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2010.06.17

わが故郷・高知県伊野町の勤務評定反対の運動。

わが故郷・高知県伊野町の勤務評定反対の運動。

 「わが故郷への思い」というタイトルのエッセイを書くことになっています。
 物心ついたときから二十歳まで高知県伊野町(いまは、いの町)に住んでいました。
 その後、働き始めてから、高知市に。そして、渋谷区、練馬区、文京区、東京都府中市など東京都を拠点にしながら、札幌市、大阪市、広島市、長野市などに住みました。そして、この三月末からは香川県さぬき市に住み、大学で考古学を学んでいます。
 でも、「君の故郷は」と問われれば「伊野町です」と応えています。
 伊野町の思い出といえば、あの教師たちの子どもたちを守れの運動への思いと重なります。
 ことは、少なくても一九五七年に始まっていました。
 この年の七月十二日、内藤誉三郎文部省初等中等教育局長が、国会で小、中、高校の教師への勤務評定の全国実施の方針を公言しました。
 高知県でも勤務評定への反対運動が始まりました。
 同年十二月二十二日、日教組は、勤務評定への反対運動を強化するために東京都の九段会館で第十六回臨時大会を開きました。
 この大会で、高知県教組の山原健二郎代議員は「私たちの県では、勤評は戦略体制とつながるところがあるので、スローガンにおいても、勤評絶対反対ではなく、戦争につながる勤評反対ということをいっています」と、発言しました。
 一九五八年六月二十五日、高知県下の公立小学校、中学校、高校の児童、生徒の多くは担任の教師から「あすは家庭学習で授業はありません」ということを聞きました。
 翌二十六日午前六時四十分、高知県教職員組合(? 「高知県教員組合」かもしれません。要調査)は、勤務評定反対のいっせい休暇に入りました。
 組合員の99・6%、約七千人がいっせい休暇に参加しました。
 高知市の城西中学校の校庭で、高知県勤評撤回総決起大会が開かれ、教師、支援の人たちが集いました。
 校庭に面した校舎の壁には「高知県勤評撤回総決起大会 平和と子どもたちの幸福を守るために」の看板が掲げられました。
 会場には「戦場にふたたび子どもを送るな」のプラカードもありました。
 大会後、デモ行進をやっていますが、その隊列は二キロメートルにもなったといいます。
 当時の伊野小学校の校長は、中山清城(なかやま・せいき)さんでした。
 中山さんが、当時のことを書き残しています。
 高校として着任した第二年目(五八年四月から)に勤務評定反対の運動が始まったと書いています。
 「校長室には毎日の如(ごと)く、父母の会(保守系)の人々、時には大勢大挙して殺到すれば、反対側の民主教育を守る会(革新系)の方々が入れ代わり、立ち代って来る。更(さら)に教員組合の面々と、次から次へと応接に暇がない有様(ありさま)でした。
 『校長は、一体保守か革新か態度をはっきりせよ』
 『校長よ、この段階で両方都合よしで事は済まんぜよ』
 『校長よ、今日の子供の犠牲は将来の子供の幸せのためには止むを得んぜよ。』
等々と詰問攻めに会ったが、答えは常に『私は、千五百の現に預かっている児童の校長である。保守であろうと、革新であろうと問題ではない。如何(いか)にすれば、子供達に混乱の被害を受けないよう、幸せな学校生活をさせるか、即(すなわ)ち正常な学校運営によって、現在の子供達に正しい教育を実施するのが、私に課せられた最大唯一の責任である。』の一点張り、●「熟」の下がない文字●れにも偏せず、自己の良心に従って、終始一貫した」(『伊野小学 開校百年記念史』)。
 同年七月二十七日、伊野小学校のPTAは、勤務評定問題の今後の対策のため総会を開催します。
 しかし、議論の末、解散を決定します。
 僕の家族は、伊野町の日本紙業に勤める父、町内の和紙製造の工場で紙をすく母、僕、そして、三学年下の弟でした。
 全員が勤評定実施に反対でした。
 僕の場合は「そんなことをやられたら先生たちが窮屈になってしまうじゃあないか」ということでした。
 それに担任の若い男性の「高野先生」も反対していました。
 『伊野町史』は、勤務評定反対の運動について「伊野町の場合、最悪の事態は三十四年(一九五九)年度であった」としています。
 「最悪の事態」という表現は、この本の編集者の立場を表現しています。
 十月三十日、伊野町教員組合と伊野町教育委員会(片岡福馬教育委員長、弘田稲男教育長)は、町公民館で勤務評定について交渉しました。
 「会談は激化し、ついに事態を憂慮して退去命令を出した福島町長は、伊野署に出動を要請する。伊野署ではただちに待機の姿勢をとったが、教員組合側も自主的に退去して事なきを得たのである」(『伊野町史』)。
 五九年四月、僕は町立伊野中学校に入学しました。
 伊野小学校の中山校長は佐川中学校へ転任し、伊野小学校に岡田巧(おかだ・たくみ)校長が着任しました。
 当時の県教員組合の校長部会は、常に民主教育の先頭に立つという立場から勤務評定に反対していました。
 岡田校長は、県教育委員会への勤務評定の提出を拒否していました。
 その岡田校長が、書いています。
 「昭和三十五年(一九六〇年)一月高知県教組の勤務評定書不提出のきびしい闘争は、いよいよ大詰めの段階にせまっていた。これまで不提出の結束を固めて闘ってきた県下七百の小、中、高の校長は、第二年目の苦しい闘いにさすがに疲れを感じ、戦術転換に期待をかけようとする気運も動き始めていた。
 折りしも高知市長氏原一郎氏が事態収拾の斡旋に乗り出し、その提言が出されると、さしも強固に見えた高知県教組校長部の結束に動揺を生じ、大勢は勤評書提出の方向に動いていった。そうしてあくまで教育者の良心に基づき不提出の誓いを守る者の数は今や七十名ほどとなった。
 高知県教育委員会は校長の大量切りくずしにいよいよ勢いを得て、残る六十八名の校長を説得して全員説得の成果をあげ、昨年度の白紙返還の不首尾をばんかいしようと、全県下の地教委や市町村長、議員全員、PTA、父母の会その他有力者を総動員して、不提出校長に対して各個げき破の色々の手が加えられてきた。
 息づまるような空気の中に、三月最後の段階が迫ってくる。当時私は吾川郡伊野小学校校長として着任第一年目であった。勤評に対しては教育的見地からこれに反対し、これまで父母にも理解と協力を訴えてきたもので、今さら勤評を提出する気になれなかった」(『四十二人の手記 高知の勤評不提出校長たち』、高知県「勤評の会」)。
 一九六〇年三月三十一日、伊野町教職員組合は、全員集会を伊野小学校の家庭科教室で開き、今後の行動計画などについて協議を続けていました。
 その日の午後四時三十分、伊野小学校の岡田校長あてに電報が届きました。
 岡田校長は、その内容をいちべつして「くるべきものがきた。これから、また、新しいたたかいだ」といって電文を読み上げました。
 「貴職を昭和三十五年(一九六〇年)三月三十一日付で、地方公務員法第二十八条第一項第三号の規定により免職する 高知県教育委員会」
 処分を受けた校長は、計八人でした。
 そのうち三人が伊野町でした。
 伊野町立出来地小学校の宇津木実校長、伊野町立神谷中学校の近藤利仲校長も処分を受けました。
 一九六〇年四月、僕は中学二年生になりました。
 同月、伊野小学校には岡林義長校長が着任しました。
 勤務評定反対運動を支持した伊野地区労働組合連合会は、伊野小学校の岡田校長への処分に抗議し、伊野小学校に通学している師弟の登校を拒否しました。
 同盟休校といいました。
 四月十一日、反対派は、同町の吾川郡教育会館(木造二階建て)、音竹公民館に「平和学園」を設置し、大学新卒の人を雇って児童を学習させます。
 一日目に参加したのは、約千五百人の児童のうち役八十人でした。
 しかし、翌日は約二百七十人に。
 さらに、約三百二十人にふくれあがっていきました。
 僕の弟も、吾川郡教育会館の通いました。
 これに抗議して、勤務評定賛成の父母たちは、伊野町教育正常会を結成しました。
 十四日、伊野町の町立神谷中学校でも二百三人中六十七人の生徒が同盟休校に入りました。
 この日、同盟休校の生徒たちは、町内の紙の手すき工場跡で始業式をしました。
 これは免職処分を受けた近藤校長を慕う生徒会の抗議行動でした。
 同日、同盟休校に反対する町民たちは、伊野小学校教頭に「授業を始めよ」と、迫りました。
 伊野町立神谷中学校校長だった近藤利仲さんが、一九六〇年三月、四月当時のことを書き残しています。
 「町内はわいた。町教委の措置に怒った。
 吾川郡四名、その中の三名が伊野町、しかも三名とも節をまげない県教組の校長とあっては黙ってはいられない。
 『不当処分撤回』のポスターは町内くまなく張出された。
 郡教組、町教組、革新議員、地区労、民主団体は連日町教委へ詰めたが肝心の町教育長は行方をくらまして全く顔を出さない。
 首は切ったが人前に顔をよう出さない非礼にして卑劣な態度に怒った伊野小・神谷中の父母達は多くの民主勢力の私事を受けて四月十一日遂(つい)に同盟休校に入った。
 伊野小は吾川郡教育会館の二階と部落の集会書、神谷中は近辺の手漉(てすき)製紙工場の乾燥場。
 思い出のある生徒達、Nは私と掛図の棚を造り中庭の石つきの修理をした二年生、今三年生でこの教室の指導役におされている。
 新しい一年生まできている。聞いてみると『小学校の卒業式でお話が嬉しかったから。』という。私も嬉しかった。
 ここに来ている六十名余りの者は生徒会の中心になって私の処分撤回の署名運動を早くからはじめていた。『そんな事をしていたら進学・就職のためにならんぞね』といういやみをおし切って家から言えへ歩いて集めた。
 生徒会十三名の代表は地元の革新議員に頼んで町教育長交渉を行った。
 記録によると教育長の答えは『法にあるから』『法治国であるから』の一点張り。人間味のある質問、教育の本質にかかわる質問には一切黙秘」」(『四十二人の手記 高知の勤評不提出校長たち』。文章の行替えをしています)。
 この時、この町の中で、僕も呼吸していました。
 町中のおとなも、子どもも自分の意見を持ち、それをぶっつけて、行動していました。
 わくわくする毎日でした。
 一九六〇年四月二十六日、伊野町立伊野小学校、町立神谷中学校の同盟休校は中止されます。
 伊野小学校は十六日ぶりです。
 その事情を、伊野町立神谷中学校校長だった近藤利仲さんが書き残しています。
 「四月二十六日革新議員五名の斡旋で臨時町議会が開かれた。今回の教育上の混乱は町教委のとった措置は万全を欠く点があったこと、今後かかる問題が起こらないよう善処することを町教委が認め、革新議員との間で調印、同盟休校は終結した」(『四十二人の手記 高知の勤評不提出校長たち』)。
 翌二十七日、伊野小学校の授業は再開されました。
 一九六〇年当時、伊野中学校の生徒たちの間でも、勤務評定反対派、賛成派が競い合っていました。
 僕は、反対派でした。
 体操部の副部長でした。
 部長の三宮(さんのみや)民生さんは生徒会の会長でもあり、反対派でした。
 彼は、伊野町の外の別の小学校の校長で勤務評定反対を貫いていた三宮梅吉さんの息子でした。
 野球部の一部の生徒を中心に賛成派がつくられ、三宮さんを生徒会長から追い落とそうとしていました。
 しかし、賛成派は、それを実現することができませんでした。
 伊野町立伊野小学校の校長だった岡田巧さんが、こんな言葉を残しています。
 「あのとき、ああしておったら日本はこんなことになるのではなかったのに………の後悔は、正しい批判、正しい抵抗のおこなわなかったことにたいする自省の声である。これを思えばこそ、私は勤評に反対したのである」(『土佐の夜明け』、山原健二郎さん、民衆社)。

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