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2010.07.12

英語で日記 Saturday,July.10th 2010 岩崎弥太郎の評価。

Saturday,July.10th 2010 岩崎弥太郎の評価。

 晴れ。

 私たちは、朝から、県立高知県立短期大学のサークルの仲間と安芸市に行きました。
 それは、岩崎弥太郎の実家などを見るためです。
 私たちは、安芸市内で、二つの展示を見ました。

 岩崎弥太郎は、侵略に協力して、金持ちになりました。
 その彼の姿が、そこでは美化されていました。
 これは、不思議なことです。
 私は、岩崎弥太郎の行動について、きちんと、批判的な評価をすべきだと思いました。

Saturday,July.10th 2010 Mr.Iwasaki Yatarou's evaluation.

Fine.
 
We went to Aki city with the companion of the circle in prefectural Kochi junior college in the morning.
The purpose is to see Mr.Iwasaki Yatarou's parents' house etc.
We saw two exhibitions there.
 
Mr.Iwasaki Yatarou became a rich by cooperating in the invasion.
His appearance was beautified there.
This is mysterious.
I thought that I had to criticize about his behavior, neatly.

(evaluation イバリオエイツ …を評価する。companion 仲間。exhibition エクスビシェン 展示会。cooperat コウポレイツ 協力する。invasion インベイジョン 侵略。criticize 批判的な評価をする)

 【参考 岩崎弥太郎って、こんな人】

 データは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。

 岩崎 弥太郎(いわさき やたろう。1835年1月9日 -1885年2月7日)は、実業家で、明治の動乱期に政商として巨利を得た人物である。
 土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎(やじろう。1808年 - 1873年)と美和の長男として生まれた。
 地下浪人とは、郷士の株を売ってしまって浪人をしている者のことで、弥太郎の曽祖父・弥次右衛門の代に郷士の株を売ったと言われている。
 幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。
 21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、安政2年(1855年)、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。
 父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業に手を染める機縁となった。
 出獄後は村を追放されるが、蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。
 東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
 この頃、27歳で弥太郎は長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る。
 土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐一郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。
 しかし、必要な届出に不備があった事をとがめられ帰国した。
 この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺され、弥太郎は一命を取り留めた。
 弥太郎は、尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる。
 帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。
 慶応3年(1867年)、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。
 坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。
 記録上確認できる弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時である。
 弥太郎と龍馬は不仲であったともいわれるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。
 明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。
 翌2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。
 廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。
 三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。
 この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作った。
 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。
 この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引である。
 弥太郎は最初から政商として暗躍した。
 弥太郎の三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。
 明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。
 政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。
 海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。
 農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。
 明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には明治十四年の政変で大隈重信が失脚し、弥太郎が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。 明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。
 三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。
 パシフィック・メイル社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。
 こうしたライバルとの競争の最中、明治18年(1885年)2月7日、弥太郎は51歳で病死した。

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