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2010.03.20

 【資料】 歩いて探そう 戦争遺跡 海軍第八特攻戦隊第二十一突撃隊

 海軍第八特攻戦隊第二十一突撃隊は、この突撃隊は、一九四五年七月二十七日 呉鎮守府隷下第八特攻戦隊第二十一突撃隊、展開発令されたものです。この跡を歩いてみようと思っています。資料はないでしょうか。まずは、インターネットで得られる資料をまとめてみました。

 【宿毛町】

 宿毛町にあったもの。
 ・ 宿毛海軍航空隊水上機スリップ。
 ・ 宿毛海軍航空隊水上機スリップ。
 ・ 宿毛海軍航空隊弾薬庫。
 ・ 宿毛海軍航空隊貯油庫。
 ・ 宿毛海軍航空隊魚雷調整壕。
 ・ 震洋格納壕と魚雷を吊るすフック。
 ・ 震洋格納壕。
 ・ 震洋格納壕。

 ○ 証言(ホームページ「海軍大尉 小灘利春」から)

 豊後水道の基地回天隊

 昭和二十年四月一日、米軍が沖縄本島へ上陸を開始した。
 続いて本土での決戦が不可避の趨勢となって、大本営は四月八日「決号作戦準備要綱」を出し、敵の来攻を予想される地域の沿岸に各種の水中、水上特攻兵器を展開する対抗策を指示した。
 回天の場合、基地によってはこれより先の二十年初期から既に場所が選定され、設営隊や現地海軍部隊が日数のかかる格納壕の掘削作業のほか、軌道、発進用斜線などの諸施設の構築に着工していた。
 五月以降、豊後水道に面した九州南部の宮崎県海岸と、四国の高知県海岸の陸上基準を最優先して、整備でき次第、兵器と搭乗員が展開していった。
 五月十日、佐世保鎮守府管轄の第五特攻戦隊が開設され、所属する第三三突撃隊が宮崎県南部の油津(現・日南市)に本部を置いた。第三、第五、第九、第十回天隊の4隊、回天計26基がこの三三突に配属されて次々と進出した。
 第三回天隊は大津島基地で訓練した次の9名の搭乗員で編成され、「油津基地」に第一陣の羽田中尉たち4人の搭乗員が五月五日、次いで塩津少尉たち4人が六月二日に出発した。
 大津島の先任搭乗員であった隊長の帖佐 裕大尉が正式に着任したのは六月八日である。
 第三回天隊以降の基地回天隊の出撃では、四箇所の回天の訓練基地すべてを統括する第二特攻戦隊司令官の長井満少将が壮行式を執行、出撃搭乗員は菊水の朱印に「七生報国」と湊川神社の宮司が揮毫した鉢巻きを付けて貰い、御神酒を受けたが、連合艦隊司令長官直筆の「護国」の短刀は伝達されなかった。
 第一回天隊の沖縄、第二回天隊の八丈島は離島なので潜水艦と同様の外地出撃扱いであったが、以後は国内の転勤と看做されたためと言う。
 回天は第二〇号一等輸送艦に積載され、整備員、基地員が便乗して進出し、搭乗員は陸路で赴任した。
 数本の格納壕が油津港の東岸を形成する半島に、豊後水道を背にして掘られていた。

 大尉  帖佐 裕  兵学校七一期  長崎県
 中尉  羽田育三  兵学校七三期  富山県
 少尉  塩津礼二郎 兵科四期予備士官、水雷学校、早稲田大学商学部  三重県
 一飛曹 浅野 豊  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 大阪府
 〃  佐藤 登    〃               ( 〃 ) 福島県
 〃  奥山繁勝    〃               ( 〃 ) 宮城県
 〃  高野 進    〃               ( 〃 ) 北海道
 〃  井手籠博    〃               ( 〃 ) 北海道
 〃  夏堀 昭    〃               ( 〃 ) 北海道
 井手籠一飛曹と夏堀一飛曹は七月十七日、内海基地へ開設支援のため赴いた折り、米空軍P-51戦闘機の機銃掃射と爆撃を受けて戦死した。代りに次の二人が大津島から七月二二日、着任した。
 一飛曹 稲永 真  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(奈良空) 福岡県
 〃  前田轍部    〃               ( 〃 ) 鹿児島県
 第五回天隊も同じく大津島から次の7人の搭乗員が六月一七日陸路出発、宮崎県南部の「南郷栄松基地」へ赴任した。
 中尉  永見博之  兵科三期予備士官、水雷学校、鳥取県
 一飛曹 小原隆二  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 岩手県
 〃  中村憲光    〃               ( 〃 ) 北海道
 〃  多賀谷虎雄   〃               (奈良空) 群馬県
 〃  緑川武男    〃               ( 〃 ) 長野県
 〃  高館孝司    〃               ( 〃 ) 新潟県
 〃  蔦村照光    〃               ( 〃 ) 大阪府

 回天は六月二日に伊一六二潜及び伊一五六潜が、また五日に伊一六二潜が大津島で二基づつ積載して輸送した。
 現・宮崎県南男阿部南郷町の外浦港の東側を囲む栄松の半島に基地があり、港を向いて掘られた格納壕に収納された。
 第九回天隊は光基地で次の6人により編成され、七月二二日「内海基地」(現・宮崎市南部)に進出した。
 少尉  重岡 カ  兵科四期予備士官、水雷学校、慶応大学法学部  広島県
 ー飛曹 小川乾司  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(奈良空) 福岡県
 〃  片岡 信    〃               ( 〃 ) 奈良県
 〃  金子忠二    〃               ( 〃 ) 新潟県
 〃  真部虔司    〃               ( 〃 ) 新潟県
 〃  山口仁之    〃               ( 〃 ) 広島県
 現在のJR内海駅の裏山に掘られた三本の格納壕から内海港内にある斜路まで、レールが鉄道線路と国道を越えてゆくことになり、回天を搬出する距離が長いことに運用上の問題があった。
 第十回天隊は油津の南の「大堂津基地」(現・日南市)に大津島で編成した搭乗員4人が八月十四日に進出した。

 少尉  佐賀正一  兵科一期予備生徒出身、水雷学校、北海道大学  北海道
 一飛曹 青木修義  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 東京都
 〃  本橋邦男    〃               ( 〃 ) 静岡県
 〃  野村栄造    〃               ( 〃 ) 東京都

 大堂津港の北東岸、下方岬の崖に、港を向いて4本の回天格納壕があり、七月二七日に伊一六二潜、七月二八日に伊一五八潜が各二基づつ、大津島から輸送した。
 第八回天隊は佐世保鎮守府管轄、第五特攻戦隊の第三五突撃隊に配属され、宮崎県中部の「細島基地」(現・日向市)に、平生基地で編成した搭乗員12名が七月八日と一四日に進出した。

 中尉  井上 薫  兵学校第七三期  鹿児島県
 少尉  山崎 論  兵科四期予備士官、水雷学校、東京大学文学部   静岡県
 少尉  赤松初司    〃       〃   関西学院大学    兵庫県
 一飛曹 落合義夫  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(土浦空) 山形県
 〃  加藤芳司    〃               ( 〃 ) 埼玉県
 〃  真壁三男    〃               (奈良空) 新潟県
 〃  岩部承志    〃               ( 〃 ) 香川県
 〃  青柳恵二    〃               ( 〃 ) 長野県
 〃  唐木田学    〃               ( 〃 ) 長野県
 〃  中島武義    〃               ( 〃 ) 岐阜県
 〃  野寄 孝    〃               ( 〃 ) 福岡県
 〃  浅井逐朗    〃               ( 〃 ) 愛知県

 細島港は古来から知られた良港であり、その北岸、畑浦の崖に掘られた教本の壕に回天が分散格納された。
 輸送は12基すべて平生から潜水艦で行われた。
 各訓練基地からの回天輸送に従事した潜水艦は第三四潜水隊所属の伊一五六潜、伊一五七潜、伊一五八潜、伊一五九潜、伊一六二着であり、指定地点で潜航、沈座したまま回天を切り離し、浮上した回天を基地の舟艇が格納壕まで曳航した。
 一部の潜水艦は回天との間の交通筒を整備しており、伊一五六潜は第三三潜水隊の伊一五五潜とともに回天発進訓練を併せて実施した。
 八月下旬には両艦とも回天を搭載して大津島から出撃する予定であった。
 伊一五九潜は神洲隊の一艦として終戦直後の八月十六日、平生基地から出撃している。
 第十一回天隊の回天八基は愛媛県南部の「麦が浦」(現・南宇和郡愛南町)に、大神基地から第二十号一等輸送艦に積載されて八月四日到着した。
 配属先は呉鎮守府管轄の第八特攻戦隊に所属する第二一突撃隊であった。
 本部は四国南西岸の宿毛町にあって、回天のほか蛟龍隊、震洋隊が配備されていた。第十一回天隊は四月二五日開隊した大神基地からは唯一の出撃隊である。

 中尉  久堀弘義  兵科三期予備士官、航海学校、兵庫県
 少尉  中谷 章  兵科一期予備生徒出身士官、航海学校、福岡県
 一飛曹 大岩正一  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官(奈良空) 愛知県
 〝  清水哲郎    〃               ( 〃 ) 愛知県
 〝  塩月昭義    〃               ( 〃 ) 東京都
 〝  高橋道彦    〃               ( 〃 ) 大阪府
 〝  長谷川安正   〃               ( 〃 ) 大阪府
 〝  原村 正    〃               ( 〃 ) 埼玉県

 宿毛湾北岸の麦が浦半島に設けられた北向きの格納壕に回天8基が収められた。
 突然に輸送艦が入港しての急速揚陸であったが、地元の人々多数の協力によって作業が迅速に進行し、兵器、資材の揚荷作業が短時間で終了した。
 第二十号輸送艦は直ちに瀬戸内海に戻ったが翌五日、光沖の小祝島付近で米軍が投下した磁気機雪に触雷し、以後回天の輸送に従事できなくなった。

 【鵜来島(うぐるしま)】

 ○ フリー百科事典『ウィキペディア』から

 鵜来島は太平洋上、高知県宿毛市の沖合にある島。足摺宇和海国立公園に指定されている。
 緯度 32度48分07秒、経度 132度29分24秒、面積1.3平方キロメートル、周囲6.7km。標高252mの龍頭山を中心とした険しい地形の島で、谷川があるが水量は乏しい。水成岩より成る約一億年前の白亜紀地層の島で断崖絶壁が多く、行政区分は高知県宿毛市沖の島町に属す。家々は山の斜面に建ち島内に車の通れる道路はない。その為自動車は全くない。集落は一つで沖の島支所連絡所や漁協がある。人口は約27人で高齢化率は実に9割程度を占める。休校中の鵜来島小中学校はコミュニティセンターとして活用されている。診療所はなく医師が定期的に巡回している。磯釣りやマリンスポーツの島として人気を集めている。 商店の類は無く食品が販売されている店舗は無い。島内には飲料の自動販売機が1台のみ存在する。
 鎌倉〜室町時代頃から人が住み始める様になったと推測されている。藩政時代には伊予宇和島藩に属しており、政治犯などの流刑地にされていた歴史を持つ。
 明治時代に入ると隣接する沖の島・姫島と共に高知県に転入される。
 昭和の太平洋戦争時には四国防衛の要衝として沖の島区域の基地化が進められる。鵜来島には大砲などが整えられ着々と本土決戦の準備が進み昭和20年8月には全島民に強制疎開命令が出る。しかし、直後に終戦となり鵜来島が戦場となることはなかった。現在も基地跡などの遺構が残っている。

 龍頭山
 252m。太平洋戦争当時の砲台跡や弾薬庫、兵舎跡などが残っている。
 交通
 宿毛市営定期船
 宿毛市片島港乗り場より午前7時と午後2時半の一日二便運航。

 ○ ホームページ「鵜来島・姫島」から

 龍頭山と旧日本海軍の軍事遺構

 鵜来島中心にそびえ立つ最高峰の山(252m)。戦時中は旧日本海軍によって要塞化され砲台跡や弾薬庫、兵舎跡などの軍事遺構が山頂付近に残っている。コンクリート舗装されている農業道横の石段の登山口から林に入り直進、画像の中央上に見える山頂運動場跡に建設された貯水タンクへ至る別れ道には入らず直進、次の別れ道で左折する。山頂に展望台やトイレなどはない。付近にあった剣神社、高山神社・薫的神社らが麓の春日神社周辺に移されてから道が廃れつつあるので注意。以前は竜頭山裏から水源地の浮津へ向かう道や最西端の日向鼻に至る道もあったそうだが耕作放置してからは廃れヤブになっている。頂上付近への通行は登山初心者にはやや困難かと思われる。

 ○ ホームページ「宿毛市沖の島の歴史」から

 宿毛湾防備図に記載されている15糎砲3門の備付について、当時鵜来島漁業組合長兼部落区長であった田中増之助氏の談によると、「砲台は、昭和16年12月の大東亜戦争開戦の時には既に3門共備え付けられていた。豊田海軍大将が直接島へ上陸して調査をした後、大分の後藤組が工事を請けおっていた。龍頭山頂(252メートル)の砲台と西側の衛所(無線基地)及び発電所の工事には2年位かかった。大砲を山頂にあげるのは呉工廠から技術者が来てあげた。この工事の主体は後藤組が中心になったけれど、セメントや土砂の陸揚げ、又山頂までの運搬、道路作りは島民の勤労奉仕であって、軍から要請があれば漁に出るのもやめて労力を提供した。砲台の責任者は海軍少尉か中尉で、兵よりたたきあげられた人らしく、兵は120人位いた。衛所の方も100人位の人がいたが、砲台と衛所はあまり仲がよいようではなかった。勤労奉仕の配分は私が責任をもって割りあてたが、そんな時に感情的な面があることを感じた。軍の食糧は片島小川芳男さんが御用商人で、片島より船で運んでいた。食生活は十分でなかったとみえて、よくひもじいというので島民がいも等をむして食べさしたり、鰹を釣った場合、砲台や衛所へよくやったりしていた。魚のない時、軍隊はダイナマイトを使用して魚をとったりしていた。当時鰹船(動力船)は島に3隻あった。自分も1隻所有していた。他に「しび繩」船を持っていたが軍へ徴用された。
 大東亜戦争が始まってから宿毛湾付近の海域は特定区域となり、出漁する船は軍の許可を得なければならなくなり(標識をつける)、沖の島水域は絶対特定区域に指定され、動力船の使用は一切禁止となリ、昭和17年だったと思うが、沖の島村長以下区長、漁業組合長は宿毛警察署に呼ばれて(県からも役人が来ていた)漁ができにくくなったので、開拓民として満洲へ移民することを勧められた。島に帰って島民に話した所、自分達は海草を取ったり、伝馬船で一本釣リをしてでも島から離れたくないとの意見が強く、その要望を持って大分県の佐伯防備隊(海軍)へ行き実情を訴えたが、はじめ会った下士官はその陳情を不届き者という事で受付けてもらえず、つまリ佐伯で3日滞在、3日目に将校の人が会ってくれ事情を話した所、自分等はそんな連絡をした事もないし、むしろ勤労奉仕等の協力を頼むという事で満洲行の話は問題にならずに済んだ。当時の軍の力というものはえらいもんだった。」と語ってくれた。なお、この大砲は昭和20年3月頃、沖の島沖に敵潜水艦が浮上した時撃つので、島民を避難さすよう連絡があったがついに撃たなかった。つまり据え付けて一発も発射していない。

 【沖の島】

 ○ ホームページ「宿毛市沖の島の歴史」から

 太平洋戦争末期の宿毛湾周辺には海軍特攻部隊が配属される。そして沖の島内にはレーダー基地や機関砲が設置され、特殊潜航艇「回天」を隠匿する場所として沖の島の海岸に横穴が掘られ沖の島母島には基地もできたが、特殊潜航艇は実際に配備されずに終戦となっている。
 沖の島は1945年3月29日、浮上した潜水艦4隻による銃撃により死者3名,重傷4名,軽傷9名,船舶損害2隻を出したり、また1945年6月18目には、P51戦闘機14機により爆弾2発が投下され、機銃撮射を受けたりといった被害を受けている。更に鵜来島の漁船がビロウ島沖で銃撃され漁船員3名が死亡するという痛ましい事件も起こっている。これらの詳報は軍部から報道が禁止されており、終戦当時軍事関係文書はすべて焼却を命ぜられたりしているので住民達の証言などが頼みの綱となっている。

 母島地区にあった基地跡で回天を隠匿するために横穴が複数空いていた。終戦により回天は沖の島には配備されなかった。横穴は現在も一部が残る。

 【沖の島、鵜来島(うぐるしま)】

 ○ ホームページ「宿毛市沖の島の歴史」から

 昭和20年になると、高知市をはじめ県内各地に米軍機による爆撃、銃撃が日増しに激しくなり、沖の島、鵜来島には海軍の砲台や電探基地がある為、住民の生命の危険もあり、県・宿毛警察署の指導によって橋上村への強制疎開命令がでた。当時村議会においても疎開反対者もあり、意を決し兼ねていたが命令が出たので、一部警備隊員を除く全島民(約二千三百名)が疎開することになった。その経緯について、沖の島村役場が「町村制第113条第3項」により昭和20年県へ提出した事務報告書によると、
 「戦局の危急を告げる決戦下、町村事務は愈々複雑多岐にして、国土防衛は基より食糧増産確保に、或は国民貯蓄の完遂に諸物資の配給統制に労務の遂行にと国を挙げて皇国護持に挺身しつつある秋、突然宿毛警察は上司の命令なる旨を以て本村警備隊員を除く、一般村民の転移を勧告し来れり、転移先を橋上村に指定し、8月12日より同月14日に至る3日間を以て予定総人員の転移を完了したるも、8月15日にポツダム宣言受諾により、大東亜戦の機能を茲に完了停止するに至れり、越えて同月22日より同26日に亘る5日間に転移総人員の復村を得たるも、此等に要した損益金は海陸輸送の費用を合して壱万八千貳百円を費やせり。転移先に於ては医料施設不備なるため貳名の小児を死亡せしは遺憾の次第なり。加うるに本件転移復村に於ける期間、警防団長以下全員、各部落会長、各区長等の海陸輸送に、陸路人員の歩行引率に、家財荷物の送達にと献身努力の賜ものにして、其労苦は永く後世に伝わる記録なり。」
 なお海上輸送は機帆船(貨物船)を利用し、荷物と人間を一諸に積み込み、飛行機や潜水艦の攻撃を恐れて、夜陰を利用して輸送にあたり、陸上の場合も月の光をたよりに橋上まで徒歩で行った。身のまわりの荷物を持って老人や子供が20粁余りの道のりを歩くのは大変であったと思う。宿泊先も野地(橋上)、坂本、楠山へそれぞれ分宿し、民家に宿泊できない者は橋上の各学校に分宿している。鵜来島の場合は途中橋上第一小学校(現在の橋上小学校)で一泊し、全員が坂本の民家に分宿している。
 たまたま疎開の期間が10日間位で終了したのは不幸中の幸いであったが、老人達は住みなれた故郷を離れ、身のまわりの品だけを持っての疎開であり、先祖の墓のある所で死にたいと云って疎開をいやがった人も多かったし、鵜来島では、どうしてもいやだといって2人の老人が残った程であった。
 *疎開した島民の証言によると集団疎開に使われた貨物船は敵への対策として船内に木を建てるなどして島や岩場にカモフラージュしていたという。

 【柏島】

 ○ 高知新聞

 2006年05月12日 

 17歳「震洋」で出撃寸前 元隊員が柏島訪問

 太平洋戦争末期、旧海軍の特攻艇「震洋」の乗組員として、幡多郡大月町柏島の特攻基地にいた小野一さん(78)=青森市=が10、11の2日間、数年ぶりに柏島を訪問。“死の出撃”を待つ若者たちを支えてくれた島民らとの旧交を温め合った。
 「震洋」は全長約5メートルの2人乗りの艇に爆薬を積み、敵艦船に体当たりする特攻兵器。米軍の本土上陸を水際で防ごうと各地に配備された。
 柏島には昭和20年6月、「第一三四震洋隊」が置かれた。隊員40人余り。平均年齢18歳で関東から北海道にかけての出身者が多く、小野さんも17歳だった。
 敵機に発見されるのを避けるため、満足な訓練はできない。1日のほとんどは自由時間で、遠く故郷を離れた若者たちは島民たちと親しく交流。息子を戦地に送った島民と親子のような感情も生まれた。
 小野さんがとりわけ世話になったのが、故・山本縞恵(しまえ)さん=昭和48年に86歳で死去。ライスカレーをごちそうになったり、風呂で背中を流してもらったり。「息子のようにめんこがってもらった」という。
 昭和63年には、元隊員でつくる「震洋柏島(はくとう)会」と島民らが協力して柏島の基地跡に記念碑を建立。当時を知る島民による「島娘(しまご)の会」(亀井昭代会長)も静岡県や新潟県での「震洋柏島会」の会合に出向くなど交流を続けている。
 今回、小野さんは妻のキヌエさん(73)と柏島を訪問。縞恵さんの孫の山本恒和さん(60)が経営する旅館で、亀井会長ら10人と当時の思い出を語り合った。
 昭和20年の7月28日ごろ、米艦隊接近の情報が入り、出撃命令を受けた小野さん。真っ先に別れを告げに行くと、縞恵さんは玄関の板の間に額をこすりつけ、「なぜ死ぬんか! なぜ死ぬんか!」と涙ながらに訴えたという。
 幸い出撃命令は取り消され、間もなく終戦。故郷で教師となった小野さんは、「縞恵さんの『なぜ死ぬんか!』という言葉が忘れられない。戦後、命があること自体が幸せだと胸に刻んで暮らしてきた」という。
 小野さんは「皆さんに温かくしてもらった柏島は私の命の源。恩返しにならないかもしれないが、青森のねぶた祭りに招待したい」と提案。住民らも「ぜひ行きたい」と応えた。
 元隊員や「島娘の会」のメンバーらは高齢化が進んでいるが、亀井会長は「交流を続けるとともに、平和の大切さや命の尊さを次の世代に伝えていきたい」と話している。

 ○ 国立国会図書館のホームページから

 柏島讃歌
 責任表示:半谷達哉 著
 出版者:〔半谷達哉〕
 出版年月日:1989.10
 請求記号:GB554-E794

 柏島讃歌 補遺
 責任表示:半谷達哉 編著
 出版者:柏島震洋碑保存会
 出版年月日:1990.9
 請求記号:GB554-E794
 書誌ID:000002108364[書誌情報 追記]

 【全体像】

 ○ 日本共産党幡多地区委員会のホームページから

 本土決戦と幡多地方

 1945(昭和20)年、大本営は本土決戦のための対策に着手。
 アメリカ軍の上陸地点は昭和20年秋に九州侵攻、そのあと関東侵攻と想定して作戦をたてる。そのために七月末を目途にあらたに44師団、16旅団、6戦車旅団を新設、既存の本土部隊と満州、朝鮮からひきあげさせた部隊とで200万の戦力で米軍を迎え撃とうというものだった。そのために陸軍は、東日本担当の第一総軍、西日本の第二総軍をつくり、そのもとに各方面軍をおいた。海軍は第5航空艦隊が九州と四国を担当する。こうしてつくられた本土防衛軍だったが、装備は貧弱で19歳から50歳という年齢差も大きく、しかも未教育補充兵で、実戦訓練はなく陣地構築などに従事させられた。
 その防衛作戦は次のようなものだった。まず陸軍、海軍の特攻機で近海に侵攻してきた連合軍の船舶に体当たり攻撃を加える。上陸海面に達すると、沿岸の秘密基地に隠してある海軍の蛟竜、海竜、回天、震洋といった特攻兵器が体当たり攻撃を加える。それでも7割から8割が上陸してくるので、これを沿岸配備師団で水際陣地に立てこもり、全滅覚悟でくいとめる。そのあいだに内陸部に配置されている機動師団が上陸地点に急行して、上陸部隊をけおとす。これに国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下、女子は45歳以下の国民で組織される国民義勇隊が軍と協力してたたかい、最終的には内陸部の山間地にたてこもってゲリラ戦をたたかいぬく、というものだった。
 一方、アメリカ軍は5月10日に日本上陸作戦を正式に決定。それによると九州上陸作戦(オリンピック作戦)が11月1日、関東上陸作戦(コロネット作戦)は翌年の3月1日の予定で、オリンピック作戦には9発の原爆を使用する案もあった。
 作戦計画書によると7月28日から、日本全土への空爆と艦砲射撃、10月23日には、侵攻部隊と支援艦隊が上陸海岸沖合に進出し、空襲と艦砲射撃で上陸海岸を制圧することにしていた。そして日本軍をかく乱するために予備軍団である第9軍団の一部が四国土佐沖に向かい、四国上陸のかまえをみせる。11月1日に宮崎海岸に第11軍団と第1軍団、薩摩半島の吹上海岸に海兵隊の第5水陸両用軍団がそれぞれ上陸。11月5日には第9軍団主力が薩摩半島南端に上陸して九州南部を占領するというものであった。

 幡多地方への軍配備

 幡多地方に配備されたのは陸軍は「剣山兵団」と呼ばれる第344師団(昭和20年5月編成)、海軍は第8特攻戦隊第21突撃隊だった。いずれも全員戦死しても後退を許されない「ハリツケ師団」、特攻部隊である。
 その配置は次のとおりで、兵隊たちは学校や民家に分宿した。そのあおりで生徒たちは、境内などで授業を受けなければならなかった。
▽第344師団
 司令部…中村町(裁判所)
 352連隊…第1大隊が八幡浜、第2大隊が宇和島、第3大隊が吉野生(のち蕨岡へ進出)  353連隊…第1大隊が田ノ浦、出口、第2大隊が上川口、第3大隊が入野松原
 354連隊…第1大隊が宿毛、第2大隊が和田・坂の下・田ノ浦、第3大隊が有岡・山田(泳いで敵艦船に爆弾をとりつける攻撃のため、7月に下の加江~下田方面へ進出して水泳訓練をおこなう)
 噴進砲隊…宿毛町
 工兵隊…川登
 通信隊…利岡
 輜重隊…江川崎
 野戦病院…麻生

▽第8特攻戦隊
 第21突撃隊…宿毛に司令部をおき、宿毛湾から土佐清水までを担当。
 第23突撃隊…須崎に司令部をおき、土佐湾全体を担当。
 第24突撃隊…大分県佐伯に司令部をおき、大分県沿岸を担当。
------------------
 なお、第344師団の353連隊については、「大方町史」にくわしい配備表があるので次に掲載しておく。
【353連隊】
  連隊本部…入野農事試験場
  第1大隊本部…田の口国民学校
    第二中隊…田の口国民学校
    第1歩兵砲隊…同上
    第1挺身中隊…入野公会堂
    第1中隊…出口国民学校
    第3中隊…同上
  第2大隊本部…上川口国民学校
    第4中隊…南郷国民学校
    第5中隊…上川口国民学校
    第2挺身中隊…同上
    第2歩兵砲隊…同上
    第6中隊…蜷川国民学校
  第3大隊本部…幡東国民学校
    第7中隊…入野国民学校
    第8中隊…幡東国民学校
    第9中隊…錦野座(入野)
    第3挺身中隊…鞭公会堂
  補給隊…早咲中沢製材所
  通信班…早咲宮川乾燥場
  衛生班…加持国民学校

 ●特攻基地

 島と半島によって囲まれた宿毛湾は、天然の要害として注目されてきた。古くは平安時代に中央政府に反抗した藤原純友が拠点をかまえた。連合艦隊もこの湾をしばしば活用した。
 海軍は、宿毛湾を中心に展開した。海軍第8特攻戦隊第21突撃隊が、愛媛県日振島、麦ヶ浦、宿毛市宇須々木、小筑紫、沖の島、大月町泊浦、柏島、古満目に配備された。兵器としては、魚雷艇、特殊潜行艇「蛟竜」、「海竜」、特攻艇「震洋」があり、人間魚雷「回天」も配備される予定だった。特攻基地は、土佐清水市越、大月町柏島、泊浦、古満目におかれた。
 「大月町史」に掲載されている「第21突撃隊戦時日誌」から、当時の記録を拾ってみた。
 --------------
 4月17日 朝輝丸が鵜来島付近で浮遊機雷を一個処分。
 4月26日 7回にわたって雲の上から片島港、宿毛湾に時限爆弾をふくむ爆弾が投下されるが、蛟竜には異常はない。
 5月10日 B29による爆撃があったが、片島と本隊とのあいだの水道管が破損したほかは異常なし。
 5月12日 蛟竜2基が修理のために広島にむけて出発したため、出撃可能は2基だけとなる。
 5月13日 味方哨戒機の情報によれば、都の井岬の150度15浬に20数隻からなる機動部隊が北上中。魚雷艇5艇が古満目に進出。
 5月14日 敵機動部隊が依然として九州南東海上に行動中。15日午前4時半をもって第1警戒配備とする。
 5月15日 7隻の蛟竜が到着。
 5月17日 敵の攻撃は次第に綿密で執拗なものになっており、しかも特攻兵器にむけておこなわれる可能性が高まっている。そこでこれらの兵器は分散配置するとともに煙幕などをつかって防衛するよう徹底する。
 6月24日 132、134震洋隊宿毛へ進出
 6月26日 132震洋隊清水へ進出、134震洋隊柏島へ進出。
 6月29日 28日午前に越(現在の清水高校対岸)より清水に回航中の大発が敵飛行艇の機銃掃射をうけた。最近飛行艇の活動がきわめて活発なので各基地は偽装と舟艇の行動に一段と警戒をするように。
 7月9日 敵潜水艦が沖の島燈台南方7キロにあり、砲撃に注意せよ。鵜来島で味方艦が銃爆撃される。
 7月17日 132震洋隊の震洋が1隻訓練中に尾浦崎で沈没。
 7月18日 「ダグラス」2機、「マーチン」1機が宿毛湾海岸線を航行中の漁船を銃撃して、「マーチン」は柏島上空から古満目上空に消える。
 7月19日 142震洋隊泊浦へ進出。
 7月20日 柏島、宇須々木方面への低空銃爆撃。
 7月24日 柏島に敵機約10機が7回にわたって銃撃。鵜来島方面に1機墜落する。
 7月27日 当隊所属の貨物船が、武者泊から福浦へ航行中、敵小型飛行機8機の襲撃をうけ沈没。
 7月28日 132震洋隊の震洋が越港で試運転中に敵機2機の銃撃をうけ沈没、戦死1。
 7月30日 第8特攻隊司令部が宿毛に進出。

 土佐清水市の特攻基地跡

 小江港。「清水町越」の特攻基地跡は、正面の半島に港側にむいて掘られていた。5個確認したが、もっと調べればあるかもしれない。またその壕が何であるかの説明はまったくなく、説明看板くらいあってもいいのでは、とおもった。

 いちばん海がわにあった「震洋」格納洞窟。

 洞窟の一つ。かなりの大きさに驚いた。
 風化して危険なのでなかに入るのはやめたが、保存して平和教育に役立てたらどうなんだろう。

 大月町の特攻基地跡

 大月町柏島(中央の島)。島の手前側に、艦砲射撃を避けるように震洋艇の壕があったが、いまは原形をとどめていない。向こうに見える大きな島が沖の島。

 【碑文】

 特攻震洋基地跡碑

 太平洋戦争の末期昭和20年6月本土決戦に備え特攻震洋隊員48名がここに配置されこの丘の麓の6本の横穴に震洋艇24隻を格納し迎撃の機会を待った危急存亡の時に当たって決死殉国の盟を結ぶ若い隊員の真心とこれを優しく見守って呉れた島の人びとの温情は筆舌に能く表す事が出来ない以来43年戦後の悲惨な荒廃から立ち上がった日本の今日の繁栄は当時生き残った青少年の力に因ることが大きい
 各地の特攻に散華した多くの英霊に無限の感謝を込めて冥福を祈ると共に永遠の世界平和を願う一つの灯火として茲にこの碑を建てる

      昭和63年10月吉日
                元第134震洋隊搭乗員有志

 泊浦に残っている震洋艇格納壕のひとつ。土佐清水市小江のそれにくらべて風化が激しい。両方とも保存してほしいと願うのだがいあわせたお年寄りからきいた話によれば、泊浦には全部で9個の壕が掘られていたという。

 【泊浦の説明板に書かれていた文章】

 震洋艇格納壕跡

 この壕は、震洋艇や回天の格納ため海軍により造られたものです。昭和20年1月本土決戦準備が発令され、同年3月宿毛市宇須々木に派遣されていた隊を第21突撃隊と改め第一線の特攻隊となる。この隊のうち大月町内では古満目に22魚雷艇隊、柏島へ半谷中尉隊長の134震洋隊、泊浦へは畠中尉隊長の142震洋隊が配置される。震洋艇は5型といわれる長さ6メートルで2人乗りの小艇である。隊は隊長以下48人だから24隻が配備されるが、泊浦へは呉の大空襲により工場の被害を受け3隻の配備となったが、終戦により大月町に配備されていたすべての震洋艇は一度も出撃することなく、その役割を終えた。

 ●軍用道路…柏島道路、竹屋敷道路

 軍隊の移動のために軍用道路が、大月町二つ石~渡(柏島)間、中村市竹屋敷につくられた。柏島線は、1944年10月に「防衛道路緊急整備工事協力第1件」と題する通達により、軍の指揮のもと延べ6万人が参加して翌年4月に完成した。この工事には、老人、婦女子、国民学校高等科の生徒、県立中学校の学生が主だった。また朝鮮人も多数この工事に参加し、犠牲者も出している。
 戦後、この道路はさらに改良され、かつては海路でしかいけなかった柏島が陸路で結ばれている。一方、竹屋敷の軍用道路は、その後、利用されることもなく自然に帰ろうとしている。
戦時中の昭和19年から20年にかけて、大月町平山から柏島までつけられた軍用道路は、いまでは県道となり、柏島への大切な輸送道路となっている。

 ●入野松原と戦争

 幡多郡大方町の約2㌔メートルの砂浜海岸に入野松原がひろがっている。これは中世時代に植林されたもので、防風林、防砂林として入野平野をまもってきた。
 ところが、本土防衛にこの地域に展開した軍はこれを伐採して、陣地構築にあてることを命令。これにたいして当時の中村営林署の堀内署長は、松原を守るために奥湊川の住民の協力を得て、かわりの材木を提供することを申し出て、松林伐採をまぬがれさせた。
 そのことを顕彰して堀内署長の顕彰碑が松原にある。
顕彰碑は、「上林暁館」から砂浜へおりたところにある。

 ●幡多地方への銃爆撃

 幡多地方は、土佐湾、豊後水道に面しており、アメリカ機動部隊の艦載機や沖縄、硫黄島などから飛び立った戦闘機、爆撃機が足摺岬をめざして侵入し、銃爆撃が頻繁におこなわれた。また、グアム、サイパンなどを飛び立ったB29戦略爆撃機の呉、中国地方への通過地点にもあたり、上空を通過するのが目撃されている。空襲警報は、昭和19年からはじまり、20年になるとほぼ毎日出されている。また、沖の島には潜水艦による艦砲射撃もおこなわれた。

 幡多地方への銃爆撃の記録 年月日 攻撃場所 投下弾 死傷者 被害物件 来襲機

 1945/3/7 高知市桟橋通り、幡多郡三原村 爆弾20 死者2,重傷4、軽傷5 建物全壊8、半壊36 B29×2 A 
 1945/3/18 清水町、伊豆田村、宿毛湾、大方町 爆弾14,焼夷弾、46、銃撃50 死者9、重傷8、軽傷5 全壊1、半壊40、船舶5、山林40町 B29×1、グラマン×24 A 
 1945/3/19 幡多、高岡、香美、長岡、安芸五郡一円 爆弾34、焼夷弾18、銃撃48 死者8、重傷1、軽傷9 全焼9、半焼1、全壊1、半壊5 B29×2、グラマン×272 A 
 1945/3/29 幡多郡沖の島 銃撃2 死者3、重傷4,軽傷9 船舶2 潜水艦×4 A 
 1945/4/7 幡多郡清水町 銃撃1   B24×1 A 
 1945/4/17 幡多郡清水町、伊豆田村、香美郡田村 銃撃4 軽傷2 船舶2 B24×2、P51×50 A 
 1945/4/18 幡多郡伊豆田村 焼夷弾3 死者1、重傷3、行方不明1 船舶1 B24×1 A 
 1945/4/21 幡多郡清水町 爆弾20 死者2、重傷3、軽傷2 建物全焼7、半焼7,半壊14 B29×1 A 
 1945/4/22 幡多郡三崎村、伊豆田村、下田沖 爆弾11、銃撃3  船舶2 B29×2、グラマン×2 A 
 1945/4/26 幡多郡、香美郡、安芸郡 爆弾115、銃撃4 死者25、重傷23、軽傷12 建物全壊4、半壊26、船舶6、山林4反5畝 B29×12、B24×2 A 
 1945/4/26 幡多郡宿毛町、片島町 爆弾   不明 B 
 1945/4/29 幡多郡三崎村 銃撃1 軽傷3  B24×1 A 
 1945/5/3 幡多郡下川口町、香美郡野市町 爆弾42 死者9、重傷1、軽傷1 建物全壊1、半壊55 B29×3 A 
 1945/5/10 幡多郡中村町、清水町、高岡郡東又 爆弾27 死者21、重傷12、軽傷13 建物全壊15、半壊19 B29×4 A 
 1945/5/10 幡多郡宿毛町 爆弾  水道管破損 不明 B 
 1945/5/11 幡多郡伊豆田村、下川口町、清水町、香美郡野市町 爆弾42 軽傷3 建物全焼1、全壊1、半壊12 B29×5 A 
 1945/5/14 高知市、吾川郡神谷村、香美郡野市町、幡多郡 爆弾10、焼夷弾51、銃撃24 死者1、重傷3 建物全壊19、半壊39、船舶2、山林3反4畝 グラマン×156 A 
 1945/6/17 幡多郡白田川村、大方町、高岡郡須崎町能見 爆弾5、焼夷弾101、銃撃5 死者1、重傷5、軽傷3、行方不明1 建物全焼6、船舶5 グラマン×6 A 
 1945/6/18 幡多郡沖の島 爆弾2、銃撃18   P51×14 A 
1945/6/28 幡多郡清水町、下川口町 爆弾8、銃撃6 死者6、重傷2、軽傷1、行方不明1 船舶6 PBM×12 A 
 1945/6/29 幡多郡奥内村 銃撃8 死者2、重傷3、軽傷2 船舶1 PBM×4 A 
 1945/7/2 幡多郡宿毛町 焼夷弾130  山林3反 B29×6 A 
 1945/7/3 幡多郡清水町 焼夷弾70   B29×1 A 
 1945/7/9 高知市、幡多郡清水町、高岡郡宇佐町 焼夷弾2、銃撃2 死者4、重傷5、軽傷6 建物全焼1、全壊1、半壊12 B29×1、PBM×2 A 
 1945/7/11 幡多郡清水町、高知港外 銃撃5 死者3、重傷1、軽傷1 船舶1 PBM×2 A 
 1945/7/16 幡多郡清水町 爆弾3、銃撃7 軽傷1 建物全壊1、半壊2 B29×1 A 
 1945/7/17 幡多郡清水町 爆弾3、銃撃2 死者2、重傷2、軽傷3、行方不明2 船舶1 PBM×3 A 
 1945/7/18 幡多郡清水町 爆弾1 死者1、重傷3 船舶1 PBM×3 A 
 1945/7/18 宿毛湾 銃撃   ダグラス×2、マーチン×1 B 
 1945/7/20 柏島、宇須々木 低空銃爆撃。    B 
 1945/7/23 幡多郡清水町、白田川村 爆弾47 死者83、重傷46、軽傷16 建物全壊22、半壊19 B29×3 A 
 1945/7/24 県下29ヶ所 爆弾91、焼夷弾5、銃撃88 死者83、重傷46、軽傷22 建物半焼1、全壊65、半壊119、船舶1、山林2町 B29×3、グラマン×250 A 
 1945/7/24 幡多郡東山村、八束村 爆弾2、銃撃 死者2、負傷1  B29×1、戦闘機 中村市史 
 1945/7/25 県下14ヶ所 爆弾57、銃撃22 死者3、重傷3、軽傷6 建物全壊31、半壊109 B24×1、グラマン×300 A 
 1945/7/28 県下13ヶ所 爆弾18 死者1、重傷4、軽傷6 建物全壊1、半壊4、船舶3、山林1畝 艦載機×1000 A 
 1945/7/28 幡多郡清水町 銃撃 死者1 船舶1 敵機×2 B 
 1945/8/5 幡多郡清水町 爆弾12   P51×2 A 
 1945/8/10 幡多郡清水町 爆弾5、焼夷弾8 重傷2 山林1反 29×2 A 
 1945/8/14 幡多郡三原村 爆弾4~5(不発弾)    三原村史 

 典拠資料A=高知市民図書館「かつて戦争があった」
 典拠資料B=第21突撃隊戦時日誌(大月町史)

 ● 上川口小学校爆撃

 1945年7月22日、剣山部隊が駐屯していた上川口国民学校が爆撃をうけ、100名をこえる死者が出た。この爆撃は広島、呉方面への爆撃の途中におこなわれたもので、上川口小学校を当初からねらった攻撃ではなく、当夜は15夜だったというから、B29の有視界飛行による爆撃ではなかったかと思われる。
 <午後11時40分頃突如空襲警報が発令され、当直兵並に一般の防備班員はそれぞれ部署についていたところ、12時近くになり東南の方向に爆音が聞こえるたと思うと、間もなく伊田方面から蜷川方面に向かってB29の大編隊が来襲した。一応何事もなく編隊が通過したので、一同安堵して部署を離れようとしたとき、最後の一機が旋回して低空姿勢となり、上川口国民学校を目標に爆弾投下をした。23日午前零時20分頃であった。爆弾は同校を中心に北西から南東にかけて約300メートルの間に24個が投下され、隊員の兵舎であった校堂(ママ)並びに隣接校舎は木端微塵に粉砕され、舎屋の合掌は桂蔵寺の大松の枝にかかり、カズラ石は四方に飛散して田畑や民家に落下し、中には黒岩の畝越しに有井川部落にまで落下するものがある程であった。此のため宿営部隊には多数の死者と重傷者を出したが夜中のこととてその救出には困難を極め、夜が明けてから田中正一少尉外77柱の死体を収容し、重傷者は蕨岡の本隊へ急送したがその中15名が死亡した。当夜上川口郵便局員西内照子(26歳)は局から自宅へ帰る途中爆風で、また田中厚子(16歳)は自宅の庭で破片に打たれて即死した。その夜はあたかも旧6月15日のことで、爆撃前は美しい月夜であったが、爆撃のため一事はまったく暗黒化して何物もみることができないほどであった>(大方町史)
 上川口国民学校の被爆の碑  現在の上川口小学校の体育館横にある。正面が碑。左手が被爆の様子をつたえる碑文。
B29は、正面左手の方向から侵入して、敷地を南東に横切りながら2列ずつ爆弾を投下したという。

 ●強制疎開

 アメリカ軍の幡多地方上陸にそなえて、沖の島、鵜来島、大月町などの海岸線の婦人や子どもたちの疎開が計画された。疎開先は宿毛市橋上町、西土佐村だった。「西土佐村史」によると、月灘村からの疎開を津大村がうけいれることを決めたことが記載されている。
 実際に疎開がおこなわれたのは、沖の島で次のような記録がある。
 橋上村への強制疎開命令がだされたのが8月。沖の島、鵜来島には砲台やレーダー基地が設置され、海軍部隊がいた。8月12日に空襲をさけて夜に荷物と人員を機帆船にいっしょに積み込み、出発。陸路も月光をたよりに徒歩で橋上へとむかった。このきびしい疎開中に1歳の少女が病死した。

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