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2011.09.03

香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その7 陸軍高松飛行場の機能~1945年3月から5月まで 各国民学校にニセ飛行機をつくらせて……。

 アメリカ軍機が日本の空をにぎった情勢のもと、1945年、陸軍高松飛行場では、ニセ飛行機をつくらせて、それを飛行場に置いて、アメリカ軍機の攻撃をニセ飛行機に集中させるという作戦を打ち出しました。
 檜與平さんは、つぎのようにのべています。(檜與平(1995年):『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。427頁-428頁)
 「明野飛行学校も明野教導師団として、作戦任務と教育任務を兼ねていたが、高松分校には、まったく戦闘力はなかった。
  『川田少佐どの。ニセ飛行機をつくって飛行場にならべましょうか』
 と、ある日、私[檜與平大尉]はそう申し出た。訓練用の飛行機を場外にうつし、ニセ飛行機に敵艦載機の攻撃を集中させようという私の意見であった。
 『いい考えだが、飛行機ができるか』
 『県庁へたのんで、付近の小学校[国民学校のこと]から一機ずつ出品してもらって、品評会をやったらどうでしょうか。私が県庁へ交渉しましょう』
 と、私は、さっそくくるまを県庁へ飛ばした。細谷警察部長が即座に快諾してくれた。そして、定められた期日には、朝早くから近郊の小学校[国民学校]の生徒たちが、本物とまちがえるばかりの竹細工、あるいは木製の実物大の模型をつくって、先生に引率されて、荷車で運びこんできた。
 飛行場は、俄然、見ちがえるばかりの飛行機の数となった。
 細谷部長も臨席し、感謝祭をもよおし、私は編隊を指揮して、編隊高等飛行をして観覧させた。
 子供たちがつくってくれた飛行機の下にジュラルミン(破壊された飛行機)を置いて、敵のレーダーを欺瞞(ぎまん)した。」
 各国民学校からの最初のニセ飛行機(模擬飛行機)の「納品」は、3月で、その後も5月まで「納品」されたようです。
 香川郡仏生町の仏生山国民学校では3月3日に「模擬飛行機製作、日山の麓へ送りこむ。」(高松市立仏生山小学校(1985年):『学校史 九十三年のあゆみ』)。
 「飛行機秘匿をカムフラージュするために、各国民学校競争で実物大の木製飛行機をつくらせる。浅野国民学校[いまの高松市香川町の浅野小学校]がコンクールで一等になった。
 二十年[一九四五年]三月七日につくり上げ、大八車に乗せて持っていった(元教員・溝渕文子さん談)」(高松百年史編集室(1988年):『高松百年史 上巻』。高松市。●頁。●頁-●頁)。
 高松市立古高松国民学校では、3月5日に「献納模擬飛行機製作作業着手」、その後、「高等科の生徒が竹で模擬飛行機を作り林飛行場献納した。それを敵機が攻撃した」といいます(高松市古高松小学校創立八十年誌編集委員会(1988年):『創立八十年誌 高松市古高松小学校』。高松市古高松小学校創立八十周年記念事業実行委員会。●頁。43頁-44頁)。この『年誌』には、模擬飛行機の写真も掲載しています。
  「20年[1945年]5月頃には竹材を用いた献納模擬飛行機の製作が講堂で大人達によって行われた。敵の目をごまかすために実物そっくりに作られた模擬飛行機は、林飛行場付近に配置された。」(高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員会(2002年):『いちのみや百年』。高松市立一宮小学校創立百周年記念事業委員。 297頁。58頁)

 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(67頁)には、井戸国民学校でつくり、校庭に置かれた模擬飛行機の写真が掲載されています)。
 こうした記述に日山という文字が出てきます。

 太田国民学校(いまは、太田小学校)でも竹製の模擬飛行機を職員、児童がつくり、陸軍高松飛行場に運びました(杉上嘉夫「守護された御真影と一家全滅」=高松空襲を記録する会(1978年):『高松の空襲 手記・資料編』。高松空襲を記録する会。409頁。39頁)
 日山の近くの三渓(みたに)国民学校(いまは、高松市立三渓小学校)の児童だった宮本晴義さんが、同国民学校で零式戦闘機に似せて実物大の模擬飛行機をつくった体験を書いています(三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会記念誌編集部(2000年):『創立百周年記念誌 三渓百年』。三渓小学校創立百周年記念事業実行委員会)。
 「……旧講堂を作業場に充て、先生方を中心にして製作が始まったが、その助手として生徒の工作班が編成され、私たち五名が選ばれた。工作班は、学校で授業を受けることなく、牛熊先生指導のもと、連日、夜遅くまで製作に専念した。
 一方、日山の山麓の田圃には、模擬滑走路が造成され、四、五十メートル間隔に掩体(えんたい)壕が数か所設置された。三渓小学校を始め、近隣の小学校から模型飛行機を運んできて、そこへ据え付けたのである。」

  前出の高松市の高松中学校の2年生だった水原良昌さんも「……飛行場西北の一隅に遠目には本物そっくりの竹製の『隼』が十数機ずらりと並んだ。」と書いています(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)。

 香川県木田郡三谷村(いまは、高松市三谷)の日山(標高一九一・六メートル)のふもとに行きました。
 アメリカ軍機の2枚の写真には、陸軍高松飛行場から、この山のふもとに2つの道路が延び、それにつながるこの山のふもとの南北に弧を描く形で道路があり、その内側に10の四角い空白地帯が並んでいます。その空白地帯の中に黒い点のあるものもあります。
 地元の男性(1933年5月生まれ)によると、これらの空白地帯には掩体壕(えんたいごう。飛行機の格納庫)があり、その中に実物大の模擬飛行機が置かれていたといいます。掩体というのは外側が開いた「コ」の字形の土でつくったもので、高さは約2メートルあったといいます。
 南の端の四角い空白地帯には、いま、株式会社たまもが建っています(高松市三谷町21の8)。
 なお、高松市平和記念資料館(松島1丁目)には、高松市三谷町の民家から見つかった1945年につくられた模擬飛行機の実物大の木製のプロペラの一片が展示されています。

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