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2011.10.22

【資料集】倉敷航空化工株式会社、倉敷飛行機株式会社(高松、坂出)の木製飛行機づくり。

 ○ 倉敷紡績株式会社社史編纂委員『回顧六十五年』(倉敷紡績株式会社。一九三五年) 

 倉敷紡績の航空機製造の経緯。

 ・ 一九四三年一月、航空機部を新設。航空機部長に原田昌平を任命。三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として、つぎの事業計画に着手しました。
 三菱水島製作所で製作する海軍陸上攻撃機の翼類一式を製作するものとし、単一金属部品は、三菱から供給をうけ、板金作業と、その後の集成、組立作業をする。
 工場は、萬壽工場、倉敷工場をあてました。
 同年八月一日、萬壽工場の名を航空機部萬壽製作所と改称しました。
 ・ 同年末、傍系事業として、東京飛行機株式会社の経営援助に乗り出しました。
 ・ 同年十二月四日、倉敷紡績高松工場が、東京飛行機株式会社高松製作所になりました。
 ・ 一九四四年二月、社名を倉敷工業株式会社と改称すると同時に、工場名も萬壽航空機製作所と改めました。
 ・ 同年六月一日、倉敷工場を萬壽航空機製作所第二工場と定めました。プレス類などの機械設備を整備し、動員学徒を受け入れ、短期養成のあと、十月から鈑金に鈑取り、鈑金部品製作の本格操業に入りました。
 ・ 同年十月、会社名を倉敷飛行機株式会社と改称しました。倉敷紡績から、高松工場、坂出工場を貸与しました。
 ・ 一九四五年はじめ、倉敷紡績坂出工場は、倉敷飛行機株式会社坂出製作所として木工部品の生産をおこないました。
 ・ 同年一月以後、三菱製作所は紫電戦闘機の製作に着手するようになりました。三菱製作所は、萬壽航空機製作所を、その主翼の生産にあててきました。
 ・ 同年三月、軍需省は、高松製作所の工場疎開を指令しました。そこで、疎開地として香川県牟礼村を選定し、ここに分散式半地下の建設に着手しました。
 ・ 同年四月八日、萬壽航空機製作所は、紫電戦闘機の主翼の生産のため早島工場を萬壽航空機製作所第三工場としました。
 ・ 同年七月四日、アメリカ軍の空襲で、高松飛行場は全焼しました。

 同書の「わが社の事業概要(昭和二十年四月現在)」につぎのような記載があります。
 「三、 航 空 機 部
 萬壽航空機製作所 (萬壽、倉敷、早島各工場)
 鈑金加工、翼関係組立
 四、 航 空 機 部
 廣島、玉島、木曾川 各製造所
  航空機用オイルポンプ 及び 機械部品製造」
 「八、 傍 系 事 業
 倉敷航空化工株式会社 (木製飛行機、プロペラ、航空薬品、人絹、スフの製造)
 倉敷飛行機株式会社 (高松、坂出工場貸与、 木製飛行機の製造)
 ……」
 

 ○ 株式会社クラレのホームページ

 1926(大正15)年
 「倉敷絹織(株)」創立(社長 大原孫三郎)
 1928(昭和3)年
 レーヨン長繊維(糸)事業化
 倉敷でレーヨン糸生産開始
 1933(昭和8)年
 新居浜でレーヨン糸 生産開始(1942生産停止、1943大日本麦酒(株)に譲渡)
東京、大阪株式取引所に上場
 1936(昭和11)年 
 西条、岡山でレーヨン糸 生産開始
 1937(昭和12)年
 レーヨン短繊維(綿)事業化(西条)
 1938(昭和13)年
 レーヨン設備能力が戦前ピークに達する
 1939(昭和14)年
 倉敷工場 地鎮祭
 社長に大原總一郎が就任
 京都帝国大学 桜田教授の研究グループがポリビニルアルコール繊維を開発。「合成一号」と称する
 1940(昭和15)年
 ポリビニルアルコール、同繊維の製造試験設備 設置(岡山)
 中国産業[現 クラレケミカル]設立
 1943(昭和18)年
 角一ゴム[現 クラレプラスチックス]に資本参加
 社名を「倉敷航空化工(株)」に変更[一九四三年]
 終戦まで西条工場を除いて合板と木製飛行機を生産
 1945(昭和20)年
 終戦により軍需生産中止
 社名を「倉敷絹織(株)」に復帰

 ○ ホームページ「日本海軍機史」の「練習機 幻の翼」

   練習機「東海・改」

 昭和19年当時、陸上攻撃機の生産は「銀河」一種に決定されていた
が、その操縦員の養成には、単発練習機での過程を終えただけで双発
の「銀河」に移行するには無理があり、哨戒機「東海」を並列操縦式
に改造した機体(Q1W1-K)を応急的に使用していた。この頃から海軍
では軍用機の木製化が本格的になり、九州飛行機に対して「東海」を
基礎とした全木製双発練習機の試作指示が出された。
 本機は九州飛行機で設計を行い、生産は倉敷航空化工がうけもつこ
とになり、木製構造の試験研究も進んで見通しも明るかったが、強度
試験段階まできたとき終戦となったため、実機の完成は見ることが出
来なかった。しかし、軍用機の木製化計画では最も初期に着手された
機体であり、後に続く木製化計画に多くの資料を残した。

  陸上哨戒機「東海」(Q1W1~2)

 陸上を基地とする対潜水艦哨戒機として唯一のもので、電探を装備
し、戦争末期に本土近海の哨戒に当たった。しかし使用期間は短く、
また、すでに制空権を奪われた戦域での行動範囲は限られ、新機種と
注目されながらも、好機に恵まれず一般にはあまり知られずに終わっ
てしまった。

 ◎ 製作所
  九州飛行機      生産機数 153機

 備 考  陸上爆撃機「銀河」の搭乗員養成のため「東海」を並列複操縦
     式に改造した(Q1W1-K)が作られたが、機首側面に張り出しが設
     けられているのが相違点で九州飛行機で少数機生産された。また
     本機を全木製化する計画があり、設計は九州飛行機で試作は倉敷
     航空化学が行う予定であったが、強度試験の途中で終戦になった。

 ○ ウィキペディア 九州飛行機

 九州飛行機(きゅうしゅうひこうき)は第二次世界大戦中にあった日本の航空機メーカーである。他社が設計した軍用機の生産が主であったが、エンテ型飛行機の試作戦闘機「震電」を製作した。

 福岡市の渡邊鉄工所(現・ 渡辺鉄工株式会社)が1935年(昭和10年)より飛行機の製造を開始。1943年に航空機製造部門を分離し九州飛行機を設立、渡邊鉄工所は九州兵器に改名した。
 雑餉隈工場は現在の南福岡駅から陸上自衛隊福岡駐屯地周辺に約12万坪の敷地を要し、零式水上偵察機約1,200機など16種の機体を製造した。
 工場では社員以外にも勤労学徒や女子挺身隊の人々が昼夜を徹して交代勤務で生産に従事した。
 終戦直後、工場は米軍に接収され1945年(昭和20年)12月時点で約1,500名の米兵が駐屯した。

 機体リスト

 九六式小型水上偵察機(E9W)
 十八試局地戦闘機「震電」(J7W)
 二式陸上基本練習機「紅葉」(K9W)
 二式陸上中間練習機(K10W)
 機上作業練習機「白菊」(K11W)
 陸上哨戒機「東海」(Q1W)

 参考文献

 渡辺 洋二『異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録』文藝春秋社 2000年 ISBN 13 978-4167249090
 川口勝彦・首藤卓茂『福岡の戦争遺跡を歩く』 海鳥社 2010年 ISBN 978-4-87415-786-2

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