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2010.08.01

歴史の自習の時間 鸕野讚良(うののささら)が天皇になるまで。

 【三人の姉妹とともに父の弟の妻に】

 鸕野讚良(うののささら。六四五年~)の父は中大兄皇子(天智天皇)、母は遠智娘(おちのいらつめ)です。六五七年、十三歳のときに、父の同母弟の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁しました。
 中大兄皇子は、彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘四人を弟の大海人皇子に与えました。
 [中大兄皇子の所業は、あまりにもひどい。]

 【壬申の乱(じんしんのらん)】

 六六一年、鸕野讚良は、夫とともに天皇に随行し、九州まで行きました。その地で六六一年、草壁皇子を産みました。
 翌年、大田皇女が大津皇子を産みました。 六六〇年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は、弟の大海人皇子を皇太子に立てていましたが、天智天皇は、六七一年十一月二十六日、自身の皇子である大友皇子(おおとものみこ)を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めました。
 その後、天智天皇は病に臥せます。
 大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、みずから出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下りました。
 このとき、鸕野讚良は、草壁皇子を連れて従いました。
 十二月三日、天智天皇が四十六歳で死去します。
 大友皇子が後を継ぎますが、年は二十四歳でした。
 大海人皇子は、翌、六七二年に決起して乱を起こしました(壬申の乱)。
 この乱は、天智天皇の太子・大友皇子に対し天智天皇の皇弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものです。
 鸕野讚良皇女は、わが子・草壁皇子、母を異にする大海人の子・忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に向けた脱出の強行軍をおこないました。
 疲労のため大海人一行と別れて伊勢にとどまりましたが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあります。
 この乱は、反乱者である大海人皇子が勝利しました。

 【大海人皇子が天皇になると……】

 大海人皇子が乱に勝利して六七三年に即位すると、鸕野讚良皇女が皇后に立てられました。
 『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は、ずっと天皇を助け、そばにいて政事について助言しました。
 皇后は病を得たため、天武天皇は、薬師寺の建立を思い立ちました。
 六八一年、天皇は皇后をともなって大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、十九歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせました。
 六八五年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていきました。
 六八六年七月、天皇は「天下のことは大小を問わずことごとく皇后および皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになりました。
 大津皇子は草壁皇子より一歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じでした。
 草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画しました。

 【天武天皇の死後】

 六八六年十月一日の天武天皇の死の翌日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺しました。川島皇子の密告といいます。具体的にどのような計画があったかは史書に記されません。
 六八九年四月、草壁皇子が病気で亡くなりました。
 ?野讃良は、みずから即位することにした。
 その即位の前年、六八九年、前代から編纂事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行しました。

 【即位してから】  

 六九〇年二月十九日に即位した後、持統天皇は大規模な人事をおこない、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命しました。一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになりました。
 持統天皇は、藤原京の造営を始めます。
 藤原京は、六九〇年に着工され、飛鳥浄御原宮から六九四年に遷都しました。完成は七〇四年といわれます。
 持統天皇は、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を引き継ぎました。
 墓記を提出させたました。
 民政においては、戸籍を作成しました(庚寅の造籍)。
 六八七年七月には、六八五年より前の負債の利息を免除しました。
 奴婢身分の整頓を試み、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じました。
 持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせたました。人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じました。
 天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸です。
 他に伊勢に一度、紀伊に一度の行幸を記録します。
 持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺としました。
 外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持ちませんでした。新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いました。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣されました。

 【譲位した後に】

 持統天皇は、八月一日、十五歳の軽皇子に譲位しました。文武天皇です。
 持統は太上天皇(上皇)になりました。
 譲位した後も、持統上皇は、文武天皇と並び座して政務を執りました。
 持統天皇は七〇一年、吉野行きをおこないました。
 翌年、三河まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらいました。
 七〇二年十二月十三日に病を発し、二十二日に死去しました。

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