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2011年9月

2011.09.01

英語で日記 二〇一一年八月三十一日 水曜日 洗濯、掃除、新聞の切り抜き……。 August 31, 2011 Wednesday Laundry , cleaning,clipping of newspapers.

二〇一一年八月三十一日 水曜日 洗濯、掃除、新聞の切り抜き。

 晴れ。

 手紙を六通書きました。

 午後から妻と、さぬき市の私のアパートへ行きました。
 私と妻は、洗濯、掃除とゴミ捨て、新聞の切り抜きをやりました。
 私は、夜中に後期の時間割をつくりました。

August 31, 2011  Wednesday Laundry , cleaning,clipping of newspapers.

Fine.

I wrote six letters.
I went to my apartment in Sanuki with my wife from the afternoon.
I and my wife did laundry, cleaning, and clipping of newspapers.
I built a timetable of the second half in the dead of night.

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英語で日記 二〇一一年九月一日 木曜日 「香川の三つの陸軍秘匿飛行場を考える」の資料づくり。September 1st, 2011 Thursday Production of data of "considering three army secrecy airfields in Kagawa."

二〇一一年九月一日 木曜日 「香川の三つの陸軍秘匿飛行場を考える」の資料づくり。

 雲り。

 朝、妻と、うどん屋へ行きました。

 そのあと、妻は午前十時に高知へ帰りました。

 ところで、九月二日は妻の父と妻の誕生日です。
 東京の娘、息子に、電話で、そのことについて注意を喚起しました。
 午後七時まで、「香川の三つの陸軍秘匿飛行場を考える」の報告のための資料をつくりました。

September 1st, 2011 Thursday Production of data of "considering three army secrecy airfields in Kagawa."

Cloudy.

In the morning, I and my wife went to a noodle shop.
My wife returned to Kochi after it at 10:00 a.m.
By the way, September 2 is my wife's father and a my wife's birthday.
I called the attention of my daughter in Tokyo, and my son about that by telephone.
I built the data for the report of "considering three army secrecy airfields in Kagawa" till 7:00 p.m.

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【短歌】 九月三日が誕生日の兵庫のクミちゃんへ。【追加二首】

 高校の 卒業式で ビラまいて 出会った「あの娘(こ)」 いま、どうしてる?

 「過激派に なってはだめよ」と それとなく さとされたよね 高二の君に

 「土佐弁って きれいな言葉」 君と話して 初めて知ったよ

 この間 大学時代の 写真見た かわいかったよ もてたはずだよ

 兵庫の地 党(日本共産党)の思いを 広げてる 地味で朗らか わが後輩は
 
 久美子さん 九月三日が 誕生日 二つ下だが いつも「姉さん」

 二つ上 夫亡くした クミコちゃん 泣いてる夜も きっとあるよね

 真夜中の 不審の電話を 気にしてか 「大丈夫かえ。私は元気」

 四十年 数回出会った きりだけど 励まされてるよ 君の足取り

 追加 九月二日

 「ボランティア 四つしている 孫四人」 電話の先の やわらか笑顔

 なんだかね うれしくってね 知らん間に 涙が出るんだ 君との電話

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2011.09.02

英語で日記 二〇一一年九月二日 金曜日 あすの報告の準備。

二〇一一年九月二日 金曜日 あすの報告の準備。

 雨。

 午前四時、強い風の音で目が覚めました。

 午前九時から午後八時まで、あすの報告の準備をしました。
 その間、食事は二回。いずれも即席のカレーライスでした。

 妻は、きょう彼女がかよっている中国語の教室(生徒計三人)の試験日だったとのことです。

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2011.09.03

● 香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その1 はじめに。 【お願い】あり。

 【お願い】 このシリーズは、当面、日々新しいデータも加えて書き直していく予定です。お気づきの点などありましたら、ご一報いただければ幸いです。

   Ⅰ はじめに

 大東亜戦争(以下、アジア太平洋戦争といいます。1941年12月8日-1945年8月15日。日本がアメリカ、イギリスなどに宣戦)のときの1945年7月4日夜中、アメリカ軍のB29爆撃機の群が香川県高松市を空襲しました。そのとき、香川県の陸軍の飛行機は1機もアメリカ軍機に対抗するために飛び立ちませんでした。それ以降の空襲のときも、同じでした。

 このことを私が知ったのは、2 011年4月、高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(高松市役所。867頁)を読んでです。
  「(陸軍高松飛行場の)部隊は特攻機援護を任務とする戦闘部隊であったうえ、本土決戦に備えて飛行機の温存を命じられていたため、[一九四五年の]七月四日の高松空襲にも、以後の艦載機の来襲にも三十機の飛行機は一機として飛び立つことがなかった。そのため被災した市民から非難を受けた。」(同書67頁)

 同書によると、香川県では陸軍高松飛行場、そして、それに関連した秘匿である陸軍屋島秘匿飛行場、陸軍国分秘匿飛行場、陸軍丸亀秘匿飛行場がつくられつありました。高松飛行場には、すでに飛行機部隊が駐留していました。

 しかし、「(陸軍高松飛行場の)部隊は特攻機援護を任務とする戦闘部隊であったうえ、本土決戦に備えて飛行機の温存を命じられていたため」出撃しなかったというが、それはいったいどういうことなのでしょうか。

 香川県には、陸軍高松飛行場のほかに陸軍秘匿飛行場は、香川県では、1945年春以降、つぎの所につくられていました。
 高松市の屋島の南の古高松(ふるたかまつ)=屋島飛行場
 綾歌郡の端岡村(はしおかむら)=いまは高松市国分寺町=国分飛行場
 飯野山(讃岐富士)の南の綾歌郡の坂本村と飯野村(いいのむら)と坂本村=いまは丸亀市=丸亀飛行場

 三つとも、台地や山の南側を横切る1500メートル以上のほぼ直線のコースを持つ道路を利用してつくっていました。

 香川県でつくられていた陸軍の4つの行場の目的、建設の歩み、その機能を追いながら「なぜ、出撃しなかったのか」を考えました。
  つぎのような項目で論をすすめていきたいと思います。 

  1、陸軍高松飛行場の建設と機能
  2、沖縄戦と陸軍高松飛行場。
  3、「本土決戦」準備は何のためだったのか。
  4、「本土決戦」と陸軍高松飛行場の機能の変更。
  5、「本土決戦」と三つの秘匿飛行場の建設と、その目的、機能。
  6、特攻配置についた四つの飛行場。
  7、香川県の空襲の際に陸軍の飛行場が出撃しなかったわけ。
  8、四つの飛行場の最期。

 なお、文中の引用文の中の[]内は藤原の注です。

   Ⅱ 地域の概要

 4つの飛行場は、それぞれ、つぎの地域につくられていました。

 【高松飛行場】

 陸軍高松飛行場づくりが始まったのは、 1944年1月でした。
 この飛行場の予定地は、香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村(今は、いずれも高松市)の270ヘクタールでした。林村の移転対象は、林村600戸のうち275戸で、面積は180ヘクタールにおよびました。12の神社や寺も対象になっていました。
 当時の地図を示します。大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)です。(地図1)

 陸軍高松飛行場の跡地は、いまは香川県立図書館などになっています。

 【屋島飛行場】

 屋島飛行場は、高松市古高松地域につくられていました。

 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)を示します。(地図2、3)

 当時の地域の様子を古高松郷土誌編集委員会編(1977):『古高松郷土誌』(高松東部農業協同組合古高松支所。794頁。524頁-538頁)に見ます。

 屋島があり観光地だったせいか交通の便利な地域でした。

 高松琴平電気鉄道株式会社の電気軌道(高松の今橋-志度方面)がとおっていました。

 鉄道も高徳線の高松-志度がとおっていました。

 1925年、高徳開通当時に刊行された『屋島駅案内』は、この地域の様子を、こう伝えています。

 「高松駅から西南に迂回して、緑滴る赤塔山のむ隧道を出た汽車は、春夏の別なく訪れ来る、幾万とも知れぬ観光の推賞を恣[ほしいまま]にせる天下の名園栗林を後に、木太・春日の平野を疾走する。新川鉄橋の轟然たる響をあとに、古高松村なる屋島駅に着く。(中略)

 沿線牟礼[むれ]は郡内随一の大村であって、屋島は全国的に有名な製塩地であり、屋島駅の所在地なる古高松村は、県下第一の耕作地所有村である。」

 アジア太平洋戦争開始後、この地域も戦争の影響を受け、1945月1日、電気軌道の八栗-志度の鉄路は、屋島ケーブル、八栗ケーブルとともに軍需資材として撤去されました。

 溶岩台地である屋島の南側を横切って観光道路がとおっていました。

 この道路は、国道22号(徳島から高松)のうち、高松市内と観光名所の屋島を結んでいました。琴電花園踏み切りの西、約200メートルを起点として1934年度から屋島方向に向かって工事を開始し、1939年3月に完成しました。工事を担当したのは香川国道改良事務所です。この道路の幅員は10メートルで、真ん中7メートルがコンクリート舗装、左右1・5メートルずつが砂利敷きでした。(国土交通省四国地方整備局香川工事事務所編(2001年)『道路グラフィティ 観光道路はこうして作られた 土木技術の変遷』。61頁) 
 屋島飛行場は、この観光道路を利用してつくられていました(いまは、県道155号です)。この道路の左右には建物もありましたが、ほとんどが田んぼでした。
 屋島の南側の両サイドは塩田でした。屋島南部の屋島神社の参道は、屋島の南部を横切る観光道路につながっていました。
 屋島飛行場は、前年の1944年1月から建設中で、すでに運用されていた陸軍高松飛行場と比較的距離が近かったこと、高松飛行場の飛行機を運びやすかったことから選定されたと思われます。

 なお、1943年末までに高松市にいた軍隊は、つぎのようなものでした。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災誌』。63-65頁)

 ・ 佐世保鎮守府高松地方海軍人事部(1937年5月1日開設)

 ・ 善通寺憲兵隊高松分遣隊(1938年設置。1944年春、高松分隊に昇格)

 ・ 高松連隊区司令部(1941年4月2日、丸亀連隊区司令部が移転してきて改称)

 【国分飛行場】

 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ一 白峯山」(1948年4月30日)を示します。(地図4)
 国分飛行場は、猪尻山、国分台、蓮光寺山の南を横切る国道11号(1984年から県道33号。幅、国分駅前で約10メートル)を利用してつくられました。
 その道路の北には国分尼寺跡や国分寺跡があります。
 南には、鉄道が通っています。
 軍事施設としては、には防空監視所、鉄道の端岡駅の近くに松根油(しょうこんゆ)の工場がありました。
 また、鉄道の2両目には天井のないか貨車がつながれ、そこに機関銃が設置され、中学生たちが、それを担当していたといいます。
 高松方面からの列車の乗客は、端岡駅にさしかかると国分飛行場側の窓のシャッターを閉めさせられたといいます。
 学校は、端岡国民学校がありました。
 産業は、おもに農業で、田んぼで錦松を栽培していた農家もありました。
 1944年から、この地域に駐屯していた海軍の少年兵・飛行予科練習生は、この食料が足らないときに田んぼに錦松を植えるとはけしからんと錦松を抜いてしまったといいます。

 【丸亀飛行場】

 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ三 丸亀」(1948年4月30日)を示します。(地図5)
 丸亀飛行場は、飯ノ山(讃岐富士)の南の、いまの県道18号善通寺府中線(善通寺市-坂出市。幅は、道池付近で9.2メートル)を利用してつくっていました。
 近くの国民学校などが工事をする兵士や勤労動員の人々の宿舎になっていました。
 この道路の南西には土器川があり、ここの河原から石を運んでいました。

 

 地図、写真、図表など

 (地図1) 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)です

 (地図2、3) 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)

 (地図4) 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ一 白峯山」(1948年4月30日)

 (地図5) 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ三 丸亀」(1948年4月30日)

   Ⅲ 調査方法と調査結果

 調査は、戦争遺跡、帝国陸軍、第一復員局(復員庁は軍人の復員に関する業務を担当した内閣直属の外局で、第一復員局が旧陸軍関係を担当)の文書、アメリカ軍の文書や写真、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部))の資料、日本の行政の文書、県史、市町村史、各小学校、高等学校の記念誌、戦争体験の証言集、そして、当時、飛行場づくりに動員されていた人たち、つくっているのを見聞きした人などの証言をもとにしました。
 調査してでわかったことは、つぎのようなことです。

 香川県の陸軍の航空部隊が、空襲下で迎撃しなかったのは、なぜか。

 そのことを、もっとも鋭く、コンパクトに指摘していたのは高松百年史編集室(1988年):『高松百年史 上巻』(高松市。848頁。576頁-683頁)でした。

 「昭和二十年[一九四五年]七月四日未明の高松空襲に際して、日本側はほとんど応戦していない。高松市内の高射砲隊も役立たなかった。米軍の被害はゼロ。林村にあった陸軍飛行場から一機も迎撃しなかった。当時、秘匿飛行機は林村一帯に一〇〇機はいたはずである(終戦当時六五機が確認されている)。

 これは、林の第一〇〇飛行団も、周辺の各地に展開していた部隊も、県土防衛が目的でなかったからである。(中略)

 市民たちは、高松飛行場の飛行機が迎撃しなかったことに対し批判を浴びせ、将校宿舎に投石するなどの騒ぎもあった。しかし、軍としてはあくまで本土決戦に備えていたのである。」

 「(陸軍屋島飛行場、陸軍国分飛行場、陸軍丸亀飛行場)は、本土決戦の際の特攻機の離着陸用として急きょ造られたものである。(中略)これらも直接、県土防衛のために造られたものではなかった。」

 陸軍高松飛行場は、はじめは「本土防空」のためにつくられていました。しかし、その後に打ち出された本土決戦の方針のもと、陸軍指導部から迎撃を禁止されていました。
 アメリカ軍が本土に上陸しようとしたときの特攻作戦のみのために飛行機も燃料も温存されていたのです。
 そして、こうした現象は、香川だけのものではなく、全国的なものでした。

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● 香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その2 アメリカ軍機が1945年5月28日に同飛行場を撮影していました。

   Ⅲ 考察

 

   【陸軍高松飛行場は、こんな飛行場でした】

   アメリカ軍が陸軍高松飛行場を撮影していました

 アメリカ軍機が1945年5月28日に陸軍高松飛行場(香川県)を撮影していました。
 私は、そのことを新聞の記事で知りました。
 「高松全域が鮮明に―空襲前の航空写真見つかる」(四国新聞 2007年3月7日)
 「昭和20年(1945)7月4日の高松空襲の約1か月前に、米軍機が高松市一帯を撮影した航空写真が見つかった。空襲直前の航空写真で撮影日が分かるものは初めて。米軍が爆撃目標を設定するために使用したとみられ、高松城南の香川県庁舎や屋島西側の塩田地帯のほか、林飛行場など旧日本軍の施設が鮮明に確認できる。
 写真は、空襲前の5月28日に高度約1万mから連続撮影された2枚。高松市の郷土史家松本周滋さんが国土地理院の外郭団体、財団法人日本地図センター(東京都)を通じて米国立公文書館から入手した。
 松本さんによると、現在の高松市林町一帯の白く写った広大な土地は『旧陸軍林飛行場』。旧高松空港の数倍規模で整備されている。また現在県道牟礼中新線となっている一般道路が屋島登山口付近で拡幅されているのは、『非常用の滑走路が整備されたため』という。
 (後略)」
 「高松空襲:1か月前の米軍航空写真見つかる 地域史研究家・松本さんが入手 画質鮮明、撮影日も初判明『道路を滑走路に』」(毎日新聞 2007日4月13日)
 「昭和20年(1945)7月4日の高松空襲の約1か月前に、米軍偵察機が高松市一帯を撮影した航空写真が見つかった。入手した同市川島東町の地域史研究家の松本周滋さんによると、空襲直前の高松の空撮写真はこれまでにもあったが、画質が鮮明なうえ、撮影日まで分かったのは初めてという。
 写真は、空襲前の5月28日に高度約1万mから連続撮影された2枚。モノクロで、フィルムの大きさは縦横共に23㎝。2枚の写真を合わせると、北は大島から南は旧香川町役場(現・高松市香川支所)、東はさぬき市の大串半島から西は石清尾山周辺に至る広大な地域をカバーしている。高松市松島町一の市民文化センター内の平和記念室にも空襲前の空撮写真はあったが、やや不鮮明で撮影日は分かっていない。
 今回の写真は、昨年5月頃に米国立公文書館に保管されていることを知った松本さんが、国土地理院の外郭団体である財団法人「日本地図センター」(東京都)を通じて取り寄せた。
 現在の高松市林町一帯に白く写る広大な土地は旧陸軍の「高松飛行場」(林飛行場)。また、現在の県道155号線が新川の東側で拡幅されているのは、一般道路を臨時の滑走路として使用したためらしい。(後略)」
 その写真につぎのような記号が入っています。
 私も、そのあとで、その2枚の写真を入手しました。
 それぞれに、「40 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000」、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の記号が入っています。
 ここでは、「40 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」を示します(写真1)。
 南西に、かなり大きな白いスペースが写っています。
 これが、陸軍高松飛行場です。
 陸軍高松飛行場から左に真っすぐにのびた道があります。
 北側の屋島の南を東西にとおっている観光道路の一部がふくらんで見えます。
 陸軍高松飛行場の東側の山・日山(ひやま)に同飛行場から道がつながっています。
 

 (写真1) アメリカ軍機が1945年5月28日に香川県高松市を撮影した写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」

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● 香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その3 終戦前後の陸軍高松飛行場の様子を示すGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料。

 

   GHQの資料にも陸軍高松飛行場のことが出てきます

 終戦(1945年8月15日)の前後の陸軍高松飛行場の様子を示すGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料があります。
 GHQが、1945年8月31日につくった本『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』です(私は「日本占領マニュアル 四国版」と呼んでいます)。
 奥付はつぎのようになっています。
 「GHQ
 南西太平洋地域
 1945年8月31日

 この特別報告には、オリエンテーション地図で示された四国の地理情報を含む。
 報告に含まれる以下の情報は、企画スタッフの要求を満たすために短期間で集めら

れている。
 含まれる地図は、オリエンテーション地図とともに使用される。

 マッカーサー元帥の命令による。

 R.K.・サザランド
 米国中将・参謀長

 担当:
 C.A.・ウィロフビー
 G.S.C. 少将
 G-2参謀副長」

 四国の陸海軍の飛行場についての記述のなかに陸軍高松飛行場のことがあります。
 「c.高松-北緯34度17分、東経134度4分(写真15参照):
 分類:HLG
 場所: 高松の南南東4マイル、由良山の裾野にある春日川の1.5マイル西にある。標高50フィート。
 滑走路:飛行場は、建設中。寸法は、西南西から東北東が6400フィート、西南西から東北東5500フィート、北北西から南南東5800フィート。路面は土で、水はけ良し。東西3800フィート×200フィートの未舗装滑走路が1本ある。
 拡張は、北北西に2000フィート、西南西へ1300フィート可能。
 建造物:兵舎11、工場・事業所15、小型格納庫2、格納床3が北東の角にある。ある程度大きな格納庫が1基、飛行場北西の45フィートの未舗装誘導路の端にある。
 分散地域:飛行場北端に開かれた分散地域。由良山のふもと周辺にダミーの誘導路とダミーの擁壁が建てられている。南には、ダミーの誘導路1本とダミーの擁壁10基が建造されている。
 アクセス方法: 16フィートの未舗装路が高松の北に通じる。高松電鉄と道路1号が北北東へ1マイル先にある。
 地形状の障害物:すぐ南に標高398フィートの丘。1マイル東に636フィートの丘。2.25マイル南東に標高840フィートの丘。2.75マイル東に標高340フィートの丘。3.75マイル北西に945フィートの丘。」
 HLGは「大型爆撃機着陸場:大型爆撃機による使用が可能であること。あるいは、海面位で全長が少なくとも6千フィートである着陸場で、大型爆撃機に適していること。」です。

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● 香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その4 終戦後の陸軍高松飛行場の様子を示す日本側の2つの資料。

 

   陸軍高松飛行場の様子を示す日本側資料

 日本側の資料が手元に2つあります。
 1つ目は、陸軍第11飛行団司令部『飛行場記録』(終戦後の1945年9月15日に調整。防衛省防衛研究所所蔵)の「高松飛行場記録」です。(図1)
 「判決」は、「自重六屯(トン)以下ノ飛行機ノ使用二適ス」です。
 「飛行地区」は、こうなっています。
 「滑走地区」は、2000メートル×800メートルの「整地輾圧(せいちてんあつ。整地してローラーをかけたということでしょうか)。
 「舗装路」は、1200メートル×60メートル、約10センチ「砕石敷輾圧」。 「土質」は、粘土質。
 「附属地区」は、こうなっています。
 「夜間着陸設備」は、「ナシ」。
 「宿営」は三角兵舎3棟(100人収容可)。
 「電灯線」は、「三角兵舎に現在二棟に配線しあり」。
 誘導路(借り上げ使用中)が3つあります。
 ① 北に真っすぐのびています。そして、既存の道路とクロスして高松市街地に通じています。
 ② 南に真っすぐのび、日山(ひやま)に着きあたり日山の東西を半周しています。
 ③ 西北にのびながら南北に長い地域・「一ノ宮撃留地」につながっています。「撃留地」というのは一般的には飛行機撃留地のことで、飛行機を隠しておく所です。
 前出のアメリカ軍機の空中写真、「40 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000」と「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 3500 REST」を見ると、この地域は林になっています。
 2つ目は、財務省四国財務局の行政文書で、黒くぬっている所が陸軍高松飛行場です。大日本帝国陸地測量部が、1933年12月25日に発行した「高松南部」の地図に書き込んであります。(地図1は、その一部)
 これで正確な全体像を知ることができます。

 第一復員局の資料のなかの地図の北西への誘導路の途中にあった四角の印は、倉敷飛行機の飛行機組立工場でした(いまは、高松市多肥町、警察機動隊があります)。
 日山の北西の由良山 (標高一二〇・三メートル。高松市由良町)には、山の中腹に、人が立てって入れるくらいの壕が残っています。そして、二つはコの字型につながっています。
 地元では「防空壕」としていますが、これは戦闘壕だと思います。

 (図1) 「高松飛行場記録」=陸軍第11飛行団司令部が1945年9月15日に調整した『飛行場記録』(防衛省防衛研究所所蔵)に掲載

 (地図1) 陸軍高松飛行場のエリア=財務省四国財務局の行政文書。黒くぬっている所が陸軍高松飛行場。大日本帝国陸地測量部が、1933年12月25日に発行した「高松南部」の地図に書き込んであります

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香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その5 陸軍高松飛行場の機能~1944年1月から12月まで 建設中から飛行訓練を開始。

   陸軍は、なぜ高松飛行場をつくろうとしたのでしょうか

  陸軍高松飛行場は、香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村にありました(今は、いずれも高松市)です。建設が始まったのは、1944年1月でした。未完成のまま終戦を迎えます。

 陸軍は、なぜ、ここに飛行場をつくろうとしたのでしょうか。
 まず、当時の軍事情勢を見ます。
 1941年12月8日、日本の天皇はアメリカ、イギリスを相手にした大東亜戦争を開始しました(以下、この戦争をアジア太平洋戦争と呼ぶことにします)。
 開戦後五カ月で、日本は、マレー半島、ビルマ(いまはミャンマー)、フィリピン、ジャワ、ニューギニアなど東南アジア全域を占領しました。
 やがて、日本海軍は、反攻を開始したアメリカ軍によって、1942年6月5日~7日のミッドウェー海戦に敗れ、それ以後、敗北と退却を続けました。
 1943年2月1日、日本軍がガダルカナル島から撤退を開始しました。同年5月29日、アッツ島の日本軍が全滅しました。
 そうしたなか、同年9月30日、日本は、御前会議(大日本帝国憲法下の日本で、「陸海軍ヲ統帥」する天皇が出席して重要な国策を決めた会議)を開きます。ここで、「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」が決められました。「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」。東部(マーシャル群島)を除く内南洋すなわちマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾(いまのチェンデラワシ湾)以西のニューギニア以西を範囲とします。
 そうしたなかでの国内での新しい陸軍飛行場づくりの事情について戦後、第1復員局(陸軍軍人についての業務を担当した内閣直属の外局)は、つぎのようにまとめています(『本土航空作戦記録』の「付録第三 本土航空施設の梗概」。1946年12月)。
  「……ガダルカナル撤退以来本土要域の防空強化の必要に迫られ十八年[一九四三年]末以来京浜、阪神、北九州等の防空飛行場着手に十九年[一九四四年]夏頃迄[まで]に概ね防空飛行隊の活動に支障なき態勢を整へたり一方第一戦線場より報せらるる航空戦の様相は内地に於ける無防備なる各航空基地を強化するの急務なるを痛感せしめ軍官民相協力して各飛行場に誘導路掩体[えんたい。飛行機を隠す格納庫]を構築せり」
 「一、 昭和十八年より昭和十九年三月に至る状況昭和十八年に入るや航空要員の急速なる大量養成に着手し之に伴つて従来六十数個なりし内地の飛行場に更に三十個の飛行場を●又は拡張(別紙第一参照)すべく四月頃より之か整備に着手せり
同時期に於ける全般情勢は未た内地の防備を固むる必要なかりしを以て着工せる飛行場も総て教育第一主義とせられたり(別紙第二参照)」
 この文書でも「ガダルカナル撤退」についてふれていますが、ガダルカナル島のたたかいは、1942年8月7日~1943年2月7日、西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島をめぐっての、大日本帝国とアメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスの交戦です。日本は敗北し、戦死者1万6百人、餓死者・戦病死者は1万5千人にのぼりました。
 このたたかいを、戦後、産経新聞主幹だった伊藤正徳は「ガダルカナルは単なる島の名ではない。それは帝国陸軍の墓地の名である。そこで日本は陸戦においてはじめてアメリカに敗けたのであった。しかも、戦争中に生起する多くの戦闘勝敗の事例ではなく、日米両軍は、偶然にもガダルカナル島に『決戦場』を誘発し、六ヵ月にわたる苦闘の後に、日本が戦略的撤退の第一ページを染めたのであった。」と評しています(●『帝国陸軍の最後 2 決戦編』。光人社。1998年3月14日)。 
 その敗戦以降、日本の指導者は、「本土要域の防空強化の必要に迫られ」ます。それまで内地には陸軍の六十数個でしたが、約三十個の飛行場を「防空飛行場」として新設または拡張したのです。新設または拡張の飛行場は「教育第一主義」と位置付けられています。

 この時期の陸軍の航空基地整備状況を第1復員局『本土航空作戦記録』(1946年12月)に見ます。

 以下、「昭和十九年[一九四四年]四月より昭和十九年十月に至(いた)る状況」の項目です。
 「昭和十九年三月頃より米艦隊の活動遂次活発となりしとB―29の内地大規模空襲必至の情勢となりしを以(もっ)て防空飛行隊による防空を強化するの必要に迫られ既に着手せる新設又は拡張飛行場中要地に近き左記飛行場を急速に完成するに勉めたり

 関東地区  印旛、松戸、成増、大島、新島
 中部地区  小牧、清州、佐野、由良、高松
 西部地区  防府、蘆屋、福岡、曽根
本州に於ける防空態勢を強化する一方米軍の本土に対する侵攻作戦も真剣に検討せらるるに至りアリューシャン方面よりの侵攻に備ふへく千島、北海道を中部太平洋方面よりの侵攻に備ふへく台湾を夫々強化するに決し昭和十九年九月を完成目途とし左記の如くにして航空基地群(一乃至三飛行場を有機的に連繋する如く構成するものにして航空要塞とも称す 別紙第二参照)を構成せり
 千島方面  占守島、蕊取
 北海道   計根別、帯広、札幌、浅茅野
 沖縄方面  沖縄島、伊江島、宮古島、石垣島
 台  湾  宣蘭、花蓮港、屏東、嘉義、台中」
 「高松」、高松飛行場も、「防空飛行隊」の飛行場として「急速に完成する」ことがもとめられていました。

 そうしてつくられた飛行場の名が、『本土航空作戦記録』の「付録第三 本土航空施設の梗概」。「別紙第一」に載っています。
 「別紙第一
 
        昭和十八年以降整備せる飛行場(除秘匿飛行場)
 
 新設飛行場
  壬生、水戸北、成増、松山、児玉、前橋、松本、伊那、大島、新島
  富士、小牧、清州、佐野、由良、広島、防府、高松、蘆屋、福岡、
  曽根、万世、上別府、唐瀬原
 拡張飛行場
  油川、印旛、松戸、老津、富山、三国、都城東」

 新設飛行場は、「高松」を含む二十四カ所、拡張飛行場七カ所です。

   四国では初めての陸軍飛行場でした

 高松飛行場の新設は、陸軍にとっては大きな出来事でした。
 四国で初めての陸軍飛行場だったのです。
 それまで、四国に飛行場、航空隊を持っていたのは海軍だけでした。
 つぎのような配置でした。
 【徳島県小松島】 1941年、海軍呉鎮守府の隷下部隊として徳島県小松島に小松島海軍航空隊が設置されました。は海軍飛行予科練習生訓練施設が置かれ、水上機や偵察機の訓練がおこなわれました。44年からは第903海軍航空隊の飛行場となりました。
 【徳島県勝浦郡小松島町】 1942年4月1日、徳島県勝浦郡小松島町に徳島海軍航空隊が開隊しました。茨城県の土浦海軍航空隊から海軍予科練習生丙飛第6期30入隊、第23期飛行練習生として訓練開始しました。
 【愛媛県温泉郡生石村】 1941年、愛媛県温泉郡生石村に海軍呉建築部の下、土木工事を内務省神戸土木出張所、建築工事を錢高組が担当して工事開始。43年10月、第1期工事終了、松山海軍航空基地として使用を開始しました(吉田浜飛行場)。広島湾要塞の防空を担う航空基地でした。(いまは、松山空港になっています)
 【愛媛県温泉郡生石村】 1943年10月1日、愛媛県温泉郡生石村大字北吉田に松山海軍航空隊が開隊しました。海軍予科練習生甲飛第13期、14期の生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊です。
 【高知県香美郡三島村】 帝国海軍は、1939年、高知県香美郡三島村(いまは南国市)に飛行場を建設することを決定。1941年1月23日、このことを発表しました。ここに、3月15日、偵察搭乗員の訓練をおもな任務とする高知海軍航空隊が開隊し、士官160人、兵員360人、機上作業練習機「白菊」(乗員5人)55機が配置されました。1944年3月、高知海軍航空隊が設置されました。この航空隊は、日本海軍航空隊の目的は、偵察員を養成することでした。練習生2000人と一般隊員1000人で構成され、教育隊4ヶ中隊がありました。各中隊が30機の機上作業練習機・白菊を持っていました。白菊は、1944年3月に正式に採用された偵察員に航法、偵察、通信、射撃、爆撃などの実地訓練をおこなう機種です。(いまは、高知龍馬空港になっています)
 【香川県三豊郡詫間(たくま)】 1943年6月1日、香川県三豊郡詫間に詫間海軍航空隊が開隊しました 12機の水上偵察機と48機の練習飛行艇を備えた飛行艇搭乗員の養成施設でした(海岸に滑水スリップが、香川高等専門学校詫間キャンパスに当時の建物の一部が現存しています)。
 【香川県三豊郡柞田村】 帝国海軍は、香川県三豊郡柞田村の農地を収用し、1943年末より飛行場の造成工事を始め、地元住民の勤労奉仕活動によって4ヶ月で完工しました。以後、作戦に適さず放置されていました。
 【高知県幡多郡宿毛町】 高知県幡多郡宿毛町に水上機基地を設置し、1943年4月1日、宿毛海軍航空隊が開隊。連合艦隊の中心部隊である第一艦隊の隷下に置かれました。ミッドウェー海戦の大敗によって不足した航空母艦飛行機隊を補完する水上機の増強を図るため、水上戦闘機、水上偵察機補充要員養成航空隊として発足。定数は水上戦闘機12機、水上偵察機12機。1944年1月1日、実戦部隊に転換、第453海軍航空隊に改称。佐世保鎮守府部隊に編入。指宿基地に移り、九州南方・西方●の対潜哨戒に従事しました。

   陸軍高松飛行場の建設は、こうしておこなわれました

 陸軍高松飛行場(陸軍林飛行場ともいいます)の建設は、住民の犠牲と県民、朝鮮人らの労働によってなされました。

 この飛行場の予定地は、香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村の270ヘクタールでした。林村の移転対象は、林村600戸のうち275戸で、面積は180ヘクタールにおよびました。12の神社や寺も対象になっていました。
 林村の関係の経過は、高松市役所内林村史編集委員会(1958年):『林村史』(376頁。120頁-149頁)。以下、その内容を借りて、記述します。
 1944年1月23日午後1時、陸軍省航空本部の係官が、香川県庁から林村役場の三宅村長に、陸軍高松飛行場建設のことを電話で告げました。
 やがて、陸軍省嘱託・山田東男ほか一人が役場にやってきて、ことの次第があきらかになりました。
 1月28日、林国民学校の講堂に関係者全員が集められ、軍の責任者・村田大尉が、飛行場をつくるから立ち退きを了承してもらいたい旨、通達がありました。
 出席者400人のうちだれ一人として反対するものはいませんでした。
 農会会長・真鍋亀太郎が立って「戦争に勝つために、われわれは血涙をのんで軍の要請に応じよう。しかし、移転先もなく、一時に、この大事業についてできうるかぎりの、あらゆる援助をしてもらわなければ、できがたい」との発言がありました。
 これにたいして「移転補償、資材の配給などについて、軍県ともできうるかぎりの協力をする」確約がありました。
 その日のうちに承諾書の調印がなされました。
 「戦争は残酷にして非情である。多くの若者は、召集され今また家族もろとも、宛[あて]なき立退きに泣く身に、旧正二日の風は冷たく、燈火管制の火は更(さら)に心を暗くする。茫然自失[ぼうぜんじしつ]とは正[まさ]に当時の村民の姿であろう。旧正というに誰一人、新年の挨拶をするものもない。」(122頁)
 2月1日、小菅芳次県知事が阪本経済部長ほかを連れて林村をおとずれ、関係者一同に「犠牲になる諸君には、まことに気の毒であるが、国の状況やむおえないから、どうか国家の要請に応ぜられたい」とあいさつしました。
 阪本経済部長は、必要な物資は県においてできるかぎり、斡旋することを約束しました。
 林村では立退の対象になっている所から移転が課題になっていました。
 村役場では、関係各部落常会長をもって緊急対策委員会を結成し、ことにあたりました。
 土地の買収価格は、当局と交渉の結果、普通上田一反歩を1440円としました。このうちには700円の甘土料(耕作権)をふくんでいました。
 移転先については、軍は考慮せず、ぜんぶ立退者みずから、立退の発表と同時に移転先を探しまわりました。
 陸軍高松飛行場の建設予定地からの住民の移転には多くの物資と人力が必要でした。
 2月から3月にかけて、現物支給の柱、板、セメント、釘などがどんどん林村に送り込まれました。林村は、信用組合の東側の土地を借入れ、それらを積み上げました。
 3月に入ると移転が本格的になり、林村は、8日から、高松市そのほかの各町村に連絡し、毎日5、600人の勤労奉仕を受けました。
 勤労奉仕の人たちは、朝々、農業会に集合、村長からお礼のあいさつのあと、各部落世話係が各戸へ案内しました。
 最初は近い町村でしたが、最後には、県下大川三豊のほうからも受けました。
 荷車は、来る日も来る日も一列行進を続けました。
 春、陸軍高松飛行場建設に直接たずさわる技術者請負業者・高野組は、事務所、飯場を正大寺の東側に設けました。
 軍は、事務所を、その南側につくりました。
 建設予定地には高野組の関係者、事務所関係者などが来て、測量を始めたりしました。
 第1期工事は、東西方向の800メートルの滑走路をつくることになりました。
 4月中旬には、この方面の家屋は、ぜんぶ立退が完了しました。
 麦は、だいぶ成長して大きくなっていましたが、そのまま地ならしが始められました。
 林村の人たちの村外の移転先は、多肥町、木太町、太田町、伏石町、松縄町、楠上町、今里町、南瓦町、花園町、内町、松島町、福岡町、三条町、古高松町、十河村、川島町、三谷村、仏生山町、浅野村、川岡村、川添村、庵治村、氷上村、昭和村、円座村、池西村、上笠居村、川東村、陶村でした。
 最後に約50戸の移転先が決定せず、林村内の移転しない地区で8反歩以上の耕作者に呼びかけ、宅地の供出をお願いし、ようやく完了しました。
 岩田神社、拝師神社は、六条鹿島神社に合祀(ごうし)することになり、3月20日、ご神体を、六条鹿島神社に移しました(後日、3神を合祀して社名を三宮神社としました)。
 場内の仁池、池台池の2つがつぶされました(池台池は一部が残りました)。
 区域内に川向、上青木、高須、一角などの墓地がありました。その移転については、長池墓地に隣接して用地を買い入れて、そこに移転しました。戦死者の墓地をその一角につくり、各位置は抽選で定めました。
 林村役場、林村農業会は最後になりました。物価高騰のため、移転補償費を大幅に上回る移転費を要しました。
 地区内に多数の塚がありました。それは、西のほうが高いため、崩して平坦にするため、東のほうへ運びました。
 このときの、木太郡多肥村の様子を多肥郷土史編集委員会(1982年):『多肥郷土史』(多肥郷土史編集委員会。648頁。444頁-447頁)が伝えています。
 陸軍高松飛行場建設のために、多肥村の東部の民家7軒(乃生吉太郎、川田茂、桜井綾雄、新居喜惣次、川田利太郎、十河一夫、岡庄一)が同村内の他地域移転しました。
 林村で民家を失った34戸の農家が多肥地区に移転してきました。
 「多肥の桜木神社は、飛行場に近いため、森の中の大木の大部分、風致のよい松二十本、楠や樅も伐採されることになり、この伐採が昭和十九年[一九四四年]の五月から始められ、松の木は松根油(しょうこんゆ)を採取するといって、その大木の根元深くまで掘り取られてしまった。
 天満天神の境内にも大木の松があったが、飛行にも支障があるという理由で切り取られてしまった……」
 下多肥には、倉敷飛行機製作所の格納庫もでき、そこから急設の道路がつけられました。

 勤労奉仕も立退作業から建設のほうに動員されました。
 以下、『林村史』の記述です。
 一般人以外に、学生、生徒が動員されました。
 軍隊や囚人、牛馬車なども多数遠方から動員されました。
 1日1000人が就労したこともあります。
 3月18日から4月30日までに、高松市民だけでも、のべ1万6132人の奉仕作業がおこなわれています。
 しかし、手押車とトロッコが最上で、ほとんど人力に依存したので、なかなか工事は進みませんでした。
 このころ、『高松市公報』の4月5日号に、陸軍高松飛行場づくりのための「高松市勤労奉仕隊応急動員要旨」が掲載されました。陸軍高松飛行場とはいわず、「林村」の「重要軍事施設建設」としています。以下の内容です(カタカナは、ひらがなにしました)。
 「今般、近郊林村に重要軍事施設建設のため、相当戸数民家の移転を要し目下着々進行中にして、讃岐地方事務所ノ斡旋により、近隣各町村より勤労奉仕隊を繰出し応援中なるも、尚(なお)手不足にして一日も速に移転を完了して、軍事施設に寄与せんとする村民の愛国の至情は遂に同村長を通じて、本市勤労奉仕隊の出動を懇請せらるるに至れり、高松勤労奉仕隊結成以来、苦節一年の体験は今日あるを予期して練成せられたるものなる事は結成の趣旨に徹して明にして、吾人は勇躍最大能力を発揮して、近隣救援の尊き責務達成と、緊迫せる時局下一日も速なる軍事施設の完成に寄与せんが為、其(その)全機能を応急動員して本隊本来の使命を達成せんとす、是(これ)が為其必要の充足さるる迄(まで)、御殿山貯水池の作業を中止し全力を林村救援に傾注せんとす、希くは市民各位の熱烈なる御賛同御協力を賜(たまわ)らんことを
 動員要領
 (1) 人員 各町内会戸数の四分の一に応ずる人員(例へば一〇〇戸の町内会は二五名)。
 (2) 出動人員の構成
 男女別 可成男子を以て構成し、止むを得ざる場合に限り女子を以て之(これ)を補う。
 (3) 出勤日 別表の通り(略)
 当日雨天の際は出動中止とし、改め変更日は急報す。
 (4) 集合時間・場所及作業終了時刻
 午前七時半迄に林村産業組合に到着整列を終る。
 作業開始午前八時の予定、作業終了午後四時の予定。
 (5) 服装
 作業は概ね家屋取壊し、資材運搬其他整地作業等に付、之を考慮の上軽装を可とし、履物は可成草履・地下足袋を用い素足は危険なり、器具器材は携行を要せず。
 (6) 其他
 (イ) 弁当一食分(湯呑共)携行のこと。
 湯茶は現地に準備あり。
 (ロ) 集団徒歩とし交通費は支給せず。但(ただ)し瓦町―太田間の電車を利用し得る者に対しては、往路に限り乗車の便を計る。(自転車所有者は精々之を利用すること)
 (ハ) 現地迄の往路は当日の結成隊長の引率を以てす。
 出発前の集合時間は其の都度連絡す。
 (ニ) 復路は町会会長の指示により自由とす。
 (ホ) 軍事重要生産部面の勤務員、其他、其日其の時を失しては戦力を阻害し、又(また)は取り返しのつかざる処の業務に従事する者及び病人・病弱者・妊産婦・乳幼児あるもの等は之を避くること。
 注意事項
 (1) 移転を要する林村村民の心中を推察し、苟しくも村民の感情を害するが如き言動を厳に之を戒め、同情の誠意を披歴して奉仕をすること。
 (2) 混雑の最中なるに付、食事其他接待は一般に辞退しあるに付、徹底せしめられ度。
 (3) 奉仕作業を機縁として爾後物品の授受を企図する者あるやに仄聞[そくぶん]するに付、今後かかる事なき様せられ度。」
 8月30日、長尾町長が部落会長に、「林飛行場勤労要員出動ノ件」という文書を出しています。(香川県(1988年):『香川県 第十二巻 資料編 近代・現代史料Ⅱ』。香川県。1181頁。857頁-858頁)

 これは、町からは、これまで毎日10人宛て出動中ですが、きょう軍部から変更して毎日80人の出動を命令されました、貴部落から男子3人(やむおえなければうち1人は女子でも可)を出動させてくださいという内容でした。

 出動は9月1日から10月末まで。出動は軍部がトラックで送迎します。手当はありません。ショベル、ツルハシ、大手鍬(くわ)、ハジョレンのうち1つを携帯してください。晴雨にかかわらず出動してください。年齢は16歳から60歳まで(女子は、16歳から50歳まで)。出動員は、毎朝午前6時、町役場に集合してくださいなど、こまかく決めていました。

 高松市屋島町西潟元濱中に住んでいた青木正彦さんが、自書で高松飛行場づくりへの動員の体験を書いています(青木正彦:(2003年)『私の戦場 回顧録』。●頁。●頁-●頁)。
 「昭和十九年[一九四四年]一月、陸軍の飛行場が林村に設置される事が決定され、早急に工事に取り掛かった。飛行場になる土地の上にある家屋の取壊しに、近辺の各町内会からは、勤労奉仕に男も女も駆り出され、腰に弁当持参で、しかも歩いて出かけて行った。春日川の堤防を、寒風吹く二月、三月頃、防空頭きんをかぶっての出動、そして飛行場での土の運搬、地均し等、すべて人力で行った。二百七十五町歩、林村の四十六パーセントにあたっていたという。
 一般の勤労奉仕隊の外に、中学生(旧制中学)、囚人、朝鮮人等が作業に従事させられ、何の機械力も無い、牛車、猫車、リアカー、手押車等で毎日勤労奉仕が続き、その年八月には飛行場が完成し、陸軍の飛行場が発着するようになった。
 私も何度か浜中町内会の勤労奉仕隊に加わり、早朝暗がりの中を、一時間余りもかかって歩いて行き、一日中泥押しに参加し、帰りは六条の喜岡さんの家へ寄り、いろいろ食糧を貰って帰った。この頃から既に日本は食糧不足になり、配給制で、いつも腹八分目で辛抱し、ぞうすい、おかゆでやっと満腹感を味わっていた。不平、不足を言っても仕方ない時代であった。しかし勤労奉仕の帰りに喜岡の家でご馳走になった米の飯は実にうまかった。こちらからも時々塩田のお塩を持って行ってあげた。」

 香川県立坂出工業学校の生徒も動員されました。10月28日から17日間に2年生の非農家出身者51人が、12月21日から翌年1月31日まで2年生が動員されています。(五十周年記念誌編集委員会(1987年):『創立五十周年記念誌』。香川県立坂出工業高等学校長・十河正己。277頁。)。

 青木正彦さんの文章にあるとおり、朝鮮から連行された朝鮮人も、飛行場づくりに使役されています。
 近藤好太郎さんが、そのことを証言しています(浄土卓也(1992年):『朝鮮人の強制連行と徴用』。社会評論社。●頁。●頁-●頁)。
 1944年7月ころ、280人(17、8歳から50歳まで)が朝鮮から連行されてきた。彼らは日本語を話すことができず、香川県在住の朝鮮人が通訳していた。
 彼らに政府支給のドンゴロス(イモなどを入れるワラ状のもの)が与えられた。
 加高班、始竜班に分けられた。
彼らは、仏生山にあった元競馬場の一角に収容された。ここは競馬場の施設を、そのまま使用していた。板の間にゴザが敷かれ、敷布団と掛布団を一枚与えられた。道路が真ん中らあり、その通路の方に双方から足が投げ出される形で就寝した。
 食事は、米が三分、麦が七分。おかずはナノハの漬物が主だった。トウガラシは愛知県から購入してきていた。
 彼らは、出発前、1人ひとりの胸にぬいつけてある班名と番号で点呼を受けた。馬券売場だった窓口から、毎日、バット6本をもらい、飛行場に向かった。
 約6キロの道のりを往復した。
 弁当は、トラックで飛行場に運んだ。
 彼らは、もっぱら整地作業に従事させられた。
 宿舎と作業場の監視は、日本人では元警官の人を隊長に3人でやっていた。
 彼らは、44年末に山口県の岩国飛行場に移された。

   9月には高松分飛行場がおかれました

 1944年6月20日、三重県の明野陸軍飛行学校は、明野教導飛行師団に改編されました。同飛行師団の師団長は、青木武三少将、第一飛行隊(戦闘)、第四飛行隊(戦闘)、整備隊を持っていました。明野教導飛行師団などを統括する教導航空軍司令部も同年8月8日に創設されました(外山操、森松俊夫編(1983年):『帝国陸軍編成総覧 第二巻 近代日本軍事組織・人事資料総覧』。芙蓉書房出版。●頁-●頁)。
 この明野教導飛行師団の一部が建築途上の陸軍高松飛行場に配備されました。
 「 [一九四四年]九月には明野教導飛行師団(旧明野飛行学校)高松分飛行場がおかれ、……」(四国新聞社(1975年):『昭和五十年史 上巻 香川・激動の二十年』(四国新聞社。●頁-●頁)。
 この部隊は「明野陸軍航空部隊」、または「明野陸軍飛行部隊」といいました。(9月14日の高松国民勤労署長名の「航空部隊陸軍々属募集ニ関スル件」に、それらの名称が出てきます=香川県(1988年):『香川県 第十二巻 資料編 近代・現代史料Ⅱ』。858頁-859頁))

 「十月には、明野から陸士[陸軍士官学校]57期・少年飛行兵13期の搭乗兵約百人と、ビルマ留学生十人が到着して、明野飛行部隊高松隊(隊長森下清次郎少佐)が開隊し、戦闘機による射撃訓練を開始した。
 (中略)
 ビルマ留学生はエモン、エーハライ、タウンダン、チッキン、オーミヤ、ニャンモン、テンモン、ソーライ、チューソ、トンタンたちで、木太国民学校東の『えびす庵』に宿泊して、訓練にはげんだ。」(高松空襲戦災誌編集室(1985年):『高松空襲戦災誌』。65頁-66頁)。

 高松市の高松中学校の2年生だった水原良昌さん(当時・高松市花園町在住)は、陸軍高松飛行場づくりのために1944年9月から動員されていました。その水原さんが、動員先での見聞を書いています(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。●頁。24頁)。
 水原さんは、ここでトンボ草履をはいて土方仕事をしました。彼の作業は、スコップとツルハシで土砂を運んだり、トロッコで土砂を運んだり、トラックに乗って郷東川へ石を採集に行ったりといったことでした。
 「……飛行場には田圃の名残りや池、竹藪の繁った川、そして塚や窪みがあちらこちらに残っていて滑走路らしい姿はまだ生まれていなかった。そんな九月の飛行場は青い空と砂ぼこりの中で照りつける太陽が無闇と暑かった。二輪の手押し車で砂ぼこりの中を、土を運ぶ道程が長く暑く苦しくて、どこまで行ったら車が軽くなるのやらと、夢みる想いで土の重さがうらめしかった。喉が乾いても、時々手桶で運ばれて来る湯を、竹で輪切りにした杓(しゃく)で順番待ちして一ぱい飲むのがやっとであった。」
 建設中の高松飛行場に、時々、不時着機が着地したといいます。
 「……秋の半ばには、時々不時着機が舞い降りるようになっていた。滑走路の端には、まだトロッコの線路が横切っていて、不時着機が着地して滑走するのを見ながら『止マレ、止マレ』『ソッチヘ行ッタラヒックリカエルゾ』と心配する声援もむなしく、線路にひっかかって飛行機が逆立ちする光景が何回かあった。」
 陸軍高松飛行場にいた兵隊の記録があります。
 檜與平(1995年):『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。光人社。510頁)です。
 檜大尉は、1944年11月27日午後、高松飛行場の陸軍明野教導飛行師団の「高松分校」に教官として着任します。
 赴任のため単座の九七式戦闘機で高松飛行場に差しかかりました。
 「高松郊外の林飛行場[高松飛行場]が、山麓にくっきりと真四角に見えてきた。高度を下げた。
 飛行場は、まだ拡張工事中で、たくさんの人がはたらいていた。二、三日前の雨水が、あちこちにたまっている。(中略)
 高度をぐっと下げた。十メートル、五メートル。よく見ると、着陸可能の地帯へ赤旗を列へ立てて標示してあった。」
 檜教官への生徒は、50人近くの陸軍士官学校55期生で、地上部隊から転科してきた少尉たちと、10人近くのビルマからの留学生たちでした。
 ここで、川田少佐が飛行場の責任者をつとめ、檜大尉が操縦教育の責任者となり、戦闘訓練をやりました。
  水原さんは、前出の文章で「(木枯らしが吹きさらすころには)滑走路も次第に整備されて、九七式戦闘機と陸上攻撃機を中心とした航空隊がやって来てきた。学徒出身の学生出身者で編成されていて、教官の中には加藤隼戦闘隊の撃墜王として新聞で馴染みになっていた綾上出身の穴吹軍曹が曹長になって来ていた。赤白い顔色でやゝ小柄のがしっとした体格の人であった。(中略)
 空では教官機が引っ張る長い吹き流しを目がけて、急降下して突っ込む練習の繰り返しが毎日毎日続き、それを地上から時々眺めながらの土方作業が毎日毎日続いた。
 不時着機の種類も多くなった。零戦・彗星・一式陸攻・天山・鍾馗(しょうき)・飛燕・月光・新司偵・ダグラスDC3型等々、いずれも技術の先端を行く冷徹な美しい姿をしていた。」
 12月半ばになって射撃演習を始めました。

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香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その6 陸軍高松飛行場の機能~1944年12月から45年3月まで 第6航空軍の指揮下に入って……。【一部訂正しました。ご指摘、ありがとうございました。】

 1944年12月26日、大陸令第1112号をもって防衛総司令官の隷下の第6航空軍が、新設されました(防衛総司令官の隷下。司令部=通称号・靖。軍司令官・菅原道太郎中将)(外山操、森松俊夫・編(1993年):『帝国陸軍編成総覧 第二巻 近代日本軍事組織・人事資料総覧』。芙蓉書房出版。●頁。●頁-●頁)。これは、西南諸島方面にたいする航空作戦が主任務でした。

 高松飛行場に駐屯していた部隊は、第6航空軍の指揮下に入りました。

 1945年1月6日、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めましたた。木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧め、また、近衛も木戸に斡旋を求めていました。木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣らが個々に拝謁することになりました(この項、木戸幸一(1966年):『木戸幸一関係文書日記』。木戸日記研究会。東京大学出版会。643頁。492頁-510頁)。
 重臣らは以下の順で昭和天皇に意見をのべました。
 2月7日 - 平沼騏一郎男爵
 2月9日 - 広田弘毅
 2月14日 - 近衛文麿侯爵
 2月19日 - 若槻禮次郎男爵
 同日 - 牧野伸顕伯爵
 2月23日 - 岡田啓介海軍大臣
 2月26日 - 東條英機陸軍大臣
 注目されるのは天皇と近衛のやりとりです。
 近衛は「戦局ノ見透シニツキ考フレニ、最悪ナル事態[敗戦]ハ遺憾ナガラ最早必死ナリト存ゼラル」ず居んななるえるし敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、イギリス、アメリカの世論は天皇制廃止にまではいたっていないとの情勢判断の下、「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱にともなう共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示しました。
 昭和天皇は御下問において、まず、「国体(天皇制)」についてのアメリカの考えを問い、近衛はイギリス、アメリカの世論が変化する前に講和することを求めました。
 結局、天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ。」と近衛の話には否定的でした。
 重臣の一人でさえ敗戦を語る状態になっているのに「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラ」と戦争の継続を示す天皇。
 事態は、「本土決戦」準備に向かっていっていました。

 1月上旬、連合軍は、ルソン島に上陸しました。

 このことは、日本の支配層の戦争指導に影響を及ぼしました。

 1月中旬、大本営は、本土外郊地帯で「決戦的努力」を継続して連合軍の本土侵攻を遅らせ、この間、本土の作戦準備態勢を確立するという「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定しました。

 このころから、本土決戦のための本格的な作戦準備が進められていきました。

 2月19日、連合軍が硫黄島に上陸を開始しました(3月17日、日本軍は「玉砕」しました)。

 一方、アメリカ軍機の本格的な日本本土空襲が始まっていました(香川県も攻撃されました)。

 2月7日、連合軍の飛行機が、香川県三豊郡観音寺町沖合に爆弾を投下しました。

 2月15日、アメリカ空母機動部隊艦載機は、日本本土を空襲しました。関東の軍需工場が標的でした。

 2月19日、アメリカ軍のグラマン戦闘機のべ80機が、数10回にわたって、海軍航空隊のある三豊郡詫間町および観音町周辺を空襲しました。死者2人、重軽症者10人の被害がでました。
 3月10日午前0時8分、アメリカ軍第21爆撃機兵団の279機のB29爆撃機は東京を焼夷弾(しょういだん)攻撃しました。この攻撃による死者は約8万~10万、負傷者は4万~11万人。焼失26万8千戸にのぼりました。

 続いて12日未明、285機のB29爆撃機が名古屋を襲いました。被害は、死者500人、全焼26000戸にのぼりました。
 翌13日夜、284機のB29爆撃機が大阪を襲いました。

 16日から17日にかけての夜、330機のB29爆撃機が神戸を襲いました。被害は、死者・行方不明者2700人、全焼68000戸でした。

 18日から19日にかけての夜、290機のB29爆撃機が名古屋を襲いました。

 一方、3月末、三重県多気郡斎宮にあった第7航空通信連隊(教育隊)から派遣された秘匿名・中部第128部隊(隊長・長尾実中尉)約150人が高松に配備されました。同部隊は、陸軍高松飛行場の航空隊の通信を担当するために設置されました。同部隊は、勅使町の高善寺に中隊本部を置き、小山付近までの一帯に兵隊(下士官、兵)を分宿させました。そして、航空隊司令部のある鷺田公民館と林村の高松飛行場との間に通信用回線を架設して有線通信ができるようにしました。(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。72頁-73頁)。

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香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その7 陸軍高松飛行場の機能~1945年3月から5月まで 各国民学校にニセ飛行機をつくらせて……。

 アメリカ軍機が日本の空をにぎった情勢のもと、1945年、陸軍高松飛行場では、ニセ飛行機をつくらせて、それを飛行場に置いて、アメリカ軍機の攻撃をニセ飛行機に集中させるという作戦を打ち出しました。
 檜與平さんは、つぎのようにのべています。(檜與平(1995年):『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。427頁-428頁)
 「明野飛行学校も明野教導師団として、作戦任務と教育任務を兼ねていたが、高松分校には、まったく戦闘力はなかった。
  『川田少佐どの。ニセ飛行機をつくって飛行場にならべましょうか』
 と、ある日、私[檜與平大尉]はそう申し出た。訓練用の飛行機を場外にうつし、ニセ飛行機に敵艦載機の攻撃を集中させようという私の意見であった。
 『いい考えだが、飛行機ができるか』
 『県庁へたのんで、付近の小学校[国民学校のこと]から一機ずつ出品してもらって、品評会をやったらどうでしょうか。私が県庁へ交渉しましょう』
 と、私は、さっそくくるまを県庁へ飛ばした。細谷警察部長が即座に快諾してくれた。そして、定められた期日には、朝早くから近郊の小学校[国民学校]の生徒たちが、本物とまちがえるばかりの竹細工、あるいは木製の実物大の模型をつくって、先生に引率されて、荷車で運びこんできた。
 飛行場は、俄然、見ちがえるばかりの飛行機の数となった。
 細谷部長も臨席し、感謝祭をもよおし、私は編隊を指揮して、編隊高等飛行をして観覧させた。
 子供たちがつくってくれた飛行機の下にジュラルミン(破壊された飛行機)を置いて、敵のレーダーを欺瞞(ぎまん)した。」
 各国民学校からの最初のニセ飛行機(模擬飛行機)の「納品」は、3月で、その後も5月まで「納品」されたようです。
 香川郡仏生町の仏生山国民学校では3月3日に「模擬飛行機製作、日山の麓へ送りこむ。」(高松市立仏生山小学校(1985年):『学校史 九十三年のあゆみ』)。
 「飛行機秘匿をカムフラージュするために、各国民学校競争で実物大の木製飛行機をつくらせる。浅野国民学校[いまの高松市香川町の浅野小学校]がコンクールで一等になった。
 二十年[一九四五年]三月七日につくり上げ、大八車に乗せて持っていった(元教員・溝渕文子さん談)」(高松百年史編集室(1988年):『高松百年史 上巻』。高松市。●頁。●頁-●頁)。
 高松市立古高松国民学校では、3月5日に「献納模擬飛行機製作作業着手」、その後、「高等科の生徒が竹で模擬飛行機を作り林飛行場献納した。それを敵機が攻撃した」といいます(高松市古高松小学校創立八十年誌編集委員会(1988年):『創立八十年誌 高松市古高松小学校』。高松市古高松小学校創立八十周年記念事業実行委員会。●頁。43頁-44頁)。この『年誌』には、模擬飛行機の写真も掲載しています。
  「20年[1945年]5月頃には竹材を用いた献納模擬飛行機の製作が講堂で大人達によって行われた。敵の目をごまかすために実物そっくりに作られた模擬飛行機は、林飛行場付近に配置された。」(高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員会(2002年):『いちのみや百年』。高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員。 297頁。58頁)

 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(67頁)には、井戸国民学校でつくり、校庭に置かれた模擬飛行機の写真が掲載されています)。
 こうした記述に日山という文字が出てきます。

 太田国民学校(いまは、太田小学校)でも竹製の模擬飛行機を職員、児童がつくり、陸軍高松飛行場に運びました(杉上嘉夫「守護された御真影と一家全滅」=高松空襲を記録する会(1978年):『高松の空襲 手記・資料編』。高松空襲を記録する会。409頁。39頁)
 日山の近くの三渓(みたに)国民学校(いまは、高松市立三渓小学校)の児童だった宮本晴義さんが、同国民学校で零式戦闘機に似せて実物大の模擬飛行機をつくった体験を書いています(三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会記念誌編集部(2000年):『創立百周年記念誌 三渓百年』。三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会)。
 「……旧講堂を作業場に充て、先生方を中心にして製作が始まったが、その助手として生徒の工作班が編成され、私たち五名が選ばれた。工作班は、学校で授業を受けることなく、牛熊先生指導のもと、連日、夜遅くまで製作に専念した。
 一方、日山の山麓の田圃には、模擬滑走路が造成され、四、五十メートル間隔に掩体(えんたい)壕が数か所設置された。三渓小学校を始め、近隣の小学校から模型飛行機を運んできて、そこへ据え付けたのである。」

  前出の高松市の高松中学校の2年生だった水原良昌さんも「……飛行場西北の一隅に遠目には本物そっくりの竹製の『隼』が十数機ずらりと並んだ。」と書いています(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)。

 香川県木田郡三谷村(いまは、高松市三谷)の日山(標高一九一・六メートル)のふもとに行きました。
 アメリカ軍機の2枚の写真には、陸軍高松飛行場から、この山のふもとに2つの道路が延び、それにつながるこの山のふもとの南北に弧を描く形で道路があり、その内側に10の四角い空白地帯が並んでいます。その空白地帯の中に黒い点のあるものもあります。
 地元の男性(1933年5月生まれ)によると、これらの空白地帯には掩体壕(えんたいごう。飛行機の格納庫)があり、その中に実物大の模擬飛行機が置かれていたといいます。掩体というのは外側が開いた「コ」の字形の土でつくったもので、高さは約2メートルあったといいます。
 南の端の四角い空白地帯には、いま、株式会社たまもが建っています(高松市三谷町21の8)。
 なお、高松市平和記念資料館(松島1丁目)には、高松市三谷町の民家から見つかった1945年につくられた模擬飛行機の実物大の木製のプロペラの一片が展示されています。

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香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その8 陸軍高松飛行場の機能~1945年3月から5月まで 沖縄戦の陸軍航空特別攻撃隊と陸軍高松飛行場

 1945年春、陸軍高松飛行場の分校は、沖縄県で上陸戦を展開するアメリカ軍にたいする航空機での特別攻撃に向けての操縦兵などの確保、飛行機の供給のためのものになりました。
 高松飛行場の航空兵たちが沖縄のアメリカ軍に向けての特別攻撃に参加したのは、陸軍第6航空軍の振武隊としてでした。
 陸軍第六航空軍は、3月10日、司令部を東京から福岡市の福岡高等女学校に移しました。そして、沖縄戦の指揮をとりました。
 大本営は、3月19日、大陸令第1278号で、防衛総司令官に、第6航空軍司令官をして南西諸島方面における作戦にかんして、海軍の連合艦隊司令長官の指揮を受けることを命じました。第6航空軍は、3月20日零時、連合艦隊司令官の指揮下に入りました(防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』。朝雲新聞社。●頁。●頁-●頁)。
 陸軍から海軍特別攻撃の最前線・鹿屋第5航空艦隊に参謀副長・青木喬少将が派遣され、共同作戦にあたりました。これにより、艦隊攻撃は海軍、輸送船攻撃は陸軍が担当することになります。
 第6航空軍司令官は、元陸軍航空総監・菅原道大中将が務め、知覧、都城などを基点に作戦を遂行しました。第六航空軍所属の特別攻撃隊・振武隊などが編成され、出撃していきました。
 「この中には、高松飛行場で訓練中に、特攻隊・振武隊に応募し、出撃した者もかなりあった。
 特に、少年飛行兵は全員応募し、全員戦死したといわれる。」(高松空襲戦災誌編集室『高松空襲戦災誌』)
 1944年12月、高松飛行場の陸軍明野教導飛行師団の高松分校でも特別攻撃隊への志願を募りました。全員が「賛成」でした(檜與平(1995年):『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。398頁-400頁)です。
 その志願調査の後、高松分校の陸軍士官学校第57期生の桂正少尉、後藤光春少尉に振武隊への転属の命が下りました。
 この本によると、このとき、檜與平大尉は、2人に、こう声をかけたいといいます。
 「戦局を挽回し、神州を護持するのは、きみたちの死によって死によってのみ得られるのだ。いずれ、みんなが行かねばならぬが、しっかりたのむぞ」
 2人は、こう応じたといいます。 
 後藤少尉 「教官どの、日頃の御教訓を守って、立派にやり遂げます。お身体に気をつけてください」
 桂少尉 「教官どの、桂、恥ずかしくない死にかたをいたします」
 高松中学校の生徒で陸軍高松飛行場づくりに動員されていた水原良昌さんは、同飛行場から特別攻撃隊が出撃する姿も見ています(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)。
 「昭和二十年[一九四五年]の三月中旬であったろうか、『今日特攻隊ガ出テイクント』と、どこからか伝えられて緊張したムードが流れていた。昼過、噂通りに遠目にそれらしい一隊の整列と儀式が眺められていたが、やがて九七式戦闘機と陸上攻撃機が三機ずつ並んで何回にも別れて離陸を始めた。誰言うとなく皆滑走路の横に走り並んで、帽子をふったりある者は長い竹竿にゲートルの紐(ひも)を結びつけて長い旗がわりにしてふったりもした。
 飛行機は次々と地上をあとにした後、上空できれいな編隊を組んで飛行場上空をゆっくりと何回も何回も低く旋回した。それからやゝ高度を高めながらずっと東方上空に編隊を移し、やがて三機編隊ずつ風のように滑走路めがけて降下して来て、決別の例であろうか左右に翼をふりながら滑走路上を低く飛んだ後、再び急上昇して後をふりかえる事もなくひたすらに西空に向かって消えて行った。
 当時はまだ十四・五歳の少年達も、死への出発とか訣別(けつべつ)とかいった限界状況を目前にして、言語では表現出来ないどうしようもない重苦しさを各自に感じたようで、しばらくは皆押し黙ったまゝであった。
 それから四・五日してから又(また)二〇機ほど飛び立って行ったのであるが、その数日後の新聞紙上に九州の前線基地からの報道として『出撃を待つ特攻隊長A中尉』の談話が載った。先日林から飛び立っていったA中尉であったが、沖縄に米軍が来襲する少し前の事である。」

 当時、高等女学校3年生で飛行機の整備のために陸軍高松飛行場に動員されていた佐々木ミヨ子さんは同飛行場から特攻隊が出陣するのを見送っています。「ニッコリ笑って、○○他何名只今[ただいま]行きます。……帰って来ますとは誰も言いませんでした。一週間後には名誉の戦死が報じられました」。(角田緑編(1995):『敗戦50周年記録集“私と戦争”』。香川県職員退職者会。128頁。89頁)
 当時、林村に住んでいた藤本アサエさんは、つぎのように書いています(四国新聞社(1975年):『昭和五十年史 別冊 三十年目の証言』。四国新聞社。●頁。●頁-●頁)。
 「軍のことはいっさい秘密でしたが、だれ言うとなく早朝に特攻機が出撃していると、うわさがたつようになり、村人たちも暁に飛び立つ飛行機に向かって深く合掌したものでした。」
 「近所の理髪店のおじさんは多種多芸、話題も豊富な明るい人でした。隊員さんたちは遠く故郷を離れ前途も考えられぬ一時を『おじさん、おじさん』と慕って来たものです。『まだあどけないこの少年の命がいつ消えるだろうと思えばつい涙がこぼれそうで困る。仏様の顔そりをしているようだったよ』と話してくれました。詩、短歌をつくって『おじさんこれさしあげます』と無言で差し出すまなじりにハッと出撃の間近を感じたともらしていました。その少年はやはりそれ以来一度も来なかったそうです。」
 第6航空軍で沖縄に突撃攻撃して戦死したのは、4月1日から7月1日までで697人です。1912年生まれ~1926年生まれの人たちです (特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(2003年・4版)『特別攻撃隊』。●頁。●頁-●頁)。
 そのうち陸軍明野教導飛行師団(高松分校も、その一部)が編成した振武隊と、その戦死者は、以下のとおりです(「振武隊編成表」=櫻井隆さん所蔵。『特別攻撃隊』)。
 第22振武隊(一式戦闘機)=6人。
 第43振武隊(九七戦闘機)=9人。
 第43振武隊(一式戦闘機)=8人。
 第48振武隊(一式戦闘機)=8人。
 第49振武隊(一式戦闘機)=7人。
 第50振武隊(一式戦闘機)=12人。
 第51振武隊(一式戦闘機)=9人。
 第52振武隊(一式戦闘機)=9人。
 第53振武隊(一式戦闘機)=9人。
 第55振武隊(三式戦闘機)=9人。
 第57振武隊(四式戦闘機)=11人。
 第58振武隊(四式戦闘機)=11人。
 第59振武隊(四式戦闘機)=9人。
 第60振武隊(四式戦闘機)=10人。
 第65振武隊(九七戦闘機)=3人。
 第66振武隊(九七戦闘機)=5人。
 第67振武隊(九七戦闘機)=6人。
 第69振武隊(九七戦闘機)=5人。
 第144振武隊(一式戦闘機)=3人。
 212人もが戦死しています。
 このなかには高松分校にいた操縦兵もいます。
 桂正少尉(石川県出身。1926年生まれ。陸軍士官学校57期)は、第65振武隊(九七戦闘機)でした。5月11日、「沖縄周辺洋上」で戦死しています。
 同じく高松分校にいた後藤光春少尉(三重県出身。1924年生まれ。陸軍士官学校57期)は、第66振武隊(九七戦闘機)の一員でした。5月25日、「沖縄周辺洋上」で戦死しています(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会『特別攻撃隊』)。
 岡本智正さん(陸軍士官学校57期)は、数回出撃したものの、機体の故障や悪天候などで突入までにいたらず終戦を迎えました。彼は、飛行時間二百時間程度で海上索敵の経験はありませんでした(『昭和五十年史 上巻 香川・激動の二十年』。四国新聞社。1975年8月15日)。
 高松飛行場で受領した飛行機で逝った操縦兵もいます。
 第69振武隊(九七式戦闘機)の隊員・本島桂一少尉 (特別操縦見習士官1期。1923年生まれ)です。
 岐阜県川崎村の明野飛行部隊付だった本島少尉は、「陸輸ニテ出発」し、4月1日に高松飛行場に到着、同月5日、受領した飛行機で九州に向かっています。そして、4月16日、その飛行機で知覧飛行場を出発し特別攻撃して「沖縄周辺洋上」で戦死しています。知覧飛行場を出発する前に、本島少尉は「人生二十二年 我今 御陵威[みいつ。天皇の威光のこと]ノ御盾トナラン」という遺書を書いています(本島桂一少尉の遺書=佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』。光人社。1997年12月18日)。
 第6航空軍は、沖縄戦の大勢が決まった5月末に聯合艦隊の指揮下から離れました。
 第一復員局資料整理部(1947年8月10日):『航空特攻作戦ノ概要(未定稿)』)に、沖縄戦での陸軍の特別攻撃の「数字」が載っています。
 各振武隊は、九州から、九七戦(約150機)、九九軍偵(約110機)、一式戦(約65機)、四式戦(約50機)、キ九(約50機)、九八直協(約40機)、三式戦(約40機)、九九高(約30機)、二式複戦(約20機)など76隊、約680機が出撃しています。1隊1隊を○○振武隊と呼びました。戦果は「記録ナク不詳」です。

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香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その9 陸軍高松飛行場の機能~1945年4月から 飛行機を隠すための誘導路づくり。

 沖縄戦の最中、日本はつぎの手を打っていました。

 3月27日、軍事特別措置法が公布されました。これは「本土決戦」を準備する軍事基地づくりのための土地、家屋などの収用法でした。
 以下、全文を紹介します(ホームページ「国立公文書館アジア歴史資料センター」)。
 「法律第三十号

 朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル軍事特別措置法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 裕仁

  昭和二十年三月二十七日
  内閣総理大臣 小磯國昭
  海軍大臣 米内光政
  陸軍大臣 杉山元

 法律―第三十号

  軍事特別措置法

 第一条 本法ハ大東亜戦争ニ際シ築城、設営其ノ他勅令ヲ以テ定ムル軍事上緊要ナル事項ノ整備ヲ為スヲ目的トス
 本法適用ノ区域ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
 第二条 政府ハ必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ土地、建物其ノ他ノ工作物又ハ物件ヲ管理、使用又ハ収用スルコトヲ得
 前項ノ規定ニ依リ収用シタル土地、建物其ノ他ノ工作物不用ニ帰シタル場合ニ於イテ其ノ処分ニ関シテハ勅令ノ定ムル所ニ依ル
 第三条 政府ハ必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ建物其ノ他ノ工作物ニ付移転、除却其ノ他ノ行為ヲ命ジ若ハ新築、改築、増築、移転、除去其ノ他ノ行為ヲ禁止若ハ制限シ又ハ土石竹木其ノ他ノ物件ニ付移転、除去其ノ他ノ行為ヲ命ジ若ハ之ヲ禁止若ハ制限スルコトヲ得
 前項ノ規定ニ依ル命令ヲ受ケタル者其ノ命令ニ従ハザルトキ又ハ緊急ノ必要アルトキハ政府ハ同項ニ掲グル物ニ付移転、除去其ノ他ノ行為ヲ為スコトヲ得
 第四条 政府ハ必要アルトキハ住居ノ移転ヲ命ジ若ハ之ヲ禁止若ハ制限シ、住居ノ指定ヲ為シ又ハ人ノ移動ヲ命ジ若ハ之ヲ禁止若ハ制限スルコトヲ得
 第五条 政府ハ必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲシテ所要ノ義務ニ従事セシメ又ハ帝国法人其ノ他ノ団体ヲシテ之ニ協力セシムルコトヲ得
 第六条 政府ハ第二条乃至[ないし]前条ノ場合ニ於テ必要アルトキハ命令ノ定ムル所依リ報告ヲ徹シ又ハ当該官吏ヲシテ必要ナル場所ニ立入リ検査ヲ為サシムルコトヲ得
 第七条 政府ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ第二条乃至第四条ノ規定ニ依ル命令又ハ処分ニ因リ生ジタル損失ヲ補償ス
 第八条 左ノ各項の一ニ該当スル者は三年以下ノ懲役又ハ五千円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第二条第一項ノ規定ニ依ル土地、建物其ノ他工作物又ハ物件ノ管理、使用又ハ収用ヲ拒ミ、妨ゲ又ハ忌避シタル者
 二 第三条第二項又ハ第四条ノ規定ニ依ル命令又ハ禁止若ハ制限ニ違反シタル者
 三 第三条ニ項ノ規定ニ依ル移転、除去其ノ他ノ行為ヲ拒ミ、妨ゲ又ハ忌避シタル者
 第九条 第五条ノ規定ニ違反シ所要ノ業務ニ従事セザル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
 第十条 第六条ノ規定ニ依ル当該官吏ノ立入検査ヲ拒ミ、妨ゲ又ハ忌避シタル者ハ六月以下ノ懲役又ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス
 第十一条 第六条ノ規定ニ依ル報告ヲ怠リ又ハ虚偽ノ報告ヲ為シタル者ハ千円以下ノ罰金ニ処ス

   付 則

 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

    軍事特別措置法案理由書
大東亜戦争ニ際シ築城、設営其ノ他軍事上緊要ナル事項ヲ整備シ以テ国土防衛の完璧ヲ期スルノ要アリ是レ」

 4月8日、大陸令第1298号で、陸軍航空総軍が創設されました=総司令官・河辺正三。通称号・帥。軍隊符号・FSA(外山操、森松俊夫・編(1993年):『帝国陸軍編成総覧 第二巻 近代日本軍事組織・人事資料総覧』。芙蓉書房出版。●頁。●頁-●頁)。
 ●『本土航空作戦記録』が、陸軍航空総軍創設のいきさつをのべています。
 「……本土に於ける陸軍航空の状態を観察するに其(そ)の統帥組織は複雑多岐を極め或は海軍指揮官の指揮下に或は防衛総司令官の指揮下に或は又(また)陸軍航空総監の指揮下に或は更に陸軍航空本部長の指揮下に其の戦力を支分固定せられたる儘(まま)沖縄作戦に、防空作戦に、教育補充乃至[ないし]は修理補給に夫々(それぞれ)従事しある状況にして全航空戦力を統合組織して其の充実培養を図り而(しか)も之(これ)を我か欲する時と処に集結使用することは至難とも言ふべき状態に置かれてあり●に於いて大本営は本土に於ける航空作戦を遂行する為には本土に於ける航空部隊の組織を一元化し全航空兵力を統合運営することの必要を認め航空総軍司令部を創設して大本営直属の第一航空軍、防衛総司令官隷下の第六航空軍、陸軍航空総監隷下の各教導飛行師団、陸軍航空本部長隷下の各航空廠補給廠等を航空総軍戦闘序列に編入し之を航空総軍司令官(陸軍大将河辺正三)をして統制せしむ」
 4月、航空総軍は、「航空総軍作戦計画の大綱」を策定します(●『本土航空作戦記録』)。
 「   一 作戦目的
 航空総軍は地上総軍及海軍と協同し本土に侵寇する敵軍を撃滅し本土枢要部を掩護す
     二 作戦方針
 航空総軍は一部の作戦を遂行しつつ七月末迄に決号作戦準備を概成し敵の本土侵寇に方りては努めて之を洋上に覆滅す戦術の重点は関東地方及九州地方とし決戦方面は大本営の指示に依る
     三 作戦要綱
一、 決号作戦準備は七月末迄に之を概成し爾後努めて速やかに之を完成す其の重点は関東地方及九州地方とす
二、 決号作戦遂行の主戦力は決と号部隊とす之か為為し得る限り多量のと号部隊を編成し之を各方面に分散秘匿しつつ戦力の向上を図り決戦に方りては決戦方面に集結投入して一挙に敵を覆滅す
三、 決と号部隊に対する編成、教育之に必要なる飛行場の新設又は補修整備所要飛行機其の他の兵器の整備等に関しては万遺憾なきを期す
 (以下、略)」
 ここでいう「決と号部隊」というのは、本土決戦作戦のための航空部隊で、本土に上陸しようとするアメリカの船団を破壊するための特別攻撃隊のことでした。

 「航空総軍の最終的な目標は、本土決戦が始まったとき、敵の輸送船団へ全機が特攻攻撃をかけることにあった。したがって、戦力温存のために徹底した隠蔽をはかり、防空戦闘にもむやみに使わないことが定められた。」(渡辺洋二『本土決戦』。朝日ソノラマ。1997年8月10日。全430ページの351ページ)。
 同月策定の「第一航空軍作戦計画の大綱」は、つぎのように決めています(防衛庁防衛研修所戦史室(1968年):『戦史叢書 本土防空作戦』。朝雲新聞社。●頁。●頁-●頁)。
 「 (前略)
 二 敵の本土侵寇に当たっては、全軍特攻戦法により、敵の本土上陸前に洋上においてこれを撃滅する。
 三 敵の本土侵寇前における作戦は、前項の目的達成を主とし、作戦指導は次による。
(一) 敵空軍の本土来襲に当っては、一部の飛行部隊を特定し第一、第二総軍の担当する本土要地の防空に協力する。
(二) 右指定以外の飛行部隊は、飛行場外に広く分散、遮蔽(しゃへい)、秘匿し戦力の保全を図る。
(三) 各航空基地における防空は、対空射撃部隊及び一般地上勤務部隊の刺違邀撃(ようげき)により敵機の必墜を期す。
(四) 前各項による以外の部隊及び施設は分散、遮蔽、秘匿、掩護に徹し戦力の保全に遺憾なからしめる。
(後略)」
 陸軍高松飛行場の檜與平大佐は、「陸軍航空の最高指導方針」として飛行機を秘匿する方針が出たことを受けて動き始めます(檜與平『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』)。
 「……やがて陸軍航空の最高指導方針が示された。それは、二月中旬の敵機動部隊の本土空襲いらい、はじめてのことであった。
 その主旨は、本土上陸作戦(決号作戦)に備え、飛行機を温存することに徹する。したがって、その方法としては、別命をうけた部隊以外は、飛行機の隠匿(いんとく)につとめ、敵の空襲に対し、絶対に被害をこうむらないようする、というのであった。」
 「……まず、以上の命令にもとづいて、まず飛行場の近くにある由良山に横穴格納庫を建設する一方、飛行場から、無数の蛸足(たこあし)のような誘導路を新設することになり、高松中学校の学徒動員と、高松市民の勤労奉仕が、連日にわたってつづけられた。
 そして、将校生徒たちは、その激励にまわった。もはや訓練から決号作戦への準備にうつったのであった。」
 檜大尉の本に出てくる「高松中学校の学徒動員」のことですが、高松中学校(いまの高松高等学校)の三年生になっていた水原良昌さんも動員されています(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)。

 「私達の[高松]飛行場での作業は[一九四五年]四月下旬で終わり、五月からは二週間程木太町へ、……」、「木太町の作業場は、旧国道一一号線の玉藻中学から南へ高徳線を横切って長尾街道に至る道路沿いであった。(中略)一面に麦畑が続く砂地でツルハシはあまり使わずスコップだけで掘れたものである。」
 水原さんへの聞き取りによると、木太町での作業は、陸軍高松飛行場の誘導路づくりで、飛行場からの道路を観光道路につなぐ作業でした。
 誘導路づくりのことは、香川県で出版された本に出てきます。
 「……飛行学校の将校生徒は、“将来、こうして隠している飛行機が敵空母をやっつけるんだ゛と激励して回った。」、「高松飛行場から延びたタコの足は、元山、木太、太田と三キロも離れた場所へつづき、そこに飛行機を隠した(元中尉・池田盛夫さん談)。」(『昭和五十年史 上巻 香川・激動の二十年』)。
  「秘匿場所としては、屋島の屋島神社参道、太田の広田八幡、一宮村の香東川[こうとうがわ]河原、太田町の大池附近などの松林の陰や由良山北麓に、上空から見えないように作ったおおいの中に数機ずつ隠した。また観光道路(旧国道十一号線)沿道の空地にも、よしずを立て掛けたり、木の枝でおおって隠した。機種は、九七戦・四八戦・双発連絡機などであった。」(高松空襲戦災史編集室(1983年):『高松空襲戦災誌』。66頁)。
 「由良山には格納庫が造られ、飛行場からタコ足のように誘導路が造られた。また、一〇㌔㍍も離れた屋島神社参道の松並木・太田上町の広田神社・一宮村の香東河原・太田町の大池周辺などの森林の中におおいをして隠した。九七式・四式戦闘機、双発連絡など、数十機に及んだ。」(●『高松百年史 上巻 ●』)。
 陸軍高松飛行場の建設は、はじめ民間業者がおこなっていました。しかし、同飛行場を教育訓練用飛行場から作戦飛行場にするため、軍の直営で工事をすることになり、5月中旬に伊丹飛行場にいた第141野戦飛行場設営隊(隊長・川野真平大尉)約200人が到着し、地元の勤労奉仕団とともに工事を開始しました。すでに基礎整地ができていた東西の滑走路を舗装しました。規模は、戦闘機が離着陸できる最少限のもので、長さ約800メートル、幅約50メートルでした。設営隊は、飛行場のほか飛行場秘匿のために、由良山北麓をけずったり、土盛しておおいをつくり、飛行場の秘匿場所に通じる数本の誘導路もつくりました。(高松空襲戦災史編集室(1983年):『高松空襲戦災誌』。67頁-68頁)。

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● 香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その10 陸軍高松飛行場の機能~1945年4月から 飛行場そのものの隠す作戦が始まりました。

   【秘匿飛行場の建設が開始】

 沖縄戦の最中の4月、本土各地に陸軍秘匿(ひとく)飛行場の建設が開始されました。
 飛行機を隠すだけでなく、飛行場そのものを隠すためです。
 その間の事情が、第一復員局(1946年12月):『本土航空作戦記録』の「本土航空施設の梗概」の「昭和二十年[一九四五年]四月以降の状況」に書かれています。
 「昭和二十年四月に入るや硫黄島敵手に入り沖縄又敵の侵す所となるに及ひ本土決戦の機愈々(いよいよ)近きを思はしめ敵の本土上陸迄(まで)航空戦力を絶対確保するの要切なるものあり
一方B―29及艦載機の攻撃遂次熾烈(しれつ)となり航空機の生産低下するのみならず完成機も漸減する状況にして敵の本土上陸迄(まで)訓練を犠牲とするも現有機を絶対確保するの施策を要するに至れり
之か為(ため)重要施設の地下移行を理想とするも資材及労力之を許ささる為燃料弾薬は洞窟内に収容する他飛行機は取敢へす飛行場周辺の地形地物を利用して分散秘匿することとし(別紙第三参照)各部隊に対し一斉に之か実施を指令せられたり
以上諸施策の徹底により六月末頃には敵艦載機の猛攻下に於(おい)ても損害を減少し概(おおむ)ね持久態勢を確立するを得たり
右の如く分散秘匿せる飛行機を戦機に投し飛行場に運搬し発進せしむることは甚(はなは)た困難にして敵の制空圏外にある場合に於ても最小限四時間を要し敵の制空時に於ては夜間以外飛行機の運搬不可能にして攻撃時機は払暁と限定せらるるに至(いた)り敵機動部隊を好機に投し攻撃し得さるは必然なり之か欠点を打開する為には飛行場それ自体を秘匿せさるを得す而して広大なる飛行場を敵に発見せられすして建設する為には地形特に有利なるを第一条件とす之か為有ゆる機関及部隊を動員して適地を調査すると共に秘匿飛行場の構想(別紙第四参照)に各作業部隊の創意を凝し四月以降左記飛行場の工事に着手せり
東北方面  三本木、六郷、金ケ崎、水澤、王城寺、棚倉
関東方面  矢板、結城、真壁、御勅使河原、今市、龍ヶ崎、熊谷、北富士
北陸方面  八色原、新潟、村松
東海方面  関、大垣、菰野(こもの)、鈴鹿
中部方面  粉河、神野、青野原、福知山
中国方面  行幸、倉吉、埴生
四国方面  丸亀、国分、松山
九州方面  津屋崎、福島、山鹿、飯野、小林、甘木、人吉、熊本、豊後
(後略)」
 ここに香川県関係では、いまテーマにしている「丸亀」、「国分」が出てきます。
 香川県の3カ所で道路を拡張して陸軍の秘匿(ひとく)飛行場がつくられはじめました。
 高松市の屋島の南の古高松(ふるたかまつ)=屋島飛行場
 綾歌郡の端岡村(はしおかむら)=いまは高松市国分寺町=国分飛行場
 飯野山(讃岐富士)の南の綾歌郡の坂本村と飯野村(いいのむら)と坂本村=いまは丸亀市=丸亀飛行場
 高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)は、この3つについてつぎのように記述しています。
 「決号(けつごう)作戦の一環として、全国的に特攻用の秘匿飛行場が計画された。比較的海岸に近く、千㍍程度の直線がとれる幹線道路を拡張して作ろうというものであった。
 香川県では、観光道路の新川橋から東に屋島飛行場が、端岡―国分間に端岡飛行場(旧十一号線はそのなごり)が、飯野村山の谷から西への県道に丸亀飛行場が、それぞれ作られることになった。」

 端岡飛行場と、国分飛行場は同じものです。

 決号作戦とは、アジア太平洋戦争のときの「帝國陸海軍作戦計画大綱」での陸軍案の名称です。
 大本営(戦時中に設置された大日本帝国陸軍、海軍の最高統帥機関。天皇の命令を大本営命令、大本営海軍部命令として発令する最高司令部)は、比島決戦に力を注ぎましたが、一九四五年一月九日、アメリカ軍のルソン島リンガエン湾上陸によって、フィリピンにおける日本軍の敗北が決定的なものとなりました。同地の喪失とアメリカ軍の本土進攻は時間の問題となっていました。
 アメリカ軍潜水艦の攻撃による輸送船の不足に加え、マリアナ海戦、レイテ沖海戦以後は制海・制空権を奪われ、内地と外地の連絡網は遮断され、撤退も増援も絶望的な状況に陥っていました。
 そうしたなか、大本営は、連合国軍の本土侵攻を遅延させ、その間、本土の作戦準備態勢を確立するために同月20日、「帝国陸海軍作戦計画大網」を定めます。
 この作戦計画は、千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域に連合国軍が侵攻してきた場合、できる限り抗戦して敵の出血を図りつつ、軍備を整え、日本本土で決戦をおこなうというものでした。

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香川県の陸軍飛行部隊は、なぜ、アメリカ軍を迎撃しなかったのか  その11 香川に三つの陸軍秘匿飛行場がつくられていました。

 香川県の陸軍秘匿飛行場、屋島飛行場、国分飛行場、丸亀飛行場の建設は始まっていました。

 陸軍が最初に建設に着手したのは屋島飛行場のようです。

   ○ 陸軍屋島飛行場

   どこにつくられていたのでしょうか

 陸軍屋島飛行場は、どこにつくられていたのでしょうか。
 当時の資料で、この飛行場の位置、規模などをしめしたものはないかと探しましたが、アメリカ軍とGHQがつくったものがありました。
 前述したアメリカ軍が、1945年5月28日に高度約1万メートルから撮影した写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」に、この飛行場が写っています。
 陸軍高松飛行場が写っていますが、そこから右上の所に屋島が写っています。
 その下に横に道路が走っています。観光道路です。
 その写真をトリミングして拡大しました。(写真1)
 観光道路(いまは、県道牟礼中新線)が屋島の登山口付近で拡幅されています。 
 観光道路の一部が拡幅されて陸軍の飛行場になっていたと思われます。
 当時の地図を示します。
 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)です。(地図1)
 この2つの地図をつないだものにに、写真にある膨らんだ部分を2赤色で落としました。(地図2)
 同じように写真の膨らんだ所を現在の地図に水色で落としました。(地図3)
 その1つの資料は、前出の『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』です。
 アメリカ軍は、この飛行場をキライ(帰来)飛行場と呼んでいました。
 「k.キライ-北緯34度20分、東経134度1分:
 分類: MLG
 場所: 高松から東へ3マイルの1号線の最近改修された箇所の広げられた部分にある。
 飛行場は、建設中で、西南西の端へ向かって2850フィートの未舗装路であり、水はけが良い。[約868.68メートル]
 滑走路:東北東から西南西へ4825フィート×100フィート。西南西へ1200フィート拡張可能。建物や分散地域はない。
 地形上の障害物:1マイル北に標高960フィートの丘、2マイル南東に標高945フィートの丘。」
 MLGは、「中型爆撃機着陸場」のことです。

 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)には、こう記されています。
  「屋島飛行場は、飛行場を秘匿している屋島神社参道の西側の畑を整地拡張した。また、参道を出た付近の観光道路を約千㍍にわたって拡張し、戦闘機が離着陸できるようにした。
 これは本土決戦の際、特攻機の中継離着場になるとともに、参道に秘匿疎開した飛行機を、高松飛行場まで運ぶことなく、直ちにここから発信できるようにしたものと思われる。」

 屋島飛行場は、溶岩台地である屋島の南側を横切る国道22号(観光道路)屋島飛行場は、この道路を利用してつくられていました(いまは、県道155号です)。この道路の左右には建物もありましたが、ほとんどが田んぼでした。
 屋島の南側の両サイドは塩田でした。屋島南部の屋島神社の参道は、屋島の南部を横切る国道22号(観光道路)につながっていました。

   いつからつくられていたのでしょうか。
 
 陸軍屋島飛行場づくりは、いつからはじまったのでしょうか。
 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)は、「これらの作業は、昭和二十年[一九四五年]春ごろから開始され、林村の飛行場作業に当たっていた高松中学校の生徒が、付近の住民と共に作業に従事した。」と書いています。

 高松第一中学校(高松市)の『昭和二十年度[一九四五年度]教務日誌』(●)を読むと、少なくとも5月20日には工事が始まっていたことがわかります。
 同学校の生徒たちは、陸軍屋島飛行場づくりに動員されていました。
 アメリカ軍機の空襲の警戒警報、の空襲警報がしばしば出ているなかでの作業でした。
 ○ 五月十五日 火曜日 風後雲
 「午後六時ヨリ於高中校[高松中学校]林動員打合会ヘ学校長出席」
 ○ 五月十六日 水曜日 晴
 「午後二時三十分ヨリ職員会 林村動員ニ関スル件外……」
 ○ 五月十八日 金曜日 晴
 「三ノ一、二ノ一、二、本日より五日間軍事施設協力動員出勤」
 ○ 五月十九日 土曜日 雨
 「雨天ノ為軍事施設協力出動の中止 普通授業(三ノ一、二、ノ一、二)」
 ○ 五月二十日 日曜日 雲 小雨
 「三ノ一、二ノ一、二 年 屋島へ出勤」
 ○ 五月二十一日 月曜日 雨
 「三ノ二、二ノ一、二、屋島出動」
 ○ 五月二十四日 木曜日 晴
 「二ノ三、四、五、明二五日ヨリ屋島ヘ出勤ニ付キ休暇を貰フ」
 ○ 五月二十五日 金曜日 晴
 「二ノ三、四、五 屋島作業」
 ○ 五月二十六日 土曜日 晴
 「二ノ三、四、五 屋島ニ出動」
 ○ 五月二十七日 日曜日 晴
 「第五日曜ニテ休業」
 「屋島出動 二年三、四、五」
 ○ 五月二十八日 月曜日 晴
 「屋島出動 二年一、二、三
 二年四、五ハ代休」
 ○ 五月二十九日 火曜日 晴
 「屋島出動 二年一、二、四
 二年三 代休」
 ○ 五月三十日 水曜日 晴
 「屋島出動二年一、二、五」
 ○ 五月三十一日 木曜日 晴
 「二年一、二、五 屋島出動 正午ニテ切上ゲ
 后一時一〇分ヨリ東宝ニテ映画観賞」
 [東宝で上映していたのは軍神ものの「後に続くを信ず」(一九四五年三月八日)でした。]

   このようにしてつくられました

  陸軍屋島は、このようにしてつくられました。
 牟礼町史編集委員会(1993年):『牟礼町史』(牟礼町。●頁。●頁-●頁)に、つぎのように書かれています。
 「本町を縦断する国道一一号の元になった道路は、江戸初期に設けられた浜街道(志度街道)である。そのころの幅員[ふくいん。道路・橋・船などの、はば]は約三・八㍍ぐらいで、高松市高松町東端から小松歯科医院(王墓)の前を通り、柴野製菓の前を右折神櫛王墓前を牟礼川に沿って西林寺前へ出、赤坂を経て皿池の堤防を通り堀越へ、西門寺跡といわれる所で直角に左折し牟礼小学校横を通った。川東の農協大町出張所前から元結峠の一里松を右に見て、幡羅八幡神社前を直進海岸近くに出て、宮前・原浜の家並みの間を志度町に入っていた。
 大正九年(一九二〇)四月の道路法の施行によって、この道路が国道二二号となった。その後観光道路の名称で旧一一号線が中新町から屋島の馬場先を経て白羽神社馬場先近くまで新設された(太平洋戦争末期には、高松町から春日町にかけては飛行機の滑走路として使用するため沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られた)。」
 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)には、こう記されています。
  「工事は道路を滑走路幅に広げ、両側に道路と平行して深い溝を掘って、その土を道路との間に盛りあげ、同じ高さにして固めていった。
 基礎には、牟礼や庵治から手ごろな大きな砕石を運んできて敷石した。」(高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』。69頁)

 高松市の高松中学校の3年生だった水原良昌さんも陸軍屋島飛行場づくりにどういんされます。一緒に動員されたのは3年生全5クラスでした。5中旬から1カ月少々でした。

 「屋島は、東照宮の馬場先附近の約一キロにわたる旧十一号線沿いであった。道路下の田んぼで掘った土をモッコで担いで運ぶ作業が中心であったが、幾日間かは庵治の丸山峠まで歩いて石の採集に往復する事もあった。太い竹竿でモッコ担ぎを連日続けていると両肩が青く赤く腫れあがって痛んだ。そのうちに血膿が出て来たらどうしょうかと真剣に心配した程であるが顔をしかめながら頑張った。」。「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)
 屋島風土記編纂委員会():『屋島風土記』(屋島文化協会。美巧堂。●頁。●頁-●頁)にも、屋島飛行場のことが書かれていました。
 その本の編集にたずさわったかたの一人と連絡をとりました。
 お話を聞かせていただき、陸軍屋島飛行場のあった場所に案内していただきました。
 そのかたの調査によると、陸軍屋島飛行場は、県道155号の新川橋の所から屋島神社の参道がクロスする所までの間にありました。この間は、千メートル以上あるといいます。国道22号でした(その後、国道11号)。コンクリート舗装していました。
 観光道路が屋島神社の参道がクロスする所から北の屋島神社参道の両側は立派な松林でした。一九四五年、クロスする所から十数メートルいったところの左側に白っぽい飛行機が数機置いてあったのを見たといいます。松林の下に隠してありました。前の翼に乗って遊んだことがあるといいます。
 高松市の男性・Tさん(一九三五年十月生まれ。終戦時は、高松市の二番丁国民学校四年生)は、一九四五年に高松市木太町(きたちょう)に住んでいた女性から、当時聞いた、次の話を教えてくれました。
 「(陸軍屋島飛行場の関係で)庭の立派な松の木を切らされた。『飛行機の離着陸とときに、松の木に翼が当たって邪魔になる』ということだった」 
 木太町は、陸軍屋島飛行場の南西にあたります。
 この飛行場は、終戦時にも建設中ですが、私は、少なくとも6月末には使用可能だったのではないかと推定しています(7月4日のアメリカ軍機の高松空襲のときには標的の1つになっていたこと、動員されていた高松中学校の生徒たちが、途中から他の飛行場の建設工事に移っていることなどからの推測です)。

 (写真1)  陸軍屋島飛行場と、その周辺=アメリカ軍が1945年5月28日に高度約1万メートルから撮影した写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の一部

 (地図1) 陸軍屋島飛行場の位置=大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)にアメリカ軍の写真のふくらんだ部分を赤色で書きこみました

 (地図2) 陸軍屋島飛行場の位置=現在の地図にアメリカ軍の写真のふくらんだ部分水色で落としました。

    ○ 陸軍国分飛行場
 

     どこにつくられていたでしょうか

 

 綾歌郡端岡村(はしおかむら)の陸軍国分飛行場は、どこにつくられていたでしょうか。

 陸軍国分飛行場については、国分寺町誌編纂委員会(2005年):『さぬき国分寺町誌』(国分寺町。1009頁。461頁-462頁)に書かれてありました。
 「終戦後の村」という所です。
 「(国分寺町国分字東滑走路、国分寺町国分字西滑走路は)戦争中に道路を滑走路として使用することを目的として作られたものだという。東端が端岡山で、西へ約一㌔㍍、幅五〇メートルの道路であった。今は県道33号となっている。多くの田がつぶされ、宅地も壊された。
 戦後耕地整理組合がつくられ、この道路を元の田に帰すことになった。昭和二十三年(一九四八)から昭和二十七・八年(一九五二・三)ごろまでかかった。道を田に帰すということで、引揚者や近くの農家の人が出て、水路も残して元の田に作り上げた。」
 この位置や大きさは、戦後につくられた「国分寺町国分字東滑走路地図」、「国分寺町国分字西滑走路地図」という文書を見ればわかるとありました。
 高松市国分寺支所にお願いして、「国分寺町国分字東滑走路地図」と「国分寺町国分字西滑走路地図」を見せていただきました。
 前者は、「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 弐枚内壱号 縮尺六万分ノ一」と書かれたものです。
 後者は、「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 縮尺六万分ノ一 弐枚ノ内二号」と書かれています。
 添付資料では、後者は長いので二枚にしてあります。
 これを、いまの住宅地図に落としました。(地図1)
 滑走路は赤で囲った部分だと思います。いまの地図に落としたものです。
 ほかに飛行機の格納庫などもあったということです。
 
    どうやってつくっていたのでしょうか
 
 陸軍国分飛行場づくりを、どこの部隊が担当したのだろうかといろいろ本を探しました。やっと、つぎの本に書いてあることがわかりました。
 国分寺町立国分寺北部小学校開校百周年記念事業記念誌委員会編集部(1995年)『あかもん 国分寺北部小学校百年誌』(●頁)の年表(●頁)に、同校が端岡国民学校(山田可彰校長)だったときの、こんな記述があります。
 1944年の項です。
 「飛行場滑走路を作るために軍隊が駐屯し、講堂と中棟校舎を使用する。
 運動場を、さつまいも畑にする。
 運動場の東端と職員室の北側の中庭に防空壕を造り、緊急の時の避難場所にする。」
 それには、当時の児童の手記も載っています。
 1940年入学、1945年度卒業の白井加寿志さんの手記から。
 「国分に滑走路が造られるということで、愛媛県の吉田ケ浜航空隊の方々が講堂に駐屯してその作業に当られた。私達は、予科練の歌を『今日も飛ぶ飛ぶ吉田ケ浜にゃ』とことばを替えて歓迎した。」
 予科練というのは、海軍飛行予科練習生のことです。
 吉田浜というのは松山海軍航空隊のあった所です。
 陸軍国分飛行場は、1945年4月以降に建設されていたはずですが、1944年4月から海軍が国分寺に飛行場をつくっていたというのです。
 浄土卓也(1992年):『朝鮮人の強制連行と徴用 香川県・三菱直島製練所と軍事施設』(社会評論社。279頁。●頁-●頁)にも、国分飛行場づくりと朝鮮人のことが書かれています。
 国分寺町福家(ふけ)の長然寺(ちょうねんじ)の釈氏(きくち)昭麿住職の1977年8月の証言=1944年か1945年のこと、朝鮮から強制的に連れてこられていた人たちが陸軍端岡(はしおか)―国分寺飛行場づくりのため働いていました。付近の日本人も動員されて工事がなされていました。朝鮮人たちは、綾歌郡下の山ノ内村の一隅にバラックが二、三棟建てられて、そこから通っていました。
 金正一さんの証言=この作業は玉藻組が受け持ちました。朝鮮人たちは、1944年には来ていました。朝鮮本土から直接連行されてきていました。人数は、3、40人でした。金さん自身、金光組(かねみつぐみ)という労務請負の組を持っていた関係で、ここの作業現場にも何度か来たことがあります。
 玉藻組というのは、香川県の平井太郎さん(1905年7月17日~1973年124日)がおこした土木建築業・玉藻組のことです(平井さんの没後、にんげん平井太郎編集委員会(1979年):『にんげん 平井太郎 偉大なるその生涯』<平井卓志。西日本放送株式会社。1。●頁>が出ていますが、そこに、軍の工事をたくさん引き受けていた同社の姿も語られています。)。
 1944年から海軍が、ここで飛行場をつくっていた!?
 一方では、国分飛行場づくりを陸軍兵が指揮していたことを書いた手記もあります。

 陸軍屋島飛行場での作業を終えた高松市の高松中学校の3年生の水原良昌さんたちも、1945年6月下旬からも国分飛行場づくりに動員されます。

 「国分寺での作業は、旧国鉄国分寺駅と端岡駅の間の旧国道の拡張作業である。六月も終りになると昼過ぎから暑さがきびしく、その上、銃も剣も持っていない[陸軍の]兵隊集団と一緒の作業で、何となく雑然とした雰囲気であった。

 その上特別幹部候補生出身という伍長が偉っそうに号令をかけるのでいらいらした。何の理由で偉っそうに号令を受けなければならないのか不愉快であった。兵隊達は細くて弱弱しかったが、この伍長だけはがしっとした体格をしていて四角ばった鬼顔でやたらと大声を出して張り切っていた。」(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁-26頁)。

 どうしたことでしょうか。
 地元の人たちに聞き回って、やっと事情がのみこめました。
 たとえば、飛行場がつくられていた場所のすぐ北にある法華寺の関係者は、戦争中、まず海軍の飛行予科練習生が、この寺にも泊って飛行場づくりの作業をしていたが、途中でその兵隊たちは帰り、変わって陸軍の兵隊たちがこの寺に泊りこんで飛行場づくりの作業をしていたとのことです。

 香川県立坂出工業学校(瀧本喜作夫校長)の生徒も、国分飛行場づくりに動員されています。
 1945年4月、2年生になった機械科の平田邦昭さんは、つぎのように書いています(「思い出の記」=五十周年誌編集委員会『創立五十周年誌』。香川県立坂出高等学校長・十河正巳。1987年11月14日。●ページ。●ページ-●ページ)。
 「●設営された本土決戦用航空基地作りに一年生と共に汗を流した」

 (地図1) 国分飛行場のあった地域=「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 弐枚内壱号 縮尺六万分ノ一」、「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 縮尺六万分ノ一 弐枚ノ内二号」の国分飛行場の滑走路のあった所を、いまの住宅地図に落としました。赤で囲った部分です

   【陸軍丸亀飛行場】

 3つ目の丸亀飛行場も着手されました。

 【陸軍丸亀飛行場】
 
 どこにつくられていたでしょうか
 
 陸軍丸亀飛行場は、どこなつくられていたのでしょうか。

 それは、飯野山(いいのやま)(標高421.87メートル)の南、山綾歌郡坂本村、綾歌郡飯野村(いいのむら)につくられていました。

 アメリカ軍の写真撮影機F-13が、それを撮影しています。8月5日のアメリカ軍の『飛行場報告 第144号』に、その写真が載っています。加工されたもので「北」が示され、飛行場は「○」で囲まれています。(工藤洋三(2011):『米国の写真偵察と日本空襲』。190頁、150頁)。少なくとも、この時点では、アメリカ軍は、この秘匿飛行場の存在を知っていたことになります。
 飯山町誌編さん委員会(1988年):『飯山町誌(はんざんちょうし)』(飯山町=香川県綾歌郡。938頁)の485ページからの「陸軍飯野山飛行場」に、陸軍丸亀飛行場のことが書いてあります(陸軍丸亀飛行場と陸軍飯野山飛行場は同じものです)。
 陸軍丸亀飛行場は、いまの県道18号(善通寺―府中)にそっていました。
 長さは、東は、川原土居から、西は飯野村山根東にいたる全長約1・5キロメートルです。幅は約100メートルです。
 東部の川原土居付近で、道路の北側(飯野山までの間)で幅約100メートルです。
 西の山根東地区では、北側に、にごり池がありますので、道路の南側で約100メートルです。
 道路にそって幅百メートルの細長い長方形の滑走路で、その面積は約21町6反余り(214214.876平方メートル)でした。
 付属施設もつくられました。

 ○ 格納庫1棟  東坂元三の池、滝房吉所有田
 ○ 格納庫1棟  西坂元高柳、松永博俊所有田
 ○ 兵舎1棟   東坂元秋常、高木真一所有田
 ○ 調理室、浴場 東坂元秋常、新池所有山林内

 こうしたものをつくるため、多くの家屋も立ち退きを命じられました。
 つぎのようなかたの家屋17戸です。
 <土居>
 鶴岡森次 平田常三郎 平田利久 平田金八 山口善平 平田平太郎 泉久太 抜井嘉平太 平田イトエ 沢井一 本条直次 宮井宗義 平田トウ 抜井勝義
 <山の越>
 東原昌彦
 <国持>
 金丸弘 村山ワキ

 つぎのような手記もありました。
 この飛行場建設のため家を取り上げられた家の息子・鶴岡俊彦(つるおかとしひこ)さん(1936年生まれ)は、当時、坂本国民学校(出淵重太郎校長。いまは丸亀市立飯山北小学校)の3年生でした。
 鶴岡さんは当時のことを書いた文章を残しています(「回想」=飯山町立飯山北小学校創立百周年記念事業実行委員会(1992年):『飯山町立飯山北小学校創立百周年記念誌 桃花』。飯山町立飯山北小学校。●頁。59頁-60頁)。
 「夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。近所の人や父が勤めていた栗熊国民学校[いまは、丸亀市立栗熊小学校]の高等科の生徒が、大八車を引いて手伝いに来てくれた。終戦の玉音放送は、作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引越予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に、『放送はおかしい、負けるはずがない。』『俺たちが居る。降参はしない。』と声高に話すのが頼もしく見えた。
 午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組を残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。」
 こうした記述をもとに現地を歩きました。
 まず、現在の地図です。(地図●)
 飛行場の西方を見ました。
 つぎの地図は丸亀市の「丸亀市都市計画図 15」(二千五百分の一)の一部です。(地図●)
 ① 県道18号の南の田んぼと水路にはさまれた土手のようになった所です。地元の人によると、ここも、戦後、滑走路の土砂をのけて、ここに積み上げたものだといいます。丸い石などがありました。
 写真は、東側から撮影したものです。(写真●)
 ② 桃畑です。持ち主の東原清さん(終戦時・国民学校三年生)によると、ここも飛行場になっていたとのことです。「うちは田んぼを六反とられた」と話してくれました。
 ③ 県道18号の北、山の越の東原孝佳さん宅です。県道18号から、斜めに十メートルほどの道があり、その先に東原さん宅があります。東原さんによると、この家への道の県道18号から見て右側に東原さん宅の倉庫があり、そこは陸軍の弾薬庫にされていたといいます。「小銃、機関銃、大砲が入っていた。鍵の一つは父・東原昌彦が、もう一つは軍が持っていた」。この家への道の県道18号から見て左側に東原さん宅の、もう一つの倉庫があり、それは飛行場の邪魔になるといって取り壊されたといいます。「飛行場づくりの関係で、そのうちに本宅も取り壊されることになっていました」とのことです。
 飛行場の東の端はどこだったか歩いて見ました。
 東原さんは「ここから行くと、県道18号が土居の所で下り坂になるキワでした」といいます。
 鶴岡俊彦さんの手記で「夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。」とありました。
 鶴岡さんのお宅は、戦後、同じ所に建て直されたといいます。
 行ってみると、ありました。「県道18号が土居の所で下り坂になるキワ」の北側でした。
 その附近の県道18号の写真です。西のほうを向いています。
 道路の右側の一番手前の電柱の右が鶴岡さん宅に行く道です。
 地図で鶴岡さん宅と県道18号との関係を示します。(地図●)
つぎの地図は丸亀市の「丸亀市都市計画図 27」(二千五百分の一)の一部です。
 ○で囲んだ所は、西からの道路が下り坂になっている所です。道路上に標高が書いてあるので、下がっていることがわかります。
 こうした調査を参考に、丸亀飛行場の場所を示しました。(地図●)
 しかし、地元の人の話では西にも東にも、もう少し延びていた可能性があります。

   どういうふうにつくられたいたでしょうか

 この飛行場は、どのようにしてつくられていたでしょうか。
 飯山町誌編さん委員会『飯山町誌』(●ページ-●ページ)の記述から年表式に記述します。
 【1945年4月下旬】 坂本村役場吏員・近藤政義さんが坂出市で開かれた事務打合会に出席したおり、係員から「会が終わっても居残るように」と命ぜられました。
 会終了後、軍関係者から「近々、貴村に軍の機密施設をつくるから、取り急ぎ、牛馬車用荷車を80台準備するように」との内示を受けました。
 【5月中旬】 陸軍航空総軍軍司令部から、陸軍丸亀飛行場急設の命令が下り、施設部隊・帥(すい)500部隊長の命によって坂本村隣保館(元坂本村公民館)に帥500部隊丸亀工事隊本部が設置されました。
    [帝国陸軍は1945年1月20日に策定された帝国陸海軍作戦計画大綱にもとづき本土決戦の準備を進め、同年4月8日に作戦準備を促進させるために第1総軍、第2総軍および航空総軍を設置しました。航空総軍の総司令官は河辺正三さん。第1航空軍、第6航空軍が編入されました(5月からは第2航空軍、第5航空軍も)。作戦地域は北東方面を除く内地と朝鮮で、特攻を主とした航空決戦を準備していました。 軍隊符号はFSA。通称号は帥(すい)=『帝国陸軍編制総覧 第三巻』など陸軍航空総軍軍司令部]
 【5月】 坂本村の隣村・綾歌郡法(ほう)勲寺(くんじ)村の平尾安徳村長に、航空総軍丸亀工事隊長から指示があり、「近く空第571部隊500名を飛行場施設のため貴村へ派遣するので、国民学校等を宿舎として借りたいから5月末までに準備するように」といい渡されました。
 村長は、法勲寺国民学校(いまは、飯山南小学校)の学校長、職員と打合せ、まず児童を疎開する計画をたて、疎開先の交渉にあたりました。
  【5月18日】 飛行場づくりの工事に着工しました。大字西坂元字国持、山の越、西沖、大字川原字土居の4地区にたいして「この地区内にある水田は、麦(未熟)を刈り取り、指示された家屋はぜんぶこわして、立ち退くこと」と、田畑の取り上げ命令ならびに当該家屋の立ち退き命令がくだされました。以後、飛行場づくりのために昼夜兼行の突貫工事が開始されました。
 【5月19日】 陸軍施設部隊一個大隊約500人が現地に到着しました。
 【5月20日】 学生勤労奉仕隊が現地に到着しました。高松中学校291人、三豊中学校153人、坂出工業学校203人、尽誠中学校202人、丸亀中学校169人、飯山農業学校300人、合計1318人。軍隊、学生(遠方の人)は、付近の学校、公民館、民家などに宿泊し作業にあたりました。
 【5月21日】 この日から香川県下の綾歌郡、仲多度郡内の一般勤労奉仕隊員約1000人を動員しました。

 こんな工事でした。
 ○ 地域内のすべての水田の麦の刈り取り(麦の麦は未熟)。
 ○ 立ち退き家屋の解体作業、その用材や瓦の取り片付け、移転先への運搬。
 ○ 地域内の小川や水路には、飯野山と土器川河岸から切り取った松の丸太を持ち帰り、これを小川や溝に渡して、その上に土を敷きつめます。飛行場の原型づくりです。
 ○ 平坦にした地面に飯野山の山土、近隣の水田から掘り取った土を積み重ねて敷きつめます。土の運搬は、「もっこ」をかつぎ、「じょうれん」で運ぶ、人力だけが頼りの作業でした。
 ○ 土器川から砂や小石を運び、これを拡散して固め、地面を水平固定化します。

 鶴岡さんは、前出の「回想」でつぎのように書いています。
 「学校の運動場は芋畑に変わり、狭くなった。岡の宮に防空壕が掘られ、母親に作って貰った防空頭巾をかぶり、時々避難訓練をした。また岡の宮でも松の幹に傷をつけ、傷口の下に空き缶をしばりつけ松根(しょうこん)湯(ゆ)を採るような時代であった。
 この頃、飯野山の南麓に軍用飛行場のための滑走路が造られることとなった。(中略)県下各地から中学生が勤労奉仕に動員され、学校[坂本国民学校]に宿泊して作業にあたった。(中略)県内勤労奉仕の生徒に学校をあけ渡すため、私達小学生[ママ。国民学校生]は村内の神社やお寺に分散して授業を受けることとされた。三年生の私は久米氏の八幡様が教室で、机や椅子を運んだ。(中略)山の谷から高柳に通じる道路の北側から飯野山の麓(ふもと)まで滑走路の敷地となり、私の家を含め、近所の家十三軒が壊されることとなった。レールが敷かれ、トロッコで砂利が運び込まれ、整地が進んだ。資材にするために飯野山の松が切り取られたが、今もその跡が鉢巻状に残っている。」

   5月28日に航空総軍の命令 

 5月28日、航空総軍は以下のように命じます。
 「帥(すい)作命丙第四十号 航空総軍命令 [一九四五年]五月二十八日 一〇、〇〇 東京」(「軍事機密」の判が押されています。防衛省防衛研修所図書館蔵)です。
 「一、 航空総軍ハ秘匿飛行場ヲ増設セントス
 二、 第一航空軍司令官ハ六月末概(がい)成(せい)[ほぼできあがること]七月末完成ヲ目途(めど)トシ左記秘匿飛行場ヲ整備スヘシ
    左  記
 三本木 (青森県三本木町附近)
 六 郷 (秋田県六郷町附近)
 金ケ﨑 (岩手県金ケ﨑西方約四粁(キロメートル)高谷野原)
 青野原 (兵庫県北條東南方約四粁)
 神 野 (兵庫県加古川東北方約四粁加古川川原)
 行 幸 (岡山県和気町西南方約十二粁)
 又(また)第三航空教育隊ヨリ将校ノ指揮スル人員各々(おのおの)約一、〇〇〇名ヲ速(すみやか)ニ松山及(および)丸亀新設飛行場ニ派遣シ概(おおむ)ネ七月中旬迄(まで)夫々(それぞれ)中部軍管区経理部松山出張所長及航空総軍経理部長ノ指揮ヲ承ケシムヘシ
 三、陸軍航空基地設定練習部長ハ現ニ各軍管区ニ派遣中ノ指導班ヲシテ前項新設飛行場ノ設定ニ関シ第一航空軍司令官ニ協力セシムヘシ
 四、航空総軍経理部長ハ六月末概成七月末完成ヲ目途トシテ丸亀(香川県)国分(香川県)及倉吉(鳥取県)附近ニ秘匿飛行場ヲ整備スルト共ニ第二項第一航空軍司令官ノ実施スル秘匿飛行場整備ヲ援助スヘシ
 五、細部ニ関シテハ其(そ)ノ都度総軍参謀長オシテ指示セシム」
 「航空総軍司令官 河邊正三」名の命令書で「報告(通報)先」は、「大本営、陸省(1FD、6FA、11FD、下、浜、明KFD、1SA、2SA、11HA、15HA、大阪、広島、善通寺師)となっています。
 ここに丸亀飛行場、国分飛行場のことが出てきます。2カ所とも7月末完成がめどだったことがわかります。

 一方、陸軍高松飛行場では変化がありました。それまで訓練を受けていた乙種搭乗員とビルマの留学生らは、他に転隊しました。残った教官級の搭乗員で最新の五式戦闘機によるロッテ戦法(戦闘編隊訓練)の演習を開始しました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。67頁)

 この時期に、陸軍高松飛行場の航空部隊を助ける部隊が、つぎつぎと配備されました。
 また、同月、千葉県の陸軍下志津飛行師団で結成された陸軍独立第28飛行隊(隊長・亀田良一中佐。約50人)が、高松に派遣されました。同飛行は、仏生山町の円光寺を宿舎にします。この飛行隊は、第100司令部偵察機三型を5機保有し、陸軍高松飛行場の明野戦闘機隊と協力して、土佐沖のアメリカ機動部隊の索敵任務に従事しました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。70頁)

 6月10日、大阪の第3高射砲師団の独立機関砲大隊4117部隊から独立高射機関砲第59中隊(隊長・晄靖中尉)、同第60中隊が高松に到着しました。あわせて約120人でした。20ミリ高射機関砲各4門、飛行機搭載用の12・7ミリメートル機関銃数基を保有していました。それらを、陸軍高松飛行場や周辺の由良山、日山、畑、寺院、大池の堤防などに配備しました。配備された機関銃を敵の襲撃から守るために、近くの人々によって模擬砲がつくられました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。71頁-72頁)

 6月15日、陸軍第60航空地区司令部が編成され、陸軍高松飛行場に駐屯しました。これは、地上部隊、気象、通信などを掌握するための司令部でした。この司令部には、地上部隊の第176飛行場大隊(隊長・太田稔少佐)、第251飛行場大隊(隊長代理・河井大尉)が属していました。飛行場大隊は、警備中隊(飛行場と、その周辺の警備を担当)、補給中隊(弾薬・燃料などの補給を担当)から編成されていました。装備として重機関銃1丁、軽機関銃7、8丁を保有していました。警備の範囲は、西は一宮村の農業学校付近から東は川添村にまでおよんでいました。飛行場関係の部隊は、近くの林国民学校、木田国民学校、川添国民学校、古高松国民学校、鶴尾国民学校、木田高等女学校、木田農業学校などの校舎や民家に駐屯していました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。70頁-71頁)

 補給中隊は、アメリカ軍の爆撃を避けるため、弾薬、燃料の疎開をしました。
 由良山南側隧道(ずいどう)、三谷の日山、通谷に弾薬を、三谷神社西の隧道にドラム缶(アルコール)を、大川郡志度の末、造田村の乙井(おとい)の山かげにドラム缶(ガソリン、重油)、爆弾を貯蔵しました。民家の倉庫などにも物

 同書によると、補給中隊は、アメリカ軍の空襲を避けるためにつぎの所に弾薬、燃料の疎開をしています。

 ・ 由良山南側隧道(ずいどう)=弾薬

 ・ 三谷の日山=弾薬

 ・ 通谷=弾薬

 ・ 三谷神社西の隧道=ドラム缶(アルコール)

 ・ 大川郡志度町末=ドラム缶(ガソリン、重油)、爆弾

 ・ 造田村乙井(おとい)の山かげドラム缶(ガソリン、重油)、爆弾

 ・ 民家の倉庫など=物資

 6月末、福岡から第6対空無戦隊(秘匿名・靖18954部隊。隊長・佐々木左馬太少佐。約150人)が香川県に移駐しました。同隊の本部は、香川郡浅野村国民学校に駐屯、通信隊や無線隊は、鷺田公会堂、由良山南側の隧道にいました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。72頁)

     つづく秘匿飛行場建設

 その命令の後の丸亀飛行場建設の様子を追います。 
 【6月1日】 横山幹太・航空総軍丸亀工事隊本部隊長は、坂本村の長脇正村長、同役場吏員の近藤政義さんに辞令を交付しました。
 近藤政義さんへの文書は、以下のようなものでした。
 
       坂本村 近藤正義[ママ]
 航空総軍丸亀工事隊事務ヲ嘱託ス
   昭和二十年六月一日
      航空総軍丸亀工事隊本部隊長
       陸軍嘱託 横山幹太 印

 この日、飛行場予定地で起工式がありました。法勲寺村村長も出席しました。
 また、この日、法勲寺村村長は、法勲寺国民学校の児童を下記のように疎開することに決定しました。
 1年生2組 島田寺
 2年生2組 原川十王堂
 高等科2組 長郷庵
 3年生2組 校内で教室移動する」
 4年生、5年生のこと、書かれていません。
 この日から、国防婦人会幹部を班長として会員延べ460人余りが、帥500部隊本部炊事勤労奉仕をしました(終戦まで)。

 【6月3日】 夜、法勲寺村では緊急常会長会を開催し、「国民学校を宿舎にするので、蚊帳(かや)・釜(かま)等借りたいから協力をお願いする』と連絡しました。
 【6月4日】 空第571部隊先発隊が法勲寺村に来村し、法勲寺国民学校の学校内を見てまわり、左のように決定しました。
 講堂と八教室を宿舎と医務室。
 理科室を炊事場。
 倉庫を物資収納庫。
 裁縫室を将校集会場。
 授産場を本部と隊長室。
 駐在所を主計室と下士官集会場(当時巡査は単身赴任で役場2階へ移る)。
 役場の倉庫の一部に仮営倉。
 八坂神社の神事場を物干し場。
 【6月5日】 法勲寺村役場職員と空第571部隊の兵隊が手分けして、釜(かま)、炊事用具、蚊帳(かや)の借入に村内をまわりました。
 郡町村長会で依頼した蚊帳が、8か村から届いた。
 美合村 4、造田村 4、長炭村 4、宇多津町 4、坂本村 4、羽床上村 4、川津村 4
 法勲寺村 蚊帳 6、釜 10、炊事用篭 1、包丁 5、杓子(しゃくこ) 1
 その他の用具は法勲寺国民学校のを使用しました。
 風呂は村内の大工を雇って、ドラムカン5個を大束(だいそく)川(がわ)の土手(牛のつめきり場)にすえ、蓋(ふた)や流しなどをつくりました。兵は兵隊風呂と名付けていました。
 上法岡の池へ水浴に行くことを交渉して決めました。風呂ができるるまで、西の山、中の坪の家庭の風呂を利用しました。
 ドラムカンの風呂沸しは、学校の上学年の児童が奉仕する日もありました。水は逆川の水を利用しました。
 飲料水は学校の井戸水では足らないので、西の山の新居久市(現恵)宅から、管を引いて補給しました。
 将校用宿舎は村内で吉馴秀雄(現秀則)宅外4戸間借しました。
 午后になって、軍隊用物資がトラックで、運ばれて来ました。
 【6月6日】 空第571部隊の松木場隊500人が来村し、各々宿舎につきました。
 松木場隊長が法勲寺国民学校内で挨拶の時、当時青年学校の教練教師をしていた川井の吉本晴一と逢い、吉本が初年兵の時の教官であった隊長と10年振りの出会いとなり、それが縁で村長と協議の上、隊の物資(炊事用)購入の交渉係として雇うこととなり、兵二人とその任にあたりました。
 下士官以下は、特別幹部候補生と志願者が多く、九州出身者が大半でした。
 [陸軍特別幹部候補生=1943年12月15日発令された陸軍現役下士官補充及服役臨時特例(勅令922号)にもとづいて採用された者をいいます。採用資格は満15歳以上20歳未満で学歴は問いませんが、速成教育に対応できる程度を確保するため採用試験は中学校3年程度の内容とされていました。身体検査と口頭試問、学科試験に合格すると採用の日から2年間現役に服しました。階級は採用と同時に一等兵を命ぜられ、6ヶ月後に上等兵、さらに6ヶ月後に兵長に進級し1年6ヶ月の課程終了後に下士官に任じられました。]
 【6月7日】 この日から空第571部隊松木場隊の兵は飛行場へ作業に行きました。朝食後運動場に集り、軍歌を歌いながら行進していきました。
 戦時下とはいえ静かな農村が急に軍人の村と化していきました。朝は起床ラッパに起こされ、軍靴の音高く軍歌の声を朝夕に聞きました。
 暑さの中一日の重労働に空腹を我慢して(飯盒八分目位入ったのが2人分の昼食)の毎日で、日を重ねるにつれて元気がなく足も重かったようでした。
 【6月16日】空第571部隊松木場隊と法勲寺村役場合同で、餅つきをして二個ずつ渡しました。
 【6月中旬】 香川県下の三豊郡、仲多渡郡、綾歌郡の牛馬車用奉仕隊約80台を動員して土砂の運搬や飛行場の整地作業にあたらせました。
 毎日毎日数1000人という動員で、6、7、8月の炎天下、突貫作業は続けられていきました。
 【6月17日】 法勲寺村役場は、将校たち幹部を招き、村会議員と役場職員で歓迎会を開き、日頃の労をねぎらいました。
 【6月23日】 香川県香川郡の一宮村(いちのみやむら)青年団が法勲寺国民学校に慰問に来て、講堂で演劇・歌を発表しました。空第571部隊松木場隊から飛入りもありました。
 住民などの工事への動員の実際をみましょう。

  高松市の香川県立高松中学校の2年生(陸軍幼年学校に受験する約40人を除く)は、5月から陸軍丸亀飛行場づくりに動員されています。地元の飯野山国民学校の講堂で寝起きしました。食事は、麦を主体に雑穀をまぜたものでした。(玉翠五五会(1980年):『焼跡の青春 卒業30周年記念誌』。玉翠五五会。312頁。282頁) 

 同じく高松市の高松第一中学校の生徒の陸軍屋島飛行場づくりへの動員は、5月末で終了しましたが、同校の生徒は、その後、陸軍丸亀飛行場づくりに動員されます(『昭和二十年度[一九四五年度]教務日誌』。高松市歴史資料館蔵)。
 ○ 六月一日 金曜日 雲り、後晴れ
 「坂本軍事施設協力出動下見分ノ為学校長出張」
 ○ 六月二日 土曜日 雨、後晴れ
 「午後二時五十分 応接室ニ於テ、職員会アリ
 1、三、二年 坂本村軍事施設協力出動ニ関スル件
 2、食糧増産協力出動ニ関スル件
 3、其他」
 ○ 六月三日 日曜日 晴れ
 「坂本村出勤生徒ニ対スル注意(教頭 学年主任)
 ○ 六月四日 月曜日 雲り
 「三年生、二年一、二 坂本村軍事施設ニ出動準備ノタメ休ミ」
 「田中、西村  坂本村 帥(すい)第五〇〇部隊飯山工事本部ヘ打合セノタメ出張」
 ○ 六月五日 火曜日 晴れ
 「三ノ一、二ノ一、二 坂本村軍事施設協力出動
 菅野、田中、横井、河野先生出動」
 ○ 六月六日 水曜日 晴れ
 「菅野先生 坂本村軍事施設動員 結成式ニ参加ノ為出張」
 「田中、横井先生 坂本ヘ学徒監トシテ昨日ヨリ出張
 末友、久保久先生 食糧増産隊学徒監トシテ昨日ヨリ引続キ出張」
 ○ 六月七日 木曜日 気象の記載なし
 「二ノ一、二、三ノ二、坂本出動(田中、横井、)」
 「利光先生 坂本へ出張」
 ○ 六月八日 金曜日 雲り
 「三ノ二、二ノ一、二、坂本村へ出動(利光 横井 河野)」
 「鶴尾、熊田欠勤ニツキ溝上代理ニ学徒監トシテ行ク」
 ○ 六月九日 土曜日 晴れ
 「三年二、二年一、二 坂本村(河野 横井 利光)」
 ○ 六月十日 晴れ
 「三ノ二、二ノ一、二 坂本村出動中
 (利光、横井、河野)」
 ○ 六月十一日 月曜日 晴れ
 「三年ノ一、二ノ一、二 坂本村(河野 横井 利光)」
 ○ 六月十二日 火曜日 雲り、後晴れ
 「三ノ一、二ノ一、二 坂元村(横井 河野)
 利光先生帰校 田中先生出●」
 ○ 六月十三日 水曜日 小雨、雲り
 「三ノ一、二ノ一、二 坂元村(横井 河野 田中)」
 ○ 六月十四日 木曜日 雲り
 「三ノ一、二ノ一 二ノ二、坂元村ヘ(河野 横井 田中)」
 ○ 六月十五日 金曜日 小雨
 「三ノ一、二ノ一、二、坂元村へ(河野、横井)」
 ○ 六月十六日 土曜日 雲り
 「三ノ一、二ノ一、二ノ二 坂元村出動中
 横井(田中 河野 連絡ノ為メ帰校)」
 ○ 六月十七日 日曜日 晴れ
 「二年三、四、五 坂本ヘ出動準備ノタメ休業」
 「広内、坂本ヘ出発(午後)」
 ○ 六月十八日 月曜日 雲り
 「坂本ヨリ三ノ二、二ノ一、二 引上ゲ 栗林(一五、一五着)
 坂本ヘ二ノ三、四、五 出動 栗林(一五、二八名)
 西村、竹内 引率」
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十日 水曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十一日 木曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五、坂本へ出動中」
 ○ 六月二十二日 金曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五、坂本へ出動中」
 ○ 六月二十三日 土曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五、坂本へ出動中」
 ○ 六月二十四日 日曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「第四日曜ニ付休業
 二年三、四、五 坂本」
 ○ 六月二十五日 月曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五 坂本
  西村 連絡ノタメ帰校」
 ○ 六月二十六日 火曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十七日 水曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「坂本ヨリ 広内 連絡ノタメ帰校」
 ○ 六月二十八日 木曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十九日 金曜日 雨
 「二ノ三 ニノ四 二ノ五 坂本」
 「坂本ヨリ 竹内 連絡ノタメ帰校」
 ○ 六月三十日 土曜日 雨
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五 坂本村ヨリ帰校(一四午)」
 ○ 七月二日 月曜日 晴れ
 なお、この日誌には、それぞれの日のページの右下には教務主任の朱印が押してあります。別項に、この日記の詳細を書きました。

 香川県立丸亀中学校の生徒も動員されました。
 同校の生徒たちを引率した虫本茂忠(むしもとしげたただ)教諭は、つぎのように書いています(香川県立丸亀高等学校編(1973年):『亀城のほとり 香川県立丸亀高等学校創立八十周年記念誌』。香川県立丸亀高等学校。306頁。102頁-103頁)。
 「一年生は飯野山山麓に飛行場作りに行きました。生徒は今の飯山高校の木造校舎こに寝泊まりさせたんですが、中学一年生ですから夜中に『お母さん』といって泣きますし、間食がないから米を炒(い)って持ってきて、お湯をかけて食事の補いをしていました。その米の粉が落ちるものですから、ノミがわくという始末でした。土器川の石を荷車に積み運ばせたのですが、仕事が苦しいというよりは、幼い子どもを動員で家庭から離し、ノミがいっぱいの所で、粗末な食事だけで石を拾わせたものですから可哀そうでした。」
 文中の飯山高校というのは、当時、香川県立飯山農業学校でした。
 動員された女性の手記があります。丸亀市三条町の中北スガノさんのものです(以下、一部を引用。行替えしました)。(香川県職員退職者会(1995年8月15日。)『敗戦五十年記録集”私と戦争”』。角田緑。128頁。72頁)。

 彼女は、農業で、夫は軍属として善通寺師団に勤めていたといいます。
 「飯野山のふもとに飛行場が出来ると言うので勤労奉仕に朝から歩いて、やっと行きますと兵士が体や頭に木の葉をつけて走って居ました。
 食べる物が無いので走りながらバタバタたおれるのです、見ておどろきました。
 地ならしを手伝って昼のおべんとうを食べに親類の家に行きましたが、いとこが居ないので、しき居に腰をかけて食べました。
 持って行ったお茶を飲んで、桃を買って帰ろうとおねがいすると、お米を出さねばくれないとの事。
 夕方まで仕事をして、つかれて皆といっしょに遠い道を帰って来ました。
 自分達が食べる物も無いのに兵隊さんが可愛そうで、皆んなでお米、豆、イモ等を持ちよって郡家地区から三輪車にイッパイつんで送りなんぎしていた兵隊の部隊長に上げたそうです。
 亦[また]、ツギ布が無くてやぶれた所のつくろいも出来ずにこまって居た人が沢山(たくさん)いました。
 亦、丸亀へ行って顔がうつるようなオカユを食べに行っていました……」

  ○ どのように秘匿されたのでしょうか

 ところで、陸軍屋島飛行場、陸軍国分飛行場、陸軍丸亀飛行場は秘匿飛行場です。

 どのように秘匿されたのでしょうか。

  秘匿飛行場は、空から見てもわからないようにと偽装工作がやられていました。

 陸軍屋島飛行場の場合は、こうです。

 「(陸軍屋島飛行場の道路の両側を)拡張した部分は芝でおおい、周囲の田畑と見分けがつかないようにした。」(高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』。69頁)
  陸軍丸亀飛行場の偽装工作は、こんなふうにおこなわれました(●『飯山町誌』。●ページ-●ページ)。
 「●アメリカ軍機の来襲に備え、完成した所から順次、松、カシ、クヌギなど雑木の小枝を等間隔に挿し木します。枯れたら、また挿します。この偽装工作を繰り返し連続実施します。」
 偽装工作については、『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』の「別紙第四」に「秘匿飛行場整備要綱」として二つ図が添付されています。(図1、図2)

 (図1) 秘匿飛行場の偽装工作の例=『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』の「別紙第四」の「秘匿飛行場整備要綱」から

 (図2) 秘匿飛行場の偽装工作の例=『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』の「別紙第四」の「秘匿飛行場整備要綱」から

   天皇は6月に「講和=降伏」を決断

 6月、香川県では陸軍高松飛行場づくりや3つの陸軍秘匿飛行場づくりに県民がかりだされていました。

 一方、大元帥(戦争の最高指導者)は、このころ、「講和=降伏」を決断し、そのための江作を始めていたとされています。

 6月8日に「御前に於ける最高戦争指導会議」がありました。
 天皇のほか、豊田副武・軍令部総長、河辺虎四郎・参謀次長(満州に出張中の梅津 美治郎・参謀総長の代理)、平沼騏一郎・枢密院議長らが出席しました。
 会議の結論は、戦争継続ということになりました。
 その後のことを天皇が語っています。(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。429頁。115-128頁)
 「梅津[美治郎・参謀総長]は会議の翌日満州から帰つて来たが、その報告に依[よ]れば、支那[中国のこと]にある我が全勢力を以[もっ]てしても、米の八ケ師団にしか対抗出来ぬ状態であるから、若[も]し米が十ケ師団を支那に上陸させたら、到底勝算はないと語つた。梅津がこんな弱音を吐[は]くことは初めてゞあつた。」
 「一方国内の軍需生産がどうかと云[い]うと次の様な貧弱さである、軍需工業の視察特命使として、米内が長谷川[清]大将を派遣した事があるが、[六月十二日の]その視察報告によると、一日五十本の魚雷を作つてゐた工場がたつた一本しか出来ぬ有様、海軍の所用魚雷を是非とも作らうとすれば、陸軍の工場迄[まで]も全部海軍に廻[ま]はさねばならぬと云[い]ふ、かくなつては国は守れぬと私は思つた。
 之[これ]と前后[ぜんご]して鈴木[貫太郎]は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云って来たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤[ごもっと]もたせと云つて帰つた。」
 そして、6月20日、天皇は、東郷外相に、こう言っています。
 「戦争につきては最近参謀総長、軍令部総長及び長谷川大将の報告によると支那及び日本内地の作戦準備が不充分であることが明らかとなったから、なるべく速かにこれを終結せしむることが得策である。されば困難なるこことは考えうるけれど、なるべく速かに戦争を終結することに取運ぶよう希望する……」。(東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』。中公文庫)
 6月22日、天皇は「御前に於ける最高戦争指導会議」の6人を呼びました。その席上、天皇は、最初につぎのように発言しました。
 「六月八日の会議で、あくまで戦争を継続するすると方針を決定したけれども、そのさいいままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についても、すみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを望む。」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 天皇は、どんな気持ちで「講和=降伏」の決断をしたのでしょうか。
 そのことは、天皇が7月25日に側近に語った、つぎの言葉によくあらわれています。
 「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器[さんしゅのじんぎ]も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 三種の神器とは、「天孫降臨」のときに、「天照大神」から授けられたという鏡、剣、玉を指します。
 こうしたデータによると、天皇は、少なくても6月20日には、「講和=降伏」を決断しています。
 これ以降の日本の戦争は、三種の神器を守るための、よりよい「講和=降伏」の条件をつくりあげるためのたたかいだったのでしょうか。 

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香川の陸軍飛行場の飛行機は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その12 陸軍高松飛行場の機能~1945年7月 アメリカ軍機が高松市を空襲--陸軍高松飛行場、陸軍屋島飛行場も標的に。 

 7月4日、アメリカ軍のB29爆撃機は、高松―高知―姫路―徳島を夜間に、姫路焼夷弾(しょういだん)攻撃しました。
 テニアンから飛び立った第58航空団は高松に向かいました。
 編成は、12機の案内機、120機の爆撃機、2機の大型飛行艇をふくむ計134機でした(実際に高松上空に達した機数は、案内機をふくめて116機でした)。
 この航空団は、陸軍高松飛行場(Takamatu)、陸軍屋島飛行場(Kirai Airfield)も標的にしていました。( 「アメリカ戦略爆撃調査報告書」・第20航空軍司令部の「第21爆撃隊本部作戦任務報告書」)

 「Kirai Airfield」のKiraiは、帰来。陸軍屋島飛行場のあった帰来(古高松の一部の地名)のことです。

 当時、高松市の高松中学校の生徒だった植田正太郎が、アメリカ軍の資料も調査して「昭和20年7月4日の深夜、空から戦争が降ってきた」という記録を書いています(『高知の戦争 証言と調査 第12号』。戦争遺跡保存ネットワーク高知。64ページ。42-61ページ)。
 「[アメリカ軍第21航空爆撃部隊]第58航空隊は高松、第73航空隊は高知、第313航空隊は姫路、第314航空隊は徳島の各市街地への爆撃に向かった。
 7月3日、日本時間15時23分(米軍時間16時23分)、第313航空隊の姫路攻撃B
29、107機(航路案内機12機を含む)のうち一番機がテニアン北飛行場を離陸した。
 16時45分(米軍時間17時45分)には徳島攻撃の第314航空隊の137機(航路案内機12機を含む)の一番機がグアム島から、17時22分(米軍時間18時22分)には高知攻撃の第73航空隊の129機(航路案内機12機を含む)の一番機がサイパン島から、そして、17時40分(米軍時間18時40分)に高松攻撃へ向かう第58航空隊の128機(航路案内機12機を含む)の一番機がテニアン西飛行場から離陸した。
  この4航空隊の最終となった離陸機は第58航空隊のB 29 でその時刻は19時20分(米軍時間20時20分)であった。
B29爆撃機は夜間無差別焼夷弾攻撃用に銃座などを取り払って爆弾の搭載量を最大限可能になるよう改良していた。そして、搭載される爆弾はAN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾、M69小型油脂焼夷弾、E46―500ポンド集束焼夷弾とAN―M64爆弾であった。
AN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾はナパーム弾で貫徹力が大きく爆発による爆風効果もあり、攻撃一番機は必ず搭載して最初に投下するように命ぜられていた。
  日本の都市家屋爆撃用に特別に開発した正六角形の筒(直径7・62㎝長さ50・8㎝)にゼリー状の油脂を充填したナパーム弾がM69小型油脂焼夷弾である。このM69小型焼夷弾を38本ないし48本をまとめて包束したクラスター爆弾がE46―500ポンド集束焼夷弾である。AN―M64―500ポンド爆弾は通常の破壊力のある爆弾である。
 弾倉を満載した各航空隊のB29は次々と晴れた空へと離陸した。各航空隊には各々
12機の航路案内機が同行した。
  優秀なレーダー操作士が搭乗する航路案内機に先導された各機は、消費する燃料の経済性と安全性を計算しながら慎重に飛行して硫黄島を目指した。
  硫黄島上空に達した各機は、そこで進路を北西にとり大挙して四国を目指し2500㎞に及ぶ延々とした飛行の列を続けた。
  最初に四国に到着したのは姫路を爆撃する第313航空隊の一番機で、徳島県牟岐町上空付近に22時26分(米軍時間23時26分)に到達した。そこから北上して香川県さぬき市志度町小田付近に達してから北東方向へと進路を変えて、小豆島東南端をかすめて飛行し南西方向から姫路に侵入した。
 姫路では22 時50分(米軍時間23時50分)から1時間半を超える空襲が始まった。
姫路を空襲したB29、107機は瀬戸内海の北岸沿いに西へと向かった。そして、児島半島・玉野市付近から向きを変えて南下し、香川県坂出市王越付近の上空を通過して一路徳島県牟岐町上空へと飛行した。そこから四国を離れ硫黄島を目指して飛び去った。一番機は23時14分(米軍時間0時14分)に、最終機は7月4日0時53分(米軍時間1時53分)に四国を退去した。
 (中略)
 高松市街地攻撃の作戦命令をうけていたのは、米軍第58航空隊のB29、128機であった。その一番機が、3日の17時40分(米軍時間18時40分)テニアン西飛行場を離陸し、硫黄島上空を経由して四国の上陸地点としていた高知県足摺岬付近の上空に達したのは4日の1時19分(2時19分)だった。
 彼らはAN―M47A2―100ポンド焼夷爆弾を満載した2大隊と、M69小型焼夷弾を多数内包するE46―500ポンド集束焼夷弾を満載した2大隊で編成されていた。
 最後のB29が3時15分(米軍時間4時15分)、四国に到着、これより先に各機は北上して愛媛県今治市沖、大島付近の上空から進路を東にとり、爆撃態勢の始点とされた香川県詫間(たくま)・荘内半島先端をかすめて、一気に高松上空へと西から侵入してきた。
 1時41分、高松市に空襲警報が発令された。完全な灯火管制下、深閑とした高松の暗い夜空にサイレンの断続49音が不気味に響き渡った。
 徳島、高知ではそのころすでに空襲が始まっていた。徳島は0時24分(米軍時間1時24分)、高知は0時52 分(米軍時間1時52分)に米軍による爆撃は開始されていた。赤々と映りだされた東方の夜空をみて徳島空襲を知った市民の中には、これでもう今日の米軍の空襲は済んだのではないかと思った者もいた。
 1時56分(米軍時間2時56分)、突如として閃光が走った。灯火管制下の漆黒に包まれていた高松市は一瞬、昼間のような明るさに照らし出された。続いて「ドカーン」という大爆発音が響き渡った。それが高松空襲の開始であった。
 米軍はあらかじめ、空襲都市の市街地写真を撮っており、それにもとづき爆弾投下の中心地点を爆撃機に指示していた。高松の中心爆撃地点は丸亀町、南新町の南北商店街通りと国道11号線との交差地点、逸見文房具店付近とされていた。
 攻撃一番機は、この中心地点にAN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾を投下して攻撃用の照明を発生させると同時に、その作戦任務は後続機の爆撃目標とするための火災を発生させることであった。
 当夜、高松上空では北西方向から風速25ノット(12メートル)の風が吹いていた。一番機が高度10000フィート(約3000メートル)から高松の中心地点を狙って投下したAN―M 47 A2―100ポンド油脂焼夷爆弾は、風に流されて少しずれ、目標地点の南東約300メートルの、新瓦町小学校(当時は新瓦町国民学校)に落下した。爆弾投下間隔は100フィート(約30メートル)と設定されていた。東へ向かう飛行経路に沿って爆弾は、現在の栄筋、八坂町の長尾行き電車停留場隣接の倉庫(現在の琴電志度線乗り場の東付近)、さらには、その東の倉敷飛行機工場(現在の高松商業高校)へと投下されて大きな火の手が上がった。
 舞い上がるこの火炎を目当てに、後続機が市街地の南西に位置する通称紫雲山の西の端の上空から続々と侵入し、八幡通りから稲荷山麓、栗林公園の北口付近一帯が爆撃を受けたのである。
 次々と単機で飛来するB29は、地上からの電波探知機を妨害する錫箔(すずはく)片帯を撒いた。
 そして、西から東へ向かう経路をとりつつ、連続して爆撃を続けるという波状攻撃をおこなってきた。
 攻撃軸は紫雲山麓から市街地の中心へと移った。大量の集束焼夷弾が投下された。この焼夷弾は6ポンドのM69小型油脂焼夷弾を38または48発内包したE46―500ポンドの爆弾だった。これは落下途中の高度5000フィート(約1500メートル)で破裂して束が解け、リボンに着火したナパーム弾M69小型油脂焼夷弾がばらばらとなって一斉に落下してくるのである。
 来襲のB29は高度9900フィートないし11100フィート(約3000メートル)の上空から平均40発の焼夷弾を左右の弾倉から50フィート(15メートル余)間隔で投下できるように設定していた。
 焼夷弾が投下されるとヒューという鋭い音がした。続いてパラッと炸裂した集束焼夷弾から多数の小型油脂焼夷弾が、小さい火の玉のようになってザアザーと音を立てて降ってきた。そして、落下地点のここかしこからパツと火の手が上がる。焼夷弾内部のゼリー状の油脂が飛び散って引火したのである。その火がさらに飛び火して、付近の建物が次々と類焼して一面が炎に包まれていった。
 時折ドカーンと大音響がした。500ポンドの通常爆弾が炸裂した音だった。
このような爆撃が1時間半も続けられて3時42分(米軍時間4時42分)に終わったのである。」

 屋島で、七月四日のアメリカ軍の空襲を体験した屋島国民学校一年生男子の手記があります。
 「入学後の[屋島国民]学校で、敵機来襲の『警戒警報』が出ると、防空頭巾を被って地蔵寺東側や屋島登山道沿いの谷間に身を隠し、爆音が近づくと、身をかがめ下向姿勢で頭を抱え息を殺すようにひそめ合ってた。
 学校の授業も程[ほど]なく中止。各地区の集会所へ机・椅子などを運び込み、午前は一年生~四年生、午後は五~高等科二年生による学年混在の分散授業方式になった。
 戦況はいよいよ厳しさを増し、『高松の街も遅かれ早かれ危ないぞ』の風評で不安も高まる六月二十九日未明、対岸の岡山市が[アメリカ軍の]空襲を受けた。その日は、夕暮れ時になっても真っ赤な火炎で西空が暗くならない程であった。
 『高松もいよいよぞ!』の噂は、ますます現実味を帯び、『どこどこの納屋には高松から家財が運ばれてきた』とか、『家財類を運ぶ大八車を借りに来た』という噂が飛び交う様[よう]になった。
 昭和二十年[一九四五年]七月三日、田植えも終えた半夏(はんげ)の猛暑で寝苦しい夜半。十一時頃に警戒警報が出てB29の爆音が十二時頃まで続くも、何故か空襲はなく解除。(中略)
 やっと寝床につき熟睡した七月四日の午前三時前。『空襲や!』の声で叩き起こされ自宅裏の屋島山中へ避難しました。上空は異様な爆音が響き、高松市街のあちこちからは次々と火の手があがり、所々で大きな建物火災をあげて崩れ落ちていくのが見えた。『あれは赤十字病院じゃ…ああ、四国ドッグの寮も』。
 周りで人々の嘆き声の様なつぶやきが聞こえた。そんな中で、高松築港の東側からは高射機銃砲弾が三十発程あがり、上空でしばらく円形状になって点々と輝きを放った後、花火空の様にポッポッと次々に消えていった。
 その時である。エタバイ(現健康ランド)辺からも、タンタンタンと重硬く高い音を立てて、三十発程の火玉が夜空に上がっていった。『高射(機銃)砲や!』。誰かが叫んだ。『全然当たらんな』。上空では砲弾をからかう様に敵機の爆音が鳴り響き続けていた。
 高松と屋島の両方から、何度か砲撃が行われたが敵機を撃ち落とす様な事はなく、上空では爆音と炸裂音が続いた。
 と突然頭上がピカッと異様な光と炸裂音が同時にして、焔の大玉がふんわりと浮き落ちる様に落下してきた。『爆弾や!』。小刻みにガチガチ歯音が鳴り全身の震えが止まらない。大きな焔の玉は火玉状で分散し、ゆっくりと南方向に流れ落ちていった。
 空襲の爆音は、それからも延々と続き、夜もしらむ五時前にやっと消えた。」(『屋島風土記』。屋島風土記編纂委員会。屋島文化協会。2010年3月25日)。
 7月3日、11時ころから12時ころまでのB29の爆音は、姫路、徳島空襲の通過飛行音でした。
 7月4日の空襲時に屋島に落とされた焼夷弾(しょういだん)は、現在地にすると、屋島小学校あたりから、東南方面の浜中集会所周辺を通って東行き山沿いの中筋集落~地蔵寺まで、おおよそ、南北100メートル幅、東西800メートルの地域で投下されました。ほかにも、山上霊巌の旅館、潟元駅西側の家も被災。焼失家屋は、およそ20戸(浜中1、中筋6ほか)でした。

 植田正太郎が、は、この空襲の被害について、つぎのように記していますという記録を書いています(「昭和20年7月4日の深夜、空から戦争が降ってきた」=『高知の戦争 証言と調査 第12号』。42-61ページ)。

 「空襲は西から東に向かっての連続波状攻撃で爆撃標的とされた市街地のほぼ中心部から始まり、おおまかに順次南から北に焼夷弾爆撃が続いた。空襲の初期の段階で
は市民が市街地から郊外に避難できる主要な道路は確保されていた。
 市街地中心部に住む市民の多くは、市役所前の『五番町』道路を東から西へ香東川に架かる郷東橋をめざして避難した。ほかに兵庫町の西端、広場から西へ大的場、西浜港、西浜新町、塩田、郷東橋とつながる『西通町』道路をひしめきあいながら避難した。
 南の郊外、花園、今里、伏石、太田方面にも多数の市民が避難した。空襲が進むにつれて郊外への避難道路も通ることができなくなり、高松港周辺の海岸波止場にやむなく避難した市民もいた。早めに自宅を離れて郊外に避難した人々は無事であったが、不幸にも郊外に避難できず近くの栗林公園北門・稲荷神社付近に避難した人々の頭上に爆弾が降ってきて122人の人命が奪われた。
 自宅の防火を気遣い、市街の町々一帯が火炎に包まれるまで避難しなかった市民は逃げ場を失った。これらの人々にせいぜいできることは自宅の庭に作った防空壕や町内の空き地に作った防空壕などに逃げ込むか、当てどもなく道路に出て逃げ場を求めるしかなかった。
 現在の中央通りと中央病院前の東西へ通じる道路との交差地点である中新町に、比較的大きなコンクリート造りのロータリーが築かれ「中新町のロータリー」といわれていた。その後、空襲に備えて内部の土部分を取り除いて水を張り、大きい防火用貯水槽としていた。四方を火炎に囲まれ噴煙と吹き荒ぶ熱風にさらされて避難場所を失った人々は、このロータリーの水槽になだれを打って入りこんだ。しかし、ますます激しく舞い上がる高温の熱風と噴煙に煽られ、灼熱で貯水は蒸発し、人々は力尽き、息絶えた。中新町での死者は51人とある。
  犠牲者の圧倒的多数は自宅での死者339人、次いで町内での死者241人、道路での死者225人となっている。
  比較的広い空き地の防空壕に避難した人のなかには壕の底に雨水が溜まっていたことが幸いして、その水を使って熱風を堪えることができた人もいた。防空壕に避難して助かった人々は皆、熱風と噴煙で痛めた眼を真っ赤にして涙を流していた。
  (中略)
 米軍は高松にE46―500ポンド集束焼夷弾2317個、463・4トン、AN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾10016個、345・4トン、AN―M64―500ポンド通常爆弾97個、24・3トン合計833・1トンの爆弾を投下した。
 この空襲による被害面積は全市街地の約80%に当たる3・85平方キロメートルにおよんだ。建物の被害は18913戸(住宅16418戸)、罹災者は86400人、死者は1359人(ただし、昭和19年末の高松市の人口は114435人内、男53019人、女61416人)であった。わずかに残ったのは、コンクリート造りの建造物だけである。消火活動とあいまって無事だったのは、丸亀町の百十四銀行、内町の警察署、大和生命保険、千代田生命、それに五番町の市役所、県立高等女学校ぐらいである。
 内部は焼失したが建物の構造を遺していたのは、内町の三越、南新町の池田屋、琴電瓦町駅舎、紺屋町の高松信用組合などである。木造建物で唯一焼失をまぬがれて現存しているのは、四番町の法泉寺の山門と鐘楼であった。
  (中略)
 注目すべきは高松市街から東に離れた郊外にも被害が発生したことである。屋島西側の塩田、山麓の集落、山上などに焼夷弾が投下され、戸余の建物が焼失した。
 また木太地域では観光道路沿いの市立第一高等女学校とその前の覚善寺が焼失し、新開地区で5戸、州端すべり地区で3戸の家屋が焼夷弾で罹災した。
 (中略)
 空襲の日から11日たった7月15日に開催された高松市会協議会で鈴木義伸市長は空襲犠牲者について次のように報告している。
 『今日までのところ警察の検死の済んだ分で分かっておりますものが最初の四日には78名、五日には174名、六日157名、七日187名、八日107名、九日37名と九日までで740名、その後十日61名、十一日36名、十二日11名、十三日20名総計一昨日までに868名の死者の検死をされたことになっている。負傷者は救護隊で調査をされた数字は、重傷者316名、軽傷者459名』」。
 倉敷飛行機株式会社高松製作所の牟礼村に建設中だった分散式半地下工場の建設も工事半ばにして、この空襲で高松製作所は全焼しました。
 7月4日の空襲についてのアメリカ軍第21爆撃隊本部のアメリカ軍第20空軍司令官への報告は、「Takamatu」、「Kirai Airfield」については「Non visable」(目に見える損害なし)としています。

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● 香川の陸軍高松飛行場の飛行機は、なぜメリカ軍を迎撃しなかったのか その13 1945年7月4日、アメリカ軍機が高松市を空襲--高松の航空部隊からの迎撃なし。「なんのために、飛行機を持っているのかわかりません」の叫びのなか。 

 7月4日、アメリカ軍のB29爆撃機が高松を空襲しているのに陸軍高松飛行場の航空部隊は迎撃機を飛ばしませんでした。

 植田正太郎も、そのことを書いています(「高松大空襲 昭和20年7月4日の深夜、空から戦争が降ってきた」=戦争遺跡ネットワーク高知『高知の戦争 証言と調査 第12号』。42頁-61頁)。

 「この間、高松郊外の高松陸軍飛行場からは反撃防衛するための日本軍迎撃機は1機も出撃しなかった」

  高松市役所の出した本にも、こうあります。

 「……頼みの綱であった高松飛行場からは、飛行機温存という軍の方針のため一機も飛び立たず、対空射撃部隊もついに戦果をあげることはできなかった。まことに歯がゆい一日であった。」(高松百年史編集室編(1990年):『高松百年の歴史』。高松市。296頁。141頁)
 この空襲の時、独立高射砲機関砲中隊は、応戦しています。しかし、このときは、銃座の取り付け中で、長専寺にあったテスト用の1、2門が発射されましたが、射程が短いために、曳光弾(えいこうだん)が、B29の下で光のすじを描いただけでした(高松空襲戦災誌編集室『高松空襲戦災誌』)。
 陸軍高松飛行場の高松分校の教官で少佐だった檜與平が、その日の陸軍高松飛行場のことを書いています(檜與平(1995年):『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。466頁-う469頁)。
 当時、檜與平少佐は、高松市から四キロメートル離れた郊外の宿舎で妻と二人で暮らしていました。
 「……ある日、熟睡していた夜半のことであった。私は、近距離で、大音響を聞いた。枕許へ置いてある義足を装着して、すぐに外へ飛び出した。
 『やったな』
 見ると、高松の市街には焼夷弾の雨が降っていた。
 『おい、航空服と航空帽だ』
 妻は暗夜のことで、きょときょとしていた。こちらは非常呼集は馴れたもの、すばやく身じたくして拳銃を腰にして、部隊へ走った。
 『桧少佐だ。全員集合!』
 私の声を聞いて全員がそろった。
 『敵は市街を焼夷弾攻撃している。別命あるまで、操縦者および整備員は、おのおのの自分の飛行機の場所へいって、飛行機を保護せよ。出発!』
 それぞれが、自分の飛行機の秘匿場所へ走ってゆく。私は椅子を道路のまん中へ持ち出してすわり、航空服の前をひらいて、白いシャツをみせて目印とした。
 空襲はますます織烈をきわめて、市街は天を焦がすばかりの修羅場と化した。そして、市街から離れた飛行場へも、焼夷弾が降ってくる。B―29は、昼間と同じように燃える火災の光でくっきり浮き上がって見えた。」
 桧少佐は、出撃を命じようとはしません。
 「『少佐どの、ぜひ上げて下さい』
 『少佐どの、お願いです』
 『なんのために、飛行機を持っているのかわかりません』
 『われわれは、高松の人たちにあわす顔がありません』
  (中略)
 『よし、師団司令部へすぐに連絡をとるから、部署についておれ!』
 丸田参謀からの伝令がきた。
 『くやしかろうが、我慢せよ。B―29一機と航空母艦一隻とを比較せよ』という。
 無念でならぬが、命令とあればいたしかたない。そして、秘匿飛行機を見回っていった。
 『少佐どの。上がります』
 『駄目だ。がまんしろ。きさまだけじゃ、ないぞ』
 飛行機の胴体にすがって、くやし泣きする部下の姿、最新鋭機を擁しながら、目の前で敵機に縦横無尽の跳梁をゆるす悲しさと憤り。私の胸はかきむしられるようであった。」
 かくして陸軍高松飛行場の分校は出撃しませんでした。
 この対応は異常としかいいようがありません。
 実際に、この日、陸軍か海軍かは不明ですが、反撃している飛行機もあるのです。
 『第21爆撃隊本部作戦任務報告書』の「敵空軍の迎撃」の項目を見ます。
 「a 日本戦闘機の応戦は、ほとんど皆無に等しく、わずか二十機の迎撃機に、高松―高知―姫路―徳島への夜間攻撃途上遭遇しただけであった。日本側は八回の攻撃をしかけ、B29一機が敵戦闘機と高射砲の連携攻撃で被弾、搭乗員に被害者はなかった。
 b 陸地の先端、約百七十五マイル南方の飛行経路上にベッティが一ついて一機(バカ)を発射させた。このバカは、ゆっくり突っ込んできて次に機首を上げて下方八時の方向から攻撃をしかけてきた。この敵機から二筋の赤い火焔の噴射がみられたが、この敵機は三百ヤード以上われわれに近寄ることができず、推進力を失って、消えていった。その間ベッティが上空十一時の方向から一回攻撃してきた。
 c 標的地点でもバカ一機が見られた。B29のパイロットは、時速二百四十五マイルでスピードを上げ、敵との距離を拡大しようとした。しかし、バカは上空四時の方向で現れて距離を縮めてきたので、パイロットは機首を下げスピードを速めた。約五分間の後、バカは上空四時の方向で後方に突き放され、右方向へ旋回して飛び去った」
 ベッティは、Betty(連合国側のコードネーム)で、大日本帝国海軍の一式陸上攻撃機のことです。バカは、Baka(連合国側のコードネーム)で、大日本帝国海軍の桜花 (おうか)のことでした。桜花は、特別攻撃兵器で、有人誘導式ミサイルの人間爆弾でした。

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香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか  その14 陸軍高松飛行場の機能~1945年7月 飛行場は、編成替え、交代……。 

 高松空襲後の7月10日、陸軍は、三重県明野の明野教導飛行師団を決戦準備促進のため第20戦闘飛行集団(集団長・青木武三中将)に編成しました。。
 第20戦闘飛行集団は、飛行第101戦隊(戦隊長・石川正中佐)、飛行第112戦隊(戦隊長・梼原秀見中佐)を有していました(外山操、森松俊夫編(1993年)『帝国陸軍編制総覧 第三巻 近代日本軍事組織・人事資料総覧』。芙蓉書房出版。●頁。●頁-●頁)。
 第20戦闘飛行集団の司令部は、明野から高松に移駐しました(鷺田=さぎた=公会堂に駐屯)。(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。69頁)
 7月22日、陸軍航空総軍は、陸軍の各飛行場に飛行燃料を作戦のために集積せよと命令命令します。
 「帥作命丙第百十九号 航空総軍命令 七月二十二日 一五〇〇 東京」です(「軍事機密」の判が押されています。防衛省防衛研修所図書館蔵)です。
 「一、 東京、大阪各陸軍航空補給廠(しょう)長及大阪陸軍航空補給廠福岡支廠ハ別紙基準ニ基キ一号アルコール及普通揮発油(作戦用)ヲ集積シ第一、第二各総軍ニ公布スヘシ
 二、 第一、第六各航空軍司令官ハ右作戦資材ヲ第一線集積亜号燃料に充当スヘシ
 三、 第五航空軍司令官ハ其ノ作戦準備地域内飛行場ノ第一線集積亜号燃料集積基準量ヲ定メ朝鮮地区生産亜号燃料ヲ以(もっ)て之(これ)ニ充当スルト共ニ集積計画ヲ報告スヘシ
 四、 各軍司令官、各航空補給廠長及福岡支廠長は毎月盡日調ヲ以テ之カ実施状況ナ竝ニ集積変更計画ヲ総軍司令部ニ報告スルト共ニ関係部隊ニ通報スヘシ
五、 各軍司令官ハ亜号燃料ノ特性ニ鑑(かんが)ミ之カ更新使用ニ努ムヘシ」
 別紙の「一号『アルコール』(作戦用)集積計画」には、香川県では三つの飛行場の名前が出てきます。「高松」、「丸亀」、「国分」です。それぞれ「集積基準量(本)」は、150、200、200となっています。
 「航空総軍司令官 河邊正三」名の命令書で「報告(通報)先」は、「大本営(航本)」となっています。
 一方、7月31日の発令で第20戦闘飛行集団は、第100飛行団(団長・秋山紋次郎大佐)と交代し、部隊全員が高松から引きあげてしまいました。(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。69頁)
 第100飛行団は、三重県北伊勢で編成され、四式(よんしき)戦闘機(疾風=はやて)を主力とする戦闘機隊で、天号作戦にさいして宮崎県都城附近に配置し、沖縄への特別攻撃隊の援護にあたっていた隊でした。
 発令と同時に、第100飛行団司令部は、鷺田公会堂に移ってきましたが、所属の飛行第101戦隊(戦隊長・坂元美岳少佐)は、沖縄戦で消耗した搭乗員や戦闘機の補充に手間取り、戦隊の移動が完了したのは8月12日でした。
 この飛行第101戦隊の任務は、本土決戦にさいしての特別攻撃機援護でしたが、役目を果たしたあとは、みずからも特別攻撃機となって敵に体当たりしていく任務にありました。

この7月に策定された「第六航空軍決号作戦大綱」があります(『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』)。

 「決号」というのは、本土決戦の作戦ということです。アメリカ軍が日本本土に上陸してきたときに、どう迎え撃つかという作戦です。

 高松の第100飛行団も第六航空軍の兵団です。

 この大綱では、 「敵の予想上陸地点」を、北九州・博多湾沿岸、五島列島、南九州・宮崎海岸、志布志湾、薩摩半島西岸、四国・高知海岸、朝鮮・済州島、対馬としています。

 「軍は速かに決号作戦準備を完整し、敵の来攻にあたって全軍特攻となり。これを撃滅する。」

 「特攻隊は訓練概成後施設の進捗に応じて発進基地に秘匿展開するのを本則とし、極力消耗を避けつつ戦技の向上及び士気の維持高揚に努める。」

 「敵上陸部隊がわが攻撃圏内に入れば、まずその大型輸送船を索めて撃滅する。

 攻撃は昼夜にわたり天候気象を利用し敵船団の側背からつとめて奇襲的に行ないその泊地侵入時期迄[まで]継続する。」

 「敵泊地進入前日から総攻撃を開始し全軍特攻をもって昼夜にわたり執拗果敢な強襲を行ないその上陸船艇を索めて撃滅する。

 敵泊地進入後は練習機特攻全力を投入するとともに戦闘隊全力をもって戦場上陸を制圧し、また一部兵力を持って敵掩護部隊を同時に攻撃する。」

 「第六航空軍決号基本展開配備」の表があります(『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』)。

 ここでは、第六航空軍の各兵団、第30戦闘飛行集団(熊本)、第12飛行師団(小月)、第100飛行団(高松)、第11飛行師団(大阪)、第51航空師団(岐阜)、軍直轄の本土決戦のときの展開を表にしたものです。

 高松の第100飛行団の所はつぎのようになっています。

 「一般飛行部隊」の項目に101飛行戦隊(戦闘)、103飛行戦隊(戦闘)とあります。

 「特攻隊」は、一式戦闘機3機、四式戦闘機4機、九七戦闘機5機、九三式中間練習機12機となっています。

  「配当飛行場」は、「高松、東松山、松山西、宇和島、屋島、壬生川、丸亀、由良」となっています。

 一式戦闘機は、隼(はやぶさ)、四式戦闘機は疾風(はやて)のことです。

 香川の陸軍の飛行場では「高松」、「屋島」、「丸亀」が出てきます(なぜか、「国分」はありません)。

 「本土防空態勢ノ概要」という表も出てきます(『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』)。
 その「四国方面」の所を見ます。
 「飛行(集)団」は100飛行団(高松)、「戦隊」は101戦隊と103戦隊、それぞれの「機種」は四式戦、「現動力可兵」は13です。

 「摘要」に「沖縄作戦ニ於テ戦力消耗セル部隊ニシテ一〇二F[戦隊]ヲ復帰シ上記二箇の戦隊ノ戦力ヲ充実ス」

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香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その15 陸軍高松飛行場の機能~1945年7月から8月まで 相次ぐ空襲、陸軍高松飛行場は「米軍が四国に上陸してきた時迎撃する」。

 香川県は、断続的にアメリカ軍機の攻撃を受けていました。

 7月22日、アメリカ軍のグラマン戦闘機は、陸軍高松飛行場に来襲しました。
 その日、グラマン機の機銃掃射で上多肥の溝渕さん宅や、佐々木さん宅の屋根が被害をこうむりました(多肥郷土史編集委員会(1981年)『多肥郷土史』。多肥郷土史編集委員会。648頁。440頁)。

 この日、連合軍の艦載機が、小田沖で漁をしていた漁民に機銃掃射をあびせました。小田坂の下の多田栄一さん、苫張の植村新助さんが腰と足を負傷しました。(岡村信男(1984年):『志度風土記』。樫村正員。264頁。43頁-44頁)

  この日午後1時ころ、アメリカ軍の艦載機・P51戦闘機4機が、香川県の坂手(さかて)湾沖で、特殊潜航艇・蛟龍(こうりゅう)の魚雷発射訓練訓練中の徴用運送船・芙蓉丸(ふようまる)に襲いかかり、銃撃を繰り返しました。この空襲で、蛟龍艇長の矢野統一少尉(のちに私の妻の父に)も右肩を吹き飛ばされました。9人が戦死して、10数人が負傷しました。(藤原尋子・義一(2011年):『蛟龍艇長講習生・矢野統一 父は海中の特攻隊員でした』)

 24日午後1時半ころ、のべ108機のアメリカ軍のグラマン戦闘機が、陸軍高松飛行場を空襲しました。場内は、爆弾で壊滅しました。

 死傷者多数で、国民学校と役場へ収容しました。(高松市役所内林村史編集委員会(1958年):『林村史』。131頁)。

 同日午後2時、アメリカ軍のグラマン戦闘機24機が、由良山に襲いかかってきました。爆弾と機銃の波状攻撃を繰り返しました。

 「……午後二時頃米空軍グラマン戦斗機二十四機の大編隊が由良山東南上空に姿を見せた 由良山附近で[陸軍高松飛行場滑走路用のバラスとりの]作業中の人々は山麓の雑木林に避難した     その時四機は避難中の奉仕員を目標に突入し各機は二個づつの爆弾を投下した 地響と共に大爆裂音 突風が起こり家々は揺らぎ戸障子ふっ飛び土煙は由良山頂上まで舞いあがり巨木が倒れる中を再び旋回して来た敵機は雑木林に機銃乱射を幾度も繰り返した。

 (中略)死者九名負傷者十一名の肉塊は周囲に飛散し血潮は土石を染め悲愴なさけびは山にこだました」(由良山の山中の「慰霊碑」の碑文=1977年7月24日建立。世話人・由良町山北老人会)

  「この時の犠牲者は、いずれも飛行場建設のために動員された勤労奉仕者であり、一六歳の少年を含む一九名の非戦闘員の尊い命が奪われたのである。ほとんどが大川郡方面の人たちであった。」(高松市立川島町公民館内川島郷土誌編集委員会(1995年):『川島郷土誌』。川島校区地域おこし事業推進委員会。762頁。573頁)。
 勤労動員の作業中、由良山北面の山腹で攻撃を受けて亡くなった人は、つぎの9人でした(由良山の山中に「慰霊碑」)。

 宮崎秋三郎=53歳、大川町昭南

 藪根乙助=66歳、大川町筒野

 本田貞一=55歳、大川町栄町

 茶円正信=20歳、大川町大井

 野中 栄=16歳、大川町大井

 松岡 登=19歳、大川町古根

 多田キヌエ=24歳、東京都

 中村久江=49歳、由良町

 東池亀吉=44歳、三木町寺ノ前

 この日、アメリカ軍のB29爆撃機が、三谷地域に三十キロ爆弾を投下。それは、平石部落の喜多喜八郎さん宅に命中し、家は破壊、火災を起こし、二女・喜多愛さん、近くの蓮井サエさんが被爆によって死亡しました。喜多喜八郎さん所有の役牛も死亡しました(三谷郷土史編集委員会『三谷郷土史』。高松市立三谷公民館内 三谷郷土史編集委員会。1988年1月。●ページ。●ページ-●ページ)。

  同日、イギリス軍艦載機は、屋島の近くの志度湾に疎開していた、空母しまね丸を攻撃しました。しまね丸は被弾し大破、船体は二つに折れ後部が着底しました。船員6人が戦死しました。この船は大阪商船の船でしたが、徴発されて軍の航空母艦になり、植木や迷彩などで偽装されていました。

 軍属として陸軍高松飛行場の作業にあたっていて爆死した林村在住の人は、つぎの4人した。(高松市役所内林村史編集委員会(1958年):『林村史』。131頁)
 軍属 大浦 蕃
 軍属 猪熊 政行
 軍属 渡辺 和子 17歳
 軍属 山内 芳子 15歳
 林村の主婦・中村久江も流れ弾にあたって死亡しています。(高松市立川島町公民館内川島郷土誌編集委員会(1995年):『川島郷土誌』。662頁)。

 「当日、多肥小学校[国民学校]には、少数ながら軍隊も分駐して、いざという場合の備えに待機していた。しかし、安心できるものではなかった。」(多肥郷土史編集委員会(1981年)『多肥郷土史』。440頁)。

 この2日間の陸軍高松飛行場への空襲のとき、同飛行場の航空部隊はどう対処したでしょうか。

 「(24日のアメリカ軍のグラマン戦闘機の由良山攻撃のとき) 「軍部は、本土決戦に備えて航空機を温存するために、一機の迎撃も許さなかった。そのために、[グラマン戦闘機は]全く無抵抗のふる里の空を思いのままに、何回となく、爆弾と機銃の波状攻撃を繰り返したのである。」。(高松市立川島町公民館内川島郷土誌編集委員会(1995年):『川島郷土誌』。川島校区地域おこし事業推進委員会。573頁)。
 「飛行機は、本土決戦に備えて避難をしていたため無事であった。七月二十四日の空襲当日も、一機も迎撃しなかったし、高射機関砲も戦果がなかった。」(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。521頁)

 7月27日午後3時、アメリカ軍機8機が、空母しまね丸に爆弾を投下しました。しまね丸は、沈没しました。(岡村信男(1984年):『志度風土記』。43頁-44頁)

 7月28日昼ごろ、アメリカ軍のグラマン戦闘機は、小豆郡長浜の住民16人を乗せて神戸に向かっていた船を屋島沖で攻撃。死者・行方不明者5人、ほかの人も全員が負傷しました。(香川県(1988年):『香川県史 第6巻 通史編 近代Ⅱ』。香川県。795頁。頁)

 8月8日午前8時45分ころ、アメリカ軍のグラマン戦闘機が、高松-小豆島の定期船・女神丸(120総トン)に機銃掃射しました。死者24人、重軽症者多数。

 同日、アメリカ軍の艦載機数10機が陸軍高松飛行場を襲撃、西三谷の畑本ユキさんが被弾して死亡しました(三谷郷土史編集委員会『三谷郷土史』。●ページ-●ページ)。
 これらのアメリカ軍の空襲のさいにも、陸軍高松飛行場の航空部隊は出撃しなかったようです。
 高松市助役の大西林次さんが、不審に思い陸軍高松飛行場に電話しましたが、軍からは「米軍が四国に上陸してきた時迎撃する。常時の空襲に対する迎撃は任務外である」との返事がありました。(高松空襲を記録する会(1978年):『高松の空襲 手記・資料編』。高松空襲を記録する会。409頁。281頁)

 一方では、この時期に、最後の決戦のために飛行機と燃料を温存するというきまりを犯して出撃した他地方の陸軍航空戦隊もありました。

 7月25日、滋賀県の八日市陸軍飛行場に駐屯していた陸軍飛行第244戦隊は、小林照彦(こばやしてるひこ)戦隊長(1920年11月~1957年6月4日)の独断でアメリカ軍の第31戦闘飛行隊の艦上戦闘機・F6F機群の迎撃に飛び立っています。(渡辺洋二『本土防空戦』。309ページ-403ページ)。

 「……七月二十五日、前日に続いて午前五時四十分から、[アメリカ軍の]艦上機が群れをなして東海、関西方面を襲った。『小型機侵入』の情報を受けた小林少佐は、『上がらなきゃいかん!』と出撃を決意し、操縦者、整備兵を呼び集めた。

 『邀撃では上がるな、ということだから、今日はひとつ訓練で上がろうじゃないか』

 と前置きし、続いて語調を変えて言い放った。

 『これより戦闘訓練を行う。飛べる機は全部飛ばす!』

 小林少佐機が、まっさきに離陸にかかる。(中略)広い八日市の飛行場から、三十機を超える五式戦[五式戦闘機]が砂ぼこりを上げて、てんでに飛び立っていった。」

 この空戦の結果は、日本側の主張では日本側戦死2人、撃墜戦果12機(アメリカ軍側の資料では、アメリカ軍機が日本機を11機撃墜<うち不確実3機>、アメリカ軍のF6F機の喪失は2機、被弾は6機)。

 「……小林少佐は戦闘後、出動禁止命令を破ったかどで大阪の第十一飛行師団司令部に呼ばれ、『全軍的な企図(温存作戦のこと)を暴露するものである。』と言いわたされた。(中略)

 その夜、入電した天皇の御嘉賞[ごかしょう。おほめのこと]の言葉で、小林戦隊長の軍規違反は消しとんだ。しかし、こんどは十一飛師司令部から監視の参謀がやってきて戦隊長に張りついたため、以後の出撃はかなわなかった。」

 なお、小林照彦さんは、1944年11月末、戦隊長として飛行第244戦隊に着任していました。1944年4月から教官として陸軍高松飛行場で陸軍士官学校57期航空転科者(96期召集尉官操縦学生)の教育にあたっていた人です。

 陸軍丸亀飛行場の建設工事は続いていました。
 【7月中旬】 航空隊幹部が現地を視察しに来て、工事の遅れをながめ激怒して帰りました。
 【7月18日】 空第571部隊松木場隊の松木場隊長が司令部付となり、松山市へ転属しました。
 【7月23日】 空第571部隊の隊に宇佐見隊長着任しました。
 【7月29日】 空第571部隊の宇佐見隊長は、兵とともに屋島へ転属しました。[「屋島」は、工事中の陸軍屋島飛行場のことでしょうか]
 【7月30日】 法勲寺国民学校への駐屯部隊は、松原隊となり、高知部隊から召集兵と思われる年輩の者ばかりが来村しました。
 隊はかわっても、連日の作業は変わりなく続きました。

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香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか  その16 陸軍高松飛行場の機能~1945年8月 第100飛行団第101戦隊が、出動したのは終戦の翌日でした。

 8月15日、終戦を迎えました。
 陸軍高松飛行場は、南北方向の第二滑走路が未完成のままでした。

 その日の丸亀飛行場の様子については、鶴岡俊彦さんが書いています。(「回想」=飯山町立飯山北小学校創立百周年記念事業実行委員会(1992年):『飯山町立飯山北小学校創立百周年記念誌 桃花』。59頁-60頁)。

 「終戦の玉音放送は、[自宅の撤去]作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引越予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に、『放送はおかしい、負けるはずがない。』『俺たちが居る。降参はしない。』と声高に話すのが頼もしく見えた。
 午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組を残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。」

兵たちは、飛行場の完成も見ず、行くべき道も見当たらず、ただ呆然としながら、法勲寺国民学校の校舎の整備を終えて故郷へ帰って行きました。転属した兵たちも、今一度、法勲寺国民学校へ立寄り、「一言も兵を責め給はぬに生きて帰る不甲斐なさよ」と語って、父母のいる九州へ帰って行きました。(●『飯山町誌』。●ページ-●ページ)

 陸軍高松飛行場の第100飛行団第101戦隊が、出動したのは終戦の翌日、8月16日でした。高知にいた海軍警備隊から、アメリカ艦隊が日本本土に接近しているとの情報を受けて、特別攻撃機12機が高知へ出撃しました。しかし、アメリカ艦が見つからずに帰投しました。同飛行団隷下の103戦隊は、淡路島にいましたが、ここでも十六日夜、特別攻撃出撃の命令が出されましたが、飛ぶ直前に中止されました(『昭和五十年史 上巻 香川・激動の二十年』。四国新聞社。1975年8月15日。●ページ。●ページ-●ページ)。

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香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか  その17 陸軍高松飛行場の機能~終戦時に残った飛行機。

 高松の飛行第101戦隊が、終戦時に保有していた飛行機は、飛行第103戦隊(淡路島由良)をあわせて、司令部偵察機5、練習機をふくむ単座戦闘機24でした。内訳は、九三式中間練習機12、九七戦闘機5、四式戦闘機4、一式戦闘機3でした。(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。70頁)
 これについては、別のデータもあります。大本営陸軍部の『帝国陸軍飛行場現況表』(1945年8月31調べ)です。
 高松飛行場にあった飛行機はつぎのとおりです。
 戦闘機が相当整備すれば飛行可能のもの13機、飛行不能のものが26機ありました。
 偵察機は相当整備すれば飛行可能のものが2機、飛行不能のものが2機ありました。
 練習機は飛行不能のものが8機ありました。
 計で飛行不能のもの34機、相当整備すれば飛行可能のもの15機でした。
 この年の11月9日午後、香川県の善通寺進駐アメリカ軍分駐部隊が陸軍高松飛行場で同飛行場の兵器弾薬などを処理しました。そのとき、飛行場の東西に並べられてガソリンを注いで焼却された飛行機は、61機でした。このとき、ガソリン(航空用ドラム缶入り)1000本が焼却され、爆弾、弾薬、航空兵器約500トンが爆破されています(香川県警察本部香川県警察史編集委員会『香川県警察史』。1957年11月20日)。

 戦後の丸亀飛行場について、 鶴岡さんが書いています(「回想」=飯山町立飯山北小学校創立百周年記念事業実行委員会(1992年):『飯山町立飯山北小学校創立百周年記念誌 桃花』。59頁-60頁)。

 「すぐに夏休み、終戦となり滑走路造りが中止されたので、[坂本国民学校に]通学した記憶はない。」、「戦争が終わって二学期を迎えるために[坂本国民学校に]登校し講堂を掃除した時、蚤(のみ)があまりに多いのに驚いた。十分な食事もなく、風呂に入るのもままならない環境の下、夏の炎天下で働き大変ご苦労した事と思われる。」、「[わが家は]地形石はそのままにして置いたが、土塀が崩れ、それを見ては空しさを感じた。家の建て直しまで一年余りかかり、その間極楽寺で過ごした。」

 戦後、丸山飛行場の滑走路、関連施設は復旧されました。
 「(1) 飛行場滑走路および関連施設農地など合計二五町分余は関連農家で復旧した。
 (2) 取りこわし家屋はその家族および地区の手伝いにより再建した。
 (3) 昭和二十三年[一九四八年]末ごろまでに大半復旧した。」(『飯山町誌』。●ページ-●ページ)。

   Ⅳ 考察

 ここで考えておきたいのは、本土決戦の作戦は、何のために打ち出されたのかということです。

 陸軍省は「決戦訓」や「国土決戦教令」を出しています(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土決戦準備<2> 九州の防衛』。朝雲新聞社。1972年7月22日。613ページ 。271ページ-272ページ)。本土決戦にのぞむ将兵の精神的準拠をしめしたものです。

 「決戦訓」は1945年4月8日、阿南惟幾・陸軍大臣名の「陸訓第二号」です。

 「仇敵撃滅の神機に望み特に皇軍将兵に訓ふる所右の如し」の項では、つぎのようにうたっています。

 「二 皇軍将兵は皇土を死守すべし。

   皇土は、天皇在しまし、神霊鎮まり給ふ地なり。

   誓って外夷の侵襲を撃撰し、斃[たお]るるも尚[なお]魂魄を留めて之を守護すべし。」

 「四 皇軍将兵は体当り精神に徹すべし。

   悠久の大義に生くるは皇国武人の伝統なり。

   挙軍体当り精神に徹し、必死敢闘、皇土を侵犯する者悉[ことごと]く之を殺戮[さつりく]し、一人の生還無からしむべし。」

 「国土決戦教令」は、同年4月20日、大本営陸軍部が配布したものです。

 第一章「要旨」の第一は、つぎのようになっていました。

 「国土作戦ノ目的ハ来寇スル敵ニ決戦ヲ強要シテ絶対必勝シ皇国ノ悠久ヲ確保スルニ在リ

 之カ為国土作戦軍ハ有形無形ノ最大戦力ヲ傾倒シ猛烈果敢ナル攻勢ニ依リ敵上陸陸軍ヲ殲滅[せんめつ]スヘシ」

 1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北以降、戦争は絶望的抗戦期でした。

 軍首脳部もこの時期以降、勝てるとは思っていなかったのではないでしょうか。

 また、アメリカの戦争は、戦後支配のための戦争へと質が変わりつつあったと思います。

 日本軍首脳部は、敗れることはわかっていても少しでも敵に多くの血を流さして有利な条件で講和をと考えていたようですが、雪だるま式に敗戦へと傾斜していきました。

 戦争をやめようと言えない限り本土決戦は避けることができませんでした。

 やめようと言えば、自分たちの既得権を失うので「国体護持(天皇制を守ること)」を標榜し、それにしがみついて誰かがとめてくれるまで戦争するしかないという無責任の構図になっていたのだと思います。

 軍隊がまもるものは軍隊であってそれ以外のものではありえませんでした。

   Ⅴ おわりに

 今後の課題があります。

 こうした香川県の4つの陸軍飛行場についての遺跡を探して、保存・公開するということです。

 私の歩いた範囲ではつぎのものしかみあたりませんでした。

 ・ 由良山の中腹に残る戦争壕。出入口が2か所あるもので、幅3メートル~4メートル、高さ2メートル余、長さ32メートル。

 ・ 国分飛行場づくりのとき、滑走路用地にあたったため撤去された石の人物像。

 ・ 丸亀市の陸軍丸亀飛行場の滑走路を、もとの畑などにもどすための作業で土砂が積み上がって土手になっている所。
 また、つぎのことも解明されていません。

 陸軍秘匿飛行場づくりの土地、家屋の接収に、住民は抵抗できず、陸軍はやすやすと予定地を手に入れています。 
 しかし、この飛行場をつくっていた土地は一度も国有地になっていません。
 その一方、一九四五年十月~十一月の『昭和二十年度 軍事用地費領収書綴 飯野村』という文書が存在します。
 つづられているのは、飯野村長松永友義宛てのハンコ入りの領収書で、「坂本村軍事施設工事中飯野村担当地区内該工事 潰地及偽装用地借上ゲ補償金」となっています。五十七通です。
 用地の接収が、戦後、借り上げられていたという形で処理されたこと、飛行場のための潰地以外に飛行場を飛行場と見せないための「偽装」のための用地が用意されていたことが推定されます。

    引用文献

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【ニュース】 制服向上委員会の「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」を聴きましたか。

 制服向上委員会が「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」を発売しました(八月十五日)。
 聴きましたか?


 「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」歌詞の一部

 ダッ ダッ 脱・原発!
 ダッ ダッ 脱・原発!
 ダッ ダッ 脱・原発!
 ダッ ダッ 脱・原発!
 ダッ ダッ 脱・原発!
 ダッ ダッ 脱・原発!

 それがそれが とても許せないお話
 例え例え 国の政策だとしても
 危ない事が 起きてしまったのに嘘ついて
 直ちに人体に 影響はないなんてネ
 それがそれが 素晴らしい発明だとしても
 それはそれは 習わない言葉が溢(あふ)れ
 ベクレル セシウム メルトダウンにタービン建屋
 モニタリングに 高い マイクロシーベルト もう
 忘れないから 原発推進派
 安全だったら あなたが住めば良(い)い
 みんなに迷惑かけちゃって
 未熟な大人(おとな)で はずかしいよネ

 (後略)

 ここでも聴くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=iv4gUdn6Lcc&feature=related

 【参考】

http://www.idol-japan-records.net/ski/

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2011.09.05

英語で日記 二〇一一年九月二日 金曜日 私の報告。 September 2nd, 2011 Friday My report.

二〇一一年九月二日 金曜日 私の報告。

 台風。

 午後一時半から高松市で集いが開かれました。
 私は、香川県の戦争遺跡について報告しました。

 私は、夜は、卒論のための勉強をしました。

September 2nd, 2011   Friday  My report.

Typhoon.

The meeting was opened from 1:30 p.m. in Takamatsu.
I reported the ruins of war in Kagawa Prefecture.

I studied for my graduation thesis at night.

 この集いで、参加者から香川県には奉安殿がいくつか残っているという話を聞きました。学校のものが外に出されて神社になっているケースがあるそうです。

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英語で日記 二〇一一年九月三日 土曜日 卒論のための勉強。September 3rd, 2011 Saturday Study for a graduation thesis.

二〇一一年九月三日 土曜日 卒論のための勉強。

 雨。

 卒論のための勉強をしました。

September 3rd, 2011   Saturday  Study for a graduation thesis.

Rain.

I studied for the graduation thesis.

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英語で日記 二〇一一年九月四日 日曜日 高知市でつどいに参加しました。September 4th, 2011 Sunday I participated in the meeting in Kochi.

二〇一一年九月四日 日曜日 高知市でつどいに参加しました。

 曇り。

 午後から高知市へ行きました。
 愛媛大学のМ先生を囲むつどいに参加しました。

September 4th, 2011 Sunday I participated in the meeting in Kochi.

Cloudy.

I went to Kochi from the afternoon.
I participated in the meeting talking with  Mr.М(He is a professor of Ehime University).

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英語で日記 二〇一一年九月五日 月曜日 二つの訃報。September 5th, 2011 Monday Two obituaries.

二〇一一年九月五日 月曜日 二つの訃報。

 曇り。

 午前中、訃報が二つ届きました。

 亡くなったのは、同じ地域の六十五歳の女性、それと安芸市の八十八歳の女性でした。

 夕方、妻と一緒に六十五歳の女性の通夜に参列しました。

September 5th, 2011   Monday Two obituaries.

Cloudy.

Two obituaries reached me in the morning.
The 65 year-old woman in the same area and the 88-year-old woman in Aki city passed away.
In the evening, I and my wife participated in the 65-year-old woman's vigil.

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2011.09.07

英語で日記 二〇一一年九月六日 火曜日 母の弟の妻。September 6th, 2011 Tuesday My mother's younger brother's wife.

二〇一一年九月六日 火曜日 母の弟の妻。

 晴れ。

 弟と八十八歳の女性の葬式に参加しました。

 彼女は、母の弟の妻でした。

September 6th, 2011  Tuesday My mother's younger brother's wife.

Fine.

I and my younger brother participated in an 88-year-old woman's funeral. She was our mother's younger brother's wife.

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英語で日記 二〇一一年九月七日 水曜日 『蛟竜艇長講習生 矢野統一』。September 7th, 2011 Wednesday "Special submarine Koriyu's student.His name Yano Toichi".

二〇一一年九月七日 水曜日 『蛟竜艇長講習生 矢野統一』。

 晴れ。

 私と私の妻は、共著の本の原稿を出版社に渡しました。
 その本の題名は、『蛟竜艇長講習生 矢野統一 父は海中の特攻隊員でした』です。

 その本の値段は、税込みで千円にしたいと思っています。

September 7th, 2011  Wednesday "Special submarine Koriyu's student.His name Yano Toichi".

Fine.

I and my wife handed a manuscript of a book to a publishing company.
The title of the book is "Special submarine Koriyu's student Yano Toichi--My father was a kamikaze pilot in the sea."
I like to make the price of the book 1000 yen including tax.

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2011.09.08

二〇一一年九月八日 木曜日 また地震がありました。September 8th, 2011 Thursday There was an earthquake again.

二〇一一年九月八日 木曜日 また地震がありました。

 晴れ。

 Mさんが、本のためのイラストと二枚をかいてくれると約束しました。

 午後一時にオートバイで高知を出発して、午後七時半に、さぬき市に着きました。
 所々でオートバイを止めて風景写真を撮影しました。

 午後七時五十八分、地震がありました。
 それは、ずしんと床が落ち込むような感じでした。

 夜、英作文の勉強をしました。

September 8th, 2011   Thursday There was an earthquake again.

Fine.

Miss. M promised me to draw  two sheets of illustration for our book.
I left Kochi by motorcycle at 1 p.m., and arrived in Sanuki at 7:30 p.m.
I stopped my motorcycle in some places and took scenery photos.
7:58 p.m.,There was an earthquake.
I felt like a floor falling down.

I studied English composition night.
 

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【短歌】 「三十年 調べ続けた 本出るよ……」

三十年 調べ続けた 本出るよ 年賀がわりに 君にも送るよ

あと半年 大学卒業 そのあとの やりたいことの メニューの数々

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卒論のタイトルを決めました。 「高松陸軍機、きょうも出撃せず」  高松飛行場、三つの秘匿飛行場は何のためだったのか。

 いろいろ考えて考えて、きょう、卒論のタイトルを以下のようにすることにしました。

 「高松陸軍機、きょうも出撃せず」  高松飛行場、三つの秘匿飛行場は何のためだったのか

 (問題意識)

 アメリカ軍機が七月、八月と香川県下の各所を空襲しました。

 しかし、高松の陸軍の航空隊は、飛行機で一度も反撃しませんでした。

 陸軍高松飛行場は建設中でしたが、すでに航空隊が使っていました。香川県には陸軍の飛行機は数十機あったはずです。しかし、それらの飛行機は屋島秘匿飛行場、その周辺などに隠されたままでした。

 なぜ、出撃しなかったのでしょうか。

 このことを建設中の四つの飛行場の機能を追いながら調べてみました。

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2011.09.09

【ニュース】 09月08日20時01分 気象庁発表 香川の地震

 あの、くぐっーと落ち込むような地震、気象庁発表ではつぎのようなものでした。

平成23年09月08日20時01分 気象庁発表
08日19時58分頃地震がありました。
震源地は香川県西部 ( 北緯34.1度、東経133.7度)で震源の
深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は3.7と推定されます。
各地の震度は次の通りです。
なお、*印は気象庁以外の震度観測点についての情報です。

香川県  震度3  三豊市高瀬町* 三豊市詫間町*
     震度2  丸亀市新田町* 観音寺市坂本町 観音寺市瀬戸町*
          観音寺市大野原町* 観音寺市豊浜町*
          宇多津町役場* 多度津町家中 三豊市豊中町*
          三豊市仁尾町* 三豊市三野町* まんのう町生間*
          綾川町山田下*
     震度1  高松空港 高松市塩江町* 高松市香川町*
          高松市国分寺町* 直島町役場* さぬき市津田町*
          丸亀市大手町* 丸亀市綾歌町* 丸亀市飯山町*
          坂出市室町* 善通寺市文京町* 琴平町榎井*
          多度津町栄町* 三豊市財田町* 三豊市山本町*
          まんのう町造田* まんのう町吉野下*
          綾川町滝宮*
徳島県  震度2  徳島三好市池田総合体育館 徳島三好市西祖谷山村*
     震度1  美馬市脇町 美馬市木屋平* 美馬市美馬町*
          つるぎ町貞光* つるぎ町半田*
          徳島三好市池田中学校* 徳島三好市三野町*
          徳島三好市山城町* 徳島三好市井川町*
          東みよし町昼間* 東みよし町加茂*
岡山県  震度1  新見市唐松* 新見市哲西町矢田* 真庭市下方*
          倉敷市新田 倉敷市沖* 倉敷市下津井*
          倉敷市白楽町* 倉敷市真備町*
          倉敷市児島小川町* 笠岡市殿川* 笠岡市笠岡*
          総社市清音軽部* 高梁市原田南町* 里庄町里見*
          浅口市天草公園 浅口市鴨方町* 岡山北区足守
広島県  震度1  庄原市西城町大佐* 福山市松永町 福山市神辺町*
          広島府中市上下町上下*
愛媛県  震度1  西条市丹原町鞍瀬 四国中央市金生町*
高知県  震度1  高知香南市夜須町坪井* 香美市香北町美良布*

この地震による津波の心配はありません。

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【ニュース】 自衛隊の海外派遣隊の武器使用基準を緩和すべきだ、武器輸出三原則も見直しを 民主党の前原誠司政調会長がアメリカでの講演でのべる 

以下、インターネットで見ました。

自衛隊PKOの武器使用緩和を 前原氏表明、輸出三原則見直しも

  【ワシントン共同】民主党の前原誠司政調会長は7日午後(日本時間8日午前)、米ワシントンで講演し、自衛隊の国連平和維持活動(PKO)など海外派遣で、一緒に活動する他国部隊が攻撃された際に反撃できるよう武器使用基準を緩和すべきだとの見解を表明した。兵器の輸出解禁に道を開く武器輸出三原則見直しも唱えた。
 他国部隊を守る武器使用は、海外での武力行使や集団的自衛権行使を禁じた憲法に抵触しかねない。現行法では自衛隊の管理下にある他国兵らを守る必要最小限の武器使用は可能だが、前原氏はその範囲を広げる考えを示した。

 2011/09/08 07:13

 

 【参考 日本国憲法から】

 第2章

 戦争の放棄

 第9条

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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【エッセイ】 午前五時半の「ジュピター」。

 大音響の美しい演奏で目をさましました。
 「ジュピター」です。
 近くの部屋からです。
 がばっと起きて聴き入りました。
 時計見ると午前五時半でした。
 「さっきまで、わいわと話し声が聞こえたが、今度は音楽鑑賞ですか……」
 とういうことで、本日は午前六時から活動を開始しました。目覚ましは、午前七時半にかけてあったのですが……。
 ありがとう、「ジュピター」さん。

 学生アパートの日々です。

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2011.09.10

英語で日記 二〇一一年九月九日 金曜日 三本の原稿。September 9th, 2011 Friday Three manuscripts.

二〇一一年九月九日 金曜日 三本の原稿。

 晴れ。

 午前五時半、起床。

 私は、原稿を三つ書きました。
 私は、何だか、すっきりした感じになりました。

September 9th, 2011  Friday Three manuscripts.

Fine.

5:30 a.m., I woke up.

I wrote three manuscripts.
I felt refreshed somehow.

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2011.09.11

【ニュース】 「放射性物質がうつった」の民主党大臣が辞任。(二〇一一年九月十日)

 「NHKニュースウェブ」から

 鉢呂氏辞任申し出“心からおわび”

 9月10日 22時7分 動画あり

 鉢呂経済産業大臣は、福島県の被災地を視察したあと、記者の体に触れるようなしぐさをしながら、「放射性物質がうつった」などという趣旨の発言をしていたことなどの責任を取りたいとして、10日夜、野田総理大臣に辞任を申し出て、受理されました。(中略)

 鉢呂経済産業大臣は、8日、福島県の被災地や東京電力福島第一原子力発電所などを視察し、東京都内の議員宿舎に戻った際、記者の体に触れるようなしぐさをしながら、「放射性物質がうつった」などという趣旨の発言をしました。また、9日の記者会見で、前日の視察を振り返って、福島第一原発周辺の市街地を、「人っ子ひとりいない、まさに『死のまち』という形だった」と述べ、その後、「被災者の皆さんに誤解を与える表現だった」と発言を撤回し、陳謝しました。(中略)……鉢呂大臣は、10日夜7時ごろから国会近くの港区赤坂の議員宿舎で野田総理大臣と会談し、今回の問題の責任を取りたいとして辞任を申し出て受理されました。そして、鉢呂大臣は、10日夜9時半前から経済産業省で記者会見し、「一連の発言で、国民、とりわけ福島県民の皆さんに多大な不信の念を抱かせ、心からおわびを申し上げたい。猛省をしながら、福島県民の皆さんや被災者の皆さんに少しでも貢献できるよう、ひたすら頑張っていきたい」と述べました。また、鉢呂大臣は「大臣就任前にも2度ほど福島県に入っており、当時の菅総理大臣に学校の除染問題などについて意見具申もしてきた。私の地元にも原子力発電所があり、大きな政治的な決意を持って大臣の職に臨んできた。福島県民の皆さんを逆なでする気持ちはなかったが、今回の不用意な発言を真剣に考え、辞任という決断をした」と述べました。

  http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110910/k10015522621000.html

  「毎日JP」から

 鉢呂経産相:「放射能つけた」発言 辞任やむなしの声も

 鉢呂吉雄経済産業相が東京電力福島第1原発の視察を終えた8日夜、東京都内で報道陣の一人に近寄って防災服をすりつける仕草をし、「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言をした。鉢呂氏は9日午前の会見でも福島第1原発の周辺市町村を「死の町」と発言し、同日午後にこの発言を撤回して陳謝した。
 (中略)
 報道陣は、鉢呂氏の福島第1原発視察の見解などを聞くため、8日午後11時過ぎに東京・赤坂の議員宿舎で取材していた。10人程度の記者が鉢呂氏を取り囲み、鉢呂氏はたまたま近くにいた毎日新聞記者に近寄り、防災服をすりつける仕草をした。鉢呂氏はすりつける仕草をした後、報道陣に「除染をしっかりしないといけないと思った」などと語った。
 鉢呂氏は8日、野田佳彦首相に同行して、福島第1原発や原発から半径20キロの警戒区域を視察した。その後、帰京し、防災服を着替えないまま、議員宿舎に戻り、報道陣の取材に応じていた。
 鉢呂氏は9日夜、報道陣に対し、「放射能をつけたぞ」との発言について、「(記者に)近づいて行って触れることもあったかもしれない。そういうこと(放射能をつけたぞ)は言っていないと思う」と釈明した。
 鉢呂氏は9日午前の閣議後会見で、8日に福島第1原発などを視察した際の印象について「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」と発言した。野田首相は9日、訪問先の三重県紀宝町で記者団に「不穏当な発言だ。謝罪して訂正してほしい」と要求。これを受け、鉢呂氏は9日午後、「被災地に誤解を与える表現だった。軽率だった。被災をされている皆さんが戻れるように、除染対策などを強力に進めるということを申し上げたかった」と釈明した。
 (後略)

 毎日新聞 2011年9月10日 2時30分(最終更新 9月10日 2時59分)

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110910k0000m010154000c.html

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英語で日記 二〇一一年九月十日 土曜日 「放射能すりつけてやる」の言った大臣の辞任。September 10th, 2011 Saturday A minister's resignation、 he said "I give you radioactivity" .

二〇一一年九月十日 土曜日 「放射能すりつけてやる」の言った大臣の辞任。

 晴れ。

 高知市で開かれた二つの集いに参加しました。

 民主党の鉢呂(はちろ)吉雄経済産業相が辞任しました。
 彼は、毎日新聞記者に近寄り、「放射能すりつけてやる」と防災服をすりつける仕草をしました。
 彼が辞任したのは、彼が大臣になって九日目のことでした。

September 10th, 2011   Saturday A minister's resignation、 he said  "I give you radioactivity" .

Fine.

I participated in two meetings held in Kochi.
Democratic Party Economy, Trade and Industry Minister Hatiro Yoshio resigned.
He closed to the Mainichi Newspapers journalist and  did a behavior that rubs disaster prevention dress saying "I give you radioactivity."
He became a minister and it was the ninth day that he resigned.

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英語で日記 二〇一一年九月十一日 日曜日 「本土決戦」関係の資料。 September 11st, 2011 Sunday Data about "mainland decisive battle"

二〇一一年九月十一日 日曜日 「本土決戦」関係の資料。

 晴れ。

  私は、高知市民図書館へ行って「本土決戦」関係の資料をあさりました。

 私は、英作文の勉強をしました。

 私は、卒論のための勉強をしました。

September 11st, 2011 Sunday Data about  "mainland decisive battle" 

Fine.

I went to Kochi citizen library and looked for "mainland decisive battle"-related data.

I studied English composition.

I studied for a graduation thesis.

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2011.09.12

英語で日記 二〇一一年九月十二日 月曜日 スマートフォンから撤退しました。September 12th, 2011 Monday I was withdrawn from the smart phone.

二〇一一年九月十二日 月曜日 スマートフォンから撤退しました。

 晴れ。

 私は、携帯電話を買い換えました。
 私の、新しい携帯電話は、電話、メール、テレビの機能があるものです。
 いままで、私は、スマートフォンを使っていました。
 しかし、私の持っていたスマートフォンは、電話の機能がうまく使えませんでした。
 それに、それは、電池が一日で切れてしまいました。

 私は、卒論のための勉強をしました。

September 12th, 2011  Monday  I was withdrawn from the smart phone.

Fine.

I replaced a mobile phone.
My new mobile phone has a function of telephone, mail, and television.
Until now, I was using a smart phone.
However, the function of the telephone was not good for me to use.
Moreover , it  run out the battery in one day.

I studied for a graduation thesis.

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【ニュース】 フランスのフランス電力公社の子会社「ソコデイ」の核廃棄物処理工場で爆発。

 ● AFP時事 九月十二日 午後八時五十八分

 フランス南部ニームの核関連工場で爆発があり。放射能漏れの恐れがある

 ● 時事ドットコム

 核関連施設で爆発、死傷者も=放射能漏れの危険-仏TV

 【パリ時事】フランス南部マルクールにある原子力関連施設で12日、爆発事故が起きた。仏テレビによれば1人が死亡、4人が負傷した。うち1人は重傷という。AFP通信は地元消防などの話として、放射能漏れの危険があると報じた。(2011/09/12-21:05)

● 時事ドットコム

 核関連施設で爆発、死傷者も=「放射能漏れなし」―仏南部

 時事通信 9月12日(月)21時7分配信

 【パリ時事】フランス南部マルクールにある原子力関連施設で12日、爆発事故が起きた。仏テレビによれば1人が死亡、4人が負傷した。うち1人は重傷という。AFP通信によると、仏原子力庁(CEA)報道官は「現時点で外部への放射能漏れはない」と語った。
 爆発があったのは仏電力公社(EDF)の子会社「ソコデイ」の核廃棄物処理工場。爆発の原因など詳しいことは分かっていない。 

 ● フランス核施設で爆発、1人死亡 

 フランス南部ガール県マルクールの核施設で爆発、1人死亡。4人負傷の報道も。ロイター通信報道。 2011/09/12 21:10  【共同通信】

 ● 核施設爆発で放射能漏れなしと仏当局 

 マルクールの核施設の爆発による放射能漏れはない、とフランス原子力当局。ロイター通信報道。 2011/09/12 21:14  【共同通信】

 ここは低レベルの放射能廃棄物を処理する、核廃棄物集中処理センターのようです。

 

 ● 広島県の知人からのメール 

 フランスの原子力庁によりますと、フランス南部のニーム郊外の核廃棄物質の処理施設で、12日、爆発が起きました。

 フランスの原子力庁は、声明を発表し、放射能漏れはないとして、爆発の状況や原因について調べています。

 爆発が起きたのは、フランス南部のニーム郊外のマルクールにある核廃棄物の処理施設「廃棄物集中処理センター」と呼ばれる場所で、フランスの原子力庁によりますと、現地時間で12日午前11時45分(日本時間の午後6時45分)ごろ、爆発があり、1人が死亡、4人がけがをしたということです。

 フランス原子力庁は、声明を発表し、爆発による放射能漏れはないとしています。

 この施設を管理するフランス電力公社によりますと、低レベルの放射性廃棄物を溶かすための溶融施設で爆発が起きたとしています。

 爆発に伴って施設では、1時火災が起きましたが、すぐに鎮火したということで、フランスの原子力当局が爆発の状況や原因について調べています。

 フランス内務省は、爆発の原因について調査中だとしたうえで、施設の周辺住民に対し、避難指示などは出していないとしています。

 また、IAEA=国際原子力機関は、対策本部を立ち上げ、フランス政府に詳細な情報の提供を求め、状況の確認を続けています。

  NHKニュース

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2011.09.13

英語で日記 二〇一一年九月十三日 火曜日 「彫刻入門」の講座。September 13rd, 2011 Tuesday A lecture of "a guide to sculpture."

二〇一一年九月十三日 火曜日 「彫刻入門」の講座。

 晴れ。

 私は、十二月に高知で「彫刻入門」の講座(計八時限)を受けることにしました。

 私は、高知県立図書館前で、ある新聞記者、そして韓国語の達人と話をしました。

 私は、高知県立図書館で、渡辺洋二さんの『本土防空戦』を借りてきました。
 それは、ひじょうに参考になる本でした。
 
 夜、私は、卒業論文のための勉強をしました。

September 13rd, 2011  Tuesday   A lecture of "a guide to sculpture."

Fine.

I decided to receive the lecture (a total of eight periods) of "a guide to sculpture" in Kochi in December.

I talked with a certain newspaper reporter and the Korean expert in front of Kochi Prefectural Library.

I borrowed Mr. Watanabe Yoji 's "mainland air defense game" in Kochi Prefectural Library.

It was a book which is consulted very much.

I studied for the graduation thesis  at night .

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2011.09.14

【写真】 田んぼのカカシ 九月八日、香川県

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【写真】 クニョとサラン わが家のネコたち 九月十一日、高知市

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【写真】 高知大学朝倉キャンパス 八月十三日、高知市

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【写真】 マンジュシャゲ、一束二百円 九月十三日、高知市

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【写真】 白サギ飛んだ 九月十四日 高知市の国分川

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2011.09.15

二〇一一年九月十四日 水曜日 アメリカ軍の写真撮影機が撮った陸軍丸亀飛行場の写真。September 14th, 2011 Wednesday A photo of army Marugame airfield which photography airplane of U.S. Forces photographed.

二〇一一年九月十四日 水曜日 アメリカ軍の写真撮影機が撮った陸軍丸亀飛行場の写真。

 晴れ。

 午後三時、さぬき市の私のアパートに帰り着きました。
 注文していた本が、私のアパートに届いていました。
 その本に、アメリカ軍の写真撮影機が撮った陸軍丸亀飛行場の写真が載っていました。

 卒業論文のための作業を十二時間もしました。

 初めて新しいビデオカメラのデータをパソコンに取り込みました。

September 14th, 2011  Wednesday A photo of army Marugame airfield which photography airplane of U.S. Forces photographed.

Fine.

I came back to my apartment in Sanuki at 3:00 p.m.
A book which I had ordered had reached my apartment.
A photograph of army Marugame airfield which photography airplane of U.S. Forces photographed appeared in the book.

I did work for a graduation thesis for as long as 12 hours.  

I downloaded the data of a new video camera to my personal computer for the first time.

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【ニュース】 高松市由良町の蔵王神社の本殿は、川島国民学校にあった奉安殿(ほうあんでん)を移築したもの!! 

 知人の話や『川島郷土誌』によると、高松市由良町の蔵王神社の本殿は、川島国民学校にあった奉安殿を移築したものだとのことです。
 奉安殿というのは、戦前の日本で、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語などを納めていた建物です。
 四大節祝賀式典の際には、職員、児童・生徒全員で御真影に最敬礼を奉ることと教育勅語の奉読が求められました。
 登下校時や単に前を通過する際にも、職員、児童・生徒すべてが服装を正してから最敬礼するように定められていました。
 敗戦後の194512月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止されました。
 前から奉安殿の実物を見たいと思っていました。
 私が、これまでに見たものは、高知市の高知県立高知追手前高校の屋上に残っているものだけです。

 以下のページで、蔵王神社の元・奉安殿の写真を見ることができます。

 http://kagawa.bine.jp/jinnjya/takamatu/165_350zaou/350zaou.html

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英語で日記 二〇一一年九月十五日 木曜日 本のゲラ。September 15th, 2011 Thursday The galley of our book.

二〇一一年九月十五日 木曜日 本のゲラ。

 晴れ。

 午前十時から夜九時まで卒業論文の執筆をしました。
 
 妻によると、本のゲラができたそうです。

September 15th, 2011  Thursday  The galley of our book.

Fine.

I wrote a graduation thesis from 10:00 a.m. till 9:00 at night.

My wife said that the galley of our book was made.

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【エッセイ】 毎日の二リットルの水。

  「血が濃すぎます。毎日、二リットルの水をのんでください。のみすぎてもだめです。ビールで水分補給もだめです」

 しばらくまえ、医者に、こういいわたされました。

 最近は、前の日に二リットルくらいのビンに麦茶を入れておいて、つぎの日に、それがカラになるまでのんでいます。

 でも、「のみすぎてもだめです」というのが難しいですねえ。

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2011.09.16

【エッセイ】 「倉敷飛行機株式会社坂出製作所(倉紡坂出工場)、木製飛行機部品の製造開始。」って……。

 この何日か、懸命に卒業論文を書いています。
 いろいろ資料を読んでいるなかで「このことも調べなくては……」ということに出合い、「いやいや、いまはわき道にそれてはいけない」と我慢しています。
 その「このことも」の一つが『坂出市史 年表』の一九四五年一月の項のつぎの文章です。

 倉敷飛行機株式会社坂出製作所(倉紡坂出工場)、木製飛行機部品の製造開始。

 いつか、くわしいことは調べたいと思っています。
 北海道の木製飛行機製造については本を買いこんであります。

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英語で日記 二〇一一年九月十六日 金曜日 大学の後期授業の履修登録。September 16th, 2011 Friday Completion registration of a second-half lesson of a university.

二〇一一年九月十六日 金曜日 大学の後期授業の履修登録。

 晴れ、のち雨。

 ずっと、卒業論文の執筆をしました。

 大学の後期授業の履修登録をしました(本日が締め切りでした)。
 そして、十二科目分のノートをつくりました。

 午後、強い雨が降ってきました。

September 16th, 2011  Friday Completion registration of a second-half lesson of a university.

Rain after fine.

I wrote a graduation thesis all the time.

I did completion registration of the second-half lesson of a university (today was the deadline).

In the afternoon, it has rained heavily.

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【英語】 英語で「いまのところ順調」を、どう表現しますか。

 英語で「いまのところ順調」を、どう表現するでしょうか。

 Now I am good condition.

 なんてのはだめでしょうね。
 
 So far,so good.

 ソウ ファー ソウ グッド

 と、いうのだそうです。 
 四国新聞の九月十日付に載ってました。

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【短歌】 もう、腹の立つこと、年金減額だなんて。「ふざけんな!!!!」と、いってくれ。

  「年金の 減額検討」 「ふざけるな!」 新聞見出しを しかりつけてる

 九月十六日付、四国新聞一面トップです。
 「公的年金の減額検討 政府 3年で歳出2500億円減額」
 民主党政権にも腹が立ちますが、このことに、この新聞が怒っていないことにも腹が立ちます。
 四国新聞さん。あんたは生活者としての怒りがないのですか?

 「ふざけんな!!!!」と、いってくれ。

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前田有紀さんの「ミヤネヨ ごめんね」。夜更けの食事をしながら聴いています。

 前田有紀さんの「ミヤネヨ ごめんね」を、ここで聴くことができます。

  http://www.youtube.com/watch?v=Wdy0Q_iiAb8&feature=related

  http://www.youtube.com/watch?v=Q_atfkIcxEQ&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=ZFq3ADN94vs

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2011.09.18

【ニュース】 うれしい!! 高知新聞が北村光寿さんの「いま」を書いてくれました。

 読んで涙が出ました。
 高知新聞が、北村光寿さんの「いま」を書いてくれました。 
 記事のなかの「先輩のおじさん」というのが僕のことかもしれません。

 その記事は、ここに出ています。

  http://203.139.202.230/?&nwSrl=279780&nwIW=1&nwVt=knd

  夢はスクールカウンセラー 落雷事故の北村さん 

  2011年09月16日09時15分 

 (前略)。県立高知短期大学入学後、3年目の季節がゆっくり巡る。高知市永国寺町のキャンパスに北村光寿さん(31)=高知市仁井田=の元気な姿がある。大阪府高槻市で部活サッカーの試合中、頭に雷が直撃し、奇跡的な生還を遂げて15年。さまざまな年齢の学生らに囲まれ、前を見て学ぶ日々だ。

 (中略)
 この夏。台風6号が去ってから始まった集中講義には、車椅子を押す母親や友達の介助で席に着いた。
 録音機を机に置き、国際法の講義を前かがみで聴く。落雷で失明した北村さんは、声と耳が頼りだ。

 (中略)
 早い人は2年で卒業するが、北村さんは4年間で単位を取得する長期履修コースを選んだ。
 「共に学ぶ会」。2009年に北村さんが入学すると、学生たちはそんな名前の組織をつくった。代表の池文恵さん(61)は「『介護は専門家に任せた方がいい』という意見もあったけど、それは違う。同じ学校の生徒が手伝うことが大事」。
 10代から60代。さまざまな年齢、経歴のクラスメートが授業のノートをパソコン用のデータに移し、北村さんに渡す。いつも面倒を見てくれた「先輩のおじさん」。8時間かけてデータを作ってくれた「お母さん世代のクラスメート」…。
 北村さんは、音声が出るパソコンでそうした支えで得たデータを読む。最近は、教員が授業のレジュメを事前に北村さんのパソコンに送っている。
 講義の後は校舎2階で歩行訓練をする。介助者は先生や生徒。北村さんの手を引き、訓練に付き添う青木宏之准教授(36)=経営学=は「入学したころは廊下1往復でへとへとだったけど、今では2往復。歩くスピードも速くなった」とうれしそうだ。
 話し言葉はまだ出づらく、主にパソコンや携帯メールを使う。クラスメートとのやりとりも、携帯メールに打ち込み、その文字を見せたりする。
 「将来は?」。そんな質問にしばらく考え込んだ後、パソコンに手早く文面を打ち込んで、照れくさそうに笑った。
 「スクールカウンセラーをしながら、(高知在住のシンガー・ソングライター)堀内佳さんのように全国の小中学校をまわり、子どもに話をしたり、相談に乗ったりしたい」
 「そのためには学校から呼ばれるような魅力ある人間にならんといかんしね」
 (後略)

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2011.09.19

英語で日記 二〇一一年九月十七日 土曜日 本のゲラの初校。September 17th, 2011 Saturday The first proof sheet of the galley of a book.

二〇一一年九月十七日 土曜日 本のゲラの初校。

 雨。

 夜、私は、高知市へ帰りました。

 私は、私たちの本のゲラの初校をしました。

  
September 17th, 2011   Saturday The first proof sheet of the galley of a book.

Rain.

I returned to Kochi at night.

I did the first proof sheet of the galley our book.

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英語で日記 二〇一一年九月十八日 日曜日 第二国民兵。September 18th, 2011 Sunday The second country national guardsman.

二〇一一年九月十八日 日曜日 第二国民兵。 

 雲り、時々晴れ。

 私は、朝から夕方まで、高知県短歌大会に参加しました。

 私は、九十数歳の男性と話をすることができました。
 以下、この男性が話してくれたことのメモです。
 彼は、徴兵のための検査では丙種でした。
 つまり、彼は、この検査に合格しませんでした。
 しかし、彼は、第二国民兵として高知市朝倉の歩兵連隊に入隊させられました。
 彼は、三カ月の訓練の後、中国へ出征しました。
 彼は、暗号の解読が任務でした。
 彼らは、食料がないので中国人から徴発しました。
 彼らは、あるときには、中国人の田んぼの稲を刈りました。
 そして、それを食料にしました。
 終戦のとき、彼は三十歳でした。

September 18th, 2011   Sunday The second country national guardsman.

Cloudy ,and partly sunny.

I participated in  31st Kochi Prefecture Tanka convention from  morning to the evening.

I was able to talk with an about ninety-year-old man.
Hereafter, it is a memo of this man talked.

He was Heishiyu in the inspection for the draft.
That is, he did not pass this inspection.
However, he was entered by the infantry regiment in Kochi  Asakura  as the second country national guardsman.
He went to the front after training for three months. The battlefield  was China
For him, the decipherment of the code was a duty.
They did not have food ,and they requisitioned from Chinese people.
They cut the rice of Chinese people's rice field.
And they ate the rice
He was 30 years old at the time of the end of the war.

 【参考】

 第二国民兵役(データは「ウィキペディア」)

 年齢17歳以上45歳迄の者で常備兵役・補充兵役・第一国民兵役に服さなかった者が対象になります。
 徴兵検査基準の「丙種」と判定された者がこれにあたり、その基準は「身体上極めて欠陥の多い者」をいいます。
 徴兵検査では甲種・乙種が合格で、丙種は一応合格、丁種・戊種が不合格でしたが、戦局が悪化し末期になるとこの一応合格の身体上極めて欠陥の多い者までも戦地に送られました。

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【短歌】 八月十八日に生まれたもの。

ルドベキア 咲いていました 道のわき 「そうだ僕らも 光をはなとう」

試験日に 用紙の印刷 できないで あせる夢みた 元教師・妻

本のゲラ すらすら読めて 合格点 まず自賛して 校正をする

「明日休み、それはよかった。調べてよ」 超久しぶり 息子へのコール

年下は アタック、アタック 年上は しっぽであしらう メスネコ 二ひき

短歌(うた)たちが 百七十五 うちそろい ソプラノ、バスで 声をあげてる

ああ、ここも 男はまばら 隅っこで 参加している 短歌大会

「六十歳 以上のかたは 値引きです」 よしバイキング 入ってみるか

「値段分 食べきってやる」 バイキング 「よしがんばるぞ」 三まわり目する

講演に 「それは違う」と 声を出す 男の中の いこじな心

「三十で 中支にいた」と 語りくる 元兵隊は 九十六歳

卒論は 筋道だけは 整えた 明日始まる 最期の学期

足痛い 目がぼやけてる 風呂に入り 体いたわる 通学の前

 

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英語で日記 二〇一一年九月十九日 月曜日 マンジュシャゲの花がいっぱい。【写真、マンジュシャゲの花】 September 19th, 2011 Monday The flower of a cluster amaryllis is full.

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二〇一一年九月十九日 月曜日 マンジュシャゲの花がいっぱい。

 雲り、のち雨。

 私は、朝、五〇CCのバイクで南国市浜改田、前浜へ行きました。
 道々にマンジュシャゲが咲いていました。
 私は、何度もオートバイを止めて撮影しました。
 私は、南国市の前浜で幕末の砲台跡を見ました。
 私は、帰りに、アジア太平洋戦争のときの戦争壕のようなものを二カ所で見ました。

September 19th, 2011   Monday The flower of a cluster amaryllis is full.

Rain, after cloudy.

I went to  Nankoku city Hamakaida and  Maehama by 50CC motorbike in the morning.
On the way , the cluster amaryllis was in bloom.
I stopped my motorbike  repeatedly , and took  photos  of  the cluster amaryllis.
I looked at the marks of the gun battery in Edo Period in Nankoku city Maehama.
On my way home from Nankoku city, I looked at two things like war moat in Asia-Pacific war.

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【写真】 南国市の浜改田砲台跡。

 南国市をうろうろしていて、前浜砲台跡に出くわしました。
 幕末のものです。

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【写真】 南国市の道端の戦争壕らしい物二つ。

 南国市の道端に戦争壕らしい物が二つありまました。 
 土佐電鉄の「千檀の木」のバス停の近くです。
 一つは、高さ五十センチの所にあります。一見、お宮さんのようになっています。
 のぞきこむと、壕は、ずっと奥に続いています。
 そこから十メートルくらいの所にくぼんだ所があります。登ってみると、二メートル半ほど上の所がえぐり取られて、ごつごつの岩肌が見えています。

 この二つは、もっと調べてみたい思っています。

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【川柳】 毎日が 月火水木金 定年後

 九月十九日にできた川柳です。

 毎日が 月火水木金 定年後

 切った後 「あいよ」と新聞 持って来る

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2011.09.20

【エッセイ】 天皇の「講和=降伏」の決断が一九四五年六月であるのなら……。 

 1945年6月は、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の戦争指導部の戦争戦略が激変した時期でした。

 6月8日に「御前に於ける最高戦争指導会議」がありました。
 天皇のほか、豊田副武・軍令部総長、河辺虎四郎・参謀次長(満州に出張中の梅津 美治郎・参謀総長の代理)、平沼騏一郎・枢密院議長らが出席しました。
 会議の結論は、戦争継続ということになりました。
 翌6月9日第86臨時議会が開催され、天皇が貴族院議員、衆議院議員全員に向けて「勅語」を発します。

 それは、「世界ノ大局急変シ」とドイツの無条件降伏[5月7日]を言い、「敵ノ侵寇亦[また]倍〃猖獗[しょうけつ。はげしくあばれる]ヲ極ム。」とアメリカ軍の空襲のひどさをうたいながら「正[まさ]ニ敵国ノ非望ヲ粉砕シテ制戦ノ目的ヲ達成シ以[もっ]テ国体ノ精華ヲ発揮スヘキ秋ナリ」としています。

 議会は「義勇兵役法」を議決し、9月12日に閉会します。

 この法律(6月22日に公布され、即日施行)は、17歳以上40歳以下の女子のすべてをふくめ国民義勇戦闘隊をつくり上陸してきた敵とたたかうことを決めたものでした。

 「第一条 大東亜戦争ニ際シ帝国臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス
 2 本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト称ス
 3 本法ハ兵役法ノ適用ヲ妨グルコトナシ
 第二条 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齢十五年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齢六十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)、女子ニ在リテハ年齢十七年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齢四十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者之ニ服ス
 2 前項ニ規定スル服役ノ期間ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ必要ニ応ジ之ヲ変更スルコトヲ得
 第三条 前条ニ掲グル者ヲ除クノ外義勇兵役ニ服スルコトヲ志願スル者ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ義勇兵ニ採用スルコトヲ得
 2 前項ノ規定ニ係ル義勇兵ノ服役ニ関シテハ勅令ノ定ムル所ニ依ル
 第四条 六年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者ハ義勇兵役ニ服スルコトヲ得ズ但シ刑ノ執行ヲ終リ又ハ執行ヲ受クルコトナキニ至リタル者ニシテ勅令ヲ以テ定ムルモノハ此ノ限ニ在ラズ
 第五条 義勇兵ハ必要ニ応ジ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ国民義勇戦闘隊ニ編入ス
 2 本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト称ス
 第六条 義勇兵役ニ関シ必要ナル調査及届出ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依ル
 第七条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス
 2 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ処ス
 第八条 前条ノ規定ハ何人ヲ問ハズ帝国外ニ於テ其ノ罪ヲ犯シタル者ニモ亦之ヲ適用ス
 第九条 国家総動員法第四条但書中兵役法トアルハ義勇兵役法ヲ含ムモノトス

  附 則

 本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス」

 しかし、6月9日の「勅語」の直後から天皇自身の気持ちが変化していきます。

 そのことを、天皇が語っています。(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。429頁。115-128頁)
 「梅津[美治郎・参謀総長]は会議の翌日[六月九日]満州から帰つて来たが、その報告に依[よ]れば、支那[中国のこと]にある我が全勢力を以[もっ]てしても、米の八ケ師団にしか対抗出来ぬ状態であるから、若[も]し米が十ケ師団を支那に上陸させたら、到底勝算はないと語つた。梅津がこんな弱音を吐[は]くことは初めてゞあつた。」
 「一方国内の軍需生産がどうかと云[い]うと次の様な貧弱さである、軍需工業の視察特命使として、米内が長谷川[清]大将を派遣した事があるが、[六月十二日の]その視察報告によると、一日五十本の魚雷を作つてゐた工場がたつた一本しか出来ぬ有様、海軍の所用魚雷を是非とも作らうとすれば、陸軍の工場迄[まで]も全部海軍に廻[ま]はさねばならぬと云[い]ふ、かくなつては国は守れぬと私は思つた。
 之[これ]と前后[ぜんご]して鈴木[貫太郎]は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云って来たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤[ごもっと]もたせと云つて帰つた。」
 そして、6月20日、天皇は、東郷外相に、こう言っています。
 「戦争につきては最近参謀総長、軍令部総長及び長谷川大将の報告によると支那及び日本内地の作戦準備が不充分であることが明らかとなったから、なるべく速かにこれを終結せしむることが得策である。されば困難なるこことは考えうるけれど、なるべく速かに戦争を終結することに取運ぶよう希望する……」。(東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』。中公文庫)
 6月22日、天皇は「御前に於ける最高戦争指導会議」の6人を呼びました。その席上、天皇は、最初につぎのように発言しました。
 「六月八日の会議で、あくまで戦争を継続するすると方針を決定したけれども、そのさいいままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についても、すみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを望む。」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 天皇は、どんな気持ちで「講和=降伏」の決断をしたのでしょうか。
 そのことは、天皇が7月25日に側近に語った、つぎの言葉によくあらわれています。
 「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器[さんしゅのじんぎ]も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 三種の神器とは、「天孫降臨」のときに、「天照大神」から授けられたという鏡、剣、玉を指します。

 こうしたデータによると、天皇は、少なくても6月20日ころには、「講和=降伏」を決断しています。
 これ以降の日本の戦争は、三種の神器を守るための、よりよい「講和=降伏」の条件をつくりあげるためのたたかいだったのでしょうか。 
 たとえば、私たちの街、高知、高松へのアメリカ軍の空襲は、天皇の「講和=降伏」の決断の後でした。
 広島や長崎へのアメリカ軍の原爆投下も、そうです。

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【エッセイ】 真夜中の学生アパート。

 五階建ての学生アパートに住んでいます。

 もう午前一時を過ぎました。

 でも、まだ起きて英語の辞書を引いています。

 近くの男子学生の部屋から、しきりに女性の大きな嬌声が聞こえてくるのです。

 布団に入っても、何回も起きることはわかっているので、寝ないで勉強しています。

 (この部屋の人は、一日おきくらいに午前六時ころまで騒いでいるのです。)

 しかし、私は、明日は午前七時起きです。

 一時間目から授業があるのです。

 ちゃんとしたビルなのですが、「壁が薄い」のでしょう。

 家賃は、この地域としては、けっこう高いのですが……。

 プライバシーは、つつぬけです。

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英語で日記 二〇一一年九月二十日 火曜日 大学の後期授業が始まりました。September 20th, 2011 Tuesday The second-half lesson of our university started. 

二〇一一年九月二十日 火曜日 大学の後期授業が始まりました。 

 雲り、のち雨。

 私は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』を読みました。
 そして、英語の授業の予習をしました。
 私が気がついたら午前三時になっていました。

 そして、私は、午前七時に起床しました。

 私たちの後期の授業が始まりました。
 一時間目は、私が楽しみにしていた史料購読でした。
  三時間目の英語の時間は先生が変わりました。
 彼女の授業は、英語だけでおこなわれました。

 私は、午前三時に就寝しました。

September 20th, 2011   Tuesday The second-half lesson of our university started.

Rain, after cloudy.

I read "Shiyokunihonge"
And I prepared English lesson.
When I noticed, 3:00 a.m. had come.

And I woke up at 7:00 a.m.

The lessons in the second half  started.
The first period was the historical-records subscription which I was looking forward to.
The third period was English.
We met new  teacher.
Her lesson was performed only in English.

I went to bed at 3:00 a.m.

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【英語】 英語しか話さない英語の先生。

 英語の後期の授業が始まりました。
 きょうから新しい先生でした。
 二十分前に教室に入ったら、すでに来ていました。

 "Hello"
 "?"
  蘆十四歳のおじさんが突然、教室に現れると、やっぱりね。

 "I am a student."
 "OK"

 いくつも質問が出ました。

 “Favourite authors/book
  why?”
 これには困りました。
 最近、じっくり読んで、「いいなぁ」という本はないのです。
 本はたくさん読みますが、必要な章を読んで……という感じなのです。
 " I like history books.
  Especially written about Asia-Pacific war.
  Because I am studying about Asia-Pacific war in Shikoku.
  Asia-Pacific war is almost the same as World War II.

  "What is your life style ?"
  "I am married for 40 years."
 "Great!"

 この先生は授業中に日本語での説明は全然ありませんでした。

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【歴史、地理の自習の時間】 日本列島の略図を描き、それとの関連で台湾がどこにあるか描きいれてみましょう。

 描いてみましたが、かなり変な所に描いてしまいました。

 台湾には二回行っているのに……。

 ここを見れば、位置がわかります。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE

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【歴史、地理の自習の時間】 日本列島の略図を描き、日本列島近海の海流を描きいれてください。

 私は黒潮しか知りませんでしたが、いろんな海流があるんですね。

 ここを見たらわかります。

 http://imagic.qee.jp/kairyuu.html

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【エッセイ】 アジア太平洋戦争のとき、兵隊や国民学校の児童や女性たちの竹槍訓練。

 アジア太平洋戦争のとき、兵隊や国民学校の児童や女性たちが竹槍訓練をしていたことを聞きます。

 「ばかな」で捨てておかないで、きちんと調べておきたいと思い立ちました。

 ・ どこの誰が命じたのか。

 ・ どんな竹槍を、どんなふうにしてつくったのか。

 ・ どういう人たちが、どんなふうに訓練していたのか。

 ・ 訓練していた人たちは、それをどんなふうに思っていたのか。

 ・ 戦闘に、使われたことはあるのだろうか。

 本土決戦期の戦争の本質があぶりだされるかもしれません。

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【エッセイ】 「御真影を守れ」 空襲下で教師たちは……。

 アジア太平洋下のアメリカ軍の空襲。そのもとで国民学校、中学校などの校長、教師たちが、まずやったことは、各学校に配布されていた天皇、皇后の写真・御真影を守ることでした。

 【以下、順次、書いていきます】

 一九四五年七月四日のアメリカ軍のB29爆撃機の高松空襲。

 高松市の香川県立高松中学校では、どうだったでしょうか。

 この日の記録があります。

 「晴  午前2時半~4時頃空襲、御真影御安泰、先導本田、捧持西崎[宿直していた西崎憲一さんです]、付添川合、生徒も付き添う。防空要員堀川君、連隊司令部へ入院」。(創立百周年記念史編集委員会(平成五年):『高松高等学校百年史』。玉翠会)

 この空襲で防空隊員だった生徒・堀川さんが至近弾の油脂を浴びて亡くなりました。

 同校の校舎は、この空襲で炎につつまれました。

 同学校の御真影は、西崎教諭が背負い、生徒の護衛がついて、弦打国民学校まで運ばれました。

 その後の七月十一日には、「御真影、主基農へ奉還と決定」とあります(前同)。

  御真影を疎開させたのです。

  「主基農」というのは、綾歌郡の香川県立主基農業学校のことです(いまは、香川県立農業経営高等学校)。

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2011.09.21

英語で日記 二〇一一年九月二十一日 水曜日 台風のため休講。September 21st, 2011 Wednesday The lecture became a rest because of the typhoon.  

二〇一一年九月二十一日 水曜日 台風のため休講。 

 雲り、ときどき雨。

 台風の影響で、私たちの大学の授業は中止になりました。

 私は、大学の図書館に行って資料を探しました。
 そして、私は、卒論を書きました。

  夜、私は英会話のCDを聴きました。
 私は、つぎのような表現が気に入りました。
 Cheer up! It's not the end of life.
 (元気出してよ! この世の終わりじゃないんだから。)

September 21st, 2011   Wednesday The lecture became a rest because of the typhoon.

Cloudy, and partly rain.

Under the influence of a typhoon,the lessons of our university were stopped.
I went to our university's library and looked for data.
And I wrote my graduation thesis.
At night ,I heard CD of English conversation.
I am pleased with the following expressions.
"Cheer up! It's not the end of life."

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2011.09.22

英語で日記 二〇一一年九月二十二日 木曜日 「本日から秋」。 September 22nd, 2011 Thursday Autumn has come.

二〇一一年九月二十二日 木曜日 「本日から秋」。 

 晴れ。

 朝、私は水でシャワーしました。
 水が冷たい。
 「本日から秋」って感じですね。
 
 私は、香川県立図書館に行って資料を探しました。
 
 そして、私は、卒業論文を書きました。

September 22nd, 2011   Thursday  Autumn has come.

Fine.

In the morning, I took a shower with water.
Water is so cold.
Autumn has come.

I went to Kagawa Prefectural Library and looked for data.

And I wrote my graduation thesis.

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2011.09.24

英語で日記 二〇一一年九月二十三日 金曜日 鉢伏山(はちぶせやま)の交通壕。 September 23rd, 2011 Friday The traffic moat in Mt. Hachibuseyama. 

二〇一一年九月二十三日 金曜日 鉢伏山(はちぶせやま)の交通壕。 

 晴れ。

 私は、午前九時から高知市介良(けら)地域の人たちと鉢伏山(はちぶせやま)に登りました。
 私は、そこで、アジア太平洋戦争中の交通壕を見つけました。
 銃座壕を、みんなと見ました。
  それは、私が以前に見つけたものです。
 私たちは、銃座壕のまわりにいくつか直径十五センチメートルほどの穴があることを発見しました。
 別の交通壕群、そして、タコツボ群を見ました。
 それらは、私が前に見つけていたものです。
 それらは、大きな陣地の一部でした。

 私は、午後一時から会議に出席しました。
 私は、午後三時から、もう一つの会議に出席しました。
 私は、夜は、懇親会に出席しました。

 私は、私たちの家に帰って、妻と二人で本のゲラの初校をやりました。

September 23rd, 2011   Friday The traffic moat in Mt. Hachibuseyama.

Fine.

I climbed Mt. Hachibuseyama  with people in Kochi city  Kera area from 9:00 a.m.
I found the traffic moat under Asia-Pacific war there.
We watched the gun support moat .
I found it before.
We discovered that the surroundings of a gun support moat had some holes about 15 cm in diameter.
We saw the group of another traffic moat and the group of the fire trench for one person(Takotubo).
I have found them before.
They were a part of big positions.

I attended the meeting from 1:00 p.m.
I attended another meeting from 3:00 p.m.
At night ,I attended the social gathering .

I returned to our house and did the first proof sheet of the galley of our book with my wife.

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英語で日記 二〇一一年九月二十四日 土曜日 本のゲラの初校を終えました。 September 24th, 2011 Saturday We finished the first proof sheet of our book's galley.

二〇一一年九月二十四日 土曜日 本のゲラの初校を終えました。 

 晴れ。

 私と妻は、午前八時半から、私たちの本のゲラの初校をしました。
 私たちは、午後三時に、それを終えました。

 私は、午後五時から、会議に出席しました。

September 24th, 2011   Saturday We finished the first proof sheet of our book's galley.

Fine.

I and my wife did the first proof sheet of our book's galley from 8:30 a.m.
We finished it at 3:00 p.m.

I attended the meeting from 5:00 p.m.

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2011.09.25

【写真】 「旧高松空港跡地の碑」。「戦争に勝つためとはいえ、断腸の思いで……」

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 高松市の以下の場所にある「旧高松空港跡地の碑」です。

  「旧高松空港跡地の碑」(一九九六年三月。林地区開発協議会)の碑文から

 「太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和十九年[一九四四年]一月二十二日林村に晴天の霹靂[へきれき]ともいうべき事態が突発した。陸軍省から林村を中心に周辺三町村にまたがる約二百七十ヘクタールに飛行機を建設するとの連絡が入ったのである。時の三宅信夫村長は事の重大さのあまり顔面蒼白[がんめんそうはく]、絶句して言葉を失うほどであった。
 五日後の二十八日、林小学校[国民学校]講堂に指定区域内の関係者四百余人が集められ土地の買収家屋の移転を正式に要請された。永年住み馴れた土地家屋への愛着、近隣の親しい友との別れ、新しい土地での生活の不安などが心中に激しく交錯[こうさく]し、場内は寂として声もなかった。戦争に勝つためとはいえ、断腸の思いでこれを承諾せざるを得なかった。
 昭和十三年[一九三八年]には優良町村として内務大臣表彰を受けた林村も 田畑の半分近くを失い 公共建物を含めた二百七十五戸の家屋を一挙に移転するに至[いた]っては、まさに崩壊寸前となり、村民の苦悩はその極みに達した。周辺市町村からの援助を得ながらも、縁故知人を頼って列をなして家財を運ぶ村民の姿は今も脳裏を離れるものではない。移転は四月末までの極めて短時間のうちに完了し、引き続き軍は飛行場の建設に着手した。作業はすべて人力に頼るため一般人はもとより学生・生徒まで連日数千人が勤労奉仕に動員された。夜を日につく突貫工事の末、八月には東西滑走路が完成し、九月からは軍用機の飛行訓練が始まった。しかし、当初計画されていた翌年八月の終戦時に至[いた]るも完成し得なかった。」
 「戦後、飛行場跡地については(中略)昭和三十年[一九五五年]十二月運輸省高松航空保安事務所長と宮井政雄村長との間で高松飛行場敷地設定についての協定書が交わされ決着をみた。その結果大部分が農地等として売渡し、譲与され、約三十二ヘクタールが飛行場として残されることとなった。」

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【写真】 高松市の由良山のふもとの清水神社の屋根の陽気な女性たち。

 高松市の由良山のふもとの清水神社。

 その屋根に、こんなつくりものがありました。

 女性が酒で陽気になって踊っているのでしょうか。

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【写真】 高松市の由良山近くにある川島国民学校の奉安殿です。

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 高松市の由良山近くの旧・川島国民学校奉安殿です。

 いまは、蔵王(ざおう)神社の本殿になっています。

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英語で日記 二〇一一年九月二十五日 日曜日 由良山周辺の史跡めぐり。  【写真、三木町で見たマンジュシャゲ】 September 25th, 2011 Sunday A historic tour around Yurayama mountain.

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二〇一一年九月二十五日 日曜日 由良山周辺の史跡めぐり。 

 晴れ。

 午前九時からの高松市の由良山周辺の史跡めぐりの行事に参加しました。

 午後一時半から会議に出席しました。

 帰りに、三木町でマンジュシャゲの写真を撮りました。

September 25th, 2011   Sunday     A historic tour around  Yurayama mountain.

Fine.

I participated in a historic tour around  Yurayama mountain in Takamatsu city from 9:00 a.m.

I attended a meeting from 1:30 p.m.

On my way home from the meeting I took photos of cluster amaryllis  in Miki tawn.

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【英語】 ついに成功、「やった!」「できた」は英語でどういうのかな?

 I made it !

 四国新聞九月十七日付に載っていました。

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2011.09.26

英語で日記 二〇一一年九月二十六日 月曜日 二〇一一年九月二十六日 月曜日 午前三時のできごと。September 26th, 2011 Monday The occurrence at 3:00 a.m.

二〇一一年九月二十六日 月曜日 午前三時のできごと。

 晴れ。

 まわりで、午前三時までゲームの発射音、洗濯機をまわす音がしていました。
 なかなか学生アパートは大変です。

 早朝に、特攻警察官だった井形正寿さんの本(新日本出版社)を読み終わりました。
 貴重な本です。

 史料購読、伝統文化論の授業が始まりました。

September 26th, 2011   Monday The occurrence at 3:00 a.m.

Fine.

Around my apartment room, there was discharge sound of a game, and sound of using washing machine till 3:00 a.m.
Patience is needed for living in students apartment.

In the early morning,I finished reading a book (Shin Nihon Shuppan Sha) of Mr. Igata Masatoshi.
He was a policeman who oppresses the people.
It was a precious book.

Our historical-records subscription and the lesson of the traditional culture theory started today.

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2011.09.27

英語で日記 二〇一一年九月二十七日 火曜日 大学の構内のマンジュシャゲの花。 【写真あり】 September 27th, 2011 Tuesday The flower of the cluster amaryllis in enclosure of our university.

Photo

二〇一一年九月二十七日 火曜日 大学の構内のマンジュシャゲの花。 

 晴れ。

 大学の構内で咲いていたマンジュシャゲの花を撮影しました。

 夜は、卒業論文を書きすすめました。

September 27th, 2011   Tuesday  The flower of the cluster amaryllis in  enclosure of our university.

Fine.

I photoed the flower of the cluster amaryllis which was in bloom in enclosure of our university.

I wrote a graduation thesis night.

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2011.09.30

【短歌】 あちこち歩き。

 真夜中の 非通知着信 跡がある 助け求める 人の面影

 カリカリと ハングル書き取り やっている 高速バスの 真ん中の席

 高速の バスを降りたら かたわらに ホームレス寝る 朝の新宿
 
 おばさまが 体当たりして 乗り込んだ 超満杯の 朝、山手線

 僕のほか 走って降りてる 危ないよ 恵比寿(えびす)の駅の エスカレーター
 
 蛟龍(こうりゅう)の 史料積み上げ ゲラ用の 数行分の 書き込みつくる

 街角の 中華の店の ネギスープ 「この味、傑作」 おかわり頼む

 ああ、ここは セルフでないのか 良かったよ 恵比寿(えびす)駅前 喫茶でなごむ

 「僕たちの 本が出るんだ。置いてよね」 なじみの店主の OKを得る

 ああ、ここは 立てったままで 乗っている 岡山駅の エスカレーター
 
 隣席は あんもち雑煮で 盛り上がる マリンライナー 高松目指す

 いつの間に ゴミ箱にまで アンパンマン 高松駅の 変化に気づく

 わが里の 夜中の食事 ファミレスで 都会のような 味気ない味

 このネギスープは、東京は恵比寿のひなびた台湾料理店の日替わり定食についてきたものです。
 鶏がらがだしです。塩、こしょうで味つけし、細かく刻んだネギを入れただけのものです。
 それが極上の味で感激しました。
 一度、僕もつくってみようと思っています。

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英語で日記 二〇一一年九月二十八日 水曜日 一泊旅行。 September 28th, 2011 Wednesday Overnight trip.

二〇一一年九月二十八日 水曜日  一泊旅行。 

 晴れ。

 五時間目の授業が終わってから、一泊旅行に出発しました。

September 28th, 2011   Wednesday Overnight trip.

Fine.

I left for an overnight trip, after the fifth period finished.

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英語で日記7二〇一一年九月二十九日 木曜日 蛟龍(こうりゅう)についての史料。 September 29th, 2011 Thursday Historical records about Kouriyu.

二〇一一年九月二十九日 木曜日 蛟龍(こうりゅう)についての史料。 

 晴れ。

 特殊潜航艇・蛟龍(こうりゅう)についての史料を探しました。

September 29th, 2011  Thursday  Historical records about Kouriyu.

Fine.

I looked for the historical records about a special submarine Kouriyu.

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