛の要衝として沖の島区域の基地化が進められる。鵜来島には大砲などが整えられ着々と本土決戦の準備が進み昭和20年8月には全島民に強制疎開命令が出る。しかし、直後に終戦となり鵜来島が戦場となることはなかった。現在も基地跡などの遺構が残っている。

 龍頭山
 252m。太平洋戦争当時の砲台跡や弾薬庫、兵舎跡などが残っている。
 交通
 宿毛市営定期船
 宿毛市片島港乗り場より午前7時と午後2時半の一日二便運航。

 ○ ホームページ「鵜来島・姫島」から

 龍頭山と旧日本海軍の軍事遺構

 鵜来島中心にそびえ立つ最高峰の山(252m)。戦時中は旧日本海軍によって要塞化され砲台跡や弾薬庫、兵舎跡などの軍事遺構が山頂付近に残っている。コンクリート舗装されている農業道横の石段の登山口から林に入り直進、画像の中央上に見える山頂運動場跡に建設された貯水タンクへ至る別れ道には入らず直進、次の別れ道で左折する。山頂に展望台やトイレなどはない。付近にあった剣神社、高山神社・薫的神社らが麓の春日神社周辺に移されてから道が廃れつつあるので注意。以前は竜頭山裏から水源地の浮津へ向かう道や最西端の日向鼻に至る道もあったそうだが耕作放置してからは廃れヤブになっている。頂上付近への通行は登山初心者にはやや困難かと思われる。

 ○ ホームページ「宿毛市沖の島の歴史」から

 宿毛湾防備図に記載されている15糎砲3門の備付について、当時鵜来島漁業組合長兼部落区長であった田中増之助氏の談によると、「砲台は、昭和16年12月の大東亜戦争開戦の時には既に3門共備え付けられていた。豊田海軍大将が直接島へ上陸して調査をした後、大分の後藤組が工事を請けおっていた。龍頭山頂(252メートル)の砲台と西側の衛所(無線基地)及び発電所の工事には2年位かかった。大砲を山頂にあげるのは呉工廠から技術者が来てあげた。この工事の主体は後藤組が中心になったけれど、セメントや土砂の陸揚げ、又山頂までの運搬、道路作りは島民の勤労奉仕であって、軍から要請があれば漁に出るのもやめて労力を提供した。砲台の責任者は海軍少尉か中尉で、兵よりたたきあげられた人らしく、兵は120人位いた。衛所の方も100人位の人がいたが、砲台と衛所はあまり仲がよいようではなかった。勤労奉仕の配分は私が責任をもって割りあてたが、そんな時に感情的な面があることを感じた。軍の食糧は片島小川芳男さんが御用商人で、片島より船で運んでいた。食生活は十分でなかったとみえて、よくひもじいというので島民がいも等をむして食べさしたり、鰹を釣った場合、砲台や衛所へよくやったりしていた。魚のない時、軍隊はダイナマイトを使用して魚をとったりしていた。当時鰹船(動力船)は島に3隻あった。自分も1隻所有していた。他に「しび繩」船を持っていたが軍へ徴用された。
 大東亜戦争が始まってから宿毛湾付近の海域は特定区域となり、出漁する船は軍の許可を得なければならなくなり(標識をつける)、沖の島水域は絶対特定区域に指定され、動力船の使用は一切禁止となリ、昭和17年だったと思うが、沖の島村長以下区長、漁業組合長は宿毛警察署に呼ばれて(県からも役人が来ていた)漁ができにくくなったので、開拓民として満洲へ移民することを勧められた。島に帰って島民に話した所、自分達は海草を取ったり、伝馬船で一本釣リをしてでも島から離れたくないとの意見が強く、その要望を持って大分県の佐伯防備隊(海軍)へ行き実情を訴えたが、はじめ会った下士官はその陳情を不届き者という事で受付けてもらえず、つまリ佐伯で3日滞在、3日目に将校の人が会ってくれ事情を話した所、自分等はそんな連絡をした事もないし、むしろ勤労奉仕等の協力を頼むという事で満洲行の話は問題にならずに済んだ。当時の軍の力というものはえらいもんだった。」と語ってくれた。なお、この大砲は昭和20年3月頃、沖の島沖に敵潜水艦が浮上した時撃つので、島民を避難さすよう連絡があったがついに撃たなかった。つまり据え付けて一発も発射していない。

 【沖の島】

 ○ ホームページ「宿毛市沖の島の歴史」から

 太平洋戦争末期の宿毛湾周辺には海軍特攻部隊が配属される。そして沖の島内にはレーダー基地や機関砲が設置され、特殊潜航艇「回天」を隠匿する場所として沖の島の海岸に横穴が掘られ沖の島母島には基地もできたが、特殊潜航艇は実際に配備されずに終戦となっている。
 沖の島は1945年3月29日、浮上した潜水艦4隻による銃撃により死者3名,重傷4名,軽傷9名,船舶損害2隻を出したり、また1945年6月18目には、P51戦闘機14機により爆弾2発が投下され、機銃撮射を受けたりといった被害を受けている。更に鵜来島の漁船がビロウ島沖で銃撃され漁船員3名が死亡するという痛ましい事件も起こっている。これらの詳報は軍部から報道が禁止されており、終戦当時軍事関係文書はすべて焼却を命ぜられたりしているので住民達の証言などが頼みの綱となっている。

 母島地区にあった基地跡で回天を隠匿するために横穴が複数空いていた。終戦により回天は沖の島には配備されなかった。横穴は現在も一部が残る。

 【沖の島、鵜来島(うぐるしま)】

 ○ ホームページ「宿毛市沖の島の歴史」から

 昭和20年になると、高知市をはじめ県内各地に米軍機による爆撃、銃撃が日増しに激しくなり、沖の島、鵜来島には海軍の砲台や電探基地がある為、住民の生命の危険もあり、県・宿毛警察署の指導によって橋上村への強制疎開命令がでた。当時村議会においても疎開反対者もあり、意を決し兼ねていたが命令が出たので、一部警備隊員を除く全島民(約二千三百名)が疎開することになった。その経緯について、沖の島村役場が「町村制第113条第3項」により昭和20年県へ提出した事務報告書によると、
 「戦局の危急を告げる決戦下、町村事務は愈々複雑多岐にして、国土防衛は基より食糧増産確保に、或は国民貯蓄の完遂に諸物資の配給統制に労務の遂行にと国を挙げて皇国護持に挺身しつつある秋、突然宿毛警察は上司の命令なる旨を以て本村警備隊員を除く、一般村民の転移を勧告し来れり、転移先を橋上村に指定し、8月12日より同月14日に至る3日間を以て予定総人員の転移を完了したるも、8月15日にポツダム宣言受諾により、大東亜戦の機能を茲に完了停止するに至れり、越えて同月22日より同26日に亘る5日間に転移総人員の復村を得たるも、此等に要した損益金は海陸輸送の費用を合して壱万八千貳百円を費やせり。転移先に於ては医料施設不備なるため貳名の小児を死亡せしは遺憾の次第なり。加うるに本件転移復村に於ける期間、警防団長以下全員、各部落会長、各区長等の海陸輸送に、陸路人員の歩行引率に、家財荷物の送達にと献身努力の賜ものにして、其労苦は永く後世に伝わる記録なり。」
 なお海上輸送は機帆船(貨物船)を利用し、荷物と人間を一諸に積み込み、飛行機や潜水艦の攻撃を恐れて、夜陰を利用して輸送にあたり、陸上の場合も月の光をたよりに橋上まで徒歩で行った。身のまわりの荷物を持って老人や子供が20粁余りの道のりを歩くのは大変であったと思う。宿泊先も野地(橋上)、坂本、楠山へそれぞれ分宿し、民家に宿泊できない者は橋上の各学校に分宿している。鵜来島の場合は途中橋上第一小学校(現在の橋上小学校)で一泊し、全員が坂本の民家に分宿している。
 たまたま疎開の期間が10日間位で終了したのは不幸中の幸いであったが、老人達は住みなれた故郷を離れ、身のまわりの品だけを持っての疎開であり、先祖の墓のある所で死にたいと云って疎開をいやがった人も多かったし、鵜来島では、どうしてもいやだといって2人の老人が残った程であった。
 *疎開した島民の証言によると集団疎開に使われた貨物船は敵への対策として船内に木を建てるなどして島や岩場にカモフラージュしていたという。

 【柏島】

 ○ 高知新聞

 2006年05月12日 

 17歳「震洋」で出撃寸前 元隊員が柏島訪問

 太平洋戦争末期、旧海軍の特攻艇「震洋」の乗組員として、幡多郡大月町柏島の特攻基地にいた小野一さん(78)=青森市=が10、11の2日間、数年ぶりに柏島を訪問。“死の出撃”を待つ若者たちを支えてくれた島民らとの旧交を温め合った。
 「震洋」は全長約5メートルの2人乗りの艇に爆薬を積み、敵艦船に体当たりする特攻兵器。米軍の本土上陸を水際で防ごうと各地に配備された。
 柏島には昭和20年6月、「第一三四震洋隊」が置かれた。隊員40人余り。平均年齢18歳で関東から北海道にかけての出身者が多く、小野さんも17歳だった。
 敵機に発見されるのを避けるため、満足な訓練はできない。1日のほとんどは自由時間で、遠く故郷を離れた若者たちは島民たちと親しく交流。息子を戦地に送った島民と親子のような感情も生まれた。
 小野さんがとりわけ世話になったのが、故・山本縞恵(しまえ)さん=昭和48年に86歳で死去。ライスカレーをごちそうになったり、風呂で背中を流してもらったり。「息子のようにめんこがってもらった」という。
 昭和63年には、元隊員でつくる「震洋柏島(はくとう)会」と島民らが協力して柏島の基地跡に記念碑を建立。当時を知る島民による「島娘(しまご)の会」(亀井昭代会長)も静岡県や新潟県での「震洋柏島会」の会合に出向くなど交流を続けている。
 今回、小野さんは妻のキヌエさん(73)と柏島を訪問。縞恵さんの孫の山本恒和さん(60)が経営する旅館で、亀井会長ら10人と当時の思い出を語り合った。
 昭和20年の7月28日ごろ、米艦隊接近の情報が入り、出撃命令を受けた小野さん。真っ先に別れを告げに行くと、縞恵さんは玄関の板の間に額をこすりつけ、「なぜ死ぬんか! なぜ死ぬんか!」と涙ながらに訴えたという。
 幸い出撃命令は取り消され、間もなく終戦。故郷で教師となった小野さんは、「縞恵さんの『なぜ死ぬんか!』という言葉が忘れられない。戦後、命があること自体が幸せだと胸に刻んで暮らしてきた」という。
 小野さんは「皆さんに温かくしてもらった柏島は私の命の源。恩返しにならないかもしれないが、青森のねぶた祭りに招待したい」と提案。住民らも「ぜひ行きたい」と応えた。
 元隊員や「島娘の会」のメンバーらは高齢化が進んでいるが、亀井会長は「交流を続けるとともに、平和の大切さや命の尊さを次の世代に伝えていきたい」と話している。

 ○ 国立国会図書館のホームページから

 柏島讃歌
 責任表示:半谷達哉 著
 出版者:〔半谷達哉〕
 出版年月日:1989.10
 請求記号:GB554-E794

 柏島讃歌 補遺
 責任表示:半谷達哉 編著
 出版者:柏島震洋碑保存会
 出版年月日:1990.9
 請求記号:GB554-E794
 書誌ID:000002108364[書誌情報 追記]

 【全体像】

 ○ 日本共産党幡多地区委員会のホームページから

 本土決戦と幡多地方

 1945(昭和20)年、大本営は本土決戦のための対策に着手。
 アメリカ軍の上陸地点は昭和20年秋に九州侵攻、そのあと関東侵攻と想定して作戦をたてる。そのために七月末を目途にあらたに44師団、16旅団、6戦車旅団を新設、既存の本土部隊と満州、朝鮮からひきあげさせた部隊とで200万の戦力で米軍を迎え撃とうというものだった。そのために陸軍は、東日本担当の第一総軍、西日本の第二総軍をつくり、そのもとに各方面軍をおいた。海軍は第5航空艦隊が九州と四国を担当する。こうしてつくられた本土防衛軍だったが、装備は貧弱で19歳から50歳という年齢差も大きく、しかも未教育補充兵で、実戦訓練はなく陣地構築などに従事させられた。
 その防衛作戦は次のようなものだった。まず陸軍、海軍の特攻機で近海に侵攻してきた連合軍の船舶に体当たり攻撃を加える。上陸海面に達すると、沿岸の秘密基地に隠してある海軍の蛟竜、海竜、回天、震洋といった特攻兵器が体当たり攻撃を加える。それでも7割から8割が上陸してくるので、これを沿岸配備師団で水際陣地に立てこもり、全滅覚悟でくいとめる。そのあいだに内陸部に配置されている機動師団が上陸地点に急行して、上陸部隊をけおとす。これに国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下、女子は45歳以下の国民で組織される国民義勇隊が軍と協力してたたかい、最終的には内陸部の山間地にたてこもってゲリラ戦をたたかいぬく、というものだった。
 一方、アメリカ軍は5月10日に日本上陸作戦を正式に決定。それによると九州上陸作戦(オリンピック作戦)が11月1日、関東上陸作戦(コロネット作戦)は翌年の3月1日の予定で、オリンピック作戦には9発の原爆を使用する案もあった。
 作戦計画書によると7月28日から、日本全土への空爆と艦砲射撃、10月23日には、侵攻部隊と支援艦隊が上陸海岸沖合に進出し、空襲と艦砲射撃で上陸海岸を制圧することにしていた。そして日本軍をかく乱するために予備軍団である第9軍団の一部が四国土佐沖に向かい、四国上陸のかまえをみせる。11月1日に宮崎海岸に第11軍団と第1軍団、薩摩半島の吹上海岸に海兵隊の第5水陸両用軍団がそれぞれ上陸。11月5日には第9軍団主力が薩摩半島南端に上陸して九州南部を占領するというものであった。

 幡多地方への軍配備

 幡多地方に配備されたのは陸軍は「剣山兵団」と呼ばれる第344師団(昭和20年5月編成)、海軍は第8特攻戦隊第21突撃隊だった。いずれも全員戦死しても後退を許されない「ハリツケ師団」、特攻部隊である。
 その配置は次のとおりで、兵隊たちは学校や民家に分宿した。そのあおりで生徒たちは、境内などで授業を受けなければならなかった。
▽第344師団
 司令部…中村町(裁判所)
 352連隊…第1大隊が八幡浜、第2大隊が宇和島、第3大隊が吉野生(のち蕨岡へ進出)  353連隊…第1大隊が田ノ浦、出口、第2大隊が上川口、第3大隊が入野松原
 354連隊…第1大隊が宿毛、第2大隊が和田・坂の下・田ノ浦、第3大隊が有岡・山田(泳いで敵艦船に爆弾をとりつける攻撃のため、7月に下の加江~下田方面へ進出して水泳訓練をおこなう)
 噴進砲隊…宿毛町
 工兵隊…川登
 通信隊…利岡
 輜重隊…江川崎
 野戦病院…麻生

▽第8特攻戦隊
 第21突撃隊…宿毛に司令部をおき、宿毛湾から土佐清水までを担当。
 第23突撃隊…須崎に司令部をおき、土佐湾全体を担当。
 第24突撃隊…大分県佐伯に司令部をおき、大分県沿岸を担当。
------------------
 なお、第344師団の353連隊については、「大方町史」にくわしい配備表があるので次に掲載しておく。
【353連隊】
  連隊本部…入野農事試験場
  第1大隊本部…田の口国民学校
    第二中隊…田の口国民学校
    第1歩兵砲隊…同上
    第1挺身中隊…入野公会堂
    第1中隊…出口国民学校
    第3中隊…同上
  第2大隊本部…上川口国民学校
    第4中隊…南郷国民学校
    第5中隊…上川口国民学校
    第2挺身中隊…同上
    第2歩兵砲隊…同上
    第6中隊…蜷川国民学校
  第3大隊本部…幡東国民学校
    第7中隊…入野国民学校
    第8中隊…幡東国民学校
    第9中隊…錦野座(入野)
    第3挺身中隊…鞭公会堂
  補給隊…早咲中沢製材所
  通信班…早咲宮川乾燥場
  衛生班…加持国民学校

 ●特攻基地

 島と半島によって囲まれた宿毛湾は、天然の要害として注目されてきた。古くは平安時代に中央政府に反抗した藤原純友が拠点をかまえた。連合艦隊もこの湾をしばしば活用した。
 海軍は、宿毛湾を中心に展開した。海軍第8特攻戦隊第21突撃隊が、愛媛県日振島、麦ヶ浦、宿毛市宇須々木、小筑紫、沖の島、大月町泊浦、柏島、古満目に配備された。兵器としては、魚雷艇、特殊潜行艇「蛟竜」、「海竜」、特攻艇「震洋」があり、人間魚雷「回天」も配備される予定だった。特攻基地は、土佐清水市越、大月町柏島、泊浦、古満目におかれた。
 「大月町史」に掲載されている「第21突撃隊戦時日誌」から、当時の記録を拾ってみた。
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 4月17日 朝輝丸が鵜来島付近で浮遊機雷を一個処分。
 4月26日 7回にわたって雲の上から片島港、宿毛湾に時限爆弾をふくむ爆弾が投下されるが、蛟竜には異常はない。
 5月10日 B29による爆撃があったが、片島と本隊とのあいだの水道管が破損したほかは異常なし。
 5月12日 蛟竜2基が修理のために広島にむけて出発したため、出撃可能は2基だけとなる。
 5月13日 味方哨戒機の情報によれば、都の井岬の150度15浬に20数隻からなる機動部隊が北上中。魚雷艇5艇が古満目に進出。
 5月14日 敵機動部隊が依然として九州南東海上に行動中。15日午前4時半をもって第1警戒配備とする。
 5月15日 7隻の蛟竜が到着。
 5月17日 敵の攻撃は次第に綿密で執拗なものになっており、しかも特攻兵器にむけておこなわれる可能性が高まっている。そこでこれらの兵器は分散配置するとともに煙幕などをつかって防衛するよう徹底する。
 6月24日 132、134震洋隊宿毛へ進出
 6月26日 132震洋隊清水へ進出、134震洋隊柏島へ進出。
 6月29日 28日午前に越(現在の清水高校対岸)より清水に回航中の大発が敵飛行艇の機銃掃射をうけた。最近飛行艇の活動がきわめて活発なので各基地は偽装と舟艇の行動に一段と警戒をするように。
 7月9日 敵潜水艦が沖の島燈台南方7キロにあり、砲撃に注意せよ。鵜来島で味方艦が銃爆撃される。
 7月17日 132震洋隊の震洋が1隻訓練中に尾浦崎で沈没。
 7月18日 「ダグラス」2機、「マーチン」1機が宿毛湾海岸線を航行中の漁船を銃撃して、「マーチン」は柏島上空から古満目上空に消える。
 7月19日 142震洋隊泊浦へ進出。
 7月20日 柏島、宇須々木方面への低空銃爆撃。
 7月24日 柏島に敵機約10機が7回にわたって銃撃。鵜来島方面に1機墜落する。
 7月27日 当隊所属の貨物船が、武者泊から福浦へ航行中、敵小型飛行機8機の襲撃をうけ沈没。
 7月28日 132震洋隊の震洋が越港で試運転中に敵機2機の銃撃をうけ沈没、戦死1。
 7月30日 第8特攻隊司令部が宿毛に進出。

 土佐清水市の特攻基地跡

 小江港。「清水町越」の特攻基地跡は、正面の半島に港側にむいて掘られていた。5個確認したが、もっと調べればあるかもしれない。またその壕が何であるかの説明はまったくなく、説明看板くらいあってもいいのでは、とおもった。

 いちばん海がわにあった「震洋」格納洞窟。

 洞窟の一つ。かなりの大きさに驚いた。
 風化して危険なのでなかに入るのはやめたが、保存して平和教育に役立てたらどうなんだろう。

 大月町の特攻基地跡

 大月町柏島(中央の島)。島の手前側に、艦砲射撃を避けるように震洋艇の壕があったが、いまは原形をとどめていない。向こうに見える大きな島が沖の島。

 【碑文】

 特攻震洋基地跡碑

 太平洋戦争の末期昭和20年6月本土決戦に備え特攻震洋隊員48名がここに配置されこの丘の麓の6本の横穴に震洋艇24隻を格納し迎撃の機会を待った危急存亡の時に当たって決死殉国の盟を結ぶ若い隊員の真心とこれを優しく見守って呉れた島の人びとの温情は筆舌に能く表す事が出来ない以来43年戦後の悲惨な荒廃から立ち上がった日本の今日の繁栄は当時生き残った青少年の力に因ることが大きい
 各地の特攻に散華した多くの英霊に無限の感謝を込めて冥福を祈ると共に永遠の世界平和を願う一つの灯火として茲にこの碑を建てる

      昭和63年10月吉日
                元第134震洋隊搭乗員有志

 泊浦に残っている震洋艇格納壕のひとつ。土佐清水市小江のそれにくらべて風化が激しい。両方とも保存してほしいと願うのだがいあわせたお年寄りからきいた話によれば、泊浦には全部で9個の壕が掘られていたという。

 【泊浦の説明板に書かれていた文章】

 震洋艇格納壕跡

 この壕は、震洋艇や回天の格納ため海軍により造られたものです。昭和20年1月本土決戦準備が発令され、同年3月宿毛市宇須々木に派遣されていた隊を第21突撃隊と改め第一線の特攻隊となる。この隊のうち大月町内では古満目に22魚雷艇隊、柏島へ半谷中尉隊長の134震洋隊、泊浦へは畠中尉隊長の142震洋隊が配置される。震洋艇は5型といわれる長さ6メートルで2人乗りの小艇である。隊は隊長以下48人だから24隻が配備されるが、泊浦へは呉の大空襲により工場の被害を受け3隻の配備となったが、終戦により大月町に配備されていたすべての震洋艇は一度も出撃することなく、その役割を終えた。

 ●軍用道路…柏島道路、竹屋敷道路

 軍隊の移動のために軍用道路が、大月町二つ石~渡(柏島)間、中村市竹屋敷につくられた。柏島線は、1944年10月に「防衛道路緊急整備工事協力第1件」と題する通達により、軍の指揮のもと延べ6万人が参加して翌年4月に完成した。この工事には、老人、婦女子、国民学校高等科の生徒、県立中学校の学生が主だった。また朝鮮人も多数この工事に参加し、犠牲者も出している。
 戦後、この道路はさらに改良され、かつては海路でしかいけなかった柏島が陸路で結ばれている。一方、竹屋敷の軍用道路は、その後、利用されることもなく自然に帰ろうとしている。
戦時中の昭和19年から20年にかけて、大月町平山から柏島までつけられた軍用道路は、いまでは県道となり、柏島への大切な輸送道路となっている。

 ●入野松原と戦争

 幡多郡大方町の約2㌔メートルの砂浜海岸に入野松原がひろがっている。これは中世時代に植林されたもので、防風林、防砂林として入野平野をまもってきた。
 ところが、本土防衛にこの地域に展開した軍はこれを伐採して、陣地構築にあてることを命令。これにたいして当時の中村営林署の堀内署長は、松原を守るために奥湊川の住民の協力を得て、かわりの材木を提供することを申し出て、松林伐採をまぬがれさせた。
 そのことを顕彰して堀内署長の顕彰碑が松原にある。
顕彰碑は、「上林暁館」から砂浜へおりたところにある。

 ●幡多地方への銃爆撃

 幡多地方は、土佐湾、豊後水道に面しており、アメリカ機動部隊の艦載機や沖縄、硫黄島などから飛び立った戦闘機、爆撃機が足摺岬をめざして侵入し、銃爆撃が頻繁におこなわれた。また、グアム、サイパンなどを飛び立ったB29戦略爆撃機の呉、中国地方への通過地点にもあたり、上空を通過するのが目撃されている。空襲警報は、昭和19年からはじまり、20年になるとほぼ毎日出されている。また、沖の島には潜水艦による艦砲射撃もおこなわれた。

 幡多地方への銃爆撃の記録 年月日 攻撃場所 投下弾 死傷者 被害物件 来襲機

 1945/3/7 高知市桟橋通り、幡多郡三原村 爆弾20 死者2,重傷4、軽傷5 建物全壊8、半壊36 B29×2 A 
 1945/3/18 清水町、伊豆田村、宿毛湾、大方町 爆弾14,焼夷弾、46、銃撃50 死者9、重傷8、軽傷5 全壊1、半壊40、船舶5、山林40町 B29×1、グラマン×24 A 
 1945/3/19 幡多、高岡、香美、長岡、安芸五郡一円 爆弾34、焼夷弾18、銃撃48 死者8、重傷1、軽傷9 全焼9、半焼1、全壊1、半壊5 B29×2、グラマン×272 A 
 1945/3/29 幡多郡沖の島 銃撃2 死者3、重傷4,軽傷9 船舶2 潜水艦×4 A 
 1945/4/7 幡多郡清水町 銃撃1   B24×1 A 
 1945/4/17 幡多郡清水町、伊豆田村、香美郡田村 銃撃4 軽傷2 船舶2 B24×2、P51×50 A 
 1945/4/18 幡多郡伊豆田村 焼夷弾3 死者1、重傷3、行方不明1 船舶1 B24×1 A 
 1945/4/21 幡多郡清水町 爆弾20 死者2、重傷3、軽傷2 建物全焼7、半焼7,半壊14 B29×1 A 
 1945/4/22 幡多郡三崎村、伊豆田村、下田沖 爆弾11、銃撃3  船舶2 B29×2、グラマン×2 A 
 1945/4/26 幡多郡、香美郡、安芸郡 爆弾115、銃撃4 死者25、重傷23、軽傷12 建物全壊4、半壊26、船舶6、山林4反5畝 B29×12、B24×2 A 
 1945/4/26 幡多郡宿毛町、片島町 爆弾   不明 B 
 1945/4/29 幡多郡三崎村 銃撃1 軽傷3  B24×1 A 
 1945/5/3 幡多郡下川口町、香美郡野市町 爆弾42 死者9、重傷1、軽傷1 建物全壊1、半壊55 B29×3 A 
 1945/5/10 幡多郡中村町、清水町、高岡郡東又 爆弾27 死者21、重傷12、軽傷13 建物全壊15、半壊19 B29×4 A 
 1945/5/10 幡多郡宿毛町 爆弾  水道管破損 不明 B 
 1945/5/11 幡多郡伊豆田村、下川口町、清水町、香美郡野市町 爆弾42 軽傷3 建物全焼1、全壊1、半壊12 B29×5 A 
 1945/5/14 高知市、吾川郡神谷村、香美郡野市町、幡多郡 爆弾10、焼夷弾51、銃撃24 死者1、重傷3 建物全壊19、半壊39、船舶2、山林3反4畝 グラマン×156 A 
 1945/6/17 幡多郡白田川村、大方町、高岡郡須崎町能見 爆弾5、焼夷弾101、銃撃5 死者1、重傷5、軽傷3、行方不明1 建物全焼6、船舶5 グラマン×6 A 
 1945/6/18 幡多郡沖の島 爆弾2、銃撃18   P51×14 A 
1945/6/28 幡多郡清水町、下川口町 爆弾8、銃撃6 死者6、重傷2、軽傷1、行方不明1 船舶6 PBM×12 A 
 1945/6/29 幡多郡奥内村 銃撃8 死者2、重傷3、軽傷2 船舶1 PBM×4 A 
 1945/7/2 幡多郡宿毛町 焼夷弾130  山林3反 B29×6 A 
 1945/7/3 幡多郡清水町 焼夷弾70   B29×1 A 
 1945/7/9 高知市、幡多郡清水町、高岡郡宇佐町 焼夷弾2、銃撃2 死者4、重傷5、軽傷6 建物全焼1、全壊1、半壊12 B29×1、PBM×2 A 
 1945/7/11 幡多郡清水町、高知港外 銃撃5 死者3、重傷1、軽傷1 船舶1 PBM×2 A 
 1945/7/16 幡多郡清水町 爆弾3、銃撃7 軽傷1 建物全壊1、半壊2 B29×1 A 
 1945/7/17 幡多郡清水町 爆弾3、銃撃2 死者2、重傷2、軽傷3、行方不明2 船舶1 PBM×3 A 
 1945/7/18 幡多郡清水町 爆弾1 死者1、重傷3 船舶1 PBM×3 A 
 1945/7/18 宿毛湾 銃撃   ダグラス×2、マーチン×1 B 
 1945/7/20 柏島、宇須々木 低空銃爆撃。    B 
 1945/7/23 幡多郡清水町、白田川村 爆弾47 死者83、重傷46、軽傷16 建物全壊22、半壊19 B29×3 A 
 1945/7/24 県下29ヶ所 爆弾91、焼夷弾5、銃撃88 死者83、重傷46、軽傷22 建物半焼1、全壊65、半壊119、船舶1、山林2町 B29×3、グラマン×250 A 
 1945/7/24 幡多郡東山村、八束村 爆弾2、銃撃 死者2、負傷1  B29×1、戦闘機 中村市史 
 1945/7/25 県下14ヶ所 爆弾57、銃撃22 死者3、重傷3、軽傷6 建物全壊31、半壊109 B24×1、グラマン×300 A 
 1945/7/28 県下13ヶ所 爆弾18 死者1、重傷4、軽傷6 建物全壊1、半壊4、船舶3、山林1畝 艦載機×1000 A 
 1945/7/28 幡多郡清水町 銃撃 死者1 船舶1 敵機×2 B 
 1945/8/5 幡多郡清水町 爆弾12   P51×2 A 
 1945/8/10 幡多郡清水町 爆弾5、焼夷弾8 重傷2 山林1反 29×2 A 
 1945/8/14 幡多郡三原村 爆弾4~5(不発弾)    三原村史 

 典拠資料A=高知市民図書館「かつて戦争があった」
 典拠資料B=第21突撃隊戦時日誌(大月町史)

 ● 上川口小学校爆撃

 1945年7月22日、剣山部隊が駐屯していた上川口国民学校が爆撃をうけ、100名をこえる死者が出た。この爆撃は広島、呉方面への爆撃の途中におこなわれたもので、上川口小学校を当初からねらった攻撃ではなく、当夜は15夜だったというから、B29の有視界飛行による爆撃ではなかったかと思われる。
 <午後11時40分頃突如空襲警報が発令され、当直兵並に一般の防備班員はそれぞれ部署についていたところ、12時近くになり東南の方向に爆音が聞こえるたと思うと、間もなく伊田方面から蜷川方面に向かってB29の大編隊が来襲した。一応何事もなく編隊が通過したので、一同安堵して部署を離れようとしたとき、最後の一機が旋回して低空姿勢となり、上川口国民学校を目標に爆弾投下をした。23日午前零時20分頃であった。爆弾は同校を中心に北西から南東にかけて約300メートルの間に24個が投下され、隊員の兵舎であった校堂(ママ)並びに隣接校舎は木端微塵に粉砕され、舎屋の合掌は桂蔵寺の大松の枝にかかり、カズラ石は四方に飛散して田畑や民家に落下し、中には黒岩の畝越しに有井川部落にまで落下するものがある程であった。此のため宿営部隊には多数の死者と重傷者を出したが夜中のこととてその救出には困難を極め、夜が明けてから田中正一少尉外77柱の死体を収容し、重傷者は蕨岡の本隊へ急送したがその中15名が死亡した。当夜上川口郵便局員西内照子(26歳)は局から自宅へ帰る途中爆風で、また田中厚子(16歳)は自宅の庭で破片に打たれて即死した。その夜はあたかも旧6月15日のことで、爆撃前は美しい月夜であったが、爆撃のため一事はまったく暗黒化して何物もみることができないほどであった>(大方町史)
 上川口国民学校の被爆の碑  現在の上川口小学校の体育館横にある。正面が碑。左手が被爆の様子をつたえる碑文。
B29は、正面左手の方向から侵入して、敷地を南東に横切りながら2列ずつ爆弾を投下したという。

 ●強制疎開

 アメリカ軍の幡多地方上陸にそなえて、沖の島、鵜来島、大月町などの海岸線の婦人や子どもたちの疎開が計画された。疎開先は宿毛市橋上町、西土佐村だった。「西土佐村史」によると、月灘村からの疎開を津大村がうけいれることを決めたことが記載されている。
 実際に疎開がおこなわれたのは、沖の島で次のような記録がある。
 橋上村への強制疎開命令がだされたのが8月。沖の島、鵜来島には砲台やレーダー基地が設置され、海軍部隊がいた。8月12日に空襲をさけて夜に荷物と人員を機帆船にいっしょに積み込み、出発。陸路も月光をたよりに徒歩で橋上へとむかった。このきびしい疎開中に1歳の少女が病死した。

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2010.03.22

きょうは県立高知短期大学の卒業式。

 絶不調。昨夜はほとんど眠れませんでした。

 上半身の内部でけもののほえているような音がしょっちゅうするのです。どこか、体の各所の空気がぬけたような感じです。

 ときどきせき込み、せきで空気が吸えなくて、そのまま、あっちへいってしまいそうになります。

 いま、午前十時過ぎ。ようやく落ち着きました。

 うーん、しかし、これは何だろう。初めての体験です。

 これをぜん息というのでしょうか。

 しかし、しかし、きょうは県立高知短期大学の卒業式。「おめでとう」ではあるのですが……。

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2010.03.23

学長は、式辞の中で県立高知短期大学について「第八回検討会で存続の方針が決まりました」とのべました。

  三月二十三日午前四時半。やっと少し落ち着きました。

 今回の病気はすごい。

 休みが明けたので朝から病院に行くつもりです。

 昨日は、午後三時から県立高知短期大学の卒業式。

 学長は、式辞の中で県立高知短期大学について「第八回検討会で存続の方針が決まりました」とのべました。

 すばらしい式でしたが、僕のほうはコンコン、コンコン。ずいぶん邪魔をしてしまいました。

 式のあとの懇親会。ジュースとウーロン茶を飲んで少し食べて……。

 家に帰ると今度は寒気がしてきてダウン。

 さっそく寝ましたが、うなされて十数回も起き、寝た気になっていません。

 ゴホボホの 咳に合わせて ペロペロと 手をなめてくれる ネコがいる家

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きょうの高知新聞の二十一面は、「歓迎自衛隊第50普通科連隊高知県移駐」の一ページ全面広告。

 きょうの高知新聞の二十一面は、「歓迎自衛隊第50普通科連隊高知県移駐」の一ページ全面広告。

 下にずらりと協賛団体、企業の名前が載っていました。

 この中には高知新聞社やRKC高知放送の名も。

 ほかにも知っている企業がいっぱいです。

 何らかの関係で自衛隊と利害関係のある所なのでしょうか。

 高知新聞は、かなり前から移駐についてのキャンペーンをやってきました。この上に何を広告したかったのでしょうか。

 この広告は「自衛隊は、こんなに多くの企業、団体に後押しされているんだ。移駐不歓迎なんていっても通らないよ」と、県民にプレッシャーをかけるためのものだったのではないでしょうか。

 ところで、この広告費は、どこから出たのでしょうか。税金から。それとも、協賛の各団体、企業から……。

 アジア太平洋戦争のさ中、高知新聞は軍隊がんばれと、こんなふうな広告をしばしば載せました。研究の関係で、よくこの時期の新聞を読みますので知っていました。妻の祖父母がやっていた大きくない食堂も協賛団体になっていて驚きました。

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やっと、ある病気に認定されました。

  午後三前、やっと病院から帰ってきました。

 問診、検査をくりかえし、やっと、ある病気に認定されました。

 原因がわかれば直す方法もあります。

 夜の約束を一つ、ことわりました。

 とにかく、あすの朝には復活している必要があります。

 かなり過激な動きが要求される仕事があります。

 ところで、鼻、目もみともらおうと思っています。

 原因をあきらかにして健康をおかすものとたたかいながら勉強をと思っています。

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2010.03.24

うわおーつ。缶ビールを一本飲めました。うれしい。

 うわおーつ。病気、落ち着きました。

 医学ってすごいですね。

 さっそく昨夜から薬が効き始め、「ビール飲もうか。缶ビール一つとって」という状態に。何日か飲む気もしませんでした。ゆっくり、ゆっくり飲みました。うっまーいいいいつ。

 比較的気持ちよく寝ましたが、変わった夢を見ました。

 気が付いたら深夜、ラジオ局の三階のスタジオの見える所の仮眠用のベッドで寝ていました。妻、ネコも一緒です。スタジオはオンエアです。見学中に寝てしまったようです。急いで起き上がり着替えます。スタジオの中に目礼して三人で帰りましたが、二階の所でズボンをはいていなくてステテコ姿であることに気がつきます。妻が「とってきちゃお」といってどんどん走っていきます。新聞発送のレーンのある所もぴょんぴょん飛び越えて(なぜ、ラジオ局に新聞発送のレーンが……)。あれ、ズボンはステテコの下にはいていた。妻を探すのですが、いません。うわーっ、どこへ行っちゃったんだ……。

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【写真で速報】 三月二十四日の自衛隊第50普通科連隊の高知県移駐の示威行動。

 つぎのページです。上、中、下になっています。

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2010/03/post-0da5.html
http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2010/03/post-aed1.html
http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2010/03/post-3850.html

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2010.03.25

中井洽(ひろし)国家公安委員長カードキー事件のキーポイント。

 「中井洽国家公安委員長カードキー事件」が発覚しました。テレビや新聞の報道から、その事件のキーポイントをメモします。

 中井洽(なかい・ひろし)氏のプロフィル 1942年6月10日、中国吉林省長春生まれ。67歳。三重・上野市(現・伊賀市)に引き揚げて同市内で育ち、慶応大学経済学部へ。父・中井徳次郎元衆院議員の秘書を務め、76年、民社党から出馬し初当選。94年、羽田内閣では法務相に就任。新進党、自由党を経て民主党入り。現在当選11回。

 【二十五日発売の『週刊新潮』の記事の指摘】

 二十五日発売の『週刊新潮』のグラビア七ページ、記事五ページを割いた「週刊新潮」の大特集の内容。
 ● 中井国家公安委員長は三月中に複数回にわたり、三十代前半の銀座に勤めるホステスと焼肉店などで合流。その後、赤坂の議員宿舎などに連れ込んでいました。ホステスは一人でも宿舎に出入りしており、中井氏がホステスに議員宿舎のカードキーを日常的に貸与していた疑惑を指摘しています。二人の「路チュー」の写真も掲載されました。福島県沖を震源とする震度5弱の地震が発生した三月十四日、中井氏とホステスは都内で映画デート中でしたが、首相官邸に駆け付けるでもなく、そのままデートを続行しました。
 ● 中井委員長は、事業用車両ではない、一般乗用車の運転手に金を払い、自身の“足”として使っていたという、道路交通法違反の疑いも指摘しています。

 【中井洽国家公安委員長の言い分】

 ● 中井委員長は、二十四日夜、記者団に「何も問題ない。規則なんかない。カードキーを四枚もらい、(女性に)一枚渡しただけ。飲み食いは全部、自分の金だし、わたしは独身だ」と語りましたた。
 ● 中井委員長は、二十五日の定例記者会見で「女性とは、もう六年ぐらいの付き合いですよ。前の宿舎でお願いしておったお掃除のおばさんが赤坂でできないとのことでしたので、彼女に週一回掃除にきてもらっている。それでカードを渡した」、「カード自体規則的に何もおかしなことをしているわけではありません。四枚預かって二枚は僕が持って、一枚を事務所が預かっている」、「(カードキーを貸すのは)問題ないですよ。お調べください。管理も民間会社で、国が管理しているわけでもない。朝も受付で確かめた。衆院にも問い合わせたが、届け出なければならないとの規則は『一切ありません』とのことだった」、「(女性はいつからキーを渡したのかは)覚えていません。宿舎できたときからでは。僕が入ったのは一昨年の四月から」と、のべました。
 ● 福島県で震度5弱の地震が発生した時に女性と映画観賞し、一時間以上経過して出てきたと指摘された点については「(週刊誌記者は)よく映画館に入ったな。(地震の一報の際は)映画館では携帯が震えたので、秘書官に連絡した。震度はいくつで被害はそれほどありませんとの報告だったと思う。秘書官に映画館にいるとも言わなかった」、「その日は二時過ぎから極秘に会わなければいけない拉致関係の人がいて本当に気をつけて全くわからない場所でお目にかかってそれから出てきて映画館に入った。拉致の関係や国家公安委員長で(記者に)つけられているのが全くわからないというのは本当に恥ずかしい話と思う」と、のべました。
 ● 白タクを使用したとの指摘については「夜お店の人が『車呼んでありますから』というのでそれを使わせてもらった。それが白タクだったかどうか知りません」と、のべました。

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権力の勝手な基準で国立大学法人を評価するなんて最悪。権力の要求する大学へと誘導しようというものです。

 「文科省が国立大学を順位付け」というニュースがありました。

 2004年度に国立大学が法人化されましたが、この国立大学86法人の教育研究活動や業務運営について、文部科学省が数値で総合評価した“通信簿”が25日、明らかになりました。国立大学法人評価委員会と大学評価・学位授与機構が、各大学の立てた中期目標・計画に照らし合わせながら、2004~07年度のとりくみを個別に評価。これをもとに、同省が総合評価を91点満点で算出しました。学部・研究科の教育水準と研究水準に各30%、大学全体の教育研究達成度と業務運営達成に各20%の配点としました。同省は、この総合評価を新年度交付金の配分に反映します。その結果、反映されなかった場合に受け取れる額より増えた大学が26校、同額のままが14校、減額が46校となりました。

 何をやっているんだ。民主党政権の文部科学省。権力の勝手な基準で国立大学法人を評価するなんて最悪。権力の要求する大学へと誘導しようというものです。
 どういう大学にしていくのか、どういう教育をしていくのかは大学自身で決め、実行していくものです。それが、日本国憲法に保障された学問、教育の自由の姿です。
 学問、研究の自由は、どこへいったのか。いま民主党政権の文部科学省のやっていることは、独裁国家のやることです。
 しかも、それを交付金の額に結びつけるとは。ひどすぎる。
 こういう制度は、ただちに廃止すべきです。
 そして、交付金は「学生一人当たりいくら」と、各大学に平等に交付すべきです。

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わおー、読みたかった記事。高知新聞の「俳人・仁智栄坊(にち・えいぼう)のこと ―『京大俳句事件』渦中の土佐人―」。

 森武司さん(俳人)が、高知新聞三月二十五日付に「俳人・仁智栄坊(にち・えいぼう)のこと ―『京大俳句事件』渦中の土佐人―」を発表しています。
 読んで勉強になりました。
 仁智栄坊については昨年から、すっごく気になっていました。
 このブログ「短歌の花だより」には、彼についての紹介文、それに作品集も掲載しています。このブログの「検索」で探して読んでいただければ幸いです。
 彼について僕が、いま知りたいのは、彼の高知での足取りです。父母のこと、通っていた小学校、中学校のことなどなど。
 ご存知のかた、教えていただけませんでしょうか。

 彼の本名は、北尾一水。一九一〇年(明治四十三年)七月八日~九三年(平成五年)三月三十一日。高知県高知市生まれ。一九三一年(昭和六年)、大阪外語学校露語科ロシア語科(いまは大阪外国語大学)を卒業しました。

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2010.03.27

高知市から、さぬき市へひっこしました。

  2010.03.27

 私は、きょう、高知市から香川県さぬき市にひっこしました。

 僕と妻が、弟に車を運転してもらって作業に行きました。

 午前八時前に出発。

 さぬき市への道は、高知の山道を超え、徳島県に入り、香川県への道のりでした。

 私の新しい家に到着したのは午後十二時半でした。

 とうことは四時間半かかったということです。

 高知市と、さぬき市の間は、百七十キロメートルあります。

 午後一時、引っ越し荷物の車もやってきました。

 私たち三人の引っ越し作業が終わったのが午後五時前でした。

 あと必要なものは、カラーボックス六個。それと、洗濯物用のロープを用意すること。

 そして、テレビとインターネットを使えるようにすること。

 二十九日は三年次編入者のオリエンテーションがあります。

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2010.03.28

世界選手権女子ショートカットプログラムのキム・ヨナさんの演技。【少し書き換えました。基本は変えていません】

 オリンピックでキム・ヨナさんの演技を見て感嘆しました。

 「すごい。完璧だ。こんな演技は二度と見ることができないだろう」

 二位の日本人選手が完全にかすみました。

 同時に、「こんな演技をしてしまっては、あとは、もう、ここにはこれないだろうな。これ以下の演技しかできないだろうな。ときにはめろめろの演技になってしまうに違いない」とも思いました。

 完璧のプレッシャーは、すごいと思います。

 やっぱりです。

 二十六日の世界選手権の女子ショートカットプログラムの演技です。

 少なくても四回は失敗しました。

 共同通信は「誰も予想しなかった女王のつまずきだった。……」と書きました(毎日新聞二十八日付)。これは、うそです。少なくても僕は、予想していました。「たぶん、今回は……」と。

 ちなみに僕は彼女の大ファンです。彼女にっては、じっくり、もう一度、基本から重ねていく時期です。とくに大事なのは、「フィギアスケートって楽しい」という思いを、もう一度思い起こすことではないでしょうか。

 キム・ヨナさんに心から声援を送っています。

 素人が上から目線でこんなことをいってという批判もありましたが、「見る側」としては素人ではないつもりです。

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【川柳】 初めから わが家の政権 妻のもの

 わが家では政権交代スムーズに(神戸 住吉大明神)

 きょうの毎日新聞に、こんな川柳が載っていました。

 初めから わが家の政権 妻のもの

 これは藤原義一さんの作品です。

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2010.03.31

英語で日記 March 23rd 2010 I lost five kilograms!

 I had been annoyed by the violent cough for two days.
  Therefore, I was hardly able to sleep.
  So, I went to a clinic near my house.
 It takes about 15 minutes on foot.
  However, it was so difficult for me to walk.
  Then, I asked my younger brother to take me to the clinic.
  The doctor said, it was asthma.
  And, he gave me a lot of medicine.
 And then, my condition got better in that night.
  I thought that medicine is wonderful!
 Though I suffered from asthma for two days, there are some good things for me.
 I lost five kilograms!

 (annoy 悩ます。cough せき。Therefore その結果。hardly ほとんど~できない。ask 頼む。asthma ぜんそく。medicine 薬剤、医療。Though けれども。suffer 苦悩などを経験する)

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英語日記 March 24, 2010 JGSDF 50th Infantry Regiment moved from Kagawa to Kochi.

 It was rainy today.
 I went to take some photographs from 8 a.m.
 My theme of the photograph was a parade of Japan Ground Self-Defense Force(JGSDF) 50th Infantry Regiment that has moved from Kagawa to Kochi.
 I took only their actions in Kochi city and went back home.
 As soon as I got to my house, I updated the photographs on my blog. 

 (Japan Ground Self-Defense Force 50th Infantry Regiment 陸上自衛隊第50普通科連隊)

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