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2011.05.29

【エッセイ】  土佐高等女学校五年生たちの日本国憲法発布の日の短歌

   「日本国憲法が発布されたころ、高知の県民は、それをどうとらえていただろうか」。こんなテーマで展示をつくろうと調べ始めています。日本国憲法の発布は、一九四六年十一月三日のことです。このころ、私は母のお腹の中にいました。翌年の二月二十三日生まれです。で、高知県立図書館や高知新聞社に行って当時の高知新聞を読みました。
 公布の翌日の高知新聞には、高知市の土佐高等女学校五年生たちの短歌が四首載っ
ています。

 常闇(とこやみ)の夜は明けにけり新しき国のみ憲(のり)の定まりし今日(仙頭淳子)

 古きをば皆すて去りて立上る戦(いくさ)なき国の憲は出で来ぬ(刈谷孝子)

 新しき光はいでぬ菊かをる常若の国に憲定まりて(浜口満里子)

 天地の道示したる国の憲仰ぎまつれる今日のうれしさ(細井澄子)

 彼女たちの新しい憲法への思いを伝えてくれます。
 アジア太平洋戦争中、土佐高等女学校の生徒たちも苦労しています。このころのこ
とを、清水泉『土佐紙業史』(高知県和紙協同組合連合会。一九五六年三月三十一日)、土佐女子高等学校・土佐女子中学校の『五十年の歩み 土佐女子高等学校 土佐女子中学校』(一九五二年十月三十日)や同校生徒だった女性たちからの聞き取りをもとに書きます。
  ・ 一九四三年の夏は休暇を短縮し、七月三十一日に終業式、八月二十六日に始業
式をおこないました。始業式の翌日から九月四日まで毎日、各学年交代で県下の初月(みかづき)方面の草刈り、朝倉植林の下刈りに行きました(朝倉植林というのは朝倉村字鳥屋奥の五町六反五畝(せ)の学校林で赤松を植えつけていました)。二十七日に四、五年生五百三十人が久万川の堤で刈った草は、七千五百貫におよびました。これは肥料にするものでした。
  ・ 湿田を乾田にして麦作もできるようにするための作業にも動員されました。湿
田の一部を掘り起こし、その底の粘土を取り出し、そのあとにシダをつめ、あるいは土管や竹管を通して排水を良くする作業でした。四三年十一月に六日間、初月方面に、翌年三月には三日間、五台山下に動員されました。布師田(ぬのしだ)、その他にも動員されました。
  ・ 四四年三月に卒業した生徒は、挺身隊として広島県の広島海軍工廠(こうしょう
)、第十一海軍航空所、呉海軍工廠に動員されました。それぞれ、十五人、十五人、十人。二十三日に同校に集合して出発しました(四五年八月に帰高)。
  ・ この年の夏は休暇がありませんでした。毎日授業があり、各種の勤労作業もお
こなわれました。高須、五台山の稲刈り作業にも行きました。
  ・ 四四年からは風船爆弾の製造の作業もやられました。原料のコウゾの表皮を除
く、工場ですいた原料紙の検査、さらに、コンニャクのりをつかって原料紙を直径十メートルの風船にはりあわせる作業です。講堂を工場に代用し、校庭でこれに高圧の空気をみたして強度を実験しました。ここへは警察署長といえども立ち入ることが許されませんでした。
  ・ 同年七月、高知市内旭町三丁目九十四番地に風船爆弾の満球試験工場・科学加工株式会社ができてからは、そこに動員されました(ここは、いまのスーパーマーケット・旭イオンの所です)。
  ・ 同年十月の学徒動員令によって五年生が兵庫県伊丹の大阪機工猪名川工場に、
四年生が兵庫県加古川の日本毛織加印工場に出動しました。五年生は、十一月九日夜八時、高知駅を出発し、翌日、猪名川工場に着きました。引率者は、岡、小笠原、平賀、沢村の四教諭で滝石登鯉(のぼり)校長も同行しました。四年生は、翌十日午後八時に出発し、翌日、加古川着。引率者は、横田、長尾、中村、土屋の四教諭でした。猪名川工場では、兵器をつくっていました。旋盤、ボール盤の操作から仕上工の作業までやらされました。始めは二交替の昼間作業でしたが、やがて三交替で深夜作業までやらされました。加印工場は、毛織物の紡織工場で製品は陸軍、海軍の軍服になっていました。工場は、加古川を隔てて二つに分かれ、その両方に配属されました。作業は、紡績機につく者と織機につく者がありました。四五年三月には五年と四年とは同時に卒業しました。しかし、卒業後も、上級進学者、外地就職者、結婚者を除いて引き続き動員先で働かなくてはなりません。
  ・ 同七月四日、アメリカ軍機が高知市とその周辺を空襲しました。同校には焼夷
弾(しょういだん)二個、その付属物五個が落とされました。「生徒の宅もやられたものが甚(はなは)だ多かつた。中にも十九年卒業の植木延子嬢の一家は壕中で焼死し、その妹の美年子嬢は加古川工場に動員中だつたので独り免れたが、十六日帰高してこの惨状に慟哭(どうこく)したのは悲痛の極みであつた。」(『五十年の歩み 土佐女子高等学校 土佐女子中学校』)。こうしたなかで、猪名川工場の卒業生は浅津教諭らと七月十三日に帰校、加印工場の卒業生は石川教諭らと七月十六日に帰校しました。その後も七月二十四日にアメリカ軍機が山内邸に爆弾を投下するなど空襲がくりかえされました。
  ・ 八月十四日、一年生九十人は県下西豊永村の豊楽寺(ぶらくじ)に、二年生約百
人は東豊永村の西峯国民学校に疎開しました。その翌日、八月十五日、天皇は敗戦のラジオ放送をしました。

 土佐高等女学校生徒たちの短歌が四首載った高知新聞の同じ面には、同校生徒たちの「民主日本」の人文字の写真が載っています。写真説明は「新憲法発布を記念し“民主日本”の人文字を描いた土佐高女生(同校)」でした。

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