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2011.03.16

全国各地につくられていた陸軍秘匿(ひとく)飛行場 その五 新潟県の八色原飛行場=新潟県。

 【新潟県の八色原飛行場】

 新潟県内の八色原(やいろっぱら。現・魚沼市)にも陸軍秘匿飛行場がつくられていました。
 『小出町史 下巻』(小出町教育委員会=新潟県北魚沼郡小出町。一九九八年三月十日)に新潟県の、この飛行場のことが載っています。抜き書きして紹介させていたただきます。

 ● 六月下旬、「八色原に飛行場を建設するために土地を収容する」の命令。

 「昭和二十年[一九四五年]の冬は豪雪で、八色原には五月二十三日まで残雪があった。したがって苗代の生育も遅れ、平年よりも半月遅れて六月二十日過ぎにようやく田植えが終わった。
 そんなところに六月下旬、陸軍航空関係の二人の将校が伊米ケ崎村に現れ、役場係員を案内にして薬師山から金比羅山まで尾根づたいに歩いて、山頂から八色原を近郷一帯を眺めて帰った。それから数日後の七月はじめに、『八色原に飛行場を建設するために土地を収容する。伊米ケ崎国民学校を兵舎に提供せよ』との命令が下った。」

 ● 飛行場の予定は、幅五十メートル、全長は約千五百メートルる。

 「八色原の畑には、麦・陸稲(おかぼ)・ササゲ・早生(わせ)ソバなどの作物が植え付けられていた。しかし軍命令とあればやむ得ず、みなが黙って承知した。飛行場の予定地は、大浦新田集落の村上から浄源塚の一本杉の西に一〇〇㍍くらい離れたところから直線に、大崎村(大和町)方谷(ぼたん)に向かって、幅五〇㍍、全長は水無川まで約一五〇〇㍍ほどであった。ここに滑走路を作る計画で、敷地内の耕地は大浦新田・十日町・大浦が主で、東村(大和町)や浦佐村(同)の耕地も若干混じっていた。」

 ● 七月はじめに自動車数十台とともに工作隊が入村。

 「七月はじめに自動車十数台とともに工作兵が続々と入ってきた。村人が見たこともないブルドーザーや他の重機も投入され、十日町の八海神社、大浦新田の神社の境内の森は空襲からの車両分散避難地として使用された。」

 ● 伊米ケ崎、浦佐、大崎、赤石、三用の各国民学校が兵士の宿舎に。

 「伊米ケ崎国民学校には二個中隊(三〇〇人)ほどが宿泊していた。伊米ケ崎役場裏の郷蔵(共同米倉)の戸前(とまえ。軒先玄関)が炊事場であった。兵士の主食はコウリャンと大豆が主で、これが常食かと思うほど粗末であった。戦争末期でどこでも配給の食糧は乏しく、兵士とて欠乏は免れなかったのであった。
 役場の指示で各字ごとに野菜を供出したが、山菜も野草も取り尽くし、毎日セリとフキばかり供出されるので、『この土地はセリとフキばかり食べている所ですか』と聞かれたという話が残っている。
 浦佐・大崎・赤石・三用の国民学校も、同じように兵士の宿舎となった。隊員は宮城・岩手・秋田・山形などの出身者が多く、純朴な人たちばかりで年齢も三〇過ぎた召集兵であった。」

 ● 「♪今日で十日も雨ばかり いつになったら晴れるやら……」

 「本格的な飛行場作りに入っても、この年は長梅雨(ながつゆ)で、七月になっても雨ばかり降っていた。兵士は毎朝雨合羽(あまがっぱ)を着て、円匙(えんぴ)[小型のシャベル]やスコップを担いで学校を出発し、十日町集落を通って八色原に向かった。いつも二列縦隊に並んで学校を出発し、十日町集落を通って八色原に向かった。いつも二列縦隊に並んで軍歌を復唱しながら行進していた。その軍歌も(中略)勇ましいものではなかった。
 ζ今日で十日も雨ばかり
  いつになったら晴れるやら
  雨にうたれたアカシアの
  花もこぼれるぬかる道
 こんな歌を歌いながら、毎朝村を通って八色原に通い、日暮れに宿舎へ帰っていった。なぜか小銃を担いだ兵士は一人も見かけなかった。将校だけが腰に軍刀をつっていた。」

 ここに出てくる軍歌は「重い泥靴」(一九四〇年五月。作詩・坂口淳、作曲・三界稔)だと思います。

 一、雨に打たれて アカシアの
   花がこぼれる 泥濘(ぬかるみ)を
   重い泥靴 踏みしめて
   進む緑の 戦線よ

 二、今日で十日も 雨ばかり
   いつになったら 晴れるやら
   馬も砲車も 濡れねずみ
   青い大空 恋しいぞ

 三、しけた乾パン 囓りつゝ
   咽(む)せる水筒の ラッパ飲み
   君も吸えよと 戦友が
   くれた煙草も かび臭い

 四、肩に食い込む 背負嚢(せおいのう)
   揺(ゆす)り上げては 又[また]進む
   雨の広野の 鉄かぶと
   泥にまみれて 黙々と  

 ● 縦・横・斜めとノシバを植えつけて……。 

 「飛行場作りは、ブルドーザーで畑をならし、そこに縦・横・斜めとノシバを植えつけて、ローラーで圧してコンクリートのように固め、滑走路を作った。上から見るとちょうど畑の畦(うね)形のように見える偽装であった。
 ノシバはぎには国民学校の児童が動員された。林の中や荒れ地・道端のノシバを鍬(くわ)で起こし、幅二〇㌢㍍、長さ四〇㌢㍍くらいにはがして、地元の牛車を動員して運ばせた。七月中の雨続きで、シバも青くなっていたたが、八月に入る雨がまったく降らず、植えつけたシバは赤く枯れた。」

 ● 大浦新田から水無川までの滑走路はほぼ完成。 

 「人海戦術で盆前に大浦新田から水無川までの滑走路はほぼ完成した。十日町から浦佐に通じる県道水無川橋の木橋も、幅を二倍に広げる工事がほとんど完成するところであった。
 一方、水無川の滑走路は川底をコンクリートで固め、夕立の出水はその上を流して、後は砂利を片づけて元通りにする方法といわれていたが、着工するには至らなかった。」

 ● 八月十五日午前からの軍民合同の演芸会。

 「そんな状況でも、八月十五日(盆休み)には軍民合同の演芸会が計画された。国民学校の児童から、青年団・婦人会も参加するため、踊りや歌の練習も行った。会の前日には、伊米ケ崎国民学校の校庭に、工兵隊が仮設舞台の芝居小屋のようなものを作り、また青杉の門も作られた。
 (中略)兵士の司会で演芸会が進められ、児童の遊戯があって、各字からも自慢の郷土芸能が次々と披露された。
 東北出身の兵士が多いだけに、その芸も大したものであった。『秋田おばこ』に『どんぱん節』、次から次と民謡が歌われ、踊りもあった。かすりの着物に鉢巻き姿、紅白の一丈木綿を両手に持って振り回して踊る者、蛇の目傘を持って綱渡りをする者などがあって空襲警報もなく実に楽しく、午前の行事を無事に終わって昼飯となった。
 正午からの重大放送があると知らされていたが、一般村民は昼食を家に帰って取っていた。重大放送は天皇自身の放送で、米・英・中・ソに無条件降伏をしたことを告げたが、雑音が多く聞き取れなかった。こういう急の事態の中で村長と隊長が相談して、演芸会は中止せず続行した。全部の演芸が終わり、その後閉会とともに舞台に村長と隊長が並んで立って、終戦と無条件降伏を受け入れたという重大放送があったことを村民・隊員に告げたのであった。」

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コメント

 各地域史誌にはかなり記載が有ると思います。
 これらの資料は、図書館で取寄せて、読んでいるのですか?

投稿: 池田 | 2011.03.17 12:46

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