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2010.08.14

「第三十一回八・一五戦争体験を語りつぐ集い」での発言 予定原稿。

 私は、戦争を、「どう掘り起こすか」というテーマで話をさせていただきます。
 その前に、新参者ですので自己紹介をさせていたただきます。
  高知新聞の六月二十四日夕刊の「遠境近況」が私を紹介してくれました。
 見出しは、「戦争遺跡を調査したい 徳島文理大文学部文化財学科3年 藤原 義一さん(63)=香川県さぬき市在住=」でした。
 こんな記事でした。

 東京で定年を迎え、性に合っている高知へ戻りました。
 「大学3年生」になったのは、四万十町の掩体壕(えんたいごう)などの戦争遺跡を調査したい、そのためには専門的な知識と発掘技術が要る、と思ったからです。講義は考古学、博物館学が中心。フィールドワークも多く、高松市内の古墳から出土した土器や埴輪(はにわ)を整理しています。
 おじは太平洋戦争で戦死、父の胸には銃弾が残り、母は風船爆弾の紙をすかされたと聞きました。私自身は戦争体験はありませんが、次の世代へ伝えていく必要がある―戦争遺跡を調べる理由です。
 (後略)」

 香川については、二つのことを調べています。
 一つは、高知県出身の妻の父・矢野統一の海軍小豆島突撃隊での体験です。
 学生から海軍に志願、そして特別攻撃隊に志願させられ、小豆島攻撃隊で五人乗りの小型潜水艦の艇長となり、訓練中にアメリカ軍のP51という飛行機に機銃掃射されたという人です。
 調べていくうちに、すごいことがわかりました。この家族全体が戦争に動員されていたのです。
 親は、高知市の中心街で食堂をやっていましたが、夫は山口県の軍の工場に徴用されます。統一の弟は海軍予科練習生に志願し、松山の航空隊に入りますが、そこはアメリカ軍の空襲で壊滅し、彼は南朝鮮の加徳島で終戦を迎えます。
 母と、その下の弟は一九四五年七月四日の高知空襲で焼け出されます。これは、高松空襲、徳島空襲、姫路空襲と同じ時です。
 その下の弟も、海軍予科練習生に志願し、奈良県の天理教の本部を接収した航空隊で終戦を迎えます。
 妹は、長崎県に女子挺身隊として動員されていました。
 実は、海軍小豆島突撃隊については、もう三十年来やっています。このことは、いま、私が編集しています『高知の戦争 証言と調査』で連載しています。いま、十号用の原稿を執筆している最中です。
 もう一つは、一九四五年四月以降に香川県の三カ所につくられていた陸軍の隠匿飛行場についての調査です。
 これは、この四月から始めました。
 高松市の屋島、国分町、そして丸亀市の讃岐富士の近くに、道路を拡張してつくられていました。
 その関連で高松飛行場も調べています。
 夏休みになってから防衛省の図書館にこもって戦争中、終戦直後の資料を読んでみました。
 おかげで流れがわかりました。
 高松飛行場は、沖縄にアメリカ軍が上陸するだろう、それと対抗して特別攻撃をしよう、そのための訓練基地としてつかわれました。
 アメリカ軍の日本本土に上陸しそうだという状況のもと、大本営は、航空作戦専任の陸軍航空軍司令部をつくることにしました。一九四四年十二月二十六日、東京にできた第六航空軍が、それです。これは、西南諸島方面にたいする航空作戦が主任務で、アメリカ軍の沖縄上陸にそなえてのものです。
 高松飛行場は、これに属していました。沖縄の特別攻撃の部隊でした。
 一九四七年八月十日の第一復員局資料整理部がつくった『航空特攻作戦ノ概要(未定稿)』に、沖縄戦での陸軍の特別攻撃の「数字」が載っています。
 九州からは約六百八十機が出撃しています。一隊一隊を○○振武隊と呼びました。戦果は「記録ナク不詳」です。
 沖縄戦がすんで、あらたな部隊が高松飛行場に飛来しますが、これは、訓練もしない、ひたすら飛行機を隠しておく部隊でした。
 一九四五年七月四日にアメリカ軍の空襲があっても飛び立たない、ひたすらアメリカ軍が本土に上陸してきたら特別攻撃をするというために、じっと我慢していました。
 その日のために、一宮方面への誘導路をつくる、県下の三つの道路を拡張しての飛行場もつくるということもしました。
 それでは、隠していた陸軍の飛行機は何機あったのでしょうか。
 結論をいえば、すぐに飛び立てるものは一機もありませんでした。
 大本営陸軍部が一九四五年八月三十一日に調べて『帝国陸軍飛行機現況表』をつくっています。
 それによると、高松飛行場には、戦闘機では、相当整備すれば飛行可能なものが十三機、飛行不能のものが二十六機ありました。
 偵察機の二機は、相当整備すれば飛行可能なものがニ機、飛行不能のものが二機ありました。
 練習機は八機ありましたが、いずれも飛行不能のものです。
 こんなことを調べてリアルに提示していく仕事、みんなでやりませんか。
 当時のことを知っている人が、まだ少しいる、いま、屋島飛行場つくりに協力した国民学校の児童、高松飛行場、屋島飛行場、国分飛行場づくりに動員された高松中学の生徒の話も聴くことができるようになりました。
 こうしたことを調べること、調べたことを発表していくこと、いまやるべき課題ではないでしょうか、というのが私のいいたいことです。
 一緒にやりませんか。

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