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2011.09.03

香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか  その16 陸軍高松飛行場の機能~1945年8月 第100飛行団第101戦隊が、出動したのは終戦の翌日でした。

 8月15日、終戦を迎えました。
 陸軍高松飛行場は、南北方向の第二滑走路が未完成のままでした。

 その日の丸亀飛行場の様子については、鶴岡俊彦さんが書いています。(「回想」=飯山町立飯山北小学校創立百周年記念事業実行委員会(1992年):『飯山町立飯山北小学校創立百周年記念誌 桃花』。59頁-60頁)。

 「終戦の玉音放送は、[自宅の撤去]作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引越予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に、『放送はおかしい、負けるはずがない。』『俺たちが居る。降参はしない。』と声高に話すのが頼もしく見えた。
 午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組を残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。」

兵たちは、飛行場の完成も見ず、行くべき道も見当たらず、ただ呆然としながら、法勲寺国民学校の校舎の整備を終えて故郷へ帰って行きました。転属した兵たちも、今一度、法勲寺国民学校へ立寄り、「一言も兵を責め給はぬに生きて帰る不甲斐なさよ」と語って、父母のいる九州へ帰って行きました。(●『飯山町誌』。●ページ-●ページ)

 陸軍高松飛行場の第100飛行団第101戦隊が、出動したのは終戦の翌日、8月16日でした。高知にいた海軍警備隊から、アメリカ艦隊が日本本土に接近しているとの情報を受けて、特別攻撃機12機が高知へ出撃しました。しかし、アメリカ艦が見つからずに帰投しました。同飛行団隷下の103戦隊は、淡路島にいましたが、ここでも十六日夜、特別攻撃出撃の命令が出されましたが、飛ぶ直前に中止されました(『昭和五十年史 上巻 香川・激動の二十年』。四国新聞社。1975年8月15日。●ページ。●ページ-●ページ)。

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