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2010.09.28

「高知方面配要図」(防衛省所蔵防衛研究所所蔵)が語る一九四五年夏の高知県。対戦車肉薄訓練の日々。

  手元に「高知方面配要図」という文書があります(防衛省所蔵防衛研究所所蔵)。
 「秘 集成五万分の一地形図高知第二号」、「昭和二十年製版」、「参謀本部」と印刷された地図に陸軍の部隊がどこにいるか(いたか)を書きこんだものです。
 次のような部隊の名前があります。

 第百五十五師団
   配属部隊
    独立山砲兵第六連隊[一大隊(一中隊欠)欠]
    独立重砲兵第五中隊(一小隊欠)
    独立臼砲[きゅうほう]第二十二大隊ノ一中隊及段列ノ一部
    迫撃第三十七大隊ノ一中隊
    特設警備第三百二十八中隊
  缺如[けつじょ]部隊
    歩兵第四百五十連隊
 第二百五師団
   配属部隊
    独立臼砲第二十五大隊の一中隊
 第十砲兵師団司令部
   配属部隊
    野戦重砲兵第十七大隊
    独立臼砲第二十五大隊
    第一工事隊(一小隊欠)
 第十一師団
   配属部隊
    独立重砲兵第五中隊ノ一小隊
    独立臼砲第二十二大隊(一中隊及段別ノ一部ノ一部欠)
    迫撃砲第十七大隊
    迫撃砲第三十七大隊(一中隊欠)

 『四国師団史』(陸上自衛隊第十三師団司令部四国師団史編さん委員会。一九七二年四月)が、当時の配置を書いています。
 高知県の足摺岬から室戸岬にわたる海岸線に第十一師団、第百五十五師団、第三百四十四師団(配属・騎兵第十一連隊、工兵第十一連隊第一中隊)が配置されました。
 徳島県沿岸には第百二十一独立混成旅団(配属・歩兵第四百五十連隊)が配置されました。
 高知県の後免[ごめん]北方高地に、上陸したアメリカ軍に攻勢を敢行する打撃部隊として第二百五師団が配置されました。
 高知平野の中核として配備についた第十一師団は、須崎湾に歩兵第十二連隊第一大隊を、仁淀川口から浦戸湾にわたる海岸線に右地区隊(歩兵第四十四連隊、配属、山砲兵第十一連隊第二中隊)を、浦戸湾から物部川にわたる海岸線に左地区隊(歩兵第四十三連隊)を、予備隊として歩兵第十二連隊主力を後免地域に配置しました。

 ほかに、当時の様子を伝える文章を二つ紹介します。
 「日本軍は[昭和]二十年[一九四九年]三月三十一日軍令陸甲第六十号により第五十五軍(偕)を編成、四月七日、軍司令官にジャワにいた原田[熊吉]を任じた。本土決戦により一挙に敗勢を挽回しようと、最後の力をふりしぼったこの部隊が編成されたのは六月十八日、参謀長に鎬木正隆が任じられ、司令部(偕一二四七五部隊)には将校五十三人、下士官、兵ら千二百人がいた。
 司令部は高知県長岡村新改におかれ、隷下に第十一師団(錦・師団長大野広一中将)、第百五十五師団(護土・師団長岩永汪中将)、第二百五師団(安芸・師団長唐川安夫中将)、第三百四十四師団(剣山・師団長横田豊一郎中将)、独立混成第百二十一旅団(菊水・旅団長横井忠道少将)がおかれ、高知県下に太平洋に向かって展開した。十一師団を除くと二十年に入って編成された急造師団であった。」、「兵たちは米軍の敵前上陸に備えてタコつぼ(ざんごう)掘りに明け暮れていた。」(『讃岐人物風景 18 男たちの青春』。四国新聞社・編。丸山学芸図書。一九七八年三月三十日)。
 この本によると、原田は、高知市八百屋町の豪商・川崎源右衛門宅に下宿し、城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)にあった司令官室に通っていたといいます。六月に本拠を高知市内から新改に移しています。
 「米軍上陸に備え、南四国に布陣したのは、第十一師団(錦)=大野広一中将=および同師団から編成された第一一五五師団(護土)=岩永汪中将、同第三四四師団(剣山)=横田豊一郎中将=があった。(中略)
 第二〇五師団(安芸)=広島五師団編成=とともに、第五十五軍を編成した。軍司令官は原田熊吉中将(四国軍管区司令官兼任)総兵力九万八千人、太平洋に向かって配置についた。ほかに軍管区部隊は二万二千二百人が北四国にあった。五十五軍は弾薬が不足し、管区隊は銃すら足りなかった。
 十一師団は須崎支隊、右地区隊(物部川-浦戸湾)左地区隊(仁淀川-浦戸湾)砲兵隊(御免後方)予備隊(同)が穴掘りに従事、地下陣地構築をあせっていた。司令部は御免南方、介良(けら)村、鉢伏山西北山ろくにあった。赤ん坊を背負った妻が、香川から汗だくで兵に面会に来た。民家の一室で本土決戦を前にはかない命を語りあったものだ。」(『明治 大正 昭和 香川県血涙史』。十河信善・編。讃岐総合印刷出版部。一九七六年十一月十五日)。

 こうした兵隊たちは、「対戦車肉薄訓練」をしていました。
 「陣地構築と併行して対戦車肉薄訓練も行われた。それは当時の第五十五軍には戦車の装備がなく、しかも対戦車砲も、その数と性能において、米軍に対しはるかに劣っており、敵上陸戦車を撃滅する有効な方法は特攻戦法による一兵一両必砕の肉薄攻撃によるほかなかったからであった。
 また軍は、硫黄島や沖縄の戦場で、これによって成功した幾多の戦訓に基づいて兵科の別なく、全部隊にこの戦法を徹底させた。そのため将兵たちは、壕から飛び出して戦車に肉薄し、機関部にガソリンを投げつけ炎上させる火炎瓶攻撃などの猛訓練を行なった。」(『四国師団史』)。

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