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2011.06.14

高知市の「音の会」の「住吉丸」遭難の調査ツアー その一 「僕も参加したい」。

 六月十二日夜、高知市の「妻の家」に帰りました。

 話していたら、妻は、翌朝から女性たちの朗読サークル「音の会」のタクシーツアーに参加するということでした。

 妻も入っている「音の会」は、「住吉丸」の遭難を朗読劇にしようとしているのです。そのための調査だといいます。

 こんな出来事だったそうです。

 ・ 一九四五年八月二日、鳴門海峡を航行していた「住吉丸」は瀬戸内海で貨物を運搬する焼玉エンジンの機帆船でした。船長・浜田為三郎(四十一歳)、機関長・菅輝正(十八歳)が運転していました。

 ・ その日、「住吉丸」の船倉には宝塚海軍航空隊所属の第十六期予科練習生百余人が立ち姿勢のまま詰め込まれていました。

 ・ 無線機のない「住吉丸」は、警戒警報が空襲警報に変わったことを知らぬまま鳴門海峡を航行していました。アメリカ軍機の機銃掃射と空中で炸裂する爆弾の破片が浴びせかけられました。

 ・ 海に飛び込んで逃れた少年たちを救おうとする漁船もいました。海面に五、六個の黒いものが漂っているのを発見しました。少年たとのイガ栗頭でした。ほとんど正気を失っていて、引き揚げることができません。そのまま沈んでしまうものもいました。浜に流れ着いたものもいました。ほとんど裸にちかい状態で、浜に総出の女たちが、冷え切った少年を抱えて温めました。

 ・ 焼けただれ漂流していた「住吉丸」は救助に来た船に曳航され淡路島の阿那賀村(いまは、南あわじ市)に係留されます。

 ・ 日暮れどきになってようやく船内遺体の収容命令が出ました。膝まで没する血潮と重油と海水の溜ったなかに兵隊たちが折り重なっていました。遺体は一体一体、春日神社脇の浜にあげられると戸板に乗せて春日寺まで運ばれました。

 ・ 宝塚海軍航空隊の隊長・杉本静大尉以下百八人のうち八十人、船長の浜田為三郎さんと機関長・菅輝正さんが亡くなりました。

 実は、僕は、翌日は大事な用事があったので、高知に帰って来たのです。

 しかし、妻の話を聞いて「うーん。僕も一緒に行きたい」。

 乗るのは、よさこいタクシーの九人乗りの車。参加者は六人だといいます。

 明朝、妻より早く起きて「僕も行きたい。責任者に、いいかどうか連絡して」。

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