« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月

2011.07.01

英語で日記 二〇一一年六月三十日 木曜日 三人の男性にインタビュー。Thursday, June 30th, 2011 Interview to three men.

二〇一一年六月三十日 木曜日 三人の男性にインタビュー。

 晴れ。

 卒論のための取材で高松市国分寺町へ行きました。
 寺の住職、元町議会議員の男性、国鉄に勤めていた男性にインタビューしました。


Thursday, June 30th, 2011 Interview to three men.

Fine.

I went to  Takamatsu city Kokubuji town to interview for the graduation thesis.
I interviewed three men.
They were a priest of a buddhist temple,a person before who was assembly member of town council,and a man who had been working in Japanese National Railways.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月一日 金曜日 またハングルの試験があります。Friday, July 1st, 2011 Moreover, I will have Hangul exam.

二〇一一年七月一日 金曜日 またハングルの試験があります。

 雨。

 韓国語の先生は、近々、これまでやった教科書のハングルの文章をすべて読見上げる試験をやりますと私たちにいいました。

 美術の時間は、先週に引き続き自分のカバンのデッサンでした。
 私は、先週と違うカバンを持っていきました。
 比較的良く描けました。
 しかし、やっぱり、まだ、立体的に描くことができません。

Friday, July 1st, 2011 Moreover, I will have Hangul exam.

Rain.

We should shortly take an exam of Korean again.
It is an exam to read out sentences of our textbook that we has been learnt .

Our art class was a sketch of our bag continuously last week.
I took a bag different from last week.
I was able to draw this comparatively well.
However, I cannot draw three-dimensionally yet.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【短歌】 パッチム(支え)は もう止めにした。

 パッチム(支え)は もう止めにした これからは 母音になりたい 六十四、夏

 どんぶりで どんとサラダを 出す店が 高松駅の 二階にあるよ

 

 土讃線 ハングル教科書 手に持って 寝ているおじさん それは僕です

 新客の 子ネコと対決 うちのクニョ 二階、一階 別居している

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.02

【花】 上に向かって咲き誇るノウゼンカズラの美(写真、一枚)。

Photo

 七月一日夕、アパートからJR志度駅まで裏道を歩きました。
 各家のノウゼンカズラが美しく咲いてます。
 ノウゼンカズラは、幹から気根を出して樹木など登る、這い登り型のツル植物です。
 花は一日で落ちてしまいますが、次々と絶え間なく咲き続けます。
 花を良く見ると、花弁がいつも上を向くような仕組みになっているようです。
 しょぼんと下向くことはなく、上を向いたかっこうのまま落下します。
 そのことに気づいたのは数年前、東京都府中市に住んでいたころです。新町の都営住宅の庭のノウゼンカズラをじーっと見ていて気づきました。
 ノウゼンカズラの花のように生きたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【エッセイ】 おとなネコと子どもネコ クニョとサランの物語。(写真はサラン)

Photo_2

 高知市の妻が、六月三十日に、彼女の弟から子ネコをもらってきました。

 白人のように目が青くて、毛の白いメスです。

 サランと名づけました。

 名付け親は妻と私と私の弟です。

 この日は先住のメスネコ・クニョと初面談。

 クニョは、毛を逆立たせてウーーーとにらんで去って行ったそうです。

 七月一日夜中、さぬき市のアパートから高知市の「妻の家」に帰って来ました。

 サランは二階で悠然としています。

 クニョは二階に来てみるのですが、廊下でウーウーウーといったまま、部屋に入りません。

 あまり、おとなの対応ではありません。

 で、いまは一階のテレビの前のいすでまるまって寝ています。

 「二人」の関係がどうなっていくか。楽しみにしています。

 月末には東京から「小学生の女の子二人」(孫です)が高知市にやって来て、この「二人」と手荒く遊ぶことになるでしょう。

 

  【追記】

 七月二日夜。

 クニョは、プイと外に出て行きました。

 サランは一階にやってきて、いすに座っている僕の足元からむ登って来て、下にジャンプ。

 数十センチはあります。よくやるーっ。

 これを何度も繰り返します。

 赤ちゃんでも、こんなことができるのですね。

 東京の娘にサランの来訪のことを電話で伝えました。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【エッセイ】 夏は私の正念場。

 七月、八日は私の勉強にとって正念場でもあります。

 前期試験のまえに韓国語の試験があります(前期試験もあります)。

 今月には前期の試験を控えています。

 八月には、全国規模の研究会にも参加する予定です。

 夏休みには卒論のための取材と調査の仕上げをして、できれば卒論の第一原稿を書き上げたいと思っています。

 そして、八月の下旬には実習があります。

 七月下旬に高知市にやってくる娘と、娘の二人の娘を歓迎するために、私も少し準備しています。 

 その一つは漫画『仁 JIN』を全二十巻そろえたことです。たぶんわかると思います。

 それに、高知県の島のツアーに誘ってみようと思っています。

 福岡県の息子の「つれあい」の父母からは、みんなで高知県の四万十川で遊ぼうという招待を受けています。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【短歌】 おとなネコ・クニョの気持ち。

  新入りが チヤホヤされて いじけたか おとなネコ・クニョ 夜遊びに出る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.03

広島県の呉軍港の第九十一嵐部隊(伏龍特別攻撃隊)情島基地の隊員のこと。


 『若鷲(わかわし)の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』(野村義治。一九九〇年十二月一日。百七十八ページ)に、高知県の浦戸海軍航空隊から特攻隊に行った人が自分のことを書いていました。
 第十四分隊第十班の中村豊さんの文章です。(百十三ページ~百十五ページ)
 中村さんは特攻要員として神奈川県の横須賀へ転属。潜水学校に入り、久里浜海岸で潜水服を着て海中を歩きまわる訓練をしました。「機雷をもって敵艦へ、最後の特攻ということで、総理大臣の鈴木貫太郎大将が激励にこられた」
 中村さんは、終戦を広島県の呉軍港の第九十一嵐部隊(伏龍特別攻撃隊)情島基地で迎えました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【エッセイ】 高知県仁井田の海軍の呉鎮守府第十一特別陸戦隊の噴進砲中隊のこと。

  高知県仁井田の海軍の呉鎮守府第十一特別陸戦隊の噴進砲中隊に噴進砲中隊がありました。
 そのことを、何冊かの本を参考に書いておきたいと思います。

 【呉鎮守府第十一特別陸戦隊】

 呉鎮守府第十一特別陸戦隊とは、どんな隊だったでしょうか。
 元は浦戸海軍航空隊でした。

 浦戸海軍航空隊は、一九四四年十一月一日、甲種飛行予科練習生の教育航空隊として開隊されました。隊司令は、別府少将でした。
 この日、松山海軍航空隊から甲種飛行予科練習生十四期の約千人が、ここに転入しました。
 同年十一月二十八日、三重海軍航空隊奈良分遣隊から甲種飛行予科練習生十五期の人たちが転入しました。
 一九四五年四月一日、甲種飛行予科練習生十六期が入隊しました。
 その後、同隊は、解隊となり、呉鎮守府第十一特別陸戦隊に編成替えされました。
 同年七月二十五日、堀内豊秋(ほりうち とよあき)大佐が、呉鎮守府第十一特別陸戦隊司令に就任しました。

 「堀内司令は着任早々、全員を浦戸航空隊の練兵場に集め、台上に立って挨拶をした。

 『私が当陸戦隊司令、堀内大佐である。私が来た以上、戦争は必ず勝つ。みんな、がんばれ』

 これだけを言った。わーっと、どよめきが津波のようにおき、一斉に拍手がおこった。」(上原光晴『落下傘隊長 堀内海軍大佐の生涯』。光和堂。一九九三年九月二十四日)。

 

 【噴進砲中隊とは……】

 野村義治(のむらよしはる)さんの『若鷲(わかわし)の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』(一九九〇年十二月一日。百七十八ページ)の各隊員の手記に噴進砲中隊のことが触れられています。

 噴進砲中隊は、 第十四分隊の一部の隊員たちで編成されたものでした。

 第十四分隊五班の荻野東作さんが、噴進砲中隊について書いています(『若鷲の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』  五十七ページ~五十八ページ)。荻野さんは、朝鮮に住んでいましたが、一九四四年六月一日、甲種飛行予科練習生として愛媛県の松山海軍航空隊に入隊、同年十一月、浦戸海軍航空隊に移っています。
 「陸戦隊編成になって、特攻隊を志願した者は訓練地へ向かった。私は噴進砲隊に編入され、班長は野村義治班長だった。(中略)居住区が医務室のある建物の南側の横穴に変更され、横の空地に陣地を作った。
 噴進砲の発射装置は木製の滑り台で、これを四十五度の角度に据(す)えつけ、砲弾を載せて、砲の横から紐(ひも)を牽(ひ)き、打ち針を作動して発射するものであった。噴進砲弾は、艦砲の二十センチの砲弾に噴進用の炸薬が取りつけられたもので、長さは約一メートル、重さは約百キログラム、射程は千メートルだったと記憶している。我々の装備は、この砲弾が四発だけだった。撃つ順番を決めたが、これは戦死する順番でもある。発射の熱で発射装置が燃えるおそれがあるから、水で消火せよと教えられた。海岸で試射を見たが、物凄(ものすご)い轟音と真っ赤な火花を吹いて、土佐の沖へと飛んでいった。その操作訓練を野村班長の指揮で実施した。井上らの身体の大きい者が二人で弾を架台に載せるのを、身体の小さい者は見ていた。
 野村班長は、
 『米軍の攻撃は激しいから、一発発射できればよい』
 と言われた。私たちは、その一発のために、夏の炎天下で訓練に励んだ。」

 「発射装置は木製の滑り台」という記述には驚きました。

 松山海軍航空隊から来た第十四分隊三班の小林梅男さんも噴射砲中隊にいたと書いています。(『若鷲の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』 六十三ページ)

 【第六班は指揮小隊に……】

 第十四分隊六班の岡田豊さんが、噴進砲中隊の指揮小隊のことを書いています(『若鷲の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』  百十八ページ~百二十ページ)。
 「十四分隊は噴進砲中隊で、我々第六班は指揮小隊となり小隊長は加藤[冨貴造]分隊士で、田島教員が小隊長付と記憶している。
 六月には、各班から数名の特攻要員が指名され、三重空へ転隊。また、松根油(しょうこんゆ)採取のため離隊者が出て、残った者は約半数となった。
 指揮小隊十二名で、兵舎の廃材を大平山に運び、山小屋を設置。兵舎を離れ、山小屋生活が始まった。六名ずつ二班にわかれ、六時から二十時まで、二時間交代で陣地作りの日課が、終戦まで続いた。」

  【武器弾薬庫の歩哨】

 浦戸国民学校に配備されていた陳東(じんどう)俊郎さんが弾薬庫のことを書いています(『大平山』第二十三号の「故郷も戦場だった 第二話 浦戸海軍特別陸戦隊員となって」。三里史談会。一九九七年五月三十日)。

 「浦戸の西から長浜方面に通じる長さ百メートルほどの道路トンネルが、陸戦隊の武器弾薬庫に利用された。道路センターから西側半分ギッシリと弾薬庫や噴進砲(ロケット砲)が天井まで積上げられ、ゴムシートが掛けられていた。トンネルの両側に一名着剣した歩哨(ほしょう)が四六時中立っており、その当番が順番で廻ってきた。

 私も二回、それも夜間ばかりの歩哨に立った。

 六月も下旬となり梅雨が続く夜の歩哨は、実にうっとしく正直いってこわかった。二名連れ立って出発するが、一名づつトンネルトンネルの両側に分かれて前任者と交替する。交替が終ると全く一人ボッチ、着剣した銃をかまえ漆黒の闇に瞳をこらす。『スパイが暗躍していので注意せよ』と言われていた。(中略)

 深夜のこととて通行人はめったになかったが、上官が時々巡視に来た。入隊前の学校教練で、弾薬庫の歩哨が深夜恐怖にかられて、上官を刺突したと教えられたことを想起したが、幸いトンネル歩哨は無事勤務することができた。」

  

 【宇佐の分遣隊のこと】

 噴射砲は、高知県高岡郡新宇佐町(いまは土佐市)の呉鎮守府第十一特別陸戦隊の分遣隊にも配備されていました。
 松山海軍航空隊から来た第十四分隊三班の頭川正義さんが書いています(『若鷲の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』  七十二ページ~七十四ページ)。
 「……中隊長以下約五十名が、三軒の民家に分宿し、近くの山に構築された隧道(ずいどう)に立て籠(こも)り、敵を迎え撃つのが、与えられた任務であった。浦空を離れるとき、陸戦隊付を命ぜられた我々は、噴進砲隊や、迫撃砲隊を編成し、陣地として必要な隧道(穴)掘りから始まって、訓練の毎日であった。
 (中略)
 着任してから、始めの一か月は穴掘り専門で、作業がたいへんだった。ずぶの素人(しろうと)が、ダイナマイトを扱うのである。タガネの打ち込みがまずたいへん、何度かハンマーで手を叩き、痛かったこと、モッコで担ぎ出す土砂や岩石の量の多いこと。杭の構築や板の打ち込みなど、一日一メートル以上の目標が思うに任せず、あせりの毎日でもあった。」

 【一九四五年八月十五日の終戦】

 野村義治さんが、一九四五年八月十五日の終戦のことを書いています(野村義治さん『海軍人間物語』。経調出版センター。二〇〇三年二月)。

 「……その日は朝から暑く、いつものように起床して陣地の進捗(しんちょく)状況を見ると、昼夜兼行の活躍で完成も近い状態になっていた。

 朝食が皆と終わったとき、伝令が来て『今日の正午、天皇陛下より重大な放送があるから練兵場に集合せよ』。

 太陽を頭上に練兵場へ予科練を引率して整列、直立不動の姿勢で聞いていたが雑音が入って聞き取りにくく『朕は』とか『大勢は』とか断片的な言葉が分かるだけで放送が終わってから、陛下の本土決戦への激励だと思って午後の作業に入ったのである。

 時間の経過とともに“負けた”とか、“終戦”の言葉が飛び交うようになり、夕方になって『終戦』が決定的となって隊内は騒然となり、呆然とした予科練とは対照的に年老いた応召兵の万歳と喜ぶ姿も。

 私は本部前で書類を焼き、最後に軍艦旗の燃えるのに号泣した終戦の夜であった。」

 【一九四五年八月十六日の出来事】

 第十四分隊七班の前田房孝さんが一九四五年八月十六日の出来事を書いています(『若鷲の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』  百二十一ページ)。

 「昭和二十年[一九四五年]八月始めの夜戦訓練の際に、怪我をして医務室がよいをしていた私は、八月十五日の玉音放送の時には、不動の姿勢で立っているのが苦痛であった。

 翌十六日夜、敵艦土佐沖に現るの報に、大平山の噴進砲隊指揮班陣地で[小銃の]実弾数十発を受け取った時は、体調のことは忘れていた。」

 【浦戸海軍航空隊の「引渡目録」】

 終戦時に浦戸海軍航空隊が噴進砲をどれくらい持っていたのかについては戦後、浦戸海軍航空隊がアメリカ軍に提出した「引渡目録」に記されています(『高知の戦争 証言と調査』第九号(二〇一〇年七月一日)の福井康人さん「浦戸海軍航空隊・呉鎮守府第11特別陸戦隊の引渡目録」)。

 十二センチ二連装噴進砲       六
 二十センチ噴進砲          十五
 八センチ噴進砲          七十三
 六番陸爆用噴進台           一
 二十センチ噴進砲弾        百十九
 十二センチ噴進砲弾     千百五十五
 八センチ噴進砲弾      二百九十六
 噴進器推薬             百八十

 浦戸海軍航空隊の噴進砲隊の陣地や大平山の噴進砲隊指揮班陣地は、いまどんなふうになっているでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.04

【短歌】 夏の野に 炎燃えたつ 赤花に……。(写真、一枚)

 

Photo

   夏の野に 炎燃えたつ 赤花に シャッター切ってる あそこで、ここで

 空襲を 忘れぬプレート つくりたい わが田辺島に 新たな動き

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.07.05

英語で日記 二〇一一年七月五日 火曜日 わっ、地震! Tuesday, July 5th, 2011 Wow , earthquake !

二〇一一年七月五日 火曜日 わっ、地震!

  晴れ。

 午後七時十八分、地震が起きました。
 私のいた、さぬき市の五階建てアパートの三階でも、かなり揺れました。
 私は、ハングルの勉強中でした。
 私は、思わず部屋の隅に行って柱につかまりました。
 午後七時三十五分、また揺れました。
  最初の地震は、さぬき市では震度4でした。

Tuesday, July 5th, 2011 Wow , earthquake !

Fine.

7:18 p.m.,earthquake occurred.
It shook even on the third floor of five story apartment in Sanuki city where I was.
I was studying Hangul.
I instinctively went to a corner of my room and hung on a pillar.
It shook at 7:35 p.m.
The first earthquake was four in the seismic intensity in Sanuki city.

(seismic intensity 震度)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【ニュース】 福岡第一区選出、民社党の松本龍(まつもと りゅう)さんの本音発言。

  松本龍(まつもと りゅう)さんの名前は、しっかり覚えておきたい。
 一九五一年五月十七日、福岡市生まれ。
 民主党の衆議院議員です。福岡第一区[東区・博多区]選出、当選回数七回。
 民主党政権では震災復興相をつとめていました。
 地震の被災地を訪れ、政治家としての本音をのべました。

 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110705/plc11070500230000-n1.htm

 松本龍震災復興担当相の発言要旨(3~4日)

 松本龍震災復興担当相が(7月)3日に岩手県の達増拓也知事と宮城県の村井嘉浩知事に対して行った発言と、4日に首相官邸で行った説明および記者会見の要旨は次の通り。

 【岩手県】

 (私は)九州の人間だから東北の何市がどこの県か分からない。(仮設住宅について話す知事を遮り)本当は、仮設はあなたがたの仕事だ。次の恒久住宅のようなものをわれわれは構想する。そこでみんなどんな知恵を出せるか。

 震災の発生から3カ月以上もたって、国が市町村に寄り添うことは(これまで)なかった。私はボーッとしていたけど大丈夫だった。みんなでやってくれた。私は被災地行脚に行こうと思っている。

 あれが欲しいこれが欲しいはだめだぞ、知恵を出せということだ。知恵を出したところは助け、出さないやつは助けない。それぐらいの気持ちを持って。

 【宮城県】

 政府に甘えるところは甘えていい。こっちも突き放すところは突き放す。そのくらいの覚悟でやっていこう。県で(漁港再編問題の)コンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。ちゃんとやれ。

 (応接室で待たされたことについて)お客さんが来るときは、自分が入ってからお客さんを呼べ。長幼の序が分かっている自衛隊(村井知事がかつて所属していた)ならやるぞ。今の部分はオフレコな。書いた社はこれで終わりだから。

 日本共産党の彼の、この発言にたいするコメントが小気味良かった。

  2011年7月5日(火)「しんぶん赤旗」

 復興担当相の資格問われる 市田氏会見 松本氏の発言を批判

 日本共産党の市田忠義書記局長は4日の記者会見で、松本龍復興担当相が東日本大震災の被災地復興に関し「知恵を出さないところは助けない」などと発言したことについて「大変な実態に置かれている被災地・被災者に心を寄せるということとは、まったく正反対の上から目線の許されない発言だ。復興担当大臣の資格が問われる」と批判しました。

 市田氏は「こういう人を復興担当大臣に任命した菅首相の任命責任も問われる。本人は全体の発言を読んでくれと言い訳しているようだが、この部分自身が極めて重大な発言であり、許しがたい」と述べました。

 私が付けくわえていうならば、こんな人物を衆議院議員にした、御当地の有権者の一部にも猛反省をも求めたい。
 しっかりしてほしい。

 彼は、いまだに衆議院議員を辞任していないようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【短歌】 民主党って、どんな党なの。ひどすぎ。

 大臣が 「助けない」よと ほざいてる 地震被災者 押しつぶしている

 グラグラが わがアパートにも やって来た 地震の連鎖 あるのだろうか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.06

英語で日記 二〇一一年七月六日 水曜日 「あなた、助けてほしいの」。

二〇一一年七月六日 水曜日 「あなた、助けてほしいの」。

 雨。

 「あなた、助けてほしいの」

 夜、高松駅から高知市の一宮(いっく)までの高速バスで、高知市の妻からの、こんな電話を受けました。

 「えっ、いま帰ってきているの?  よかった」

 どうせ、パソコン関係のことだろうなと思いました。

 「ディスクトップにおいてある写真を九枚、メールで送ってね」

 これが、妻の僕への指示でした。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.07

英語で日記 二〇一一年七月二日 土曜日 「第三十三回 戦争と平和を考える資料展」。

二〇一一年七月二日 土曜日 「第三十三回 戦争と平和を考える資料展」。

 雨。

 高知市で始まった「第三十三回 戦争と平和を考える資料展」を見に行きました。

 夜は、父が生後二か月で出征して戦死した女性の原稿を仕上げました。

Saturday, July 2nd, 2011 "Material exhibition that thinks about War and Peace" the 33rd.

Rain.

I observed "Material exhibition that thinks about War and Peace" the 33rd that had started in Kochi city.

I finished up one sheet of manuscript at night.
It is a story of a woman who lost her father when she was an infant.
Her father died of a War.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月三日 日曜日 浦戸海軍航空隊についての原稿。Sunday, July 3rd, 2011 MS. of Urado naval air force.

二〇一一年七月三日 日曜日 浦戸海軍航空隊についての原稿。

 雨。

 高知市の浦戸海軍航空隊についての原稿をまとめました。
 これからの調査の基礎になるものです。
 これから隊員たちにもインタビューしたいと思っています。

Sunday, July 3rd, 2011 MS. of Urado naval air force.

Rain.

I wrote a manuscript about Urado naval air force in Kochi city.
This becomes basic of the investigation in the future.
I want to interview members of this corps.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月四日 月曜日 二つの原稿の校正。Monday, July 4th, 2011 Proofreading of two sheets of MSS.

二〇一一年七月四日 月曜日 二つの原稿の校正。

 雨。

 この間から書き上げた二つの原稿の校正をしました。
 妻も、手伝ってくれました。

 さぬき市のアパートに帰り着いて、英語の勉強、をしました。

Monday, July 4th, 2011 Proofreading of two sheets of MSS.

Rain.

I proofread two sheets of MSS. I finished writing the other day.
My wife helped the work.

I came back to my apartment in Sanuki city , and studied English.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月六日 水曜日 When were you born ? Wednesday, July 6, 2011 When were you born ?

二〇一一年七月六日 水曜日 When were you born ?

 晴れ。

 会話文をつくりました。

When were you born ?

I was born on Feb.23th in 1947.

Where does your father work ?

He was working at the paper factory. However, he died.

Do you believe in God ?

I do not believe in the reality of God.God exists only in people's minds.

Why are you so cheerful ?

It is because my research goes well.

Can you drink vegetable juice ?

Yes,I can.It is good !

What's your blood type ?

My blood type is A +.

Why don't you like snakes ?

I fear them because some of them are poisonous.

Tell me the place of Shigeki Maruyama's birth ?

Shigeki Maruyama is a golfer who was born in Chiba Prefecture Ichikawa city.

Do you know Francesko Totti ?

A little. He is a soccer player from Rome. His position is FW.

Who's Andre Agassi ?

He is a former professional tennis player in the United States.

May I take cook books ?

Yes. Two books are here.

Let's go out to play baseball,Shall we ?

No,Iam too busy,with study.I study for the final exam.

Would you go to restaurant ?

Yes. Let's go because I am very hungry.

Will you keep healthy body ? and why ?

I am not so healthy. However, I am making an effort to restore my health because I have a lot of things to do.

Whose song do you listen to?

The music's composer Hako.

Would you mind watcing TV game ?

Ofcouse !

What is the origin of the word vivisection ?

Vivisection is sugery on living animal for scientific purposes.

Where is the physician Galen from ?

He is from the UK.

What does he think about killing chiken for food ? and why ?

He doesn't heed killing the chicken. It is because he loves chicken's meat.

Does She take odjection to the torture of animals ? and why ?

Yes. She protests against paining the animal. It is because she thinks that animal also have minds.

Wednesday, July 6, 2011 When were you born ?

Fine. The conversation sentence was made.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月七日 木曜日 浦戸海軍航空隊の隊員だった人の話。 Thursday, July 7th, 2011 Story of a person who was the member of Urado naval air force.

二〇一一年七月七日 木曜日 浦戸海軍航空隊の隊員だった人の話。

晴れ。

 午前中、Fさんと香美市土佐山田町へ行きました。
 浦戸海軍航空隊の隊員だった男性に当時の話を聞かせていただきました。

 午後、Yさんに、戦後すぐの田辺島地区の航空写真を見せていただきました。

Thursday, July 7th, 2011 Story of a person who was the  member of Urado naval air force.

Fine.

I went to Kami city Tosayamada town with Mr. F in the morning.
Then, we interviewed a man who was the member of Urado naval air force.

Mr. Y showed me aerophotographs of Kochi city Tabesima after the end of the war in the afternoon.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

広島での日本母親大会、私も参加します。

 七月三十日、三十一日、広島市で開かれる第五十七回日本母親大会に私も参加することにしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【短歌】「幸せに なれますように♡」。

 授業前 コンビニバイトの 女子学生 一時間目に 駆けこんでくる

 「幸せに なれますように♡」 大学の 七夕飾りの 思いの切なさ

 ハングルが 読めはじめたよ 少しずつ 何だかうれしい このごろのこと

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.08

【短歌 最近のを、まとめてみました】  ハングルの神様って、いるの?

 ハングルの神様って、いるの?

 『万葉集』 読みとる力 欲しくって ハングル学ぶ この四カ月

 ハングルの 神様いるなら 降りてきて 書き取りいまだ 「はい」、「いいえ」だけ

 もう一度 基礎に戻ろう ア、ヤ、オ…から 書き取りしている 梅雨の夜のこと

 土讃線 ハングル教科書 手に持って 寝てるおじさん それは僕です

 右腕の 筋肉痛の わけわかる ハングル書き取り やり過ぎのよう
 
 右腕に 薬をぬって 今夜、また ハングル書き取り 体力勝負

 ハングルが 「読め出しましたね」 先生の うれしいひとこと 舞いあがってる

 「八課まで 覚えてください」 四十問 答えられるか 二週間後だ

 教科書の ハングルすべて カードにし 「えい、覚えこめ」 試験直前

 パッチム(支え)は もう止めにした これからは 母音になりたい 六十四、夏

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歌集 パッチムは、やめにしたんだ。

 二〇一一年四月、さぬき市の徳島文理大学文学科文化財学科の四年生になりました。
 それからの短歌、四月、五月、六月、七月の短歌を集めました。
 歌集の題名は「パッチムはやめにしたんだ。」です。

 放射能(はい)の降るまち

崩壊の 漢字が 頭で爆発し いらだっている あの日からの僕

春休み 引き取っていた 孫たちを 放射能(はい)降るまちに 帰す悲しみ

「安全」が 崩れ去ったよ 斉藤が 「ずっとウソだった」  ネットで歌う

幼子の 瞳の中の 未来たち 守れのマイク わが妻たちも

あきあきだ 「そのシ―エム 必要ですか」 公共の名で 押し付けばかり

希望への  歌生まれ出よ みずからを  責め立てている  風邪ひきの床

高知市に 放射性物質(はい)が 降っている レベル7 一か月余に ここまできたか  

大臣が 「助けない」よと ほざいてる 地震被災者 押しつぶしている

グラグラが わがアパートにも やって来た 地震の連鎖 あるのだろうか

 連絡が取れない君へ 

直前で 足踏みしてる 君の春 涙のしずく いのちうるおす

君の春 早く来いよと 願ってる 海の近くの 丘の学びや

うずくまり 闇を見ている 君の像 想像している 連絡絶えて

君のため 何かできるよ 連絡を 待っているんだ きのうも、きょうも

 僕は大学四年生

桜舞い ホーホケキョなく 坂道を 自転車押して 授業に向かう

春嵐 桜の花を 連れさって 次なる花を 求めている朝

目標は 五分間です サンドイッチ ガツガツ食べて 授業に駆け込む

肉好きで 野菜不足を 恐れてて ガリガリと食う まるったキュウリ 

授業前 コンビニバイトの 女子学生 一時間目に 駆けこんでくる

 ローテローゼの君は……

満杯の 甘い香りに 身をひたし たゆたっている 高知バラ展

光る紅(あか) ローテローゼの 大輪に あの日の君の 相貌(そうぼう)を見る

 六月二日夕の各駅列車で

三時間 「本土決戦」 聞き取って 伊予の小島に 別れを告げる

針木やら あぞ野の壕(ごう)を 見つけたい 思いめぐらす 帰りの列車

何席も 空いているのに 立っている 夕の列車の 生徒の群れは

どっかりと 列車の床に 座り込み メールしている 制服の娘(こ)

立ったまま 常用漢字の ワークする 電車の中の 眼鏡の男子

八人の 黒いスカート 乗り込んで 輪をつくってる じゃれあっている

「さよなら」を ケータイ振って 示してる 最近の子は そんな流儀か

生徒らが いっせいに降り 静寂を 運んでいるよ 夜の各停

ハングルの 書き取りにあき ガタゴトの ゆりかごのなか 短歌詠んでる

「不信任」 どうなったのか? ケータイの 電池が切れて ニュースが見れない

 高知市の妻のこのごろ

レトルトの カレーを五つ ぬっと出し 「どれがいい?」って ニッとする人

こづかいを 「また取られた」と 口に出す 割り切れないのか 私の「保護者」

 人生って、何だろう? 

白髪が エッジをつけた パソコンで 仕事している 高速バス停

客引きの 美女の人生 思ってる 梅田近くの 宿の一室

妻にとり 「鉄ちゃん」なのか この僕は 「おとうと」を見る 大阪の宿

サラ金の 広告の横 “過払いの 相談受けます” 世の中まわる

パソコンに ゲーム機、ケータイ ひたってる 朝の電車の 若者たちは

パッチム(支え)は もう止めにした これからは 母音になりたい 六十四、夏

 地理学の研修旅行

廃校の ホテルに泊まる 研修日 あす一番は 流れ橋見る

若い男性(こ)も 悩みをかかえ それぞれに 生きているんだ ビール飲んでる

京、大津 めぐりめぐって 「水」探す わがリーダーの 足の速さよ

雨上がり 青空見えて 汗じわり 地理学研修 足が勝負か

 子ネコが、わが家にやって来て

やってくる 白い子ネコの 命名を 考えている きのうも、きょうも

新客の 子ネコと対決 うちのクニョ 二階、一階 別居している

新入りが チヤホヤされて いじけたか おとなネコ・クニョ 夜遊びに出る

 がんという脅威

わが友が 食道がんで 苦闘する ブログ読んでる 涙をためて

ああ、君も がんとの闘争 継続中 落ち込みわかるが はい上がってくれ

 わが大学にも夏が来ました

赤、青の すけしたパタパタ 舞っている 夏やってきた 丘の教室

席かえて クーラー直下に 座り込む 肥満男の 苦行の季節

「幸せに なれますように?」 大学の 七夕飾りの 思いの切なさ

 

 ハングルの神様って、いるの?

『万葉集』 読みとる力 欲しくって ハングル学ぶ この四カ月

ハングルの 神様いるなら 降りてきて 書き取りいまだ 「はい」、「いいえ」だけ

もう一度 基礎に戻ろう ア、ヤ、オ…から 書き取りしている 梅雨の夜のこと

土讃線 ハングル教科書 手に持って 居眠りおじさん それは僕です

右腕の 筋肉痛の わけわかる ハングル書き取り やり過ぎのよう
 
右腕に 薬をぬって 今夜、また ハングル書き取り 体力勝負

ハングルが 「読め出しましたね」 先生の うれしいひとこと 舞いあがってる

「八課まで 覚えてください」 四十問 答えられるか 二週間後だ

教科書の ハングルすべて カードにし 「えい、覚えこめ」 試験直前

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【短歌】 ルドベキアが咲いていました……。(写真、一枚) 花の名前、訂正しました。

Photo

写真は、七月八日、高知県香美市土佐山田町で。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.07.09

【短歌】 韓国のチャンバラ映画。

韓国の チャンバラ映画 いまふうで 言葉遣いが すっこし、わかる

「愛でなく 執着なんだ」と 喝破する 映画を見てる ズキンと来たよ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

九州電力の「やらせメール」事件をスクープした新聞記事。

 九州電力の「やらせメール」事件が波紋を呼んでいます。

 この問題をスクープしたのは、「しんぶん赤旗」でした。
 こんな記事でした。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-07-02/2011070201_01_1.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.11

英語で日記 二〇一一年七月八日 金曜日 建物のスケッチ。Friday, July 8th, 2011 Sketch of building.

二〇一一年七月八日 金曜日 建物のスケッチ。

 晴れ。

 美術の時間は建物のスケッチでした。

Friday, July 8th, 2011 Sketch of building.

Fine.

Our art class was a sketch of the building.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月九日 土曜日 酒盛り。Saturday, July 9th, 2011 Having a drinking bout.

二〇一一年七月九日 土曜日 酒盛り。

 晴れ。

 南国市の友人の家に行って二人で酒盛りをしました。
 彼とは、高知県立高知追手前高校一年生のときに同じクラスでした。

Saturday, July 9th, 2011 Having a drinking bout.

Fine.

I went to my friend's house in Nankoku city.
And, he and I had a drinking bout.
He and I were the same class in the first grade of Kochi prefectural Kochi Outemae high-school.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十日 日曜日 戦時国債。Sunday, July 10th, 2011 War government bond.

二〇一一年七月十日 日曜日 戦時国債。

 晴れ。

 午前中は、高知市内の八十八歳の男性の所に行って、このかたが所持している戦時国債を見せてもらいました。

 午後、高知県民ホールで平和コンサートを見ました。
 妻たちも朗読劇を上演しました。

 夜は、さぬき市の自宅で『高知の戦争 証言と調査』の原稿を二本整理しました。

Sunday, July 10th, 2011 War government bond.

Fine.

I met 88-year-old man in Kochi city in the morning.
He showed me war government bond that he has.

I went to a peace concert that held in Kochikenmin hall in the afternoon.
Here, my wife and her friends performed a reading play.

I arranged two MSS. of 'War testimony and survey of Kochi' in my apartment in Sanuki city at night.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【随筆】 もしアメリカ軍が浦戸から上陸していたなら……。

 アジア太平洋戦争が一九四五年八月十五日で終わらずに、この年×月×日、アメリカ軍が高知県の浦戸から高知県に上陸していたら……。
 いま、私は、高知市の東部に住んでいますので、そのときは、この地域でどんな戦闘がおこなわれることになったのかを想像してみました。
 アメリカ軍は爆撃機、戦闘機、艦船、潜水艦、上陸用舟艇、戦車で一気に押し寄せてきたことでしょう。
 日本の海軍は、どう迎えるでしょうか。
 窪川町宮内の海軍秘隠匿(ひとく)飛行場の爆弾を抱いた練習機がアメリカ軍の艦船に体当たりしようとします。しかし、……。
 須崎や浦戸の基地の回天(人間魚雷)、御畳瀬(みませ)の基地の震洋挺(爆弾を積んだベニア板のパート)がアメリカ軍の艦船に体当しようとするでしょう。
 仁井田国民学校の講堂を兵舎にしていた呉鎮守府第十一特別陸戦隊の少年兵たちが仁井田の松林のタコツボから爆弾を持って躍り出て上陸用舟艇に体当たしようとします(この隊は、岡村虎彦さんが指揮していました)。
 同隊の噴進砲中隊は、仁井田の大平山の北のふもとの壕(ごう)に隠してあった噴進砲を出し山越えに海岸に弾を撃ちこみます。しかし、木製のランチャーは一発発射しただけで燃えてしまいます。
 東方の山の中には毒ガス弾を撃つ曲射砲部隊がいます。その部隊が山越えに海岸線を狙って撃ちます。
 毒ガス弾は、アメリカ軍だけでなく日本の兵士や住民にも被害を与えていきます。
 アメリカ軍は、高知のどこに、どんな基地があるか、航空機の偵察で知っています。いくつか、それがどういう施設かわからない物もありますが、それもふくめてつぎつぎと攻撃を加えていきます(これは、四五年八月末にアメリカ軍が印刷した『四国占領マニュアル』というべき本を読んで知りました)。
 アメリカ兵は、池の呉鎮守府第十一特別陸戦隊(いまの高知市池の高知医療センターや高知県立大学のある所)にも侵入してきます。
 しかし、海軍兵の残る武器は陶器製の手りゅう弾です(いまでも、この地域の土の中の陶器製の手りゅう弾の破片があります)。
 アメリカ兵は、山にも登っていきます。
 介良(けら)の鉢伏山(はちぶせやま。標高二一二・九メートル)の中には大勢の日本の陸軍兵がいます。コンクリート製の簡単な銃座のための壕、タコツボから陸軍兵が反撃します。戦闘壕や深く掘った交通壕に潜んでゲリラ戦を展開する陸軍兵たち(いまも、銃座の壕やタコツボの跡、交通壕の跡が残っています)。
 アメリカ軍は火焔砲を使って壕の中の陸軍兵をあぶり出します。
 高知の街は七月四日のアメリカ軍の空襲で焼かれたばかりです。高知市内だけでなく西の神田(こうだ)や西の大津村の田辺島(たべしま)も攻撃されました。
 その街を、アメリカ軍は、また、空から爆弾や焼夷弾(しょういだん)で攻撃します。
 筆山のふもとの寺の入口と出口が別の壕、比島(ひじま)の寺の境内に通じる壕などに逃げ込む住民たち。
 空爆が止んでからアメリカ軍の戦車や陸戦の兵士たちが街に入っていきます。
 日本の陸軍は、高知には戦車を配置していません。
 陸軍の兵隊たちは、爆弾を抱えてて戦車に「特攻戦法による一兵一両必砕の肉薄攻撃」をいぞみます(私の親しい元教師も、高知県で、この訓練をしていました)。
 壕から飛び出して戦車に肉薄し、機関部にガソリンを投げつけ炎上させようとする兵士もいます。
 アメリカ軍のキャタピラの後に兵士たちの死がいの山が築かれていきます。
 街の守備は、竹槍を持った女性たちが主力です。
 竹槍を構えた女性たちをアメリカ軍の戦車が押しつぶしてきます。
 ………

 これは私の眠れない夏の夜の夢です。
 私は戦後の生まれですが、のちに母となる人は、高知市に住んでいました。もし、こんなことになっていたら、私は生まれてなかったかもしれません。
 この悪夢は、「単なる夢」とだけではすまされません。
 当時の重い現実がありました。
 いくつか、「本土決戦」期の高知についての資料をあげておきます(これまでに、私のブログで紹介してきたものです)。

 ○ 高知市御畳瀬(みませ)の海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地跡

 藤原義一のブログ「短歌の花だより」から。
 「何回、高知市御畳瀬(みませ)にいったことでしょうか。
 かつての、ここにあった海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地のことを調べるためです。第八特攻戦隊第二十三突撃隊第一二七部隊です。まだ、ほんの少ししかわかっていません。
 以下、いままでわかったことの概要です。

   一九四五年五月に配置されました。
 震洋は、日本海軍が開発した特攻兵器で、秘匿名称は「㊃金物」(マルヨンかなもの)です。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約ニ百五十グラム)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸しようとしている敵艦に体当たり攻撃することが目標とされました。のちに敵艦艇の機銃増加にともない、機銃を破壊、到達するために二発のロケット弾が搭載されました。また、二人乗りのタイプもあり、こちらには機銃一、二丁が搭載され、指揮官艇として使用されました。
 御畳瀬の基地には、震洋五型が配置されました(『須崎史談』の「須崎の第二十三突撃隊(四)」。橋田庫欣=くらよし。須崎史談会。一九九二年四月二十五日)。五型艇は、全長・六・五メートル、全幅・一・八六、全高・〇・九、排水量・二・二トン、機関・トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2、馬力・百三十四HP、最高速度(特別全力)・ニ十七ノット(三十ノット)、兵装・爆装ニ百五十キログラムg、ロサ弾×2、十三ミリ機銃×1、乗員・二人です。
 部隊長・蒔田稔(まきたみのる)さん(海軍予備学生ニ)、第二艇隊長・月森隆一さん(海軍予備学生四)、第三艇隊長・三浦五郎さん(予備生徒)。搭乗員は、乙種飛行予科練習生一九期(土浦空)。編成・九州の川棚臨時魚雷艇訓練所(九次)。
 終戦時に第二十三突撃隊のつくった「兵器、舟艇、軍需品、施設目録」によると、海岸べりに艇格納の壕が七つ(十一メートル、同、七・五メートル、十メートル、十メートル、ニ十メートル、七メートル、六メートル)、発電所の壕(四メートル)が一つありました。震洋艇は、となりの浦戸基地(回天、魚雷艇)の図に六隻が描かれています。
 隊長だった蒔田さん(東京都大田区在住)は、戦後、「隊員は百八十七人、うち搭乗員は五十二人、艇は二十五隻でした」「搭乗員のほとんどは当時十八歳前後の若者でした。時々、隊を組んで浦戸湾内で訓練をしました。終戦後の八月十六日の誤った出撃待機の命令には緊張したことを覚えています。夜須町の隊員たちが戦争が終わった後で亡くなったことは今でも残念なことだと思っています」と語っています(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。「夜須町の隊員たち……」は、高知県手結の第一二八部隊の隊員たちことです。出撃準備中、爆発、百二十六人が死亡しました。
 戦後、高知市長浜に住んだ中村浩さん(旧姓・東久部良=ありくぶら)も、この基地の整備隊員でした。
 隊員たちは、寺や民家に分宿しました。炊事場に取られた民家もありました。御畳瀬町に一つあった銭湯も「海軍営」のようになっていました。民家の分宿していた隊員が柱に刀傷をつけた跡の残っている民家もあります。
 中村さんの話では、無線室、兵舎、食糧庫など七つの壕がつくられる予定でしたが、艇格納庫の一部や弾薬庫を除き建設途中で、一度も出撃することなく終戦を迎えたといいます(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。
 いまでもいくつか壕が残っています。(後略)」

 ○ 高知県仁井田の海軍の呉鎮守府第十一特別陸戦隊の噴進砲中隊

  高知県仁井田の海軍呉鎮守府第十一特別陸戦隊の噴進砲中隊に噴進砲中隊がありました。
 野村義治(のむらよしはる)さんの『若鷲(わかわし)の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』(一九九〇年十二月一日)の各隊員の手記に噴進砲中隊のことが触れられています。
 噴進砲中隊は、第十四分隊の一部の隊員たちで編成されたものでした。
 第十四分隊五班の荻野東作さんが、噴進砲中隊について書いています(『若鷲の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』)。荻野さんは、朝鮮に住んでいましたが、一九四四年六月一日、甲種飛行予科練習生として愛媛県の松山海軍航空隊に入隊、同年十一月、浦戸海軍航空隊に移っています。
 「(一九四五年に)陸戦隊編成になって、特攻隊を志願した者は訓練地へ向かった。私は噴進砲隊に編入され、班長は野村義治班長だった。(中略)居住区が医務室のある建物の南側の横穴に変更され、横の空地に陣地を作った。
 噴進砲の発射装置は木製の滑り台で、これを四十五度の角度に据(す)えつけ、砲弾を載せて、砲の横から紐(ひも)を牽(ひ)き、打ち針を作動して発射するものであった。噴進砲弾は、艦砲の二十センチの砲弾に噴進用の炸薬が取りつけられたもので、長さは約一メートル、重さは約百キログラム、射程は千メートルだったと記憶している。我々の装備は、この砲弾が四発だけだった。撃つ順番を決めたが、これは戦死する順番でもある。発射の熱で発射装置が燃えるおそれがあるから、水で消火せよと教えられた。海岸で試射を見たが、物凄(ものすご)い轟音と真っ赤な火花を吹いて、土佐の沖へと飛んでいった。その操作訓練を野村班長の指揮で実施した。井上らの身体の大きい者が二人で弾を架台に載せるのを、身体の小さい者は見ていた。
 野村班長は、
 『米軍の攻撃は激しいから、一発発射できればよい』
 と言われた。私たちは、その一発のために、夏の炎天下で訓練に励んだ。」

 ○ 参謀本部の地図に書かれた「高知方面配要図」

 手元に「高知方面配要図」という文書があります(防衛省所蔵防衛研究所所蔵)。「秘 集成五万分の一地形図高知第二号」、「昭和二十年製版」、「参謀本部」と印刷された地図に陸軍の部隊がどこにいるか(いたか)を書きこんだものです。
 次のような部隊の名前があります。

 第百五十五師団
   配属部隊
    独立山砲兵第六連隊[一大隊(一中隊欠)欠]
    独立重砲兵第五中隊(一小隊欠)
    独立臼砲[きゅうほう]第二十二大隊ノ一中隊及段列ノ一部
    迫撃第三十七大隊ノ一中隊
    特設警備第三百二十八中隊
  缺如[けつじょ]部隊
    歩兵第四百五十連隊
 第二百五師団
   配属部隊
    独立臼砲第二十五大隊の一中隊
 第十砲兵師団司令部
   配属部隊
    野戦重砲兵第十七大隊
    独立臼砲第二十五大隊
    第一工事隊(一小隊欠)
 第十一師団
   配属部隊
    独立重砲兵第五中隊ノ一小隊
    独立臼砲第二十二大隊(一中隊及段別ノ一部ノ一部欠)
    迫撃砲第十七大隊
    迫撃砲第三十七大隊(一中隊欠)

 ○ 偕一二四七五部隊

 「日本軍は[昭和]二十年[一九四九年]三月三十一日軍令陸甲第六十号により第五十五軍(偕)を編成、四月七日、軍司令官にジャワにいた原田[熊吉]を任じた。本土決戦により一挙に敗勢を挽回しようと、最後の力をふりしぼったこの部隊が編成されたのは六月十八日、参謀長に鎬木正隆が任じられ、司令部(偕一二四七五部隊)には将校五十三人、下士官、兵ら千二百人がいた。
 司令部は高知県長岡村新改におかれ、隷下に第十一師団(錦・師団長大野広一中将)、第百五十五師団(護土・師団長岩永汪中将)、第二百五師団(安芸・師団長唐川安夫中将)、第三百四十四師団(剣山・師団長横田豊一郎中将)、独立混成第百二十一旅団(菊水・旅団長横井忠道少将)がおかれ、高知県下に太平洋に向かって展開した。十一師団を除くと二十年に入って編成された急造師団であった。」、「兵たちは米軍の敵前上陸に備えてタコつぼ(ざんごう)掘りに明け暮れていた。」(『讃岐人物風景 18 男たちの青春』。四国新聞社・編。丸山学芸図書。一九七八年三月三十日)。
 この本によると、原田は、高知市八百屋町の豪商・川崎源右衛門宅に下宿し、城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)にあった司令官室に通っていたといいます。六月に本拠を高知市内から新改に移しています。

 ○ 陸軍の高知への配置

 『四国師団史』(陸上自衛隊第十三師団司令部四国師団史編さん委員会。一九七二年四月)が、当時の配置を書いています。
 高知県の足摺岬から室戸岬にわたる海岸線に第十一師団、第百五十五師団、第三百四十四師団(配属・騎兵第十一連隊、工兵第十一連隊第一中隊)が配置されました。
 徳島県沿岸には第百二十一独立混成旅団(配属・歩兵第四百五十連隊)が配置されました。
 高知県の後免[ごめん]北方高地に、上陸したアメリカ軍に攻勢を敢行する打撃部隊として第二百五師団が配置されました。
 高知平野の中核として配備についた第十一師団は、須崎湾に歩兵第十二連隊第一大隊を、仁淀川口から浦戸湾にわたる海岸線に右地区隊(歩兵第四十四連隊、配属、山砲兵第十一連隊第二中隊)を、浦戸湾から物部川にわたる海岸線に左地区隊(歩兵第四十三連隊)を、予備隊として歩兵第十二連隊主力を後免地域に配置しました。

 ○ 司令部は介良(けら)村の鉢伏山西北山ろくに

 「米軍上陸に備え、南四国に布陣したのは、第十一師団(錦)=大野広一中将=および同師団から編成された第一一五五師団(護土)=岩永汪中将、同第三四四師団(剣山)=横田豊一郎中将=があった。(中略)
 第二〇五師団(安芸)=広島五師団編成=とともに、第五十五軍を編成した。軍司令官は原田熊吉中将(四国軍管区司令官兼任)総兵力九万八千人、太平洋に向かって配置についた。ほかに軍管区部隊は二万二千二百人が北四国にあった。五十五軍は弾薬が不足し、管区隊は銃すら足りなかった。
 十一師団は須崎支隊、右地区隊(物部川-浦戸湾)左地区隊(仁淀川-浦戸湾)砲兵隊(御免後方)予備隊(同)が穴掘りに従事、地下陣地構築をあせっていた。司令部は御免南方、介良(けら)村、鉢伏山西北山ろくにあった。赤ん坊を背負った妻が、香川から汗だくで兵に面会に来た。民家の一室で本土決戦を前にはかない命を語りあったものだ。」(『明治 大正 昭和 香川県血涙史』。十河信善・編。讃岐総合印刷出版部。一九七六年十一月十五日)。

 ○ 陸軍第十一師団長だった大野廣一中将の記録

 アジア太平洋戦争終戦当時に陸軍第十一師団長だった大野廣一中将が『終戦当時第十一師団長陸軍中将 大野廣一回想録及著書と意見集 並(ならび)に生涯の体験から得た人生教訓』という本を書いています(一九七六年八月)。
 その中から、本土決戦期の陸軍兵力の高知県への配備についての箇所を抜き書きさせていただきます。
 まず、大野さんが、中国東北部の日本のかいらい政権があった満州から高知県にやってくるまでの経過です。

  <四国を郷土とする第十一師団は、ソ連軍の満州に対する進攻に備へて、満州守備軍の虎の子師団として、最後までソ連と満州との国境の防衛に残されてゐた。最も精鋭な師団であったが、内地が危険になったので、其(そ)の警備任務を混成第七十七旅団に引きつぎ、郷土防衛の為め、四月二日から満州を出発して、四梯団(ていだん)となって、遙々(はるばる)内地の四国へ輸送されることになった。
 丁度(ちょうど)其(その)輸送の途中に於(おい)て、僕は昭和二十年[一九四五年]四月七日、陸軍中将に進級すると共に、第十一師団長に親補(しんほ)せられた。(師団長は天皇陛下から親しく任命せられるから、親補職と云う。)
 其(その)当時第十一師団の各部隊は、北満州から鉄道輸送により、續々と南朝鮮の釜山港に到著(ママ)、其處(そこ)から船舶輸送により、第一、第二梯団(ていだん)は九州の博多に上陸した。所が米軍潜水艦が、対馬海峡に現らわれて危険になったから、第三、第四梯団は北朝鮮の羅針港から乗船して、北陸の敦賀港に上陸し、更に鉄道により、徳島附近へ逐次到着していた。僕は飛行機で南京を出発し、満州国の首都新京に飛んで、同地の階行社(かいこうしゃ)で、前任師団長鷹森中将より、事務の引継ぎを受け、翌日再び飛行機で朝鮮の京城を経て、大阪へ飛び、軍司令官の内山中将に申告して、四国防衛に関する軍命令を受領した。
 其(その)当時米軍の潜水艦が日本海にも現らわれ我が師団の輸送船を撃沈する虞(おそ)れがあったので、僕は非常に心配し、航海の安全を祈った。
 幸い海上輸送は無事順調に進捗(しんちょく)し、遂に最後尾の部隊まで悉(ことごと)く、何等の事故もなく、全師団の輸送が安全に完了した。>
 <始め我(わ)が師団は、主力を以て高知県の沿岸を守備するよう軍命令を以て定められてゐたから、此命令に基(もとづ)き現地を偵察して、師団の配備を計画してゐた。所が途中で軍の作戦計画が変更されて、四ケ師団より成る四国防衛軍を編成し、其(その)大部の兵力を以て高知県の南海岸を守備し、一部を以(もっ)て徳島県の沿岸を防備することになった。>
 <其(その)当時我師団の編成は、師団司令部、歩兵第十二聯隊、同第四十三聯隊、同第四十四聯隊、騎兵第十一聯隊、山砲兵第十一聯隊、工兵第十一聯隊、輜重兵(しちょうへい)第十一聯隊、衛生隊、野戦病院などより成り、各部隊は何れも皆戦時編成の最も充実した部隊で、而(しか)も其装備は最新式の最も勝(す)ぐれた兵器を一番多く持ち、将校以下大部分現役の新進気鋭の勇士に満ち、其(そ)の素質が特に優秀で、其上(そのうえ)永年ソ満国境に於て、敵を目の前に見て鍛えに鍛えた最も精鋭な部隊であった。其(その)総兵力は、約二万五千人であり、而(しか)も其(その)団結が鞏固(きょうこ)であるから、其(その)威力を発揮すると、実に恐るべき戦斗力を発揮することが出来る。
 当時四国防衛に任じた四個の師団の中、第三百四十四師団の如(ごと)きは、編成当初兵士には持たせる小銃も銃剣もなく丸腰で、水筒の代用品として竹筒を腰にぶら下げていた程であり、而(しか)も老兵で訓練も不十分であった。之等(これら)の師団と比較すると、我(わ)が第十一師団は格段の差があり、四ケの師団の中、最も精鋭な師団として軍方面は勿論(もちろん)、官民からも一番信頼されていた。>
 <四国防衛の任に当たった第五十五軍(軍司令官は原田熊吉中将)は四個師団半より成り、其(その)編成は第十一師団、第百五十五師団、第二百五師団、第三百四十四師団と独立混成第百二十一旅団より成る。
 作戦計画は、米軍が主力を以て、浦戸湾より物部川河口附近に亘(わた)る海岸地帯に上陸するものと判断し、軍は各一部を以(もっ)て久礼湾以西の土佐南岸、物部川以東の土佐南岸及(および)徳島沿岸を守備せしめ、主力を以(もっ)て須崎附近より物部川河口附近に亘(わた)る海岸地帯を防備し、敵の上陸の半途に乗じて攻勢に転じて、敵を撃滅すと云(い)う方針の下に、次の如(ごと)く配備した。
 (1) 第五百四十四師団(剣山部隊)(臨時編成師団で師団長は横田豊一郎中将)を以(もっ)て、宿毛市附近より中村市を経て久礼湾に亘(わた)る海岸を守備せしめ、
 (2) 第百五十五師団(護土部隊)(一聯隊欠)(師団長は岩永汪中将)を以(もっ)て、物部川河口より安芸市を経て佐喜湾附近に亘(わた)る海岸を守備せしめ、
 (3) 独立混成第百二十一旅団(歩兵第四百五十聯隊を附す)(旅団長横井忠道少将)を以て徳島沿岸を守備せしめ、
 (4) 第十一師団(錦部隊)(師団長大野広一中将)(現役の精鋭師団)を以(もっ)て須崎附近より浦戸湾を経て、物部川河口に亘(わた)る海岸地帯を守備せしめ、
 (5) 第二百〇五師団(師団長唐川安夫中将)の主力を軍の総豫備隊として後免北方地帯に配置し、敵の上陸の半途に乗じ、第十一師団主力と共に攻勢に転じ、敵を海岸地帯に於(おい)て撃滅する
 (6) 軍司令部は山田東北方山麓に位置する>

 <我が第十一師団の配備

    (1)、 方針
師団は各一部を以(もっ)て、須崎附近及(およ)び仁淀川河口より浦戸湾に亘(わた)る海岸を守備せしめ、主力を以(もっ)て浦戸湾より物部川に亘(わた)る間を占領し、敵の上陸の半途に乗じ、攻勢に転じ、敵を水際に近き海岸地帯に於(おい)て撃滅する
    (2)、 配備
①須崎支隊(歩兵第十二聯隊の一大隊を基幹とする)を以(もっ)て須崎附近を占領して、敵の上陸を阻止せしめる
②歩兵第四十四聯隊(聯隊坂本俊馬大佐)(山砲兵一大隊(一中欠)工兵一小隊を附す)を以(もっ)て右地区隊として、仁淀川河口附近より浦戸湾に亘(わた)る海岸地帯を占領し、
敵の上陸を阻止せしめる。
③歩兵第四十三聯隊(聯隊長多田金治大佐)を以(もっ)て、左地区隊として、浦戸湾より物部川に亘(わた)る海岸地帯を守備し、敵の上陸の半途に乗じ攻勢に転ずる如(ごと)く準備せしめる
④山砲兵第十一聯隊(聯隊長小幡実大佐)(大隊本部及二中隊欠、●●一小隊を附す)を以(もっ)て後免南方高地帯に陣地を占領し敵の上陸に対して猛火を集中して、主として左地区隊の戦斗に協力せしめ、師団主力の攻勢移転に際しては、主力を以(もっ)て浜改田附近より物部川間に火力を集中し得る如く準備せしむ
⑤歩兵第十二聯隊(聯隊長原田喜代蔵大佐)(一大隊欠)及(および)工兵第十一聯隊(聯隊長 岩本清大佐)の主力は師団豫備隊として、後免附近に位置し、敵の上陸の半途に乗じ、攻勢に転得る如く準備せしめる。
但(ただ)し工兵聯隊は別に示す所により、各部隊の陣地構築及(および)道路整備に協力せしむる。
⑥輜重兵(しちょうへい)第十一聯隊(聯隊長岩田秀雄大佐)の一大隊を以(もっ)て、仁淀川上流八田、弘岡附近を守備せしめる。●余の主力を以(もっ)て弾薬、糧食の補給の準備を整へしめる。
⑦師団司令部は後免南方鉢巻山[鉢伏山か]西北麓に位置せしめる>

 <各部隊の防禦(ぼうぎょ)工事の実施状況
右地区隊正面も左地区隊正面も共に、海岸には幅百米内外の砂地があるが、其(そ)の後方には大部分、一連の高地帯が連なっておる。
敵が土佐沿岸に強行上陸を行う時には、飛行機による爆撃と、艦隊による砲撃によって、我(わ)が防禦設備(ぼうぎょせつび)を徹底的に破壊した後、上陸部隊が舟艇に乗って陸岸に上陸すると共に、水陸両用の戦車を上陸せしめ、戦車を先頭として我が守備隊を制圧し、艦砲射撃によって掩護せられて、逐次地歩を拡大し、主力の上陸完了を待って、我軍と決戦することになるであろう。
だから我(わ)が師団としては、敵の飛行機より行う爆撃に対しても、艦隊の行う艦砲射撃に対しても、安全で決して破壊されないよう考慮して、堅固に防禦施設を作らねばならぬ。
夫(そ)れ故(ゆえ)我(わが)主抵抗陣地は、敵の艦砲射撃に暴露しないよう、前方高地にかくれた後退配備をとり、尚(な)ほ敵の爆撃に対し安全にする為(た)め、高地帯に多数のトンネルを縦横に作って、其(そ)のトンネルの内部に、兵員の起居と弾薬糧食などの貯蔵が出来るように施設し、敵方に面した出口に機関銃や速射砲、山砲などを据えつけ、銃口、砲口部だけを残して、コンクリートや鉄板で固ためた。
当時高知市にはセメント工場があったけれども、石炭不足の為(た)め、一時セメント生産を中止してゐた。僕は徳島県に貧鉱であるけれども、石炭が出る山があることを知り、わざわざ将兵を派遣して、石炭を掘って、セメント工場に與(あた)えて、セメントを生産させたから、セメントは豊富に師団の防禦工事に使用することが出来た。
機関銃や諸火砲は敵の艦砲射撃に暴露しないよう、而(しか)も斜射、側射の効果を発揮するよう射向について、特別の注意を拂(はら)ったから、万全の備へが出来た。
海岸の砂浜には少数の前進部隊の隠蔽陣地(いんぺいじんち)を作って、敵の上陸を直接妨害させるように準備し、此(この)前進部隊と主陣地とは、坑道を以て、安全に交通が出来るよう構築した。尚(な)ほ海岸地帯には無数のタコツボ陣地を作り、我軍(わがぐん)の單独兵を潜伏せしめ、敵の戦車が接近した時タコツボからおどり出て、爆弾や放火剤を以(もって)て攻撃する体当たり戦法準備を整へた。
尚(な)ほ海岸沿いの一連の高地帯に、前述の通りの無数のトンネルを縦横に掘ることは、容易な事ではない。四月下旬各部隊が、陣地配置についてから、連日連夜交代制によって、晝夜兼行の工事を續けた。トンネル工事の途中、岩盤につき当ることが屡々(しばしば)ある。岩盤は火薬を使って爆破し、又(また)トンネルの天井や側壁がくずれるから、木材で枠を組みつつ工事を進めねばならぬから、莫大な木材を要すると共に、多大の日子を費やした。>
 <民間防衛準備
 米軍が我(わが)本土に上陸して来れば、直に海岸地帯で、激烈な戦斗が始まるから、敵の上陸に先だち海岸附近の住民を疎開させねばならぬ。その第一着として、先(ま)づ子供を奥地に移し、海岸に近い学校は疎開の準備を整えた。
愈々(いよいよ)敵が上陸して来れば、只(た)だ單に軍隊だけの戦斗で片づかない。住民も直接戦禍を被むる事になるから、婦女子に至るまで、積極的に郷土防衛の戦いに参加する覚悟を定め、竹鎗訓練さへも至る所で行なわれた。>

 ○ 「対戦車肉薄訓練」

 「陣地構築と併行して対戦車肉薄訓練も行われた。それは当時の第五十五軍には戦車の装備がなく、しかも対戦車砲も、その数と性能において、米軍に対しはるかに劣っており、敵上陸戦車を撃滅する有効な方法は特攻戦法による一兵一両必砕の肉薄攻撃によるほかなかったからであった。
 また軍は、硫黄島や沖縄の戦場で、これによって成功した幾多の戦訓に基づいて兵科の別なく、全部隊にこの戦法を徹底させた。そのため将兵たちは、壕から飛び出して戦車に肉薄し、機関部にガソリンを投げつけ炎上させる火炎瓶攻撃などの猛訓練を行なった。」(『四国師団史』)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.12

英語で日記 二〇一一年七月十二日 火曜日 英語で答える練習。Tuesday, July 12th, 2011 Practiced to answer in English.

二〇一一年七月十二日 火曜日 英語で答える練習。

 晴れ。

 今夜も、英語の質問に英語で答える練習をしています。

What do you think about the following?
Fast food vs restaurant
Healthy food vs junk food.

I choose restaurant  because I can eat slowly.
I prefer healthy food because my body wants it.

Please tell me about one of your friend.

Mr.S is a boaster. And he is a cynical person. He is happy because he has a good spouse.
Ms.A is a shy person. When I discuss with her, I feel relax. It is, because she is an optimistic person. 

What are 2 hobbies you like and why do you like them?

My hobby is to write a Tanka(short poem).It is fun to express my opinion with 31 syllable.
My other hobby is to take a picture. I can get the world with a camera.

What do you think about the following?
Killing chicken for food.
Killing monkey for organ.

It is bad because chickens want to live, I think.
I think it is bad too. But, It cannot be helped because human lives are valuable.

Tuesday, July 12th, 2011 Practiced to answer in English.

Rain.

I am practicing answering the question on English in English tonight.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十一日 月曜日 徳島市に行きました。Monday, July 11th, 2011 I went to Tokushima city.

二〇一一年七月十一日 月曜日 徳島市に行きました。

 晴れ。

 徳島市に、ある男性に借りていた資料を返しにいきました。
 帰りにJR徳島駅前の書店で本を買い込みました。
 ・ 地図の読み方。
 ・ 乗用車の運転免許証の取り方。
 ・ 車中泊の旅の勧め。
 ・ 韓国旅行のガイド。

 夜は、英作文の勉強をしました。

Monday, July 11th, 2011 I went to Tokushima city.

Fine.

I went to Tokushima city.
The purpose of it is to return material to a man.
On my way home,I bought books in a bookstore in front of JR Tokushima station.
・How to consult map.
・How to take driver's license of passenger car.
・Recommendation of travels of stay in the car.
・Guide of trip to South Korea.

I studied English composition at night.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.13

浦戸海軍航空隊の少年兵だった人の言葉。「私たちは太平洋岸から上陸するアメリカの戦車に踏みつぶされ、火炎放射機で焼き殺される寸前だったのです」。

 「私たちは太平洋岸から上陸するアメリカの戦車に踏みつぶされ、火炎放射機で焼き殺される寸前だったのです」
 久保田栄三さんの『三重・浦戸海軍航空隊の最期 少年兵の終戦をまたいだ三七八日間』(文芸社。二〇一一年一月十五日)の文章です(七月十四日夜、読みました)。
 「昭和二十年四月のある日、[高知県の]浦戸海軍航空隊三千五百人が集められ、先任分隊長の講話が初めて行われました。
 それは長い話ではありませんでした。アメリカ軍が高知海岸に上陸してきた時の対策で、隊員は身をもってこれを防ぐこと、具体的には敵の戦車のキャタピラーに爆薬を突っ込むことでした。
 (中略)大尉は最後にこう申しました。
 『しかし、敵の戦車がM4型だったら、どんな爆薬を使っても、あのキャタピラーは破壊できない』
 これが講和の結語でした。」
 久保田さんたちは、五台山の頂上に近い東向きのくぼみにトンネルをほったそうです。
 八月十五日の天皇の放送を久保田さんたちは、長浜国民学校の校庭で聞いています。
 一週間ほどあとに、校庭に浦戸海軍航空隊の銃器類が集められたとも書いています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

【短歌】「セシウムの 加工牛肉 高知では 完売の報……」。

 セシウムの 加工牛肉 高知では 完売の報 うっと息飲む

 四国新聞七月十三日付によると、セシウム入り加工牛肉を高知で売っていたのは、私がときどき買い物をする高知市内のフジの「ヴェスタ桜井店」でした。

 この、セシウム牛のすね肉は、東京の卸業者→愛媛県東温市の卸業者→松山市のスーパーチェーン・フジ(六月六日に購入)→「ヴェスタ桜井店」(八・八キロ)という形で流通しています。そして、「ヴェスタ桜井店」では、細切れ肉、カレー用などとして完売しています。

 この流通過程で、どこも放射能の検査をしていなかったのに驚きました。

 高知県は、セシウムの量が少ないので問題がないといっています。

 しかし、私たちは牛肉だけを食べて暮らしているのではありません。

 ほかのものにも、セシウムなどが入っていけば知らぬ間に体内に蓄積されていきます。

 福島原発の事故以来、放射性物質をめぐる状況は一変しました。

 生産や流通の経路も複雑ですし、生産や流通の過程のどこで放射能の被害を受けるかもわからないので産地はどこであるかにかかわりなく、すべての食材は、店頭に並べる直前に検査して安全性を確かめたうえで店頭におくべきではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.14

【エッセイ】 真夏の朝の驚き 妻の才覚おそるべし……。

 ひさしぶりに高知の妻の家に帰りました。
 気が着くと家の道沿いのつくりが変わっています。
 理髪店が入っています。
 「おい、どうしたんだ。いくらで貸しているんだ」
 妻が指で示します。
 「へーっ」
 おとなりはゲームセンター、そしてバーになっています。
 二階に行くと、女性用のマッサージ室になっています。設備が百人以上あって働いているのは、みな女性です。
 おっ、もう一つ店が入っています……。
 妻は、経営にはタッチしないで店舗をかしているだけとのことです。
 こんなものをつくったので、私たちの居住区は、五分の一になっています。
 でも、五つの部屋に入れてあった私の本は無事のようです。
 「僕の知らない間に、こんなことを……。それにしてもすごい。もう一つ大学に行けそうだな」
 
 ここで、目が覚めました。
 妻の家には先週も帰ったばかり。そんなに早く工事ができるはずないか。
 そういえば、高知の家の敷地は、そんなことができるほどは広くないな。
 それに家の前はあぜ道で、そんな店が入っても経営はなりたたたないよな。
 妻がそんなもうけ仕事なんか考えるはずがないよな。「毎日がボランティア」で朝から晩まで忙しくしているのだもの。
 「ちいさな居酒屋でもやったら」という提案をしたことがあったのですが、「やらん!」で一蹴されたもんね。

 昨日は、大学の授業は四時間でした。
 アパートに帰って、「よーっし、今夜からテストの勉強を開始」と「地域史」の勉強を始めました。
 しかし、一時間でダウン。七時です。
 「ひと眠りするか」と目覚ましを十時にして寝ました。
 窓を開けていたのでアパートの田んぼのカエルたちの合唱に目をさましたりしながらも、ム、ム、ム、ム、ム、ム、ム、ム……。
 そして、いまままで、午前七時まで寝ていたのです。
 いやはや。

  そういえば、お腹がすきました。
 昨日の昼休みにカレーライスを食べたあと、何にもたべていません。
 まずは、ふろ、洗濯、そして、午前七時からやっている、うどん屋にいって……。
 きょうの授業は午後からです。
 午前中は、「地域史」の勉強の続きをすることにしましょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【エッセイ】 倭(やまと)の大王は百済(くだら)語で話していた!?

 七月十四日午前、キムヨンウンさんの『日本語の正体 倭(やまと)の大王は百済(くだら)語で話す』(三五館。二〇〇九年八月三十日)を読みました。
 おもしろい書物でした。

 ハングルを学んでいて感じるのは、朝鮮と日本は、もともとは共通の文化をもつ「くに」だったんだろうなということです。文法にも単語にも、それほどの共通性があるのです。

 この三十年ばかり、日本の天皇の支配の成立について、「かたよった」本をたくさん読んできました。
 それらをつまみ食いして私流にまとめると……。
 人口の非常に少なかった日本列島に、ものすごい数の朝鮮半島南部の人々がやってきました。
 やってきた人たちは、それまで日本列島にいた人の数倍の人数でした。
 やってきた人たちが、近畿地方に政権をつくります。
 それが天皇政権になっていきます。
 支配者たちは、日本に同化せず、朝鮮半島南部の言葉を使っていました。
 彼らは、南へ北へと従来の地域の権力、住人たちを支配するための戦争をしかけます(『古事記』を読んでいると、当時の支配者が、地方を支配するためにトリッキーで残虐な戦争くりかえしていく様子がわかります。そして、そのことをトリッキーとも残虐とも考えていなかったことをも……)。
 そうして、支配地域を広げていきました。
 『万葉集』も、それらの言葉で書かれています。漢字の羅列ですが、使われてい言葉と音は、朝鮮半島南部のものです。出身地の方言も、それぞれに反映されています。
 それまでに日本に住んでいた人々は被圧迫民のなりますが、なかなか朝鮮半島の言葉に同化されなかったようです。
 支配者側の人間が書いた『枕草子』にも、それ以前から日本列島にいた人々の言葉をなじる文章があります。
 朝鮮半島南部から来た人たちの日本列島の政権は、当初、朝鮮半島南部と密接なつながりをもっていましたが、その後、従来の日本列島の文化をも吸収しながら独自性を強め、かつての朝鮮半島南部とのつながりも忘れ去っていきます。
 ……
 しかし、ほんとうに、そうだったのだろうかという思いが残ります。
 これらの本には、あまり実証がないのです(おおくの古代史の本が、そのような傾向を持っていますが……)。実証と思われる所は、他の本をひいて、この人もこういっているからというというものが多いように思います。
 きちんと史料を組み立てて、こうした歴史の筋道をたどってみたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【短歌】 妻って、えらいい。

 「中国語 始まったから」 電話切れ 別れ住む妻 夫より学び

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.15

【歴史、地理の自習の時間】 なぜ、徳島県鳴門市にドイツ橋。

【歴史、地理の自習の時間】 なぜ、徳島県鳴門市にドイツ橋。

 徳島県鳴門市の大麻比古神社のことを調べていて、ドイツ橋がここにあることを知りました。

 データは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。

 ドイツ橋は、徳島県鳴門市大麻町の大麻山にある大麻比古神社の敷地を流れる板東谷川に架かる石橋のアーチ橋です。
 以前は木橋でしたが、この地に第一次世界大戦の捕虜として収監されたドイツ人たちによってつくられました。
 ドイツの租借地であった青島において捕虜となったドイツ兵の一部は、大麻比古神社の約2km南にあった板東俘虜収容所に収監されていました。
 大麻比古神社境内はドイツ人捕虜達の散策に利用されていた。
 彼らが帰国する際に記念として築造を提案しました。
 大正8年(1919年)4月初旬に着工し、同年6月末に完成しました。
 橋の材料は和泉砂岩で、アーチの形式はローマ式の半円形で馬蹄形の石築アーチ橋となっています。内面で180個、全体で3000個の石が使用されていて、その重さは195トンになります。
 神社の境内にはこれとは別に、ドイツ人捕虜が造成した池があり、この池にも捕虜の建造した小さな石造りの2連アーチ橋がかかっています。
 こちらには「めがね橋」という愛称が付けられており、現在も通行は可能です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【歴史、地理の自習の時間】 四国遍路といえば土佐の生まれの真念さん……。

 http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tadoru/10/

 http://www.fmkagawa.co.jp/pc/Library/yomu/seikimatu/seikimatu88.htm

 http://www.nbn.ne.jp/~club88/sinnen1.htm

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%BF%B5%E5%BA%B5

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十三日 水曜日 夕方から寝てしまいました。Wednesday, July 13th, 2011 I have been sleeping since the evening.

二〇一一年七月十三日 水曜日 夕方から寝てしまいました。

 晴れ。

 きょうから試験勉強をやる予定でした。
 しかし、午後七時から寝てしまいました。

Wednesday, July 13th, 2011 I have been sleeping since the evening.

Fine.

I planned to do exams study today.
However, I have slept since 7 p.m.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十四日 木曜日 日本語と韓国語がなぜ似ているのか。Thursday, July 14th, 2011 Why does Korean look like Japanese?

二〇一一年七月十四日 木曜日 日本語と韓国語がなぜ似ているのか。

 晴れ。

 午前中、日本語と韓国語がなぜ似ているのかをテーマにした本を読みました。
 午後、博物館実習の授業がありました。
 夜は、アパートで『高知の戦争 証言と調査』十四号の原稿を整理しました。
 そして、「地域史」の勉強をしました。
 

Thursday, July 14th, 2011 Why does Korean look like Japanese?

Fine.

I read a book that theme is why Korean looked like Japanese in the morning.
I attended a museum practice class in the afternoon.
I arranged MS. of  'War testimony and survey of Kochi'the 14th in my apartment at night.
And ,I studied "Regional history" .

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十五日 金曜日 英語の試験のための勉強。Friday, July 15th, 2011 Study for exam in English.

二〇一一年七月十五日 金曜日 英語の試験のための勉強。

 晴れ。

 美術の時間は、建物のスケッチでした。
 これは、これで二回目です。
 アパートに帰ってから午後五時頃に寝ました。
 そして、午後十時に起きました。
 そして、英語の試験勉強をしました。

Friday, July 15th, 2011 Study for exam in English.

Fine.

Our art class was a sketch of a building.
This is the second in this.
I slept at about 5 p.m. after I came back to my apartment.
I got up at 10 p.m.
And, I did a exam study of English.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十五日 金曜日 英語の試験のための勉強。

二〇一一年七月十五日 金曜日 英語の試験のための勉強。

 晴れ。

 美術の時間は、建物のスケッチでした。
 これは、これで二回目です。
 アパートに帰ってから午後五時頃に寝ました。
 そして、午後十時に起きました。
 そして、英語の試験勉強をしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.16

【ニュース】 エネ庁が原発報道監視 税金使い「不適切情報」収集 全国紙・立地県地方紙・ネットも。「しんぶん赤旗」が報道。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-07-14/2011071401_01_1.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】 「異国の丘」(一九四九年。新東宝映画)。

 七月十五日夜、DVDで映画「異国の丘」(一九四九年。新東宝映画)を見ました。

 アメリカ占領下の作品です。冒頭に、アメリカに感謝する字幕が出てくるのが悲しい。

 バイオリニストの夫は、招集されて戦地へ。終戦になっても帰って来ません。一通の便りもありません。息子にバイオリンを、娘にピアノを習わせながら夫を待つ妻。夫がシベリアにいたことがわかりました。戦友たち二人が、夫の死亡を知らせて来ます。しかし、妻は、夫が生きていることを信じて……。

 映画は、その間に、アメリカが、シベリアからの元日本兵の引き上げのために努力しているエピソードもはさみます。

 「異国の丘」の作曲者・吉田正が、元シベリアに抑留されていた傷病兵の役で出演します。「異国の丘」がうたわれます。

 

  「異国の丘」

 作詞:増田幸治/補作詞:佐伯孝夫/作曲:吉田正/編曲:坂下晃

 今日も暮れゆく異国の丘に

 友よつらかろ切なかろ

 がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ

 帰る日もくる春がくる

 今日も更けゆく異国の丘に

 夢も寒かろ冷たかろ

 泣いて笑(わ)ろうて唄ってたえりゃ

 望む日がくる朝がくる

 今日も昨日も異国の丘に

 重い雪空陽がうすい

 倒れちゃならない祖国の土に

 たどりつくまでその日まで

 しかし、残念ながら、この映画では、だれが、こんな戦争を起こしたのか、なぜ、戦争が終わったのに兵士たちが大量にソ連のシベリアに抑留されたのかのかについては、少しもわかりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十六日 土曜日 クニョ、サラン、ヒロコ。Saturday, July 16th, 2011 Kunye, Saran, and Hiroko.

二〇一一年七月十六日 土曜日 クニョ、サラン、ヒロコ。

 晴れ。

 午前中は、博物館学の自習をしました。
 午後、高知市へ向かいました。
 『高知の戦争 証言と調査』に原稿を書いていただいたかたに会いに行くためです。
 お話をお聞きして、原稿を補充させていただきました。

 ところで、高知の、わが家の二匹のメスネコのクニョとサランの関係は少し変化しました。
 彼女たちは、同じ部屋にいても、喧嘩はしなくなりました。
 彼女たちは、お互いに無視しあっています。
 家に帰ってきた妻・尋子は、一階でパソコンと格闘する私を残して、さっさと二階で寝てしまいました。

Saturday, July 16th, 2011 Kunye, Saran, and Hiroko.

Fine.

I studied a museum study by myself in the morning.

I came back to Kochi city in the afternoon.
The purpose is to meet a person who contributed 'War testimony and survey of Kochi'.
After I interviewed him,I added his MS.

By the way, a relation between Kunye and Saran(two female cats in my house of Kochi) has changed a little.
They did not fight though they were in the same room.
They are disregarding each other.
My wife Hiroko came to our house.
She went  to the second floor quickly, and slept.
I worked with my personal computer in the first floor,

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【写真】 いじけネコ・クニョ。

Photo

  七月十六日夕、高知市の、わが家の庭で撮影しました。

 クニョです。

 新参者のサランは、一階で動き回っています。

 「若いのとは付き合っていらねないわよ」

 と、いう感じて庭で静かなときを過ごしていました。

 サランは、僕がパソコン作業をしていると、いすをよじ登って邪魔しに来ます。

 お腹をさわると、腹いっぱいのようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.18

英語で日記 二〇一一年七月十七日 日曜日 マーダル(ネパールの太鼓)コンサート。Sunday, July 17th, 2011 Madaru(drum of Nepal) concert.

二〇一一年七月十七日 日曜日 マーダル(ネパールの太鼓)コンサート。

 晴れ。

 午前中は、弟と二人で高知県南国市の友人宅へ。

 午後は、高知県佐川町へ。
  マーダル(ネパールの太鼓)コンサートがありました。
  友だちが出演していました。

 夜は、『高知の戦争 証言と調査』の原稿を整理しました。

Sunday, July 17th, 2011 Madaru(drum of Nepal) concert.

Fine.

I went to my friend house in Kochi Prefecture Nankoku city with my younger brother in the morning.

I went to Kochi Prefecture Sakawa town in the afternoon.
I went to a Madaru(drum of Nepal) concert.
My friend was performing in this concert.

I arranged MS. 'War testimony and survey of Kochi' at night.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十八日 月曜日 「なでしこジャパン」がアメリカのチームに勝って優勝。Monday, July 18th, 2011 "Nadesiko Japan" won the team in the United States, and it won the championship.

二〇一一年七月十八日 月曜日 「なでしこジャパン」がアメリカのチームに勝って優勝。

 雨。

 女子サッカーの「なでしこジャパン」がアメリカに勝って優勝しました。
 やったー!!!

 台風が接近中だそうです。

 妻は、NHK総合テレビのドラマを見た後、ラジオの中国語講座で勉強。
 私は、午前八時半、五十CCのバイクで高知県香美市土佐山田町へ。インタビューのためです。

 夜は、さぬき市のアパートで試験のための勉強をしました。

Monday, July 18th, 2011 "Nadesiko Japan" won the team in the United States, and it won the championship.

Rain.

"Nadesiko Japan" of women's soccer won the team in the United States and it won the championship.
Wow、they are No.1 !!

A typhoon seems to be approaching our mainland.

After watching a drama of NHK General television, my wife is studying in a Chinese course of a radio.
I went to Kochi Prefecture Kami city Tosayamada town 8:30 a.m. by my 50CC motorcycle.
The purpose is to interview a man.

I studied in my apartment in Sanuki city for exams at night.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【短歌】 完璧な美をとらえたい。

 完璧な 美をとらえたい カメラを向ける 日々の営み

 ここから脱出しないと僕の迷路は続いていきそうです。

 たとえば老人の人生のしわが刻み込まれた写真を嬉々として撮るような僕に変身したいとも考えるのですが……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【花】 青空に踊るノウゼンカズラ。(写真、一枚)

Photo

七月十七日午後、高知県佐川町で撮影。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.19

【短歌】 「ただいまも 『ブオオオオオオオ』 風と雨……」。

Photo

 ただいまも 「ブオオオオオオオ」 風と雨 眼下の青稲 身をよじってる

 いま七月十九日午前七時、昨夜から、そしていまも、「ブオオオオオオオ」がなきやみません。
 本日は五時間授業です。うち二時間は試験です。休講になると困るのですが……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月十九日 火曜日 臨時休講。

二〇一一年七月十九日 火曜日 臨時休講。

 雨、強風。

 朝、台風六号の接近で、さぬき市の私たちの大学は臨時休講になりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【ニュース】 『高知の戦争 証言と調査』の十三号が発行できました。

七月十八日、『高知の戦争 証言と調査』十三号(二〇一一年七月十五日)が発行できました。

 執筆者のみなさん、編集のみなさん(私をふくめて三人)、印刷のみなさん(三人)。お疲れさまでした。

 いま、十四号、十五号を編集中です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.20

英語で日記 二〇一一年七月二十日 水曜日 ハングルの試験。Wednesday, July 20th, 2011 Exam of Hangul.

二〇一一年七月二十日 水曜日 ハングルの試験。

 雨。

 
 私は、午前中から午後一時まで四十幾つのハングルの文章を覚えました。
 私は、三時限目にハングルの試験を受けました。
 この試験は、四十問出ました。
 私は、合格しました。

 夜、私は、昨日から作業していた海の特攻隊員についての本の第一原稿をつくりあげました。

Wednesday, July 20th, 2011 Exam of Hangul.

Rain.

I memorized 40 sentences of Hangul from the morning to 1 p.m.
I took a exam of Hangul in the third period.
The exam questions were 40.
I passed.

I made up the first MS. of a book of the kamikaze pilot in the sea in which it had worked since yesterday at night.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.21

【エッセイ】 二回り年下の女子大学生へ。

  いま、大学は前期の試験ですね。

 六十四歳、大学四年生の僕のほうは、七月二十日はハングルの試験でした。
 先生と学生の一対一の試験でした。
 四十問出て、四問、失敗しました。
 でも、合格でした。
 前期は、これが最初の試験です。

 僕と同じ、かなり年下の大学生の、あなたの試験は、どうですか。

 僕のほうは、来週の火曜日から試験が続きます。
 でも、気分は、あまり、試験には「集中」していません。
 義父の特攻隊員としての体験を本にしようと思っています。
 十九日から作業をしています。
 二十日に第一稿ができました。

 ところで、最近、こんな、詩のようなものをつくりました。

 若い友だちで、医者に「乳がんです」といわれた女性がいます。
 ほかの所にも転移していました。
 彼女は、二年前に、「もしかして」と思って、その病院に行っていました。
 「心配ないですよ」といわれました。
 でも、彼女は、別の病院でもみてもらいました。
 「心配ないですよ」といわれました。
 しかし、………。
 
 彼女は、いま、治療中です。
 でも、放射線の治療を恐れているようです。
 「髪の毛がぬけるっていうのよ」
 彼女は、若々しい、美しい女性です。
 君の美しい髪の毛がなくなるなんて、考えてもおぞましいことです。
 でも、……。

 僕の友だち(男性の看護士)の妻は、四十代の医者です。
 最近、乳がんになりました。
 彼女は、あらゆる治療をしました。
 髪の毛は、なくなりました。
 夫が、かつらの店に連れて行って「これは、いい。これも、すごい」と宣伝しました。
 妻は、納得して、かつらを買いました。
 
 そのとき、そのときの容姿より、「生きぬいていく」ことのほうが、ずーっと大切です。
 べつに坊主でも、あなたは、きっと、「べっぴん」です。
 それは、僕が補償します。あなたの眼の輝きをみれば、それはわかります。
 
 いっしょに、いっぺん、ビールとか、飲みませんか。
 大声で、「ばぶれて」、語り合うのも、人生の「ひととき」です。
 

 僕の、すばらしい上司だった人に、Kさんという人がいました。
 あなたの親せきかもしれません。
 その人も素晴らしい人でしたが、その妻(高知市の丸の内高校の出身でした)も素敵でした。
 あるつどいで彼女と話した時、僕が「前のめりに、死にたい」というと、「そんな考えは良くない」といさめてくれました。

 「生きる」
 そのこと自体が、人、そう私たちには、重要なことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.23

英語で日記 二〇一一年七月二十一日 木曜日 地理学の本。Thursday, July 21st, 2011 A book on geography.

二〇一一年七月二十一日 木曜日 地理学の本。

 晴れ。

 地理学の本を一冊読み終えました。

Thursday, July 21st, 2011 A book on geography.

Fine.

I finished reading a book about geography.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月二十二日 金曜日 仏像についての授業。Friday, July 22nd, 2011 Class of buddhist image.

二〇一一年七月二十二日 金曜日 仏像についての授業。

 雲り。

 今日の授業は美術だけでした。
 内容は仏像についてでした。

 夜、高知に帰って『高知の戦争 証言と調査』十四号、十五号の編集作業をしました。

Friday, July 22nd, 2011 Class of buddhist image.

Cloudy.

The class that I attended was only an art today.
The content was a buddhist image.

I came back to Kochi and did a edit work of 'War testimony and survey of Kochi'No 14 and No15  at night.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月二十三日 土曜日 美容院。Saturday, July 23rd, 2011 Beauty parlor.

二〇一一年七月二十三日 土曜日 美容院。

 晴れ。

 「あんたは病院、私は美容院」
 妻は、私に、こう言い残して、美容院に行きました。
 妻は、何だかうれしそうでした。

 私は、ネコたちと遊んだあと、病院へ行きました。
 診察の結果は、良くありませんでした。

Saturday, July 23rd, 2011 Beauty parlor.

Fine.

"You will go to a hospital and I wil go to a beauty parlor. "
My wife left a message for me so, and went to a beauty parlor.
My wife was happy somehow.

I went to a hospital after I played with cats.
The result of the medical examination was not good.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.24

英語で日記 二〇一一年七月二十四日 日曜日 「あなたの買った黒毛和牛にセシウムが入っていました」 恐怖の電話。Sunday, July 24th, 2011 A terrible call !! "Domestic black-hair cattle that you had bought had the cesium"

二〇一一年七月二十四日 日曜日 「あなたの買った黒毛和牛にセシウムが入っていました」 恐怖の電話。

 晴れ。

 午後、妻に電話がかかってきました。
 高知市内の、あるスーパーマーケットの男性からです。
 「七月五日に買っていただいた黒毛和牛が宮城県産でセシウムが含まれていたことがわかりました。
 しかし、このセシウムの量では、お身体には、ご心配いりません」
 妻は、「もう胃袋のなかに入ってしまいましたから……」。
 私だったら、慰謝料を請求するところでしたが……。

 私は、七通の手紙を書きました。
 これは、『高知の戦争 証言と調査』の編集のための作業です。

Sunday, July 24th, 2011 A terrible call !!  "Domestic black-hair cattle that you had bought had the cesium"

Fine.

My wife had a call in the afternoon.
It is from a man in a certain supermarket in Kochi city.
"I speak about domestic black-hair cattle that you had bought in July 5. The meat was the one of the cow that had raised  in Miyagi prefecture. And, there was a cesium in it. However, the amount of this cesium doesn't negatively affect your body. "
I think that I surely claim compensation money to the supermarket if I were her.

I wrote seven letters.
This is work for a edit of 'War testimony and survey of Kochi'.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.25

英語で日記 二〇一一年七月二十五日 月曜日 突然、真夜中の強い雨とカミナリ。

二〇一一年七月二十五日 月曜日 突然、真夜中の強い雨とカミナリ。

 二十四日午後十時から「環境歴史学概論」の試験勉強を始めました。
 ノートを読み直していると「これは、大事なことを教えていただいていたな」という思いがわいてきます。
 しかし、暑い。
 汗を流しながらの勉強です。
 午前零時過ぎ、突然、強い雨が降りだして、カミナリが鳴り始めました。
 開け放った一階の部屋に雨が降り込みます。
 短時間で雨とカミナリは終わりました。
 でも、涼しくなりました。
 さぁ、もう少し勉強しましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【ニュース】 こうの史代さんの漫画『この世界の片隅に』 ドラマが八月五日午後九時、日本テレビで放映。楽しみです。

 七月二十三日に、こうの史代さんの漫画『この世界の片隅に』を読みました。
 アジア太平洋戦争のときの話です。

 広島市江波の漁師町の絵を描くことが好きな少女・浦野すずは、広島県の軍港・呉の高台の町の海軍で働く北條周作に嫁ぎます……。
 すずは、絵を描くことが好き。ものごとをきれいな目で見つめる、のんびりおっとりした性格です。
 周作は、呉鎮守府の軍法会議録事(事務官)。真面目な性格です。彼は、幼いころに一度だけすずに会ったことがあり、それをきっかけに彼女を見初めましたた。すずが幼なじみの水原哲に淡い想いを抱いていたことにも気づいています。
 水原哲は、小学校時代のすずの幼なじみ。海軍兵学校の生徒だった兄を海難事故で失い、小学校卒業後志願兵として海軍に入隊します。水兵として乗り組んでいた青葉の停泊中、入浴と一夜の宿を求めて北條家を訪れます……。
 作品は、当時の状況を細かく描きながら淡々としたテンポで進んでいきます。
 大声を出さずに、戦争というものの悲しさを描いていきます。

 これをテレビドラマにしたものが、八月五日午後九時から日本テレビで放映されるといいます。
 どんなふうに描くのか、描けるか、楽しみにしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

松吉千津子さん『ひと夏の少年兵 祖母のひとり語り』の中の浦戸海軍航空隊「震天隊巖部隊堀中中隊」。【一部訂正しました】

 このところ浦戸海軍航空隊についての、これまで書かれたものを読んでいます。

 七月二十五日、松吉千津子さんの『ひと夏の少年兵 祖母のひとり語り』(平和資料館・草の家。一九九九年六月十五日)を読み直しました。
 高知市池の浦戸海軍航空隊(一九四五年七月からは海軍呉鎮守府第十一特陸戦隊)の巖部隊堀中中隊ことが書かれています。

 【海軍巖部隊(大隊本部は長浜の雪渓寺)】

 その本に書かれていることを紹介する前に、この巖部隊の岩崎巖さん(海軍兵学校六十八期)が、浦戸海軍航空隊発足からのいきさつを書いていますので、その内容を紹介しておきます(『大平山』第十八号の「散りぬるを 浦戸海軍航空隊と最後の司令・堀内大佐の生涯」。三里史談会。一九九四年四月三十日)。
 岩崎さんは、三重海軍航空隊教官兼分隊長でしたが、一九四四年十一月半ば過ぎ、三重海軍航空隊甲種飛行予科練習生十五期の半分を連れて新設された浦戸海軍航空隊に転出しました。
 同隊の司令は別府明朋少将(海軍兵学校三十八期)、副長は西勉大尉(海軍兵学校六十三期)でした。岩崎さんは先任将校でした。幹部は約二百人。部隊編制は、甲種飛行予科練習生十五期約千二百人、松山海軍航空隊から転隊してきた甲種飛行予科練習生十四期約六百人、定員分隊(隊務を執行する兵員分隊)約三百人で、全部で二千人くらいでした。
 その後、松山海軍航空隊から増派された甲種飛行予科練習生十四期、昭和二十年(一九四五年)に入隊した甲種飛行予科練習生十六期などを合わせると最終的には四千人を超す大部隊になりました。
 甲種飛行予科練習生への教育は、規定通りの教科内容でしたが、昭和二十年(一九四五)年二月、司令が山田敏世大佐(海軍兵学校三十九期)になってからは砲術学校から招いた教官による陸戦訓練が主力となりました。敵の土佐湾上陸を想定し、敵戦車にたいする体当たり攻撃やタコツボ作戦、ほふく前進などが主要な訓練項目でした。
 この年五月ころには、ここの予科練部隊は事実上陸戦争隊に編制替えされ、岩崎さんも第一、第三大隊長として高知市の長浜から手結海岸一帯の隊正面の海岸の防備を担当することになりました。
 大隊長・岩崎巖大佐の名前を冠した海軍巖部隊(大隊本部は長浜の雪渓寺)にいた陣東(じんどう)俊郎さん(浦戸国民学校の隊にいました)も、当時のことを書いています(『大平山』第二十三号。三里史談会。一九九七年五月三十日)。
 「米軍上陸の際は戦車を先頭に侵攻してくるので、タコつぼを掘って棒地雷をかかえてひそみ、戦車の前面におどり出て、バットをふりおろすように棒地雷をキャタピラーの下に叩き込む訓練もあった。」

 【長浜町の松吉家に四十人の海軍兵がやってきて…】

 さて、『ひと夏の少年兵 祖母のひとり語り』の内容です。
 一九四五年四月、高知市長浜町の松吉家に町内会長の岡村久寿馬(くじま)さんが来て、兵隊たちに「おまんくの二階を貸しちゃってくれまいか」といいました。
 家の女主人は、応じました。
 その家の家族は、女主人、種崎の軍需工場に行っている息子、嫁、女学校に通う十四歳の孫でした。
 まもなく浦戸海軍航空隊の堀中中隊長が、岡村久寿馬さんと一緒にあいさつに来ました。
 二階の八畳二間、六畳二間に、四十人の浦戸海軍航空隊の甲種予科練習生がやってきました。
 甲種予科練習生は、一九四三年九月に、松坂の三重海軍航空隊に入隊して三カ月後に浦戸航空隊に移ってきた人たちでした。その中には、播州の真宗の寺の息子もいました。
 松吉家の入口の門柱いっぱいに「海軍震天隊巖部隊堀中隊本部」の白木の看板がかけられました。
 その前に三尺四方、高さ六尺余の番兵小屋が建ちました。
 銃剣を持った兵隊が、いつもそこに立っていました。二時間くらいで交代します。
 松吉家から半丁ほど西に、トタン屋根のミカン水工場だった所(六坪ほど)が空き家になっていました。そこが賄(まかな)いをする兵隊の烹炊場(ほうすいば)になりました。
 その隣の農家の納屋が、コメ、ムギ、味噌、醤油、砂糖などの食糧庫になり、その二階が、炊事兵の宿舎になりました。
 炊事兵は、召集兵で、その中には、銀行の支店長だった人、名古屋から来た料亭の主人もいました。
 ご飯どきが来たら烹炊場三、四人が食事をバケツで持って取って来ました。
 堀中中隊長には別に中隊長付の二人が交代で盆に乗せて持って来ました。
 二、三人が組になってリヤカー、車力をひっぱって食糧を買い出しに行きました。魚は浦戸、御畳瀬(みませ)へ、ナカ、カボチャ、キュウリなどは戸原や秋山へ。

 【兵隊たちの役目は壕を掘ることでした】

 兵隊たちの役目は、長浜の海岸線一帯の小山に横穴の壕を掘ることでした。
 松吉宅から北東へ五丁余り、御畳瀬と長浜の堺にある小山でした。

 【二人が伏龍特攻隊員として横須賀へ】

 六月の末、この四十人の中から特攻隊員が二人選び出されて、松吉家を出て行きました。
 二人は横須賀に行きました。伏龍(ふくりゅう)特攻隊員としての訓練をするためでした。
 吉松家のうぐに裏の山には百本の桃の木が植えてありました。
 兵隊は、この桃山のてっぺんにヤグラを組んで、八丁ほど西にある雪渓寺の大隊本部の山の上で、手旗信号やら双眼鏡で見張りすることになりました。
 七月四日のアメリカ軍機B29の高知空襲から一週間たったころ、堀中隊は松吉家を出ていきました。
 出ていった先は、御畳瀬の入口にある天満宮の前の二階家でした。
 ここもすぐに出て、隊を編制替えして浦戸の山の中、民家、自分たちで掘った山の横穴壕で住んでいたそうです。

 【八月はじめの夜の「全員配置につけ」】

 八月はじめある日の夜、かつて松吉家にいた兵隊たちは「全員配置につけ」という命令で桂浜の後ろの山に集合しました。
 「敵艦隊土佐湾に侵入」の報がはいったとのことでした。
 弾帯に実弾をこめて、いよいよ時が来たと待機しました。
 しかし、それは誤報でした。
 それからは、連日、砂浜でのきつい訓練が始まりました。
 桂浜から長浜にかけての海岸線の砂地に穴を掘り、地雷をかかえてその中に身をひそめて、上陸してくるアメリカ軍の戦車に地雷もろとも体当たりするするという肉弾訓練を朝から晩までしました。
 そのころは、浦戸の山、御畳瀬の横穴壕のある山の中に四本柱に木の皮をふいただけの掘立小屋をつくり、十畳敷きほどの床は半分に割ってうつむけに敷きつめた上で寝起きしていたといいます。

 【参考】

 伏龍 データは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 太平洋戦争末期の大日本帝国海軍による特攻兵器のひとつ。潜水具を着用し棒付き機雷を手にした兵士により、本土決戦における水際撃滅を狙った特攻兵器として、1944年に開発された。
 伏龍は海軍軍令部第二部長(戦備担当)黒島亀人少将の発案によるものといわれる。航空機による特攻作戦は既に実施されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦では九三式中間練習機まで投入され、予科練の生徒たちは乗る飛行機がなくなり余剰人員となっていた。伏龍は、これらを「有効に活用」するため考案された兵器の一つである。もとはB-29が投下した磁気機雷を掃海するために開発されていた簡易潜水具を攻撃兵器に転用したもので、実験は横須賀防備戦隊で行われた。
 本土決戦では、まず特攻機が米軍の機動部隊に体当たりし、輸送艦などが接近すれば人間魚雷回天や特攻艇震洋などの水上特攻部隊が迎撃。そして上陸用舟艇を水際で迎撃するのが伏龍という構想であった。
 伏竜利用された潜水具は、1945年3月末に海軍工作学校が僅か1ヶ月で試作された代物で、逼迫する資材と戦況に対応するため、出来うる限り既製の軍需品を用いて製作された。粗末な工作のゴム服に潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛をしこんだワラジをはいた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪く、総重量は68kgにも及んだ。2ヶ月の短期間で予科練生徒数に見合う3,000セットが調達される予定であった。
 伏龍の作戦では遊泳は考えられておらず、隊員は海底を歩いて移動することになっていた。個々の隊員は水中で方向を探る方法を持たないため、あらかじめ作戦海面の海底に縄を張っておき、これをつたいながら沖合に向かって展開する予定であった。海岸からの距離は縄の結び目の数で測られた。陸上との通信は不可能で、隣の隊員との連絡手段もなかった。海中にいったん展開すると、陣地変換はほとんど不可能であった。
 潜水缶は伏龍の最大の欠陥部分であった。これは長時間の潜水を可能にするために考案された、半循環式の酸素供給機であった。呼気に含まれる二酸化炭素を、苛性ソーダを利用した吸収缶で除去、再び吸入する方式である。吸収缶には潜水艦用のものが転用された。実験では5時間という長時間の潜水を実現し、他の潜水具に見られる呼気からの気泡を生じないという利点があった。しかし、鼻で吸気して口から排気するよう教育されていたが、実際には3、4回呼吸すると炭酸ガス中毒で失神しやすかった上、吸収缶が破れたり蛇管が外れたりして呼吸回路に海水が入ると、吸収缶の水酸化ナトリウムと海水は激しく反応し、水和熱で沸騰した強アルカリが潜水兜内に噴出し肺を焼くという、きわめて重大な欠陥があり、訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。
 海中では視界も悪く動きも鈍くなるため、上陸用舟艇に向かって移動するのは事実上不可能であった。五式撃雷(通称・棒機雷)は長い柄を持っていたが、水の抵抗のある海中では自由にこれを振り回すこともできず、当初5mも長さがあったものが2mに切り詰められた。また棒機雷の炸薬量では、舟艇を直撃しないと被害を与えることはできなかったが、数メートル離れたところを通過しても刺突することは不可能で、隊員の直上を上陸用舟艇がたまたま通りかかった場合以外に攻撃のチャンスは無かった。しかも、部隊の展開密度を上げると棒機雷が炸裂した時の爆圧で、近くの隊員まで巻き添えになるどころか次々と誘爆してしまう問題点があった。そもそも、海中での爆発による強烈な水圧は隊員に致命的なダメージをもたらすため、上陸に先立つ準備砲撃が付近の海中に落ちただけで、伏龍部隊の大部分は駆逐されてしまったであろう。兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。
 隊員の多くは、教育中止で本土決戦に向けて防空壕を掘っていた10代後半の予科練出身者であったが、緒戦で活躍した海軍陸戦隊の古兵も投入された。選抜条件には「孤独に耐えうる者」が重視され、本来なら家を継ぐべきはずの長男が多く選ばれた。伏龍部隊は鎮守府に所属し、横須賀5個大隊、呉2個大隊、佐世保2個大隊、舞鶴1個大隊が整備される予定であった。6月から横須賀対潜学校で先遣部隊要員480名への訓練が始まった。その後潜水訓練は、神奈川県横須賀鎮守府の野比海岸、広島県呉鎮守府の情島、長崎県佐世保鎮守府の川棚などで行われ、合わせて3,000人近くが訓練を受けた。
 米軍の本土上陸は9-10月との想定で、作戦は米軍の上陸作戦正面と考えられていた九十九里海岸などを想定していた。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。しかし1945年6月10日、土浦海軍航空隊で訓練中の訓練生・教官が空襲を受け、その内281名が死亡している。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.07.26

英語で日記 二〇一一年七月二十六日 火曜日 中国、韓国、日本の七夕。Tuesday, July 26th, 2011 The Star Festival of China, South Korea, and Japan.

二〇一一年七月二十六日 火曜日 中国、韓国、日本の七夕。

 晴れ。

 「英語」と「環境歴史学概論」の試験を受けました。
 
 夜は、中国、韓国、日本の七夕について調べました。
 『万葉集』の、ある長歌の七夕の説話が中国のものとは違ってきていることに気づきました。

Tuesday, July 26th, 2011 The Star Festival of China, South Korea, and Japan.

Fine.

I took exams of "English" and "Environmental history study outline".
 
I examined the Star Festival of China, South Korea, and Japan at night.
I noticed the legend of the Star Festival of a certain length song of  ' Manyoshu' was different from the one of China.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.27

【歴史、地理の自習の時間】 海なし県、長野県のJR小海線の「小海」の意味。

 きょう七月二十六日、宿題になった地理学のリポートのテーマは「湖」ということでした。
 さっそく何について書こうかと地理の本を読み始めました。

 その一つに、私が、この十数年持ち続けてきた疑問に答えてくれる文章がありました。
 JR小海線(こうみせん)の、名前と、その、いくつかの駅名についてのものでした。
 この線は、山梨県北杜市の小淵沢駅から長野県小諸市の小諸駅まで、78.9キロメートルを結ぶ鉄道路線(地方交通線)です。八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川の上流に沿って佐久盆地までを走る高原鉄道です。
 その駅名のいくつかにも「海」がついています。
 佐久海ノ口駅。 海尻駅。小海駅。海瀬駅。

 【地図1】 グーグルマップから。

Photo_3

 山梨県、長野県も海に接していない県ですが、なぜ「海」なんでしょうか。
 その本には、こう書いていました。
 「……これらの地名の『海』は、いわゆる海洋のことではなく、『湖』を指している……古代には、『海』という字は、湖を表す言葉としても使われていた。……
 事実、このJR小海線の近くには、八ヶ岳の噴火でできた湖がいくつもある。
 ……『海ノ口』や『海尻』という地名は、かつて八ヶ岳の噴火で千曲川がせき止められてできた湖底だったところ。その後、湖面が露出して平地となり、しだいに集落ができたことから、そういう地名がつけられたと伝えられる。」(おもしろ地理学会『世界で一番ふしぎな地図帳』。青春出版社。2006年10月1日)。
 やっと湖のことになりました。

   小海町商工会のホームページにも、同様のことが書かれていました。

 「海のない長野県にあるのに、なぜ『小海町』という名前なのか? 
 小海町は長野県の中部、佐久地方の南佐久郡に位置しています。
 この辺りは大昔に八ヶ岳の噴火が盛んで、噴火によってたくさんの沼や湖ができました。
 そのため海から遠い地方であるに関わらず、海ノ口、海尻、海瀬など「海」とついた地名が多く、『小海』という名前もそれが由来であるとされています。」

 では、八ヶ岳(長野県・山梨県。最高峰・赤岳=標高2899メートル )の噴火というのは、いつのことだったのでしょうか。
 八ヶ岳は、888年に北八ヶ岳の天狗岳が爆発・崩壊しました。その泥流が、丘陵地の窪地を流れる大月川せき止めた結果、大月川が氾濫し、松原湖が生成されました。また、松原湖の形成要因として火山性地震による大月川のせき止め説もあります(フリー百科事典『ウィキペディア)。

 松原湖があるのは、小海線の沿線・長野県南佐久郡小海町です。

 【地図2】 小海町観光協会のホームページ「ようころ 信州八ケ岳 松原湖高原」掲載の地図です。

Photo_2

 松原湖は、大月川泥流の氾濫原にあります。

 面積4平方メートルほどの地域に10以上の窪地に水をたたえた湖沼群があります。

 このうち、湖と呼べるのは氾濫原の北辺にある猪名湖(いなこ)と、その西にある大月湖、そして氾濫原の中央に位置する長湖(ちょうこ)の三つです。

 なお、大月湖は、発電用の貯水池としてくくられた人造池です。

 その周辺の臼児池(うすごいけ)、鶉取池(うずらとりいけ)、桷木池(ずみのきいけ)、オシデノウミなどは、植物に覆われ、わずかに開水す面を残すだけの老衰池で、その他は、沼沢あるいは湿地化していて、わずかにそのなごりをとどめるにすぎません。(下中邦彦『日本歴史地名大系第二十巻 長野県の地名』。平凡社。1979年11月25日)。

  人文社観光と旅編集部『郷土資料事典 長野県 観光と旅 県別シリーズ 20』(人文社。1989年7月1日)は「(松原湖は)大月湖を除いて、いずれも八ヶ岳火山溶岩流凹地にできた天然湖。」としています。

 標高1123メートル、周囲をうっそうたる森林におおわれた八ヶ岳の雄大な姿を湖面に浮かべる猪名湖は、古来、神の湖として神聖視されていました。

 湖畔の松原諏訪神社の御手洗の池として尊崇の対象となってきました。

 猪名湖周辺に、猪名湖を一周する散策路が整備されています。
 10月下旬から11月上旬の紅葉が美しく、天狗岳や稲子岳を望む風景が広がります。
 冬になると結氷し、御神渡(おみわたり)が生じることもあります。
 松原湖を含む大月川の水利権は中部電力が有していて、同社は2か所の水力発電所を運転しています。
 大月湖と猪名湖との標高差を利用しているのが松原発電所で、大月湖から猪名湖へと送水する過程で最大450キロワットの電力を発生します。さらに、猪名湖からは八那池(やないけ)第1発電所へと送水され、千曲川との標高差100メートルを利用して最大750キロワットの電力を発生します。八那池第一発電所は1914年に運転を開始し、いまにいたるまで発電を継続しています。
 八那池第1発電所で使用した水は千曲川に放流され、すぐ下流にある八那池取水ダムで再び取水されます。これは東京電力の取水堰で、同社の水力発電所・土村(どむら)第一発電所へと送水しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月二十七日 水曜日 「比較文学」の試験。

二〇一一年七月二十七日 水曜日 「比較文学」の試験。

 雲り。

 二時間目に「比較文学(異文化理解)」の試験を受けました。

 

  午後は、「環境歴史学概論」のリポートを書きました。

 広島県の人に電話し、彼女に、最近の、岩国のアメリカ軍の様子を聞きました。

  夜、妻に電話。いくつか来ている手紙の内容を教えてもらおうと思ったら、「(NHK総合テレビの)『ためしてガッテン』が終わってからね」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.28

【記録 戦争遺跡保存についての地方議会での質問】 高知県南国市議会本会議での村田敦子(あつこ)議員 二〇〇八年六月十三日。

○ 村田敦子

 次に、2006年2月に南国指定文化財となった戦争遺跡前浜掩体群7基の整備と保存について質問いたします。
 戦後63年、私たちは戦争を知りません。書籍やマスメディアから得られる情報でかいま見る程度であり、実体験がなく、痛みを感じることもありません。相手のことも知らず、憎んでいるわけでもないのに、国策により殺し合わなければならない戦争、国民は国の命令の前には財産も暮らしも投げ売って従わなければなりません。昔、そういうことが絵そらごとではなく、確かにあったのだということを実証し、物語ってくれているのが掩体壕です。
 昭和16年、1,500人の人が日々の暮らしを営んでいた三島村は、そこに航空基地をつくるという国の命令でいや応なく接収され、先祖代々住みなれたふるさとを涙ながらに離れ、移転先を探し、家を建てたり、かわりの田畑を求めることにも大変苦労しました。その上、村民は自分の暮らしをほうって勤労奉仕に駆り出されたのです。毎日毎日土を盛り上げ、踏み固め、その上にむしろやセメント袋を敷き、セメントを流し込み、掩体壕がつくられました。大湊小学校のすぐ北にある7号掩体の内側には、はっきりとそのときのむしろとセメント袋の跡を見ることができます。それから、前浜公民館の南西にある1号掩体には、アメリカの戦闘機グラマンによって激しい機銃掃射を受けた大小合わせて約60個の弾の痕跡があります。そのときに、田にいた浜田吉治さんが勤労奉仕の生徒たちと掩体に逃げ込んだ様子を80歳のときに語っておられる記録が「掩体物語」というブックレットに載っています。今生きておられたら108歳になられます。語り部たちが順々に亡くなられてしまいます。その方々の伝えたい戦争の悲しさ、平和の大切さを、物言わぬ掩体ですが、無言のうちに訴えています。
 10年前には、掩体壕として国内で一番に市の文化財指定をされた大分県宇佐市掩体壕の整備保存の様子を、南国市教育委員関係者5名と掩体壕を文化財に推進する会の関係者8名の総勢13名で視察に行かれました。そして、悲惨な戦争を二度と繰り返さないため、戦争遺跡を平和の提唱として後世に伝え続けようと、市民グループと行政が一体となった取り組みで戦跡公園として整備をされ、市民はもとより、宇佐市を訪れる人々に感銘を与えている様子を学んでこられました。その年の3月には、7,159人の署名も浜田市長に手渡されています。
 それから、時間はかかりましたが、平成17年3月に掩体整備検討委員会が出した答申書を、掩体保存整備に向けてのまとめを踏まえて、宇佐市と同じように市と市民が協力をして平成18年2月に前浜掩体群として市の文化財に指定され、保存、活用を図ると決められました。市長、教育長、その答申書はごらんになられたでしょうか。そのときの市長は浜田市長であり、教育長の西森教育長が前浜掩体群としてすべての掩体を指定されたことは、南国市が平和教育を重んじていることを社会全体に知らしめました。その後、橋詰市長、大野教育長に掩体群の保存整備についての引き継ぎはきちんとなされているのでしょうか。そのときに、いずれは用地を買い上げ、公園として保存活用していくという計画はどうなったのでしょうか。
 文化財として指定されるずっと以前から、掩体壕には学校の生徒も含め多くの方が見学に来られています。ブックレット「掩体物語」は、市内の小・中学校の教材としても活用され、一般の方々にも求められています。先日、6月9日には韓国の済州島にある済州大学の教授8名の一行が見学においでになられました。済州島には、太平洋戦争当時に日本軍がつくった要塞があります。飛行場跡と掩体が20基あり、それを戦争遺跡として保存したいので、前浜掩体群を参考にしようとおいでたのです。日本の学者や研究者は、国内だけでなく他の国々に日本軍がつくった掩体も調査しているそうで、外国の人々も興味を持たれ、やはり調査保存をしようとこちらに見学に来られているようです。本当に物言わぬ掩体ですが、国際交流の一環も担っています。見学者の方がふえる一方なのに、これといった調査や整備もなく、見学順路も草ぼうぼうのところさえあります。市の文化財としての位置づけがなされているのですから、見ていただく方にきちんとしたものをお見せするのが南国市としての責任ではないでしょうか。
 先日、掩体壕を文化財に推進する会からの申し入れを受けたとお聞きしましたが、どうでしょうか。特に、その中の第2回掩体コンサートが8月17日に予定されていますが、昨年も事前にRKCラジオやいわぬまラジオの取材を受け、宣伝され、多くの方々が集まりました。これは、本来なら市が主催者となり、物心両面からのバックアップが必要ではないでしょうか、お尋ねいたします。

○ 橋詰壽人市長

 そして、掩体壕のことに触れられましたが、掩体壕で前浜田市長に意見書などについて提出してあるが、この内容について目を通しておるのかと、そして引き継ぎは受けておるのかということでございました。これは確実に引き継ぎを受けてございますし、先ほどおっしゃいました意見書につきましては、再度来庁していただきまして詳しくお話も聞いておりますし、私のこれについての意見、考え方等も述べてございます。詳しいことにつきましては、生涯学習課長より答弁申し上げますので、よろしくお願いいたします。

○ 浜田清貴生涯学習課長

  村田敦子議員の掩体壕の保存のためにという御質問に答弁を申し上げます。
 掩体は飛行機の格納庫でございまして、高知空港の前身である高知海軍航空隊基地の施設といたしまして、戦時中の1944年、昭和19年に建設されたものであります。現在残っているものは、コンクリート製のものが7基で、平成18年2月に7基全部が前浜掩体群として南国市の史跡に指定をされております。
 掩体は、単なる飛行機の格納庫だけではなく、掩体がつくられるまでに戦争の準備がどのようにされ、国民はどのように動員され、どのように苦しみ、最終的にどのような結果になったかを具体的に教えてくれる場所であり、構造物であります。戦争遺跡は、過去の戦争から未来への検証の意味で重要な意義を持っておりまして、悲惨な戦争を二度と繰り返さないため、平和的教材としての教育的価値を位置づけられるものであると考えております。
 現在、その活用といたしましては、高知県で唯一の掩体でありますので、掩体群を紹介する看板を前浜公民館の駐車場に設置をいたしております。それとともに、ガイドマップを作成いたしまして、市内の児童や、また市民の方々に配布を行っております。
 見学をするコースにつきましては、前浜公民館駐車場を起点にいたしまして、徒歩によりまして順次回ることができます。このコースの農道の雑草につきましても、若干生い茂っているところもありますので、適当な時期に草刈りを行い、なお整備につきましては農道管理者とも協議をいたしまして、見学しやすい環境の整備に努めたいと思います。
 掩体の戦争遺跡の整備につきましては、何といいましても周辺の土地所有者や、また前浜地区地元の御理解をいただかないとできないことでもありますけれども、引き続き御協力をお願いすることは必要であると考えております。具体的にいつ整備するかにつきましては、予算措置も必要でありますので直ちにということは申し上げられませんけれども、大分県の宇佐市等の先進地の公園化等の整備状況等を参考にいたしまして、引き続き検討してまいりたいと考えております。
 また、掩体の形態や構造等につきましては、計測を実施いたしまして、詳細なデータを整備することで現状の記録保存に向けて取り組んでまいります。
 掩体コンサートにつきましては、後援をすることで教育委員会としてバックアップをしていきたいと考えております。

○ 村田敦子

 掩体壕のことですが、確かに掩体壕のマップを18年のときに3,000部つくっておられますが、そのマップはもうほとんどなくなっております。できれば、またそれを増刷していただきたいと思います。掩体マップはなかなか見やすくて、A3の広さの用紙をマップを畳んで持ちやすい大きさになるようになっていますが、その7基の掩体の説明がすべて写真入りで載っておりまして、それから地図も載っていますので、順次見ていくためにあのマップは有効だと思いますので、もうありませんので、できれば増刷をしていただきたいと思います。
 それと別に、申し入れの中にあったと思うのですが、以前は農協のトイレをお借りしていたのですが、現在もう農協は閉められて、売りに出されているとお聞きしたんですが、それで現在トイレがなくて、7基全部ゆっくり説明を聞きながら回ると1時間程度は十分かかります。できればトイレを構えていただきたいのですが、それも御検討いただきたいです。それはできれば早くに考えていただきたいのですが。
 それと、8月17日と、もう二月すれば掩体コンサートがあります。去年も随分話題になり、新聞にも載りました。南国市のことを全体に知らしめるためにも、その宣伝効果は大きいものがありますので、ぜひできるだけの後援をしていただきたいと思います。

  ○ 浜田清貴生涯学習課長

 掩体壕を紹介するパンフレットの増刷ということでございますが、このパンフレットにつきましては、初版以降、1度増刷をしておりまして、それが順次配布をされて、今現在また再度残り少なくなっておるということで、これも増刷をするような手配にしております。
 それから、見学者のためのトイレの設置という御要望でございますが、これまでJAのトイレを利用させていただいておったということでございますが、JA前浜支所は閉鎖をされておりまして、JAの考え方としては前浜支所は閉鎖の後、売却をされるというふうにお聞きをしております。したがいまして、建物も取り壊されるということの方向のようでございます。
 それで、見学者の方のためのトイレの設置ということにつきましては、すぐにそのトイレを単体で設置できるというふうに今現在お答えする用意がちょっとございませんが、なお検討させていただきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【記録 戦争遺跡保存についての地方議会での質問】 高知県南国市議会本会議での村田敦子(あつこ)議員 二〇〇八年九月十二日。

 ○ 村田敦子

 4番目に、掩体壕の公園化について質問いたします。
 8月17日日曜日に大湊小学校体育館で平和を願う人々が集い、掩体コンサートが開かれました。8組の方々がボランティアで参加し、演奏してくださいました。市としても後援をするということで生涯学習課長がおいでておられました。2時間半にわたりさまざまな音楽を楽しんだ後、掩体保存会会長が前浜の人々は終戦後すぐに掩体壕の中で演芸会を行いました、音楽というものは、その時代時代を反映していますと感慨深げに言われました。草の家の館長さんは、高知空襲を知らない人のほうが多くなってきました。悲惨な戦争を風化させず、忘れ去ってしまわないようにコンサートを続け、掩体を保存していきましょうと言われました。
 前回のときもそうでしたが、コンサートの前に掩体見学をしました。やはり、前浜公民館の駐車場から1号掩体に至る見学路は、草が生い茂っていました。年2回ほど業者の方に委託して前浜公民館の清掃を行うときに一緒に草刈りをしていただいているとお聞きしていますが、大体いつごろに行われているのでしょうか。
 駐車場には看板も立ててあり、市の文化財であるとわかります。それにしては管理がされていないと見学される方は思われます。いずれは公園化を予定していますが、そのときまでにも見学者はおいでます。やはり、掩体独自の周辺の清掃を含む維持管理のための予算化をするべきではないでしょうか。
 戦争体験者が少なくなり、戦争の痕跡をとどめる戦争遺跡を保存、活用して、戦争の悲惨さ、非人間性を次世代に伝える運動が全国に広がっている今、文化庁も戦争遺跡の価値を認め、8月10日に将来の国定史跡に向けて詳細調査対象の戦争遺跡50件を選定しました。市の前浜砲台跡もそれにリストアップされています。前浜掩体群は対象となっていませんが、高知県で唯一の掩体群であり、市の史跡であります。保存していくためにも詳細調査の必要がありますが、計画はされているのでしょうか、お聞きします。
 次に、2000年に保存会の方々が手づくりされたブックレット掩体物語ですが、このたびもっと中身を充実させ製本され、掩体物語として出版されました。9月7日に行われた出版祝賀会には、橋詰市長を初め大野教育長も出席されました。この冊子には、掩体群のつくられた経過、その当時の様子などがとても詳細に、正確に記録されています。多くを語らずともこれを読めば前浜掩体群の歴史、時代背景がおのずと浮かんでまいります。この後も見学においでる方に、また生徒たちの教材としても市に備え、配布されることが望ましいと思われますが、いかがでしょうか。
 7月14日、香美市と香南市で陸上自衛隊第50普通科連隊第3中隊の70人が自動小銃、銃剣を携行した約20キログラムの重装備で白昼に行軍訓練を実施しました。出会った人たちは皆驚愕してしまったということです。だれでもそうだと思います。また、7月15日、16日、22日には中国・四国地方で米軍機の超低空飛行が目撃され、徳島、愛媛、兵庫県の知事は、外務省に対し中止の要請書を提出しました。日本を戦争する国にさせないためにも、不戦のための遺跡として前浜掩体群の公園予算化を求めます。

 ○ 浜田清貴生涯学習課長

 掩体壕の公園化についてということで御質問をいただきました。答弁を申し上げます。
 掩体につきましては、高知県で唯一の掩体でありまして、貴重な戦争遺跡であり、未来への警鐘の意味でも大変重要な意義を持っており、現存している7基全部が前浜掩体群として平成18年2月に南国市史跡に指定をされており、平和を提唱する教材としての意味を持ち、活用されております。また、8月17日には掩体コンサート実行委員会を初めとする関係者の皆様方の御尽力によりまして、掩体コンサートが開催をされました。戦争のない平和な社会を訴えておられました。大変意義深いものだと考えております。
 掩体の公園整備につきましては、何といいましても周辺の土地所有者や前浜地区地元の皆様の御理解をいただかないとできないことでもありますけれども、引き続き御協力をお願いすることは必要であると考えております。公園化のためには用地費等を含めまして予算措置が必要でありますので、今直ちにということは申し上げられませんけれども、先進地の事例等も参考にしながら、引き続き継続して検討してまいります。
 見学者用の駐車場につきましては、前浜公民館駐車場を御利用していただきたいと思います。
 草刈りにつきましては、6月に一度実施しておりまして、9月にももう一度実施する予定でございます。
 御指摘の周辺の農道の未舗装部分の舗装につきましては、来年度以降に検討してまいりたいと考えております。

 ○ 村田敦子

 掩体壕のことですが、6月に草刈りをされて、次は9月にされるということですが、それは結局前浜の公民館の清掃に関連して、そのときに行われるということですが、公民館は、建物の中を使うので草が生えていても余り気にはならないんですが、掩体の見学については、やはりずうっと歩いて回っていくので危ないし、それから市の文化財としてはきちんと整備がされていないということが、やはり見学に来られた方が思うと思いますので、できれば草刈りについて、掩体の見学コースとしての独自の措置をお願いしたいと思います。
 それから、舗装されてない部分については、来年度以降に考えてくださるということですが、草刈りはできるだけ早くにしていただくように措置をしていただいて、またその舗装についてはぜひ来年以降に予算を取っていただくようにお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【記録 戦争遺跡保存についての地方議会での質問】 高知県南国市議会本会議での村田敦子(あつこ)議員 二〇〇九年六月十二日。

 ○ 村田敦子

 ことしも、5月7日に掩体整備検討委員会7名が、市庁舎で市長、教育長、生涯学習課長など5名の方々と掩体の整備、保存についての話し合いが行われ、その様子は、テレビ高知の取材でその日の夕方に放映されました。その中で、県の文化財としての指定を要請したらどうかという話がされました。考えてみますという返事でしたが、その後、検討はされたのでしょうか。また、県の文化財となった場合には、掩体の整備、保存が早まるのでしょうか、お伺いします。
 6月に入り、大分草が茂ってきましたので、7日の日に掩体群の見学路の様子を見に行ってきました。5月の話し合いのときに、前浜公民館の西側水路沿いと1号から2号までの南北の見学路は、舗装の指示が出ているので早急に行うとのお話だったので、一月たっているからと思ったのですが、草丈が70センチほどに茂っており、蛇でも出そうだなあと思いながらこわごわ通りました。昨年も、6月には30名の見学者、7月から8月にかけては80名、7月には朝日新聞の取材があり、7月22日付の新聞に、南国市指定史跡前浜掩体群として載りました。その影響なのかはわかりませんが、9月2日には読売新聞の取材があり、ことしの3月21日は、NHKの「見てみいや土佐」の取材があり、放映がされました。再放送もされたということです。見学者も、県内外から整備検討委員会が案内をしただけでも350人ほどの方が来られています。ほかにもインターネットなどで市のホームページを見られ、個人や団体でおいでておられるようです。私が様子を見に行ったときにも、歩いて見学している方と自転車で回っておられる方にお会いしました。舗装することが決まっているのですから、見学者のためにも早急にお願いします。いつになるのでしょうか、お伺いします。
 また、南海地震のことも心配されています。耐震補強のことも、それぞれの掩体の特徴を損なわないような方法を検討していただきたいのですが、どうでしょうか。
 それは、専門家でなければできないことですが、掩体の中のごみの整理や周辺の除草などは、きのうの夕刊にも載っていたのですが、緊急雇用創出事業としてできないものでしょうか、お伺いします。
 ことしも8月22日土曜日の午後5時から掩体見学をし、午後6時から掩体コンサートが行われます。市の援助、協力の一環として、8月の広報で市民にお知らせをしていただきたいと思います。去年の広報を見ますと、自衛官募集の記事は広く載っています。今、国際紛争は政治で話し合いで解決しようという世界の流れになっています。戦争は、破壊と憎しみ、苦しみ、悲しみしか残しません。憲法9条を持つ国として、目に見えるこの戦争遺跡を守り、保存することは、戦争を知らない世代に平和のとうとさを伝える生きたメッセージとなっていきます。
 掩体整備、保存のための会やコンサートのための打ち合わせなどで前浜公民館を使うことが多いのですが、かなり老朽化しています。一番困るのは、トイレがたびたび詰まることです。地域の方々、公民館使用にも支障を来します。早急にトイレの改築を図っていただきたいのですが、どうでしょうか。

 ○ 浜田清貴生涯学習課長(浜田清貴君)

 村田議員さんの前浜掩体群の整備と保護についてということにお答えをさせていただきます。
 前浜掩体群周辺の農道の舗装工事につきましては、6月中旬に入札があり、工事業者が決定をされる予定で、その後に着工される予定というふうに聞いております。
 それから、県文化財への指定の申請につきましては、事務段階でその可能性について県の文化財課のほうに今後打診をしてみたいというふうに思います。
 掩体の強度測定につきましては、平成20年度に高知高専の研究の一環として、7基のうちの一番大きい掩体1基につきまして実地測量、構造調査と一部分の簡易的な強度測定が実施をされております。残りの6基につきましても、順次測量がなされる予定というふうにお聞きをしております。
 また、強度が不足し、劣化の著しいと思われるものにつきましては、危険性の判断や補強の必要性などにつきまして専門家の御意見をお伺いすると同時に、隣接する土地所有者や住民の皆様の理解、協力もいただきながら、今後検討してまいりたいと思います。
 それから、掩体の中のごみと見られるようなものについて清掃ができないかというお尋ねでございましたが、ごみが大変ひどかったのは、以前、大湊小学校のすぐ隣の7号掩体が大変ごみがありまして、そこはその中に農道が通っておりまして、すぐに人が入りやすかったというような事情がありまして、ごみが乱雑になっておったと。それも以前に清掃いたしまして、現在は中に入れないように網をしております。その他のものにつきましては、近隣の土地所有者の皆様のものと思われます農業用資材、わらとかそういうようなものが若干入っているというふうに承知をしております。
 なお、そのようなものが乱雑な状態にならないように、今後注意をしてまいりたいというふうに思います。
 それから、掩体コンサートのお知らせ、告知でございますが、これまでと同様に、掩体を守る会のほうでチラシ、パンフレット等を以前は置いていただいておりましたので、そのようなことでお知らせをしていただいたらと思いますし、また、広報への掲載につきましては、広報委員会のほうに申請をしてみてはいかがでしょうか。そういうふうにお願いできたらというふうに思います。
 掩体の見学者の方につきまして、前浜公民館を駐車場を起点にして見学をしていただいていることが多いかと思います。トイレにつきましても、必要に応じまして、公民館のトイレを使っていただくということがあろうかと思います。トイレの保守管理につきましても、御指摘のようなパイプの詰まりなどで使用ができないというようなことのないように、十分注意をして管理を行ってまいりたいと思います。

 ○ 村田敦子

 次に、掩体群のことですが、6月中旬に入札、工事業者が決定し次第着工されるということです。もう中旬になってますので、よろしくお願いいたします。
 そして、やはり県の文化財となった場合には、整備とか保存のために県のほうからやはり補助とかがあるのでしょうか。県のほうにその指定のことを打診してみるということですが、それはぜひしていただきたいと思います。
 掩体の4号掩体は高専の生徒によって調査がされたということですが、あとの分についてはまだ着手されていません。南海地震のことも心配されていますので、専門家の意見をやっぱり聞くようにして、維持をしていくように努力をお願いいたします。
 それから、ごみの整理のことなんですが、私が見て回った中で、農家の方の道具を置かれているということですが、もうずっと放置されているようなごみのようなものもあるのですが、そういうものはその近隣の農家の方にお話を伺って、整理をすることはできないでしょうか。やはり、中もきれいにのぞきたいというか、外見だけでなく、内部なんかもちょっとやはり見たいと思われる方もおいでますので、やはりちゃんとした形のものを見ていただきたいと思います。たびたびマスメディアにも取り上げられ、市の指定史跡として紹介されているのですから、市もそのことはしっかりして、認識して、できるだけの対応をしていただきたいと思います。そして、その広報委員会のほうには、要請をしてくださいということですので、また8月号の広報に載せていただけるようにまた要請をしたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【記録 戦争遺跡保存についての地方議会での質問】 高知県南国市議会本会議での村田敦子(あつこ)議員 二〇一〇年六月十一日。

 ○ 村田敦子君

 3番目に、戦争遺跡保存についてお伺いします。
 最初は、南国市文化財前浜掩体群についてです。
 市文化財として5年目を迎え、前浜公民館の西側見学路も広く、きれいに舗装され、見学においでた方々に利用されています。最近は、戦跡ブームらしく、訪れる方が多く見受けられます。中には、公民館東側の前浜~植野線を車で走ってこられ、大きなかまぼこ形の掩体を見て何だろうと思い、車をとめて見に来られる方もおいでるということです。道路に看板をつけてくれたらいいのにと言われている言葉をよく耳にします。県内唯一の掩体壕を整備、公園化して、多くの人に訪れてもらい、市民にも活用してほしいと思うのですが、まだ着手されるめどは立っていないのでしょうか、お伺いします。
 次に、多くの戦争遺跡が示す太平洋戦争末期の南国市の位置づけと保存の必要性についてお伺いします。
 先月5月29日、30日と前浜公民館に四国4県から51名が参加し、戦争遺跡保存四国シンポジウムが行われました。初日は、南国市内の戦跡7カ所を見学しました。片山にある秋葉山で、下田川改修のため山を削り、厚さ2メートルのコンクリートでつくったトンネルを切り取った後に、まだ20メートルほど残っている姿を見ながら、山に登り、厚さ80センチのコンクリートでつくったトーチカを3つ見ました。頑丈で、いずれのトーチカにも太平洋側と飛行場側を見、銃を撃つ窓があけられていました。終戦間際のころ、何もなくなっていたときに、これだけのコンクリートを使っている事実が、本当に高知で地上戦が起ころうとしていたんだと実感させられました。アメリカ軍は、沖縄戦の後九州に上陸をする計画であり、その前に陽動作戦として高知県南岸に上陸をするということで、日本軍は、6月に南国市を中心として、物部川から浦戸湾にかけて、またその北部まで約8万人が配備されたそうです。8月15日に終戦となっていなければ、私たちの4人に1人は今の時代にいないということです。そして、今の沖縄のように占領され、基地をつくられていたのです。今、沖縄で起こっていることは、決してよそごとではありません。終戦間際に築かれた分厚いコンクリートのトーチカが、それを物語っています。平和資料館草の家研究員の福井康人さんは、これまで知られていた6基のほかに、土中ややぶに隠れた23基のトーチカを新たに発見し、分類や測量調査を続けています。そして、活用をしたいと、休みのときには小学校や中学校の子供たちと自転車で戦跡めぐりをされ、子供たちに説明をし、平和のための生きた教材とされています。そのトーチカの所属は不明で、この先どうなるのかわかりません。戦後65年を迎え、語り部たちが失われていく中で、戦争の歴史を風化させてはなりません。すべてを保存することは不可能かもしれませんが、でき得る限り、資料にも残し、保存をすることを検討してはいただけないでしょうか。

 ○ 浜田幸男生涯学習課長

 村田議員さんの戦争遺跡保存についての御質問にお答えをいたします。
 掩体の公園整備につきましては、何といいましても、地元周辺の土地所有者や地元の関係者の皆様の御理解をいただかないとできないことでもありまして、引き続き御協力をお願いしているところでございます。可能なところから整備に向けて取り組んでまいります。
 太平洋戦争末期の南国市地域の位置づけとして考えられることは、戦況が不利になりまして、本土決戦が現実的になり始めた1945年春以降、高知でも米軍の上陸に備えた準備が進められるようになり、四国防衛隊の3個師団を中心に、約12万人の兵力が配備をされ、そのうち大半、約8万人というふうにおっしゃられましたが、高知平野に展開をされました。南国市地域は、太平洋に面した立地条件のために、有力な上陸地点と考えられたため、平野部や近隣の山ろくに数多くの陣地がつくられております。御指摘のありました現在残っているトーチカや塹壕、高射砲陣地などはその痕跡であります。戦争遺跡は、戦争体験者が年々少なくなっていく中、戦争の記憶を現代に伝えてくれるものであり、戦争体験のない世代や将来を担う子供たちの平和学習の教材として有効に活用できるものであると思います。そのほとんどが民有地にあることや、また当時の急ごしらえの施設のために、現在では崩壊等危険な状態のものもあり、そのすべてを保存することは困難であります。取捨選択の上で必要な手だてを行いたいと考えております。まずは、前浜掩体群について、史跡指定を行っておりますので、その保存と整備について検討を行ってまいります。

 ○ 村田敦子君

 戦争の遺跡保存について、土地所有者がおいでますことですので、できるところから少しずつでも公園化できる状態に努力をしていっていただきたいと思います。
 それから、トーチカなんですが、民有地であり、急ごしらえで、壊れていくものが多いということですが、その失われていく前に、資料として写真を撮ったり、それからはかったり調べるということで、資料として残していっていただけないかと思います。どうかよろしくお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【記録 戦争遺跡保存についての地方議会での質問】 高知県南国市議会本会議での村田敦子(あつこ)議員 二〇一〇年九月十日。

 ○ 村田敦子君

 次の質問の前に、8月11日に掩体群保存整備検討委員会を立ち上げられ、また市長並びに関係課長、他の職員の方々が地域の方たち、地権者の方たちの気持ちを推しはかりながら用地購入へこぎつけてくださったその御尽力に対し、掩体壕を文化財に推進する会の一員としてお礼を申し上げます。
 2番目は、平和教育についてお尋ねをします。
 日本国憲法9条には、日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄するとあります。
 これと同じ趣旨で東南アジアの諸国がASEANを設立し、現在東南アジアの全10カ国が加盟しています。94年からはASEAN地域フォーラムを開始し、ASEAN10カ国と主要16カ国にEUも参加し、話し合いによる決定は全会一致、コンセンサスでとなっています。戦争の選択肢は時代おくれであり、期限切れにもなっているとの世界的な認識になってきています。
 平和教育もこの世界の流れに基づいたものとならなければならないと思われます。南国市の13小学校、4中学校における平和教育の位置づけ、履修時間数についてお尋ねします。
 南国市には、全国で48カ所ぐらい、県下では唯一の掩体群があります。市の文化財として指定をし、平和教育に活用すると市民に約束をして5年目を迎えていますが、現実には現場任せ、教師任せとなっているのではないですか。南国市南部の小学校は、毎年6年生が3学期に1日がかりで旧石器時代から太平洋戦争まで南国市の歴史を調べるフィールドワークを行っています。以前は市のバスを使えていたのですが、今はタクシー会社のバスを使用しているそうです。ある中学校も、4班ぐらいに分かれて、戦争遺跡の説明をそれぞれのガイドに聞きながら回りました。市にはガイドの手配ができないようで、先生が個人的に連絡をして来てもらったそうです。百聞は一見にしかずというように、物言わぬ掩体ですが、その姿を見て説明をしてもらうことは、この地で戦争があったことを子供たちの脳裏に焼きつけます。生きた教育です。
 教育委員会は、この大切な学習のため、南国市の各学校の生徒たち、全校の5、6年生、中学生が学べるための条件整備、バスのことやガイドの養成などを整える必要があるのではないでしょうか。それが市民に約束した平和教育に活用するということだと思うのですが、いかがでしょうか。
 また、市としても地域の人や地権者の方とのさらなる話し合いを進め、全用地の確保を迅速に行うべきではないでしょうか。今まで掩体は耕作をするのにまぎってきました。今農地を農地として取得する場合安く買えます。市に掩体の用地を買い上げてもらい、農業委員会にお世話をしていただいて代替地を購入すれば税制上の優遇措置もあると聞いています。そうして早期に全体の公園化を図ることは、子供たちの平和学習のための条件整備も整い、市外からの見学者の方にも来ていただきやすくなります。掩体を見て回った後、公民館で戦争体験者の方の話を聞くことができれば、一層戦争の実態をきちんと知ることができます。
 毎年8月に掩体コンサートをされている掩体壕を文化財に推進する会や掩体を中心にして11月にイベントをされている農地・水・環境保全向上対策の会の方々など、きちんと説明のできる体験者の方がおられます。10月にも市内の団体から学習会として掩体の案内をしてほしいという要請が、11月には小学校が午後に史跡めぐりをする予定です。一日も早く条件整備を整え、教材としての位置づけを確定することを求めます。

 ○ 正木敬造学校教育課長

 村田議員さんの御質問にお答えをいたします。
 平和教育は社会科等の教科と道徳、総合的な学習の時間等の関連を図りながら、平和集会や修学旅行での学習等、各校独自の時間を設定して取り組みを行っております。例えば大湊小学校では、総合的な学習の時間、年間の時間数で言いますと20時間から25時間の中で、校区にある掩体壕について学んでおります。掩体壕ができるまでの歴史、なぜ今まで残っているかについても学習をし、地域や掩体壕にかかわる人々と一緒に学習を行っております。
 また、戦争体験者の体験談を聞く学習につきましても、各校で地域の高齢者の方等に協力をしてもらい、現代に生きる子供たちへ受け継がれております。
 このように各学校がそれぞれ実態に応じた取り組みを行っておりますが、南国市全体としましては、6年生全児童に配付をします社会科副読本の中で掩体壕や戦争体験談の掲載、さらには夏休み子ども教室の歴史探索で戦争遺跡を訪ね、平和についての学習を行っております。
 南国市教育委員会としましては、各学校がこれらの財産を生かしながら教科、道徳の時間、総合的な学習の時間を中心に児童・生徒の実態に応じたそういった取り組みができるよう支援をしていきたいと、このように考えております。

 ○ 村田敦子

 掩体壕の戦争遺跡の活用について、大湊小学校では20ないし25時間の掩体壕の学習に時間を割いているということですが、校舎のすぐ北側にある掩体壕ですので、それはいつも目に入るし、やはりよくそのことを知っていなければならないということで、その時間をとっていると思います。
 最初に申し上げたように、掩体は県下で唯一の本当に生きた教材です。市内の他の小学校、中学校の方々にもやはりその履修をしていただくように教育委員会がやはり指導をしていただくことは必要なことではないかと思います。
 また、6年生に夏休み探訪でそういう遺跡のめぐることとかしていると言われましたが、それはやはり希望者だけではないでしょうか。やはりせっかくある遺跡であり、市の指定文化財ですので、ぜひきちんと系統立てて授業の中で生かせていただきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月二十八日 木曜日 ウエスト百センチメートルのGパン。

二〇一一年七月二十八日 木曜日 ウエスト百センチメートルのGパン。

 晴れ。

 午後から大学の図書館で「美術」、「地誌」の試験勉強をしました。

 夕方、洋服の店に行ってズボンを物色しました。
 ウエスト百センチメートルのGパンがあったので買いました。
 しかし、せめてウエストを八十センチにしたいですね。

 夜は、アパートで戦争遺跡の調査のためのに電話をし、メールや手紙を書きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【エッセイ】 ある少年が見ていた高知市十津の本土決戦。

 高知市の三里史談会の『大平山』第二十号(一九九五年十一月二十二日)に栗田健雄さんの「私の十津(敗戦前後の古十津)」が書いています。
 栗田さんは、海軍砲術学校入校時の身体検査で不合格になり、自宅待機を命じられました。
 そして、高知市十津で一九四五年四月から四七年一月まで生活します。
 四五年四月からというのは、ちょうど、本土決戦体制のときです。
 近くに浦戸海軍航空隊がありました。
 栗田さんの原稿は、この地域での軍事状況、戦後のアメリカ軍が、この地域でやったことを冷静に描いていきます。
 「ああ、もっと早く、これを読んでいたら」と思わせる原稿です。
 高知の本土決戦期のことを調べている人におすすめです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.29

英語で日記 二〇一一年七月二十九日 金曜日 桜並木のミンミンゼミたち。Friday, July 29th, 2011 Robust cicadas of a row of cherry blossoms.

二〇一一年七月二十九日 金曜日 桜並木のミンミンゼミたち。

 晴れ。

 三時間目に「美術」の試験を受けました。
 帰りに、空がきれいに晴れあがっているのに気づきました。
 桜並木のセミがミンミンとないているのに気づきました。

Friday, July 29th, 2011 Robust cicadas of a row of cherry blossoms.

Fine.

I took exam of "Art" in the third period.

I noticed cleared up the sky beautifully on my way home from university.
I noticed the chirp of robust cicadas on the row of cherry blossoms.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.31

英語で日記 二〇一一年七月三十日 土曜日 第五十七回日本母親大会へ高知県下から四百五十人。【写真二枚】

二〇一一年七月三十日 土曜日 第五十七回日本母親大会へ高知県下から四百五十人。

 晴れ。

 早朝から貸し切りバスで広島市で開催される日本母親大会へ。
 高知県下から四百五十人が十三台の貸し切りバスで参加しました。
 高校のときの友人、大学のときの友人も参加していました。

Photo

 高知の三枚のタペストリー

Photo_2

 水色の紙を振る四国四県からの参加者

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英語で日記 二〇一一年七月三十一日 日曜日 「メディアを国民の声を反映したものに」。Sunday, July 31th, 2011 " Make media reflected people's voice. "

二〇一一年七月三十一日 日曜日 「メディアを国民の声を反映したものに」。

 晴れ、のち雨。

 第五十七回日本母親大会の分科会が開かれました。
 私は、「メディアを国民の声を反映したものに」の分科会に出席しました。

Sunday, July 31th, 2011  " Make media reflected people's voice.  "

Rain after fine.

The subcommittee meeting of the 57th Japanese mother rally was held.
I attended the subcommittee meeting of " Make media reflected people's voice.".

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »