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2011.06.14

高知市の「音の会」の「住吉丸」遭難の調査ツアー その二 鳴門市の島田島にある「住吉丸」の碑とモニュメント。

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 六月十三日朝、女性たちの朗読サークル「音の会」の六人のタクシーツアーは高知市を出発しました。
 最初に行ったのは徳島県の鳴門市教育委員会。
 職員二人が、鳴門市の島田島にある「住吉丸」の碑に案内してくれました。


 「予科練習生救助顕彰碑」がありました。

 大東亜戦争(太平洋戦争)の終結を目前に控えた昭和20年8月2日、宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生ら109名は、杉本海軍大尉指揮の下に鳴門要塞増強工事の任務を帯び、鳴門市撫養港を木造機帆船住吉丸で出港し、鳴門海峡を淡路島阿那賀港に向かっていた。
 正午過ぎ、鳴門市島田島の沖合2キロに差しかかった時、米軍機2機の空襲を受け、船体は大破、忽ちにして56名が戦死、生存者は鳴門海峡に飛込み、急流に翻弄されながら漂流した。(10名は、船に残留)
 これを知った鳴門市粟田・北泊・大島田及び室の地元民が敵機の飛交う海上を漁船で出動し、必死の救助の結果17名を救出したが、他の26名は若い生命を失い、計82名の戦死者がでた。
 当時、我が国は軍機保護の立場から厳しい報道管制下にあり、この悲惨な出来事は長年埋没されて来た。
 近年、この史実が明らかとなり、人心がすさみがちになる戦時下において、我が身の危険も顧みず、決死の覚悟で多くの生命を救った人間愛は、世の人々に深い感銘を与えた。
 ここに、世界の恒久平和を祈念すると共に、、慈愛に満ちた勇気ある鳴門市民の行為を後世に長く顕彰する。

      平成3年12月吉日     顕彰碑建立実行委員会

 その右手にモニュメントがありました。
 木製で縦約一・五メートル、横約一メートル。少年兵を地元の漁師が救う様子を描いた絵と、映画監督の新藤兼人さんが揮毫(きごう)したタイトルの「慟哭(どうこく)の海」の金属板がはめ込まれていました。

 【参考】

 http://www3.ocn.ne.jp/~simon007/essay/20090712.html

 母の「悔恨の海」

 母(桂敏子・旧姓吉成)が十三歳、昭和二十年八月二日の昼前のことである。(中略)
 四月に生まれた妹が泣きやまないので母は母(私の祖母)を呼びに出た。祖母の吉成好美(故人)は田んぼで草取りをしていた。
 鳴門市島田島、海岸からは淡路島が間近に見える、小さな島の一番奥に母の生家はある。
 外に出た母の耳に、海の方からバリバリッという音が聞こえ、米軍機が二機、左右に分かれて飛び去った。祖母が撃たれた、と思った母はあわてて走る。すると祖母は田んぼで手を振って、海を見に行けと合図していた。
 海岸に出ると炎上する船、その手前にはスイカがたくさん浮いていた。貨物船でもやられたのかと思ったが、浮き沈みするスイカから『助けてくれ』と叫び声が。鳴門海峡の潮流である。ちょうど満ち潮が終わりかけていたときで、流れはゆるやかになっていたが、負傷もしているのだろう、必死になって泳いでも海岸には近づいてこない。それでも二人ほどは自力で泳ぎ着いて、救助を求めた。
 母は振り返って再び家に向かって走った。家にはちょうど母の兄の茂(当時十七歳)がいて、歩み板(港で船に乗り降りするために渡す板)を持って飛び出した。そして無謀にもその板だけで海に飛び込んだ。
 潮流はすでに引き潮に変わり始めていた。しかも板には数人がしがみついていて自由がきかず、救助どころか共に遭難しかねない。
 その間、祖母は近所の人たちを呼びに行っており、島田と室(むろ)から小さな手こぎの舟が数隻出された。
 母が舟の櫓を取りに行くとき、島田島の対岸にある北泊(きたどまり)から疎開していた医師の吉田畫一先生(故人)と出会った。事情を話すと先生は海岸に駆けつけ、皆に指示して救助や応急処置をした。また薬を取りに、約4キロの道のりを自転車をとばし、渡し船に乗って北泊へ帰ると、そこからも救助船を手配してくれた。
 北泊からは漁業組合の大きな船が出て、炎上する船の消火にあたり、最後には淡路島に曳航したが、残念ながらほとんどの人が亡くなった。
 救助されたのが兵隊であることがわかり、徳島の連隊から休暇で帰っていた南**さんが、島で唯一、島田小学校[引用者注・島田国民学校か]にあった電話で連隊に連絡。さっそく隊から人が来たが、すぐには連れて帰れないとのことで、島の人たちは集会所で、食事や風呂、衣服の準備をした。
 まさに夕食が始まろうというときに、再び徳島の隊から、救出された兵隊たちを移動すると言ってきた。島の人たちは、せっかく用意した食事だからと、おにぎりや弁当にして持たせたが、軍事機密から、彼らがどうなったのか知らされることはなかった。
 ただ島の常会長(町内会長のようなもの)の元に、淡路の隊からはがきが一枚届き、そこには今回の事件のことは一切秘密にするようにとだけ書かれていた。
 母も、後に不思議な縁と出会いがあるまで、気にかかりながらも、その後のことを知るすべもないまま時日は過ぎていった。
 その後彼らは、重傷者は手術のために淡路や松茂の航空隊に、軽傷者は鳴門市中山にあった臨時病院のような施設に収容された。
 攻撃を受けたのは、宝塚の予科練生ら一〇九名を淡路島の阿那賀港へ輸送していた住吉丸であったが、米軍機の本当の任務は『広島』の偵察で、原爆投下は当初、八月四日の予定であった、と毎日新聞記者であった義理の叔父深田重蔵(故人)に、母は戦後まもなく聞かされた。
 (後略)

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