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2011.06.15

「お母ァちゃ~ん」の声を残して波間に消えた宝塚海軍航空隊の少年兵たちのこと。

 以下の出来事をまとめています。
 新しい資料が入り次第、補強をしていきたいと思っています。

 大東亜戦争のころの、一九四五年(昭和二十年)のことです。

 【甲飛十六期が宝塚海軍航空隊に入隊】

 六月、海軍甲種飛行予科練習生第十六期が、兵庫県川辺郡小浜村(いまは、宝塚市)の宝塚海軍航空隊に入隊しました。

 (宝塚海軍航空隊=一九四四年八月十五日、兵庫県川辺郡小浜村の宝塚大劇場を接収し、滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊発足。第十三期後期(奈良分遣隊入隊)、第十四期前期の一部転入。同年九月一日、卒業生の飛行練習課程凍結。回天要員募集開始。同年十一月二十八日、甲飛第十五期(奈良分遣隊入隊者)転入。四五年三月一日、独立、「宝塚海軍航空隊」開隊。大阪警備府隷下第二十四連合航空隊。甲飛第十五期前期の一部(西宮分遣隊)から転入。同年四月一日、甲飛第十六期入隊。同年六月一日、予科練教育凍結。航空特攻要員は滋賀海軍航空隊へ転出。同年六月三十日、解散。甲飛第十三期の卒業は果たしたものの、その多くは回天搭乗員に振り向けられました。= フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 (大阪警備府=一九四一年十一月二十日、阪神海軍部(四〇年三月十五日新設、呉鎮守府管下)が大阪警務府に改編されました。警備府は、日本海軍の機関で、所轄警備区の警備や海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄しました。鎮守府に準じた役割を担いました。= フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 【「淡路島派遣ヲ命ズ」】

 「昭和二十年七月二十六日附
 機密阪警命令
 第三三〇号ニ依り淡路島派遣ヲ命ズ」

 この命令で、宝塚海軍航空隊分遣隊(ぶんけんたい)が編成されました。
分隊長は、杉本静大尉。隊員の主力は、宝塚航空隊の甲種飛行予科練習生第十六期約二百人。分遣隊の任務は、西淡町伊毘(いまは、兵庫県南あわじ市阿那賀伊毘)に海軍の砲台を建設することでした。日露戦争のときの砲艦「春日」の大砲を取り外して陸上に砲台を築き、アメリカ軍との「本土決戦」に備えるということでした。
砲台建設予定地は、兵庫県の淡路島の西淡町伊毘で、その陸揚げ港は阿那賀という漁港でした。

 【先発隊がやったこと】

 この分遣隊の先発隊として、宝塚海軍航空隊に在隊していた海軍甲種飛行予科練習生の十数人が、淡路島に向けて出発しました。
先発隊は、分遣隊全員を受け入れる兵舎の設営や宿舎などになる建物の借り上げ交渉をしました。

 【分遣隊の出発】

 七月下旬、杉本大尉を分隊長とする淡路分遣隊の本隊は宝塚を出発して淡路に向かいました。
 宝塚から陸路、岡山から宇野を経て高松へ、高松から徳島県の鳴門の撫養(むや)に到着しました。
 八月二日、分遣隊の本隊は、民間の機帆船(きはんせん。砂利運搬船。船長と機関長)二隻、「住吉丸」と、もう一隻を雇って、撫養から対岸の阿那賀に向けて出航しました。

 (機帆船=外洋航路への無帆装の蒸気船の普及後に、沿岸航路の海運に用い続けられた内燃機関搭載の木造船を指します。瀬戸内海など各地の石炭や雑貨の輸送でかなり重要な地位を占めました。第二次世界大戦期には、多数が日本軍に徴用されて東南アジアなどの占領地での局地輸送に従事し、さらには鉄資源節約になることもあって戦時標準船としてまで建造されました。= フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 【アメリカ軍機の機銃掃射】

 分遣隊本隊の約半分を載せた「住吉丸」は、兵庫県淡路島の南部、鎧崎(よろいざき)沖でアメリカ軍機・グラマンに攻撃されました。
 グラマンは何回も機銃掃射を浴びせました。
 上甲板のほぼ中央に座していた杉本分隊長が直撃弾を受けてたおれました。
 上甲板を貫いた機銃弾は、船内にぎっしり詰めこまれていた甲飛十六期の少年兵達の頭や腹をつぎつぎと貫いていきました。
 肩を引き裂かれた少年兵は、一度起きあがりましたが、三機目のグラマンに向かって仁王立ちになりましたが、かすれた声で「お母ァちゃ~ん」と叫んで、その場に倒れました。
 三機のグラマンが繰り返す攻撃で、燃料として積んであったドラム缶が射抜かれ爆発を起こして飛び散りました。「住吉丸」は、火の海になりました。
 衣服に火がついた少年兵は、海に飛び込んでいきました。
 「住吉丸」は、炎と煙を吹き上げながら鳴門の潮流に乗って北へ北へと流されていきました。
 「住吉丸」のすぐ近くを丸太ん棒につかまりながら三人の少年兵が軍歌を歌って励まし合いながら漂流していました。しばらくして歌声は絶え、「お母ァちゃ~ん」の声を残して一人が波間に消えていきました。

 【夜通しの遺体収容作業】

 攻撃を受けて期間が止まってしまった「住吉丸」は、潮に乗って阿那賀の港より北の丸山弁天あたりまで流されました。
 水産学校の練習船「春日丸」が通りかかり、「住吉丸」を曳航してくれました。
 阿那賀の岸壁につながれた「住吉丸」からは、負傷者や遺体が運び出されました。
 遺体は、地元の春日寺に安置されました。
 境内に並べて一人ひとり確認する作業があり、遺体の収容は夜通し続けられました。
 この作業中の夜中、もう一隻の機帆船が、あとの百余人を乗せて阿那賀の港に到着しました。
 惨事を知ってただちに遺体収容作業に携わりました。
 ふんどし一つの、全身返り血を浴びながらの作業でした。

 【八十二人がなくなりました】

 遺体の内訳はつぎのとおりです。
 甲種飛行予科練習生第十六期生、七十六人。
 教官、二人。
 教員、二人。
 「住吉丸」船長と機関長、二人。
 合計、八十二人。

 遺体は、鎧崎桜ケ丘に埋葬されました。

 【参考文献】

 ○ 筒井澄(二〇一一年):『師走の朔日(しわすのついたち)』、文芸社。

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コメント

私の親が予科練の方々が宿泊されていた旅館(宝楽)の隣に住んでおり.当時 予科練の方々から親元への手紙を託されて届けて 戦後にご両親が挨拶に来られて 初めて事実を知らされて他界するまで 毎年 夏になると供養しておりました。
私の親は兄弟かのように接していただけに 多くは語りませんでした。

亡くなられた方々のご冥福を 御祈りいたします。

投稿: 山上 | 2012.08.21 17:05

毎年.8月2日の祥月命日に春日寺に於いて法要があります。
是非 参加する予定をしております。

投稿: 山上 | 2012.09.07 14:39

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