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2011.09.03

香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その15 陸軍高松飛行場の機能~1945年7月から8月まで 相次ぐ空襲、陸軍高松飛行場は「米軍が四国に上陸してきた時迎撃する」。

 香川県は、断続的にアメリカ軍機の攻撃を受けていました。

 7月22日、アメリカ軍のグラマン戦闘機は、陸軍高松飛行場に来襲しました。
 その日、グラマン機の機銃掃射で上多肥の溝渕さん宅や、佐々木さん宅の屋根が被害をこうむりました(多肥郷土史編集委員会(1981年)『多肥郷土史』。多肥郷土史編集委員会。648頁。440頁)。

 この日、連合軍の艦載機が、小田沖で漁をしていた漁民に機銃掃射をあびせました。小田坂の下の多田栄一さん、苫張の植村新助さんが腰と足を負傷しました。(岡村信男(1984年):『志度風土記』。樫村正員。264頁。43頁-44頁)

  この日午後1時ころ、アメリカ軍の艦載機・P51戦闘機4機が、香川県の坂手(さかて)湾沖で、特殊潜航艇・蛟龍(こうりゅう)の魚雷発射訓練訓練中の徴用運送船・芙蓉丸(ふようまる)に襲いかかり、銃撃を繰り返しました。この空襲で、蛟龍艇長の矢野統一少尉(のちに私の妻の父に)も右肩を吹き飛ばされました。9人が戦死して、10数人が負傷しました。(藤原尋子・義一(2011年):『蛟龍艇長講習生・矢野統一 父は海中の特攻隊員でした』)

 24日午後1時半ころ、のべ108機のアメリカ軍のグラマン戦闘機が、陸軍高松飛行場を空襲しました。場内は、爆弾で壊滅しました。

 死傷者多数で、国民学校と役場へ収容しました。(高松市役所内林村史編集委員会(1958年):『林村史』。131頁)。

 同日午後2時、アメリカ軍のグラマン戦闘機24機が、由良山に襲いかかってきました。爆弾と機銃の波状攻撃を繰り返しました。

 「……午後二時頃米空軍グラマン戦斗機二十四機の大編隊が由良山東南上空に姿を見せた 由良山附近で[陸軍高松飛行場滑走路用のバラスとりの]作業中の人々は山麓の雑木林に避難した     その時四機は避難中の奉仕員を目標に突入し各機は二個づつの爆弾を投下した 地響と共に大爆裂音 突風が起こり家々は揺らぎ戸障子ふっ飛び土煙は由良山頂上まで舞いあがり巨木が倒れる中を再び旋回して来た敵機は雑木林に機銃乱射を幾度も繰り返した。

 (中略)死者九名負傷者十一名の肉塊は周囲に飛散し血潮は土石を染め悲愴なさけびは山にこだました」(由良山の山中の「慰霊碑」の碑文=1977年7月24日建立。世話人・由良町山北老人会)

  「この時の犠牲者は、いずれも飛行場建設のために動員された勤労奉仕者であり、一六歳の少年を含む一九名の非戦闘員の尊い命が奪われたのである。ほとんどが大川郡方面の人たちであった。」(高松市立川島町公民館内川島郷土誌編集委員会(1995年):『川島郷土誌』。川島校区地域おこし事業推進委員会。762頁。573頁)。
 勤労動員の作業中、由良山北面の山腹で攻撃を受けて亡くなった人は、つぎの9人でした(由良山の山中に「慰霊碑」)。

 宮崎秋三郎=53歳、大川町昭南

 藪根乙助=66歳、大川町筒野

 本田貞一=55歳、大川町栄町

 茶円正信=20歳、大川町大井

 野中 栄=16歳、大川町大井

 松岡 登=19歳、大川町古根

 多田キヌエ=24歳、東京都

 中村久江=49歳、由良町

 東池亀吉=44歳、三木町寺ノ前

 この日、アメリカ軍のB29爆撃機が、三谷地域に三十キロ爆弾を投下。それは、平石部落の喜多喜八郎さん宅に命中し、家は破壊、火災を起こし、二女・喜多愛さん、近くの蓮井サエさんが被爆によって死亡しました。喜多喜八郎さん所有の役牛も死亡しました(三谷郷土史編集委員会『三谷郷土史』。高松市立三谷公民館内 三谷郷土史編集委員会。1988年1月。●ページ。●ページ-●ページ)。

  同日、イギリス軍艦載機は、屋島の近くの志度湾に疎開していた、空母しまね丸を攻撃しました。しまね丸は被弾し大破、船体は二つに折れ後部が着底しました。船員6人が戦死しました。この船は大阪商船の船でしたが、徴発されて軍の航空母艦になり、植木や迷彩などで偽装されていました。

 軍属として陸軍高松飛行場の作業にあたっていて爆死した林村在住の人は、つぎの4人した。(高松市役所内林村史編集委員会(1958年):『林村史』。131頁)
 軍属 大浦 蕃
 軍属 猪熊 政行
 軍属 渡辺 和子 17歳
 軍属 山内 芳子 15歳
 林村の主婦・中村久江も流れ弾にあたって死亡しています。(高松市立川島町公民館内川島郷土誌編集委員会(1995年):『川島郷土誌』。662頁)。

 「当日、多肥小学校[国民学校]には、少数ながら軍隊も分駐して、いざという場合の備えに待機していた。しかし、安心できるものではなかった。」(多肥郷土史編集委員会(1981年)『多肥郷土史』。440頁)。

 この2日間の陸軍高松飛行場への空襲のとき、同飛行場の航空部隊はどう対処したでしょうか。

 「(24日のアメリカ軍のグラマン戦闘機の由良山攻撃のとき) 「軍部は、本土決戦に備えて航空機を温存するために、一機の迎撃も許さなかった。そのために、[グラマン戦闘機は]全く無抵抗のふる里の空を思いのままに、何回となく、爆弾と機銃の波状攻撃を繰り返したのである。」。(高松市立川島町公民館内川島郷土誌編集委員会(1995年):『川島郷土誌』。川島校区地域おこし事業推進委員会。573頁)。
 「飛行機は、本土決戦に備えて避難をしていたため無事であった。七月二十四日の空襲当日も、一機も迎撃しなかったし、高射機関砲も戦果がなかった。」(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。521頁)

 7月27日午後3時、アメリカ軍機8機が、空母しまね丸に爆弾を投下しました。しまね丸は、沈没しました。(岡村信男(1984年):『志度風土記』。43頁-44頁)

 7月28日昼ごろ、アメリカ軍のグラマン戦闘機は、小豆郡長浜の住民16人を乗せて神戸に向かっていた船を屋島沖で攻撃。死者・行方不明者5人、ほかの人も全員が負傷しました。(香川県(1988年):『香川県史 第6巻 通史編 近代Ⅱ』。香川県。795頁。頁)

 8月8日午前8時45分ころ、アメリカ軍のグラマン戦闘機が、高松-小豆島の定期船・女神丸(120総トン)に機銃掃射しました。死者24人、重軽症者多数。

 同日、アメリカ軍の艦載機数10機が陸軍高松飛行場を襲撃、西三谷の畑本ユキさんが被弾して死亡しました(三谷郷土史編集委員会『三谷郷土史』。●ページ-●ページ)。
 これらのアメリカ軍の空襲のさいにも、陸軍高松飛行場の航空部隊は出撃しなかったようです。
 高松市助役の大西林次さんが、不審に思い陸軍高松飛行場に電話しましたが、軍からは「米軍が四国に上陸してきた時迎撃する。常時の空襲に対する迎撃は任務外である」との返事がありました。(高松空襲を記録する会(1978年):『高松の空襲 手記・資料編』。高松空襲を記録する会。409頁。281頁)

 一方では、この時期に、最後の決戦のために飛行機と燃料を温存するというきまりを犯して出撃した他地方の陸軍航空戦隊もありました。

 7月25日、滋賀県の八日市陸軍飛行場に駐屯していた陸軍飛行第244戦隊は、小林照彦(こばやしてるひこ)戦隊長(1920年11月~1957年6月4日)の独断でアメリカ軍の第31戦闘飛行隊の艦上戦闘機・F6F機群の迎撃に飛び立っています。(渡辺洋二『本土防空戦』。309ページ-403ページ)。

 「……七月二十五日、前日に続いて午前五時四十分から、[アメリカ軍の]艦上機が群れをなして東海、関西方面を襲った。『小型機侵入』の情報を受けた小林少佐は、『上がらなきゃいかん!』と出撃を決意し、操縦者、整備兵を呼び集めた。

 『邀撃では上がるな、ということだから、今日はひとつ訓練で上がろうじゃないか』

 と前置きし、続いて語調を変えて言い放った。

 『これより戦闘訓練を行う。飛べる機は全部飛ばす!』

 小林少佐機が、まっさきに離陸にかかる。(中略)広い八日市の飛行場から、三十機を超える五式戦[五式戦闘機]が砂ぼこりを上げて、てんでに飛び立っていった。」

 この空戦の結果は、日本側の主張では日本側戦死2人、撃墜戦果12機(アメリカ軍側の資料では、アメリカ軍機が日本機を11機撃墜<うち不確実3機>、アメリカ軍のF6F機の喪失は2機、被弾は6機)。

 「……小林少佐は戦闘後、出動禁止命令を破ったかどで大阪の第十一飛行師団司令部に呼ばれ、『全軍的な企図(温存作戦のこと)を暴露するものである。』と言いわたされた。(中略)

 その夜、入電した天皇の御嘉賞[ごかしょう。おほめのこと]の言葉で、小林戦隊長の軍規違反は消しとんだ。しかし、こんどは十一飛師司令部から監視の参謀がやってきて戦隊長に張りついたため、以後の出撃はかなわなかった。」

 なお、小林照彦さんは、1944年11月末、戦隊長として飛行第244戦隊に着任していました。1944年4月から教官として陸軍高松飛行場で陸軍士官学校57期航空転科者(96期召集尉官操縦学生)の教育にあたっていた人です。

 陸軍丸亀飛行場の建設工事は続いていました。
 【7月中旬】 航空隊幹部が現地を視察しに来て、工事の遅れをながめ激怒して帰りました。
 【7月18日】 空第571部隊松木場隊の松木場隊長が司令部付となり、松山市へ転属しました。
 【7月23日】 空第571部隊の隊に宇佐見隊長着任しました。
 【7月29日】 空第571部隊の宇佐見隊長は、兵とともに屋島へ転属しました。[「屋島」は、工事中の陸軍屋島飛行場のことでしょうか]
 【7月30日】 法勲寺国民学校への駐屯部隊は、松原隊となり、高知部隊から召集兵と思われる年輩の者ばかりが来村しました。
 隊はかわっても、連日の作業は変わりなく続きました。

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