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2011.09.03

香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その8 陸軍高松飛行場の機能~1945年3月から5月まで 沖縄戦の陸軍航空特別攻撃隊と陸軍高松飛行場

 1945年春、陸軍高松飛行場の分校は、沖縄県で上陸戦を展開するアメリカ軍にたいする航空機での特別攻撃に向けての操縦兵などの確保、飛行機の供給のためのものになりました。
 高松飛行場の航空兵たちが沖縄のアメリカ軍に向けての特別攻撃に参加したのは、陸軍第6航空軍の振武隊としてでした。
 陸軍第六航空軍は、3月10日、司令部を東京から福岡市の福岡高等女学校に移しました。そして、沖縄戦の指揮をとりました。
 大本営は、3月19日、大陸令第1278号で、防衛総司令官に、第6航空軍司令官をして南西諸島方面における作戦にかんして、海軍の連合艦隊司令長官の指揮を受けることを命じました。第6航空軍は、3月20日零時、連合艦隊司令官の指揮下に入りました(防衛庁防衛研修所戦史室(1968年)『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』。朝雲新聞社。●頁。●頁-●頁)。
 陸軍から海軍特別攻撃の最前線・鹿屋第5航空艦隊に参謀副長・青木喬少将が派遣され、共同作戦にあたりました。これにより、艦隊攻撃は海軍、輸送船攻撃は陸軍が担当することになります。
 第6航空軍司令官は、元陸軍航空総監・菅原道大中将が務め、知覧、都城などを基点に作戦を遂行しました。第六航空軍所属の特別攻撃隊・振武隊などが編成され、出撃していきました。
 「この中には、高松飛行場で訓練中に、特攻隊・振武隊に応募し、出撃した者もかなりあった。
 特に、少年飛行兵は全員応募し、全員戦死したといわれる。」(高松空襲戦災誌編集室『高松空襲戦災誌』)
 1944年12月、高松飛行場の陸軍明野教導飛行師団の高松分校でも特別攻撃隊への志願を募りました。全員が「賛成」でした(檜與平(1995年):『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。398頁-400頁)です。
 その志願調査の後、高松分校の陸軍士官学校第57期生の桂正少尉、後藤光春少尉に振武隊への転属の命が下りました。
 この本によると、このとき、檜與平大尉は、2人に、こう声をかけたいといいます。
 「戦局を挽回し、神州を護持するのは、きみたちの死によって死によってのみ得られるのだ。いずれ、みんなが行かねばならぬが、しっかりたのむぞ」
 2人は、こう応じたといいます。 
 後藤少尉 「教官どの、日頃の御教訓を守って、立派にやり遂げます。お身体に気をつけてください」
 桂少尉 「教官どの、桂、恥ずかしくない死にかたをいたします」
 高松中学校の生徒で陸軍高松飛行場づくりに動員されていた水原良昌さんは、同飛行場から特別攻撃隊が出撃する姿も見ています(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)。
 「昭和二十年[一九四五年]の三月中旬であったろうか、『今日特攻隊ガ出テイクント』と、どこからか伝えられて緊張したムードが流れていた。昼過、噂通りに遠目にそれらしい一隊の整列と儀式が眺められていたが、やがて九七式戦闘機と陸上攻撃機が三機ずつ並んで何回にも別れて離陸を始めた。誰言うとなく皆滑走路の横に走り並んで、帽子をふったりある者は長い竹竿にゲートルの紐(ひも)を結びつけて長い旗がわりにしてふったりもした。
 飛行機は次々と地上をあとにした後、上空できれいな編隊を組んで飛行場上空をゆっくりと何回も何回も低く旋回した。それからやゝ高度を高めながらずっと東方上空に編隊を移し、やがて三機編隊ずつ風のように滑走路めがけて降下して来て、決別の例であろうか左右に翼をふりながら滑走路上を低く飛んだ後、再び急上昇して後をふりかえる事もなくひたすらに西空に向かって消えて行った。
 当時はまだ十四・五歳の少年達も、死への出発とか訣別(けつべつ)とかいった限界状況を目前にして、言語では表現出来ないどうしようもない重苦しさを各自に感じたようで、しばらくは皆押し黙ったまゝであった。
 それから四・五日してから又(また)二〇機ほど飛び立って行ったのであるが、その数日後の新聞紙上に九州の前線基地からの報道として『出撃を待つ特攻隊長A中尉』の談話が載った。先日林から飛び立っていったA中尉であったが、沖縄に米軍が来襲する少し前の事である。」

 当時、高等女学校3年生で飛行機の整備のために陸軍高松飛行場に動員されていた佐々木ミヨ子さんは同飛行場から特攻隊が出陣するのを見送っています。「ニッコリ笑って、○○他何名只今[ただいま]行きます。……帰って来ますとは誰も言いませんでした。一週間後には名誉の戦死が報じられました」。(角田緑編(1995):『敗戦50周年記録集“私と戦争”』。香川県職員退職者会。128頁。89頁)
 当時、林村に住んでいた藤本アサエさんは、つぎのように書いています(四国新聞社(1975年):『昭和五十年史 別冊 三十年目の証言』。四国新聞社。●頁。●頁-●頁)。
 「軍のことはいっさい秘密でしたが、だれ言うとなく早朝に特攻機が出撃していると、うわさがたつようになり、村人たちも暁に飛び立つ飛行機に向かって深く合掌したものでした。」
 「近所の理髪店のおじさんは多種多芸、話題も豊富な明るい人でした。隊員さんたちは遠く故郷を離れ前途も考えられぬ一時を『おじさん、おじさん』と慕って来たものです。『まだあどけないこの少年の命がいつ消えるだろうと思えばつい涙がこぼれそうで困る。仏様の顔そりをしているようだったよ』と話してくれました。詩、短歌をつくって『おじさんこれさしあげます』と無言で差し出すまなじりにハッと出撃の間近を感じたともらしていました。その少年はやはりそれ以来一度も来なかったそうです。」
 第6航空軍で沖縄に突撃攻撃して戦死したのは、4月1日から7月1日までで697人です。1912年生まれ~1926年生まれの人たちです (特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(2003年・4版)『特別攻撃隊』。●頁。●頁-●頁)。
 そのうち陸軍明野教導飛行師団(高松分校も、その一部)が編成した振武隊と、その戦死者は、以下のとおりです(「振武隊編成表」=櫻井隆さん所蔵。『特別攻撃隊』)。
 第22振武隊(一式戦闘機)=6人。
 第43振武隊(九七戦闘機)=9人。
 第43振武隊(一式戦闘機)=8人。
 第48振武隊(一式戦闘機)=8人。
 第49振武隊(一式戦闘機)=7人。
 第50振武隊(一式戦闘機)=12人。
 第51振武隊(一式戦闘機)=9人。
 第52振武隊(一式戦闘機)=9人。
 第53振武隊(一式戦闘機)=9人。
 第55振武隊(三式戦闘機)=9人。
 第57振武隊(四式戦闘機)=11人。
 第58振武隊(四式戦闘機)=11人。
 第59振武隊(四式戦闘機)=9人。
 第60振武隊(四式戦闘機)=10人。
 第65振武隊(九七戦闘機)=3人。
 第66振武隊(九七戦闘機)=5人。
 第67振武隊(九七戦闘機)=6人。
 第69振武隊(九七戦闘機)=5人。
 第144振武隊(一式戦闘機)=3人。
 212人もが戦死しています。
 このなかには高松分校にいた操縦兵もいます。
 桂正少尉(石川県出身。1926年生まれ。陸軍士官学校57期)は、第65振武隊(九七戦闘機)でした。5月11日、「沖縄周辺洋上」で戦死しています。
 同じく高松分校にいた後藤光春少尉(三重県出身。1924年生まれ。陸軍士官学校57期)は、第66振武隊(九七戦闘機)の一員でした。5月25日、「沖縄周辺洋上」で戦死しています(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会『特別攻撃隊』)。
 岡本智正さん(陸軍士官学校57期)は、数回出撃したものの、機体の故障や悪天候などで突入までにいたらず終戦を迎えました。彼は、飛行時間二百時間程度で海上索敵の経験はありませんでした(『昭和五十年史 上巻 香川・激動の二十年』。四国新聞社。1975年8月15日)。
 高松飛行場で受領した飛行機で逝った操縦兵もいます。
 第69振武隊(九七式戦闘機)の隊員・本島桂一少尉 (特別操縦見習士官1期。1923年生まれ)です。
 岐阜県川崎村の明野飛行部隊付だった本島少尉は、「陸輸ニテ出発」し、4月1日に高松飛行場に到着、同月5日、受領した飛行機で九州に向かっています。そして、4月16日、その飛行機で知覧飛行場を出発し特別攻撃して「沖縄周辺洋上」で戦死しています。知覧飛行場を出発する前に、本島少尉は「人生二十二年 我今 御陵威[みいつ。天皇の威光のこと]ノ御盾トナラン」という遺書を書いています(本島桂一少尉の遺書=佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』。光人社。1997年12月18日)。
 第6航空軍は、沖縄戦の大勢が決まった5月末に聯合艦隊の指揮下から離れました。
 第一復員局資料整理部(1947年8月10日):『航空特攻作戦ノ概要(未定稿)』)に、沖縄戦での陸軍の特別攻撃の「数字」が載っています。
 各振武隊は、九州から、九七戦(約150機)、九九軍偵(約110機)、一式戦(約65機)、四式戦(約50機)、キ九(約50機)、九八直協(約40機)、三式戦(約40機)、九九高(約30機)、二式複戦(約20機)など76隊、約680機が出撃しています。1隊1隊を○○振武隊と呼びました。戦果は「記録ナク不詳」です。

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