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2011.09.03

香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その6 陸軍高松飛行場の機能~1944年12月から45年3月まで 第6航空軍の指揮下に入って……。【一部訂正しました。ご指摘、ありがとうございました。】

 1944年12月26日、大陸令第1112号をもって防衛総司令官の隷下の第6航空軍が、新設されました(防衛総司令官の隷下。司令部=通称号・靖。軍司令官・菅原道太郎中将)(外山操、森松俊夫・編(1993年):『帝国陸軍編成総覧 第二巻 近代日本軍事組織・人事資料総覧』。芙蓉書房出版。●頁。●頁-●頁)。これは、西南諸島方面にたいする航空作戦が主任務でした。

 高松飛行場に駐屯していた部隊は、第6航空軍の指揮下に入りました。

 1945年1月6日、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めましたた。木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧め、また、近衛も木戸に斡旋を求めていました。木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣らが個々に拝謁することになりました(この項、木戸幸一(1966年):『木戸幸一関係文書日記』。木戸日記研究会。東京大学出版会。643頁。492頁-510頁)。
 重臣らは以下の順で昭和天皇に意見をのべました。
 2月7日 - 平沼騏一郎男爵
 2月9日 - 広田弘毅
 2月14日 - 近衛文麿侯爵
 2月19日 - 若槻禮次郎男爵
 同日 - 牧野伸顕伯爵
 2月23日 - 岡田啓介海軍大臣
 2月26日 - 東條英機陸軍大臣
 注目されるのは天皇と近衛のやりとりです。
 近衛は「戦局ノ見透シニツキ考フレニ、最悪ナル事態[敗戦]ハ遺憾ナガラ最早必死ナリト存ゼラル」ず居んななるえるし敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、イギリス、アメリカの世論は天皇制廃止にまではいたっていないとの情勢判断の下、「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱にともなう共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示しました。
 昭和天皇は御下問において、まず、「国体(天皇制)」についてのアメリカの考えを問い、近衛はイギリス、アメリカの世論が変化する前に講和することを求めました。
 結局、天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ。」と近衛の話には否定的でした。
 重臣の一人でさえ敗戦を語る状態になっているのに「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラ」と戦争の継続を示す天皇。
 事態は、「本土決戦」準備に向かっていっていました。

 1月上旬、連合軍は、ルソン島に上陸しました。

 このことは、日本の支配層の戦争指導に影響を及ぼしました。

 1月中旬、大本営は、本土外郊地帯で「決戦的努力」を継続して連合軍の本土侵攻を遅らせ、この間、本土の作戦準備態勢を確立するという「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定しました。

 このころから、本土決戦のための本格的な作戦準備が進められていきました。

 2月19日、連合軍が硫黄島に上陸を開始しました(3月17日、日本軍は「玉砕」しました)。

 一方、アメリカ軍機の本格的な日本本土空襲が始まっていました(香川県も攻撃されました)。

 2月7日、連合軍の飛行機が、香川県三豊郡観音寺町沖合に爆弾を投下しました。

 2月15日、アメリカ空母機動部隊艦載機は、日本本土を空襲しました。関東の軍需工場が標的でした。

 2月19日、アメリカ軍のグラマン戦闘機のべ80機が、数10回にわたって、海軍航空隊のある三豊郡詫間町および観音町周辺を空襲しました。死者2人、重軽症者10人の被害がでました。
 3月10日午前0時8分、アメリカ軍第21爆撃機兵団の279機のB29爆撃機は東京を焼夷弾(しょういだん)攻撃しました。この攻撃による死者は約8万~10万、負傷者は4万~11万人。焼失26万8千戸にのぼりました。

 続いて12日未明、285機のB29爆撃機が名古屋を襲いました。被害は、死者500人、全焼26000戸にのぼりました。
 翌13日夜、284機のB29爆撃機が大阪を襲いました。

 16日から17日にかけての夜、330機のB29爆撃機が神戸を襲いました。被害は、死者・行方不明者2700人、全焼68000戸でした。

 18日から19日にかけての夜、290機のB29爆撃機が名古屋を襲いました。

 一方、3月末、三重県多気郡斎宮にあった第7航空通信連隊(教育隊)から派遣された秘匿名・中部第128部隊(隊長・長尾実中尉)約150人が高松に配備されました。同部隊は、陸軍高松飛行場の航空隊の通信を担当するために設置されました。同部隊は、勅使町の高善寺に中隊本部を置き、小山付近までの一帯に兵隊(下士官、兵)を分宿させました。そして、航空隊司令部のある鷺田公民館と林村の高松飛行場との間に通信用回線を架設して有線通信ができるようにしました。(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。72頁-73頁)。

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コメント

 すみません、指摘をさせてください。
 高松飛行場が第6航空軍の指揮下に入ったのではなくて、正確には高松飛行場に駐屯した部隊が第6航空軍の指揮下に入りました。
 第6航空地区司令部ではなく、第60航空地区司令部です。でも、第60航空地区司令部は昭和20年7月の編成なので、それまで航空地区司令部は無く、明野教導飛行師団、第20戦闘飛行集団の指揮下にありました。

投稿: 池田 | 2011.09.12 07:23

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