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2010.09.18

歴史の自習の時間 江戸時代の東海道は、で歩いて行けない所、三つ。

 質問・当時の東海道は、端から端まで歩いて行けたでしょうか。行けない所は、どういうふうにして通過したでしょうか。

 答え・歩いていけない所が三つありました。

 ① 船を利用して海を渡る箇所です。
 そこは、桑名宿(三重県桑名市)と宮の宿(現在の名古屋市熱田区)を結ぶ海上路で、その距離にちなんで七里(しちり)の渡しといわれました。
 約二十八キロメートル(1里=約四キロメートル)。所要時間は約四時間でした。
 天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の難所の一つでした。
 七里の渡しは、一六〇一年(慶長六年)の東海道制定の際に定められました。
 桑名宿、宮宿は、渡船場として賑わいました。
 天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の難所の一つでした。
 海上を避ける迂回路としては、脇往還の佐屋街道がありました。

 ② 大井川(おおいがわ)です。
 大井川は、静岡県を流れる河川。南アルプス南部、静岡県、長野県、山梨県の県境付近にある間ノ岳に源を発し、赤石山脈・白根山脈の間を南下。静岡県焼津市大井川と榛原郡吉田町の境界から駿河湾に注ぎます。
 一六〇〇年(慶長五年)の関ヶ原のたたかいで、東海道筋の大名は、豊臣秀吉の思惑に反し、そろって東軍・徳川方に付いたため、戦後、山内一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾、中村らの諸大名は西日本へ転封となりました。
 その後、東海道筋は天領、親藩、譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられました。
 この際、大井川は、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされました。
 江戸の防衛に加え徳川家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすためです。
 このため大名、庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)がおこなわれました。
 このため、大井川は東海道屈指の難所とされました。
 とりわけ洪水の際には川留めがおこなわれたため、大井川を渡河する拠点の島田と金谷が宿場町となって賑わいました。
 明治時代に入ると架橋が許され各所に橋が掛けられるようになりました。

 ③ 天竜川(てんりゅうがわ)です。
 天竜川は、長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流です。
 天竜川は「暴れ天竜」と呼ばれ、とても徒歩では渡ることができず、船渡りとなっていました。

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