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2011.09.03

香川の陸軍飛行場の飛行機は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その12 陸軍高松飛行場の機能~1945年7月 アメリカ軍機が高松市を空襲--陸軍高松飛行場、陸軍屋島飛行場も標的に。 

 7月4日、アメリカ軍のB29爆撃機は、高松―高知―姫路―徳島を夜間に、姫路焼夷弾(しょういだん)攻撃しました。
 テニアンから飛び立った第58航空団は高松に向かいました。
 編成は、12機の案内機、120機の爆撃機、2機の大型飛行艇をふくむ計134機でした(実際に高松上空に達した機数は、案内機をふくめて116機でした)。
 この航空団は、陸軍高松飛行場(Takamatu)、陸軍屋島飛行場(Kirai Airfield)も標的にしていました。( 「アメリカ戦略爆撃調査報告書」・第20航空軍司令部の「第21爆撃隊本部作戦任務報告書」)

 「Kirai Airfield」のKiraiは、帰来。陸軍屋島飛行場のあった帰来(古高松の一部の地名)のことです。

 当時、高松市の高松中学校の生徒だった植田正太郎が、アメリカ軍の資料も調査して「昭和20年7月4日の深夜、空から戦争が降ってきた」という記録を書いています(『高知の戦争 証言と調査 第12号』。戦争遺跡保存ネットワーク高知。64ページ。42-61ページ)。
 「[アメリカ軍第21航空爆撃部隊]第58航空隊は高松、第73航空隊は高知、第313航空隊は姫路、第314航空隊は徳島の各市街地への爆撃に向かった。
 7月3日、日本時間15時23分(米軍時間16時23分)、第313航空隊の姫路攻撃B
29、107機(航路案内機12機を含む)のうち一番機がテニアン北飛行場を離陸した。
 16時45分(米軍時間17時45分)には徳島攻撃の第314航空隊の137機(航路案内機12機を含む)の一番機がグアム島から、17時22分(米軍時間18時22分)には高知攻撃の第73航空隊の129機(航路案内機12機を含む)の一番機がサイパン島から、そして、17時40分(米軍時間18時40分)に高松攻撃へ向かう第58航空隊の128機(航路案内機12機を含む)の一番機がテニアン西飛行場から離陸した。
  この4航空隊の最終となった離陸機は第58航空隊のB 29 でその時刻は19時20分(米軍時間20時20分)であった。
B29爆撃機は夜間無差別焼夷弾攻撃用に銃座などを取り払って爆弾の搭載量を最大限可能になるよう改良していた。そして、搭載される爆弾はAN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾、M69小型油脂焼夷弾、E46―500ポンド集束焼夷弾とAN―M64爆弾であった。
AN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾はナパーム弾で貫徹力が大きく爆発による爆風効果もあり、攻撃一番機は必ず搭載して最初に投下するように命ぜられていた。
  日本の都市家屋爆撃用に特別に開発した正六角形の筒(直径7・62㎝長さ50・8㎝)にゼリー状の油脂を充填したナパーム弾がM69小型油脂焼夷弾である。このM69小型焼夷弾を38本ないし48本をまとめて包束したクラスター爆弾がE46―500ポンド集束焼夷弾である。AN―M64―500ポンド爆弾は通常の破壊力のある爆弾である。
 弾倉を満載した各航空隊のB29は次々と晴れた空へと離陸した。各航空隊には各々
12機の航路案内機が同行した。
  優秀なレーダー操作士が搭乗する航路案内機に先導された各機は、消費する燃料の経済性と安全性を計算しながら慎重に飛行して硫黄島を目指した。
  硫黄島上空に達した各機は、そこで進路を北西にとり大挙して四国を目指し2500㎞に及ぶ延々とした飛行の列を続けた。
  最初に四国に到着したのは姫路を爆撃する第313航空隊の一番機で、徳島県牟岐町上空付近に22時26分(米軍時間23時26分)に到達した。そこから北上して香川県さぬき市志度町小田付近に達してから北東方向へと進路を変えて、小豆島東南端をかすめて飛行し南西方向から姫路に侵入した。
 姫路では22 時50分(米軍時間23時50分)から1時間半を超える空襲が始まった。
姫路を空襲したB29、107機は瀬戸内海の北岸沿いに西へと向かった。そして、児島半島・玉野市付近から向きを変えて南下し、香川県坂出市王越付近の上空を通過して一路徳島県牟岐町上空へと飛行した。そこから四国を離れ硫黄島を目指して飛び去った。一番機は23時14分(米軍時間0時14分)に、最終機は7月4日0時53分(米軍時間1時53分)に四国を退去した。
 (中略)
 高松市街地攻撃の作戦命令をうけていたのは、米軍第58航空隊のB29、128機であった。その一番機が、3日の17時40分(米軍時間18時40分)テニアン西飛行場を離陸し、硫黄島上空を経由して四国の上陸地点としていた高知県足摺岬付近の上空に達したのは4日の1時19分(2時19分)だった。
 彼らはAN―M47A2―100ポンド焼夷爆弾を満載した2大隊と、M69小型焼夷弾を多数内包するE46―500ポンド集束焼夷弾を満載した2大隊で編成されていた。
 最後のB29が3時15分(米軍時間4時15分)、四国に到着、これより先に各機は北上して愛媛県今治市沖、大島付近の上空から進路を東にとり、爆撃態勢の始点とされた香川県詫間(たくま)・荘内半島先端をかすめて、一気に高松上空へと西から侵入してきた。
 1時41分、高松市に空襲警報が発令された。完全な灯火管制下、深閑とした高松の暗い夜空にサイレンの断続49音が不気味に響き渡った。
 徳島、高知ではそのころすでに空襲が始まっていた。徳島は0時24分(米軍時間1時24分)、高知は0時52 分(米軍時間1時52分)に米軍による爆撃は開始されていた。赤々と映りだされた東方の夜空をみて徳島空襲を知った市民の中には、これでもう今日の米軍の空襲は済んだのではないかと思った者もいた。
 1時56分(米軍時間2時56分)、突如として閃光が走った。灯火管制下の漆黒に包まれていた高松市は一瞬、昼間のような明るさに照らし出された。続いて「ドカーン」という大爆発音が響き渡った。それが高松空襲の開始であった。
 米軍はあらかじめ、空襲都市の市街地写真を撮っており、それにもとづき爆弾投下の中心地点を爆撃機に指示していた。高松の中心爆撃地点は丸亀町、南新町の南北商店街通りと国道11号線との交差地点、逸見文房具店付近とされていた。
 攻撃一番機は、この中心地点にAN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾を投下して攻撃用の照明を発生させると同時に、その作戦任務は後続機の爆撃目標とするための火災を発生させることであった。
 当夜、高松上空では北西方向から風速25ノット(12メートル)の風が吹いていた。一番機が高度10000フィート(約3000メートル)から高松の中心地点を狙って投下したAN―M 47 A2―100ポンド油脂焼夷爆弾は、風に流されて少しずれ、目標地点の南東約300メートルの、新瓦町小学校(当時は新瓦町国民学校)に落下した。爆弾投下間隔は100フィート(約30メートル)と設定されていた。東へ向かう飛行経路に沿って爆弾は、現在の栄筋、八坂町の長尾行き電車停留場隣接の倉庫(現在の琴電志度線乗り場の東付近)、さらには、その東の倉敷飛行機工場(現在の高松商業高校)へと投下されて大きな火の手が上がった。
 舞い上がるこの火炎を目当てに、後続機が市街地の南西に位置する通称紫雲山の西の端の上空から続々と侵入し、八幡通りから稲荷山麓、栗林公園の北口付近一帯が爆撃を受けたのである。
 次々と単機で飛来するB29は、地上からの電波探知機を妨害する錫箔(すずはく)片帯を撒いた。
 そして、西から東へ向かう経路をとりつつ、連続して爆撃を続けるという波状攻撃をおこなってきた。
 攻撃軸は紫雲山麓から市街地の中心へと移った。大量の集束焼夷弾が投下された。この焼夷弾は6ポンドのM69小型油脂焼夷弾を38または48発内包したE46―500ポンドの爆弾だった。これは落下途中の高度5000フィート(約1500メートル)で破裂して束が解け、リボンに着火したナパーム弾M69小型油脂焼夷弾がばらばらとなって一斉に落下してくるのである。
 来襲のB29は高度9900フィートないし11100フィート(約3000メートル)の上空から平均40発の焼夷弾を左右の弾倉から50フィート(15メートル余)間隔で投下できるように設定していた。
 焼夷弾が投下されるとヒューという鋭い音がした。続いてパラッと炸裂した集束焼夷弾から多数の小型油脂焼夷弾が、小さい火の玉のようになってザアザーと音を立てて降ってきた。そして、落下地点のここかしこからパツと火の手が上がる。焼夷弾内部のゼリー状の油脂が飛び散って引火したのである。その火がさらに飛び火して、付近の建物が次々と類焼して一面が炎に包まれていった。
 時折ドカーンと大音響がした。500ポンドの通常爆弾が炸裂した音だった。
このような爆撃が1時間半も続けられて3時42分(米軍時間4時42分)に終わったのである。」

 屋島で、七月四日のアメリカ軍の空襲を体験した屋島国民学校一年生男子の手記があります。
 「入学後の[屋島国民]学校で、敵機来襲の『警戒警報』が出ると、防空頭巾を被って地蔵寺東側や屋島登山道沿いの谷間に身を隠し、爆音が近づくと、身をかがめ下向姿勢で頭を抱え息を殺すようにひそめ合ってた。
 学校の授業も程[ほど]なく中止。各地区の集会所へ机・椅子などを運び込み、午前は一年生~四年生、午後は五~高等科二年生による学年混在の分散授業方式になった。
 戦況はいよいよ厳しさを増し、『高松の街も遅かれ早かれ危ないぞ』の風評で不安も高まる六月二十九日未明、対岸の岡山市が[アメリカ軍の]空襲を受けた。その日は、夕暮れ時になっても真っ赤な火炎で西空が暗くならない程であった。
 『高松もいよいよぞ!』の噂は、ますます現実味を帯び、『どこどこの納屋には高松から家財が運ばれてきた』とか、『家財類を運ぶ大八車を借りに来た』という噂が飛び交う様[よう]になった。
 昭和二十年[一九四五年]七月三日、田植えも終えた半夏(はんげ)の猛暑で寝苦しい夜半。十一時頃に警戒警報が出てB29の爆音が十二時頃まで続くも、何故か空襲はなく解除。(中略)
 やっと寝床につき熟睡した七月四日の午前三時前。『空襲や!』の声で叩き起こされ自宅裏の屋島山中へ避難しました。上空は異様な爆音が響き、高松市街のあちこちからは次々と火の手があがり、所々で大きな建物火災をあげて崩れ落ちていくのが見えた。『あれは赤十字病院じゃ…ああ、四国ドッグの寮も』。
 周りで人々の嘆き声の様なつぶやきが聞こえた。そんな中で、高松築港の東側からは高射機銃砲弾が三十発程あがり、上空でしばらく円形状になって点々と輝きを放った後、花火空の様にポッポッと次々に消えていった。
 その時である。エタバイ(現健康ランド)辺からも、タンタンタンと重硬く高い音を立てて、三十発程の火玉が夜空に上がっていった。『高射(機銃)砲や!』。誰かが叫んだ。『全然当たらんな』。上空では砲弾をからかう様に敵機の爆音が鳴り響き続けていた。
 高松と屋島の両方から、何度か砲撃が行われたが敵機を撃ち落とす様な事はなく、上空では爆音と炸裂音が続いた。
 と突然頭上がピカッと異様な光と炸裂音が同時にして、焔の大玉がふんわりと浮き落ちる様に落下してきた。『爆弾や!』。小刻みにガチガチ歯音が鳴り全身の震えが止まらない。大きな焔の玉は火玉状で分散し、ゆっくりと南方向に流れ落ちていった。
 空襲の爆音は、それからも延々と続き、夜もしらむ五時前にやっと消えた。」(『屋島風土記』。屋島風土記編纂委員会。屋島文化協会。2010年3月25日)。
 7月3日、11時ころから12時ころまでのB29の爆音は、姫路、徳島空襲の通過飛行音でした。
 7月4日の空襲時に屋島に落とされた焼夷弾(しょういだん)は、現在地にすると、屋島小学校あたりから、東南方面の浜中集会所周辺を通って東行き山沿いの中筋集落~地蔵寺まで、おおよそ、南北100メートル幅、東西800メートルの地域で投下されました。ほかにも、山上霊巌の旅館、潟元駅西側の家も被災。焼失家屋は、およそ20戸(浜中1、中筋6ほか)でした。

 植田正太郎が、は、この空襲の被害について、つぎのように記していますという記録を書いています(「昭和20年7月4日の深夜、空から戦争が降ってきた」=『高知の戦争 証言と調査 第12号』。42-61ページ)。

 「空襲は西から東に向かっての連続波状攻撃で爆撃標的とされた市街地のほぼ中心部から始まり、おおまかに順次南から北に焼夷弾爆撃が続いた。空襲の初期の段階で
は市民が市街地から郊外に避難できる主要な道路は確保されていた。
 市街地中心部に住む市民の多くは、市役所前の『五番町』道路を東から西へ香東川に架かる郷東橋をめざして避難した。ほかに兵庫町の西端、広場から西へ大的場、西浜港、西浜新町、塩田、郷東橋とつながる『西通町』道路をひしめきあいながら避難した。
 南の郊外、花園、今里、伏石、太田方面にも多数の市民が避難した。空襲が進むにつれて郊外への避難道路も通ることができなくなり、高松港周辺の海岸波止場にやむなく避難した市民もいた。早めに自宅を離れて郊外に避難した人々は無事であったが、不幸にも郊外に避難できず近くの栗林公園北門・稲荷神社付近に避難した人々の頭上に爆弾が降ってきて122人の人命が奪われた。
 自宅の防火を気遣い、市街の町々一帯が火炎に包まれるまで避難しなかった市民は逃げ場を失った。これらの人々にせいぜいできることは自宅の庭に作った防空壕や町内の空き地に作った防空壕などに逃げ込むか、当てどもなく道路に出て逃げ場を求めるしかなかった。
 現在の中央通りと中央病院前の東西へ通じる道路との交差地点である中新町に、比較的大きなコンクリート造りのロータリーが築かれ「中新町のロータリー」といわれていた。その後、空襲に備えて内部の土部分を取り除いて水を張り、大きい防火用貯水槽としていた。四方を火炎に囲まれ噴煙と吹き荒ぶ熱風にさらされて避難場所を失った人々は、このロータリーの水槽になだれを打って入りこんだ。しかし、ますます激しく舞い上がる高温の熱風と噴煙に煽られ、灼熱で貯水は蒸発し、人々は力尽き、息絶えた。中新町での死者は51人とある。
  犠牲者の圧倒的多数は自宅での死者339人、次いで町内での死者241人、道路での死者225人となっている。
  比較的広い空き地の防空壕に避難した人のなかには壕の底に雨水が溜まっていたことが幸いして、その水を使って熱風を堪えることができた人もいた。防空壕に避難して助かった人々は皆、熱風と噴煙で痛めた眼を真っ赤にして涙を流していた。
  (中略)
 米軍は高松にE46―500ポンド集束焼夷弾2317個、463・4トン、AN―M47A2―100ポンド油脂焼夷爆弾10016個、345・4トン、AN―M64―500ポンド通常爆弾97個、24・3トン合計833・1トンの爆弾を投下した。
 この空襲による被害面積は全市街地の約80%に当たる3・85平方キロメートルにおよんだ。建物の被害は18913戸(住宅16418戸)、罹災者は86400人、死者は1359人(ただし、昭和19年末の高松市の人口は114435人内、男53019人、女61416人)であった。わずかに残ったのは、コンクリート造りの建造物だけである。消火活動とあいまって無事だったのは、丸亀町の百十四銀行、内町の警察署、大和生命保険、千代田生命、それに五番町の市役所、県立高等女学校ぐらいである。
 内部は焼失したが建物の構造を遺していたのは、内町の三越、南新町の池田屋、琴電瓦町駅舎、紺屋町の高松信用組合などである。木造建物で唯一焼失をまぬがれて現存しているのは、四番町の法泉寺の山門と鐘楼であった。
  (中略)
 注目すべきは高松市街から東に離れた郊外にも被害が発生したことである。屋島西側の塩田、山麓の集落、山上などに焼夷弾が投下され、戸余の建物が焼失した。
 また木太地域では観光道路沿いの市立第一高等女学校とその前の覚善寺が焼失し、新開地区で5戸、州端すべり地区で3戸の家屋が焼夷弾で罹災した。
 (中略)
 空襲の日から11日たった7月15日に開催された高松市会協議会で鈴木義伸市長は空襲犠牲者について次のように報告している。
 『今日までのところ警察の検死の済んだ分で分かっておりますものが最初の四日には78名、五日には174名、六日157名、七日187名、八日107名、九日37名と九日までで740名、その後十日61名、十一日36名、十二日11名、十三日20名総計一昨日までに868名の死者の検死をされたことになっている。負傷者は救護隊で調査をされた数字は、重傷者316名、軽傷者459名』」。
 倉敷飛行機株式会社高松製作所の牟礼村に建設中だった分散式半地下工場の建設も工事半ばにして、この空襲で高松製作所は全焼しました。
 7月4日の空襲についてのアメリカ軍第21爆撃隊本部のアメリカ軍第20空軍司令官への報告は、「Takamatu」、「Kirai Airfield」については「Non visable」(目に見える損害なし)としています。

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