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2011.09.03

香川県の陸軍飛行部隊は、なぜアメリカ軍を迎撃しなかったのか その5 陸軍高松飛行場の機能~1944年1月から12月まで 建設中から飛行訓練を開始。

   陸軍は、なぜ高松飛行場をつくろうとしたのでしょうか

  陸軍高松飛行場は、香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村にありました(今は、いずれも高松市)です。建設が始まったのは、1944年1月でした。未完成のまま終戦を迎えます。

 陸軍は、なぜ、ここに飛行場をつくろうとしたのでしょうか。
 まず、当時の軍事情勢を見ます。
 1941年12月8日、日本の天皇はアメリカ、イギリスを相手にした大東亜戦争を開始しました(以下、この戦争をアジア太平洋戦争と呼ぶことにします)。
 開戦後五カ月で、日本は、マレー半島、ビルマ(いまはミャンマー)、フィリピン、ジャワ、ニューギニアなど東南アジア全域を占領しました。
 やがて、日本海軍は、反攻を開始したアメリカ軍によって、1942年6月5日~7日のミッドウェー海戦に敗れ、それ以後、敗北と退却を続けました。
 1943年2月1日、日本軍がガダルカナル島から撤退を開始しました。同年5月29日、アッツ島の日本軍が全滅しました。
 そうしたなか、同年9月30日、日本は、御前会議(大日本帝国憲法下の日本で、「陸海軍ヲ統帥」する天皇が出席して重要な国策を決めた会議)を開きます。ここで、「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」が決められました。「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」。東部(マーシャル群島)を除く内南洋すなわちマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾(いまのチェンデラワシ湾)以西のニューギニア以西を範囲とします。
 そうしたなかでの国内での新しい陸軍飛行場づくりの事情について戦後、第1復員局(陸軍軍人についての業務を担当した内閣直属の外局)は、つぎのようにまとめています(『本土航空作戦記録』の「付録第三 本土航空施設の梗概」。1946年12月)。
  「……ガダルカナル撤退以来本土要域の防空強化の必要に迫られ十八年[一九四三年]末以来京浜、阪神、北九州等の防空飛行場着手に十九年[一九四四年]夏頃迄[まで]に概ね防空飛行隊の活動に支障なき態勢を整へたり一方第一戦線場より報せらるる航空戦の様相は内地に於ける無防備なる各航空基地を強化するの急務なるを痛感せしめ軍官民相協力して各飛行場に誘導路掩体[えんたい。飛行機を隠す格納庫]を構築せり」
 「一、 昭和十八年より昭和十九年三月に至る状況昭和十八年に入るや航空要員の急速なる大量養成に着手し之に伴つて従来六十数個なりし内地の飛行場に更に三十個の飛行場を●又は拡張(別紙第一参照)すべく四月頃より之か整備に着手せり
同時期に於ける全般情勢は未た内地の防備を固むる必要なかりしを以て着工せる飛行場も総て教育第一主義とせられたり(別紙第二参照)」
 この文書でも「ガダルカナル撤退」についてふれていますが、ガダルカナル島のたたかいは、1942年8月7日~1943年2月7日、西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島をめぐっての、大日本帝国とアメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスの交戦です。日本は敗北し、戦死者1万6百人、餓死者・戦病死者は1万5千人にのぼりました。
 このたたかいを、戦後、産経新聞主幹だった伊藤正徳は「ガダルカナルは単なる島の名ではない。それは帝国陸軍の墓地の名である。そこで日本は陸戦においてはじめてアメリカに敗けたのであった。しかも、戦争中に生起する多くの戦闘勝敗の事例ではなく、日米両軍は、偶然にもガダルカナル島に『決戦場』を誘発し、六ヵ月にわたる苦闘の後に、日本が戦略的撤退の第一ページを染めたのであった。」と評しています(●『帝国陸軍の最後 2 決戦編』。光人社。1998年3月14日)。 
 その敗戦以降、日本の指導者は、「本土要域の防空強化の必要に迫られ」ます。それまで内地には陸軍の六十数個でしたが、約三十個の飛行場を「防空飛行場」として新設または拡張したのです。新設または拡張の飛行場は「教育第一主義」と位置付けられています。

 この時期の陸軍の航空基地整備状況を第1復員局『本土航空作戦記録』(1946年12月)に見ます。

 以下、「昭和十九年[一九四四年]四月より昭和十九年十月に至(いた)る状況」の項目です。
 「昭和十九年三月頃より米艦隊の活動遂次活発となりしとB―29の内地大規模空襲必至の情勢となりしを以(もっ)て防空飛行隊による防空を強化するの必要に迫られ既に着手せる新設又は拡張飛行場中要地に近き左記飛行場を急速に完成するに勉めたり

 関東地区  印旛、松戸、成増、大島、新島
 中部地区  小牧、清州、佐野、由良、高松
 西部地区  防府、蘆屋、福岡、曽根
本州に於ける防空態勢を強化する一方米軍の本土に対する侵攻作戦も真剣に検討せらるるに至りアリューシャン方面よりの侵攻に備ふへく千島、北海道を中部太平洋方面よりの侵攻に備ふへく台湾を夫々強化するに決し昭和十九年九月を完成目途とし左記の如くにして航空基地群(一乃至三飛行場を有機的に連繋する如く構成するものにして航空要塞とも称す 別紙第二参照)を構成せり
 千島方面  占守島、蕊取
 北海道   計根別、帯広、札幌、浅茅野
 沖縄方面  沖縄島、伊江島、宮古島、石垣島
 台  湾  宣蘭、花蓮港、屏東、嘉義、台中」
 「高松」、高松飛行場も、「防空飛行隊」の飛行場として「急速に完成する」ことがもとめられていました。

 そうしてつくられた飛行場の名が、『本土航空作戦記録』の「付録第三 本土航空施設の梗概」。「別紙第一」に載っています。
 「別紙第一
 
        昭和十八年以降整備せる飛行場(除秘匿飛行場)
 
 新設飛行場
  壬生、水戸北、成増、松山、児玉、前橋、松本、伊那、大島、新島
  富士、小牧、清州、佐野、由良、広島、防府、高松、蘆屋、福岡、
  曽根、万世、上別府、唐瀬原
 拡張飛行場
  油川、印旛、松戸、老津、富山、三国、都城東」

 新設飛行場は、「高松」を含む二十四カ所、拡張飛行場七カ所です。

   四国では初めての陸軍飛行場でした

 高松飛行場の新設は、陸軍にとっては大きな出来事でした。
 四国で初めての陸軍飛行場だったのです。
 それまで、四国に飛行場、航空隊を持っていたのは海軍だけでした。
 つぎのような配置でした。
 【徳島県小松島】 1941年、海軍呉鎮守府の隷下部隊として徳島県小松島に小松島海軍航空隊が設置されました。は海軍飛行予科練習生訓練施設が置かれ、水上機や偵察機の訓練がおこなわれました。44年からは第903海軍航空隊の飛行場となりました。
 【徳島県勝浦郡小松島町】 1942年4月1日、徳島県勝浦郡小松島町に徳島海軍航空隊が開隊しました。茨城県の土浦海軍航空隊から海軍予科練習生丙飛第6期30入隊、第23期飛行練習生として訓練開始しました。
 【愛媛県温泉郡生石村】 1941年、愛媛県温泉郡生石村に海軍呉建築部の下、土木工事を内務省神戸土木出張所、建築工事を錢高組が担当して工事開始。43年10月、第1期工事終了、松山海軍航空基地として使用を開始しました(吉田浜飛行場)。広島湾要塞の防空を担う航空基地でした。(いまは、松山空港になっています)
 【愛媛県温泉郡生石村】 1943年10月1日、愛媛県温泉郡生石村大字北吉田に松山海軍航空隊が開隊しました。海軍予科練習生甲飛第13期、14期の生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊です。
 【高知県香美郡三島村】 帝国海軍は、1939年、高知県香美郡三島村(いまは南国市)に飛行場を建設することを決定。1941年1月23日、このことを発表しました。ここに、3月15日、偵察搭乗員の訓練をおもな任務とする高知海軍航空隊が開隊し、士官160人、兵員360人、機上作業練習機「白菊」(乗員5人)55機が配置されました。1944年3月、高知海軍航空隊が設置されました。この航空隊は、日本海軍航空隊の目的は、偵察員を養成することでした。練習生2000人と一般隊員1000人で構成され、教育隊4ヶ中隊がありました。各中隊が30機の機上作業練習機・白菊を持っていました。白菊は、1944年3月に正式に採用された偵察員に航法、偵察、通信、射撃、爆撃などの実地訓練をおこなう機種です。(いまは、高知龍馬空港になっています)
 【香川県三豊郡詫間(たくま)】 1943年6月1日、香川県三豊郡詫間に詫間海軍航空隊が開隊しました 12機の水上偵察機と48機の練習飛行艇を備えた飛行艇搭乗員の養成施設でした(海岸に滑水スリップが、香川高等専門学校詫間キャンパスに当時の建物の一部が現存しています)。
 【香川県三豊郡柞田村】 帝国海軍は、香川県三豊郡柞田村の農地を収用し、1943年末より飛行場の造成工事を始め、地元住民の勤労奉仕活動によって4ヶ月で完工しました。以後、作戦に適さず放置されていました。
 【高知県幡多郡宿毛町】 高知県幡多郡宿毛町に水上機基地を設置し、1943年4月1日、宿毛海軍航空隊が開隊。連合艦隊の中心部隊である第一艦隊の隷下に置かれました。ミッドウェー海戦の大敗によって不足した航空母艦飛行機隊を補完する水上機の増強を図るため、水上戦闘機、水上偵察機補充要員養成航空隊として発足。定数は水上戦闘機12機、水上偵察機12機。1944年1月1日、実戦部隊に転換、第453海軍航空隊に改称。佐世保鎮守府部隊に編入。指宿基地に移り、九州南方・西方●の対潜哨戒に従事しました。

   陸軍高松飛行場の建設は、こうしておこなわれました

 陸軍高松飛行場(陸軍林飛行場ともいいます)の建設は、住民の犠牲と県民、朝鮮人らの労働によってなされました。

 この飛行場の予定地は、香川県木太郡林村、川島村、三谷村、多肥村の270ヘクタールでした。林村の移転対象は、林村600戸のうち275戸で、面積は180ヘクタールにおよびました。12の神社や寺も対象になっていました。
 林村の関係の経過は、高松市役所内林村史編集委員会(1958年):『林村史』(376頁。120頁-149頁)。以下、その内容を借りて、記述します。
 1944年1月23日午後1時、陸軍省航空本部の係官が、香川県庁から林村役場の三宅村長に、陸軍高松飛行場建設のことを電話で告げました。
 やがて、陸軍省嘱託・山田東男ほか一人が役場にやってきて、ことの次第があきらかになりました。
 1月28日、林国民学校の講堂に関係者全員が集められ、軍の責任者・村田大尉が、飛行場をつくるから立ち退きを了承してもらいたい旨、通達がありました。
 出席者400人のうちだれ一人として反対するものはいませんでした。
 農会会長・真鍋亀太郎が立って「戦争に勝つために、われわれは血涙をのんで軍の要請に応じよう。しかし、移転先もなく、一時に、この大事業についてできうるかぎりの、あらゆる援助をしてもらわなければ、できがたい」との発言がありました。
 これにたいして「移転補償、資材の配給などについて、軍県ともできうるかぎりの協力をする」確約がありました。
 その日のうちに承諾書の調印がなされました。
 「戦争は残酷にして非情である。多くの若者は、召集され今また家族もろとも、宛[あて]なき立退きに泣く身に、旧正二日の風は冷たく、燈火管制の火は更(さら)に心を暗くする。茫然自失[ぼうぜんじしつ]とは正[まさ]に当時の村民の姿であろう。旧正というに誰一人、新年の挨拶をするものもない。」(122頁)
 2月1日、小菅芳次県知事が阪本経済部長ほかを連れて林村をおとずれ、関係者一同に「犠牲になる諸君には、まことに気の毒であるが、国の状況やむおえないから、どうか国家の要請に応ぜられたい」とあいさつしました。
 阪本経済部長は、必要な物資は県においてできるかぎり、斡旋することを約束しました。
 林村では立退の対象になっている所から移転が課題になっていました。
 村役場では、関係各部落常会長をもって緊急対策委員会を結成し、ことにあたりました。
 土地の買収価格は、当局と交渉の結果、普通上田一反歩を1440円としました。このうちには700円の甘土料(耕作権)をふくんでいました。
 移転先については、軍は考慮せず、ぜんぶ立退者みずから、立退の発表と同時に移転先を探しまわりました。
 陸軍高松飛行場の建設予定地からの住民の移転には多くの物資と人力が必要でした。
 2月から3月にかけて、現物支給の柱、板、セメント、釘などがどんどん林村に送り込まれました。林村は、信用組合の東側の土地を借入れ、それらを積み上げました。
 3月に入ると移転が本格的になり、林村は、8日から、高松市そのほかの各町村に連絡し、毎日5、600人の勤労奉仕を受けました。
 勤労奉仕の人たちは、朝々、農業会に集合、村長からお礼のあいさつのあと、各部落世話係が各戸へ案内しました。
 最初は近い町村でしたが、最後には、県下大川三豊のほうからも受けました。
 荷車は、来る日も来る日も一列行進を続けました。
 春、陸軍高松飛行場建設に直接たずさわる技術者請負業者・高野組は、事務所、飯場を正大寺の東側に設けました。
 軍は、事務所を、その南側につくりました。
 建設予定地には高野組の関係者、事務所関係者などが来て、測量を始めたりしました。
 第1期工事は、東西方向の800メートルの滑走路をつくることになりました。
 4月中旬には、この方面の家屋は、ぜんぶ立退が完了しました。
 麦は、だいぶ成長して大きくなっていましたが、そのまま地ならしが始められました。
 林村の人たちの村外の移転先は、多肥町、木太町、太田町、伏石町、松縄町、楠上町、今里町、南瓦町、花園町、内町、松島町、福岡町、三条町、古高松町、十河村、川島町、三谷村、仏生山町、浅野村、川岡村、川添村、庵治村、氷上村、昭和村、円座村、池西村、上笠居村、川東村、陶村でした。
 最後に約50戸の移転先が決定せず、林村内の移転しない地区で8反歩以上の耕作者に呼びかけ、宅地の供出をお願いし、ようやく完了しました。
 岩田神社、拝師神社は、六条鹿島神社に合祀(ごうし)することになり、3月20日、ご神体を、六条鹿島神社に移しました(後日、3神を合祀して社名を三宮神社としました)。
 場内の仁池、池台池の2つがつぶされました(池台池は一部が残りました)。
 区域内に川向、上青木、高須、一角などの墓地がありました。その移転については、長池墓地に隣接して用地を買い入れて、そこに移転しました。戦死者の墓地をその一角につくり、各位置は抽選で定めました。
 林村役場、林村農業会は最後になりました。物価高騰のため、移転補償費を大幅に上回る移転費を要しました。
 地区内に多数の塚がありました。それは、西のほうが高いため、崩して平坦にするため、東のほうへ運びました。
 このときの、木太郡多肥村の様子を多肥郷土史編集委員会(1982年):『多肥郷土史』(多肥郷土史編集委員会。648頁。444頁-447頁)が伝えています。
 陸軍高松飛行場建設のために、多肥村の東部の民家7軒(乃生吉太郎、川田茂、桜井綾雄、新居喜惣次、川田利太郎、十河一夫、岡庄一)が同村内の他地域移転しました。
 林村で民家を失った34戸の農家が多肥地区に移転してきました。
 「多肥の桜木神社は、飛行場に近いため、森の中の大木の大部分、風致のよい松二十本、楠や樅も伐採されることになり、この伐採が昭和十九年[一九四四年]の五月から始められ、松の木は松根油(しょうこんゆ)を採取するといって、その大木の根元深くまで掘り取られてしまった。
 天満天神の境内にも大木の松があったが、飛行にも支障があるという理由で切り取られてしまった……」
 下多肥には、倉敷飛行機製作所の格納庫もでき、そこから急設の道路がつけられました。

 勤労奉仕も立退作業から建設のほうに動員されました。
 以下、『林村史』の記述です。
 一般人以外に、学生、生徒が動員されました。
 軍隊や囚人、牛馬車なども多数遠方から動員されました。
 1日1000人が就労したこともあります。
 3月18日から4月30日までに、高松市民だけでも、のべ1万6132人の奉仕作業がおこなわれています。
 しかし、手押車とトロッコが最上で、ほとんど人力に依存したので、なかなか工事は進みませんでした。
 このころ、『高松市公報』の4月5日号に、陸軍高松飛行場づくりのための「高松市勤労奉仕隊応急動員要旨」が掲載されました。陸軍高松飛行場とはいわず、「林村」の「重要軍事施設建設」としています。以下の内容です(カタカナは、ひらがなにしました)。
 「今般、近郊林村に重要軍事施設建設のため、相当戸数民家の移転を要し目下着々進行中にして、讃岐地方事務所ノ斡旋により、近隣各町村より勤労奉仕隊を繰出し応援中なるも、尚(なお)手不足にして一日も速に移転を完了して、軍事施設に寄与せんとする村民の愛国の至情は遂に同村長を通じて、本市勤労奉仕隊の出動を懇請せらるるに至れり、高松勤労奉仕隊結成以来、苦節一年の体験は今日あるを予期して練成せられたるものなる事は結成の趣旨に徹して明にして、吾人は勇躍最大能力を発揮して、近隣救援の尊き責務達成と、緊迫せる時局下一日も速なる軍事施設の完成に寄与せんが為、其(その)全機能を応急動員して本隊本来の使命を達成せんとす、是(これ)が為其必要の充足さるる迄(まで)、御殿山貯水池の作業を中止し全力を林村救援に傾注せんとす、希くは市民各位の熱烈なる御賛同御協力を賜(たまわ)らんことを
 動員要領
 (1) 人員 各町内会戸数の四分の一に応ずる人員(例へば一〇〇戸の町内会は二五名)。
 (2) 出動人員の構成
 男女別 可成男子を以て構成し、止むを得ざる場合に限り女子を以て之(これ)を補う。
 (3) 出勤日 別表の通り(略)
 当日雨天の際は出動中止とし、改め変更日は急報す。
 (4) 集合時間・場所及作業終了時刻
 午前七時半迄に林村産業組合に到着整列を終る。
 作業開始午前八時の予定、作業終了午後四時の予定。
 (5) 服装
 作業は概ね家屋取壊し、資材運搬其他整地作業等に付、之を考慮の上軽装を可とし、履物は可成草履・地下足袋を用い素足は危険なり、器具器材は携行を要せず。
 (6) 其他
 (イ) 弁当一食分(湯呑共)携行のこと。
 湯茶は現地に準備あり。
 (ロ) 集団徒歩とし交通費は支給せず。但(ただ)し瓦町―太田間の電車を利用し得る者に対しては、往路に限り乗車の便を計る。(自転車所有者は精々之を利用すること)
 (ハ) 現地迄の往路は当日の結成隊長の引率を以てす。
 出発前の集合時間は其の都度連絡す。
 (ニ) 復路は町会会長の指示により自由とす。
 (ホ) 軍事重要生産部面の勤務員、其他、其日其の時を失しては戦力を阻害し、又(また)は取り返しのつかざる処の業務に従事する者及び病人・病弱者・妊産婦・乳幼児あるもの等は之を避くること。
 注意事項
 (1) 移転を要する林村村民の心中を推察し、苟しくも村民の感情を害するが如き言動を厳に之を戒め、同情の誠意を披歴して奉仕をすること。
 (2) 混雑の最中なるに付、食事其他接待は一般に辞退しあるに付、徹底せしめられ度。
 (3) 奉仕作業を機縁として爾後物品の授受を企図する者あるやに仄聞[そくぶん]するに付、今後かかる事なき様せられ度。」
 8月30日、長尾町長が部落会長に、「林飛行場勤労要員出動ノ件」という文書を出しています。(香川県(1988年):『香川県 第十二巻 資料編 近代・現代史料Ⅱ』。香川県。1181頁。857頁-858頁)

 これは、町からは、これまで毎日10人宛て出動中ですが、きょう軍部から変更して毎日80人の出動を命令されました、貴部落から男子3人(やむおえなければうち1人は女子でも可)を出動させてくださいという内容でした。

 出動は9月1日から10月末まで。出動は軍部がトラックで送迎します。手当はありません。ショベル、ツルハシ、大手鍬(くわ)、ハジョレンのうち1つを携帯してください。晴雨にかかわらず出動してください。年齢は16歳から60歳まで(女子は、16歳から50歳まで)。出動員は、毎朝午前6時、町役場に集合してくださいなど、こまかく決めていました。

 高松市屋島町西潟元濱中に住んでいた青木正彦さんが、自書で高松飛行場づくりへの動員の体験を書いています(青木正彦:(2003年)『私の戦場 回顧録』。●頁。●頁-●頁)。
 「昭和十九年[一九四四年]一月、陸軍の飛行場が林村に設置される事が決定され、早急に工事に取り掛かった。飛行場になる土地の上にある家屋の取壊しに、近辺の各町内会からは、勤労奉仕に男も女も駆り出され、腰に弁当持参で、しかも歩いて出かけて行った。春日川の堤防を、寒風吹く二月、三月頃、防空頭きんをかぶっての出動、そして飛行場での土の運搬、地均し等、すべて人力で行った。二百七十五町歩、林村の四十六パーセントにあたっていたという。
 一般の勤労奉仕隊の外に、中学生(旧制中学)、囚人、朝鮮人等が作業に従事させられ、何の機械力も無い、牛車、猫車、リアカー、手押車等で毎日勤労奉仕が続き、その年八月には飛行場が完成し、陸軍の飛行場が発着するようになった。
 私も何度か浜中町内会の勤労奉仕隊に加わり、早朝暗がりの中を、一時間余りもかかって歩いて行き、一日中泥押しに参加し、帰りは六条の喜岡さんの家へ寄り、いろいろ食糧を貰って帰った。この頃から既に日本は食糧不足になり、配給制で、いつも腹八分目で辛抱し、ぞうすい、おかゆでやっと満腹感を味わっていた。不平、不足を言っても仕方ない時代であった。しかし勤労奉仕の帰りに喜岡の家でご馳走になった米の飯は実にうまかった。こちらからも時々塩田のお塩を持って行ってあげた。」

 香川県立坂出工業学校の生徒も動員されました。10月28日から17日間に2年生の非農家出身者51人が、12月21日から翌年1月31日まで2年生が動員されています。(五十周年記念誌編集委員会(1987年):『創立五十周年記念誌』。香川県立坂出工業高等学校長・十河正己。277頁。)。

 青木正彦さんの文章にあるとおり、朝鮮から連行された朝鮮人も、飛行場づくりに使役されています。
 近藤好太郎さんが、そのことを証言しています(浄土卓也(1992年):『朝鮮人の強制連行と徴用』。社会評論社。●頁。●頁-●頁)。
 1944年7月ころ、280人(17、8歳から50歳まで)が朝鮮から連行されてきた。彼らは日本語を話すことができず、香川県在住の朝鮮人が通訳していた。
 彼らに政府支給のドンゴロス(イモなどを入れるワラ状のもの)が与えられた。
 加高班、始竜班に分けられた。
彼らは、仏生山にあった元競馬場の一角に収容された。ここは競馬場の施設を、そのまま使用していた。板の間にゴザが敷かれ、敷布団と掛布団を一枚与えられた。道路が真ん中らあり、その通路の方に双方から足が投げ出される形で就寝した。
 食事は、米が三分、麦が七分。おかずはナノハの漬物が主だった。トウガラシは愛知県から購入してきていた。
 彼らは、出発前、1人ひとりの胸にぬいつけてある班名と番号で点呼を受けた。馬券売場だった窓口から、毎日、バット6本をもらい、飛行場に向かった。
 約6キロの道のりを往復した。
 弁当は、トラックで飛行場に運んだ。
 彼らは、もっぱら整地作業に従事させられた。
 宿舎と作業場の監視は、日本人では元警官の人を隊長に3人でやっていた。
 彼らは、44年末に山口県の岩国飛行場に移された。

   9月には高松分飛行場がおかれました

 1944年6月20日、三重県の明野陸軍飛行学校は、明野教導飛行師団に改編されました。同飛行師団の師団長は、青木武三少将、第一飛行隊(戦闘)、第四飛行隊(戦闘)、整備隊を持っていました。明野教導飛行師団などを統括する教導航空軍司令部も同年8月8日に創設されました(外山操、森松俊夫編(1983年):『帝国陸軍編成総覧 第二巻 近代日本軍事組織・人事資料総覧』。芙蓉書房出版。●頁-●頁)。
 この明野教導飛行師団の一部が建築途上の陸軍高松飛行場に配備されました。
 「 [一九四四年]九月には明野教導飛行師団(旧明野飛行学校)高松分飛行場がおかれ、……」(四国新聞社(1975年):『昭和五十年史 上巻 香川・激動の二十年』(四国新聞社。●頁-●頁)。
 この部隊は「明野陸軍航空部隊」、または「明野陸軍飛行部隊」といいました。(9月14日の高松国民勤労署長名の「航空部隊陸軍々属募集ニ関スル件」に、それらの名称が出てきます=香川県(1988年):『香川県 第十二巻 資料編 近代・現代史料Ⅱ』。858頁-859頁))

 「十月には、明野から陸士[陸軍士官学校]57期・少年飛行兵13期の搭乗兵約百人と、ビルマ留学生十人が到着して、明野飛行部隊高松隊(隊長森下清次郎少佐)が開隊し、戦闘機による射撃訓練を開始した。
 (中略)
 ビルマ留学生はエモン、エーハライ、タウンダン、チッキン、オーミヤ、ニャンモン、テンモン、ソーライ、チューソ、トンタンたちで、木太国民学校東の『えびす庵』に宿泊して、訓練にはげんだ。」(高松空襲戦災誌編集室(1985年):『高松空襲戦災誌』。65頁-66頁)。

 高松市の高松中学校の2年生だった水原良昌さん(当時・高松市花園町在住)は、陸軍高松飛行場づくりのために1944年9月から動員されていました。その水原さんが、動員先での見聞を書いています(「林ノ飛行場外史抄」=香川県医師会(1988年):『香川県医師会誌』159号。●頁。24頁)。
 水原さんは、ここでトンボ草履をはいて土方仕事をしました。彼の作業は、スコップとツルハシで土砂を運んだり、トロッコで土砂を運んだり、トラックに乗って郷東川へ石を採集に行ったりといったことでした。
 「……飛行場には田圃の名残りや池、竹藪の繁った川、そして塚や窪みがあちらこちらに残っていて滑走路らしい姿はまだ生まれていなかった。そんな九月の飛行場は青い空と砂ぼこりの中で照りつける太陽が無闇と暑かった。二輪の手押し車で砂ぼこりの中を、土を運ぶ道程が長く暑く苦しくて、どこまで行ったら車が軽くなるのやらと、夢みる想いで土の重さがうらめしかった。喉が乾いても、時々手桶で運ばれて来る湯を、竹で輪切りにした杓(しゃく)で順番待ちして一ぱい飲むのがやっとであった。」
 建設中の高松飛行場に、時々、不時着機が着地したといいます。
 「……秋の半ばには、時々不時着機が舞い降りるようになっていた。滑走路の端には、まだトロッコの線路が横切っていて、不時着機が着地して滑走するのを見ながら『止マレ、止マレ』『ソッチヘ行ッタラヒックリカエルゾ』と心配する声援もむなしく、線路にひっかかって飛行機が逆立ちする光景が何回かあった。」
 陸軍高松飛行場にいた兵隊の記録があります。
 檜與平(1995年):『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』。光人社。510頁)です。
 檜大尉は、1944年11月27日午後、高松飛行場の陸軍明野教導飛行師団の「高松分校」に教官として着任します。
 赴任のため単座の九七式戦闘機で高松飛行場に差しかかりました。
 「高松郊外の林飛行場[高松飛行場]が、山麓にくっきりと真四角に見えてきた。高度を下げた。
 飛行場は、まだ拡張工事中で、たくさんの人がはたらいていた。二、三日前の雨水が、あちこちにたまっている。(中略)
 高度をぐっと下げた。十メートル、五メートル。よく見ると、着陸可能の地帯へ赤旗を列へ立てて標示してあった。」
 檜教官への生徒は、50人近くの陸軍士官学校55期生で、地上部隊から転科してきた少尉たちと、10人近くのビルマからの留学生たちでした。
 ここで、川田少佐が飛行場の責任者をつとめ、檜大尉が操縦教育の責任者となり、戦闘訓練をやりました。
  水原さんは、前出の文章で「(木枯らしが吹きさらすころには)滑走路も次第に整備されて、九七式戦闘機と陸上攻撃機を中心とした航空隊がやって来てきた。学徒出身の学生出身者で編成されていて、教官の中には加藤隼戦闘隊の撃墜王として新聞で馴染みになっていた綾上出身の穴吹軍曹が曹長になって来ていた。赤白い顔色でやゝ小柄のがしっとした体格の人であった。(中略)
 空では教官機が引っ張る長い吹き流しを目がけて、急降下して突っ込む練習の繰り返しが毎日毎日続き、それを地上から時々眺めながらの土方作業が毎日毎日続いた。
 不時着機の種類も多くなった。零戦・彗星・一式陸攻・天山・鍾馗(しょうき)・飛燕・月光・新司偵・ダグラスDC3型等々、いずれも技術の先端を行く冷徹な美しい姿をしていた。」
 12月半ばになって射撃演習を始めました。

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