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2011.09.20

【エッセイ】 天皇の「講和=降伏」の決断が一九四五年六月であるのなら……。 

 1945年6月は、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の戦争指導部の戦争戦略が激変した時期でした。

 6月8日に「御前に於ける最高戦争指導会議」がありました。
 天皇のほか、豊田副武・軍令部総長、河辺虎四郎・参謀次長(満州に出張中の梅津 美治郎・参謀総長の代理)、平沼騏一郎・枢密院議長らが出席しました。
 会議の結論は、戦争継続ということになりました。
 翌6月9日第86臨時議会が開催され、天皇が貴族院議員、衆議院議員全員に向けて「勅語」を発します。

 それは、「世界ノ大局急変シ」とドイツの無条件降伏[5月7日]を言い、「敵ノ侵寇亦[また]倍〃猖獗[しょうけつ。はげしくあばれる]ヲ極ム。」とアメリカ軍の空襲のひどさをうたいながら「正[まさ]ニ敵国ノ非望ヲ粉砕シテ制戦ノ目的ヲ達成シ以[もっ]テ国体ノ精華ヲ発揮スヘキ秋ナリ」としています。

 議会は「義勇兵役法」を議決し、9月12日に閉会します。

 この法律(6月22日に公布され、即日施行)は、17歳以上40歳以下の女子のすべてをふくめ国民義勇戦闘隊をつくり上陸してきた敵とたたかうことを決めたものでした。

 「第一条 大東亜戦争ニ際シ帝国臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス
 2 本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト称ス
 3 本法ハ兵役法ノ適用ヲ妨グルコトナシ
 第二条 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齢十五年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齢六十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)、女子ニ在リテハ年齢十七年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齢四十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者之ニ服ス
 2 前項ニ規定スル服役ノ期間ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ必要ニ応ジ之ヲ変更スルコトヲ得
 第三条 前条ニ掲グル者ヲ除クノ外義勇兵役ニ服スルコトヲ志願スル者ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ義勇兵ニ採用スルコトヲ得
 2 前項ノ規定ニ係ル義勇兵ノ服役ニ関シテハ勅令ノ定ムル所ニ依ル
 第四条 六年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者ハ義勇兵役ニ服スルコトヲ得ズ但シ刑ノ執行ヲ終リ又ハ執行ヲ受クルコトナキニ至リタル者ニシテ勅令ヲ以テ定ムルモノハ此ノ限ニ在ラズ
 第五条 義勇兵ハ必要ニ応ジ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ国民義勇戦闘隊ニ編入ス
 2 本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト称ス
 第六条 義勇兵役ニ関シ必要ナル調査及届出ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依ル
 第七条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス
 2 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ処ス
 第八条 前条ノ規定ハ何人ヲ問ハズ帝国外ニ於テ其ノ罪ヲ犯シタル者ニモ亦之ヲ適用ス
 第九条 国家総動員法第四条但書中兵役法トアルハ義勇兵役法ヲ含ムモノトス

  附 則

 本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス」

 しかし、6月9日の「勅語」の直後から天皇自身の気持ちが変化していきます。

 そのことを、天皇が語っています。(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。429頁。115-128頁)
 「梅津[美治郎・参謀総長]は会議の翌日[六月九日]満州から帰つて来たが、その報告に依[よ]れば、支那[中国のこと]にある我が全勢力を以[もっ]てしても、米の八ケ師団にしか対抗出来ぬ状態であるから、若[も]し米が十ケ師団を支那に上陸させたら、到底勝算はないと語つた。梅津がこんな弱音を吐[は]くことは初めてゞあつた。」
 「一方国内の軍需生産がどうかと云[い]うと次の様な貧弱さである、軍需工業の視察特命使として、米内が長谷川[清]大将を派遣した事があるが、[六月十二日の]その視察報告によると、一日五十本の魚雷を作つてゐた工場がたつた一本しか出来ぬ有様、海軍の所用魚雷を是非とも作らうとすれば、陸軍の工場迄[まで]も全部海軍に廻[ま]はさねばならぬと云[い]ふ、かくなつては国は守れぬと私は思つた。
 之[これ]と前后[ぜんご]して鈴木[貫太郎]は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云って来たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤[ごもっと]もたせと云つて帰つた。」
 そして、6月20日、天皇は、東郷外相に、こう言っています。
 「戦争につきては最近参謀総長、軍令部総長及び長谷川大将の報告によると支那及び日本内地の作戦準備が不充分であることが明らかとなったから、なるべく速かにこれを終結せしむることが得策である。されば困難なるこことは考えうるけれど、なるべく速かに戦争を終結することに取運ぶよう希望する……」。(東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』。中公文庫)
 6月22日、天皇は「御前に於ける最高戦争指導会議」の6人を呼びました。その席上、天皇は、最初につぎのように発言しました。
 「六月八日の会議で、あくまで戦争を継続するすると方針を決定したけれども、そのさいいままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についても、すみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを望む。」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 天皇は、どんな気持ちで「講和=降伏」の決断をしたのでしょうか。
 そのことは、天皇が7月25日に側近に語った、つぎの言葉によくあらわれています。
 「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器[さんしゅのじんぎ]も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー(1991年):『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』。115-128頁)
 三種の神器とは、「天孫降臨」のときに、「天照大神」から授けられたという鏡、剣、玉を指します。

 こうしたデータによると、天皇は、少なくても6月20日ころには、「講和=降伏」を決断しています。
 これ以降の日本の戦争は、三種の神器を守るための、よりよい「講和=降伏」の条件をつくりあげるためのたたかいだったのでしょうか。 
 たとえば、私たちの街、高知、高松へのアメリカ軍の空襲は、天皇の「講和=降伏」の決断の後でした。
 広島や長崎へのアメリカ軍の原爆投下も、そうです。

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