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2011.09.03

香川県の陸軍飛行部隊は、なぜ、アメリカ軍を迎撃しなかったのか  その11 香川に三つの陸軍秘匿飛行場がつくられていました。

 香川県の陸軍秘匿飛行場、屋島飛行場、国分飛行場、丸亀飛行場の建設は始まっていました。

 陸軍が最初に建設に着手したのは屋島飛行場のようです。

   ○ 陸軍屋島飛行場

   どこにつくられていたのでしょうか

 陸軍屋島飛行場は、どこにつくられていたのでしょうか。
 当時の資料で、この飛行場の位置、規模などをしめしたものはないかと探しましたが、アメリカ軍とGHQがつくったものがありました。
 前述したアメリカ軍が、1945年5月28日に高度約1万メートルから撮影した写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」に、この飛行場が写っています。
 陸軍高松飛行場が写っていますが、そこから右上の所に屋島が写っています。
 その下に横に道路が走っています。観光道路です。
 その写真をトリミングして拡大しました。(写真1)
 観光道路(いまは、県道牟礼中新線)が屋島の登山口付近で拡幅されています。 
 観光道路の一部が拡幅されて陸軍の飛行場になっていたと思われます。
 当時の地図を示します。
 大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)です。(地図1)
 この2つの地図をつないだものにに、写真にある膨らんだ部分を2赤色で落としました。(地図2)
 同じように写真の膨らんだ所を現在の地図に水色で落としました。(地図3)
 その1つの資料は、前出の『統合地理部門 南西太平洋地域 特別報告 No.112 四国(日本シリーズ)』です。
 アメリカ軍は、この飛行場をキライ(帰来)飛行場と呼んでいました。
 「k.キライ-北緯34度20分、東経134度1分:
 分類: MLG
 場所: 高松から東へ3マイルの1号線の最近改修された箇所の広げられた部分にある。
 飛行場は、建設中で、西南西の端へ向かって2850フィートの未舗装路であり、水はけが良い。[約868.68メートル]
 滑走路:東北東から西南西へ4825フィート×100フィート。西南西へ1200フィート拡張可能。建物や分散地域はない。
 地形上の障害物:1マイル北に標高960フィートの丘、2マイル南東に標高945フィートの丘。」
 MLGは、「中型爆撃機着陸場」のことです。

 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)には、こう記されています。
  「屋島飛行場は、飛行場を秘匿している屋島神社参道の西側の畑を整地拡張した。また、参道を出た付近の観光道路を約千㍍にわたって拡張し、戦闘機が離着陸できるようにした。
 これは本土決戦の際、特攻機の中継離着場になるとともに、参道に秘匿疎開した飛行機を、高松飛行場まで運ぶことなく、直ちにここから発信できるようにしたものと思われる。」

 屋島飛行場は、溶岩台地である屋島の南側を横切る国道22号(観光道路)屋島飛行場は、この道路を利用してつくられていました(いまは、県道155号です)。この道路の左右には建物もありましたが、ほとんどが田んぼでした。
 屋島の南側の両サイドは塩田でした。屋島南部の屋島神社の参道は、屋島の南部を横切る国道22号(観光道路)につながっていました。

   いつからつくられていたのでしょうか。
 
 陸軍屋島飛行場づくりは、いつからはじまったのでしょうか。
 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)は、「これらの作業は、昭和二十年[一九四五年]春ごろから開始され、林村の飛行場作業に当たっていた高松中学校の生徒が、付近の住民と共に作業に従事した。」と書いています。

 高松第一中学校(高松市)の『昭和二十年度[一九四五年度]教務日誌』(●)を読むと、少なくとも5月20日には工事が始まっていたことがわかります。
 同学校の生徒たちは、陸軍屋島飛行場づくりに動員されていました。
 アメリカ軍機の空襲の警戒警報、の空襲警報がしばしば出ているなかでの作業でした。
 ○ 五月十五日 火曜日 風後雲
 「午後六時ヨリ於高中校[高松中学校]林動員打合会ヘ学校長出席」
 ○ 五月十六日 水曜日 晴
 「午後二時三十分ヨリ職員会 林村動員ニ関スル件外……」
 ○ 五月十八日 金曜日 晴
 「三ノ一、二ノ一、二、本日より五日間軍事施設協力動員出勤」
 ○ 五月十九日 土曜日 雨
 「雨天ノ為軍事施設協力出動の中止 普通授業(三ノ一、二、ノ一、二)」
 ○ 五月二十日 日曜日 雲 小雨
 「三ノ一、二ノ一、二 年 屋島へ出勤」
 ○ 五月二十一日 月曜日 雨
 「三ノ二、二ノ一、二、屋島出動」
 ○ 五月二十四日 木曜日 晴
 「二ノ三、四、五、明二五日ヨリ屋島ヘ出勤ニ付キ休暇を貰フ」
 ○ 五月二十五日 金曜日 晴
 「二ノ三、四、五 屋島作業」
 ○ 五月二十六日 土曜日 晴
 「二ノ三、四、五 屋島ニ出動」
 ○ 五月二十七日 日曜日 晴
 「第五日曜ニテ休業」
 「屋島出動 二年三、四、五」
 ○ 五月二十八日 月曜日 晴
 「屋島出動 二年一、二、三
 二年四、五ハ代休」
 ○ 五月二十九日 火曜日 晴
 「屋島出動 二年一、二、四
 二年三 代休」
 ○ 五月三十日 水曜日 晴
 「屋島出動二年一、二、五」
 ○ 五月三十一日 木曜日 晴
 「二年一、二、五 屋島出動 正午ニテ切上ゲ
 后一時一〇分ヨリ東宝ニテ映画観賞」
 [東宝で上映していたのは軍神ものの「後に続くを信ず」(一九四五年三月八日)でした。]

   このようにしてつくられました

  陸軍屋島は、このようにしてつくられました。
 牟礼町史編集委員会(1993年):『牟礼町史』(牟礼町。●頁。●頁-●頁)に、つぎのように書かれています。
 「本町を縦断する国道一一号の元になった道路は、江戸初期に設けられた浜街道(志度街道)である。そのころの幅員[ふくいん。道路・橋・船などの、はば]は約三・八㍍ぐらいで、高松市高松町東端から小松歯科医院(王墓)の前を通り、柴野製菓の前を右折神櫛王墓前を牟礼川に沿って西林寺前へ出、赤坂を経て皿池の堤防を通り堀越へ、西門寺跡といわれる所で直角に左折し牟礼小学校横を通った。川東の農協大町出張所前から元結峠の一里松を右に見て、幡羅八幡神社前を直進海岸近くに出て、宮前・原浜の家並みの間を志度町に入っていた。
 大正九年(一九二〇)四月の道路法の施行によって、この道路が国道二二号となった。その後観光道路の名称で旧一一号線が中新町から屋島の馬場先を経て白羽神社馬場先近くまで新設された(太平洋戦争末期には、高松町から春日町にかけては飛行機の滑走路として使用するため沿線の民家は疎開し、橋の欄干も切り取られた)。」
 高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』(68頁)には、こう記されています。
  「工事は道路を滑走路幅に広げ、両側に道路と平行して深い溝を掘って、その土を道路との間に盛りあげ、同じ高さにして固めていった。
 基礎には、牟礼や庵治から手ごろな大きな砕石を運んできて敷石した。」(高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』。69頁)

 高松市の高松中学校の3年生だった水原良昌さんも陸軍屋島飛行場づくりにどういんされます。一緒に動員されたのは3年生全5クラスでした。5中旬から1カ月少々でした。

 「屋島は、東照宮の馬場先附近の約一キロにわたる旧十一号線沿いであった。道路下の田んぼで掘った土をモッコで担いで運ぶ作業が中心であったが、幾日間かは庵治の丸山峠まで歩いて石の採集に往復する事もあった。太い竹竿でモッコ担ぎを連日続けていると両肩が青く赤く腫れあがって痛んだ。そのうちに血膿が出て来たらどうしょうかと真剣に心配した程であるが顔をしかめながら頑張った。」。「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁)
 屋島風土記編纂委員会():『屋島風土記』(屋島文化協会。美巧堂。●頁。●頁-●頁)にも、屋島飛行場のことが書かれていました。
 その本の編集にたずさわったかたの一人と連絡をとりました。
 お話を聞かせていただき、陸軍屋島飛行場のあった場所に案内していただきました。
 そのかたの調査によると、陸軍屋島飛行場は、県道155号の新川橋の所から屋島神社の参道がクロスする所までの間にありました。この間は、千メートル以上あるといいます。国道22号でした(その後、国道11号)。コンクリート舗装していました。
 観光道路が屋島神社の参道がクロスする所から北の屋島神社参道の両側は立派な松林でした。一九四五年、クロスする所から十数メートルいったところの左側に白っぽい飛行機が数機置いてあったのを見たといいます。松林の下に隠してありました。前の翼に乗って遊んだことがあるといいます。
 高松市の男性・Tさん(一九三五年十月生まれ。終戦時は、高松市の二番丁国民学校四年生)は、一九四五年に高松市木太町(きたちょう)に住んでいた女性から、当時聞いた、次の話を教えてくれました。
 「(陸軍屋島飛行場の関係で)庭の立派な松の木を切らされた。『飛行機の離着陸とときに、松の木に翼が当たって邪魔になる』ということだった」 
 木太町は、陸軍屋島飛行場の南西にあたります。
 この飛行場は、終戦時にも建設中ですが、私は、少なくとも6月末には使用可能だったのではないかと推定しています(7月4日のアメリカ軍機の高松空襲のときには標的の1つになっていたこと、動員されていた高松中学校の生徒たちが、途中から他の飛行場の建設工事に移っていることなどからの推測です)。

 (写真1)  陸軍屋島飛行場と、その周辺=アメリカ軍が1945年5月28日に高度約1万メートルから撮影した写真、「41 3PR5M246 1V 5-28 F-1531 35000 REST」の一部

 (地図1) 陸軍屋島飛行場の位置=大日本陸地測量部「二万五千分一地形図高松近傍五号(共六面) 徳島十四号高松ノ四 高松北部」(1933年7月30日)と同「二万五千分一地形図高松近傍六号(共六面) 徳島十五号志度ノ三 高松南部」(1933年12月28日)にアメリカ軍の写真のふくらんだ部分を赤色で書きこみました

 (地図2) 陸軍屋島飛行場の位置=現在の地図にアメリカ軍の写真のふくらんだ部分水色で落としました。

    ○ 陸軍国分飛行場
 

     どこにつくられていたでしょうか

 

 綾歌郡端岡村(はしおかむら)の陸軍国分飛行場は、どこにつくられていたでしょうか。

 陸軍国分飛行場については、国分寺町誌編纂委員会(2005年):『さぬき国分寺町誌』(国分寺町。1009頁。461頁-462頁)に書かれてありました。
 「終戦後の村」という所です。
 「(国分寺町国分字東滑走路、国分寺町国分字西滑走路は)戦争中に道路を滑走路として使用することを目的として作られたものだという。東端が端岡山で、西へ約一㌔㍍、幅五〇メートルの道路であった。今は県道33号となっている。多くの田がつぶされ、宅地も壊された。
 戦後耕地整理組合がつくられ、この道路を元の田に帰すことになった。昭和二十三年(一九四八)から昭和二十七・八年(一九五二・三)ごろまでかかった。道を田に帰すということで、引揚者や近くの農家の人が出て、水路も残して元の田に作り上げた。」
 この位置や大きさは、戦後につくられた「国分寺町国分字東滑走路地図」、「国分寺町国分字西滑走路地図」という文書を見ればわかるとありました。
 高松市国分寺支所にお願いして、「国分寺町国分字東滑走路地図」と「国分寺町国分字西滑走路地図」を見せていただきました。
 前者は、「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 弐枚内壱号 縮尺六万分ノ一」と書かれたものです。
 後者は、「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 縮尺六万分ノ一 弐枚ノ内二号」と書かれています。
 添付資料では、後者は長いので二枚にしてあります。
 これを、いまの住宅地図に落としました。(地図1)
 滑走路は赤で囲った部分だと思います。いまの地図に落としたものです。
 ほかに飛行機の格納庫などもあったということです。
 
    どうやってつくっていたのでしょうか
 
 陸軍国分飛行場づくりを、どこの部隊が担当したのだろうかといろいろ本を探しました。やっと、つぎの本に書いてあることがわかりました。
 国分寺町立国分寺北部小学校開校百周年記念事業記念誌委員会編集部(1995年)『あかもん 国分寺北部小学校百年誌』(●頁)の年表(●頁)に、同校が端岡国民学校(山田可彰校長)だったときの、こんな記述があります。
 1944年の項です。
 「飛行場滑走路を作るために軍隊が駐屯し、講堂と中棟校舎を使用する。
 運動場を、さつまいも畑にする。
 運動場の東端と職員室の北側の中庭に防空壕を造り、緊急の時の避難場所にする。」
 それには、当時の児童の手記も載っています。
 1940年入学、1945年度卒業の白井加寿志さんの手記から。
 「国分に滑走路が造られるということで、愛媛県の吉田ケ浜航空隊の方々が講堂に駐屯してその作業に当られた。私達は、予科練の歌を『今日も飛ぶ飛ぶ吉田ケ浜にゃ』とことばを替えて歓迎した。」
 予科練というのは、海軍飛行予科練習生のことです。
 吉田浜というのは松山海軍航空隊のあった所です。
 陸軍国分飛行場は、1945年4月以降に建設されていたはずですが、1944年4月から海軍が国分寺に飛行場をつくっていたというのです。
 浄土卓也(1992年):『朝鮮人の強制連行と徴用 香川県・三菱直島製練所と軍事施設』(社会評論社。279頁。●頁-●頁)にも、国分飛行場づくりと朝鮮人のことが書かれています。
 国分寺町福家(ふけ)の長然寺(ちょうねんじ)の釈氏(きくち)昭麿住職の1977年8月の証言=1944年か1945年のこと、朝鮮から強制的に連れてこられていた人たちが陸軍端岡(はしおか)―国分寺飛行場づくりのため働いていました。付近の日本人も動員されて工事がなされていました。朝鮮人たちは、綾歌郡下の山ノ内村の一隅にバラックが二、三棟建てられて、そこから通っていました。
 金正一さんの証言=この作業は玉藻組が受け持ちました。朝鮮人たちは、1944年には来ていました。朝鮮本土から直接連行されてきていました。人数は、3、40人でした。金さん自身、金光組(かねみつぐみ)という労務請負の組を持っていた関係で、ここの作業現場にも何度か来たことがあります。
 玉藻組というのは、香川県の平井太郎さん(1905年7月17日~1973年124日)がおこした土木建築業・玉藻組のことです(平井さんの没後、にんげん平井太郎編集委員会(1979年):『にんげん 平井太郎 偉大なるその生涯』<平井卓志。西日本放送株式会社。1。●頁>が出ていますが、そこに、軍の工事をたくさん引き受けていた同社の姿も語られています。)。
 1944年から海軍が、ここで飛行場をつくっていた!?
 一方では、国分飛行場づくりを陸軍兵が指揮していたことを書いた手記もあります。

 陸軍屋島飛行場での作業を終えた高松市の高松中学校の3年生の水原良昌さんたちも、1945年6月下旬からも国分飛行場づくりに動員されます。

 「国分寺での作業は、旧国鉄国分寺駅と端岡駅の間の旧国道の拡張作業である。六月も終りになると昼過ぎから暑さがきびしく、その上、銃も剣も持っていない[陸軍の]兵隊集団と一緒の作業で、何となく雑然とした雰囲気であった。

 その上特別幹部候補生出身という伍長が偉っそうに号令をかけるのでいらいらした。何の理由で偉っそうに号令を受けなければならないのか不愉快であった。兵隊達は細くて弱弱しかったが、この伍長だけはがしっとした体格をしていて四角ばった鬼顔でやたらと大声を出して張り切っていた。」(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。25頁-26頁)。

 どうしたことでしょうか。
 地元の人たちに聞き回って、やっと事情がのみこめました。
 たとえば、飛行場がつくられていた場所のすぐ北にある法華寺の関係者は、戦争中、まず海軍の飛行予科練習生が、この寺にも泊って飛行場づくりの作業をしていたが、途中でその兵隊たちは帰り、変わって陸軍の兵隊たちがこの寺に泊りこんで飛行場づくりの作業をしていたとのことです。

 香川県立坂出工業学校(瀧本喜作夫校長)の生徒も、国分飛行場づくりに動員されています。
 1945年4月、2年生になった機械科の平田邦昭さんは、つぎのように書いています(「思い出の記」=五十周年誌編集委員会『創立五十周年誌』。香川県立坂出高等学校長・十河正巳。1987年11月14日。●ページ。●ページ-●ページ)。
 「●設営された本土決戦用航空基地作りに一年生と共に汗を流した」

 (地図1) 国分飛行場のあった地域=「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 弐枚内壱号 縮尺六万分ノ一」、「綾歌郡端岡村国分耕地整理組合 確定図 縮尺六万分ノ一 弐枚ノ内二号」の国分飛行場の滑走路のあった所を、いまの住宅地図に落としました。赤で囲った部分です

   【陸軍丸亀飛行場】

 3つ目の丸亀飛行場も着手されました。

 【陸軍丸亀飛行場】
 
 どこにつくられていたでしょうか
 
 陸軍丸亀飛行場は、どこなつくられていたのでしょうか。

 それは、飯野山(いいのやま)(標高421.87メートル)の南、山綾歌郡坂本村、綾歌郡飯野村(いいのむら)につくられていました。

 アメリカ軍の写真撮影機F-13が、それを撮影しています。8月5日のアメリカ軍の『飛行場報告 第144号』に、その写真が載っています。加工されたもので「北」が示され、飛行場は「○」で囲まれています。(工藤洋三(2011):『米国の写真偵察と日本空襲』。190頁、150頁)。少なくとも、この時点では、アメリカ軍は、この秘匿飛行場の存在を知っていたことになります。
 飯山町誌編さん委員会(1988年):『飯山町誌(はんざんちょうし)』(飯山町=香川県綾歌郡。938頁)の485ページからの「陸軍飯野山飛行場」に、陸軍丸亀飛行場のことが書いてあります(陸軍丸亀飛行場と陸軍飯野山飛行場は同じものです)。
 陸軍丸亀飛行場は、いまの県道18号(善通寺―府中)にそっていました。
 長さは、東は、川原土居から、西は飯野村山根東にいたる全長約1・5キロメートルです。幅は約100メートルです。
 東部の川原土居付近で、道路の北側(飯野山までの間)で幅約100メートルです。
 西の山根東地区では、北側に、にごり池がありますので、道路の南側で約100メートルです。
 道路にそって幅百メートルの細長い長方形の滑走路で、その面積は約21町6反余り(214214.876平方メートル)でした。
 付属施設もつくられました。

 ○ 格納庫1棟  東坂元三の池、滝房吉所有田
 ○ 格納庫1棟  西坂元高柳、松永博俊所有田
 ○ 兵舎1棟   東坂元秋常、高木真一所有田
 ○ 調理室、浴場 東坂元秋常、新池所有山林内

 こうしたものをつくるため、多くの家屋も立ち退きを命じられました。
 つぎのようなかたの家屋17戸です。
 <土居>
 鶴岡森次 平田常三郎 平田利久 平田金八 山口善平 平田平太郎 泉久太 抜井嘉平太 平田イトエ 沢井一 本条直次 宮井宗義 平田トウ 抜井勝義
 <山の越>
 東原昌彦
 <国持>
 金丸弘 村山ワキ

 つぎのような手記もありました。
 この飛行場建設のため家を取り上げられた家の息子・鶴岡俊彦(つるおかとしひこ)さん(1936年生まれ)は、当時、坂本国民学校(出淵重太郎校長。いまは丸亀市立飯山北小学校)の3年生でした。
 鶴岡さんは当時のことを書いた文章を残しています(「回想」=飯山町立飯山北小学校創立百周年記念事業実行委員会(1992年):『飯山町立飯山北小学校創立百周年記念誌 桃花』。飯山町立飯山北小学校。●頁。59頁-60頁)。
 「夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。近所の人や父が勤めていた栗熊国民学校[いまは、丸亀市立栗熊小学校]の高等科の生徒が、大八車を引いて手伝いに来てくれた。終戦の玉音放送は、作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引越予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に、『放送はおかしい、負けるはずがない。』『俺たちが居る。降参はしない。』と声高に話すのが頼もしく見えた。
 午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組を残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。」
 こうした記述をもとに現地を歩きました。
 まず、現在の地図です。(地図●)
 飛行場の西方を見ました。
 つぎの地図は丸亀市の「丸亀市都市計画図 15」(二千五百分の一)の一部です。(地図●)
 ① 県道18号の南の田んぼと水路にはさまれた土手のようになった所です。地元の人によると、ここも、戦後、滑走路の土砂をのけて、ここに積み上げたものだといいます。丸い石などがありました。
 写真は、東側から撮影したものです。(写真●)
 ② 桃畑です。持ち主の東原清さん(終戦時・国民学校三年生)によると、ここも飛行場になっていたとのことです。「うちは田んぼを六反とられた」と話してくれました。
 ③ 県道18号の北、山の越の東原孝佳さん宅です。県道18号から、斜めに十メートルほどの道があり、その先に東原さん宅があります。東原さんによると、この家への道の県道18号から見て右側に東原さん宅の倉庫があり、そこは陸軍の弾薬庫にされていたといいます。「小銃、機関銃、大砲が入っていた。鍵の一つは父・東原昌彦が、もう一つは軍が持っていた」。この家への道の県道18号から見て左側に東原さん宅の、もう一つの倉庫があり、それは飛行場の邪魔になるといって取り壊されたといいます。「飛行場づくりの関係で、そのうちに本宅も取り壊されることになっていました」とのことです。
 飛行場の東の端はどこだったか歩いて見ました。
 東原さんは「ここから行くと、県道18号が土居の所で下り坂になるキワでした」といいます。
 鶴岡俊彦さんの手記で「夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。」とありました。
 鶴岡さんのお宅は、戦後、同じ所に建て直されたといいます。
 行ってみると、ありました。「県道18号が土居の所で下り坂になるキワ」の北側でした。
 その附近の県道18号の写真です。西のほうを向いています。
 道路の右側の一番手前の電柱の右が鶴岡さん宅に行く道です。
 地図で鶴岡さん宅と県道18号との関係を示します。(地図●)
つぎの地図は丸亀市の「丸亀市都市計画図 27」(二千五百分の一)の一部です。
 ○で囲んだ所は、西からの道路が下り坂になっている所です。道路上に標高が書いてあるので、下がっていることがわかります。
 こうした調査を参考に、丸亀飛行場の場所を示しました。(地図●)
 しかし、地元の人の話では西にも東にも、もう少し延びていた可能性があります。

   どういうふうにつくられたいたでしょうか

 この飛行場は、どのようにしてつくられていたでしょうか。
 飯山町誌編さん委員会『飯山町誌』(●ページ-●ページ)の記述から年表式に記述します。
 【1945年4月下旬】 坂本村役場吏員・近藤政義さんが坂出市で開かれた事務打合会に出席したおり、係員から「会が終わっても居残るように」と命ぜられました。
 会終了後、軍関係者から「近々、貴村に軍の機密施設をつくるから、取り急ぎ、牛馬車用荷車を80台準備するように」との内示を受けました。
 【5月中旬】 陸軍航空総軍軍司令部から、陸軍丸亀飛行場急設の命令が下り、施設部隊・帥(すい)500部隊長の命によって坂本村隣保館(元坂本村公民館)に帥500部隊丸亀工事隊本部が設置されました。
    [帝国陸軍は1945年1月20日に策定された帝国陸海軍作戦計画大綱にもとづき本土決戦の準備を進め、同年4月8日に作戦準備を促進させるために第1総軍、第2総軍および航空総軍を設置しました。航空総軍の総司令官は河辺正三さん。第1航空軍、第6航空軍が編入されました(5月からは第2航空軍、第5航空軍も)。作戦地域は北東方面を除く内地と朝鮮で、特攻を主とした航空決戦を準備していました。 軍隊符号はFSA。通称号は帥(すい)=『帝国陸軍編制総覧 第三巻』など陸軍航空総軍軍司令部]
 【5月】 坂本村の隣村・綾歌郡法(ほう)勲寺(くんじ)村の平尾安徳村長に、航空総軍丸亀工事隊長から指示があり、「近く空第571部隊500名を飛行場施設のため貴村へ派遣するので、国民学校等を宿舎として借りたいから5月末までに準備するように」といい渡されました。
 村長は、法勲寺国民学校(いまは、飯山南小学校)の学校長、職員と打合せ、まず児童を疎開する計画をたて、疎開先の交渉にあたりました。
  【5月18日】 飛行場づくりの工事に着工しました。大字西坂元字国持、山の越、西沖、大字川原字土居の4地区にたいして「この地区内にある水田は、麦(未熟)を刈り取り、指示された家屋はぜんぶこわして、立ち退くこと」と、田畑の取り上げ命令ならびに当該家屋の立ち退き命令がくだされました。以後、飛行場づくりのために昼夜兼行の突貫工事が開始されました。
 【5月19日】 陸軍施設部隊一個大隊約500人が現地に到着しました。
 【5月20日】 学生勤労奉仕隊が現地に到着しました。高松中学校291人、三豊中学校153人、坂出工業学校203人、尽誠中学校202人、丸亀中学校169人、飯山農業学校300人、合計1318人。軍隊、学生(遠方の人)は、付近の学校、公民館、民家などに宿泊し作業にあたりました。
 【5月21日】 この日から香川県下の綾歌郡、仲多度郡内の一般勤労奉仕隊員約1000人を動員しました。

 こんな工事でした。
 ○ 地域内のすべての水田の麦の刈り取り(麦の麦は未熟)。
 ○ 立ち退き家屋の解体作業、その用材や瓦の取り片付け、移転先への運搬。
 ○ 地域内の小川や水路には、飯野山と土器川河岸から切り取った松の丸太を持ち帰り、これを小川や溝に渡して、その上に土を敷きつめます。飛行場の原型づくりです。
 ○ 平坦にした地面に飯野山の山土、近隣の水田から掘り取った土を積み重ねて敷きつめます。土の運搬は、「もっこ」をかつぎ、「じょうれん」で運ぶ、人力だけが頼りの作業でした。
 ○ 土器川から砂や小石を運び、これを拡散して固め、地面を水平固定化します。

 鶴岡さんは、前出の「回想」でつぎのように書いています。
 「学校の運動場は芋畑に変わり、狭くなった。岡の宮に防空壕が掘られ、母親に作って貰った防空頭巾をかぶり、時々避難訓練をした。また岡の宮でも松の幹に傷をつけ、傷口の下に空き缶をしばりつけ松根(しょうこん)湯(ゆ)を採るような時代であった。
 この頃、飯野山の南麓に軍用飛行場のための滑走路が造られることとなった。(中略)県下各地から中学生が勤労奉仕に動員され、学校[坂本国民学校]に宿泊して作業にあたった。(中略)県内勤労奉仕の生徒に学校をあけ渡すため、私達小学生[ママ。国民学校生]は村内の神社やお寺に分散して授業を受けることとされた。三年生の私は久米氏の八幡様が教室で、机や椅子を運んだ。(中略)山の谷から高柳に通じる道路の北側から飯野山の麓(ふもと)まで滑走路の敷地となり、私の家を含め、近所の家十三軒が壊されることとなった。レールが敷かれ、トロッコで砂利が運び込まれ、整地が進んだ。資材にするために飯野山の松が切り取られたが、今もその跡が鉢巻状に残っている。」

   5月28日に航空総軍の命令 

 5月28日、航空総軍は以下のように命じます。
 「帥(すい)作命丙第四十号 航空総軍命令 [一九四五年]五月二十八日 一〇、〇〇 東京」(「軍事機密」の判が押されています。防衛省防衛研修所図書館蔵)です。
 「一、 航空総軍ハ秘匿飛行場ヲ増設セントス
 二、 第一航空軍司令官ハ六月末概(がい)成(せい)[ほぼできあがること]七月末完成ヲ目途(めど)トシ左記秘匿飛行場ヲ整備スヘシ
    左  記
 三本木 (青森県三本木町附近)
 六 郷 (秋田県六郷町附近)
 金ケ﨑 (岩手県金ケ﨑西方約四粁(キロメートル)高谷野原)
 青野原 (兵庫県北條東南方約四粁)
 神 野 (兵庫県加古川東北方約四粁加古川川原)
 行 幸 (岡山県和気町西南方約十二粁)
 又(また)第三航空教育隊ヨリ将校ノ指揮スル人員各々(おのおの)約一、〇〇〇名ヲ速(すみやか)ニ松山及(および)丸亀新設飛行場ニ派遣シ概(おおむ)ネ七月中旬迄(まで)夫々(それぞれ)中部軍管区経理部松山出張所長及航空総軍経理部長ノ指揮ヲ承ケシムヘシ
 三、陸軍航空基地設定練習部長ハ現ニ各軍管区ニ派遣中ノ指導班ヲシテ前項新設飛行場ノ設定ニ関シ第一航空軍司令官ニ協力セシムヘシ
 四、航空総軍経理部長ハ六月末概成七月末完成ヲ目途トシテ丸亀(香川県)国分(香川県)及倉吉(鳥取県)附近ニ秘匿飛行場ヲ整備スルト共ニ第二項第一航空軍司令官ノ実施スル秘匿飛行場整備ヲ援助スヘシ
 五、細部ニ関シテハ其(そ)ノ都度総軍参謀長オシテ指示セシム」
 「航空総軍司令官 河邊正三」名の命令書で「報告(通報)先」は、「大本営、陸省(1FD、6FA、11FD、下、浜、明KFD、1SA、2SA、11HA、15HA、大阪、広島、善通寺師)となっています。
 ここに丸亀飛行場、国分飛行場のことが出てきます。2カ所とも7月末完成がめどだったことがわかります。

 一方、陸軍高松飛行場では変化がありました。それまで訓練を受けていた乙種搭乗員とビルマの留学生らは、他に転隊しました。残った教官級の搭乗員で最新の五式戦闘機によるロッテ戦法(戦闘編隊訓練)の演習を開始しました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。67頁)

 この時期に、陸軍高松飛行場の航空部隊を助ける部隊が、つぎつぎと配備されました。
 また、同月、千葉県の陸軍下志津飛行師団で結成された陸軍独立第28飛行隊(隊長・亀田良一中佐。約50人)が、高松に派遣されました。同飛行は、仏生山町の円光寺を宿舎にします。この飛行隊は、第100司令部偵察機三型を5機保有し、陸軍高松飛行場の明野戦闘機隊と協力して、土佐沖のアメリカ機動部隊の索敵任務に従事しました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。70頁)

 6月10日、大阪の第3高射砲師団の独立機関砲大隊4117部隊から独立高射機関砲第59中隊(隊長・晄靖中尉)、同第60中隊が高松に到着しました。あわせて約120人でした。20ミリ高射機関砲各4門、飛行機搭載用の12・7ミリメートル機関銃数基を保有していました。それらを、陸軍高松飛行場や周辺の由良山、日山、畑、寺院、大池の堤防などに配備しました。配備された機関銃を敵の襲撃から守るために、近くの人々によって模擬砲がつくられました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。71頁-72頁)

 6月15日、陸軍第60航空地区司令部が編成され、陸軍高松飛行場に駐屯しました。これは、地上部隊、気象、通信などを掌握するための司令部でした。この司令部には、地上部隊の第176飛行場大隊(隊長・太田稔少佐)、第251飛行場大隊(隊長代理・河井大尉)が属していました。飛行場大隊は、警備中隊(飛行場と、その周辺の警備を担当)、補給中隊(弾薬・燃料などの補給を担当)から編成されていました。装備として重機関銃1丁、軽機関銃7、8丁を保有していました。警備の範囲は、西は一宮村の農業学校付近から東は川添村にまでおよんでいました。飛行場関係の部隊は、近くの林国民学校、木田国民学校、川添国民学校、古高松国民学校、鶴尾国民学校、木田高等女学校、木田農業学校などの校舎や民家に駐屯していました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。70頁-71頁)

 補給中隊は、アメリカ軍の爆撃を避けるため、弾薬、燃料の疎開をしました。
 由良山南側隧道(ずいどう)、三谷の日山、通谷に弾薬を、三谷神社西の隧道にドラム缶(アルコール)を、大川郡志度の末、造田村の乙井(おとい)の山かげにドラム缶(ガソリン、重油)、爆弾を貯蔵しました。民家の倉庫などにも物

 同書によると、補給中隊は、アメリカ軍の空襲を避けるためにつぎの所に弾薬、燃料の疎開をしています。

 ・ 由良山南側隧道(ずいどう)=弾薬

 ・ 三谷の日山=弾薬

 ・ 通谷=弾薬

 ・ 三谷神社西の隧道=ドラム缶(アルコール)

 ・ 大川郡志度町末=ドラム缶(ガソリン、重油)、爆弾

 ・ 造田村乙井(おとい)の山かげドラム缶(ガソリン、重油)、爆弾

 ・ 民家の倉庫など=物資

 6月末、福岡から第6対空無戦隊(秘匿名・靖18954部隊。隊長・佐々木左馬太少佐。約150人)が香川県に移駐しました。同隊の本部は、香川郡浅野村国民学校に駐屯、通信隊や無線隊は、鷺田公会堂、由良山南側の隧道にいました。(高松空襲戦災誌編集室(1983年):『高松空襲戦災史』。72頁)

     つづく秘匿飛行場建設

 その命令の後の丸亀飛行場建設の様子を追います。 
 【6月1日】 横山幹太・航空総軍丸亀工事隊本部隊長は、坂本村の長脇正村長、同役場吏員の近藤政義さんに辞令を交付しました。
 近藤政義さんへの文書は、以下のようなものでした。
 
       坂本村 近藤正義[ママ]
 航空総軍丸亀工事隊事務ヲ嘱託ス
   昭和二十年六月一日
      航空総軍丸亀工事隊本部隊長
       陸軍嘱託 横山幹太 印

 この日、飛行場予定地で起工式がありました。法勲寺村村長も出席しました。
 また、この日、法勲寺村村長は、法勲寺国民学校の児童を下記のように疎開することに決定しました。
 1年生2組 島田寺
 2年生2組 原川十王堂
 高等科2組 長郷庵
 3年生2組 校内で教室移動する」
 4年生、5年生のこと、書かれていません。
 この日から、国防婦人会幹部を班長として会員延べ460人余りが、帥500部隊本部炊事勤労奉仕をしました(終戦まで)。

 【6月3日】 夜、法勲寺村では緊急常会長会を開催し、「国民学校を宿舎にするので、蚊帳(かや)・釜(かま)等借りたいから協力をお願いする』と連絡しました。
 【6月4日】 空第571部隊先発隊が法勲寺村に来村し、法勲寺国民学校の学校内を見てまわり、左のように決定しました。
 講堂と八教室を宿舎と医務室。
 理科室を炊事場。
 倉庫を物資収納庫。
 裁縫室を将校集会場。
 授産場を本部と隊長室。
 駐在所を主計室と下士官集会場(当時巡査は単身赴任で役場2階へ移る)。
 役場の倉庫の一部に仮営倉。
 八坂神社の神事場を物干し場。
 【6月5日】 法勲寺村役場職員と空第571部隊の兵隊が手分けして、釜(かま)、炊事用具、蚊帳(かや)の借入に村内をまわりました。
 郡町村長会で依頼した蚊帳が、8か村から届いた。
 美合村 4、造田村 4、長炭村 4、宇多津町 4、坂本村 4、羽床上村 4、川津村 4
 法勲寺村 蚊帳 6、釜 10、炊事用篭 1、包丁 5、杓子(しゃくこ) 1
 その他の用具は法勲寺国民学校のを使用しました。
 風呂は村内の大工を雇って、ドラムカン5個を大束(だいそく)川(がわ)の土手(牛のつめきり場)にすえ、蓋(ふた)や流しなどをつくりました。兵は兵隊風呂と名付けていました。
 上法岡の池へ水浴に行くことを交渉して決めました。風呂ができるるまで、西の山、中の坪の家庭の風呂を利用しました。
 ドラムカンの風呂沸しは、学校の上学年の児童が奉仕する日もありました。水は逆川の水を利用しました。
 飲料水は学校の井戸水では足らないので、西の山の新居久市(現恵)宅から、管を引いて補給しました。
 将校用宿舎は村内で吉馴秀雄(現秀則)宅外4戸間借しました。
 午后になって、軍隊用物資がトラックで、運ばれて来ました。
 【6月6日】 空第571部隊の松木場隊500人が来村し、各々宿舎につきました。
 松木場隊長が法勲寺国民学校内で挨拶の時、当時青年学校の教練教師をしていた川井の吉本晴一と逢い、吉本が初年兵の時の教官であった隊長と10年振りの出会いとなり、それが縁で村長と協議の上、隊の物資(炊事用)購入の交渉係として雇うこととなり、兵二人とその任にあたりました。
 下士官以下は、特別幹部候補生と志願者が多く、九州出身者が大半でした。
 [陸軍特別幹部候補生=1943年12月15日発令された陸軍現役下士官補充及服役臨時特例(勅令922号)にもとづいて採用された者をいいます。採用資格は満15歳以上20歳未満で学歴は問いませんが、速成教育に対応できる程度を確保するため採用試験は中学校3年程度の内容とされていました。身体検査と口頭試問、学科試験に合格すると採用の日から2年間現役に服しました。階級は採用と同時に一等兵を命ぜられ、6ヶ月後に上等兵、さらに6ヶ月後に兵長に進級し1年6ヶ月の課程終了後に下士官に任じられました。]
 【6月7日】 この日から空第571部隊松木場隊の兵は飛行場へ作業に行きました。朝食後運動場に集り、軍歌を歌いながら行進していきました。
 戦時下とはいえ静かな農村が急に軍人の村と化していきました。朝は起床ラッパに起こされ、軍靴の音高く軍歌の声を朝夕に聞きました。
 暑さの中一日の重労働に空腹を我慢して(飯盒八分目位入ったのが2人分の昼食)の毎日で、日を重ねるにつれて元気がなく足も重かったようでした。
 【6月16日】空第571部隊松木場隊と法勲寺村役場合同で、餅つきをして二個ずつ渡しました。
 【6月中旬】 香川県下の三豊郡、仲多渡郡、綾歌郡の牛馬車用奉仕隊約80台を動員して土砂の運搬や飛行場の整地作業にあたらせました。
 毎日毎日数1000人という動員で、6、7、8月の炎天下、突貫作業は続けられていきました。
 【6月17日】 法勲寺村役場は、将校たち幹部を招き、村会議員と役場職員で歓迎会を開き、日頃の労をねぎらいました。
 【6月23日】 香川県香川郡の一宮村(いちのみやむら)青年団が法勲寺国民学校に慰問に来て、講堂で演劇・歌を発表しました。空第571部隊松木場隊から飛入りもありました。
 住民などの工事への動員の実際をみましょう。

  高松市の香川県立高松中学校の2年生(陸軍幼年学校に受験する約40人を除く)は、5月から陸軍丸亀飛行場づくりに動員されています。地元の飯野山国民学校の講堂で寝起きしました。食事は、麦を主体に雑穀をまぜたものでした。(玉翠五五会(1980年):『焼跡の青春 卒業30周年記念誌』。玉翠五五会。312頁。282頁) 

 同じく高松市の高松第一中学校の生徒の陸軍屋島飛行場づくりへの動員は、5月末で終了しましたが、同校の生徒は、その後、陸軍丸亀飛行場づくりに動員されます(『昭和二十年度[一九四五年度]教務日誌』。高松市歴史資料館蔵)。
 ○ 六月一日 金曜日 雲り、後晴れ
 「坂本軍事施設協力出動下見分ノ為学校長出張」
 ○ 六月二日 土曜日 雨、後晴れ
 「午後二時五十分 応接室ニ於テ、職員会アリ
 1、三、二年 坂本村軍事施設協力出動ニ関スル件
 2、食糧増産協力出動ニ関スル件
 3、其他」
 ○ 六月三日 日曜日 晴れ
 「坂本村出勤生徒ニ対スル注意(教頭 学年主任)
 ○ 六月四日 月曜日 雲り
 「三年生、二年一、二 坂本村軍事施設ニ出動準備ノタメ休ミ」
 「田中、西村  坂本村 帥(すい)第五〇〇部隊飯山工事本部ヘ打合セノタメ出張」
 ○ 六月五日 火曜日 晴れ
 「三ノ一、二ノ一、二 坂本村軍事施設協力出動
 菅野、田中、横井、河野先生出動」
 ○ 六月六日 水曜日 晴れ
 「菅野先生 坂本村軍事施設動員 結成式ニ参加ノ為出張」
 「田中、横井先生 坂本ヘ学徒監トシテ昨日ヨリ出張
 末友、久保久先生 食糧増産隊学徒監トシテ昨日ヨリ引続キ出張」
 ○ 六月七日 木曜日 気象の記載なし
 「二ノ一、二、三ノ二、坂本出動(田中、横井、)」
 「利光先生 坂本へ出張」
 ○ 六月八日 金曜日 雲り
 「三ノ二、二ノ一、二、坂本村へ出動(利光 横井 河野)」
 「鶴尾、熊田欠勤ニツキ溝上代理ニ学徒監トシテ行ク」
 ○ 六月九日 土曜日 晴れ
 「三年二、二年一、二 坂本村(河野 横井 利光)」
 ○ 六月十日 晴れ
 「三ノ二、二ノ一、二 坂本村出動中
 (利光、横井、河野)」
 ○ 六月十一日 月曜日 晴れ
 「三年ノ一、二ノ一、二 坂本村(河野 横井 利光)」
 ○ 六月十二日 火曜日 雲り、後晴れ
 「三ノ一、二ノ一、二 坂元村(横井 河野)
 利光先生帰校 田中先生出●」
 ○ 六月十三日 水曜日 小雨、雲り
 「三ノ一、二ノ一、二 坂元村(横井 河野 田中)」
 ○ 六月十四日 木曜日 雲り
 「三ノ一、二ノ一 二ノ二、坂元村ヘ(河野 横井 田中)」
 ○ 六月十五日 金曜日 小雨
 「三ノ一、二ノ一、二、坂元村へ(河野、横井)」
 ○ 六月十六日 土曜日 雲り
 「三ノ一、二ノ一、二ノ二 坂元村出動中
 横井(田中 河野 連絡ノ為メ帰校)」
 ○ 六月十七日 日曜日 晴れ
 「二年三、四、五 坂本ヘ出動準備ノタメ休業」
 「広内、坂本ヘ出発(午後)」
 ○ 六月十八日 月曜日 雲り
 「坂本ヨリ三ノ二、二ノ一、二 引上ゲ 栗林(一五、一五着)
 坂本ヘ二ノ三、四、五 出動 栗林(一五、二八名)
 西村、竹内 引率」
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十日 水曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十一日 木曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五、坂本へ出動中」
 ○ 六月二十二日 金曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五、坂本へ出動中」
 ○ 六月二十三日 土曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五、坂本へ出動中」
 ○ 六月二十四日 日曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「第四日曜ニ付休業
 二年三、四、五 坂本」
 ○ 六月二十五日 月曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五 坂本
  西村 連絡ノタメ帰校」
 ○ 六月二十六日 火曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十七日 水曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「坂本ヨリ 広内 連絡ノタメ帰校」
 ○ 六月二十八日 木曜日 晴れ
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 ○ 六月二十九日 金曜日 雨
 「二ノ三 ニノ四 二ノ五 坂本」
 「坂本ヨリ 竹内 連絡ノタメ帰校」
 ○ 六月三十日 土曜日 雨
 「二ノ三 二ノ四 二ノ五 坂本」
 「二年三、四、五 坂本村ヨリ帰校(一四午)」
 ○ 七月二日 月曜日 晴れ
 なお、この日誌には、それぞれの日のページの右下には教務主任の朱印が押してあります。別項に、この日記の詳細を書きました。

 香川県立丸亀中学校の生徒も動員されました。
 同校の生徒たちを引率した虫本茂忠(むしもとしげたただ)教諭は、つぎのように書いています(香川県立丸亀高等学校編(1973年):『亀城のほとり 香川県立丸亀高等学校創立八十周年記念誌』。香川県立丸亀高等学校。306頁。102頁-103頁)。
 「一年生は飯野山山麓に飛行場作りに行きました。生徒は今の飯山高校の木造校舎こに寝泊まりさせたんですが、中学一年生ですから夜中に『お母さん』といって泣きますし、間食がないから米を炒(い)って持ってきて、お湯をかけて食事の補いをしていました。その米の粉が落ちるものですから、ノミがわくという始末でした。土器川の石を荷車に積み運ばせたのですが、仕事が苦しいというよりは、幼い子どもを動員で家庭から離し、ノミがいっぱいの所で、粗末な食事だけで石を拾わせたものですから可哀そうでした。」
 文中の飯山高校というのは、当時、香川県立飯山農業学校でした。
 動員された女性の手記があります。丸亀市三条町の中北スガノさんのものです(以下、一部を引用。行替えしました)。(香川県職員退職者会(1995年8月15日。)『敗戦五十年記録集”私と戦争”』。角田緑。128頁。72頁)。

 彼女は、農業で、夫は軍属として善通寺師団に勤めていたといいます。
 「飯野山のふもとに飛行場が出来ると言うので勤労奉仕に朝から歩いて、やっと行きますと兵士が体や頭に木の葉をつけて走って居ました。
 食べる物が無いので走りながらバタバタたおれるのです、見ておどろきました。
 地ならしを手伝って昼のおべんとうを食べに親類の家に行きましたが、いとこが居ないので、しき居に腰をかけて食べました。
 持って行ったお茶を飲んで、桃を買って帰ろうとおねがいすると、お米を出さねばくれないとの事。
 夕方まで仕事をして、つかれて皆といっしょに遠い道を帰って来ました。
 自分達が食べる物も無いのに兵隊さんが可愛そうで、皆んなでお米、豆、イモ等を持ちよって郡家地区から三輪車にイッパイつんで送りなんぎしていた兵隊の部隊長に上げたそうです。
 亦[また]、ツギ布が無くてやぶれた所のつくろいも出来ずにこまって居た人が沢山(たくさん)いました。
 亦、丸亀へ行って顔がうつるようなオカユを食べに行っていました……」

  ○ どのように秘匿されたのでしょうか

 ところで、陸軍屋島飛行場、陸軍国分飛行場、陸軍丸亀飛行場は秘匿飛行場です。

 どのように秘匿されたのでしょうか。

  秘匿飛行場は、空から見てもわからないようにと偽装工作がやられていました。

 陸軍屋島飛行場の場合は、こうです。

 「(陸軍屋島飛行場の道路の両側を)拡張した部分は芝でおおい、周囲の田畑と見分けがつかないようにした。」(高松空襲戦災誌編集委員会(1983年):『高松空襲戦災誌』。69頁)
  陸軍丸亀飛行場の偽装工作は、こんなふうにおこなわれました(●『飯山町誌』。●ページ-●ページ)。
 「●アメリカ軍機の来襲に備え、完成した所から順次、松、カシ、クヌギなど雑木の小枝を等間隔に挿し木します。枯れたら、また挿します。この偽装工作を繰り返し連続実施します。」
 偽装工作については、『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』の「別紙第四」に「秘匿飛行場整備要綱」として二つ図が添付されています。(図1、図2)

 (図1) 秘匿飛行場の偽装工作の例=『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』の「別紙第四」の「秘匿飛行場整備要綱」から

 (図2) 秘匿飛行場の偽装工作の例=『本土航空作戦記録 昭二一・一二 調整 第一復員局』の「別紙第四」の「秘匿飛行場整備要綱」から

   天皇は6月に「講和=降伏」を決断

 6月、香川県では陸軍高松飛行場づくりや3つの陸軍秘匿飛行場づくりに県民がかりだされていました。

 一方、大元帥(戦争の最高指導者)は、このころ、「講和=降伏」を決断し、そのための江作を始めていたとされています。

 6月8日に「御前に於ける最高戦争指導会議」がありました。
 天皇のほか、豊田副武・軍令部総長、河辺虎四郎・参謀次長(満州に出張中の梅津 美治郎・参謀総長の代理)、平沼騏一郎・枢密院議長らが出席しました。
 会議の結論は、戦争継続ということになりました。
 その後のことを天皇が語っています。(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。429頁。115-128頁)
 「梅津[美治郎・参謀総長]は会議の翌日満州から帰つて来たが、その報告に依[よ]れば、支那[中国のこと]にある我が全勢力を以[もっ]てしても、米の八ケ師団にしか対抗出来ぬ状態であるから、若[も]し米が十ケ師団を支那に上陸させたら、到底勝算はないと語つた。梅津がこんな弱音を吐[は]くことは初めてゞあつた。」
 「一方国内の軍需生産がどうかと云[い]うと次の様な貧弱さである、軍需工業の視察特命使として、米内が長谷川[清]大将を派遣した事があるが、[六月十二日の]その視察報告によると、一日五十本の魚雷を作つてゐた工場がたつた一本しか出来ぬ有様、海軍の所用魚雷を是非とも作らうとすれば、陸軍の工場迄[まで]も全部海軍に廻[ま]はさねばならぬと云[い]ふ、かくなつては国は守れぬと私は思つた。
 之[これ]と前后[ぜんご]して鈴木[貫太郎]は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云って来たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤[ごもっと]もたせと云つて帰つた。」
 そして、6月20日、天皇は、東郷外相に、こう言っています。
 「戦争につきては最近参謀総長、軍令部総長及び長谷川大将の報告によると支那及び日本内地の作戦準備が不充分であることが明らかとなったから、なるべく速かにこれを終結せしむることが得策である。されば困難なるこことは考えうるけれど、なるべく速かに戦争を終結することに取運ぶよう希望する……」。(東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』。中公文庫)
 6月22日、天皇は「御前に於ける最高戦争指導会議」の6人を呼びました。その席上、天皇は、最初につぎのように発言しました。
 「六月八日の会議で、あくまで戦争を継続するすると方針を決定したけれども、そのさいいままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についても、すみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを望む。」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 天皇は、どんな気持ちで「講和=降伏」の決断をしたのでしょうか。
 そのことは、天皇が7月25日に側近に語った、つぎの言葉によくあらわれています。
 「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器[さんしゅのじんぎ]も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 三種の神器とは、「天孫降臨」のときに、「天照大神」から授けられたという鏡、剣、玉を指します。
 こうしたデータによると、天皇は、少なくても6月20日には、「講和=降伏」を決断しています。
 これ以降の日本の戦争は、三種の神器を守るための、よりよい「講和=降伏」の条件をつくりあげるためのたたかいだったのでしょうか。 

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コメント

終戦時に端岡国民学校高等科だった祖父から聞いた話では航空機を格納する立派な格納庫などは無かったそうです。むしろただの更地だった…と聞きました。
部隊は北九州の陸軍兵らしいです。
武家屋敷だった旧家が滑走路の建設の為立ち退きになったともいっておりました
あとは兵隊と一緒に薪取りに行った話や上官だけ昼寝していた話、週一程度に低空で飛来する米軍偵察機がおりそのたび作業が中断されるので兵隊さんが喜んでいたことも聞きましたw

投稿: 暇人マツボー | 2015.08.17 02:25

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