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2011.07.25

松吉千津子さん『ひと夏の少年兵 祖母のひとり語り』の中の浦戸海軍航空隊「震天隊巖部隊堀中中隊」。【一部訂正しました】

 このところ浦戸海軍航空隊についての、これまで書かれたものを読んでいます。

 七月二十五日、松吉千津子さんの『ひと夏の少年兵 祖母のひとり語り』(平和資料館・草の家。一九九九年六月十五日)を読み直しました。
 高知市池の浦戸海軍航空隊(一九四五年七月からは海軍呉鎮守府第十一特陸戦隊)の巖部隊堀中中隊ことが書かれています。

 【海軍巖部隊(大隊本部は長浜の雪渓寺)】

 その本に書かれていることを紹介する前に、この巖部隊の岩崎巖さん(海軍兵学校六十八期)が、浦戸海軍航空隊発足からのいきさつを書いていますので、その内容を紹介しておきます(『大平山』第十八号の「散りぬるを 浦戸海軍航空隊と最後の司令・堀内大佐の生涯」。三里史談会。一九九四年四月三十日)。
 岩崎さんは、三重海軍航空隊教官兼分隊長でしたが、一九四四年十一月半ば過ぎ、三重海軍航空隊甲種飛行予科練習生十五期の半分を連れて新設された浦戸海軍航空隊に転出しました。
 同隊の司令は別府明朋少将(海軍兵学校三十八期)、副長は西勉大尉(海軍兵学校六十三期)でした。岩崎さんは先任将校でした。幹部は約二百人。部隊編制は、甲種飛行予科練習生十五期約千二百人、松山海軍航空隊から転隊してきた甲種飛行予科練習生十四期約六百人、定員分隊(隊務を執行する兵員分隊)約三百人で、全部で二千人くらいでした。
 その後、松山海軍航空隊から増派された甲種飛行予科練習生十四期、昭和二十年(一九四五年)に入隊した甲種飛行予科練習生十六期などを合わせると最終的には四千人を超す大部隊になりました。
 甲種飛行予科練習生への教育は、規定通りの教科内容でしたが、昭和二十年(一九四五)年二月、司令が山田敏世大佐(海軍兵学校三十九期)になってからは砲術学校から招いた教官による陸戦訓練が主力となりました。敵の土佐湾上陸を想定し、敵戦車にたいする体当たり攻撃やタコツボ作戦、ほふく前進などが主要な訓練項目でした。
 この年五月ころには、ここの予科練部隊は事実上陸戦争隊に編制替えされ、岩崎さんも第一、第三大隊長として高知市の長浜から手結海岸一帯の隊正面の海岸の防備を担当することになりました。
 大隊長・岩崎巖大佐の名前を冠した海軍巖部隊(大隊本部は長浜の雪渓寺)にいた陣東(じんどう)俊郎さん(浦戸国民学校の隊にいました)も、当時のことを書いています(『大平山』第二十三号。三里史談会。一九九七年五月三十日)。
 「米軍上陸の際は戦車を先頭に侵攻してくるので、タコつぼを掘って棒地雷をかかえてひそみ、戦車の前面におどり出て、バットをふりおろすように棒地雷をキャタピラーの下に叩き込む訓練もあった。」

 【長浜町の松吉家に四十人の海軍兵がやってきて…】

 さて、『ひと夏の少年兵 祖母のひとり語り』の内容です。
 一九四五年四月、高知市長浜町の松吉家に町内会長の岡村久寿馬(くじま)さんが来て、兵隊たちに「おまんくの二階を貸しちゃってくれまいか」といいました。
 家の女主人は、応じました。
 その家の家族は、女主人、種崎の軍需工場に行っている息子、嫁、女学校に通う十四歳の孫でした。
 まもなく浦戸海軍航空隊の堀中中隊長が、岡村久寿馬さんと一緒にあいさつに来ました。
 二階の八畳二間、六畳二間に、四十人の浦戸海軍航空隊の甲種予科練習生がやってきました。
 甲種予科練習生は、一九四三年九月に、松坂の三重海軍航空隊に入隊して三カ月後に浦戸航空隊に移ってきた人たちでした。その中には、播州の真宗の寺の息子もいました。
 松吉家の入口の門柱いっぱいに「海軍震天隊巖部隊堀中隊本部」の白木の看板がかけられました。
 その前に三尺四方、高さ六尺余の番兵小屋が建ちました。
 銃剣を持った兵隊が、いつもそこに立っていました。二時間くらいで交代します。
 松吉家から半丁ほど西に、トタン屋根のミカン水工場だった所(六坪ほど)が空き家になっていました。そこが賄(まかな)いをする兵隊の烹炊場(ほうすいば)になりました。
 その隣の農家の納屋が、コメ、ムギ、味噌、醤油、砂糖などの食糧庫になり、その二階が、炊事兵の宿舎になりました。
 炊事兵は、召集兵で、その中には、銀行の支店長だった人、名古屋から来た料亭の主人もいました。
 ご飯どきが来たら烹炊場三、四人が食事をバケツで持って取って来ました。
 堀中中隊長には別に中隊長付の二人が交代で盆に乗せて持って来ました。
 二、三人が組になってリヤカー、車力をひっぱって食糧を買い出しに行きました。魚は浦戸、御畳瀬(みませ)へ、ナカ、カボチャ、キュウリなどは戸原や秋山へ。

 【兵隊たちの役目は壕を掘ることでした】

 兵隊たちの役目は、長浜の海岸線一帯の小山に横穴の壕を掘ることでした。
 松吉宅から北東へ五丁余り、御畳瀬と長浜の堺にある小山でした。

 【二人が伏龍特攻隊員として横須賀へ】

 六月の末、この四十人の中から特攻隊員が二人選び出されて、松吉家を出て行きました。
 二人は横須賀に行きました。伏龍(ふくりゅう)特攻隊員としての訓練をするためでした。
 吉松家のうぐに裏の山には百本の桃の木が植えてありました。
 兵隊は、この桃山のてっぺんにヤグラを組んで、八丁ほど西にある雪渓寺の大隊本部の山の上で、手旗信号やら双眼鏡で見張りすることになりました。
 七月四日のアメリカ軍機B29の高知空襲から一週間たったころ、堀中隊は松吉家を出ていきました。
 出ていった先は、御畳瀬の入口にある天満宮の前の二階家でした。
 ここもすぐに出て、隊を編制替えして浦戸の山の中、民家、自分たちで掘った山の横穴壕で住んでいたそうです。

 【八月はじめの夜の「全員配置につけ」】

 八月はじめある日の夜、かつて松吉家にいた兵隊たちは「全員配置につけ」という命令で桂浜の後ろの山に集合しました。
 「敵艦隊土佐湾に侵入」の報がはいったとのことでした。
 弾帯に実弾をこめて、いよいよ時が来たと待機しました。
 しかし、それは誤報でした。
 それからは、連日、砂浜でのきつい訓練が始まりました。
 桂浜から長浜にかけての海岸線の砂地に穴を掘り、地雷をかかえてその中に身をひそめて、上陸してくるアメリカ軍の戦車に地雷もろとも体当たりするするという肉弾訓練を朝から晩までしました。
 そのころは、浦戸の山、御畳瀬の横穴壕のある山の中に四本柱に木の皮をふいただけの掘立小屋をつくり、十畳敷きほどの床は半分に割ってうつむけに敷きつめた上で寝起きしていたといいます。

 【参考】

 伏龍 データは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 太平洋戦争末期の大日本帝国海軍による特攻兵器のひとつ。潜水具を着用し棒付き機雷を手にした兵士により、本土決戦における水際撃滅を狙った特攻兵器として、1944年に開発された。
 伏龍は海軍軍令部第二部長(戦備担当)黒島亀人少将の発案によるものといわれる。航空機による特攻作戦は既に実施されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦では九三式中間練習機まで投入され、予科練の生徒たちは乗る飛行機がなくなり余剰人員となっていた。伏龍は、これらを「有効に活用」するため考案された兵器の一つである。もとはB-29が投下した磁気機雷を掃海するために開発されていた簡易潜水具を攻撃兵器に転用したもので、実験は横須賀防備戦隊で行われた。
 本土決戦では、まず特攻機が米軍の機動部隊に体当たりし、輸送艦などが接近すれば人間魚雷回天や特攻艇震洋などの水上特攻部隊が迎撃。そして上陸用舟艇を水際で迎撃するのが伏龍という構想であった。
 伏竜利用された潜水具は、1945年3月末に海軍工作学校が僅か1ヶ月で試作された代物で、逼迫する資材と戦況に対応するため、出来うる限り既製の軍需品を用いて製作された。粗末な工作のゴム服に潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛をしこんだワラジをはいた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪く、総重量は68kgにも及んだ。2ヶ月の短期間で予科練生徒数に見合う3,000セットが調達される予定であった。
 伏龍の作戦では遊泳は考えられておらず、隊員は海底を歩いて移動することになっていた。個々の隊員は水中で方向を探る方法を持たないため、あらかじめ作戦海面の海底に縄を張っておき、これをつたいながら沖合に向かって展開する予定であった。海岸からの距離は縄の結び目の数で測られた。陸上との通信は不可能で、隣の隊員との連絡手段もなかった。海中にいったん展開すると、陣地変換はほとんど不可能であった。
 潜水缶は伏龍の最大の欠陥部分であった。これは長時間の潜水を可能にするために考案された、半循環式の酸素供給機であった。呼気に含まれる二酸化炭素を、苛性ソーダを利用した吸収缶で除去、再び吸入する方式である。吸収缶には潜水艦用のものが転用された。実験では5時間という長時間の潜水を実現し、他の潜水具に見られる呼気からの気泡を生じないという利点があった。しかし、鼻で吸気して口から排気するよう教育されていたが、実際には3、4回呼吸すると炭酸ガス中毒で失神しやすかった上、吸収缶が破れたり蛇管が外れたりして呼吸回路に海水が入ると、吸収缶の水酸化ナトリウムと海水は激しく反応し、水和熱で沸騰した強アルカリが潜水兜内に噴出し肺を焼くという、きわめて重大な欠陥があり、訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。
 海中では視界も悪く動きも鈍くなるため、上陸用舟艇に向かって移動するのは事実上不可能であった。五式撃雷(通称・棒機雷)は長い柄を持っていたが、水の抵抗のある海中では自由にこれを振り回すこともできず、当初5mも長さがあったものが2mに切り詰められた。また棒機雷の炸薬量では、舟艇を直撃しないと被害を与えることはできなかったが、数メートル離れたところを通過しても刺突することは不可能で、隊員の直上を上陸用舟艇がたまたま通りかかった場合以外に攻撃のチャンスは無かった。しかも、部隊の展開密度を上げると棒機雷が炸裂した時の爆圧で、近くの隊員まで巻き添えになるどころか次々と誘爆してしまう問題点があった。そもそも、海中での爆発による強烈な水圧は隊員に致命的なダメージをもたらすため、上陸に先立つ準備砲撃が付近の海中に落ちただけで、伏龍部隊の大部分は駆逐されてしまったであろう。兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。
 隊員の多くは、教育中止で本土決戦に向けて防空壕を掘っていた10代後半の予科練出身者であったが、緒戦で活躍した海軍陸戦隊の古兵も投入された。選抜条件には「孤独に耐えうる者」が重視され、本来なら家を継ぐべきはずの長男が多く選ばれた。伏龍部隊は鎮守府に所属し、横須賀5個大隊、呉2個大隊、佐世保2個大隊、舞鶴1個大隊が整備される予定であった。6月から横須賀対潜学校で先遣部隊要員480名への訓練が始まった。その後潜水訓練は、神奈川県横須賀鎮守府の野比海岸、広島県呉鎮守府の情島、長崎県佐世保鎮守府の川棚などで行われ、合わせて3,000人近くが訓練を受けた。
 米軍の本土上陸は9-10月との想定で、作戦は米軍の上陸作戦正面と考えられていた九十九里海岸などを想定していた。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。しかし1945年6月10日、土浦海軍航空隊で訓練中の訓練生・教官が空襲を受け、その内281名が死亡している。

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コメント

私は記事中の巌部隊堀中隊の一員でした。当時の中隊組織は4個小隊で形成され、各小隊約50名の編成となり、松吉家に駐在したのは中隊指揮小隊と称え、他の3小隊は当初御畳瀬国民学校を宿舎とした。中隊長に堀中尉が、小隊長には学徒兵出身の少尉が当てられていたと記憶している。今回の記事を読み、本箱の中から探し出して「ひと夏の少年兵」を読み返した。
あの戦争を経験した日本人は1億人もいたと思うが、その体験はそれぞれに共通した部分と、個有の部分があった筈だ。戦史としての記録も大切だが、個人の戦争体験を語り継ぐこともまた、再びあの大愚を繰り返さぬために重要なことと思う。
冒頭の吉松千津子さんは、松吉さん、堀中中尉は堀中尉、のミスプリだと思います。

投稿: 大須五郎 | 2011.08.10 12:07

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