« 小説 父の左胸の鉄砲の弾 | トップページ | 記録 国民学校の音楽の時間 総集編 »

2012.03.07

高知市 元松山海軍航空隊飛行練習生の平和への思い。

高知市 元松山海軍航空隊飛行練習生の平和への思い。
◎ 憲法インタビュー/高知市の「介良九条の会」事務局竹村昭三さん(78)/裏山は戦場だった

 高知市の「介良(けら)九条の会」事務局担当の竹村昭三さん(78)は、戦争中、海軍の飛行練習生として飛行訓練をしていました。高知県退職教職員協議会の会長もつとめる竹村さんの日本国憲法9条への思いを聞きました。
 (藤原義一)

 自民党、公明党、民主党が戦争は絶対やらないと決めた憲法九条をなくそう、アメリカのいいなりに海外で戦争できるようにしようとしているいま、私は「ここも戦場だった」と地域の戦争の実際も示して戦争の恐ろしさを伝えていきたいと思っています。

   山は壕だらけ

 生まれたのも今の介良の家です。
 松山海軍航空隊の飛行練習生でした。復員したのが一九四五年八月三十一日でした。
 家の南の鉢伏山(はちぶせやま。標高二一二・九㍍)にはふもとから頂上近くまで横穴の壕(ごう)が掘られていました。山を切り開き、田んぼをつぶして物資を運ぶ広い道がついていました。
 本土決戦に備えて四五年四月から、高知市から春野町にかけて陸軍の約二万人の兵が展開していました。その錦兵団(第一一師団)の司令部が、この山のふもとにありました。たくさんの農家に兵隊が住んでいたといいます。
 この山の頂上からは南に太平洋を望めます。
 同年八月十五日の終戦がもっと遅れていたら、アメリカ軍が太平洋から上陸し、介良でも陸上戦がおこなわれていたかもしれないのです。

   私を最後に…

 近くに旧介良村の「忠霊塔」があります。
 ここにまつられている戦死者は日露戦争は八人、日中戦争は六人、太平洋戦争は八十三人です。
 日露戦争の時、二百三高地で戦死した祖父も入っています。私の介良国民学校の同級生も二人戦死しています。私の家の地域・藪多(やぶおおし)には八世帯ありましたが、三世帯から六人が戦死しています。
 地域の、夫が戦死した女性は「こういう私のような人は、私を最後にしてちょうだいね」といいます。本当に、そうだと思います。

   元教師として

 私は、戦後、高知師範学校を出て小学校、中学校の教師になりました。
 高知県の教師・竹本源治さんの詩「戦死せる教え児よ」に心を動かされました。
 「逝(ゆ)いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊(くび)つたその綱の/端を私も持つていた/しかも人の子の師の名において……『繰り返さぬぞ絶対に!』」という詩です。
 五六年からの高知県の勤務評定反対の運動の中でも「教え子を戦場に送らない」という思いでがんばってきました。
 かつて教師だったものとして恥じない運動をしていきたいと思っています。

(2007年05月12日 中四国版)

|

« 小説 父の左胸の鉄砲の弾 | トップページ | 記録 国民学校の音楽の時間 総集編 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30274/54161713

この記事へのトラックバック一覧です: 高知市 元松山海軍航空隊飛行練習生の平和への思い。:

« 小説 父の左胸の鉄砲の弾 | トップページ | 記録 国民学校の音楽の時間 総集編 »