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2011.09.03

● 香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その1 はじめに。 【お願い】あり。

 【お願い】 このシリーズは、当面、日々新しいデータも加えて書き直していく予定です。お気づきの点などありましたら、ご一報いただければ幸いです。

   Ⅰ はじめに

 大東亜戦争(以下、アジア太平洋戦争といいます。1941年12月8日-1945年8月15日。日本がアメリカ、イギリスなどに宣戦)のときの1945年7月4日夜中、アメリカ軍のB29爆撃機の群が香川県高松市を空襲しました。そのとき、香川県の陸軍の飛行機は1機もアメリカ軍機に対抗するために飛び立ちませんでした。それ以降の空襲のときも、同じでした。

 このことを私が知ったのは、2 011年4月、高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(高松市役所。867頁)を読んでです。
  「(陸軍高松飛行場の)部隊は特攻機援護を任務とする戦闘部隊であったうえ、本土決戦に備えて飛行機の温存を命じられていたため、[一九四五年の]七月四日の高松空襲にも、以後の艦載機の来襲にも三十機の飛行機は一機として飛び立つことがなかった。そのため被災した市民から非難を受けた。」(同書67頁)

 同書によると、香川県では陸軍高松飛行場、そして、それに関連した秘匿である陸軍屋島秘匿飛行場、陸軍国分秘匿飛行場、陸軍丸亀秘匿飛行場がつくられつありました。高松飛行場には、すでに飛行機部隊が駐留していました。

 しかし、「(陸軍高松飛行場の)部隊は特攻機援護を任務とする戦闘部隊であったうえ、本土決戦に備えて飛行機の温存を命じられていたため」出撃しなかったというが、それはいったいどういうことなのでしょうか。

 香川県には、陸軍高松飛行場のほかに陸軍秘匿飛行場は、香川県では、1945年春以降、つぎの所につくられていました。
 高松市の屋島の南の古高松(ふるたかまつ)=屋島飛行場
 綾歌郡の端岡村(はしおかむら)=いまは高松市国分寺町=国分飛行場
 飯野山(讃岐富士)の南の綾歌郡の坂本村と飯野村(いいのむら)と坂本村=いまは丸亀市=丸亀飛行場

 三つとも、台地や山の南側を横切る1500メートル以上のほぼ直線のコースを持つ道路を利用してつくっていました。

 香川県でつくられていた陸軍の4つの行場の目的、建設の歩み、その機能を追いながら「なぜ、出撃しなかったのか」を考えました。
  つぎのような項目で論をすすめていきたいと思います。 

  1、陸軍高松飛行場の建設と機能
  2、沖縄戦と陸軍高松飛行場。
  3、「本土決戦」準備は何のためだったのか。
  4、「本土決戦」と陸軍高松飛行場の機能の変更。
  5、「本土決戦」と三つの秘匿飛行場の建設と、その目的、機能。
  6、特攻配置についた四つの飛行場。
  7、香川県の空襲の際に陸軍の飛行場が出撃しなかったわけ。
  8、四つの飛行場の最期。

 なお、文中の引用文の中の[]内は藤原の注です。

   Ⅱ 地域の概要

 4つの飛行場は、それぞれ、つぎの地域につくられていました。

 【高松飛行場】

 陸軍高松飛行場づくりが始まったのは、 1944年1月でした。
 この飛行場の予定地は、香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村(今は、いずれも高松市)の270ヘクタールでした。林村の移転対象は、林村600戸のうち275戸で、面積は180ヘクタールにおよびました。12の神社や寺も対象になっていました。
 当時の地図を示します。大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)です。(地図1)

 陸軍高松飛行場の跡地は、いまは香川県立図書館などになっています。

 【屋島飛行場】

 屋島飛行場は、高松市古高松地域につくられていました。

 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)を示します。(地図2、3)

 当時の地域の様子を古高松郷土誌編集委員会編(1977):『古高松郷土誌』(高松東部農業協同組合古高松支所。794頁。524頁-538頁)に見ます。

 屋島があり観光地だったせいか交通の便利な地域でした。

 高松琴平電気鉄道株式会社の電気軌道(高松の今橋-志度方面)がとおっていました。

 鉄道も高徳線の高松-志度がとおっていました。

 1925年、高徳開通当時に刊行された『屋島駅案内』は、この地域の様子を、こう伝えています。

 「高松駅から西南に迂回して、緑滴る赤塔山のむ隧道を出た汽車は、春夏の別なく訪れ来る、幾万とも知れぬ観光の推賞を恣[ほしいまま]にせる天下の名園栗林を後に、木太・春日の平野を疾走する。新川鉄橋の轟然たる響をあとに、古高松村なる屋島駅に着く。(中略)

 沿線牟礼[むれ]は郡内随一の大村であって、屋島は全国的に有名な製塩地であり、屋島駅の所在地なる古高松村は、県下第一の耕作地所有村である。」

 アジア太平洋戦争開始後、この地域も戦争の影響を受け、1945月1日、電気軌道の八栗-志度の鉄路は、屋島ケーブル、八栗ケーブルとともに軍需資材として撤去されました。

 溶岩台地である屋島の南側を横切って観光道路がとおっていました。

 この道路は、国道22号(徳島から高松)のうち、高松市内と観光名所の屋島を結んでいました。琴電花園踏み切りの西、約200メートルを起点として1934年度から屋島方向に向かって工事を開始し、1939年3月に完成しました。工事を担当したのは香川国道改良事務所です。この道路の幅員は10メートルで、真ん中7メートルがコンクリート舗装、左右1・5メートルずつが砂利敷きでした。(国土交通省四国地方整備局香川工事事務所編(2001年)『道路グラフィティ 観光道路はこうして作られた 土木技術の変遷』。61頁) 
 屋島飛行場は、この観光道路を利用してつくられていました(いまは、県道155号です)。この道路の左右には建物もありましたが、ほとんどが田んぼでした。
 屋島の南側の両サイドは塩田でした。屋島南部の屋島神社の参道は、屋島の南部を横切る観光道路につながっていました。
 屋島飛行場は、前年の1944年1月から建設中で、すでに運用されていた陸軍高松飛行場と比較的距離が近かったこと、高松飛行場の飛行機を運びやすかったことから選定されたと思われます。

 なお、1943年末までに高松市にいた軍隊は、つぎのようなものでした。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災誌』。63-65頁)

 ・ 佐世保鎮守府高松地方海軍人事部(1937年5月1日開設)

 ・ 善通寺憲兵隊高松分遣隊(1938年設置。1944年春、高松分隊に昇格)

 ・ 高松連隊区司令部(1941年4月2日、丸亀連隊区司令部が移転してきて改称)

 【国分飛行場】

 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ一 白峯山」(1948年4月30日)を示します。(地図4)
 国分飛行場は、猪尻山、国分台、蓮光寺山の南を横切る国道11号(1984年から県道33号。幅、国分駅前で約10メートル)を利用してつくられました。
 その道路の北には国分尼寺跡や国分寺跡があります。
 南には、鉄道が通っています。
 軍事施設としては、には防空監視所、鉄道の端岡駅の近くに松根油(しょうこんゆ)の工場がありました。
 また、鉄道の2両目には天井のないか貨車がつながれ、そこに機関銃が設置され、中学生たちが、それを担当していたといいます。
 高松方面からの列車の乗客は、端岡駅にさしかかると国分飛行場側の窓のシャッターを閉めさせられたといいます。
 学校は、端岡国民学校がありました。
 産業は、おもに農業で、田んぼで錦松を栽培していた農家もありました。
 1944年から、この地域に駐屯していた海軍の少年兵・飛行予科練習生は、この食料が足らないときに田んぼに錦松を植えるとはけしからんと錦松を抜いてしまったといいます。

 【丸亀飛行場】

 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ三 丸亀」(1948年4月30日)を示します。(地図5)
 丸亀飛行場は、飯ノ山(讃岐富士)の南の、いまの県道18号善通寺府中線(善通寺市-坂出市。幅は、道池付近で9.2メートル)を利用してつくっていました。
 近くの国民学校などが工事をする兵士や勤労動員の人々の宿舎になっていました。
 この道路の南西には土器川があり、ここの河原から石を運んでいました。

 

 地図、写真、図表など

 (地図1) 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)です

 (地図2、3) 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)

 (地図4) 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ一 白峯山」(1948年4月30日)

 (地図5) 地理調査所「二万五千分一地形図 岡山及丸亀三号丸亀ノ三 丸亀」(1948年4月30日)

   Ⅲ 調査方法と調査結果

 調査は、戦争遺跡、帝国陸軍、第一復員局(復員庁は軍人の復員に関する業務を担当した内閣直属の外局で、第一復員局が旧陸軍関係を担当)の文書、アメリカ軍の文書や写真、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部))の資料、日本の行政の文書、県史、市町村史、各小学校、高等学校の記念誌、戦争体験の証言集、そして、当時、飛行場づくりに動員されていた人たち、つくっているのを見聞きした人などの証言をもとにしました。
 調査してでわかったことは、つぎのようなことです。

 香川県の陸軍の航空部隊が、空襲下で迎撃しなかったのは、なぜか。

 そのことを、もっとも鋭く、コンパクトに指摘していたのは高松百年史編集室(1988年):『高松百年史 上巻』(高松市。848頁。576頁-683頁)でした。

 「昭和二十年[一九四五年]七月四日未明の高松空襲に際して、日本側はほとんど応戦していない。高松市内の高射砲隊も役立たなかった。米軍の被害はゼロ。林村にあった陸軍飛行場から一機も迎撃しなかった。当時、秘匿飛行機は林村一帯に一〇〇機はいたはずである(終戦当時六五機が確認されている)。

 これは、林の第一〇〇飛行団も、周辺の各地に展開していた部隊も、県土防衛が目的でなかったからである。(中略)

 市民たちは、高松飛行場の飛行機が迎撃しなかったことに対し批判を浴びせ、将校宿舎に投石するなどの騒ぎもあった。しかし、軍としてはあくまで本土決戦に備えていたのである。」

 「(陸軍屋島飛行場、陸軍国分飛行場、陸軍丸亀飛行場)は、本土決戦の際の特攻機の離着陸用として急きょ造られたものである。(中略)これらも直接、県土防衛のために造られたものではなかった。」

 陸軍高松飛行場は、はじめは「本土防空」のためにつくられていました。しかし、その後に打ち出された本土決戦の方針のもと、陸軍指導部から迎撃を禁止されていました。
 アメリカ軍が本土に上陸しようとしたときの特攻作戦のみのために飛行機も燃料も温存されていたのです。
 そして、こうした現象は、香川だけのものではなく、全国的なものでした。

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