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2011.09.03

香川県の陸軍飛行隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか  その17 陸軍高松飛行場の機能~終戦時に残った飛行機。

 高松の飛行第101戦隊が、終戦時に保有していた飛行機は、飛行第103戦隊(淡路島由良)をあわせて、司令部偵察機5、練習機をふくむ単座戦闘機24でした。内訳は、九三式中間練習機12、九七戦闘機5、四式戦闘機4、一式戦闘機3でした。(高松空襲戦災誌(1983年):『高松空襲戦災誌』。70頁)
 これについては、別のデータもあります。大本営陸軍部の『帝国陸軍飛行場現況表』(1945年8月31調べ)です。
 高松飛行場にあった飛行機はつぎのとおりです。
 戦闘機が相当整備すれば飛行可能のもの13機、飛行不能のものが26機ありました。
 偵察機は相当整備すれば飛行可能のものが2機、飛行不能のものが2機ありました。
 練習機は飛行不能のものが8機ありました。
 計で飛行不能のもの34機、相当整備すれば飛行可能のもの15機でした。
 この年の11月9日午後、香川県の善通寺進駐アメリカ軍分駐部隊が陸軍高松飛行場で同飛行場の兵器弾薬などを処理しました。そのとき、飛行場の東西に並べられてガソリンを注いで焼却された飛行機は、61機でした。このとき、ガソリン(航空用ドラム缶入り)1000本が焼却され、爆弾、弾薬、航空兵器約500トンが爆破されています(香川県警察本部香川県警察史編集委員会『香川県警察史』。1957年11月20日)。

 戦後の丸亀飛行場について、 鶴岡さんが書いています(「回想」=飯山町立飯山北小学校創立百周年記念事業実行委員会(1992年):『飯山町立飯山北小学校創立百周年記念誌 桃花』。59頁-60頁)。

 「すぐに夏休み、終戦となり滑走路造りが中止されたので、[坂本国民学校に]通学した記憶はない。」、「戦争が終わって二学期を迎えるために[坂本国民学校に]登校し講堂を掃除した時、蚤(のみ)があまりに多いのに驚いた。十分な食事もなく、風呂に入るのもままならない環境の下、夏の炎天下で働き大変ご苦労した事と思われる。」、「[わが家は]地形石はそのままにして置いたが、土塀が崩れ、それを見ては空しさを感じた。家の建て直しまで一年余りかかり、その間極楽寺で過ごした。」

 戦後、丸山飛行場の滑走路、関連施設は復旧されました。
 「(1) 飛行場滑走路および関連施設農地など合計二五町分余は関連農家で復旧した。
 (2) 取りこわし家屋はその家族および地区の手伝いにより再建した。
 (3) 昭和二十三年[一九四八年]末ごろまでに大半復旧した。」(『飯山町誌』。●ページ-●ページ)。

   Ⅳ 考察

 ここで考えておきたいのは、本土決戦の作戦は、何のために打ち出されたのかということです。

 陸軍省は「決戦訓」や「国土決戦教令」を出しています(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土決戦準備<2> 九州の防衛』。朝雲新聞社。1972年7月22日。613ページ 。271ページ-272ページ)。本土決戦にのぞむ将兵の精神的準拠をしめしたものです。

 「決戦訓」は1945年4月8日、阿南惟幾・陸軍大臣名の「陸訓第二号」です。

 「仇敵撃滅の神機に望み特に皇軍将兵に訓ふる所右の如し」の項では、つぎのようにうたっています。

 「二 皇軍将兵は皇土を死守すべし。

   皇土は、天皇在しまし、神霊鎮まり給ふ地なり。

   誓って外夷の侵襲を撃撰し、斃[たお]るるも尚[なお]魂魄を留めて之を守護すべし。」

 「四 皇軍将兵は体当り精神に徹すべし。

   悠久の大義に生くるは皇国武人の伝統なり。

   挙軍体当り精神に徹し、必死敢闘、皇土を侵犯する者悉[ことごと]く之を殺戮[さつりく]し、一人の生還無からしむべし。」

 「国土決戦教令」は、同年4月20日、大本営陸軍部が配布したものです。

 第一章「要旨」の第一は、つぎのようになっていました。

 「国土作戦ノ目的ハ来寇スル敵ニ決戦ヲ強要シテ絶対必勝シ皇国ノ悠久ヲ確保スルニ在リ

 之カ為国土作戦軍ハ有形無形ノ最大戦力ヲ傾倒シ猛烈果敢ナル攻勢ニ依リ敵上陸陸軍ヲ殲滅[せんめつ]スヘシ」

 1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北以降、戦争は絶望的抗戦期でした。

 軍首脳部もこの時期以降、勝てるとは思っていなかったのではないでしょうか。

 また、アメリカの戦争は、戦後支配のための戦争へと質が変わりつつあったと思います。

 日本軍首脳部は、敗れることはわかっていても少しでも敵に多くの血を流さして有利な条件で講和をと考えていたようですが、雪だるま式に敗戦へと傾斜していきました。

 戦争をやめようと言えない限り本土決戦は避けることができませんでした。

 やめようと言えば、自分たちの既得権を失うので「国体護持(天皇制を守ること)」を標榜し、それにしがみついて誰かがとめてくれるまで戦争するしかないという無責任の構図になっていたのだと思います。

 軍隊がまもるものは軍隊であってそれ以外のものではありえませんでした。

   Ⅴ おわりに

 今後の課題があります。

 こうした香川県の4つの陸軍飛行場についての遺跡を探して、保存・公開するということです。

 私の歩いた範囲ではつぎのものしかみあたりませんでした。

 ・ 由良山の中腹に残る戦争壕。出入口が2か所あるもので、幅3メートル~4メートル、高さ2メートル余、長さ32メートル。

 ・ 国分飛行場づくりのとき、滑走路用地にあたったため撤去された石の人物像。

 ・ 丸亀市の陸軍丸亀飛行場の滑走路を、もとの畑などにもどすための作業で土砂が積み上がって土手になっている所。
 また、つぎのことも解明されていません。

 陸軍秘匿飛行場づくりの土地、家屋の接収に、住民は抵抗できず、陸軍はやすやすと予定地を手に入れています。 
 しかし、この飛行場をつくっていた土地は一度も国有地になっていません。
 その一方、一九四五年十月~十一月の『昭和二十年度 軍事用地費領収書綴 飯野村』という文書が存在します。
 つづられているのは、飯野村長松永友義宛てのハンコ入りの領収書で、「坂本村軍事施設工事中飯野村担当地区内該工事 潰地及偽装用地借上ゲ補償金」となっています。五十七通です。
 用地の接収が、戦後、借り上げられていたという形で処理されたこと、飛行場のための潰地以外に飛行場を飛行場と見せないための「偽装」のための用地が用意されていたことが推定されます。

    引用文献

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