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2010.04.22

メモ 江戸時代の讃岐の生駒騒動。【書き直しました】

 一、生駒親正(いこま・ちかまさ)

 生駒親重の子。美濃国可児郡土田(いまの岐阜県可児市土田)生まれ。生駒親重の子。
 一五六六年、親正は、織田信長の美濃攻めに際して、その臣下となりました。
 その後は、羽柴秀吉付属の武将に任じられ、長篠のたたかい、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加しました。
 一五八二年の織田信長死後は、木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉)の家臣となり(一五六四年)、山崎のたたかいや賤ヶ岳のたたかい、小田原の役、文禄の役などに参加しました。
 姫路城主時代の羽柴秀吉(元は木下藤吉郎)に仕えていた一五七八年の約一万石からはじまり、一五八四年に二千加増、一五八五年に二万三千五百石と知行を増やしました。
 一五八六年、親正は、播磨(兵庫県)の赤穂城(あこうじょう)六万石の領主になりました。
 一五八七年八月、豊臣秀吉(元は、羽柴秀吉)は、生駒親正を讃岐国十五万石に封じました(尾藤智宣=びとう・とものぶ=の後。石高については諸説があります)。
  親正は、はじめ寒川郡鶴羽浦(つるわうら)に着き、引田城に入りました。
 親正は、領内支配を円滑に進めていくために、讃岐に土着し、在地に支配力を持っている讃岐の武士を家臣にとりたてていきました。
 親正は、讃岐の善通寺を保護しています。親正が、領地を巡回し、善通寺へ参詣したおりに、寺所蔵の綸旨類にふれ、そこに書かれていた文言から直ちに真言宗に改宗したといわれます。親正は、一五八八年一月に、二十八石を善通寺に寄進しています。息子の一正(かずまさ)も、同年七月、善通寺に三十五石を寄進しています。
 そのうち、親正は、引田城は、讃岐の東部に偏していたため、仙石氏のいた宇多津の聖通寺(せいつうじ)の古城に移りました。
 しかし、ここは城が狭く、居城としては適当ではありませんでした。
 そこで、国の真ん中、香東郡篦原庄(のはらのしょう)玉藻浦に高松城(玉藻城)の築城を開始します。縄張り(設計)は、藤堂高虎(伊勢津藩主)推薦の黒田如水でした。
 一五八九年秋、親正は、農民税を納めない中心人物数人を切りました。
 そして、生駒藩は、百人余りの「悪質者」を捕え、香西郡西浜村の海辺で火あぶりの刑にしました。
 一五九〇年、高松城が完成しました。城は海にのぞんでいて、この海を北面の備えとしました。四周の外堀には海水を引きいれ、搦手(からめて)の船蔵には軍船をつなぐようにしました。西に堀川港、東に東浜港をひかえ、南方だけが陸地で、水陸の攻防と水運を考えて構造した水城でした。外濠の内側に重臣や近習の屋敷を設け、外側に商人、職人町、寺町を配置しました。高松城と命名するにさいし、それまで高松左馬之助の居城があったほう(高松郷)を古高松と変え、新しい城下を高松としました。
 この年十月、親正は、豊臣秀吉の命を受けて、小田原北条氏攻略のため出陣しました。
 一五九二年、親正は、一正とともに、塩飽の水軍五千五百人を率いて、豊臣秀吉の朝鮮侵略にしたがいました。
 ところで、高松城は、内陸部、とくに西讃方面にたいしては要塞の地とはいえませんでした。そこで、これに備えるため、親正は、一五九七年春、西讃岐をおさめるため、那珂川(なかがわ)の土器川と金倉川の下流のデルタの津ノ森亀山(六六メートル)に、新たに丸亀城をつくる工事を始めました(城郭が、ほぼ完成したのは一六〇二年)。
 一五九七年、一正は、豊臣秀吉の朝鮮侵略に、手兵二千七百人を連れて参戦しました。
 親正は、豊臣秀吉の晩年には、中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老に任じられて豊臣政権に参与しています。
 一六〇〇年七月、一正は、徳川家康の東軍に参戦、上杉景勝と会津でたたかいました。
 同年九月の関ヶ原のたたかいでは、親正は、石田三成にすすめられ、孫・正俊とともに大坂方に。親正は在国していましたが、丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣しました。
 息子の生駒一正は、徳川家康につき、石田三成の本陣を襲いました。
 関ヶ原のたたかいの結果、政権は、豊臣家から徳川家へ移行しました。
 この年、讃岐の石高は十七万千八百石余になっています。
 一六〇一年二月、徳川家康は、石田三成陣を攻めた一正の戦功を賞し、高野山北室院で剃髪して謹慎していた親正の罪を許し、一正に、その所領を継がせました。

 二、生駒一正(いこま・かずまさ)

 一五五五年~一六一〇年五月十一日。
 生駒親正の長男。母は高木氏。正室は堀秀重の娘。子に生駒正俊(長男)、娘(猪熊教利室。のちに生駒将監の妻となります)、養女(生駒将監娘。園池宗朝室)、娘(近藤政成室のちに佐々木高和室)、生駒正信(次男。甚助)、入谷盛之(三男。甚内。入谷外記養子)、生駒正房(四男)。
 一正は、はじめ織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍しました。
 織田信長死後は、羽柴秀吉に仕えて数々の合戦に参加しました。
 (前項と重なる所は割愛しました)
 一九〇二年、一正は、讃岐を支配することとなり、丸亀城から高松城に移住しました。
 丸亀城には、城代を置きました。
 一六〇三年二月十三日、父・親正が宇多津で死去しました。六十九歳。
 一九〇四年、生駒藩は、高松城常盤橋を起点とし、幕府制定の三十六町を一里とする、一里塚を領内につくらせました。
 一九〇八年、一正は、諸侯に率先して妻子を江戸に移しました。
 幕府は、これを賞し、江戸築城公役の半ばを免除しました。
 一六一〇年三月十八日、一正、死去。五十六歳。
 死後は、長男の正俊が生駒藩主となりました。
 正俊は、丸亀から高松城に移り、丸亀商人を高松に移して丸亀町としました。
 一六一五年、一国一城令により、丸亀は廃城となり、生駒家は、高松城で統治しました。

 三、生駒騒動

 生駒騒動は、江戸時代初期に讃岐国の生駒藩の生駒家で起こったお家騒動です。重臣が争い、生駒家は改易となりました。
 一六二一年六月五日に讃岐藩主・正俊が江戸からの帰藩途中に京都で急死しました。三十六歳。
 子の小法師が後を継ぎました(十一歳。三歳と書いている本もあります)。
 幕府は、小法師が若年であったため、外祖父(正俊の正妻の父)の藤堂高虎を執政として藩政にあたらせました。
 藤堂高虎は藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせました。
 生駒藩は、一六二四年~四四年には、稲作の水の確保のため、ため池を積極に築造しました。
 一六二五年、小法師は元服して高俊を名乗り、翌年には従五位下壱岐守に叙任し、さらに幕府の老中首席・土井利勝の娘と婚約しました。
 高虎は生駒家一門の家老・生駒将監、帯刀(たてわき)父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門と石崎若狭(わかさ)を家老に加えさせました。
 高虎の執政ということから、江戸と国元の二元的政治傾向が強まり、江戸家老・前野助左衛門、石崎若狭らと国家老・生駒帯刀らとの対立がおこりはじめました。
 一六三〇年七月、高虎が死去して、藤堂家は高次(たかつぎ)が継ぎ、生駒家の後見も引き継ぐことになりました。
 前野、石崎は高次の意向を背景に権勢を振るい、一六三三年に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになりました。
 一六三五年、前野、石崎らが藤堂藩の重臣に「何分にも訴訟がましき事、徒党(ととう)を立て与(くみ)をいたし申す間敷(まじ)く事」と誓子を出しています(「生駒家文書」)。このことは、江戸藩邸に不穏な動きがあったことをうかがわせます。
 藩主の高俊は、藩政を重臣に任せきりにしました。
 成年に達してからは、踊りを好み、派手な衣装を身にまとった美童に踊りを踊らせ、日夜酒宴にふけり、往来するにも美童を供につけていったといいます。「生駒踊り」、「生駒道中」と呼ばれ評判になったといいます。
 自身は、もっぱら男色を愛好し、奥へはほとんど行かなかったと伝えられています。
 正室が、父の土井利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して諌めさせましたが高俊の乱行は一向に収まりませんでした。
 前野助左衛門、石崎若狭は、しばしば専横なおこないをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れました。
 一六三五年、生駒家は幕府から江戸城修築の手伝い普請を命じられました。生駒家は、江戸の材木商の木屋から借金をして、これを実行しました。
 前野助左衛門、石崎若狭は、この返済のために高松城の南方の石清尾山の松林を木屋に伐採させました。この山は、親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であり、家中の者たちは憤慨しました。
 一六三七年七月、生駒帯刀は江戸へ出て、幕府老中・土井利勝や藤堂高次、生駒家縁戚の脇坂安元(わきさか・やすもと)に訴状を提出しました。
 「生駒帯刀指上訴状」によると「壱岐守(生駒高俊)付きとして恐れながら言上致し候条教の事」として、「先代までに貯えた金銀を、高俊の代になってから、前野・石崎が勝手に使ってしまった。小野木重左衛門という新参者は先年大坂城の普請に際し、高松家中の者と黒田家中の者とが喧嘩したとき、一番先に逃げ出した臆病者であるのに、近年助左衛門の縁者となり加増をうけた。助左衛門・若狭・治太夫(前野助左衛門の子)らは年貢米を藩主の台所に入れて蔵に納めておき、値段の上がったとき小木野に売らせてもうけている。助左衛門と若狭は二人の相談ずくで目をかけている侍には、藩主の高俊の指示がないのに勝手に金銀などを与えて我儘(わがまま)な振舞をしている」などと訴えています(十九カ条からなる訴状です)。
 これによって生駒藩のお家騒動が表面化しました。
 訴状を受け取った藤堂高次は、土井利勝、脇坂安元と相談し、帯刀を尋問しました。
 高次は、帯刀を説諭して国許へ帰らせ、次いで前野助左衛門、石崎若狭を藩邸に召して尋問の上で訓戒し、以後は慎むよう誓わせました。
 しかし、家中の不和は収まらず、かえって対立するようになりました。
 一六三八年十月、生駒帯刀は、ふたたび藤堂高次に前野助左衛門、石崎若狭を厳しく裁くよう訴え出ました。
 国元にあった藤堂高次は、生駒帯刀を伊勢国津に呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰しました。
 一六三九年四月、参勤交代で江戸に出た藤堂高次は、脇坂安元、および土井利勝(前年に幕府大老に就任)と相談、このままでは訴訟が絶えず遂には生駒家はお取り潰しになると考え、ことを収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者五人に切腹を申し付けることになりました。
 翌月の五月、藩主・高俊が参勤交代で江戸に来て、前野助左衛門、石崎若狭も従っていました。
 藤堂高次は、前野助左衛門、石崎若狭、国元から生駒帯刀を藤堂家の藩邸に呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知しました。
 藤堂高次は、生駒帯刀を藤堂家の領地の伊賀国へ行かせたました。
 同年八月、藤堂高次は、使者に兵をつけて讃岐に遣わし、江戸での決定を家中の者たちに伝えました。
 これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き騒ぎ始めました。
 同年十二月、彼らは江戸にいる藩主・高俊に生駒帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えました。
 これまでの事情を知らされていなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒りました。
 一六四〇年一月、高俊は藤堂家の藩邸に赴き、藤堂高次に抗議しました。
 藤堂高次は説諭しますが高俊は納得しません。怒った藤堂高次は、ならば勝手にせよとサジを投げ、生駒家の家政から手を引くことにしました。
 藤堂家の兵も讃岐から立ち去りました。
 生駒帯刀は、帰国しました。
 帯刀派は歓喜しましたが、江戸で切腹するつもりで控えていた前野助左衛門、石崎若狭は衝撃を受け、切腹をやめ、ことの始末を幕府に訴えることにしました。
 同年四月、前野・石崎派は老中・稲葉正勝に訴状を提出しました。
 同時に国元に使者を送り、同志の者たちに家族を引き連れて立退くよう指図しました。
 讃岐では、前野・石崎派の侍八人、家族や家来を含めると二千三百人が鉄砲や刀槍で武装して国元を立退く騒ぎになりました。
 江戸でも、前野・石崎派の者たちが藩邸を立退きました。
 幕府は両派の者たちを江戸城に召して審議することにしました。
 同年七月、前野・石崎派と帯刀派は対決し、生駒帯刀は、前野助左衛門、石崎若狭の専横を申し立て、さらに彼らが武装して立退いたことを訴えました。
 三回の対審の後に、幕府の裁定が決しました。
 幕府は、藩主・高俊に対しても家中不取締りであるとして、讃岐を召し上げ、出羽国由利郡矢島(秋田県由利郡矢島町)へ流罪とし、堪忍料として一万石を与えました。
 前野助左衛門、石崎若狭をはじめ、これにくみしたものたちは切腹を命じられました。石崎若狭、前野冶太夫(助左衛門の子)ら四人は切腹、彼らの子どものうち男子は死罪、また、主だった者たち数人も死罪でした。
 前野助左衛門は、高松を去ってから病死したため、罪をまぬがれました。
 生駒帯刀は、忠義の心からことを起こしたとはいえ、家老として処置を誤ったという理由で、出雲の松江藩に預けられ、五十人扶持を与えられました。

 【参考文献】

 ○ 『高松市史年表』。高松市史編修室。高松市役所。一九六〇年二月十五日。
 ○ 『香川県の歴史』。市原輝士(いちはら・てるし)、山本大(やまもと・たけし)。山川出版社。一九七五年一月十五日二版十刷。
 ○ 『讃岐の歴史』。香川地方史研究会。講談社。一九七五年九月十日。
 ○ 『高松城主とその時代背景』。津森明ほか。一九八七年三月二十五日。
 ○ 『香川県史 第三巻 通史編 近世Ⅰ』。香川県。一九八九年二月二十八日。
 ○ 『香川県の歴史』。木原薄幸、丹波佑一、田中健二、和田仁。山川出版社。一九九七年十月十日。
 ○ 『善通寺史 善通寺創建一二〇〇年記念出版』。総本山善通寺。株式会社五岳。二〇〇七年九月。

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