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2010.05.27

香川県の道路を拡張してつくった三つの陸軍飛行場 49 国分-端岡飛行場=愛媛県の吉田ケ浜航空隊って……。

 陸軍国分-端岡飛行場づくりを、どこの部隊が担当したのだろうかといろいろ本を見ました。しかし、どこにも出てきません。
 やっと、二つの本に書いてあることがわかりました。

 一つ目、『国分寺町史』(国分寺史編集委員会。国分寺町役場。一九七六年一月一日)。年譜に、そのことが書いてありました。
 一九四五年の所です。
 「国分に吉田浜航空隊指導による航空機滑走路が造成されつつあったが、終戦となり中絶する。」
 吉田浜航空隊って、どこの航空隊なのでしょうか。

 もう一つは、『あかもん 国分寺北部小学校百年誌』(国分寺町立国分寺北部小学校開校百周年記念事業記念誌委員会編集部。一九九五年八月一日)の年表に、同校が端岡国民学校(山田可彰校長)だったときの、こんな記述があります。
 一九四四年の項です。
 「飛行場滑走路を作るために軍隊が駐屯し、講堂と中棟校舎を使用する。
 運動場を、さつまいも畑にする。
 運動場の東端と職員室の北側の中庭に防空壕を造り、緊急の時の避難場所にする。」

 これは、一九四五年のことかもしれません。

 そして、一九四五年の項には、こうあります。
 「終戦をむかえ、駐屯していた軍隊が引き上げる」

 当時の児童の手記も載っています。
 一九四〇年入学、四五年度卒業の白井加寿志さんの手記から。
 「国分に滑走路が造られるということで、愛媛県の吉田ケ浜航空隊の方々が講堂に駐屯してその作業に当られた。私達は、予科練の歌を『今日も飛ぶ飛ぶ吉田ケ浜にゃ』とことばを替えて歓迎した。」

 予科練というのは、海軍飛行予科練習生のことです。
 吉田浜というのは松山海軍航空隊のあった所です。
 しかし、ここは陸軍の飛行隊が来ていたはずですが……。

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コメント

 当時の関係者に裏取をしてみないと、分からないですね。
 1945年卒業ということは、1946年3月の卒業ですね。
 松山海軍航空隊の予科練生が、昭和20年3月以降、農耕、工場作業などで各地に分散された事実はあります。
 でも、陸軍飛行場の工事を海軍がするなんて話は、有り得ないと思います。学校へ駐屯したのは事実ですが、別な作業に従事していたのではないかと思います。
 また、予科練の人たちは6月には引き揚げたと思います。
 学校の記録は、元ネタの「学校日誌」「学校沿革誌」の現存を確認して、そちらを閲覧した方が良いと思います。

投稿: 池田 | 2010.05.27 07:26

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