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2011.07.11

【随筆】 もしアメリカ軍が浦戸から上陸していたなら……。

 アジア太平洋戦争が一九四五年八月十五日で終わらずに、この年×月×日、アメリカ軍が高知県の浦戸から高知県に上陸していたら……。
 いま、私は、高知市の東部に住んでいますので、そのときは、この地域でどんな戦闘がおこなわれることになったのかを想像してみました。
 アメリカ軍は爆撃機、戦闘機、艦船、潜水艦、上陸用舟艇、戦車で一気に押し寄せてきたことでしょう。
 日本の海軍は、どう迎えるでしょうか。
 窪川町宮内の海軍秘隠匿(ひとく)飛行場の爆弾を抱いた練習機がアメリカ軍の艦船に体当たりしようとします。しかし、……。
 須崎や浦戸の基地の回天(人間魚雷)、御畳瀬(みませ)の基地の震洋挺(爆弾を積んだベニア板のパート)がアメリカ軍の艦船に体当しようとするでしょう。
 仁井田国民学校の講堂を兵舎にしていた呉鎮守府第十一特別陸戦隊の少年兵たちが仁井田の松林のタコツボから爆弾を持って躍り出て上陸用舟艇に体当たしようとします(この隊は、岡村虎彦さんが指揮していました)。
 同隊の噴進砲中隊は、仁井田の大平山の北のふもとの壕(ごう)に隠してあった噴進砲を出し山越えに海岸に弾を撃ちこみます。しかし、木製のランチャーは一発発射しただけで燃えてしまいます。
 東方の山の中には毒ガス弾を撃つ曲射砲部隊がいます。その部隊が山越えに海岸線を狙って撃ちます。
 毒ガス弾は、アメリカ軍だけでなく日本の兵士や住民にも被害を与えていきます。
 アメリカ軍は、高知のどこに、どんな基地があるか、航空機の偵察で知っています。いくつか、それがどういう施設かわからない物もありますが、それもふくめてつぎつぎと攻撃を加えていきます(これは、四五年八月末にアメリカ軍が印刷した『四国占領マニュアル』というべき本を読んで知りました)。
 アメリカ兵は、池の呉鎮守府第十一特別陸戦隊(いまの高知市池の高知医療センターや高知県立大学のある所)にも侵入してきます。
 しかし、海軍兵の残る武器は陶器製の手りゅう弾です(いまでも、この地域の土の中の陶器製の手りゅう弾の破片があります)。
 アメリカ兵は、山にも登っていきます。
 介良(けら)の鉢伏山(はちぶせやま。標高二一二・九メートル)の中には大勢の日本の陸軍兵がいます。コンクリート製の簡単な銃座のための壕、タコツボから陸軍兵が反撃します。戦闘壕や深く掘った交通壕に潜んでゲリラ戦を展開する陸軍兵たち(いまも、銃座の壕やタコツボの跡、交通壕の跡が残っています)。
 アメリカ軍は火焔砲を使って壕の中の陸軍兵をあぶり出します。
 高知の街は七月四日のアメリカ軍の空襲で焼かれたばかりです。高知市内だけでなく西の神田(こうだ)や西の大津村の田辺島(たべしま)も攻撃されました。
 その街を、アメリカ軍は、また、空から爆弾や焼夷弾(しょういだん)で攻撃します。
 筆山のふもとの寺の入口と出口が別の壕、比島(ひじま)の寺の境内に通じる壕などに逃げ込む住民たち。
 空爆が止んでからアメリカ軍の戦車や陸戦の兵士たちが街に入っていきます。
 日本の陸軍は、高知には戦車を配置していません。
 陸軍の兵隊たちは、爆弾を抱えてて戦車に「特攻戦法による一兵一両必砕の肉薄攻撃」をいぞみます(私の親しい元教師も、高知県で、この訓練をしていました)。
 壕から飛び出して戦車に肉薄し、機関部にガソリンを投げつけ炎上させようとする兵士もいます。
 アメリカ軍のキャタピラの後に兵士たちの死がいの山が築かれていきます。
 街の守備は、竹槍を持った女性たちが主力です。
 竹槍を構えた女性たちをアメリカ軍の戦車が押しつぶしてきます。
 ………

 これは私の眠れない夏の夜の夢です。
 私は戦後の生まれですが、のちに母となる人は、高知市に住んでいました。もし、こんなことになっていたら、私は生まれてなかったかもしれません。
 この悪夢は、「単なる夢」とだけではすまされません。
 当時の重い現実がありました。
 いくつか、「本土決戦」期の高知についての資料をあげておきます(これまでに、私のブログで紹介してきたものです)。

 ○ 高知市御畳瀬(みませ)の海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地跡

 藤原義一のブログ「短歌の花だより」から。
 「何回、高知市御畳瀬(みませ)にいったことでしょうか。
 かつての、ここにあった海軍特別攻撃隊の震洋(しんよう)の基地のことを調べるためです。第八特攻戦隊第二十三突撃隊第一二七部隊です。まだ、ほんの少ししかわかっていません。
 以下、いままでわかったことの概要です。

   一九四五年五月に配置されました。
 震洋は、日本海軍が開発した特攻兵器で、秘匿名称は「㊃金物」(マルヨンかなもの)です。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約ニ百五十グラム)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸しようとしている敵艦に体当たり攻撃することが目標とされました。のちに敵艦艇の機銃増加にともない、機銃を破壊、到達するために二発のロケット弾が搭載されました。また、二人乗りのタイプもあり、こちらには機銃一、二丁が搭載され、指揮官艇として使用されました。
 御畳瀬の基地には、震洋五型が配置されました(『須崎史談』の「須崎の第二十三突撃隊(四)」。橋田庫欣=くらよし。須崎史談会。一九九二年四月二十五日)。五型艇は、全長・六・五メートル、全幅・一・八六、全高・〇・九、排水量・二・二トン、機関・トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2、馬力・百三十四HP、最高速度(特別全力)・ニ十七ノット(三十ノット)、兵装・爆装ニ百五十キログラムg、ロサ弾×2、十三ミリ機銃×1、乗員・二人です。
 部隊長・蒔田稔(まきたみのる)さん(海軍予備学生ニ)、第二艇隊長・月森隆一さん(海軍予備学生四)、第三艇隊長・三浦五郎さん(予備生徒)。搭乗員は、乙種飛行予科練習生一九期(土浦空)。編成・九州の川棚臨時魚雷艇訓練所(九次)。
 終戦時に第二十三突撃隊のつくった「兵器、舟艇、軍需品、施設目録」によると、海岸べりに艇格納の壕が七つ(十一メートル、同、七・五メートル、十メートル、十メートル、ニ十メートル、七メートル、六メートル)、発電所の壕(四メートル)が一つありました。震洋艇は、となりの浦戸基地(回天、魚雷艇)の図に六隻が描かれています。
 隊長だった蒔田さん(東京都大田区在住)は、戦後、「隊員は百八十七人、うち搭乗員は五十二人、艇は二十五隻でした」「搭乗員のほとんどは当時十八歳前後の若者でした。時々、隊を組んで浦戸湾内で訓練をしました。終戦後の八月十六日の誤った出撃待機の命令には緊張したことを覚えています。夜須町の隊員たちが戦争が終わった後で亡くなったことは今でも残念なことだと思っています」と語っています(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。「夜須町の隊員たち……」は、高知県手結の第一二八部隊の隊員たちことです。出撃準備中、爆発、百二十六人が死亡しました。
 戦後、高知市長浜に住んだ中村浩さん(旧姓・東久部良=ありくぶら)も、この基地の整備隊員でした。
 隊員たちは、寺や民家に分宿しました。炊事場に取られた民家もありました。御畳瀬町に一つあった銭湯も「海軍営」のようになっていました。民家の分宿していた隊員が柱に刀傷をつけた跡の残っている民家もあります。
 中村さんの話では、無線室、兵舎、食糧庫など七つの壕がつくられる予定でしたが、艇格納庫の一部や弾薬庫を除き建設途中で、一度も出撃することなく終戦を迎えたといいます(高知市広報「あかるいまち」。高知市秘書広報課。一九九一年八月号)。
 いまでもいくつか壕が残っています。(後略)」

 ○ 高知県仁井田の海軍の呉鎮守府第十一特別陸戦隊の噴進砲中隊

  高知県仁井田の海軍呉鎮守府第十一特別陸戦隊の噴進砲中隊に噴進砲中隊がありました。
 野村義治(のむらよしはる)さんの『若鷲(わかわし)の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』(一九九〇年十二月一日)の各隊員の手記に噴進砲中隊のことが触れられています。
 噴進砲中隊は、第十四分隊の一部の隊員たちで編成されたものでした。
 第十四分隊五班の荻野東作さんが、噴進砲中隊について書いています(『若鷲の歌 元 浦戸海軍航空隊 第十四分隊』)。荻野さんは、朝鮮に住んでいましたが、一九四四年六月一日、甲種飛行予科練習生として愛媛県の松山海軍航空隊に入隊、同年十一月、浦戸海軍航空隊に移っています。
 「(一九四五年に)陸戦隊編成になって、特攻隊を志願した者は訓練地へ向かった。私は噴進砲隊に編入され、班長は野村義治班長だった。(中略)居住区が医務室のある建物の南側の横穴に変更され、横の空地に陣地を作った。
 噴進砲の発射装置は木製の滑り台で、これを四十五度の角度に据(す)えつけ、砲弾を載せて、砲の横から紐(ひも)を牽(ひ)き、打ち針を作動して発射するものであった。噴進砲弾は、艦砲の二十センチの砲弾に噴進用の炸薬が取りつけられたもので、長さは約一メートル、重さは約百キログラム、射程は千メートルだったと記憶している。我々の装備は、この砲弾が四発だけだった。撃つ順番を決めたが、これは戦死する順番でもある。発射の熱で発射装置が燃えるおそれがあるから、水で消火せよと教えられた。海岸で試射を見たが、物凄(ものすご)い轟音と真っ赤な火花を吹いて、土佐の沖へと飛んでいった。その操作訓練を野村班長の指揮で実施した。井上らの身体の大きい者が二人で弾を架台に載せるのを、身体の小さい者は見ていた。
 野村班長は、
 『米軍の攻撃は激しいから、一発発射できればよい』
 と言われた。私たちは、その一発のために、夏の炎天下で訓練に励んだ。」

 ○ 参謀本部の地図に書かれた「高知方面配要図」

 手元に「高知方面配要図」という文書があります(防衛省所蔵防衛研究所所蔵)。「秘 集成五万分の一地形図高知第二号」、「昭和二十年製版」、「参謀本部」と印刷された地図に陸軍の部隊がどこにいるか(いたか)を書きこんだものです。
 次のような部隊の名前があります。

 第百五十五師団
   配属部隊
    独立山砲兵第六連隊[一大隊(一中隊欠)欠]
    独立重砲兵第五中隊(一小隊欠)
    独立臼砲[きゅうほう]第二十二大隊ノ一中隊及段列ノ一部
    迫撃第三十七大隊ノ一中隊
    特設警備第三百二十八中隊
  缺如[けつじょ]部隊
    歩兵第四百五十連隊
 第二百五師団
   配属部隊
    独立臼砲第二十五大隊の一中隊
 第十砲兵師団司令部
   配属部隊
    野戦重砲兵第十七大隊
    独立臼砲第二十五大隊
    第一工事隊(一小隊欠)
 第十一師団
   配属部隊
    独立重砲兵第五中隊ノ一小隊
    独立臼砲第二十二大隊(一中隊及段別ノ一部ノ一部欠)
    迫撃砲第十七大隊
    迫撃砲第三十七大隊(一中隊欠)

 ○ 偕一二四七五部隊

 「日本軍は[昭和]二十年[一九四九年]三月三十一日軍令陸甲第六十号により第五十五軍(偕)を編成、四月七日、軍司令官にジャワにいた原田[熊吉]を任じた。本土決戦により一挙に敗勢を挽回しようと、最後の力をふりしぼったこの部隊が編成されたのは六月十八日、参謀長に鎬木正隆が任じられ、司令部(偕一二四七五部隊)には将校五十三人、下士官、兵ら千二百人がいた。
 司令部は高知県長岡村新改におかれ、隷下に第十一師団(錦・師団長大野広一中将)、第百五十五師団(護土・師団長岩永汪中将)、第二百五師団(安芸・師団長唐川安夫中将)、第三百四十四師団(剣山・師団長横田豊一郎中将)、独立混成第百二十一旅団(菊水・旅団長横井忠道少将)がおかれ、高知県下に太平洋に向かって展開した。十一師団を除くと二十年に入って編成された急造師団であった。」、「兵たちは米軍の敵前上陸に備えてタコつぼ(ざんごう)掘りに明け暮れていた。」(『讃岐人物風景 18 男たちの青春』。四国新聞社・編。丸山学芸図書。一九七八年三月三十日)。
 この本によると、原田は、高知市八百屋町の豪商・川崎源右衛門宅に下宿し、城東中学校(いまの高知県立高知追手前高校)にあった司令官室に通っていたといいます。六月に本拠を高知市内から新改に移しています。

 ○ 陸軍の高知への配置

 『四国師団史』(陸上自衛隊第十三師団司令部四国師団史編さん委員会。一九七二年四月)が、当時の配置を書いています。
 高知県の足摺岬から室戸岬にわたる海岸線に第十一師団、第百五十五師団、第三百四十四師団(配属・騎兵第十一連隊、工兵第十一連隊第一中隊)が配置されました。
 徳島県沿岸には第百二十一独立混成旅団(配属・歩兵第四百五十連隊)が配置されました。
 高知県の後免[ごめん]北方高地に、上陸したアメリカ軍に攻勢を敢行する打撃部隊として第二百五師団が配置されました。
 高知平野の中核として配備についた第十一師団は、須崎湾に歩兵第十二連隊第一大隊を、仁淀川口から浦戸湾にわたる海岸線に右地区隊(歩兵第四十四連隊、配属、山砲兵第十一連隊第二中隊)を、浦戸湾から物部川にわたる海岸線に左地区隊(歩兵第四十三連隊)を、予備隊として歩兵第十二連隊主力を後免地域に配置しました。

 ○ 司令部は介良(けら)村の鉢伏山西北山ろくに

 「米軍上陸に備え、南四国に布陣したのは、第十一師団(錦)=大野広一中将=および同師団から編成された第一一五五師団(護土)=岩永汪中将、同第三四四師団(剣山)=横田豊一郎中将=があった。(中略)
 第二〇五師団(安芸)=広島五師団編成=とともに、第五十五軍を編成した。軍司令官は原田熊吉中将(四国軍管区司令官兼任)総兵力九万八千人、太平洋に向かって配置についた。ほかに軍管区部隊は二万二千二百人が北四国にあった。五十五軍は弾薬が不足し、管区隊は銃すら足りなかった。
 十一師団は須崎支隊、右地区隊(物部川-浦戸湾)左地区隊(仁淀川-浦戸湾)砲兵隊(御免後方)予備隊(同)が穴掘りに従事、地下陣地構築をあせっていた。司令部は御免南方、介良(けら)村、鉢伏山西北山ろくにあった。赤ん坊を背負った妻が、香川から汗だくで兵に面会に来た。民家の一室で本土決戦を前にはかない命を語りあったものだ。」(『明治 大正 昭和 香川県血涙史』。十河信善・編。讃岐総合印刷出版部。一九七六年十一月十五日)。

 ○ 陸軍第十一師団長だった大野廣一中将の記録

 アジア太平洋戦争終戦当時に陸軍第十一師団長だった大野廣一中将が『終戦当時第十一師団長陸軍中将 大野廣一回想録及著書と意見集 並(ならび)に生涯の体験から得た人生教訓』という本を書いています(一九七六年八月)。
 その中から、本土決戦期の陸軍兵力の高知県への配備についての箇所を抜き書きさせていただきます。
 まず、大野さんが、中国東北部の日本のかいらい政権があった満州から高知県にやってくるまでの経過です。

  <四国を郷土とする第十一師団は、ソ連軍の満州に対する進攻に備へて、満州守備軍の虎の子師団として、最後までソ連と満州との国境の防衛に残されてゐた。最も精鋭な師団であったが、内地が危険になったので、其(そ)の警備任務を混成第七十七旅団に引きつぎ、郷土防衛の為め、四月二日から満州を出発して、四梯団(ていだん)となって、遙々(はるばる)内地の四国へ輸送されることになった。
 丁度(ちょうど)其(その)輸送の途中に於(おい)て、僕は昭和二十年[一九四五年]四月七日、陸軍中将に進級すると共に、第十一師団長に親補(しんほ)せられた。(師団長は天皇陛下から親しく任命せられるから、親補職と云う。)
 其(その)当時第十一師団の各部隊は、北満州から鉄道輸送により、續々と南朝鮮の釜山港に到著(ママ)、其處(そこ)から船舶輸送により、第一、第二梯団(ていだん)は九州の博多に上陸した。所が米軍潜水艦が、対馬海峡に現らわれて危険になったから、第三、第四梯団は北朝鮮の羅針港から乗船して、北陸の敦賀港に上陸し、更に鉄道により、徳島附近へ逐次到着していた。僕は飛行機で南京を出発し、満州国の首都新京に飛んで、同地の階行社(かいこうしゃ)で、前任師団長鷹森中将より、事務の引継ぎを受け、翌日再び飛行機で朝鮮の京城を経て、大阪へ飛び、軍司令官の内山中将に申告して、四国防衛に関する軍命令を受領した。
 其(その)当時米軍の潜水艦が日本海にも現らわれ我が師団の輸送船を撃沈する虞(おそ)れがあったので、僕は非常に心配し、航海の安全を祈った。
 幸い海上輸送は無事順調に進捗(しんちょく)し、遂に最後尾の部隊まで悉(ことごと)く、何等の事故もなく、全師団の輸送が安全に完了した。>
 <始め我(わ)が師団は、主力を以て高知県の沿岸を守備するよう軍命令を以て定められてゐたから、此命令に基(もとづ)き現地を偵察して、師団の配備を計画してゐた。所が途中で軍の作戦計画が変更されて、四ケ師団より成る四国防衛軍を編成し、其(その)大部の兵力を以て高知県の南海岸を守備し、一部を以(もっ)て徳島県の沿岸を防備することになった。>
 <其(その)当時我師団の編成は、師団司令部、歩兵第十二聯隊、同第四十三聯隊、同第四十四聯隊、騎兵第十一聯隊、山砲兵第十一聯隊、工兵第十一聯隊、輜重兵(しちょうへい)第十一聯隊、衛生隊、野戦病院などより成り、各部隊は何れも皆戦時編成の最も充実した部隊で、而(しか)も其装備は最新式の最も勝(す)ぐれた兵器を一番多く持ち、将校以下大部分現役の新進気鋭の勇士に満ち、其(そ)の素質が特に優秀で、其上(そのうえ)永年ソ満国境に於て、敵を目の前に見て鍛えに鍛えた最も精鋭な部隊であった。其(その)総兵力は、約二万五千人であり、而(しか)も其(その)団結が鞏固(きょうこ)であるから、其(その)威力を発揮すると、実に恐るべき戦斗力を発揮することが出来る。
 当時四国防衛に任じた四個の師団の中、第三百四十四師団の如(ごと)きは、編成当初兵士には持たせる小銃も銃剣もなく丸腰で、水筒の代用品として竹筒を腰にぶら下げていた程であり、而(しか)も老兵で訓練も不十分であった。之等(これら)の師団と比較すると、我(わ)が第十一師団は格段の差があり、四ケの師団の中、最も精鋭な師団として軍方面は勿論(もちろん)、官民からも一番信頼されていた。>
 <四国防衛の任に当たった第五十五軍(軍司令官は原田熊吉中将)は四個師団半より成り、其(その)編成は第十一師団、第百五十五師団、第二百五師団、第三百四十四師団と独立混成第百二十一旅団より成る。
 作戦計画は、米軍が主力を以て、浦戸湾より物部川河口附近に亘(わた)る海岸地帯に上陸するものと判断し、軍は各一部を以(もっ)て久礼湾以西の土佐南岸、物部川以東の土佐南岸及(および)徳島沿岸を守備せしめ、主力を以(もっ)て須崎附近より物部川河口附近に亘(わた)る海岸地帯を防備し、敵の上陸の半途に乗じて攻勢に転じて、敵を撃滅すと云(い)う方針の下に、次の如(ごと)く配備した。
 (1) 第五百四十四師団(剣山部隊)(臨時編成師団で師団長は横田豊一郎中将)を以(もっ)て、宿毛市附近より中村市を経て久礼湾に亘(わた)る海岸を守備せしめ、
 (2) 第百五十五師団(護土部隊)(一聯隊欠)(師団長は岩永汪中将)を以(もっ)て、物部川河口より安芸市を経て佐喜湾附近に亘(わた)る海岸を守備せしめ、
 (3) 独立混成第百二十一旅団(歩兵第四百五十聯隊を附す)(旅団長横井忠道少将)を以て徳島沿岸を守備せしめ、
 (4) 第十一師団(錦部隊)(師団長大野広一中将)(現役の精鋭師団)を以(もっ)て須崎附近より浦戸湾を経て、物部川河口に亘(わた)る海岸地帯を守備せしめ、
 (5) 第二百〇五師団(師団長唐川安夫中将)の主力を軍の総豫備隊として後免北方地帯に配置し、敵の上陸の半途に乗じ、第十一師団主力と共に攻勢に転じ、敵を海岸地帯に於(おい)て撃滅する
 (6) 軍司令部は山田東北方山麓に位置する>

 <我が第十一師団の配備

    (1)、 方針
師団は各一部を以(もっ)て、須崎附近及(およ)び仁淀川河口より浦戸湾に亘(わた)る海岸を守備せしめ、主力を以(もっ)て浦戸湾より物部川に亘(わた)る間を占領し、敵の上陸の半途に乗じ、攻勢に転じ、敵を水際に近き海岸地帯に於(おい)て撃滅する
    (2)、 配備
①須崎支隊(歩兵第十二聯隊の一大隊を基幹とする)を以(もっ)て須崎附近を占領して、敵の上陸を阻止せしめる
②歩兵第四十四聯隊(聯隊坂本俊馬大佐)(山砲兵一大隊(一中欠)工兵一小隊を附す)を以(もっ)て右地区隊として、仁淀川河口附近より浦戸湾に亘(わた)る海岸地帯を占領し、
敵の上陸を阻止せしめる。
③歩兵第四十三聯隊(聯隊長多田金治大佐)を以(もっ)て、左地区隊として、浦戸湾より物部川に亘(わた)る海岸地帯を守備し、敵の上陸の半途に乗じ攻勢に転ずる如(ごと)く準備せしめる
④山砲兵第十一聯隊(聯隊長小幡実大佐)(大隊本部及二中隊欠、●●一小隊を附す)を以(もっ)て後免南方高地帯に陣地を占領し敵の上陸に対して猛火を集中して、主として左地区隊の戦斗に協力せしめ、師団主力の攻勢移転に際しては、主力を以(もっ)て浜改田附近より物部川間に火力を集中し得る如く準備せしむ
⑤歩兵第十二聯隊(聯隊長原田喜代蔵大佐)(一大隊欠)及(および)工兵第十一聯隊(聯隊長 岩本清大佐)の主力は師団豫備隊として、後免附近に位置し、敵の上陸の半途に乗じ、攻勢に転得る如く準備せしめる。
但(ただ)し工兵聯隊は別に示す所により、各部隊の陣地構築及(および)道路整備に協力せしむる。
⑥輜重兵(しちょうへい)第十一聯隊(聯隊長岩田秀雄大佐)の一大隊を以(もっ)て、仁淀川上流八田、弘岡附近を守備せしめる。●余の主力を以(もっ)て弾薬、糧食の補給の準備を整へしめる。
⑦師団司令部は後免南方鉢巻山[鉢伏山か]西北麓に位置せしめる>

 <各部隊の防禦(ぼうぎょ)工事の実施状況
右地区隊正面も左地区隊正面も共に、海岸には幅百米内外の砂地があるが、其(そ)の後方には大部分、一連の高地帯が連なっておる。
敵が土佐沿岸に強行上陸を行う時には、飛行機による爆撃と、艦隊による砲撃によって、我(わ)が防禦設備(ぼうぎょせつび)を徹底的に破壊した後、上陸部隊が舟艇に乗って陸岸に上陸すると共に、水陸両用の戦車を上陸せしめ、戦車を先頭として我が守備隊を制圧し、艦砲射撃によって掩護せられて、逐次地歩を拡大し、主力の上陸完了を待って、我軍と決戦することになるであろう。
だから我(わ)が師団としては、敵の飛行機より行う爆撃に対しても、艦隊の行う艦砲射撃に対しても、安全で決して破壊されないよう考慮して、堅固に防禦施設を作らねばならぬ。
夫(そ)れ故(ゆえ)我(わが)主抵抗陣地は、敵の艦砲射撃に暴露しないよう、前方高地にかくれた後退配備をとり、尚(な)ほ敵の爆撃に対し安全にする為(た)め、高地帯に多数のトンネルを縦横に作って、其(そ)のトンネルの内部に、兵員の起居と弾薬糧食などの貯蔵が出来るように施設し、敵方に面した出口に機関銃や速射砲、山砲などを据えつけ、銃口、砲口部だけを残して、コンクリートや鉄板で固ためた。
当時高知市にはセメント工場があったけれども、石炭不足の為(た)め、一時セメント生産を中止してゐた。僕は徳島県に貧鉱であるけれども、石炭が出る山があることを知り、わざわざ将兵を派遣して、石炭を掘って、セメント工場に與(あた)えて、セメントを生産させたから、セメントは豊富に師団の防禦工事に使用することが出来た。
機関銃や諸火砲は敵の艦砲射撃に暴露しないよう、而(しか)も斜射、側射の効果を発揮するよう射向について、特別の注意を拂(はら)ったから、万全の備へが出来た。
海岸の砂浜には少数の前進部隊の隠蔽陣地(いんぺいじんち)を作って、敵の上陸を直接妨害させるように準備し、此(この)前進部隊と主陣地とは、坑道を以て、安全に交通が出来るよう構築した。尚(な)ほ海岸地帯には無数のタコツボ陣地を作り、我軍(わがぐん)の單独兵を潜伏せしめ、敵の戦車が接近した時タコツボからおどり出て、爆弾や放火剤を以(もって)て攻撃する体当たり戦法準備を整へた。
尚(な)ほ海岸沿いの一連の高地帯に、前述の通りの無数のトンネルを縦横に掘ることは、容易な事ではない。四月下旬各部隊が、陣地配置についてから、連日連夜交代制によって、晝夜兼行の工事を續けた。トンネル工事の途中、岩盤につき当ることが屡々(しばしば)ある。岩盤は火薬を使って爆破し、又(また)トンネルの天井や側壁がくずれるから、木材で枠を組みつつ工事を進めねばならぬから、莫大な木材を要すると共に、多大の日子を費やした。>
 <民間防衛準備
 米軍が我(わが)本土に上陸して来れば、直に海岸地帯で、激烈な戦斗が始まるから、敵の上陸に先だち海岸附近の住民を疎開させねばならぬ。その第一着として、先(ま)づ子供を奥地に移し、海岸に近い学校は疎開の準備を整えた。
愈々(いよいよ)敵が上陸して来れば、只(た)だ單に軍隊だけの戦斗で片づかない。住民も直接戦禍を被むる事になるから、婦女子に至るまで、積極的に郷土防衛の戦いに参加する覚悟を定め、竹鎗訓練さへも至る所で行なわれた。>

 ○ 「対戦車肉薄訓練」

 「陣地構築と併行して対戦車肉薄訓練も行われた。それは当時の第五十五軍には戦車の装備がなく、しかも対戦車砲も、その数と性能において、米軍に対しはるかに劣っており、敵上陸戦車を撃滅する有効な方法は特攻戦法による一兵一両必砕の肉薄攻撃によるほかなかったからであった。
 また軍は、硫黄島や沖縄の戦場で、これによって成功した幾多の戦訓に基づいて兵科の別なく、全部隊にこの戦法を徹底させた。そのため将兵たちは、壕から飛び出して戦車に肉薄し、機関部にガソリンを投げつけ炎上させる火炎瓶攻撃などの猛訓練を行なった。」(『四国師団史』)。

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