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2011.05.05

陸軍歩兵第四十四連隊の遺跡を歩く 【11】 アメリカ軍との「本土決戦期」の朝倉の兵舎

 一九四五年春からアメリカ軍が高知県に上陸してくることを想定した戦闘態勢がつくられました。「本土決戦」といいます。そのなかで、朝倉の陸軍部隊の訓練の内容も変わります。アメリカ軍への特別攻撃と上陸したアメリカ兵とたたかうための壕(ごう)つくりでした。
 同年六月一日、この部隊に入隊した大西正之さんの日記にも、その様子が見えます(大西正祐「一九四五年、父の軍隊日記」=『高知の戦争 証言と調査』第三号。戦争遺跡保存ネットワーク高知。平和資料館・草の家。二〇〇九三月八日)。
 「六月十一日 練兵場で間接照準の演習をやる。直ぐ傍[かたわら]で戦車肉迫攻撃を演習している。
 醜草[しゅうそう]がはびこり神州を蔽[おお]わんとする時、決然生命を投げ打つべく演練している神兵の姿を見た時、私の日本人としての血は湧かざるを得なかった」
 同年五月に、この部隊に入隊した秦敬(はたたかし)さんが、当時のことを書いています(「わが九十年の回顧 子どものころから戦争があった」=『高知の戦争 証言と調査』第十一号。戦争遺跡保存ネットワーク高知。平和資料館・草の家。二〇一一年一月二十五日)。
 「満州(中国東北部)帰りの精鋭・錦部隊が本隊で、その頃までシャバに<荘丁=そうてい>と呼ばれる頑健な者は残っているはずもなく、僕ら補充兵は三十歳代を越えた老兵、弱兵だった。」、「七月ころから、米軍上陸を迎え撃つと称して、毎晩、伊野まで部隊で行進し、すぐ下に水田がある小山の穴掘りをした。
 ……壕掘りは、二人が組になり、ツルハシで掘った土を箱に縄をつけて引っ張り、外に捨てる、という原始的で単純な人海戦術だった」
 当時、高知県立海南中学校一年生だった朝倉本町在住の窪田一郎さんの体験によると、同年五月ころから朝倉在住の海南中学校の生徒(一年―三年)は、朝倉のアジロ山(網代山)の北斜面に陸軍のトラックを隠す横穴を掘りました(いま、横穴が三つ残っています)。
 この作業には、高知県立城東中学校、高知県立高知工業学校、高知商業学校、城東商業学校の生徒も動員されていました。

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