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2010.05.28

香川県の道路を拡張してつくった三つの陸軍飛行場 50 陸軍飯野山飛行場=当時、坂本国民学校三年生だった鶴岡俊彦さんの「回想」から。

 陸軍飯野山飛行場建設のため家を取り上げられた家の息子・鶴岡俊彦(つるおか・としひこ)さん(一九三六年生まれ)は、当時、坂本国民学校(出淵重太郎校長。いまは丸亀市立飯山北小学校)の三年生でした(鶴岡さんは、戦後、食糧庁長官などをつとめた政治家です。故人)。
 鶴岡さんは「回想」という、当時のことを書いた文章を残しています(『飯山町立飯山北小学校創立百周年記念誌 桃花』。飯山町立飯山北小学校創立百周年記念事業実行委員会。飯山町立飯山北小学校。一九九二年十二月六日)。 

 「学校の運動場は芋畑に変わり、狭くなった。岡の宮に防空壕が掘られ、母親に作って貰った防空頭巾をかぶり、時々避難訓練をした。また岡の宮でも松の幹に傷をつけ、傷口の下に空き缶をしばりつけ松根湯[しょうこんゆ]を採るような時代であった。
 この頃、飯野山の南麓に軍用飛行場のための滑走路が造られることとなった。(中略)県下各地から中学生が勤労奉仕に動員され、学校[坂本国民学校]に宿泊して作業にあたった。(中略)県内勤労奉仕の生徒に学校をあけ渡すため、私達小学生[ママ。国民学校生]は村内の神社やお寺に分散して授業を受けることとされた。三年生の私は久米氏の八幡様が教室で、机や椅子を運んだ。(中略)山の谷から高柳に通じる道路の北側から飯野山の麓[ふもと]まで滑走路の敷地となり、私の家を含め、近所の家十三軒が壊されることとなった。レールが敷かれ、トロッコで砂利が運び込まれ、整地が進んだ。資材にするために飯野山の松が切り取られたが、今もその跡が鉢巻状に残っている。夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。近所の人や父が勤めていた栗熊国民学校の高等科の生徒が、大八車を引いて手伝いに来てくれた。終戦の玉音放送は、作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引越予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に、『放送はおかしい、負けるはずがない。』『俺たちが居る。降参はしない。』と声高に話すのが頼もしく見えた。
 午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組を残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。」

 鶴岡さんは「すぐに夏休み、終戦となり滑走路造りが中止されたので、[坂本国民学校に]通学した記憶はない。」、「戦争が終わって二学期を迎えるために[坂本国民学校に]登校し講堂を掃除した時、蚤[のみ]があまりに多いのに驚いた。十分な食事もなく、風呂に入るのもままならない環境の下、夏の炎天下で働き大変ご苦労した事と思われる。」、「[わが家は]地形石はそのままにして置いたが、土塀が崩れ、それを見ては空しさを感じた。家の建て直しまで一年余りかかり、その間極楽寺で過ごした。」とも書いています。

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